寺院
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 新緑に染まる山肌がどこまでも続いていた。

 濃密な木々の匂い。

 森の空気は湿り気を帯びていて、大きく息を吸い込めば肺が苦しくなるほどだ。

 私はある噂を聞きつけて、小雨のしとしと降るなかを進んでいた。

 寺院へと繋がる石段はゴツゴツとした造りの上に並びも雑なので、足を挫かないように気をつけなければならなかった。また、高い樹木の枝葉が覆っていて雨が直接降りつけている場所は思いのほか少ないものの、たまに雨ざらしの所もあって、滑ってこけたりしないように注意を払う必要もあった。なにせすぐ横は雑木林が下まで続いているのだ。標高が低いとはいえ、傾斜はなかなかのもので転げ落ちれば擦過傷や切創だけではすまない可能性がある。

 そのことを念頭に置きつつも一定のペースで進んでいく。

 雨が降っているなかを移動することを考えると初めは億劫だったのだが、いざここまで来てみれば普段とは違うしっとりとした雰囲気の山や森の景色を見ることが出来て、これはこれでいいものだった。おかげで今に至るまでにもすでに何度か、気になる被写体をみつけてはレンズを向けていた。

 このあたりの気候や今の季節から湿度が上がると蒸し暑くなるのではと心配したものの、わりと気温は低めで過ごしやすかったのも幸いだ。

 

 いくらか時間が過ぎ、空模様も少しずつ変わってきたころ、ようやく目的の寺院にたどり着いた。

 もうすでに雨粒はごく細いものとなっている。「降る」というよりも薄い霧のように全身を「包み込む」と表現したほうがふさわしいくらいだ。

 眼前に寺院の楼門が聳え立っていた。厳格なたたずまいの門は、朱漆の時を経てほどよく黒ずんだ色合いが灰色の厚い雲と相まって、ほの暗い日常世界にぽっかりと開いた異界への入り口を思わせた。

 かすかな緊張を胸に抱きつつ門をくぐる。

 境内に他の参拝人の気配はない。

 山中の参詣道と違って寺の敷地内は清々しいほどよく整っていた。雨中に所々出来た水溜りは小さく、踏み出したところでぬかるんで滑るということもない。

 本堂へと続く、高い樹木に囲まれた石段を一歩一歩登っていく。

 途中、質素な衣を身に纏った僧がひとり、こちらに向かって降りてきた。

 僧はすぐそばまで来ると立ち止まり、合掌して静かに会釈をした。私もぎこちない動きで軽く頭を下げて返すと、彼は何も言わずにそのまますれ違い、立ち去った。

 おそらくお勤めでも終えて、本堂から出てきたのだろう。

 私はふたたび歩を進めた。そう段数もないので、登りきるのにたいして時間はかからない。

 私の目の前に木造の御堂が姿を現したのは、それからすぐのことだった。

 雨音遠く静寂に包まれた堂内は幽玄の域に達していた。

 置行燈の火が薄ぼんやりと燈る以外照明もなく、雨空のために正面や左右の開け放たれた戸からも外光はほとんど入ってこない。薄暗いなかに香の独特のにおいが隅々まで立ち込めていて、我々が普段生きているのとはまた別の世界の、異質な空気に満ちていた。

 供物台には果実や菓子類が供えられ、低い柵の奥、一段と闇の深まる所にはこの寺院の本尊が鎮座ましましている。祀られている像は遠く虚空をみつめるように、まっすぐな視線を向けていた。

 縁側に出てみた。

 群生する杉の木が槍のように曇天を突き、まだ青いもみじは時折吹くわずかな風を受けて、幼子の手招きするがごとく揺れている。

 いつもなら参拝に来た人たちの姿が映りこむ風景。それを独り占めしている私がいた。

 心の器を空っぽにしてぼんやりと眺めていると、不意に視界の端を人影が横切った。

 振り向くと小さな女の子が境内に立っていた。どこから現れたのだろう。少女は傘もささず濡れるのもおかまいなしに暗い空をじっと見上げたり、水溜りに映る世界を不思議そうに覗き込んだりと、まるで身の回りのことすべてに興味津々といった様子である。

 しかし、いくら霧雨とはいえ冷やしては体に毒だ。

 私は少女に声をかけて招き寄せると、持参したタオルで少女の体を拭いてあげた。

 女の子は警戒する様子もなくされるがままになっていたが、タオルの感触が気に入ったのか拭き終わるとにっこり微笑んだ。

 少女の体が私の手からするりとすり抜ける。彼女は堂内に駆けていくと、自分の背丈よりも高い台に供えてある菓子に手を伸ばそうとした。

 私は慌てて制止し鞄の中をあさった。たしか飴玉の一つくらいは入っていたはずだ。

 探り当てた包みを開いて少女の口に入れると、先ほどにもまして満面の笑みを浮かべた。

 お供え物には手をつけないようにやんわりと注意する。少女はこくりとうなずいて、口の中で飴をころころと転がしながらまた縁側に出て行った。

 捉えどころのない子だ。

 何も喋らないし声も発さない。ただ、どこか神秘的な雰囲気を帯びていて、ただの子どもではないように思える……と、ここまで考え至って「もしや」と彼女の後を追った。

 この寺院に来る前、近くの村で聞いた噂話。

 ――山の寺院にはたまに「あやかし」が出るという。その姿は子どもであったり老人であったり、男の場合もあれば女の場合もある。ときには人間以外の姿をとることもあるらしい。そして、もしその存在に触れる機会があれば必ず善行を積むようにと教わった。

 その正体は本尊の化身であるかもしれないからだそうだ。

 信憑性のない噂話を一蹴するのは容易である。

 けれども本当にそんな「あやかし」がいるのなら一度会ってみたい。かすかな期待を胸に訪れたのだが、はたしてあの少女の正体やいかに。

 答えはおおよそ「噂どおり」だったのかもしれない。

 私が外に出たときには、もうすでに無邪気な女の子の姿はなかった。

 かわりにお供え物の夏みかんが二つ、無造作に床に置かれていた。

 ひょいと拾い上げて両手に一個ずつ持った。さっき女の子が小さな手で台から取ろうとしていたやつだ。

 元の場所に返そうかと思ったが、やっぱりいただいておくことにする。

 寺院から去り際、石段を上る途中すれ違った僧とふたたび顔を合わせる機会があった。

 経緯を話すと「お礼として置かれていた物なのでお持ちください」とのことだった。

 

 山を下り一息ついたころ、お礼の夏みかんをひとつ食べた。

 厚い皮をむき、一房口に放り込んで咀嚼すると途端に口いっぱいにみかんの酸味が広がった。

 

 それは、少女と出会ったときから夢うつつに取り残されたままになっていた私の意識を、一気に現実に引き戻すほどの酸っぱさだった。

 

説明
2011年10月19日作。偽らざる物語。
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掌編 オリジナル カメラ 写真 大人の童話 みかん 寺院   少女 

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