【新刊サンプル】朧月夜【恐惶謹言待宵】
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 紅く焼けた空に、灰色の雲がたなびいている。

 未だ恭順の意を示さぬ相模国小田原の北条家討伐の為、三月朔日に京を発ってより、既にひと月近い時間が経とうとしていた。

本来ならば、もうとっくに小田原に着いていてもおかしくはないのだが、彼らは未だに東海道をゆるゆると東進している最中であった。

 石田治部少輔三成は、この緩やか過ぎる進軍に、激しい不満を抱いていた。

「殿下は何を考えておられるのだ。此度は物見遊山の旅ではないと云うのに、あのような者を連れ歩くとは」

 この日もまた、昨日から幾らも進まぬうちに足を止めさせられており、三成の苛立ちは頂点に達していた。

 殿下―彼らの主にして、この国の関白でもある豊臣秀吉のことである。

 秀吉は、この遠征に茶人の千利休を帯同させ、宿泊する先々で茶会を開くと云う暢気ぶりであった。

この辺りに領地を所有する徳川家康などは、秀吉が泊まる予定の宿場全てに茶亭を造らされ、大層な出費と苦労を強いられているようだ。

 三成自身は、茶は嗜む程度で、さほど興味がない。利休が提唱する、茶席で侘びだの寂びだのと云った風情を楽しむ行為は、この男にとっては無用のものでしかなかった。

「まあ、そう言うな。殿下には殿下のお考えがあるのだろうさ」

 憤る三成を宥めているのは、朋輩の大谷刑部少輔吉継である。

吉継は、三成が秀吉に召し抱えられるずっと以前から、三成の武芸の師として、また、莫逆の友として、その傍らに在る男であった。それ故に、三成の気性の激しさをよく知り尽くしてもいる。

 このまま放っておいては、本当に秀吉の宿舎に乗り込んで直談判を挑みかねない。

秀吉は決して狭量な主ではないが、万が一不興を買いでもすれば、幾ら『関白殿下のお気に入り』であろうとも、ただでは済まないだろう。

下手をすれば、腹を切らねばならなくなるかも知れない。

 三成が逸る気持ちは分からないでもなかったが、吉継は、この男をつまらぬ理由で失いたくなかった。

「何を暢気なことを」

 だが、三成はその形の良い唇を引き結ぶと、燃えるような瞳で吉継を睨みつけた。

「あれからもうひと月近くも経っておるのだぞ。それなのに、我らは未だ伊豆にも入っておらん。本当なら、とうに小田原に着いていてもおかしくはないだろうが」

 三成の白い頬は、今日のこの空を映したかのように紅く上気している。

この切羽詰った状況でも、三成のその表情を、美しい、と思ってしまう己がおかしくて、吉継は思わず微苦笑を漏らしていた。

「……何がおかしいのだ、刑部」

 彼を嘲ろうと云う意図はなかったのだが、どうやら誤解されてしまったらしい。

三成の冷たく尖った声に、慌てて微笑を引っ込めた時には既に遅く、吉継を見遣る三成の表情は、先ほどより更に険しく歪んでいた。

「とにかく、俺はもう我慢出来ん。俺だけでも先に行かせて貰えるよう、殿下に直接申し上げてくる」

「待て、治部」

「うるさい!」

 止めようとした吉継の手を強く払い除けると、三成は足音も荒々しく、陣屋を出ていった。

説明
9/18『恐惶謹言待宵』発行の新刊『朧月夜』の内容サンプルです。全年齢向けです。 ※この本は完売しました。どうも有り難うございました。
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のぼうの城 大谷吉継 石田三成 二次創作 女性向け 小説 全年齢向け サンプル 新刊 恐惶謹言 

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