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「笑えば良かったかな……」

 ポケットから取り出した写真は、竹田崎と初めて出会ったあの時に撮られた物だった。あの時は撮ったものがこんな形で思い出になるとは思わなかった。あの時、

 

 

 

 

「ひとつ忘れておりました」

「うわっ」

 背後から、今さっき別れたはずの人物の声がした。この男が神出鬼没なのは判っているが、それにしても心臓に悪い。振り向く前に、真坂木は目の前に現れた。

「なんだよ……」

「いい反応ですね。この世界でのご自宅ですが、前と場所は同じになっておりますので……」

「…………。」

 確かに、街自体が、いや世界が変わっていた。この世界はどうなっているのか若干、もしかしたらそれ以上に判らないことが多い。そして、彼がそのことを告げるまで、そんなことを考えても居なかった。そういえば、初めて敗戦した時も何が自分の身に起きるのか分からなかった。あの感覚に似ている。

「ただし」

「ただし?」

 意味深な引きを作って話す真坂木に問いただすと、ニヤッと底意地の悪そうで、それでいて無邪気とも取れる笑みを浮かべてこう告げた。

「少々形は変わっておりますので、それでは……」

「ったく…………」

 あっさりと、しかも解答になっていない言葉だけを残して真坂木は文字通り消えた。周囲の喧噪が再び蘇る。

 とりあえず、帰宅するしかないようだ。この世界が、この世界での自分がどうなっているのか気になるのだ。

 

 

 

「か、鍵がない……」

 あの最後の闘いの後のままのはずなのに、写真はあれど鍵が何処を探しても服からは出てこなかった。付け加えれば財布もない。もはや、絶望的とも言える。これはどう帰宅すればいいのかと、どうせならせめて開けてくれるか、鍵も渡してくれれば良いモノをと真坂木に対して愚痴る。

 あのワンルームのアパートは少しだけ形を変えていた。面積は坪数は変わらないだろうが建物が変化している。アパートには変わらないのだろうけど、部屋数でも増えているのだろうか、ワンフロアの部屋数が減っている。

「まー押してみるか」

 案外、呼び鈴を押したら『お待ちしてました〜』と真坂木が出てくる、そういうこともありそうだ。むしろ、あの男ならありえる。

 自分の部屋の呼び鈴を押す機会なんて滅多に無い、そう公麿はブザー押した。その瞬間だった。

 ドアが開いた。やっぱり、そう来たか、真坂木だろうと顔を上げた瞬間、公麿は硬直した。

「帰ってこないと思ってたぞ……」

「えっ……」

 そこに立っていたのは、三國壮一郎だった。紛れもない彼で、あの黒いコートは着ていないが、彼と初めて出会った時のようなラフな服装をしている。

「公麿……」

「えっ、えっ」

 名前を呼ばれ抱き締められた。三國は自分を名前で呼んでいただろうか、そんな記憶はないしそれよりも、目の前の三國には顎髭が無かった。それだけで幾分か若く見える。

「具合はもういいのか? 大丈夫なのか?」

「あの…… その……」

 この世界の公麿は何処か具合でも悪かったのだろうか、それにしても何故三國がいるのか状況が掴めない。なによりも、彼に抱擁されていることが理解不能だ。

「ん? とりあえず中に入ろうな」

 ゆっくりと身体を離し、肩を抱き中へと招かれる。

「えっと……、三國……さん?」

「そうだ。壮一郎と呼んでいいと言ってるだろう」

 問い掛けると、三國は頷きそして名の方で呼んで欲しいと訴えてきた。これは、通貨がドルに変わったことから、ファミリーネームではなく、ファーストネームで呼ぶ風習になっているとかそういうことなのだろうか……

「えっ、あ……そ、壮一郎……さん」

「よろしい、お茶でも煎れよう」

 まるで名で呼ぶまでは中に入れないと立ちはだかる三國の名を呼ぶと彼は満足したのか、室内へと導いてくれた。音を立てて閉まる扉の音に公麿は不安を感じていた。

「えっ、その……」

 何故、ここは公麿の家のはずなのに三國がそんなことを言うのだろうか、そして今の公麿に起きている状況をどう説明すればいいのだろうか、どうしていいか判らないと戸惑う青年に三國は椅子を勧めた。

「判っているつもりだ。まずは落ち着かないか?」

「はあ…………」

 この状況にどう落ち着けばいいのかと思ったが、まずは状況を整理することが先決だろうとその三國の提案に乗ったのだ。

 

 

 

 

「えっ、俺、記憶喪失なんですか?」

「喪失というよりも、混乱しているといった方が正しいかな」

「はあ……」

「少し前に事故に遭ってな、外傷はたいしたことがなかったショックで記憶に混乱が生じているんだ」

「そ、そうなんですか?」

 三國の説明によると、この世界での余賀公麿は数ヶ月前に事故に遭い入院していたらしい。身体の方は完治はしたが、それ以来記憶が混乱しているという。

 その混乱は単純な記憶喪失ではなく、なんでも別の世界から自分はやってきたと主張するらしい。精神でも病んだのかと、そのような治療も受けているが、その傾向もなく混乱しているだけだろうということで、自宅で療養中とのことだそうだ。

 今日も、外の景色を見れば何か思い出すだろうと一人で出かけたらしい。

 話を聞くに、その『事故』と『入院中』の期間が、あの金融街に居た期間と近く、つまりは記憶の改変がそう言う形で出てきたということだろう。だけど、何故目の前の三國は記憶を有していないのか、なによりもどうして此処にいるのか、そして自分との関係はと悩むことばかりだ。

「それで、三國さんはどうして此処にいるんだよ?」

 その質問に少し悲しげに三國は微笑んだ。ああ、最後戦った時に見せた悲しげな表情に似ている気がした。

「何回目かな、これで……」

「あっ、悪りぃ」

「かまわんよ。落ち着いてから聞いて欲しい、いつも君は取り乱すからな」

 どうやら公麿は、記憶に混乱を生じてから何度も自分と三國との関係を問うているようだ。

「恋人同士だ」

「はぁ?」

「ここで同棲している。因みに、肉体関係もある」

「あっ、ありがとうございます」

 硬直した公麿に対し、今日は暴れないのだなと薄く三國は笑っている。暴れる、暴れないの前に何がどうなっているのかが判らない。ふと、この事態判っているたった一人の人物の名前が浮かんだ。

『真坂木』

「お呼びになりました?」

 一瞬にして世界は、真坂木に初めて出会った時のように、周囲に何もない空間へと変わった。あの世界から隔離され、時の流れない場所へと連れてこられた。

「どういうことなんだよ」

「ですから、少々変わってますよ。と言いましたが……」

「少々どころか、これ嫌がらせだろ」

「ですが……懸念したいたことが確認出来て宜しかったでしょう?」

 最後、『永遠の今に留まる』と言い放った三國の言葉に、彼のその後がどうなるかは心配していた。この世界の何処かで『今』を生きていればいいと願っていたが、こんな形で知ることになるとは思わなかった。

「これ、三國さんには記憶無いの?」

「はい。基本的にはみなさまの記憶を上書きしております。貴方様は特例でして……」

「特例?」

 首を傾げる公麿に対しての真坂木の説明の内容は以下のようなものだった。上からの命令で、改変された世界を公麿に見せる必要があった。その際記憶を有していないといけない、公麿の記憶だけ残し後は全て書き換えた。そう伝えられた。そして……

「このままですと、こちらの世界に取り残されてしまいますので、今回は記憶をお持ちしました」

「記憶?」

「はい、こちらの世界での記憶です……」

 これがないと、歴史、生活慣習、その他諸々と変化しておりますのでお辛いと思いますよ。と付け加えて…………

「それ受け取ると今の記憶どうなんの?」

「消させていただきます」

「じゃあ、いいよ」

「そういうわけには……」

 大変ですよ、これから生活していく上で、そう続け覗き込む真坂木を公麿は睨んだ。

「両方って無理なの?」

「出来ますが、そうしますと……大変苦労なさるかと……」

「今でも充分だよ」

 とにかく失いたくないのだと主張すると仕方ないですねと真坂木は前置きした。

「貴方様に関しては上の方からなるべく意向を添うようにと言われてますので、これはサービスですよ」

 ポンと不気味な顔がついた杖で頭を叩かれた。

 叩かれる前に『記憶注入っ』と変な動きでくるくると周囲を回られたのは解せないが、その言葉と衝撃と共に記憶が押し寄せてきた。それは、この世界の公麿の十九年分の記憶、経験が全て流れてくる。人はこんな風にデートとして記憶を受け取らない、それは一つ一つ積み重ねて一気に押し寄せてくる多すぎる情報量に公麿は吐き気を感じた。

「ほら、言いましたでしょ。混乱しますよって……」

 二つある記憶のどちらかが本来の自分の物なのか判らない、同じようで、何もかも違う二つの記憶と経験が脳内で、体内でまるで食い合う二匹の動物のようにうねり、絡み合っている。相容れないモノ同士は、混じり合うこともなく、水と油のように乖離していく、そして二つの異なった記憶という矛盾だけが積み重なっていく。

「大丈夫ですか? 今からでも消去できますが……」

「これでいいから……」

 激しい頭痛と嘔吐に耐えながら公麿は頭を振った。その些細な動作ですら、今では辛い。

「それでは、これで本当に失礼しますよ」

「待って、真坂木」

「また、金融街へ……」

「じゃなくて、あの人のことなんだけど……」

 頭痛に耐えながら公麿は、三國の記憶に関して問いただした。彼は全て書き換えられてしまったのかと……

「そういたしました。ですが、元アントレの方は少々やっかいでして、上手く処理できないこともありまして……」

 ただでさえ激しい頭痛に苛まれているのに、ピンク色の道化がくるくると公麿の周囲を衛星のように回転している。

「なんといいますか、夜をお楽しみ下さい」

「夜?」

 その言葉に、はっと思い出したのは、こちらでの記憶で、自分と三國とが性交をしようとしている所だった。記憶の方は快い経験なのか、しきりに好感情を導こうとするが、こちらの公麿としては戸惑うしかなかった。嫌悪感が沸き上がってこなかったのは、頭痛と嘔吐のが勝っていたのか、それとも…………

「はい、そうすれば記憶を書き換えられたアントレのことが判るかと思います」

 それでは、と大仰に挨拶をするとパチンと、世界は元の流れに戻った。固まっているように見えた三國が動き出した。

「どうした?」

 頭を抱えている姿を見て心配しているのか、不安げな声と表情の三國が公麿を見つめている。

 時が止まっていた三國からすれば、急に頭痛で苦しむ公麿が目に入るのだから慌てるのも仕方がない。なによりも、彼にとっては、病上がりでもありの愛しい恋人でもあるのだから過保護になるのし仕方がない。

「痛むのか? 苦しいのか?」

 戸惑っているのか、それでも距離を測りながら三國の掌が公麿に触れる。ビクンと身体は反応するが、体内に潜むもう一つの記憶がその温もりに歓喜している。

「今、薬を持ってくるからな」

「いらな……い」

 三國の身体を制した。この頭痛の原因はわかっている。異なる記憶を有していること、そして一気にその莫大なデータを受け取ったのだ。明らかに処理できていないだけであって、病気というわけでもない。かといって、どうすればこれが収まるのかも判らない。

「寝てれば平気だと思う……」

 そう訴えるしかなかった。とりあえず、この記憶と、この世界と、そして今について考えたかった。むしろ、どっと疲れが出たとも言う。あの死闘から公麿の感覚ではたいした時間は経過してないのだ。思い出せと言えば、まだこの唇には真朱のそれが残っている。

「そうか……」

 三國が柔らかく手を差し出した。この仕草を見たことがある。彼が、彼のアセットであるQに対して行っていた手の動きに似ていた。まるで宝物のように優しく手を繋がれ、迷子の子供を誘導するように寝室へと導かれた。今は記憶を有しているが、それでもこの膨大な量から必要な記憶を選ぶことがまだ出来ないでいる。だからこそ、三國の行動は有り難かった。

 そして、その案内された寝室のベッドに生々しさを感じた。大きな、大きなベッドが一つ部屋にある。そのベッドを見た瞬間、またもう一つの記憶が蘇る。二人の息遣いと、そして見たこともない快いような、苦しそうな表情の三國、そしてそれを見上げている自分と、そして体内に感じる別の熱を…………

 経験はないが、それが何をしているのかは判る。蘇る別の記憶に身体が熱くなる。

「どうした? 熱でもあるのか?」

 そっと身を屈め三國は顔を近付けて問う。それが、この男なりの姿勢でもあり、別段恋人同士であったからというわけではない。ないのに、どうしても意識してしまうのは仕方がない。

「大丈夫だから」

 もう全てから逃れたいと、公麿はベッドへの身を沈めた。そして殻に籠もるように丸くなった。出来ればフードも被りたいが、その代わりに布団を抱き込んだ。

「薬を持ってこよう」

「いいってば……」

「眠りやすくはなるぞ」

 確かに、込み上げてくる嘔吐感と頭痛の前では眠れるとは思えずに布団にくるまったまま公麿は小さく頷いた。

 三國が持ってきた薬を飲むと、心配げに見つめている三國の眼差しと目があう。その度に注入された新たな記憶が蘇り、恥ずかくて仕方がない。今もこのベッドの上で行われてきた様々な睦言が、映像となって過ぎっていく。

 不思議だった。経験も記憶も自らが作るモノだと思っていたが、こうしてデータとして受け取ると、自身が体験していないはずのことも思い出と化している。

 この身体にはまったく記憶のないことのはずなのに、身体はその時の感覚を覚えているのだ。嫌な追体験だ。そう、の短い間に、三國との濃厚な付き合いを追体験している。

 心の中でもう一人、この世界の俺の記憶が愛しい、愛しいと叫んでいる。目前の男を愛していると訴え続けている。その感情の濁流に呑み込まれそうになる。沸き上がる記憶が、彼と俺との物語を紡いでいく、いかに二人が出会い、惹かれ合い、愛し合ったのかをその想いと共に記憶が押し寄せる。

 だけど、それを受け取っても目前の男を愛することは出来ない。この人は違う。俺が、俺が惹かれたあの男ではない。

 自分も彼も同じならば、彼もまたあの彼であるはずなのに、この記憶のように愛することは出来ない。

 あの極彩色の狂った街で出会い、その全貌が見下ろせるあの高台でコートを靡かせて立っていたあの男ではない。

 苦しげに独白しながら闘い合った男の記憶は、もう存在しないのだ。俺の心にだけ残っている記憶なのだ。

 あの三國壮一郎は何処にいってしまったのか、そして案外自分があの三國のことを好いていたことを知る。

 彼の存在が愛しい。

 その愛しいという感情は、もう一つの記憶に引き摺られているのか、元来のと思っている経験から感じているのか、徐々に曖昧になっていく。

 薬のせいか思考にもやが掛かってくる。立ち去ろうとした三國の腕を掴んだことだけは判っている。少し戸惑っていた三國の掌が、そっと額に置かれた。懐かしい気持ちになった。その大きな掌、温もりに父親を思い出した。

 側にいて欲しい、誰でもというわけじゃない…………

 それはどちらの俺が思っているのか、そもそも俺は俺であって、どちらのでもないのか……判らない…………

 

 

 時間が判らない。

 気付けば、目が醒めると部屋は暗くなっていた。眠らされた時はまだ明るかったのに、なにか呻くような音に目が醒めたのだ。また低く誰かの声がする。

 闇に慣れた瞳を凝らせばベッドサイドに三國が顔を伏せて眠っていた。こんなに広いベッドなのだから共に眠ればいいのに、だがきっと彼は遠慮をしたのだろう。

 彼にとっては記憶を失った恋人が公麿なのだが、性的な意味を含む好意を抱いている人間が共に眠ることへ配慮したのだろう。

 なのに、その三國がうなされている。苦しげに唸る姿が居たたまれずにその大きな体を揺り起こした。

「すまない、寝ていたようだ」

「寝るならベッドで寝ろよ」

 ああ、と小さく返事をし再び退出しようとする三國の腕を背後から掴んだ。

「何処行くんだよ……」

「向こうのソファで寝てくるよ」

「あんた、うなされていた、いつも……なの?」

 ぽんぽんと背後の公麿の頭を撫でると、三國はそのままベッドの縁に腰掛けた。

「そうか、すまなかった」

 そう俯く姿はとても疲れているように見えた。あんな不自然な姿で寝ていたということよりも、もっと違う意味で疲れているような、それは最後に見たあの三國の姿と重なるのだ。

「そうじゃなくてさ、いつもじゃないよな?」

 与えられた新しい記憶を活用を未だ上手く活用することは出来ない、思い通りに遡ることが出来ないのだが、三國が苦しんでいる姿の記憶がない。浮かび上がってくるのは、二人で楽しんでいる思い出だけだ。その度に幸福感が身体を満たしていく、その激情に感情が伴わない。不思議だ。

「あまり、お前の負担にしたくないのだがな……」

 少しいい倦ねているのか、前置きしてから三國は話しはじめた。

「若いときからよくあったんだ。原因が不明で色々と医者に通ったがどうにもならなかった。お前と出会って……、その……、なんだ、お前と寝るようになってから無くなったんだ」

 何回か澱むのは、性的な関係に対して触れることへの配慮だろう。少し照れているのか、それとも気にしているのか伏せたまま横顔が、仄かに染まっている。

 この世界の公麿にとってもこの話を聞くのは初めてであったらしい、漸く二人の感情が重なった気がする。そして、とても驚いている。この三國にとって恋人でもあり、安眠するための大切な存在でもある。いや、恋人を得て安眠を勝ち取ったのかもしれない。

 もう一つの記憶が、愛しげに自分を抱き締めながら眠る姿や、先に起きてしまい眠ったままの三國を抱き締めたことを再生し続けている。そんな穏やかな甘い記憶には、心を乱されずただ、暗がりの中苦しそうに呻いていた男の姿だけを思い返す。

 なにを三國は苦しんでいるんだろうか、藻掻いているのだろうか、起き抜けの三國の疲れた表情はよく知っている三國に近かった。彼もまた塗り替えられた記憶を有しているのはないだろうか、消えていこうとする記憶に彼はうなされているのではないか…………

「少しいいか?」

 控えめなその言葉に公麿は頷くと彼の隣へと腰を降ろした。三國は少しずつ、言葉を選びながら話し始めた。

「その……、お前がどうしても俺といるのが辛いなら諦めるが、もし特に行く場所もないのならば、なんだ……、お前に目的が出来るまでは俺の側にいて欲しいんだ」

「えっ……」

 俯きながら紡がれる言葉を聞きながら、公麿は最後に顔を上げた。

 彼にとっては自分は恋人ではあるが、今の公麿にはそれは受け入れがたい状況なのだ。それを考えて、いつでも離別する覚悟はあるのだということだ。だからこそ、それまでは側に居たいという哀しい三國の思いだった。

 最後に見た三國の表情のと重なる少しやつれた顔は、やはり彼は記憶を上書きされただけで彼自身なのだろうと思わせる。

「無理強いはしないつもりだ。俺にとっては恋人だが、お前にそれを受け入れる義理はないはずだ」

 俯いてた顔を上げ、まっすぐに公麿を見つめる三國は何処か弱々しく思えた。彼もまた不本意なのだろう、だが公麿を気遣いその上での選択なのだろう。遠回しの別れの言葉は、彼にとっては辛いものだろう。

「頼む、それまでは側にいてくれ……」

 だからこそ、この最後の言葉は血の滲むような、心の奥底から込み上げてくるような力があった。切望する慟哭は静かだが、とても熱く、深く、そして想い、重い。比重の高い物質が徐々に沈んでいくように、その言葉は公麿の体内を浸食し、そして沈み積み重なっていく。

「いいけど……」

 素っ気ない言葉は照れ隠しみたいなものだった。この真摯な眼差しと言葉に応じられるものなど浮かばなかった。

「ありがとう」

 嬉しそうに微笑む三國を見ると、これ以上黙っているわけにはいかなかった。嘘をついてたいたわけではないが、言い出すタイミングが掴めなかっただけだ。なによりも、この事態をどう説明して良いのか公麿には思いつかなかった。

「あのさ、俺、記憶あるんだよ」

 戻ったとは言わなかった。三國とって『戻ってきた』と感じる記憶が、今公麿の中にも『有る』というだけだ。だが、二つの記憶を有している公麿は、三國が戻ってきて欲しい公麿ではない。

「戻ったのか……」

「まぁ、戻ったっていうか、二つあるんだよ」

 二つ記憶を有していることを理解できるのだろうか、そもそもとして三國はどう今の自分を受け止めているのか、それすらも判らない。ただの記憶喪失では無いことだけは判っているようだが、だとしてもこの状況を理解しているとは思えない。

「なるほどな……」

 その三國の返事は意外にも、事態を受け入れているようだった。

「変だって思わねぇの?」

 まず疑うだろう、もしくは違う病気の可能性を考えるはずだ。この世界でどんな治療を受けていたのかは判らない、手元にある記憶はその部分は欠落しているのだ。

「お前がこうなったときにな『自分は別の世界の人間なんだ』と言ったんだ」

「それ、信じたの?」

 そんな世迷い言を信じるとは思えなかった。もし、それが自分の立場だとしたら信じることはないだろう。他の病気の可能性と、そんな芝居をしてまで自分と別れたいのだろうかと悩むだろう。

「信じるもなにも、恋人が……、愛しい相手が言うのだから信じるだろう」

 直情的に愛を囁かれるとどうしていいか判らない、こんな絵空事のような自らが経験してなければ嘘だと、夢なのだと思うだろう。そんなことが信じられると言い切れるとは…………

「その…… えっと、ありがとう」

「お礼を言われるようなことかな……」

 公麿自身もおかしいとは感じているが、嬉しかったのは事実だった。どう感謝を伝えていいか判らないが、三國がとても公麿のことを信用しているということでもあり純粋に嬉しかった。普通ならば、見捨てられても、奇異な目で見られても仕方がないことだというのに……

 そして、恋人として三國は辛かったであろうことも…………

「それに普通の記憶喪失とは違っていたからな、お前の言うところの『この世界』の風習とかも理解していなかった。日常生活送るのも大変だったしな、通貨単位が違うとかな……」

 目が醒めて初めてこの世界を見回した時ね色々と違和感を感じていた。街並みも、通貨の単位も様々なものが異なっていた。そして、受け取った記憶からは歴史や生活習慣も違うことが判った。その話をしたのであれば、本当に違う世界があったことを信じることはあるだろう。

 それでも、大半は夢でも見ていたのだろうと片付けられるだろう。

「確かに、最初から信じていたかと言われると辛いがな、遠回しな別れるための理由かとも疑ったこともあった」

「そのさ……、記憶のない、別の世界の俺でも良かったの?」

 今の公麿にとって、横に座る三國は、三國似た何かでしかない。あの記憶を有していない三國は、公麿が知っている三國ではない気がするのだ。愛し合っていたのならば、その記憶のない相手を愛することが出来るのだろうか…………

「お前は……、公麿は公麿には変わらないだろう?」

「そうかな……」

 果たしてそうなのだろうか、記憶、経験、その人物がそれまで生きていた全てをすり替えられている状況で、それでも本人なのだと言える自信はなかった。

 外見上、最も違うと感じる髭のない顎を見つめると、ふいに三國が動いた。

「それだ」

 伸びた三國の掌が公麿の指先を掴むと、自らの顎に触れさせた。

「えっ……」

 急に導かれたことに公麿は戸惑うと、三國はその手を離した。そして再び指先が顎先を撫でていた。かつての三國がよくそうしていたように…………

「髭を生やしていたんだろう? 俺は」

「そうだけど」

 そんな話を自分はしただろうか、髭のことはまだ話した覚えが公麿にはなかった。

「実は記憶を無くす前からそこをお前は触っていたんだ。よく……」

 懐かしむように目を伏せた三國の横顔に、彼の哀しみを感じた。変わらないと言い切ったが、それでも互いの思い出を失われてしまったことは辛いのだろう。

「俺もはやしてみるかな」

「えっ、いいよそこまでは……」

 伏せていた瞳を三國は開けると優しく、顎を撫でながら笑っていた。髭に思い入れがあるわけではないのだから、構わないと首を振れば、

「童顔で困ってたんだ。少しは箔でも付くだろう」

 三國はそう言って楽しそうに笑っていた。あの三國もそんな理由で髭を生やしていたのだろうか、別に理由があったのか、無かったのか、話したこともなかった。彼との期間は短くそして濃かった。もっと、色々と話したかった。あの三國と……

 そっと隠れるように三國の背後へと公麿は回った。三國に聞いてみたいことがあった。

「あのさ、もしも三國さんが他の世界に飛ばされたとしたらどうする?」

「俺は今を生きるよ」

 その問い掛けに、三國は悩まずに即答した。その言葉はあの時、三國が最後に言った言葉と変わりなかった。

「…………。」

 そう語る三國の背中は、いつも見ていたあの三國の背中に似ていた。大きく広かった背中が今、手を伸ばせば届く場所にあるのだ。

「俺がいる世界が、俺の『今』だ。だから、その世界を生きるさ」

 未来で会おう、その言葉を三國は否定した。だが、彼が望む永遠の『今』は、連続する今は未来に続いているのだと公麿は思っている。きっと、彼は何処にいても、『今』を生きているのだ。それは必ず未来に繋がっているのだと公麿は信じている。

「三國さん……」

「どうしたんだ、急に……」

 ここに居たんだ。やっと、あの三國とこの三國が重なった気がした。漸く三國と出会えた。公麿が知っている三國と再び会うことが出来た。

 込み上げてくる思いが、公麿のものなのか、もう一つの記憶に寄るものなのか判断出来ない激情に駆られ公麿は三國を背中から抱き締めていた。

 確かに、この中にあの三國がいるのだ。力強く背後から抱き締めると、少し三國の身体が震えてから、前に廻した掌の上にそっと手を重ねた。

 初めから全て掌の上だった。

 だいたい、未来を担保に金を貸すと言われても、拒否することも出来なかったし、返済方法がそもそも聞かされてはいなかった。契約してしまえばおしまいで、返済方法は無いのかもしない。それとも、勝ち続け、勝ち続けて輪転機を逆回転させることだけが返済方法なのかもしれない。

 公麿の中には前の世界での記憶がある。そして、この世界での記憶もある。データであるこれの経験はどちらが正しいのだろうか、こちらの公麿が無い顎髭を触ったりしていたのは、少しでも感情が移入できるようにでもしてくれたのだろうか、これもまたサービスの一つなのだろう。

 その掌の中にいながら、いつも三國は足掻いていたと公麿は思っている。自分もそうであって、だからこそ闘ったのだとおもっている。

 悪夢に魘されていた三國は、上書きされた記憶を取り戻そうと足掻いている姿なのかもしれない、そして今の考えた方も三國自身のものだ。いくら塗り替えられても、その中にある本質はきっと代わりないのだろう。

「どうかしたのか?」

 何も言わずに背後から抱き締めた公麿を訝しがるように、三國が再び優しく問い掛けた。公麿が知っている三國に出会えたことが嬉しいのだと、三國に告げてもきっと判って貰えないだろう。

 掌に感じた違和感の正体について、照れ隠しのつもりで呟いた。

「指輪…… してないんだ」

「俺は指輪もしてたのか?」

 この指とこの指、そしてもう一つしていた。その場所を確認するように指の付け根に公麿は触れた。

「三つか……、じゃあ俺もするかな」

「えっ、いいよ。金とかかるし」

 髭を伸ばすこととは訳が違う、記憶ではこの世界の三國もそれなりに裕福だが、あの三國とはまったく桁が違う。

「そのくらいは平気だよ。明日、良ければ一緒に見に行かないか?」

「えっ?」

 明日、些細な約束が嬉しくて公麿は更に強く三國を抱き締めた。今度は三國が公麿の指の付け根を触りながら続けた。

「その…… お前にも指輪を贈りたいんだ」

「それって……」

 意味ありげに触り続けている指の位置に、その意味を知り問い掛ければ珍しく照れているのか俯いた横顔を赤く染めた三國が呟いた。

「いや、付けなくてもいい、ただ貰って欲しいだけなんだ」

 その三國のせつない望みに、公麿は三國の掌に己の指を絡めた。もう一つの記憶が三國の言葉に歓喜している。その感情に感化されているのか、それとも自分自身から湧き出たものなのか判らないが、嬉しい感じる心が重なっている。

「いいよ、三國さんが嵌めたい指に付けてよ」

 委ねるように大きな背中に身を預けた。温もりがじんわりと伝わってくる、少し熱くなった気もする。ただ愛おしく背中から三國を抱き締めた。

「いいのか?」

 少し震えた三國の声は、喜びと不安を帯びている。一回り以上も年上だというのに、彼がたまらなく可愛らしく見える。

「うん、明日一緒に行こうよ」

「ああ」

 大きな手が公麿の指に絡まり、抱き寄せるように強く握られた。背後から男の鼓動を聞きながら公麿は小さく呟いた。

「三國さん」

「どうした?」

「俺、今は三國さんのこと受け入れられないけどさ……、好きだよ、あんたのこと。だから、側にいるよ……」

「…………」

「なに?」

 なにか三國が小さく呟いた。聞き逃したその言葉を聞き返したが、三國は小さく首を振りそれを拒否した。焦れた公麿はよじ登るように、三國から手を離すと公麿は三國の肩に手を置き、その横顔に唇を寄せた。その感触にはっと身じろいだ三國を抱き込むように、肩から腕を垂らし、顎を乗せた。その柔らかい公麿の髪に自らの頭を寄せるように、三國は身体を寄せた。そして、胸元の掌を包み込んだ。

 

 

【終】

 

説明
最終回後の話です。あるあるネタだとは思いますが、改変後の世界で玄関開けたら三國さんが居たネタです。勢いで書いてみました。真坂木さんがCパートで名前を呼ばないのは『三國公麿』となっている可能性もありますよね。通貨ドルだし同性結婚くらいは…… これに+して王子も居た!!みたいなのもやりたいなーとは思ってます。◆発表済みですが、こちらの試しとしてアップします。
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