楽園喪失
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楽園喪失

 

 

 

嗚呼悲しいかな、繰り返される争いの系譜。

全ての始まり、その原点は、ひとの歴史の綴られる遥か以前、天上の神が大地を統べていた時代にまで遡る。…

 

 

むかし、あるところに、一対の翼で天を駆ける美しい姉妹があった。

名をイクシルとイグザベラと云った。

彼女らの仕事は、日輪の玉座に坐す父に代わり、広大な大地とそこに棲むすべての生き物たちを、余すことなくすみずみまで見て巡ることであった。

 

「イクシル、あなたの髪、夏の空を映した川べりの御影石のように美しいわ」

「イグザベラあなたの髪こそ、冬の清んだ空気にさざめく枯れ葦の群のようでとっても素敵よ」

 

イクシルが右の翼、イグザベラが左の翼。

二人はお互いの手をしっかりと握り、それぞれ片翼ずつで羽ばたいて宙を舞う。

彼女らのさえずるような囁きはそよ風となって、草原の小さな白い花々を可憐に揺らすのだった。

 

イクシルの右の瞳はジャコウアゲハの腹のように紅く、イグザベラの左の瞳は水底の水晶のように碧い。

イクシルとイグザベラの唯一の仕事は、父に代わってその一対の瞳で余すことなく全てを<見る>ことである。

 

 

 

  「見るだけ。見るだけよ。決して手は出さないの」

 

 

 

切り立った崖のその向こう、なだらかな蒼い丘のてっぺんに、年老いた無花果の木が厳然と立っている。

風が吹くとき、無花果の葉がざわりとしなって、複雑で幽玄な音色を奏でる。

イクシルとイグザベラのお気に入りの場所であった。

 

その老木に寄り添うようにして、ある日、人間のきょうだいが暮らし始めた。

二人の兄に一人の妹。

三人は仲睦まじく、毎日戯れるようにして暮らした。

 

イクシルとイグザベラは、この美しい三人の若者が好きになった。

吹けば消える蝋燭の灯のような、瞬く間の生を生きる<ひと>というものに、どうしてか愛おしさを感じずにはいられなかった。

 

穏やかな日々が続いた。

 

兄は山で獣を狩り、弟は川で魚を獲り、妹は木の実を摘む。

兄が竪琴を弾き、弟が笛を吹いて、妹が歌う。

その澄んだ音色は風に乗り、空を渡り、イクシルとイグザベラの姉妹を楽しませた。

二人の天使が音楽に合わせてくるりくるりと舞い踊れば、黄金色のそよ風が起こって、妹の豊かな栗毛をふわりと天に巻き上げる。

大地と風の祝福を一身に受けたかのような妹の美しさに、二人の兄は目を細める。

 

 

ああ、けれど、ある日、唐突に、悲劇はやってきた。

 

 

「二人とも、よして頂戴!」

妹の涙交じりの叫び声が、蒼い丘にこだまする。

兄と弟は、お互い組み打ち合い、丘を転げ上になり下になりを繰り返しながら、拳を相手の顔面めがけて幾度も幾度も振り下ろす。

 

きっかけはほんの些細なことであった。

 

その日、兄は獣を仕留めるのに少々手こずった。

ようやく丘に帰ると、無花果の木の下では、一足先に帰った弟と妹が二人、仲良く肩を寄せて歌っていた。

その時兄の眼に映ったのは、妹の腰に愛しげに添えられた弟の手。

兄は自分の腹の底で、生まれてこのかた感じたことのない、得体のしれない、黒く冷たい「何か」がごぼごぼと沸き立つのを感じた。

 

兄は二人の元にづかづかと歩み寄り、弟の腕を掴み捻り上げ、妹の体から強引に引き離した。

弟はむっとした表情で兄を見る。

妹は戸惑いながら、睨みあう兄と弟の顔を交互に覗き、ただ立ち尽くすのみ。

 

なにをするんだ、と言って、弟は腕に食い込んだ兄の手を振り払う。

 

「乱暴はよしてくれ、兄さん」

「お前の方こそ。ぬけがけをするつもりだったくせに」

「なんの話だよ!」

「とぼけるな!」

 

どん!と、兄に突き飛ばされ、弟は2、3歩後ろによろめいて尻もちをついた。

「やったな!」

弟は飛び起き、倒れこむようにして兄に掴みかかる。

そうしていよいよ本格的な殴り合いが始まった。

妹はどうしたらいいのか分からず、泣きながらやめてと叫ぶばかり。

 

 

仲睦まじかったきょうだいたちの突然の豹変に、イクシルとイグザベラは大層驚いた。

そして、とても悲しい気持ちになった。

3人寄ればあれほどまでに美しい音楽を奏でた者たちが、こうも簡単に争い始めるとは。

 

「ねえ、彼らを助けてあげましょうよイグザベラ」

イクシルが言った。

「何を言うのイクシル!私たちに許されているのは<見る>ことだけよ!お父様がお怒りになるわ!」

 

わかったわそれじゃあ、と言って、イクシルは自分の羽をイグザベラに預けた。

「あなたは天上で待っていて頂戴、私が行って止めてくるから」

イグザベラが制止する間もなく、イクシルはあっという間に地吹く風となって丘へと降りて行った。

 

蒼い丘では、兄と弟が相手を殺さんばかりの勢いで殴り合っている。

妹の叫び声が、広々とした空に虚しく吸い込まれて消えてゆく。

 

そこに一陣、丘の草々と無花果の枝葉を揺らし、びょう、と強い風が吹いた。

 

はっとして、兄と弟は手を止め、顔を見合わせる。

自分たちは、なぜこんなことを…?

二人は無言で身を離し、立ち上がると、それぞれ体についた塵埃を払った。

 

娘が駆けよってくる。

豊かな栗毛の、柔らかで愛らしい妹が、ふたり。

兄と弟は、それぞれ一方の妹の肩を抱き、それじゃあまた明日、といって、丘の東と西へと消えていった。

 

「ふう、これでいいわ…。あのままだといずれまた同じことが起こるでしょうから。人間は欲があるから厄介だわ」

イクシルはそう呟いて、天空を見上げた。

ほんの一刻離れただけなのに、体の左半分が引き裂かれ消えて無くなってしまったかのように、寒い。

早くはやく、空の上の愛しい半身のもとへ戻ろう。

 

しかし、ああなんということだろう、いくら帰ろうとしても、地吹く風のイクシルは天へと駆け上がってゆくことができない。

翼はイグザベラに預けてしまった。

ああでもそのうち異変に気づいて、きっと彼女が、イグザベラが迎えに来てくれる。

そう思った。

しかし、何日たっても、何年たっても、半身のイグザベラが地上に降りてくることはなかった。

イクシルは途方にくれた。

 

イグザベラはどうしたのだろうか。

愚かな自分に愛想を尽かしたのだろうか。

もしかしたら、禁をおかした自分のぶんも罰を受けて、星の檻に閉じ込められてしまったのかもしれない。

分からない。

ここにいたのでは、天上のことなど何一つ…。

 

イクシルが地吹く風となり、大地の低きを彷徨うようになってから、数百年の月日が流れた。

地上の澱(おり)にさらされ、上質の石英のようだったイクシルの髪は、いつしかくすんでひび割れた石灰のようになっていた。

瞳は濁り、唇はひび割れ、心は皺くちゃに枯れてしまった。

ああ、それでも、自分の半身、愛するイグザベラ。彼女のことだけは、決して忘れることはない。否、むしろ、イグザベラに対する渇望、執着だけが、胸の底でどす黒い塊となり、ものすごい勢いで膨れ上がってゆく。

 

  この思いを、どうにかして私のイグザベラに伝えたい。

  私がどんなにあなたを愛しているか

  私がどんなにあなたを求めているか

  けれどこの身は今や地吹く風、私の声は天まで届かない。

 

ふと、イクシルが空を見上げると、蒼い丘の東と西、かつてあの二対の兄弟が暮らした場所から、すーっと、ふたすじの白い煙が立ち昇るのが見えた。

彼らの子孫たちによって、その場所にはいつしか小さな村が出来上がっていた。

夕暮れ時の白い煙は、女たちの炊事のそれだ

 

イクシルは獣の血のような紅い瞳をきり、と細め、青黒い唇を下弦に歪めた。

ああ、あれだ。

あれを使えば、私の想いを空へかえせる。

私の気持ちが彼女に届く

 

 

その晩、禍々しい風が轟と音を立て、二つの村を呑みこむように撫でた。

 

 

間もなくのこと、村と村の間でいくさがおこった。

あの蒼い丘が一体どちらの村に属する土地なのか、そんな他愛もない言い争いがことの起こりであった。

度重なる誤解や食い違いを経て、わだかまりが対立へ、対立が抗争へ。

反目が決定的になったそのきっかけのは、東の村で起きた酷い火事であった。

ある晩、強風にあおられて松明が飛び火し、10数個の家屋が焼けおち、村人が七人も死ぬという大参事が起きた。火事は西の村の者の仕業であるというまことしやかな噂が流れ、それを本気にした東の村の若者が、今度は西の村に火を放った。

冬の、ひりひりと乾燥した空気。

火は瞬く間に広がり、渦巻く炎が村を焼き、黒い煙がもうもうと立ち昇って天を焦がした。

お互いの心に深い怨恨を植え付け、このいくさは終わった。

 

  まだよ。

  こんなのじゃあ全然足りないわ。

  早くはやく。

  私の中のを全部全部吐き出して、あれに乗せて、彼女に届けなくちゃ。

 

 

それから、さらに数百年の時が経った。

人間はどんどんその数を増やし、棲む土地も広がり、文明が生まれた。

彼らの欲望はそれに伴って際限なく肥大してゆく。

ほんのちょっときっかけを与えてやるだけで、いとも簡単にいくさは起こる。

 

いくさが起これば、炎が立つ。

炎が立てば、煙が昇る。

あの煙に私の想いを乗せて、彼女のところへ届けよう。

 

 

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隻眼の美しい女は、二つの白い翼で宙に浮きながら、遥か下方、あの蒼い丘を見下ろす。

剥がれた右半身がうすら寒い。

イグザベラは、ほんの半刻ほど前に地上に降りて行った愛しい片割れのことを想う。

もうじき目的を遂げて自分のもとへ戻ってくるであろう。

イクシルのしたことは、明らかに規則違反だ。

後で父に詫びを入れねばなるまい。

 

 

  下界での100年は、天上では数十秒にも満たない短い時間である。

  そのことを、彼女らは失念しているのか、それとも知らないのか…。

 

 

ふと顔を上げ、イグザベラは思わず言葉を失った。

彼女の両の翼が、いつの間にか黒味を帯び出している。

 

「これは一体どういうことなの…?」

疑問符が口をついて出る。

 

ジワリ、ジワリと、黒いものが徐々に彼女を侵食する。

どうやら、下界から立ち上ってくる煙の煤が原因のようであった。

羽だけではない。

枯れ葦のような品の良い金髪も、ぬけるような純白の肌も、あとからあとから昇ってくる真っ黒い煙にさらされて、どんどん煤けてゆく。

いつしか彼女の全身は、煤とあぶらでめったりと湿っていた。

 

慣れない一人での飛行も手伝ったのか、煤の重みに耐えきれず、イグザベラは空中でぐらりとバランスを崩すと、そのまま真っ逆さまに下界へと落下していった。…

 

 

 

**********************

 

 

何かが、胸の奥で弾け飛んだ気がした。

イクシルは自身の身体の左側が瞬く間に冷たくなってゆくのを感じた。

 

まさかイグザベラの身に、何かよくないことが起きたのかしら!?

 

地吹く風が、禍々しい唸り声をあげて大地を這った。

大急ぎであの蒼い丘へ。

 

かつてあの幽玄な無花果があった場所には、今は何もない。

なだらかな丘の斜面の上には、ただただ荒涼とした草原が広がるのみ。

イクシルは、じっと目を凝らした。

すると、丘のてっぺんに一羽の鳥が力なく身を横たえていた。

墜ちたのかしら?こんな何もない場所で?

とてつもなく嫌な予感がした。

すぐさま鳥の元まで翔んでいって、冷えきった体をそっと起こした。

イクシルの表情が和らぐ

 

 

  ああ、よかった、彼女じゃない。

  だって私たちの翼はそれはそれは美しい象牙色ですもの

 

 

  もっと煙を焚こう。

  私の想いが彼女に

 

  届くように

 

 

 

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楽園喪失 オシマイ

 

 

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タグ
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