彼女と僕といわし
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 この道を何度通っただろうか。

 考えてみても詮もない事だとはわかっているけれど、考えてしまうのは仕方ないと一応の弁解をしておこう。

 もちろん、そんな意味のない思慮に更けるにはそれなりの理由がある。

 猫。

 そう、猫だ。

 記憶の片隅で欠伸をしながらのびをしている白い仔猫だ。

 

          ***

 

 僕と彼女は幼馴染で小さな頃からいつも二人だった。何をするにでも一緒で、まるで本当の兄弟の様でもあった――と、当時を知る人間は言っている。尤も、当の本人たちにはそんな自覚があるはずも無く、それがその頃の僕たちにとっての普通であり、世界の理でもあった。とにかく仲が良かったのだ。ただ一つだけ噛み合わなかったところがあるとするならば、それは彼女が大の読書家で僕がまったく本を読まない種類の人間だったことだ。彼女は一日のかなりの時間を読書に充て、残りの時間を僕との時間に充てていた。

彼女は会うたびに言った。

「やっぱり村上春樹には何か神懸り的なものが憑いているに違いない」

 僕はそれを聞く度に「ほお」とか「へえ」とか、はたまた訳もわかっていないのに「うん」だとか答えていた。

 彼女は世界で二番目に村上春樹が好きだといった。僕はその『村上春樹』がどんな人か知らないので「ふうん」だの「ほへー」だのと答えていた。そして訊いた。「一番は?」

「うーん。内緒」えへへーと笑って彼女は答えた。「それはきっといつかわかるよ」

 僕はその答えが解っていたような気もする。ただ、どちらにせよ、僕も彼女も、恥じらいを知っていた所為もあってかそれ以上その話題は続かなかった。単に自然消滅しただけなのか、あるいは持ち越されたのか、どちらにせよ気がつけば子供向けのアニメや、お笑い芸人のネタについての座談会になっていた。

 

 僕が彼女を『女の子』として意識し始めたのは小学校の高学年――五年生か六年生だったはず――の頃だったと思う。

 相変わらず僕たちはずっと一緒だったが、僕は彼女のささやかに膨らみ始めた胸や、隣を歩いていると時折ほのかに香る正体不明の好い香りや、風に髪が流されて覗く白いうなじ、その他諸々に一々どきどきし、どぎまぎしていた。そしてそれらを出来るだけ見ないように心がけたが、それはあくまで心がけただけで現実にはばれない程度に凝視していた。

 

 そんな彼女が猫を拾ったのはちょうど彼女の両親が不慮の事故で一気に天帝の下へ、あるいはまだ見ぬ光り輝く世界へ召されたその二週間後だった。あの事故以来僕に対してさえ無口になっていた彼女は、その猫が電信柱の影にダンボールに捨てられている、いかにもな感じの捨て猫をみて一言「同じだね」と呟いた。僕はその事を今でもありありと思い出すことが出来る。初めて見たロックコンサートと同じ位、あるいはそれ以上にはっきりとした『記憶』の焼き鏝を脳髄に捺してくれた。それほどまでに彼女は、美しく、そして繊細で儚げで――陳腐すぎる表現ではあるけれど――触れてしまえば、それだけでバラバラと崩れてしまいそうな精緻で静謐なガラス細工のようだった。

 両親が居なくなった彼女は僕の家に居候していた。そのことに別段何も違和感がなかった事を今でも覚えている。僕と彼女の部屋は互いにベランダを突き合せた、一メートルの空間の先にあり、頻繁にそこから出入りしていたからだ。また、昔から彼女のことをもうひとりの子供として可愛がっていた家の両親が彼女の居候を断るはずがなかった。むしろ喜んで「今日から家の子よ」だなんて言っていた。

 そして彼女は訊いた。「この猫飼っていい?」右側に少し顔を傾けた拍子に黒く繊細な前髪がはらりと揺れた。

「いいと思うよ」僕は答えた。すると彼女は、ありがとう、と言って段ボール箱から猫を抱き上げた。

 猫は白い猫だった。ただ、結構な時間外に放置されていたためか、本来パールホワイトと言うべき美しき毛並みは泥や排気などの所為で汚れて、まるで一度も地上に上がったことのないマンホールのネズミのような色になっていた。

 猫は彼女の腕の中でいちど「うにゃー」と鳴いた。それを見た彼女が笑った。実に久しぶりの、僕の記憶が確かならそれは、あの日、事故の一報が入る直前から数えてだいたい二週間と十二時間ぶりの彼女の笑顔だった。しかし笑ったと言うだけならば、今までにもなんどかあった。しかしそれはども『彼女の笑顔』でななかった。心から笑っていなくて、まるで下手な芝居のような笑顔。それはどれも、他人からの無責任な「大変だったね」だの「大丈夫?」だのと言った無責任極まりない励ましの言葉に対する返答に充てられていた。

「ねえ、何て名前が好いと思う?」彼女は訊いた。

「そうだな……『いわし』なんてどう?」

「いわし?」彼女は少し考え込んだ。「あ、村上春樹!」

「ご名答」

 ちょうどその頃僕は彼女に感化されて村上春樹の青春三部作を読み終えたところだった。

「じゃあ羊を探しに行かないとね」彼女は言った。

「それは勘弁」そう応えた後で僕は、やれやれだ。と言った。彼女は村上春樹についてなら一晩でも二晩でも語り明かすことが出来てしまう。それに羊を探しに行ってしまえば僕は全てを失う。

 まあでも、そんなことよりも彼女が笑顔を見せたのがたまらなく嬉しかった。

 中二の夏の曇った日のことだった。

 

          ***

 

 気がつくと雨が降っていた。しかし生憎傘は持っていない。目的地に着くまでは濡れることになる。まあいいだろう。雨といっても殆ど霧雨――というか最早霧だ。髪の先が少し濡れる程度だろうし。

 雨が降るとどうしても先ほどのように詮無いことを考えてしまう。きっと空が憂鬱だからだ。晴れた日には間違ってもそんな事を考えたりはしない。

 それに、僕の記憶を探ってみればどうも雨というものに一つたりとも良い想い出がないのも多分原因だ。どれをとっても鬱屈とした洞窟で膝を抱えて上目遣いで正面を眺めている河童の憂鬱みたいな思い出しかない。彼女の両親が死んだのも雨の日だし、猫が死んだのも雨の日。

 きっと、雨は彼女の涙なんだろう。そうでなくては不幸と雨の関係についての採算がとれない。いや、彼女だけじゃない。きっと雨というものには世界中の悲しみが凝縮されてしまっているのかもしれない。だから雨が降れば物憂げな気持ちになってしまうし、どうしようもないほど自虐的になる事もあるし、どうにでもなれと思うほど無気力になる事もある。少なくとも雨が降ったからと言ってテンションが上がったことなど殆どない。あって中学のころ、部活が休みなった時くらいだ。

 しかし今はそれも関係ない。

 僕は高校で文化部に入ったから。

 今し方、僕のすぐ隣を駆けていったサラリーマンに訊いてみたい。「どうしてそんなに生き急ぐのか」と。もちろん本人に自覚はないだろう。あってやっているならそうとうのMッ気があるに違いない。まあ、そもそも日本人なんて本質的にはマゾヒストばかりだろうけど。

 鬱蒼と雑草が雑木が繁茂する森の中の如く心を身体を引きずりながら坂の下の丁字路を右折した。そして暫くすると見えてくる電柱がある。説明するまでもなく、あの日猫を拾った場所だ。今はそこに何もない。だた無慈悲なほどに何もメッセージ性のないくすんだ灰色(コンクリート)の地面があるだけでほかに何もない。そこは溝の蓋なのだから。

 僕は空を仰いだ。

 電線に遮られた向こうでは重々しいほど、アンニュイな空が広がっていて、僕は溜息を一つ吐いてから歩き出した。

 

          ***

 

 ひとひら、ふたひら、はらはらり。

 桜の花びらが舞い散り始めた頃、それでも僕らは一緒だった。

 みっつ、よっつ、はらはらり。

 それが当たり前だった。

 いつつ、むっつ、ひらひらり。

 まるで神様に約束されているかのように。

 

          ***

 

「ねえ、かずりん」彼女は僕の事をそう呼んだ。「今日の帰りね――付き合って欲しい所があるんだ」

 彼女から僕に何かお願いしてくるのは珍しいことだった。しかしそれは大抵が悪いことか良いことかの二元論であったから、僕は少しだけ迷ってから結局好奇心に負けて「わかった」と肯いた。

 バスを乗り継ぎ、一時間半ほど掛けて到着した場所は、海が眼下に広がる道路沿いの崖だった。僕はその風景をどこかで見たことがあるような気がした。

「――ここに来るのは二回目なんだ」僕の五歩先に立って俯き加減で彼女は言った。「かずりんもなんだよ?――でも覚えてないか」

「うん。なんとなく来たことがあるような気はするけど、でも――。だめだ。思い出せない」それは何かとても大事なことのような気がする。

「そう、だよね。だってかずりんには直接関係ない場所なんだから」そう言うと彼女は振り返っていった。「ここはね、私のお父さんとお母さんが死んだ場所なの――」

「――――」僕は言葉が紡げなかった。何て声を掛ければ良いのか。それすら思い浮かばなかった。ただ、あっけに取られた表情で彼女の吸い込まれそうなほどに澄んだ鳶色の瞳を見つめているだけだった。

「ごめんね。こんなことにつき合わせちゃって。ほら、今日が命日だから――」そういうと彼女は再び背を向けカバンの中から白い風呂敷のようなもので覆われた箱を取り出した。

「遺言があったんだって」風呂敷もどきを解きながら彼女は言った。「うちの両親てさ、妙に心配性だったでしょう。だから、いつ死んでも良いようにって毎年遺言状を書き直していたそうよ」

 あははは、と彼女は笑った。僕はそこが笑うべきところか否なのか判断に窮してまともなリアクションが出来ずにいた。そうこうしている内に彼女は風呂敷を解き、中から桐の直方体の桐で出来た箱が現れた。桐箱の蓋を開けながら「これ遺灰なの」と彼女が言う。「遺言にね。もし自分たちが死んだ時、家族の誰かが残っているなら、決心がついたときで良いから自分たちが死んだ場所に遺灰をばら撒いてくれって――書いてあったの」骨壷の紐を解きそれを静かに地面に落とした。

「手伝ってくれる?」彼女は振り返って言った。

「もちろん」僕は言った。「どうすれば良い?」

「半分。半分飛ばしてくれればいい」

 僕はさらさらとした、何の重みのない命だった物体を握り締め彼女の隣に立った。

 せぇーの。で二人同時に遺灰を握り締めていた手を開くと、まるでそのときを待っていたかの如き一陣の風が全ての灰を空のかなたに連れ去っていった。

「…………」僕はその風景に何かしらの感慨を得たがそれを言語として表すのは不可能だった。本来感情などといったものは言葉に出来ないものなのかもしれない。

「風はね――」夕日に染められた彼女の顔は一段と美しかった。「全ての生き物の魂を運んでしまうの。そしてどこか遠くの地でまた新たな命として新たな生き物に宿るの」

 それっきり言葉はなかった。僕は彼女と一緒に来た道を戻り。そして同じバスを乗り継いでいつもの家路に着いた。日はすっかり暮れていた。

 家に帰ると真っ先にいわしが出迎えてくれた。しかしそれはあくまで彼女を、であって僕を、もしくは僕達をではなかった。どういう訳かいわしは僕には懐いてくれなかった。

「にゃー」といわしが鳴くと、彼女も「うにゃー」と言い、顎撫で攻撃。ごろごろと喉を鳴らし目を細めた猫は本当に幸せそうだ。いつか彼女が猫になりたい、なんて言っていたのを思い出した。

「にゃー」といわし。

「ふにゃー」と彼女。

「いいかげんにしろ」

 すぱん。と小気味言い音。

「うー、そんな、叩かなくても良いじゃない。それもスリッパで、ごきぶりじゃないんだから」ねえー、なんて言いながらいわしを抱き上げる。

「うにゃー」わけが解っているのか解っていないのか、しかし絶妙のタイミングでいわしは相槌を打った。

 はあ、と溜息を吐いて僕は二階の自分の部屋に向かった。

 そう言えば今日はどっちも会社の慰安旅行でいないんだっけ。その事を思い出してから連鎖的に重要な事実も思い出した。

「って、メシねえじゃん」

 部屋の中にカバンだけ放り込んで再び一階に戻ってキッチンに向かう。廊下側の扉を開けるとちょうどエプロンをつけようとしていた彼女とその足元でごろごろしていたいわしが同時に僕を凝視した。

「今日は私が作るからかずりんはそこで大人しくテレビでも見てまってて」彼女はリビングのソファとその向こうにある液晶薄型45インチプラズマテレビ(一ヶ月前に懸賞で当たった)を指差していった。

 僕はおとなしく引き下がることにした。

 この家で料理が作れるのは母さんと彼女だけだ。そして父さんと僕は大の料理音痴で、大抵の食材なら炭素に変える自信はある。そんな自信があったところでどうしようもないと言うことは重々承知している。

 テレビを点けてWOWOWのもう何度も視た昔のヒット映画をいちいち話の筋を思い出しながらソファに寝転んで見ていると「できたよー」と彼女の呼ぶ声がした。テレビを消して立ち上がる。それからダイニングに向かった。

「お、中華じゃん」

 ダイニングの中なかには葫や韮、それにスパイス類の食欲をそそる香りが充満していた。

「たまにはこういうのもいいでしょ? 家の晩御飯の中華率は極端に低いから」

「そういわれればそんな気がする」というか、なんでそんな細かい事をチェックしてんだ。いや、僕が無頓着すぎたのか?

「と、ゆーわけで。熱いうちにとっとと食べちゃってください。冷めた中華なんて犯罪的にまずいから」

「その意見には賛成」

 いただきまーす。と言って小皿に麻婆豆腐を取り分けて、蓮華で掬って一口。

「うまい」

「でしょ? 陰に隠れてこっそり練習してたから、中華には自信があるんだ」

「それってもしかして、王将のバイトのことか?」

「げ、何で知ってるの?」

「何でもなにも、みんな知ってるよ」

 うそー、とあからさまな落胆を見せる彼女。

「どうせ、今年の結婚記念日かなんかに『サプライズなプレゼント!』とか言って温泉旅行でもプレゼントする気だったんだろ?」

「うー、なんでそんなに解るのさ」

 図星だったようだ。つーか実子よりも親孝行な居候ってどうなんだ? ん? ああ、この場合糾弾されるべきは僕か。

「伊達に一緒に暮してないからな。お前がどんなこと考えてるかなんて鏡稜子並みにお見通しだよ」

「鏡稜子は未来を見るんです」

「へー、佐藤友哉も読むんだ。でも確か部屋になかったよな?」

「う、それは――」

「そう言えばこの前僕の部屋から本が一冊――」

「ごめんなさい。掃除がてらに持っていきました。だっておもしろそうだったんだもん」

 あっさりと白状した。まあ、僕としてはどっちでもいいんだけど。ちょっとからかってみたくなっただけだ。

「なんか、かずりん最近ちょっと意地悪だよ」ふーんだ。と頬を心持膨らまして彼女は言った。

「そうかな?」

 自分では全く自覚がないけど彼女がそういうのならそうかもしれない。

 それにしても――。

「……? なに? 私の顔に何かついてる?」

「口のところにご飯粒がついてる」

「――――!?」慌てて口の周りに手を当てる。もちろんだが、そんなものはない。「もうー」と再び膨れっ面の彼女。

「ははは、ごめんごめん」

「もぉー、さっきのは訂正、最近かなり意地悪になってきた」そう言いながら彼女は笑っている。僕はひとまずほっとした。あんなことがあった後だから――幾ら決心がついたとは言え――少しくらいは落ち込んでいるものだとばかり思っていたから。だから、この彼女の笑顔に僕は心底安心した。

「うにゃ」と足元で泣き声がした。椅子を少し引くと両足の間からいわしがよじ登ってきた。

「うわ」と言いながら僕はいわしを抱き上げた。そして指をかまれた。

 僕の手からいわしをひったくると彼女は、「こらー、いわし。ダメじゃない。いくら私の料理が美味しそうだからって、中華料理には猫の身体に悪いものが沢山入ってるんだから」とまるで赤ちゃんに諭すように言った。

 へー、そうだったんだ。

 彼女に諭されたいわしはそれ以降は、椅子の上に上がってくることはなく彼女の足元でごろごろとなにやら楽しそうにのた打ち回っていた。

 二人同時にごちそうさまをして、食器を片付けるのを僕も手伝う。それくらいは僕できるからだ。

 流しに二人立って食器洗い。なかなか絵になる光景ではないだろうか。なんて考えながら、一枚二枚と皿を洗って乾燥棚に成り下がった食器洗い乾燥機の亡骸に置いてゆく。つい先日ご逝去なされたのだった。

 ガチャン。という、まるで世界がひび割れたような音と「きゃ」と言う短い悲鳴で僕は思考と言う名の宇宙遊泳から強制的に現実世界に引き戻された。

「あちゃー」と言いながら割れたコップを見下ろす彼女。「またやっちゃった……」

 彼女は料理を作るのはうまいがその後始末が破滅的なほどに下手なのだった。洗い物で彼女が何かを壊す確立はほぼ一〇〇パーセントないし九九・九九パーセントと言っても過言ではない。妙な所でおっちょこちょいなのだ。

「すぐ片付けるから」と彼女はその場にしゃがみ込んで、手で拾える分の欠片を拾おうとした。「きゃ」と再び短い悲鳴。

「ちょい、みしてみ」

「大丈夫。大したことないって」

「お前の大したことないは、政治家の公約くらい信用できない」

「うー、そんなことないよ」

「いいからみせろ」と強引に彼女の手を取って傷を確かめる。「ほら、いわんこっちゃない」

 切り口一センチくらいの結構、ご立派な切り傷だった。

「少し待ってろ」そう言って俺はリビングにある棚へと向かった。確か非番眼の引き出しに絆創膏と消毒薬(マキロン)があったはずだ。

 絆創膏と消毒薬を持ってキッチンに戻ると大人しく彼女が待っていた。

「ちょっとしみるぞ」そう言って消毒薬を吹きかける。

「っ――――」と彼女。目を瞑って痛みに耐えている。昔から痛いのには相当弱い。

 それからティッシュで一度消毒薬をふき取ってから傷口に絆創膏を張ってやる。

「ほい、これで完了っと」

「ありがと」

「どういたしまして。それじゃ、後は向こうでテレビでもみて待ってて。僕が残り終わらせとくから」

「うん。ごめんね。なんか、迷惑かけちゃったみたいで」

「そういうことは言わないの。家族というものは助け合いが基本。ってね」

 取り敢えず、割れたコップを拾い集めて、それから掃除機をかけて手で拾えなかった小さな欠片を除去してから再び洗い物に取り掛かる。なにやら背中に視線を感じるが、気にしないでおこう。きっといわしに違いない(そう思い込むんだ)。

 一通り洗い終わって、ふう、と一息。そこでテレビの音が聞こえないことに気がついた。 

 もう部屋に戻ったかな。

「さて、僕も――っ!?」

 突然目の前が真っ暗になった。

 それが誰かによって視界を遮られている、と気がついたのは数秒遅れてのことだ(ついでに足元にも何かがまとわり付いている)。

 背後からは鼻腔を擽る花の――椿かな?――人工的な香り。そう、うちのシャンプーの香り。なるほど。そういうことか。

「だーれだ」「うにゃ」

 いわしも共犯かよ。

「へへービックリした?」と振り返ると彼女は嬉しそうに笑っていった。

「陣内智則が藤原紀香と婚約したのと同じくらいに」

「素直に『ビックリしました。ごめんなさい』。って言えばいいのに」

「ご存知の通り僕は無駄に負けず嫌いだからね。さっきのが最大の譲歩だ」というか、あのニュースには心底ビックリしたけど。

「お風呂空いたよ」

「あいよ」

 

 風呂から上がってリビングに行くとソファの上でいわしと彼女がじゃれあっている所だった。彼女の上でいわしがごろごろ転がって、その下で「くすぐったいよー」とか言いながら彼女もごろごろしている。

どっちも猫みたいだ。

「相変わらず仲いいなあ」

「あ、かずりん。――きゃ」いわしが彼女の顔を踏んだ。やったなー、とか言いながら腹の辺りをこそばして反撃。

「その懐き度を少しくらい僕に分けてもらいたいくらいだ」

「そんな事言ってるから懐いてくれないのよぉ。ねー」

 うにゃ? といわしは首をかしげた。

「そんなもんかなあ」

「そんなもんだよ」

 猫って気難しい動物なんだな。

「いわしは世界で三番目に大好きだな」と彼女はいわしの首を撫でながら言った。

 ふにゃー、ごろごろ。

「村上春樹の次?」

「うん。森博嗣の一つ前」

「へえ? 以外」

「どうして?」彼女は首をかしげた。

「ミステリも読むんだな。てっきり純文学と御耽美(ボーイズラブ)な――ぐあっ!」

「あー、こら。ダメでしょいわし。かずりんにそんなことしたら」

 見事なボディーブローがキマッていた。つーか明らかに自分でやったろうが。

「で、何の話だっけ?」

「ひ、人の趣味は様々って話」わき腹を押さえながら僕は言った。

「そうそう。他にも舞城とか流水とかも読むよ?」

「うそ! 流水持ってんの?」

「あれ、知らなかったっけ?」

「ああ、聞いてない。僕はてっきり純文学とご――ゲフン」

 同じ轍を二度踏む所だった。

 彼女の顔に張り付いた笑顔が恐ろしすぎる。

「かずりんは青春新本格ミステリまっしぐらだもんね」

「まあな。最近のオススメは辻村深月だ」

「へえ。ねえねえ、かずりん。唐突に、なんだけど――」

「なんだよ」

「好きな人って居る?」

「本当に唐突だな――」

 好きな人――か。

 居るっつーか目の前にいるんだけど……。

「ノーコメント」恥ずかしいので敵前逃亡。

「あ、ずるい」と彼女。「男らしくないぞー」

「どうせ僕は女々しい男ですよ」と開き直ってこの場を凌ごうとした。それが上策だと思ったからだ。

 でも――。

「私は――」彼女は夕方と同じ眼をして言った。「いるよ」

 僕はある種の予感を感じて、なんとも形容できない胸騒ぎを感じた。

「ずっと、ずぅ――っと、昔から知っている男の子で、私は勝手に相思相愛だと思ってる」

 なんだそりゃ。と突っ込もうと思ったがどう考えてもそんな空気じゃなかったので心の中だけでとどめておいた。代わりにいわしが「にゃあ」と鳴いた。

 いわしの頭を撫でながら彼女は続ける。「でも、近すぎる所為なのか、単に私に勇気がないだけなのか。その人に気持ちを伝えることに背徳感のようなものを感じてるの。そう、まるで実の兄弟に恋をしている、そんな感じ」

 いわしが再び「にゃあ」と鳴いた。

「なーんてね」と彼女は悪戯が成功した子供のような笑顔でいった。「今のは忘れて?」

「さあね」

「うーんと、じゃあ」と彼女はペン立てから銀色のプッシュ式のボールペンを一本取って、サングラスを掛ける振りをした。

「これを良く見て」

「『メン・イン・ブラック』かよ!」

「あーん、もう。じゃあ、キスして?」

「なんの『じゃあ』なんだよ。つーか、脈路がないにもほどがあるぞ。そんな首を傾げて言っても」可愛いのは認めるけど。

「人が行動するのに脈路も伏線も必要? 物語じゃないんだよ? 人生は、あえて言うならアドリブ劇。観客の許す範囲なら何でもやっていいことになってるの」

「観客って?」

「神様」

 おお、松本人志(ジーザス!)。

「そう言えばかずりんの神様はまっちゃんだっけ」呆れたように彼女が言った。

「ああ、一番尊敬している人間だ」

 ちなみに二番目は京極夏彦。

「あーあ。なんかシリアスな空気じゃなくなっちゃったな」。特にまっちゃんあたりからと、いわしと一緒にノビをしながら彼女は言った。「こんなのじゃダメだな。私」

「なにがダメなの?」

「うーんと、どうしても『すべてがFになる』の真賀田四季の動機が納得いかないところ」

「なにいってんだか」

 ふと時計をみると午後十一時を指していた。そんなに話し込んだ覚えはないけど、夕食が遅かった所為だろう。

「じゃあ、そろそろ寝るか」

「えー、もうちょっとだけ」

「お前、朝弱いだろうが」

「大丈夫、かずりんが情熱的な接吻で失神するほど起こしてくれるから」

「変な妄想はやめろ!」

 つーか失神したら起きれないだろ。

 

          ***

 

 人はとても嘘つきだ。

いつも自分を騙しながらのうのうと生き永らえている。

 真実に気付きながらも気付かない振りをして、他人の心を無意識に、そして故意的に踏み躙っては穢している。

 そんな人間居ない方がマシだ。

 

         ***

 

 時々思い出すのはやっぱり、いわしが最後まで僕に懐いてくれなかったことだ。基本的に彼は、彼女ばかりに懐いて僕に対しては、毛を逆立て爪を立て牙を向けた。

 ここ数年で一番心残りなのは何を隠そう、そのことなのだ。僕の中では、線を一本書き忘れてはずした漢字の問題や、足し算引き算のイージーミスで落とした定積分の問題なんかよりも猫一匹が命尽きる最後の瞬間まで僕に反発したことこそが最大の後悔であるのだ。

 ――まったく。

 雨が降ると余計な事を考えすぎる。

 それに気がつけば雨脚も強まっているじゃないか。これは急がないとずぶ濡れのネズミになってしまう。

 少しだけ歩を速めてそれから走り出そうとしたとき、遠くの方ではあるけれど、赤い傘が咲いているのが見えた。

 

         ***

 

 いつものように過ごした朝も普遍的過ぎる単調な学校の時間も終え、僕達は再びの帰路に立った。彼女とどうでもいい事を話しながらのいつもの帰り道だった。

 そう、何もかもが普遍的だった。

 だからこそ。

 その変化は起こってしまったのだ。僕はそう思う。きっとトンネル効果を起すよりよっぽど高い確率で、起きてしまう事柄なんだと。

 いつものように二人声をそろえて「ただいまー」とドアを開けた。しかしそこにはあるはずの日常がなかった。

「あれ、いわしは?」と彼女が言った。

「散歩じゃないの。ほら、最近太り気味だったから、あいつもきっとそういうのは気になるんだろう」

 家の玄関のドアの下の部分には四角く切り取られた猫専用出入り口なるものが設置されている。しかも手作りだ。父さんの日曜大工の手慰み程度に作られたもので、これが出来てからいわしはよく、昼夜問わず抜け出してはきっちりご飯の時間に返ってきた。だから僕は言った。「腹が減ればそのうち返って来るだろうさ」

「そう、だよね」と彼女は少し不満げに、しかし頷いた。

 ――そのときに既に予感を感じていたのかもしれない。

「今日の晩御飯は何にしよっか?」彼女が聞いた。

 僕はソファに座ってテレビのチャンネルを変えながら「なんでも」と答えた。

「もー、それが困るんだって」

「んー、じゃあ僕の大好物尽くし」

「ラーメンと餃子?」

「炒飯も」

 僕は安っぽい中華が大好きだ。

「じゃあ間を取って回鍋肉」彼女は言った。

「八宝菜」と僕。

「天津飯」と彼女。

「じゃあ、秋刀魚の塩焼き」

「あ、それいいかも。安売りの広告挟んであったし」

 そういうと彼女はテレビを消した。

「あ、なにすんだよ」

「お買い物よ。お買い物。一緒に行くの」

「どうしてさ?」

「うーん、なんとなく」

 はあ、と溜息を吐いて僕は立ち上がった。それから一度身体を伸ばした。腰と背骨の辺りがペキだかバギだかと乾いた音で鳴った。彼女の理由としての『なんとなく』は取り敢えず従いなさい的なニュアンスを含んでいる。

 戸締りを確認してから僕達は歩き出した。

「なんか久しぶり」と彼女は言った。

「なにが?」と僕は聞いた。

「こうして二人でお買い物に行くのが」

「そうだっけ?」

「そうだよ」彼女は少し拗ねたような口調で言った。「最近あんまり構ってくれないし」

「なんのことやら。僕がお前に構ってやらないといけない義理はないはずだけど?」わざと冷たい事を言ってみる。

「あ、ひっどーい。私なんか散々かずりんを構ってあげてるのに」

「逆だろ。逆。僕がお前を構ってやってんだよ」

「ぶー、かずりんなんか性格悪くなってない?」

「そんなことないけど?」ただ、お前をからかうのが楽しいだけだよ。「そういうお前こそ、なんか昔と比べるとキャラ変わってると思うけど?」

「どの辺が?」

「うーん。よく喋る」

 確か昔の彼女はこんなに良く喋る女の子じゃなかったはずだ。少なくとも、『国境の南、太陽の西』をいつも読んでいるような女の子(自分でもたまにこの規定がわからないときがある)だったはずだ。

「でもそれって、いい方向じゃない?」

「ある意味ではね」僕は言った。「まあでも、おしゃべりは嫌いじゃないから僕はそのある意味に大いに感謝だ」

「うー、そういう訳わかんないことばっかり言ってるからいわしに嫌われるんだよ?」子供を諭すような口調だ。「いわしはきっと小難しいことばっかり考えてる人間がきらいなんだよ。うん、絶対そう」

 勝手に自己完結してるし。「お前がそれを言うなよ。四六時中『蛍』に出てきた太字の格言みたいなのの意味を考えてるくせに」

「『死は生の対極ではなくその一部として存在している』でしょ? だって私この言葉大好きなんだもん」

「そっちのほうが訳わかんないと思うんだけどな。だって明らかに死は生の対極だろ? だってそうじゃないと、互いの概念が成り立たないじゃないか」

「だからこそ、一部なの。だって、『生』と言う概念があるからその対極としての概念『死』が生まれるの。この二つの概念は対極の意味合いを持ちながら常に、表裏一体。片方が欠ければもう片方が成り立たない。二つで一つ。だからこそ死は生の一部で、生もまた死の一部なんだよ――と。これがこの前思いついた結論の一つ。どう?」

「なかなかいいんじゃないか? 少々一般論臭いけど」

「最後の一言はようけいです。そんなんだから彼女が出来ないんだよ」

「そんな面倒なことばっかり考えてるから彼氏が出来ないんだよ」

 ふーんだふーんだ。と互いにあさっての方向をみる。それから数秒。同時に笑い出す。よく考えてみれば僕達ってまともな喧嘩したことないよな。

「そういえば、私もかずりんも彼氏とか彼女出来たことないよね」彼女は言った。「告白されたことはある?」

「まあ、あるっちゃああるけど……」

 二ヶ月ほど前に一年生の部活の後輩に告白されたがあっさりと振ってしまった。思いの外、罪悪感はなかった。

「そういうお前はどうなんだよ」

「あるよ」

「へえ」

 まあ、当然といえば当然か。彼女の美しさ、かわいらしさは校内でも五本の指に入ると下馬評で噂されるほどの洗練されたものだ。実際、彼女の肌は透き通るように白く、陶磁器のようであり、さらさらと風に流れるロングヘアーは、その一本一本が決めの細かい絹のように繊細でかつ、力強い印象があった。そしてなにより、彼女の一番の美点は眼だと僕は思っている。彼女の眼は、大きすぎず小さすぎず(あくまで僕の好みで、だ)のサイズでくっきりとした二重、黒目勝ちで常に何か訴えかけているような眼差しは、少し潤んでいて、独特の色気があり鳶色の瞳がそれをより強調している。

 

 広告どおりに安売りをしていた秋刀魚を二尾入りのをニパック購入して、ついでに大根と切らしていたポン酢も買ってデパートを出た。実にあっさりとした買い物だ。彼女らしくていい。

「そういえばさ」空を仰ぎながら彼女は言った。「私のこと名前で呼ばないよね」

 僕空を仰いだ。雲が黄金色に光っている。「そういえば、そうだな」

「どうして?」彼女は僕の前で振り返って立ち止まった。二つの潤みを含んだ鳶色の宝石が僕の心の裡を見透かしているようだった。

「どうして、だろう」僕はまたしても誤魔化した。またしても?

「ねえ、じゃあ、今から私のこと名前で呼んで?」

「え? あ、いや、その……」なんつーか、恥ずかしい。「家に帰ってからじゃダメか?」

「だーめ。絶対だめ。今すぐ、ここで。もう、『僕は死にましぇーん』的な感じで。――あ、でもでも、トラックの前に飛び出したりしたらダメだからね」

「解ってるよ。僕だってあと最低でも五十五年は生きたいから」

「ごじゅうごねん?」

「大体それくらいだろ? 平均寿命」

 七十ニか三だったはずだ。

「じゃあ、私はあと五十四年と三百六十五日と二十三時間五十九秒九九……。は生きたいな」

「なんだよ。それ」

「『アンドリューNDR114』は見たことあるでしょ?」

「ああ、なるほど。でもあれなら僕の方が先に死ぬことになるけど?」

「ダメダメ。私の最後はかずりんが見取ってその僅か一秒後にかずりんも私の後を追いかけるの。ほら、かずりんて足速いから一秒位のタイムラグなんてすぐに追いついちゃうもん。それで、死後の世界で二人で暮らすの。なかなか素敵な老後だと思わない?」

「つーか、それ死後な。というかだ、僕とお前が夫婦である前提じゃないとそれは成り立たないぞ」

「うーん。それじゃ、結婚してください」

「えい」

 すぱん。

「うー、どうして叩くのよ」頭を抑えながら彼女はこちらを睨みつける。

「そういうことは軽々しく言うもんじゃありません。言葉の価値ってのは使えば使うほど――」

「……軽々しくじゃないもん」少し拗ねた口調。そして可聴範囲ギリギリの声、でも確かにそういったように聞こえた。

 

 ――無意識に人の心を踏み躙る人間なんて居ない方がましだ。

 

「えっと、それはその……」どう対処して良いのか全くわからない。ただ、眼前には肩を震わせ俯いている一人の少女が居た。そして僕は彼女を愛し、彼女は僕を愛していた。ただそれだけだった。

「もう一度言うよ。私の名前を呼んで、お願い……!」

 悲痛な心からの叫び。それを聞いた僕はなおも無言でその場に立ち尽くしていた。ああ、何て人間は、いや、僕は無力なんだ。その時、僕はそう思った。

 震えそうになる膝を無理やりに押さえつけて僕はゆっくりと口を開いた。

「……ゆえ」喉が震えてはっきりと発音できない。

「もっと大きな声で!」

「……由枝!」僕は由枝を抱きしめた。人が居なくて良かったと心底思った。こんな所を見られたら一週間は近所を歩けない。

「また余計な事考えてるでしょ」由枝はいった。

「ああ、意外と胸が大きいなとか」

「……ばか」言って彼女は僕の胸に顔を埋めて泣いた。声無き慟哭。それが意味するものに僕は気付くことが出来なかった。そしてかの――由枝がこんな強行に出た(結果は大成功だが)理由に。

 それからの残り五分ほどの帰り道は二人手を握って歩いた。もちろん、指と指を絡めさせるあの握り方だ。

 

 いわしが帰ってきたのはそれから二日後のことだった。どろどろに体中汚れて初めて出会った日の事を僕は思い出していた。由枝はどろどろになったいわしを抱き上げると風呂場に連れて行き、シャワーを思い切り浴びせた。いわしは気持ちよさげに眼を細めている。時折、うにゃーと鳴いて滴り落ちる雫を舐めた。

 それから二日ほど、いわしは隠居を決め込んだ老犬の如く家の中から出て行こうとしなかった。まるで何かを惜しむかのように、お気に入りのクッションの上で一日中ごろごろして、由枝や母さんにおなかを撫でられていた。まるで犬のようだった。

 

 ――そしていわしは居なくなった。

 

 いわしが突然どこかに行って暫く帰ってこないことは今まで何度もあったけど(つい先日も、だ)、でも、今回ばかりはそうでないと、なぜかそう感じていた。それは由枝も同じだったようで、寂しそうに、いわしのお気に入りだったクッションをだきながら彼の名前を呟き続けていた。

 彼は由枝の孤独の象徴であり、また再生の標識でもあった。由枝は同時に二つのものを見失い、一匹の猫を失ったのだ。

「ねえ、かずりん」由枝はどこか遠く、あるいはすぐ近くの見えない何かを見詰めながら言った。「いわしは元気かな?」

「ああ、元気だろ」

「本当に?」

「本当に」僕は答えた。「あいつは今もどこかで欠伸でもしながらマタタビの国にある猫じゃらしの森でごろごろしてるさ」

「うん。そうだよね」由枝はそういうとクッションを床に置き、座ったまま首だけ回してこちらを振り返った。「かずりん」

「なに?」

「キスして?」

「もちろん」

 変な返事だな、と我ながら思った。

 

          ***

 

 傘の少女は言った。とても小さな声で、口も動かさずに。もしかしたら本当は何も喋っていないのかもしれない。でも確かに僕は聞こえた。「人殺し」

「なんだって?」

「あなたは人を殺しました」

 何て物騒な事を。まるで少女の風体と言葉の内容が合ってない。下手な吹き替えの洋画を見ているようだ。

「君は誰なんだ?」僕は訊いた。

 少女は首を横に振ってから僕の眼を見詰めて「それは貴方が決めること」と言った。

 てんで訳がわからない。

 だいたいどうして僕はこんな見ず知らずの少女に人殺し呼ばわりされないといけないのか……?

「親友が死んだ時、自分は自殺をしなければいけませんと言ったのは――ちょっと違いますが――中原中也でしたね。では人殺しは、大切な人を殺した人殺しはどうしろと言うのでしょう。そこまで中原中也は教えてくれませんでした」少女はそこで一度空を仰いだ。「人殺しは、一生、生きなければなりません。自分が人殺しだと言うことを周囲にひけらかしながら、へらへらと笑いながら生きなければなりません。誰も赦してはくれません。人殺しは最後の最後まで苦しんで死ななければならないのです」

 少女が言っている事を僕は全く理解できなかった。

「君は誰なんだ?」だから訊いた。何かを尋ねずにはいられなかったのだ。そうしなければ、この体が、心ごとバラバラになってしまいそうな気がしたから――。

「私は誰でもありません。強いて言うなら貴方の心に巣食う人の顔をしたハエの仲間だと思っていただければ結構です」

「君は僕に大切な人を殺せと?」

「いえ、貴方はすでに殺しています。ですから私はこうして貴方の目の前でこのように戯言を垂れ流し続けているのです」

「僕が誰を殺したって?」

「貴方は気がついていないのですね。当然です。まだ死んでいないのですから」

「は――?」

 本当に訳がわからない。

 僕が殺したのにまだ生きている?

「貴方はその事を今思い出している途中なのではありませんか? ですから先ほどあのような場所に立ち尽くしていたのではないのですか?」

 ――嗚呼。

 成る程。

 そういうことか。

 

          ***

 

 素敵なまでに予想を裏切って、いわしはいなくなってから一ヶ月ほどしてひょっこりと帰ってきた。発見したのは僕だった。庭木の陰でごろごろしている所をたまたま朝、リビングの窓から発見したのだった。

「おーい、由枝ぇー」と洗面所のところでうつらうつらしているた由枝を呼んだ。程なくして「ほーひはほー」と歯ブラシを咥えた由枝が姿を現した。

「いわしが帰ってきてるぞ」

「ひはひ……?」うほっ!? と泡を飛ばしながら由枝は叫んで洗面所に一旦もどってまたやって来た。もう歯ブラシは咥えていない。

「どこっ!?」由枝は訊いた。

「ほら、そこにいる」僕は庭木の根元を指差した。モンシロチョウを仰向けに寝転びながら追いかけていた。「さっきカーテンを開けたらいたんだ」

「……うん」由枝は涙混じりの鼻声で返事をした。どっちかといえば僕が何かを言ったからとりあえず答えたって程度の返事だった。それほどに由枝はいわしを寵愛しているのだ。少しばかり嫉妬した事は由枝には秘密だ。猫に嫉妬だなんて僕のプライドが許さない(そんなに立派なもんじゃないけど)。

「ねえ、かずりん」

「どうした?」

「私の頬にキスして」

「普通抓ってだろ?」

 こんな時にでもジョーク言えるなんてさすがだ。

「だって痛いんだもん」痛いのはきらい、と由枝は答えて窓を開け、サンダルを履きテラスに下りた。「いわしー」由枝が呼ぶといわしは、ビクッ、と動きを止めて由枝の方を振り向き、うにゃ? とないた。

 間違いない。あの惚けた素振りはいわしそのものだ。他の猫にはあんな惚けたリアクションはできないはずだ。

 

「マタタビの国はもう飽きたのかなあ……」庭で電線にとまったスズメを狙うために姿勢を低くしているいわしを見ながら由枝は言った。

 届くわけないのに、と思いながら「もしかしたら性に合わなかったんじゃないかな?」と僕は答えた。「あそこは色んな決まりごとがあるんだよ」

「例えば?」

「例えば――」僕は少し考えてから、「ご飯のこととか」と答えた。

「ごはん?」

「そう、マタタビの国ではネズミ以外の肉は食べられないんだ。それ以外の肉を口にした猫は三味線にされてしまうんだ」

「酷い」由枝は言った。「じゃあ、他には?」

「毛の色によって僧侶と貴族と平民に差別化されてしまう」

「なんか昔のフランスみたい」微笑みながら言った。「じゃあいわしは?」

「残念ながら平民。でも商人くらいにはなれるかな? マタタビの国では三毛猫が王室なんだ。その下に灰色の猫――つまり聖職者だね。そしてその次――貴族が尻尾のピンと立った赤毛の猫。それに黒猫。それ以外はみんな平民」

「黒猫は貴族なの?」

「うん。でも王政には反対の。彼らはみんなパレ=ロワイヤルに毎日通うような。ほら、猫って集会するだろ? あれはマタタビの国について話し合ってるんだ」

「へえ」

「いわしはきっとマタタビの国でも有力な平民なんだよ。だから一ヶ月も家を空けて、マタタビの国に滞在していたし、商人にもなれるんだ。もしかしたら国民議会のようなものを設立していて、球戯場の誓いまで済ましてしまっているかもしれない」

「じゃあもうすぐ革命ね」

 由枝はとても楽しそうに僕の与太話を聞いている。いわしは相変わらず届くはずのない獲物に爪を立てている。

「革命が始まったらまたいわしはいなくなるのかなぁ……」しんみりとした声で由枝は言った。

「そうだね。当分帰ってこられないかもしれない。下手をすればそのまま猫たちの代表に選ばれてしまうかもしれないし、そうなればもう一生いわしと会えないかもしれない」

「そっかぁ……」寂しそうに呟いた。「ねえ、かずりんはどっちの方が良い?」

「なにが?」と僕はぼけてみた。

「いわしとこれからも一緒にいるのか、それとも生き別れるのか」

「それを決める権利は僕にはないよ。だって彼は由枝のいわしだもん。どうしてか僕のことはいつだって敵視しているからね。あいつ」

「あははは、確かにそうだね。でもなんでだろう? 適当な事を言った記憶はあるけど本気でその理由を考えて事はなかいかも」そういうと由枝は少し考え込んだ。

 僕はその間中ずっと庭を見詰めていた。いわしが右に左にと走り回っては姿勢を低くしている。とても滑稽な感じのする光景だ。

「嫉妬だね」由枝は言った。

「嫉妬? いわしが僕に?」

「そう。私とかずりんがラブラブしてるから」

「そういう単語を使うとなんだか、僕と由枝の関係が安っぽいもののように感じるんだけど……」

「えー、そうかなぁ? いいじゃん、ラブラブしてる。実際そうだし」そう言って由枝は僕の顔を覗き込んだ。しかも上目遣いで。自慢じゃないが僕は由枝のこの顔に弱い。まるで小型犬のように庇護欲をそそるというのかなんと言うのか、思わず抱きしめたくなるような、そんな表情だ。

 そんな表情に騙されて(本人には自覚なんてないんだろうけど。なんだってこいつは天然だからな)これまで様々な用途不明のグッズを買わされて来た(貢ぐとはまた別だ)。

「私ね、思うんだ。この世の中で自分が好きなものに順位をつけるのは、途方もなく愚かな事だって」

「その考えは矛盾しているような気がするけど……」

「うん。だって一番はかずりんで二番目は村上春樹で三番目がいわし。こればっかりは動かしようはない絶対厳守の世界の法則」言ってから少し恥ずかしくなったのか、由枝は少し頬を染め、顔を背けた。

 どうしようもないくらいに愛らしい。それが僕の感想だ。

 

          ***

 

 気がつくと由枝は大学生で僕はしがないフリーターだった。

 僕らは市内にアパートを借りて二人で暮していた。同棲と言うヤツだ。もちろんいわしも一緒で、二人と一匹で暮していた。

 昼間、僕はバイトで彼女は授業があるから、いわしは一匹――いや、一人だけで残されていた。ときどき、自力で窓を開けて出て行ったりもしていた。

「結婚しよ」そう切り出したのは由枝だった。僕はちょうどそのとき、出版社の新人賞に送りつける原稿を書いていて、彼女はベッドの上で編み物をしてる時だった(マフラーだそうだ)。ら、と打つつもりが『rq』と言う意味不明な文字の羅列になってしまった。

「私が卒業して、かずりんがデビューしたら結婚しよ?」彼女は首を左側に傾げた。右側は単に甘える時だけだけど、左側は本気の掛け値なしの本音を言う時にそうなる。僕は息を飲んで彼女の鳶色の潤んだ瞳を見つめた。

「だめ――かな……?」

「いや、そんなことないけど。でも……」ハードル高いなあ。それ。由枝の方はマジメに授業に出てマジメに勉強してテストを受けてまともに卒論を書けばそれで良いけど、僕の場合は才能やら運勢やらが複雑に絡み合った非常に難解な条件だ。

「大丈夫。かずりんなら絶対に、大丈夫だから。私が言うんだもの間違いないわ」まるで僕の心を読んだかのようなタイミングでの言葉だった。僕は少なからず彼女に辟易した。「かずりんには才能がある。絶対に。あとは運だけだよ」

「それが一番難しいような気がするけどな」

「大丈夫だって。私には確信があるの、あなたなら絶対にやれるって」少し大人びた口調。童顔の由枝には少しアンバランスだった。

 

          ***

 

 気がつくと傘の少女はいなくなっていた。急いで辺りを見渡してみたが、どこにも赤い傘の少女はいなかった。それどころか人がいない。よかった、と思う。もし、傘の少女が僕だけに見えていた幻ならば、僕は何もないところで一人で喋っていたことになる。それでは丸きり変人だ。精神異常者と思われても文句は言えまい。

 それにしても、僕が人を殺した? 幻にしたって少し悪質すぎはしないか、あるいは荒唐無稽すぎる。

 僕は再び歩き出した。雨はまだ降っている。嗚呼、さっき傘を借りればよかった。どうせ幻の少女が持っていた傘だ。なくなっても困りはしないだろう。雨脚は強まるばかりで僕はこの天気に少しばかりの悪意を感じる。

 なぜだろう?

 なにが『なぜだろう?』なのか解らないが、無意識にそう呟いていた。

 

          ***

 

 揺樹数奈は僕の従妹だ。一つ下の、それも仲の良い。毎年夏休みの三日目から家にやってきて、お盆過ぎまで滞在して帰っていく。彼女の事を一言で言い表せば『足の遅い台風』だ。ちょうど台風が多い季節という事でそう名付けたが、別に嵐でもいい。まあ、なんでもいいのだ。

「お兄ちゃんと由枝ちゃんて付き合ってるの?」

 何気なく数奈が訊いた言葉。

 そのことに対して僕らは顔を見合わせて黙り込んでしまった。

 由枝の膝の上ではいわしがごろごろしていた。

 点きっ放しで誰も見ていないテレビの笑い声がやけに大きく聞こえた。

 そのまま答えられずにいると数奈は「なるほどぉー」と一人合点をして、「二人とも仲良いね」と言った。

 何のことか、と思って数奈に訊こうとしたときに、右手に暖かな圧力を感じた。はっとして由枝を見たが彼女は気付いていないようだった。どうしようかと少し迷ってから小声で、由枝、と呼んだ(尤もこの距離だから数奈には丸聞こえだろうけど)。

「なに? かずりん」

くすくすと数奈は笑ってる。

「手」僕は短く言った。恥ずかしくてそれ以上はいえなかった。

「え? あっ……」

 あうー、と言いながらも手を離さない。って、おい!

「ごちー」と言いながら手を合わせる数奈。「いいなー」

「なにが」僕は訊いた。

「幼馴染どうしで恋人同士なんて……。ちょっとベタだけどマンガとか小説っぽくて憧れるなぁ」

「近所にすんでるヤスヒロ君は?」

 ヤスヒロとは数奈の家の近所(確かお隣さんだったはず)に住んでいる、数奈の幼馴染のことだ。僕の記憶が正しければ逆三角形の輪郭で眉は細くもキリッとしていて、薄い唇も同じくキlリッと引き締っていて、何より目に力がある。まあ、なんか訳のわからない御託を並べたが、一言で言い表せばジャニーズ系といったところか。

「だめだめ。ヤス君は野球が恋人だから、人間になんて興味がないの」呆れたように数奈は言った。「あんなに鈍いのは反則だよぉ……」

「それなりにアプローチはしてるんだ」由枝は言った。

「まあ、ね。でもまったく」はあ、という溜息とともにガックリとうな垂れた。「でもお兄ちゃんと由枝ちゃんが付き合えたんだから、あたしに不可能なはずはない」急に身体を起こしてぎゅっ、と握りこぶしを作って仰角四十五度くらいでどこか遠くを見つめながら言った。

「あのな、どういう意味だ?」

「だって、ヤス君とお兄ちゃんとを比べたら絶対にお兄ちゃんのほうが鈍いもん」ねー、と由枝を見て言った。

「え? う、うん。そうだよ」戸惑いながらに答えた。

 否定はしないのか。つーか僕ってそんなに鈍かったのか?

「あたしの記憶では由枝ちゃんは昔っからずっと、ずぅ――っと、お兄ちゃんのことが好きだったんだから」また、ねーと言った。

「うん」今度は力強く頷いた。「そうだよ。かずりんの鈍さこそ犯罪級」

 きっぱり言われてしまった。つーかさっきから貶されてばっかだな。いや、この場合はプラス思考で行こう。『僕は純真無垢なんだ』。よし。

「で、どこまで行ったの?」数奈は言った。「一つ屋根の下に住んでるんだし、間違いの一つや二つはあるでしょ?」物凄く嬉しそう、いや、楽しそうに僕らに好奇の目を向けた。

「オッサンかお前は」

 というか、家の親父だ。どういう訳か家の親父――いや、母さんもか――はどうしてか、その『間違い』とやらを後押ししてくれる。まったく、青少年育成の観点から見れば有害なことこの上ない。

「えー、じゃあまだなの?」がっかりした調子で数奈は言った。

「ああ、残念ながら」これは僕の本音でもある。由枝のヤツその辺は固いんだわな。「せいぜい、キスまでだ」

 僕は溜息を吐いた。全く、なにを言ってるんだ。

「はいはい、もう止めだ。やめ」大げさな身振りで言った。

「あー、逃げた。お兄ちゃんの卑怯者ぉ―」

「うるさい。これは戦略的撤退だ」

 

 数奈に付き合っているのか? と訊かれた時に答えられなかったのは、別に恥ずかしかったから、なんている理由ではない。解らなかったのだ。僕と由枝は昔からずっと一緒で、本当の兄妹(姉弟?)のように育ってきた。昔の僕たちと今の僕たちを比べてそこにある相違点を僕は発見することが出来なかった。せいぜい、キスをしたくらい。それに抱きしめあったり、とまあそんなところだ。それ以外は特に昔から変わっていない。まあ、その少しだけ変わったところが大きな違いなのかもしれないけど、でもとにかく僕はそれを除けば僕らの関係は昔のままだと思っている。

「ねえかずりん」

 夏休みの宿題をする、と言って臨時にあてがわれた自分の部屋に数奈が戻った後、僕らは二人で相変わらずリビングのソファに座っていた。いわしはどこかへ出かけたようだ。

「私たちって付き合ってるよね」

「ああ、それは間違いないと思う」

 一ヶ月前の祭りの夜。確かに僕は由枝に告白されて、僕はそれを受け止めた。なにをどうした所で変わらない過去であり、現在を示す指標でもある。

「さっき数奈が訊いたじゃない」

「ああ」

「そのとき、私答えようと思ったんだけど、どうしても答えられなかった。なんでだろ? 私はかずりんの恋人でとっても嬉しくて、胸を張りたいくらいなのに。なんでなんだろう……?」

「僕も同じこと考えてた」悩みまで共有するとはさすが僕たちだ――なんてプラス思考を今回は出来なかった。「でもさ、そう急いで結論を出さなくても良いと思う。だって、僕達はこれからもずっと一緒だから」

 窓の下の方で、かりかり、という音が聞こえて僕らは同時にそちらを向いた。いわしが「中に入れてくれ」と窓を引っ掻いていた。眼が合うと「うにゃあご」と少しご機嫌斜めな感じで鳴いた。心なしか牙を向いていたような気もする。由枝が駆け寄って窓を開けると、とても軽やかな身のこなしでテラスからリビングに飛び上って、由枝の足元でごろごろした。でも僕が顎を撫でようとした瞬間に噛みやがった。

「シャー!」

 

 いわしは女性だけに懐くエロメタル猫だと気がついたのは、夏が終わりを迎え始める盆暮れの夕方のことだった。

 

         ***

 

 はらはらと舞う雪は地面を無垢なる白に染め上げる。汚れた世界を塗り潰す白い絵具。そんな事を誰が言っていたことなのだろう。

 一人ぼっちの街灯が照らす真下のベンチで僕は深々と降り積もる雪を眺め、森閑とした世界に身を浸していた。

 時計を見る。まだ早い。

 こんなに静かだとなにを待っているのかさえ忘れてしまいそうになる。でも、だめだ。それだけは忘れてはならないことだから。

「寒いな」

 言葉は発せられた直後に白くなって世界に融けていく。そのうち僕までもが実体を失って白い靄になって世界に溶け込んでしまいそうになる。

まるで――無声映画だと思った。

 もう一度時計を見た。

 もう、時間は過ぎている。

 由枝にしては珍しい。

 雪は降り積もり、

 時間は流れ去る。

 心は凍り、

 言葉は融ける。

 携帯電話が鳴る。

 それに僕は出た。

「もしもし――」

『由枝ちゃんが大変なの!』

 なにが大変なのか。聞こえてきた声は確かに母さんのものだった。酷く慌てている。「どうしたの?」僕は訊いた。

『由枝ちゃんが、いわしと、車に!』

「今どこ?」

『え? あ、うん。え、っと。そう、総合病院』

 僕は携帯を切って走り出した。

 

          ***

 

 このガラスで出来た自動ドア一枚が異界と現実世界を隔てる最後の境界線だ。僕はここに来るたびそう思う。この中では頻繁に人が死に、そして人が生まれる。今となっては殆どの『生』がここで取り上げられ、殆どの『死』がここで処理される。僕は思う。ここが輪廻の入り口ではないか、と。そして出口はラブホテルのベッドか寝室のベッドだ。

 すっかりここで勤める看護士さんとは顔見知りになっていて、「こんにちは」と挨拶をすると、「こんにちは」と返って来る。

「久しぶりですね」そう言ったのはここに勤めてまだ一年だという看護士で名前は水野さんと言った。彼女と僕は三つ違いで、彼女が年上だった。年上にも関わらず、年下の僕に敬語を使って喋る律儀な人だった。

「ええ、ここ半年色々ありましたから」

「あっ、この前映画見ましたよ」

「ありがとうございます。ああでも、脚本書いたのは僕じゃないですから」

 僕はあくまで原作者だ。

「そうでしたね。でも、原作の方も読みました。流石です。私と三つしか違わないなんて信じられません」そう言って彼女はにこやかに微笑んだ。「そうだ。今日は取って置きがありますよ?」

「取って置き?」

「はい。――それじゃ、私はこれで」そう言って水野さんはどこかへ行ってしまった。僕は何のことだろうか? と首を捻りながら半年振りになる通いなれた通路を歩いた。流石にあれだけ通いつめていると眼を瞑っていても目的地にたどり着ける。

 

『雛倉由枝』

 

 手書きのマジックで書かれた文字。

 僕は病室のドアをノックしてから中に入った。

 

「あ、かずりんだ」由枝はベッドから半身起して窓の外を眺めていた目をこちらに向けた。「久しぶりだね」

「あ――――」

 僕は何もいえなかった。

 由枝は不思議そうに首を傾げる。「どうしたの?」

「いや、なんでもない。って、なんでもないこともない。なあ由枝。いつからだ?」

「うーんと、半年前。ちょうどかずりんが来なくなってからすぐにね。流石にあれから二年もたってるなんて正直ショックだったな」再び視線を窓の外に向けた。「でも、なんか嬉しい。こうしてまたかずりんと会えたから」

 あの日。

 あの雪の日。

 由枝は道路に飛び出したいわしを助けようと自分も飛び出し、結果トラックに撥ねられ意識不明の重体に陥った。そしていわしは――。

「でも、目が覚めて一番ショックだったのは二年も経ってたことじゃなくて、いわしを助けられなかったことかな」

 彼女の努力も空しく、トラックは避けたものの、対向車線から走ってきた乗用車に撥ねられて死んだ。

 視界が歪んだ。

「かずりん。こっちきて?」

「……ああ」

 僕はゆっくりと彼女の元へ向かう。

「……はい」と言って由枝は両手を広げた。僕はそれがなにを意味するものなのか、しっかり覚えていた。記憶の隅にある夏の日に二人で決めたこと。由枝の今のポーズは『抱きしめて?』のポーズ。

 僕は由枝を抱きしめる。

「ねえかずりん」耳元で由枝が囁いた。「結婚しよっか?」

 あまりにも唐突なその一言に僕は数瞬戸惑ってから「うん」と答えた。それから抱き合った体勢のままでこの二年間の事を話した。僕が進学をせずにフリーターになったこと、それからだめもとで応募した新人賞で見事に佳作を受賞して小説家としてデビューしたこと、そしてつい半年前に僕の書いた短編小説を原作とした映画が作られ放映されたこと。他にも沢山話した。気がつけば日が暮れ始めていて、病室の中が暖かなオレンジ色に染められていた。

 僕は抱きしめたまま言った。

「ごめん」

 何がごめんなのかはわからない。

 ただ無性に謝りたくなったのだ。謂れのない、どうしようもない罪悪感。そんな理不尽な感情が僕の心を次第に支配し始めていた。そして頭のどこか片隅で傘の少女の事を思い出していた。

「先を越されちゃったな」

 僕達はもう抱き合ってはいなかった。ベッドのそばに置かれた丸椅子に座り、窓の外を眺める彼女を見ていた。

「なにが?」

「私ね。将来は小説家になりたかったの」

「そんなの聞いてない」

「だって言ってないもん。当然だよ」

 僕は由枝の言った『小説家になりたかったの』と。つまり過去形であることに引っ掛かった。

「本当のこと言うとね。私、結構前から小説かいてたんだよ。でもそれを投稿する勇気が無くて、自分でどこか納得行かないところがあって、そうこうしている内に、こんなことになっちゃって……。はあ、もうダメかな?」

「そんなことない」言って僕は立ち上がった。「そんなことない。今からでも始められる。由枝は目覚めることが出来たんだ。めくらやなぎのハエに食われることなく目覚めたんだ。だからなんだって出来るさ」

「うん。ありがと。実はね……」由枝は眼を輝かせこちらを向いた。「眠っている間ずっと夢を見てたんだ」

「夢?」

「マタタビの国で私がいてかずりんがいていわしがいて、それに数奈もいた。そこで私とかずりんは夫婦なの。その夢は何回も繰り返し見たんだけど、周りの人間関係とかが変わっても私とかずりんは絶対に夫婦だったの」

「絶対?」

「絶対。それでね。いわしが国王様なの。不思議でしょう、いわしがだよ? それで、数奈がマタタビの国ではかずりんの妹なの」

 由枝はそれから夢の話を滔々と語った。

 まるでそれが本当に起こった出来事のように、

 楽しそうに、

 笑顔で。

 僕はその光景に少しばかり胸が痛んだ。どうしてだろう?

「その物語をさ、小説にしてみたらどう?」僕は言った。

「あ、それいいかも」と由枝は言った。「もし、私がデビューしたら、かずりんなんてすぐに追い抜いてみせる」

「へえ? 出来るかな?」僕はおどけて言った。

「もちろん。だって私はかずりんのお嫁さんになるんだから当然よ」

「どういう理屈だそれ」

「うーん。愛は無敵」

「意味わかんねえよ」

 僕は笑った。由枝も笑った。

 やっぱり、胸が痛んだ。何故だろうか、と少し考えてその理由に気がついた。いま、目の前にいる由枝は、確かに僕が知っている雛倉由枝だけれど、もっと別なところでは全く知らない別人の雛倉由枝なのだ。 昔の由枝ならあんな風に諦めを口にしなかった。

 そうか。と僕は思った。

 これが人殺しの意味なのか。

 それならば僕は一生背負い続けなければならない。

 それが唯一の償いならば。

 

 窓から、風が吹き込んだ。

 きっと――。

 ――いわしの魂だったのかもしれない。

 彼も彼なりに彼女を祝福しているのだろう。

 彼女は振り向いた。

 その顔にはとても穏やかな笑顔が浮かんでいて、僕も微笑を浮かべた。

「おかえり」

「ただいま」

説明
6年くらい前に書いた短編。当時村上春樹の作品に出会ったばかりで、氏の作品に妙に感化されてた時期でした。そんなよく判らないテンションで書いた覚えがあります。ブログとか別の場所にも投稿したことあるんで一応転載です。タイトルだけ変えてます。
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