Crown_Of_The_Fly (前編)
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1.

擦り切れた建物の角に、ぐいぐいと靴底を擦り付けて、ボッシュはブーツの底についた泥を、乱暴にぬぐいとっていた。

その間も、薄汚れた建物と建物の隙間、路地の闇の中を見通すように、瞳を見据えている。

この闇にも慣れ始めた自分を、ボッシュは感じ取っていた。

どこにも闇があり、その中によどんでいるものは、いつも同じで、

それなら、ここ下層街もまた、ボッシュの手の中にある。

いつもの感じ、慣れた感覚が、背筋を駆け上がり、しびれたような麻痺が背中の中心から、末端へと広がっていく。

そうして、全身に広がり、やがて何も感じなくなる。

いまもまた、その無感覚を確かめるように、ボッシュは、革の手袋をぐいと引き上げた。

路地の奥の闇の黒から、古テントのようなぼろをまとった男が現れ、角にもたれたボッシュの横に立った。

「おい。そばに、立つな。」

ボッシュが、男のほうも見ずに、吐き捨てる。

「だいじょうぶ。誰にも見られていない。」

「そうじゃない。

話しかけるな、そばに立つなといってる。」

ボッシュが手袋をしたまま、左手首の入力端末をぱちりと同じ手で開くのを見て、男は無言で自分の手首に巻かれた端末機を手の外側へと向ける。

0.1秒。

ルビー色をした細い光がまっすぐ、男の手首から、ボッシュのそれへとつながる。

男は、そのままボッシュの横を通り過ぎ、また同じにおいのする別の路地へと吸い込まれていった。

その出来事はあまりにも一瞬で、もし偶然見ていた人間がいたとしても、すれちがったとしか、気づかないはずだ。

ボッシュは、消えた男のほうを見ることもなく、湿った路地の壁にもたれたまま、右手でレイピアをもてあそんでいた。

ボッシュがレイピアの柄をさやからほんのわずかに抜いたり、もどしたりするたび、カシン、カシンというかすかな音が、わずかな反響を残した。

その音にかぶさるように、聞き覚えのあるブーツの音が聞こえてきて、ボッシュは、ようやくはっと、顔を上げた。

ボッシュの立っている路地から大通りのほうに顔を向けると、こんな街でも大通りのほうはまぶしく見える。

もちろん、それは錯覚だ。

「あぁ、やっと見つけた。ボッシュ、隊長が呼んでる。」

「わかった。すぐに行く。」

リュウといっしょにいるときに感じる緊張感のなさは、こいつの間抜けさ以外の何ものでもない。

大通りからボッシュのいた路地を覗き込んだリュウの肩をつきとばすように、そのわきを通り、あわてて後ろにとびのいた姿を見ながら、ボッシュはそんなことを思う。

当の相棒は、気にしたふうもなく、ボッシュの横を、並んで歩き出した。

「ボッシュ1/64、リュウ1/8192、参りました。」

細い指先をブラインドの隙間に差し込んで、わずかに押し広げていたゼノが、ぱちんと元の通りに戻して、二人を振り返った。

ルーティーンというゆるみが少しも見られない緊張感が、逆にいつものゼノのやり方となっていた。

「突然、呼びだしてすまない。特別で、緊急の任務です。

ただし、あなたたちは、選ぶことができます。

任務を断ることもできますが、ここから出た後、任務の内容は忘れてもらいます。」

「コードはAですか。」

ボッシュが命令を待たずにずけずけと切り込むのを、リュウははらはらしながら見た。

「機密度は、トリプルA。つづけても?」

ゼノの口調は、いつもより、わずかにいらついている。

「――どうぞ。」

「ごく一部の上層部だけで動いていた件だが、情報収集に限界があると思い始めています。

そこで、サードの隊員の中から何人かに、情報を聞き出す特務を与えることにしました。

さっきも言ったように、極秘任務で、ファーストやセカンドはもちろん、サードの同僚にも気づかれてはなりません。」

同僚にも、と聞き、ボッシュとリュウの視線が思わずぶつかった。

「で、どんな任務なんですか、隊長。」

「数ヶ月前からレンジャー組織の内部情報が、外部の人間に漏らされている疑いがあります。

だが、内通者が誰なのか、まだ特定されてはいません。

それをさぐる任務です。」

「内偵、というわけですか。」

ボッシュが言葉にし、リュウが眉をひそめた。

味方である同僚を疑い、密告する裏切り行為。

いくら新米とはいえ、それが仲間たちにどれほど嫌われるか、知らないわけはない。

「まさか、新米のお前たちに内偵まで任せるつもりはない。

だが、特別捜査員が内偵をはじめるまでに、できるだけ情報を集めておきたいのです。

その下準備として、レンジャー内部の噂を集めてもらいます。

外部と必要外の接触をもっている者、突然金回りがよくなった者、

上層部には聞こえてこない話も、お前たちになら、届くこともあるでしょうから。

この先2週間の間に、何か耳に入れば報告をしてもらうが、何も聞こえてこなかったらそれでかまいません。」

「それでも……」 リュウが浮かない表情で、口を開こうとしたとき、ボッシュが割って入った。

「了解しました。」

「ボッシュ!」

リュウは驚いてボッシュの顔を見たが、ボッシュは無視している。

「…ボッシュ1/64、残りなさい。リュウ1/8192、退室なさい。

くれぐれも他言は禁止。」

「待ってください。俺も、やります。」

今度はボッシュが驚く番だった。

「リュウ1/8192、承諾する必要はないと。」

「わかってます。でもボッシュとはチームだから、俺もやります。」

「迷惑だ。かえって足手まといになる。」

ボッシュの容赦ない一言に、リュウは押し黙り、2人はにらみ合った。

「リュウ1/8192、自分の意思で決めなさい。やるのかどうか。」

「やります。」

「ならばよいでしょう。2週間後に報告を。」

ゼノが言い渡し、話を終わらせた。

隊長室を出るとすぐ、ボッシュが声を低めた。

「お前が、こんな任務に志望するなんてな。」

「まさか。まだ内通者がいるとも決まってない。

2週間、何事もなければ、いいんだろ。

何も、起こらないさ。」

「俺たちにはな、リュウ。」

奥歯にはさまったような言い方に、リュウはいらついた。

「俺たち全員、だよ。もちろん。」

リュウは、目の前の休憩室でだるそうに談話しているレンジャーたちを、見ながら言った。

「馬鹿だろ、リュウ。」

リュウの言葉の意味に勘付いたボッシュが、短く笑った。

「それで? どうするんだこれから?」

休憩室を出て、お決まりの下層街へとパトロールへ向かいながら、リュウが訊く。

「お前、本当に、頭だいじょうぶかよ?」

ボッシュが、いささかうんざりしたように、歩調を緩め、それに気づいたリュウが苦笑いして、両手を広げて見せた。

「…正直、さっぱり。だいたい、情報を集めるにも、聞き込みもできない。

第一、誰に情報を渡してる疑いなんだ? それさえもわからないんじゃ、さ。」

「もちろん、俺たちには伏せられているだけだ。

ま、察しはつくけどな。」

「どんなふうに?」

「さて、ね。テロリストか、犯罪組織か。」

「…まさか、反政府組織って…!?」

「それくらい根性のある内通者なら、面白いぜ。」

少し機嫌を直したボッシュが、広場の敷石の欠片を蹴飛ばすと、からからと音を立てて広報塔の脇をかすめ、広場の反対側まで転がった。

転がる石の行方を見ながら、ボッシュの口元が楽しそうに引き上げられるのを、リュウは気づく。

「なに?」

「は?」

「なにか思いついたんだろ?」

「お前には、教えない。」

「ちょ、待てよ。…ボッシュ。」

「うるさい。お前はお前で勝手にしろよ。じゃあな。」

すたすたと歩きだすボッシュの背中を、リュウは唖然とした思いで、見つめた。

すぐに駆け寄り、右手をボッシュの肩にかける。

「あぁ!? なんだよ。」

振り向いたボッシュは、肩に乗ったリュウの右手を、ありえないものを見る目で見ている。

「俺、パートナーだろ?違ったっけ。」

「足手まといの、な。」

「聞いてたろ。俺も同じ任務を受けた。」

「俺の知ったことじゃない。

これはいままでのような任務じゃないんだ。

わかってるか?

もしもレンジャー仲間に、内偵者とばれてみろ、

リュウ、もしもお前が犯人を追ってるだろ。

路地裏に追い詰められた犯人が反撃する。

だが、背後の同僚は見てみぬふりで、誰一人、内偵者の援護などしないさ。

この任務は、そういうことだ、

――お前、死ぬぜ?」

「そんなこと――」

ない、と言いきることができずに、リュウは視線をそらせた。

「――わかったら、降りろ。

隊長も、俺一人でじゅうぶんだとわかってる。」

「でも、それを言うなら、ボッシュだって同じ状況だろ。

なぜ俺にだけ、降りろ、なんて言うんだ。」

「俺がお前と同じわけないだろ、」

さすがにあきれた、という声音でボッシュが応じる。

リュウが戻した視線が、ボッシュのそれとかち合う。

「……そんな状況になったら、その場にいる全員、内通者の協力者とみなす。」

「ほら、だから。」

「なにが。」

「俺が、手をひけない、理由だよ!!」

「リュウ。警告はしたぜ。

この件で、お前をフォローはしない。

わかるか、例え路地裏で追い詰められててもだ。」

「ボッシュ!!」

ボッシュはリュウを一顧だにせず、歩き出した後は、もう振り返らない。

リュウは、一瞬だけ迷った末、路地に消えようとするボッシュの後を追った。

 

 

2.

路地を抜けた先にある下層街の壁につけられたドアをくぐり、しばらくつづいていた金属の通路が、力尽きたように終わったあと、岩盤がむき出しとなった暗いトンネルを、2人は無言で歩き続けた。

むっとするような下層街の熱気は、ここまでは追ってこず、空気はむしろ寒々と感じられる。

ねばりつくような湿り気のせいで、不快度は高い。

ぽつりぽつりとしか灯りのない暗いトンネルを、ざくざくと歩くボッシュのブーツの音を聞きながら、リュウは、複雑な気持ちで、その後ろを歩いていた。

今日の任務に命じられた集合場所が近づくと、やはり二人一組となって身をかがめ、無言で待機するサードレンジャーの姿が見えた。

ボッシュは、援護役の彼らを気にすることもなく、どんどんと通路の奥へと歩いていく。

さすがに、リュウが不安になり、前を歩くボッシュに追いついた。

「おい、ボッシュ…! 俺たちの待機場所は、もっと後方のはずじゃ…。」

「うるさい。変更したんだよ。…そうだ、お前、」

いきなりボッシュが振り返ったので、リュウはあわてて足を止める。

「なんだよ?」

「…今日は、置いていくぞ。嫌なら、ここで待機するんだな。」

突き放したボッシュの物言いに、自然とリュウの語気も荒くなる。

「どうせ援護しないんだろ? 俺にかまわず、先を急げよ。」

ボッシュはリュウの挑発を無視し、リュウが差し出した手のひらの方向へ、すたすたと歩き出す。

やがて、リュウにも、今日の任務の対象となる区画の全容が見えてきた。

現在、レンジャーたちが、数メートルおきに待機しているのは、下層街の下を流れる下水道に沿うように掘られた岩のトンネルの中だった。

むっとするような湿気となにより次第に強烈になるその匂い、喉の奥を刺激する臭気が、岩壁からしみ出てくるように、トンネルの中にも充満していた。

左手の壁を流れる水は、澄んだ地下水のそれでなく、にごった色をした汚水なのだろう。

どのみち、10メートルごとに待機するレンジャーたちの手にしたライトは控えめで、トンネルのほとんどが赤茶けた闇に溶けており、足もとの水がどんな色をしているのかはわからない。

けれど、足もとにすがりつくような粘りけから、その汚染度は、疑う余地もなかった。

闇の中にじっと身をかがめるレンジャーたちは、誰も皆汗ばんで、この任務にうんざりしている気配が沈黙の中に透けている。

かれこれ、そんなレンジャーたちを十数人、やり過ごしたころ、ようやく、ボッシュが目的地を見つけ、トンネルの先のわずかな明かりに駆け寄った。

あわてて、リュウがその後を追おうとしたが、ボッシュが振り返りもせずに、右手を横にのばし、リュウの行方をはばむ。

ボッシュはそのまま、すたすたと先頭のファーストたちのグループの中へと加わり、何事かを話しはじめた。

ボッシュの背中を見ながら、その鷹揚な「ついてくるな」のしぐさに、リュウはかっとするが、どうしようもない。

下水道につながるこのトンネルに、レンジャーたちが待機しているのは、今日、この下水道の中でドラッグの大きな取引が行われるとの情報が、もたらされたからだった。

とはいえ、リュウのような下っ端サードの、しかも新米レンジャーには、事件の詳細などは伝えられず、ただ、後方援護の待機場所を知らされるだけのことだ。

食べ物の腐った匂いと緊張からくる汗の匂いが充満したこのトンネルの暗闇に、じっとかがんで命令を待っているサードレンジャーには、犯人がどんな人間で、何人いて、どんな装備をしているのかさえ、知らされていない。

計画を知り、命令を下すのは、数人のファーストレンジャーの役割で、彼らが全権を掌握していた。

サードの下っ端は、ただ彼らの命じるままに、泥の中に伏せ、沈黙し、合図を待って、敵の前に飛び出すだけだ。

けれど、今日のボッシュは、本来ならリュウたちの待機地点だった場所を越えて、隊の先頭ともいえる地点まで、リュウをつれて来ていた。

ボッシュがファースト連中と話し込んでいる間、リュウはしかたなく、くるりと背を向け、レンジャーたちが監視している現場――トンネルの左手の壁の向こうにある下水道の方角へ、向き直った。

リュウの目の前に、円形のハンドルをぐるぐると回して、開くタイプのハッチがある。

いまは閉ざされたこの扉の向こうにある下水道は、下水の流れている部分だけでも十数メートルのはばがある巨大な水路だ。

水路の左右にある対岸は、トレーラーでもゆっくりと通れるくらいの広い通路があり、さらに段差を上がってまた通路、その上にまた通路といった、3段の段差となっている。

段差の高さは人の背丈の2倍はあり、段差を登るための赤さびた鉄梯子と、下水道から外へとつながるハッチが10メートルおきに設置されている。

そのハッチを開くと、いまリュウたちがいる岩のトンネルに抜け出せる構造だ。

そのとき、ピリピリと、かすかなしびれが、リュウの左手首に巻かれた計器から伝わってくる。

はっとして、リュウがトンネルを見ると、同じ合図を受けて、待機場所から飛び出した同僚たちが、リュウを押しのけ、次々と下水道へのハッチに取り付いて、扉を開き、その中へ踏み込み始めた。

あわてたリュウが、ボッシュのほうを振り返ったが、ファーストたちはもう動き出していて、相棒の姿はどこにも見えない。

トンネルにいたサードレンジャーたちが、水を跳ね上げ、下水道へと駆け込む乱れた足音が、岩にこだましている。

リュウは、レンジャーたちの波に目を凝らし、やっとトンネルのずっと先に、ちらりと消える金色を見つけた。

わずかの間でも相棒を見逃した自分に舌打ちし、リュウは、現場へ殺到する人の流れに逆らい、金色を追って、トンネルの先へと走った。

幸い、数十メートル先のハッチを開けて、その先に飛び込んだ後姿を、ちらりと目に捉えた。

ファーストたちは、いまやリュウのずっと背後の下流にいる。

ボッシュはひとりで、トンネルを進み、単身、下水道の先へと飛び込んでいったことになる。

「ボッシュ!!」

リュウは、背後のレンジャーたちの動向にはかまわずに、まっすぐに相棒の後を追った。

開いたハッチから、下水道へと飛び込むと、すぐに、あのトンネルの中さえ、天国だったことを思い知らされた。

チューブのような形をした、この空間全体が、濃いガスのような臭気につつまれて、流れのない水面を照らす赤黒い灯りさえ、もやがかかったようだ。

下流のほうから、大勢の人間が駆ける足音と、怒号がひびいてくる。

リュウは我に返り、強烈な臭いに目をしばたたかせて、ジャケットのすそをひっぱり直すと、首を回して、相棒を捜した。

見上げると、上方のはしごをのぼり終え、最上段の通路を走るボッシュの背中があった。

迷わず、リュウは、手近のはしごに飛びつき、ボッシュの後を追って、上へと向かう。

リュウが最上段の通路へと着いた頃には、ボッシュは、泥のような色をした水面を横切って、最上段に渡された高い橋を渡り始めていた。

さっき、リュウたちのいた最下段の通路を、犯人を追って、レンジャーたちは駆けていて、下流からこちらへ近づいてくる足音が、さらに大きくなる。

リュウは、通路から橋へと飛びつき、ボッシュが真下にある通路を覗き込んでいる地点まで、あと一歩のところまで来た。

「おい、逃がすな!!」

「回り込め!!」

ちょうどそのとき、ゴーグルで顔を隠した数人の男たちが、待機していたレンジャーに追われて、橋の真下へと走りこんできた。

リュウが、ボッシュの隣までたどり着いた瞬間、ボッシュは、あっという間に、橋から真下にある最下段の通路へと飛び降りていた。

男たちと、それを追うボッシュの姿が、橋の下へと隠れ、あわててリュウは、橋の反対側へと取り付いた。

最下段の通路まで、数メートルの高さがある。

リュウは、息をのみ、一気に、欄干を蹴った。

予想したよりも早く、硬い通路が目前に迫り、リュウは、肩から地面へと転がり落ちた。

勢いを殺しきれずに、無様になにかにぶつかって、ようやく体が止まる。

手をついて身を起こし、地面に横たわっていたそのぐんなりとしたものが、人の体だと知った。

リュウが見た先、影となった橋の下に、残像が見えそうほどの流麗な動きで、レイピアを振るう相棒の姿が見えた。

ボッシュは、声さえも出さずに、駆け込んだ男たちを、斬っていた。

次々と折り重なる男たちの体の向こうに、黒い粘着テープが巻かれた金属のアタッシェケースが立っていた。

「ボッシュ!!」

そう声をかけるのが、精一杯だった。

どのみち、もう、間に合わない。

リュウの見ている先で、最後に立っていた男がどさりと倒れ、仲間の体の上に、折り重なっていた。

リュウはもう急がずに立ち上がると、橋の下の影の中にゆっくりと歩み寄った。

右手のグローブをはずすと、倒れている男たちのそばにひざまずき、ひとりひとり首筋に指先を押し当ててみる。

無駄だと知りつつも、そうせずにはいられなかった。

ボッシュは、もうなにもかも興味を失った風で、橋の影の中に銀色に鈍く光る金属のアタッシェケースの上部を軽く蹴ってみた後、その上に足を乗せ、取っ手のあたりを覗き込んでいる。

ひとつひとつ確かめつつ、ゆっくりとボッシュのいるほうへ、リュウが近づいてきた頃、ボッシュの向こう側に、ようやく犯人たちを追ってきたファースト・レンジャーたち数人が駆けつけてきた。

「おう。派手にやったな、ボッシュ。」

「手向かいしてきた。このまま逃がすわけにもいかなくて。」

「ま、やっちまったもんは仕方ないや。それは?」

「戦利品だ。」

ボッシュは、地面に立ったアタッシェケースにブーツを乗せたまま前後に揺すり、弾みをつけて、手前へ引き倒した。

「面倒だ。割っちまえ。」

ケースを取り囲んだファーストたちの一人が、自分の剣を下向きに持ち、黒いテープの巻かれた金属ケースの鍵をがんがんとついた。

ひざに手をつき、ファーストたち全員が、覗きこむ中、金属のケースはなんなく開いた。

かすれた口笛が低く響く。

「見ろよ、大当たり。」

「こりゃ、相当ありそうだな。どのくらいだ?」

「純度にもよるが、数億は下らないね。」

「あーこれだけありゃ…、全部売っぱらって、高飛びすりゃあ…」

「お前、その前に、ケツのでかい女につぎ込むのがオチだろ?」

笑い声で、ファーストたちの輪が乱れ、リュウのところからも、ファーストたちが取り囲むケースの中に、白い袋がぎっしりと詰まっているのが見えた。

ボッシュは、上機嫌のファーストたちの輪の中にいながら、その冗談には加わらず、黙って目を細めている。

リュウの視線を感じたのか、一瞬だけ、視線があったような気がしたけれど、あまりにもわずかの間のことで、確かにはわからない。

ファーストのひとりが、大きな声をはりあげた。

「ボッシュ、この戦利品は、お前が見つけたのか?」

「さぁ。最初に見つけたのは、ここに駆け込んできたファーストの誰かかもな?」

「お前、意外と話がわかるな。」

ボッシュは、両手を広げて、答える。

「で、こいつらは俺が倒した。…それは確かだろ?」

「あぁ、そうさ。そりゃ、お前の手柄で間違いはない。

これだけの戦利品がありゃ、それくらいは、大目に見るさ。上出来だ。」

やがて、ぴりぴりと空気を裂くような、警笛の音が、警戒体制の解除を告げた。

粘りつくような緊張に凝り固まっていた下っ端レンジャーたちが、せまい通路の中で、やれやれと身を起こすのが、目に浮かぶようだ。

ずっと遠くから、待機していたレンジャーたちが集合の号令をかける声が聞こえてくる。

ファーストのひとりが、初めてリュウの存在に気がついたように、いきなり振り返った。

「おい、サード。掃除しとけ。」

転がった死体の脇に立ったリュウが、姿勢を正して、敬礼を返している間、ドラッグがぎっしりと詰まった重いケースをがたんがたんと引きずって、ファーストたちは、意気揚々と下水溝の脇の通路を、戻っていく。

入れ替わりに、後方待機していたサードレンジャーたちがこちらへ駆けてくるのが、ちらちらと見えた。

戦利品とともに、凱旋するファーストたちの群れに混じって、暗い橋の下の影から、向こう側の明るい場所へと出て行くボッシュの背中を、リュウは、敬礼のかまえを解かないままで、見送った。

ボッシュは、振り返らない。

リュウは、ふう、と大きく息を吐いて、あたりを見回し、足もとに広がりだした赤い水を踏まないように、一、二歩と、後ろに下がった。

 

 

3.

夜を迎えた下層街の一角は、昼間よりもいっそう、まぶしく、にぎやかになる。

とくに、安酒を並べた酒場は、外を照らす人工太陽と呼ばれる灯りよりも、魅力的な色彩で、ステージやカウンターを下から照らし出している。

ずらりと並べられた怪しい色合いのボトルや、年齢不詳のダンサーたちを彩り、輝かせ、できるかぎり値段を吊り上げようと、ぴかぴかと光らせる。

そのまぶしさの影になって、客席の表情は、いっさい目立たないようにする配慮も忘れない。

路地の暗さから店内に足を踏み入れるとき、リュウは、蛍光オレンジに光るジャケットを腕から抜き、裏返しのまま、腕にかかえた。

「よう、リュウか?」

にぎやかな音楽と明るい声音に導かれて、店を入って右手にあるカウンターへ、リュウはまっすぐに近づいた。

カウンターの中に立ち、手元から明るいグリーンの光に照らされた若い男が、くったくのない表情を見せている。

テーブル席の客たちは、リュウに関心を寄せることもなく、自分たちの会話に夢中だ。

耳を覆うようなビートの中、もう15分はいないと、リュウの耳には客の会話は聞こえないだろう。

カウンターの男が、自分の前のカウンター席を、くたくたのおしぼりでさっと拭き、ゴム製のコースターをそこに置いた。

「仕事、もう上がったんだ。いいかな?」

「払うもん払えば、お前だって客さ。なににする?」

「アッパーなの、たのむよ。きついやつ。」

「一丁前に言うね、ガキが。いつから、オレにそんな口聞けるようになったんだ?」

短く刈り上げた黒い髪の男は、にい、っと笑って見せた。

褐色の目が、笑うときと目配せするときだけは、細くなる。

いまもある2つのものが、リュウの記憶にある限り、ずっと変わっていなかった。

ほそっこいリュウを覆い隠す、がっしりと鍛えた背中と、振り向いた笑顔が、6年前からずっと変わらない。

変わったのは髪形で、6年前は、髪が長かったけれど、あの日以来、ずっと髪を短くしている。

「ダニー、今日は客あつかいって、自分でいったんだろ。親父さんはいないの?」

「買出し。ここんとこ、ずっとここは任されてる。」

リュウと同じ施設だったダニーが、この店で働き始めたのは、6年前のある一件がきっかけだった。

当時、15歳だったダニーは、リュウたちの施設の少年たちのリーダーで、支給では足りない食料や金銭を補充するため、あちこちから盗み出すのが常だった。

だから、最初は、それも事件というほどのことはない、いつものことだったのだ。

あそこはよせといわれていたのに、この店に数人で盗みに入ろうと言ったのも、最年長で度胸の据わったダニーだ。

まだ夜も明けない早朝5時ごろ、ダニーら年かさの4人が裏口のガラスを割って入り、まだみそっかすだったリュウは裏口の前の見張りに立たされた。

その日は、いつもと違ってた。

4人が入ってすぐに、店の中から、男の怒鳴り声と、なにかが壊れる大きな音がした。

リュウが、裏口の扉の前でおろおろしているうちに、真っ暗な店内から、こけつまろびつ、先に入った3人が飛び出してきた。

「どうしたの、」とリュウが声をかけても、振り返りもせずに、全速力で路地を逃げていく。

リーダーのダニーがまだ中に残っていると思ったリュウが、扉の割れたガラスから中のようすを覗きこもうとすると、見覚えのある背中が、内側からそこをふさいだ。

(逃げろ)という囁きに押されて、はじかれたように、リュウは、後ろも見ずに、駆け出したのだ。

涙やら鼻水でぐしゃぐしゃのまま、施設に帰り着いたあとも、トイレに閉じこもって、震えながら先に逃げた3人と言い合った。

捕まったダニーは、もう帰ってこない、と。

だが、全員の一致した予想に反して、ダニーは3日後に戻ってきた。

足はひきずり、顔は腫れ、声は涸れ、長かった髪は不器用に剃られて、あちこち血がにじんでいたけれど、ともかく生きていた。

あの日、何があったのか、全員が聞き出そうとしたけれど、真相を知るのは、ダニーとこの店のマスターだけだった。

翌年、16で施設を出たダニーが、この店で働き出してからも、ダニーは絶対に口を割らなかった。

確かだったのは、この店に押し入った仲間が誰か、ダニーは、マスターにも白状しなかったこと。

そんなわけで、リュウは、いまでも、5つ年上のダニーに、かなわないような思いと、兄弟のような尊敬を抱いている。

ダニーに何があったのかは、いまでも謎だ。

本当のことを言えば、6年後のいま、ここのマスターを親父と呼ぶダニーが、リュウは少し羨ましかったりもするのだけれど。

「しばらくこっちに顔出してなかったからさ、親父さん何て言ってた?」

「そりゃあ、な。店には俺もいるのに、素通りじゃ水臭かろ?」

ダニーは、グラスに緑色の液体を3分の一注ぎ込み、銀色の蛇口をひっぱって、残りをソーダで満たした。

リュウは、わずかに目をそらし、一度下ろした腰を、もぞもぞと動かした。

「その、レンジャーが来たんじゃ、いろいろ店に差し支えるかと思ってさ。」

カウンターに置くグラスが、こらきれずに、ぐらぐらと揺れた。

「…新米のガキが、…もういっぱしのレンジャー気取りって、…笑ってたぜ、…親父も。」

「一生笑ってなよ。気を使ったのが馬鹿だった。」

「そりゃ、間違いないぜ、リュウ。半年分の給料を賭けてもいい。

…いまの自分の顔、見てみるか?」

ダニーが、カウンターの背後にある金属の壁を、あごで指ししめした。

バーテンが後ろを向いているときも、店の客がごまかさないかを見るために、いつもぴかぴかに磨き上げてあるのだ。

「見なくても、わかってる。情けない顔してるんだろ。」

リュウがすねて、丸めた上着を横の席に投げ出し、グラスの中身を流し込むのを、ダニーは楽しそうに見つめた。

「めずらしく弱音を吐きにきたのも、当ててやるか、

あの、エリートのお嬢に手を焼いてる、そうだろ。ビンゴ!」

「手を焼くなんて、そんな、生易しいよ…!

今日だって、現場がどんな有様だったか、……。」

リュウは、ごろごろと転がる犯人の死体を思い出して、ため息をついた。

何回やっても、死体の処理・運搬作業には、慣れることができない。

独特の匂いが、鼻について、いくら手を洗っても、落ちない気がするのだ。

「――客が減るから、困るなぁ。」

リュウは、深刻さのない、ダニーの軽口に、笑ってしまう。

「…それに、噂じゃ、相当。」

「なに…? いや、いい。今日は聞きたくない。」

「それがいいかもな、リュウ、

目利きに関しちゃ、そりゃお前よりずっと年期が入ってる。

人間は見かけ通りじゃないんだ。

たとえば、口にする仕事とやってる商売が全然違う客、

見かけと匂いが全然違う客。

ここにいるのは、そんな奴ばかりだ。

忘れんな、人間も、物事も、絶対に、見かけ通りじゃない…。」

ダニーが、ドアを開けて新しく入ってきた客に、軽く手を振った。

とにかく問答無用で、犯人を生きて捕まえようとしたためしがない、とは、さすがに言えるわけはない。

リュウは黙って、相棒の所業を、無理やり喉元へと流し込んだ。

「そういや、親父が言ってた。この前も……。」

「この前……?」 リュウが繰り返す。

「――さて、なんだろうなリュウ? ……あぁ、いらっしゃい。」

少しトーンの上がった、客向けのダニーの声に押されて、リュウが、背後を振り返った。

天井から吊るされたライトを受けて、目ににじむようなしろがねの髪が、いつもまっさきにリュウになにかを告げてくる。

酒場の壁にとりつけられた安っぽい赤や緑のネオンの色を映し、毒々しい色にいくら縁取られても、髪はもとの光を失っていない。

部屋の掃除のときに、落ちていた金色の髪を、一本手にとってかざしてみたことがある。

透明で、外からの光を通すように思っていた髪の毛は、それ自身が、芯から光っているように見えた。

濃い色の眼と髪をもったリュウには、それが不思議でならなかった。

髪だけではない。感情によって、底の色が変わるように見える眼の色も、リュウたちと白さが違うように見える肌や、その下にある細いけれどもぴんとはりつめた筋肉も長くて細い指も、リュウにとっては、なにもかもボッシュと会うまでは見たことのない、何かだった。

だから、リュウは、いつもそれから目が離せないのだと思う。

サードレンジャーの制服を脱ぎ、光沢のあるスタンドカラーのついた、ゆるいセーターに着替えたボッシュは、絶句するリュウの隣の椅子の背を回し、背の高いスツールに、浅く腰掛けた。

「何にします?」

「コン・ガス。あ、と、瓶のままでいい。」

「ただいま。」

ダニーは、高いカウンターの後ろに身をかがめ、青緑色の瓶を取り出すと、人差し指と親指の間にはさみ、薬指と小指の間に足の高いグラスをはさんだまま、器用にシュポンと栓を抜き、その両方をボッシュの前に置いた。

ボッシュは、そばに置かれたグラスに見向きもせず、瓶だけをつまみ上げた。

仕事用の分厚いグローブよりもずっと薄い、柔らかく茶色い皮でできた手袋をぴたりと身につけている。

「ボッシュ。いったい、こんなとこでなにしてる?」

「お前がいるからだろ。さがしたぜ、話がある。」

リュウの記憶にある限り、ボッシュが下層街の酒場にプライベートで来たことなど一度も無い。

カウンターの中で背を向けたダニーのにやにや笑いが、反対側の鏡に映っているのも気に食わない。

「話って…、ひょっとして今日のことか?」

「あ? なんだ、お前、まだ気にしてるのかよ。」

前を向いていたボッシュが、リュウのほうをみて、いたずらっぽい目で笑った。

リュウは、毒気を抜かれたような気分で、ボッシュを見返した。

「じゃあ、今日言ったアレは、本気じゃなかったんだな?」

「アレ?」

「俺の援護はしないとか、手をひけとか、そういうこと、言ってたろ!」

「援護は、必要なかったろ。俺は、ずっとお前の前にいたんだ。」

「そりゃそうだ。わざと橋から飛び降りて、俺を引き離したんだから。」

「うるさい、あれは俺の獲物だったんだぜ、文句あるかよ。」

リュウは、言葉を飲み込んだ。

確かに倒した分は、ボッシュの点数に加算される。

出世を急いでもいないリュウは、別にそのことに文句があるわけではない。

「じゃあ、手をひけって言ったのは? それは撤回するか?」

「そのことで、話があると言ってるんだ。最初から、聞けよリュウ。」

ボッシュは、金属のカウンターを蹴って、くるりとリュウの方に、スツールを向けた。

ブーツを履いた右足を左の太腿の上に乗せ、カウンターに頬杖をつく。

「今日の狩りで、いいことを思いついたんだ。

手を貸せよ、リュウ。やつらに仕掛けるぜ?」

「仕掛けるって、まさか、相手は……。」

内偵で仕掛けるといえば、罠を張る相手は、情報を流しているレンジャーか、情報を欲しがっている相手か、どちらかだろう。

どちらにせよ、こんなところで、相手の名前を問い詰めるわけにもいかない。

リュウは、ボッシュの襟元に伸ばしかけた手を、ようやく押しとどめた。

「相手は、容疑者に決まってる。それとも、お前だけ降りるか。いいんだぜ?」

瓶を片手に持ちニヤつくボッシュに、後で覚えてろと胸に毒づきながら、リュウは笑顔で応じた。

「降りる? ふざけんなボッシュ。」

「途中からじゃ、手は退けないぜリュウ。」

「最初から、そう言ってるだろ!」

後ろを向いたダニーの背中が小刻みに揺れているのを見て、リュウは歯噛みする。

ボッシュは、手にしていた瓶を、リュウの前に置き、リュウの空けた瓶と取り替える。

リュウは、ボッシュが一口も飲んでいないことに気づいていた。

「レンジャー側の容疑者は、3人いたな。今日、いい餌が手に入ったから、あれを使う。」

「あの、金属ケースいっぱいのドラッグ?」

「あれの輸送計画を提案したんだ。

20億のドラッグを、レンジャー基地からバイオ公社まで輸送することになった。

計画そのものは、ただの輸送だ。

けど、やつら、うまく取り戻せるなら、その機会をのがすわけがない。

だから、その輸送中に、容疑者の3人、別々の罠を仕掛ければ――。」

「同時に罠を仕掛けて、3人のうち、誰が裏切り者か、一気に片をつけるってこと?」

「そのほうがすっきりするだろ、お前も。」

リュウは、ボッシュがよこした瓶に口をつけた。1口飲み、ぐいと口をぬぐった。

「もし、誰も裏切り者がいなかったらどうする? 何も起こらないだろ。」

「そうだな。そのときは、お前の言うこと、何でも聞いてやってもいい。」

「…そんなこと、絶対ありえないと思ってるんだろ。」

「あぁ。そんなことはありえない。」

いつの間にか、カウンターからダニーの姿は消え、リュウは隣にボッシュがいることを強烈に意識した。

カウンターの鏡の中に、自分と並ぶ相棒の姿を見たからかもしれない。

「わかった。協力するよ。約束、忘れるなよ。」

ボッシュは、リュウの返事を聞くやいなや、勢いよくスツールを蹴って、立ち上がった。

「――いいぜ。話の続きは、部屋に帰ってからだ。」

 

 

真っ暗な部屋に帰ると、ボッシュは、フロアーライトを見向きもせず、まっすぐに部屋の隅の黒い冷蔵庫へ向かった。

ダニーの店で、かなりハイスピードで飲んでいたリュウは、外界の動きがいつもよりゆっくりと見えることに気づき、部屋の居間にあたる共有スペース―といっても、数メートル四方でしかないが―の壁際を占拠している、クロームの足のソファーに転がり込んだ。

黒い革張りの丸いクッションをつなぎ合わせた形の背もたれにしなだれかかって、ボッシュがわざわざ冷やしておいたグラスと上層街から持ち込んだミネラルウォーターの瓶を冷蔵庫から取り出して、ソファーの前の低いテーブルの上に置くのを見つめる。

さっき、ダニーの店で注文したのと、同じ瓶だ。

下層街では手に入らない新鮮な植物の実を、片手にもったナイフで器用に切り取ったボッシュが、白く曇ったグラスに落とし込み、青緑の瓶を傾けると、小さな泡のぶつかり、はじける音が、リュウのところまで、聞こえてきた。

ソファーの真向かいの壁一面は、巨大な画面となっている。

テーブルの前にもうひとつ置かれた、白黒の革でできた一人がけのチェアにボッシュが腰掛けると、まもなく、低い起動音とともに、画面を横切る白い線が現れた。

「説明のつづきだ。いいか。」

「どうぞ。」

白い線は、太くなったかと思うと、幾本にも分かれて、縦に伸びるグリッドになり、画面全体を四角く区切ると、その面の下から薄いグレイのビルの像が生えてくる。

おそらく天井に取り付けた監視カメラで真上から撮ったものだろう、おなじみの下層街の風景が、壁からジオラマのように突き出して、それでもよく見ると道路で動く人々や、家や工場から立ち上る水蒸気の煙がたなびいているのが見えるほどだった。

「計画の始点は、レンジャー基地。ここから、金属のアタッシェケースに入れたドラッグを運び出す。

分析のためバイオ公社へ輸送するという触れ込みで、終点は、バイオ公社ビル。」

下層街の外れにあるレンジャー基地に黄色い点が、街の真ん中辺りにそびえ立つバイオ公社ビルに白い点が重なった。

まっすぐに結べば、輸送の距離は、数キロもない。

「で、内通の容疑者は3人なんだろ。」

「上層部は、そこまで絞り込んでる。」

「その3人にどうやって罠を仕掛けるんだ?」

「まぁ、待てよ。」

画面の下層街が見る見る影を失い、色を失って、建物の枠組みだけでできたフレームの街になる。

と同時に、グリッドが傾きを変えて、下層街のビル群を真横から見た形となった。

始点となる黄色い点から、赤い3本の線が伸び、のたくりながらそれぞれ終点の白い点を目指し始めた。

一本の線は、下層街の建物のはるか地下をもぐってまっすぐに伸び、真ん中の線は下層街のビルの間をかいくぐり、もう一本はといえば、街の天井を突き抜けて、地図もなにもない余白の部分を這っていた。

「3人の容疑者に、同時に3つのルートで、ドラッグを運ばせる。

赤い線がそのルートだ。」

「1つ目のルートは地下経由、2つ目のルートは下層街を通り、3つ目は…下層街より上を通ってる。」

「1人目の容疑者は、アンガス1/512、こいつは下層街の地下を通るルート。

2人目が、バニッシュ1/512、下層街のはずれのルートを通る。

3人目が、カミングス1/512、下層街より上の、中層を通るルートで迂回する。」

3本の赤い線は、ほぼ同時に、終着点である白い点へとたどり着き、ルート全体がゆっくりと明滅している。

「3人の容疑者はそれぞれ、ほかはダミーで、自分が本物を運んでいると思ってる。

だが、本当は、全部にダミーが入ってるってわけだ。」

「アンガス、バニッシュ、カミングス…全員ファーストだね。」

リュウは、知った相手がいないことに、内心ほっとした。

「いいか、これは内通者へのブービー・トラップだ。

押収されたのは桁違いの額だし、今日の件で下っ端を殺されて、ドラッグ組織の連中は頭にきてる。

取り返すチャンスがあれば、見逃さないと上層部は見ている。」

「いくら内通者がいたって、レンジャー施設内で盗むのはさすがに危険だろうしね。

バイオ公社に運ばれた後じゃ、おいそれと手は出せないし。

でも、輸送途中に、内通者が組織の連中に手渡すの?」

「さぁ、強奪するか、すりかえるか、その辺は連中が考えるさ。」

「そこが、お楽しみなんだろ。」

リュウは、テーブルにあった瓶に手を伸ばし、額に当てた。

強い飲み物をダニーに頼んだせいで、まだ、少しクラクラする。

「で、俺たちはどうする?」

「二手に分かれる。

リュウ、お前は、地下ルートのアンガスを、俺は、下層街を通るルートのバニッシュをマークする。」

「見張るだけ?」

「そ。俺たちは隠れて追尾し、輸送中、何が起ころうと手を出さず、経過だけを報告する。

内通者が誰かを知ることが最重要だ。

ダミーのドラッグが奪われようと放っておけばいい。

――わけないだろ、リュウ。」

「3人目のカミングスの追尾は?」

「いま、内偵を進めているファーストが、カミングスを担当する。

出発は、明後日、真夜中の午前0時。

くれぐれも輸送中の容疑者にさとられるなよ?」

「忘れんなボッシュ、3ルートとも無事に輸送がすめば、全員の疑いは晴れる。

そうすれば、誰も逮捕されず、事件は終わるんだろ?」

「そう…だな、一応の疑いは晴れることになるさ。」

ボッシュが、唐突に画面を消し、淡い暗闇の中でゆるやかに足を組みかえる。

「だからリュウ、輸送中、容疑者の持つドラッグのケースから、絶対に目を離すな。

容疑者を逃したら、お前をそれに詰めこんで、隊長室へ送ることになってる。」

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4.

浅い眠りの果てにやってきた次の朝、リュウは、案の定ひどい頭痛とともに目覚めた。

すっかり身支度を整えた相棒のブーツが、目の前の机に乗せられているのを、最悪の気分で見守る。

「〜〜〜。」

「オラ、ぐずぐずすんなよ、ローディ!」

「…いま、ローディって、言った?」

「ほかに誰がいるんだよ。それとももっと大声で呼ぶか?」

「…いや、いい。あー効き過ぎてるよ、ダニーのやつ。」

ボッシュが体をぐいと曲げて、二日酔いのリュウを覗き込む。

グリーンのスーツの補色となった、へんな形の光がちかちかと目の前に見える。

なんとか身を起こしたリュウは、普段より五割ましで重く感じる自分の頭を持ち上げるように、いつもより高く髪をしばりあげた。

遅番で、リュウは、救われた。

二人が今日の任務で出かけるパトロールには、下層街の外側にある換気施設が予定されている。

任務内容を確認し、支給される武器を保管庫から受け取って、リュウとボッシュは、下層街全体に空気を送っている巨大な換気施設へと向かった。

下層街の壁面から人間が通れるほどの太さの白い排気パイプがとび出し、岩にはりつくようにのたくった末に、破棄された古い工場のように見える換気施設へと、2人を道案内してくれる。

規模さえ馬鹿でかいものの、老朽化した施設には、人間はいない。

そのため、ときどき、レンジャーが見回りに回される。

換気装置が不具合を起こすと、官庁街へ警報が伝えられるシステムになっているらしいが、下層街ではそんなことはしょっちゅう起こっていて、本当にきちんと管理されているのかさえ、リュウにはわからなかった。

パスワードを入力し、スライドしたドアを入ると、誰もがすぐに首がいたくなるほど、上を見上げる。

入り口からは想像できなかった巨大な空間には、太い換気パイプが何本も集まって、ビルほどの大きさの換気装置へとつながっていた。

まるで、白く大きなワームが何匹ものたくり暴れた挙句、ひとつに束ねられて、箱の中に頭をつっこんでいる、といったようすだった。

ほとんどは身震いするように震え、中を通る風の音を立てていたが、中にはぴくりとも動いていないパイプもある。

「下層はいつも空気がひどいって評判だけど、ここのせいかな。」

「さて、ね。こんな旧式じゃ、性能はしれてるけどな。」

「なにか詰まってないといいけど…。」

パイプの中を風が通る轟々とした音にかき消されないよう、声を張り上げる。

太いパイプの下をくぐり抜けて、2人は、施設の最奥まで、パトロールを続けた。

作業員も監視員の姿も見えず、幸いなことに野良ディクが入り込んでいるようすもない。

「野良ディクもなし。大丈夫みたいだね。」

「ここはセキュリティが効いてるんだ。一応下層街のライフラインに当たるからな。

換気装置は旧式でも、監視は完全に自動制御だ。」

ボッシュが、あごをさす方向に、ブラックボックスがあり、リュウの目にも前面の黒いガラスの奥に光るCCDの赤い光が見えた。

「それで、人がいないのか。」

「そういうこと。ま、今日の本番は、夜中過ぎからだ。適当にやろうぜ。」

ボッシュが、沈黙している巨大なパイプのひとつに登り、あぐらをかいて座り込むと、腰のパウチからコンピュータの端末を取り出して、操作し始めた。

リュウも、用心のため手にしていた剣を、パイプの上に先に乗せると、驚くほど身軽にパイプに登りつき、そのまま倒れこむように、ボッシュの横に腰を下ろした。

絶対に、昨日のアレが残っている。

体の反応がよすぎるし、その後の頭痛といったら、金属のパイプをかなてこで殴ってるみたいだ。

リュウは、後ろに手をつき、天井を見上げながら、首の後ろをさすった。

ここから見ると、いくつものパイプが四方八方から伸びてきて、部屋の奥のほうへ吸い込まれていく風景は、かなり迫力があった。

空のパイプの中を、太い流れとなって、風が押し寄せる音に、リュウは、どこか懐かしさを感じた。

「…そういえば、この音。」

「あ?」

「昔に聞いた気がすると思ったけど、わかったよ。

俺がいた施設のそばを、排気パイプが通ってたんだ。

昼間は気づかないんだけど、夜になって、ベッドに入ると、この風の音が聞こえてた。」

「ふーん、」

ボッシュは、興味なさげに、手元の端末になにかを打ち込みつづける。

小さなスクリーンに赤い色が伸びては消えていき、そのそばを物凄い速度で数字の羅列が移動している。

何をしているのか、何が表示されているのか、リュウにはわからない。

そのことを、ボッシュも知っている。

けれど、画面の内容が、ボッシュにどんな気持ちを引き起こしたかが、そばで見ているリュウにはわかる。

そのことに、ボッシュは、気づいているだろうか、とリュウは考えた。

チェックをしつづけるボッシュの横顔に向かって、リュウは話し続ける。

「いまのレンジャールームより、少し狭いくらいの部屋に、ベッドが6つ並んでてさ。

部屋の一番奥が俺とジンジャーのベッド、部屋の入り口側がフレッドとヘドリック、

真ん中のベッド二つ分を、ダニーが占領してたんだ。」

「昨日のやつか。ダニー1/4098だっけ、あのバーテンダー…」

「そう。5つ上だから俺が10歳のころまでかな、ダニーが隣で寝てた。

ある晩に、どうしても、その風の音が気になって眠れなくてさ。

寝返りをうったら、やっぱり起きてたダニーと目があった。

『あの音、好きじゃないんだ。』って小声で言ったら、ダニーが

『でも、あの音は風がどっかに抜け出してんだぜ。

そう思えば、悪くないだろリュウ。』って言ったんだ。」

「……で?」

「え?」

「俺に下らない話をする理由は?」

「別に理由は無いけど……。

でも、それから、あの音がそんなに嫌じゃなくなったって話。」

「まさか、仲間は裏切らないって、その頃から信じてるのかよ?」

「さぁ? でも心細い夜中に目が覚めて、隣にいる誰かと目が合うのは、悪くないよ。」

ボッシュが手を止めて、やっとリュウの方を見た。

リュウも、立てた膝に腕を乗せて、ボッシュの方を見ている。

底の無い漆黒の色と、外の光をはね返す青緑色の瞳が、お互いの色を映して、一瞬混じりあう。

2人は、少しだけ、距離を縮めて、わずかに触れ合った。

ボッシュの脇に置かれたレイピアが、何かに触れて、かたんと小さく鳴った。

「……俺には、理由があるんだ。」

「ボッシュ?」

「どんなことをしても、

俺は、自分が誰か、証明しなきゃならないんだ。

そのためには手段なんか選んじゃいられない、リュウ――。」

ようやく動作を始めたのか、二人の乗ったパイプからも、轟々と風の音が響いてきた。

「じゃあ、たまにさ、こっちを見れば?

嫌な音が聞こえたときとか、

俺は起きてるよ、ボッシュ。」

 

 

 

 下層街を歩いているだけで否応なしに出くわす喧嘩や窃盗事件に呼び出されることも無く、また街から外れた場所の見回りにつきものの凶暴な野良ディクに悩まされることも無く、ボッシュとリュウは、敵も味方もいない場所で、夕刻まで過ごすことができた。

勿論、何もかも、これからだ。

今日の本当の任務は、夜から始まる。

ターゲット3人が同時に出発する真夜中に、リュウとボッシュは、本部にふたたび集合することになっている。

リュウは、それまでの間、例のダニーの店へ無駄話をしに行くと言い、ボッシュは、下層街の路地で別れた。

ボッシュは、ダニーの店に、もう用は無かったからだ。

作戦では、ルートの異なる3人はそれぞれ接触を避けて、基地を出発する。

追尾するターゲットの違うリュウとボッシュのふたりも、この先は単独行動だ。

容疑者に疑われないよう、本部でもリュウとボッシュは、スタート地点の本部でも顔をあわせないことに決めていた。

だから、次にリュウと合流するのは、輸送の終着点であるバイオ公社でということになるだろう。

ボッシュは、合流時間までの間、一度シャワーを浴びようと、宿舎の部屋に戻ることにした。

壁面のスクリーンに、今夜の作戦のシミュレーションを投影させながら、ソファの上に、脱いだブーツ、レンジャースーツ、薄いセーター、さらに革のプロテクターを次々に投げ出して、部屋の奥にあるせまいシャワー室に入る。

薄暗い部屋の中で画面を横切る赤や緑のグリッドが、シャワー室の扉にある小さな明かり取りのこちら側にまで、次々と幾何学模様を走らせている。

いつも温度設定のうまくいかないぬるいシャワーを浴びながら、ボッシュは、リュウに単独任務を任せる気持ちになったことを、どこかで不思議に思っていた。

3ヶ月前なら、ローディに任せようなどと、思っただろうか。

きっと足手まといだと置いていくか、使い走り程度にしか戦力を期待しなかったのではなかったか。

それが、いまは、なぜか、どこかで、リュウに任せられると思う気持ちがある。

もちろん、あれはローディだから、すべてを信用したわけではない。

それでも、どこか、リュウなら、いい加減なことはしないだろう、と思い始めてる。

それは、ボッシュにとって、意外な答えだった。

いつも、ボッシュのまわりにいた連中は、「役に立たないやつ」か「利用できるやつ」のどちらかに、分類されていた。

ローディなら言うまでも無く、「役に立たない」が、「使い捨てなら利用できるやつ」のフォルダに投げ込まれる。

D値は、いつもその目安だった。

D値1/8192なら、名前を覚える必要すらなく、使い捨てのラベルがついていた。

だが―――。

いま、リュウは、ボッシュにとって、新しい何か、だった。

画面に展開しているシミュレーションとは違い、予期しないプログラムは、どう走るか、まったくつかむことができない。

ボッシュは目を閉じて、試験管の中の実験動物でも眺めるような気持ちで、その何かを、転がした。

転がるたびに、違った面を見せて、目のくらむような色合いを見せていた。

この街は、やがて、自分の手の中に入るだろう。

力を示す――それは、あらかじめ決めたプログラムどおりのことだった。

だが、リュウは、

D値1/8192のリュウは、どこまで、俺に応えるだろう。

どこまで、俺を裏切るだろう。

いままでにないラベルを待つ、リュウとの体験は、ボッシュにかつてない高揚を予感させた。

それは、少し、残酷な気持ちに似ている。

シャワー室の外では、真っ暗になった画面がシミュレーションの終わりを告げていた。

 

 

 

「そろそろだ。もう、行かなきゃ。」

ダニーの店の壁にとりつけられたネオンの時計を見上げて、リュウが腰を浮かせた。

時間を示す数字の一部が欠けて、常連じゃない客が、たいてい8と0を読み間違える。

スツールから立ち上がるリュウを、カウンターにもたれた2人組が斜めに見上げた。

「サム、スピーディー、じゃあ頼んだよ。時間遅れないで。」

「あー。名前はナンだっけな? アーガスト?」

「アンガスだよ、ほら威張りくさった、ひょろ長い顔のファースト、いたろ?

それより、違反チケットの取り消しな、リュウ。」

気楽に手を挙げる2人組に、リュウは苦笑した。

カウンターの中の、空になったグラスを指にひっかけたダニーに、声をかける。

「2人とも、だいじょうぶかな、ダニー?」

「逃げ足の速さだけは保証つき。あとはなにが必要なんだ?」

「見つからないこと、隠れること…うん、それなら問題ない。」

時さえ違うけれど、同じ場所で、同じ記憶を共有して、2人は目を見交わした。

「リュウ、気をつけろよ。」

ごく自然なトーンで、ダニーが明るく言った。

「……心配しすぎだよ。」

リュウが、カウンターごしに手を伸ばし、ダニーの肩に腕を回した。

背の高いダニーは、身をかがめて、リュウの耳元に、静かに声を落とした。

「そうじゃない。お前のパートナーだ。気をつけてくれ…あれは俺たちとは違う。」

リュウが確かめようとなにか言いかけたとき、ダニーはついと離れ、もう新しいグラスを持って、カウンターの反対側の客のほうへ行ってしまった。

 

 

5.

壁の数字が、午前0時を告げた。

灯りを落とした司令室で、壁面に取り付けられた20ばかりのモニターのうち、最下段に並べた4つの映像を、ボッシュは見つめている。

4つには、それぞれ別の部屋の天井に取り付けられた監視カメラのリアルタイムの映像が、映し出されている。

そのうちの3つの画面は、それぞれ、別の部屋で待機する3人のファーストを見下ろしていた。

任務開始の瞬間を待つようすは、三者三様で、それぞれのレンジャーの気性を、少なからず反映しているように、ボッシュには思える。

地下ルートを通るよう命じられているアンガス―リュウが見張る予定のファースト―は、何度も椅子から立ち上がり、腕時計を覗き込んでは、さして短くもなっていないタバコをもみ消している。

2番目の下層街ルートのバニッシュ―ボッシュの担当だ―は、アタッシェケースを前の机に置き、筋肉の盛り上がった腕を組んで目を閉じたまま、さっきからまったく動こうとしない。

最後の上層ルートのカミングス―内偵のファーストが尾行する―は、腰に下げた大剣を手にとって半ばまで抜き、刃のついた面を入念に調べている。

横一列に並んだ画面が、腰より低い位置にあるために、モニターの光は、ボッシュの表情を下から照らし出していた。

「私は、いまでも、賛成はしていない。」

ボッシュが、横を向き、何を今更、というように、唇を引き上げた。

「今夜のことについては、見てみぬ振りを、していればいい。

大体、最初に俺たちを引き込んだのは、そっちだろ。」

「いまは、少し後悔している、ボッシュ1/64。

最初に、噂話を集めてくれとは、頼んだが、こんな作戦まで望んだ覚えは――。」

「それにしては、ただのサードを、ずいぶん危険な話に、ひきこんだじゃないか。

だが、今夜で片をつければ、その任務も終了だ。

文句はないはずだ。」

「それは、その通りだが、――」

ゼノが眼鏡を引き上げたため、そのつるつるした表面に、モニターの光が反射する。

サードの失敗を恐れているのか、それとも――。

ボッシュは、表情のつかめないレンジャー隊長の視線の先を見た。

4つめのモニターに、小さな部屋で出動の合図を待つリュウの、ぎざぎざの分け目が映っている。

同じ部屋に、ガスマスクで顔を隠した、内偵役のファーストがいるせいで、まっすぐに立ったままなのだろう。

「俺の最初の相棒に、あれを選んだのは、あんただぜ?」

「今となっては、わからなくなったよ。それが、最善だったのか。」

「いいさ、思ったより、気に入ってる。

それと、これがうまくいけば、かなり点数をはずんでくれよ?」

「結果が出れば、な。」

ゼノは、きびすを返して、司令室から外へと出て行った。

ボッシュが、モニターの前にあるコントロールパネルのスイッチをオンにすると、4つの画面の中で、全員が、はっと動いた。

それぞれの部屋の壁にある時計が、短いアラームと同時に赤く光り、スタートの時刻を告げたのだ。

ひょろりと背の高いアンガスは、腕時計を覗き込み、銀色のアタッシェケースを握りなおすと、あわただしく部屋を出た。

がっしりしたバニッシュは、ゆっくりと目を開くと、目の前のアタッシェケースを軽々と引っつかみ、乱暴にドアを開けて出て行った。

剣を調べていたカミングスは、かしん、と腰に武器をしまいこむと、下に置いていたアタッシェケースを手にして、ゆっくりと部屋を後にした。

モニターを見ていたボッシュもまた、脇に立てかけていたレイピアを手に取り、その場を離れる。

ボッシュがその前を通り過ぎた小さな画面の中で、誰かが、こちらを振り仰いだ気がしたが、そのまま、指令室を出た。

3つのルートを先行するアンガス、バニッシュ、カミングスを、それぞれ、リュウ、ボッシュ、内偵役のファーストが尾行する。

先行する3人の容疑者に気づかれないことが最優先で、輸送中、怪しい行動があれば報告するのみ。

見失いさえしなければ、それで任務は完了となる。

いくら、ローディのリュウでも、それくらいはこなせるだろう、とボッシュはたかをくくっていた。

レンジャー施設の入り口へとつながる階段の反対側にある裏口から外に出る。

下層街全体を見渡せるいつもの高台から、下を見下ろした。

ボッシュのターゲットのバニッシュ1/512は、予定通り、銀色のアタッシェケースを持ったまま、左へと曲がり、ゆっくりとしたペースで、倉庫街の脇を通るルートへと向かっている。

遠目でもじかに見ると、さっきのモニターでの印象より、ずっと体が大きく、がっしりと上背のあるファーストレンジャーだ。

ボッシュは、ぶらりぶらりと、下層街を歩きながら、その数十メートル後を追った。

まだ、夜が浅く、下層街の中でもにぎやかな通りは、酔っ払いの騒音と毒々しい色を吐き出しはじめたばかりだ。

夜になるほど活気を増す歓楽街を背後に、バニッシュは、どんどんと、暗く、人気の無い方向へと向かっていく。

その足取りは、こそこそとあわてている風でも、緊張にぴりぴりととがった風でもない。

略奪者を恐れず、悠々と、ゆったりと歩く態度からは、それが自信からくるものなのか、あるいは、襲われるはずはないと確信しているのか、そのどちらなのか見分けることはできなかった。

目立つ銀色のアタッシェケースを持ったバニッシュは、ワンブロックも続く、廃工場の長い壁を過ぎて、いよいよ、灯りも少なくなる倉庫街へと、差し掛かった。

バニッシュが通りすぎるフェンスの向こうから、倉庫番代わりの改造ディクのうなり声が、時折響いてくる。

凶暴なディクを恐れて、用の無い人間は、夜間にこの地域を歩くことを避けているほどだった。

もちろん、だからこそ、ボッシュは、このルートを選んでいた。

それまでは足音を殺し、遠くから後をつけていたボッシュが、速度を上げて、一気に間合いを詰めた。

ほかのレンジャーたちの頭ひとつ分ほども大きなバニッシュ1/512は、裾の長い黒のコートの内側に幾分隠すように、銀色のアタッシェケースを振っていた。

黒のコートは、影にまぎれて、その中でときおり、開いた裾から銀色がちらちらと光る。

長く続く細い路地の右手、廃棄施設のフェンスの内側で、獰猛なディクの声が、それを見てますます高まった。

見慣れぬ不審者を追いかけ、攻撃するように、施設管理者から残酷さを仕込まれている番犬たちだ。

大男のバニッシュの姿に怯えるどころか、フェンス越しに飛び掛ってはかわるがわる体をぶつけ、格子に鼻面を突っ込んで濡れた牙を食い込ませる。

フェンスの向こう側でぐるぐると回りながら、バニッシュの後をついてくるディクの頭数は、ついに20頭をこえた。

数を増し、お互いのうなり声に興奮したディクを、一顧だにせずに、歩いていたバニッシュ1/512が、それまで右手に握っていた銀色のアタッシェケースを、左手に持ち替えた。

バニッシュが、そのまま空いた右手をコートの奥に差し込むと、引き出されたその手に黒いボウガンがぶら下げられている。

ボウガンの先を、ディクのほうに向けると、残忍な動物はますます猛り狂って、フェンスを噛む牙をかちかちと合わせる。

ボウガンをぶら下げたファーストレンジャーは、油断のない足取りで、フェンスに沿って、歩みを速めた。

ヒステリックに吼えるディクの声が、バニッシュの背後に近づくボッシュの足音を、かき消している。

レイピアを抜いたボッシュが、バニッシュまで数メートルのところへ近づいたとき、廃棄施設の闇の奥から、大きなオレンジ色の光の玉が打ち出され、バニッシュの右手のフェンスの支柱にぶつかって、その基礎を引き抜いた。

続いて、もう一弾の光球が、かろうじて地面に残っていたもう一本の支柱を吹き飛ばす。

大人の二倍ほどの高さのフェンスが、支えを失って、バニッシュのいる方へと倒れこんできた。

先に走って、どうにかそれをよけたバニッシュが、ボウガンを構え、後ろを振り返る。

倒れたフェンスの上を踏んで走るたくさんの足音と、飢えた息遣いが、施設の敷地から外へと、あふれてきた。

「走れ!!」

ボッシュが、バニッシュを追いかけはじめた数匹のディクを切り、道を開きながら、バニッシュに追いつく。

重いアタッシェケースを脇から取り落とし、バニッシュが向き直って、スコープをのぞき、飛び掛るディクをボウガンで次々と撃ち始めた。

「助かった。数が多そうだ。」

「まだ、これからだ。」

地面に落ちた銀のアタッシェケースを、ボッシュが拾い上げて、バニッシュにかまわず、先んじた。

その腕に食いつこうと飛び上がったディクを、黒くて短い金属の矢が貫く。

ばしゅ、ばしゅっと、水面を撃つような音が、絶え間なく続き、ボッシュは、背後で奮闘しているファーストを振り返らずに、ケースをかかえたまま走る。

ボッシュが見ていたのは、追いすがる番犬ではなく、その向こうの施設の暗がりから、こちらの動きを捕捉して、近づいてくる大きな影だった。

バニッシュの応戦で、数匹にまで数を減らしたディクたちは、それでも闘志を失うことなく、足をすべらせながら追ってくる。

ボッシュに続いて、番犬たちの前を駆けていたバニッシュが、ついに舌うちをした。

手にしたボウガンを、先頭のディクに投げつける。

「使えない武器だな。」

ボッシュが、初めて振り返り、背後の赤黒い暗闇を透いて見た。

ひたひたと、湿ったような独特の足音がする。

撃ち倒されたフェンスのところから道路へ、数騎の騎乗用ディクに乗った男たちが、次々と出てくるところだった。

先頭の男が構えた武器が、きらりと銀色に光った。

その先端からオレンジ色の火球が飛び出して、ボッシュたちを背後から追い抜き、行く先にあるフェンスの支柱が、強烈な光とともに、はじけとんだ。

熱と光に足もとを溶かされた支柱が、左右にフェンスを引き連れて、両手を広げるように細い路地にしなだれかかり、2人の行く手をさえぎったので、ボッシュは後ろを振り返った。

ディクはひたひたと、まっすぐにこちらへ向かってきている。

明らかに、もう急いではいなかった。

ボッシュは、持っていたアタッシェケースを傍らのバニッシュに押し付けると、軽く右手を振ってレイピアをしならせ、追っ手のほうに向き直った。

背後では、焼かれたフェンスの支柱が、だんだんと炎の勢いを失いはじめ、追っ手の男たちの姿はまた、暗闇の中に溶けそうになっている。

ひゅん。

だが、そんな音が、廃棄施設の敷地内から聞こえると同時に、男たちの乗ったディクの足もとに、波が立つように、青い炎のベールがぱっと立ちあがった。

突然、足もとを焼かれた先頭のディクが、驚いて奮い立ち、乗せていた男を振るい落とした。

続いて、第二波。

青い炎の波に足もとをすくわれて、先頭に続いていた男たちが、あわてて散開するようすが見て取れた。

「こっち!」

声のしたほうを見ると、フェンスの向こう側、施設内のジャンクの積まれた地面に、丸いマンホール穴が開き、見慣れたポニーテールがひょい、と頭をのぞかせて、周囲の地面に布を挿し込んだガラスの瓶を置き、穴のふちに手をかけて、細い体を引き出しているところだった。

「お前、こんなとこで、何してる…!?」

リュウは、身軽にマンホールの穴を抜け出すと、左手に持ったライターで器用に火をつけた火炎瓶を、高く放り投げた。

オレンジ色の小さな光を回転させながら、青い酒瓶は大きく弧を描き、地面にぶつかるやいなや、追っ手の男たちとボッシュたちの間に、炎を振り撒いた。

「サードか、助かる…!」

バニッシュは、手にしていたアタッシェケースを、フェンス越しに施設内に投げ込むと、自らも傾いたフェンスによじ登った。

ケースを投げられたのでは、仕方がない。

ボッシュも、フェンスに取り付き、リュウのいる廃棄施設へと飛び降りた。

リュウの投げた火炎瓶の光の向こう側で、残った追っ手が、急いで向きを変え、もともと自分たちが這い出してきたフェンスの切れ目から、廃棄敷地内へと戻ろうとしている。

「任務放棄かよ、リュウ。」

ボッシュが、リュウに食って掛かる。

「こっちの輸送は終わったよ。説明は後。まずはあれを何とかするんだろ?」

「ローディらしい、雑で、野蛮な方法だな、ええ?」

「そう、中身がダニーの特製で、見た目より強力なんだ。」

リュウは、さらに残った瓶に手早く火をつけると、つづけてフェンスの向こう側に放り込む。

たちまち、いままでボッシュたちがいた狭い路地が、火の海になった。

投げ込んだ銀色のケースが落ちたあたりを目指して、バニッシュが目もくれずにジャンクの山を登っていく。

「ケースを放すな!」

ボッシュはバ二ッシュの背中に声をかけると、リュウに目配せし、2人は左右に分かれて、不安定に崩れるゴミ置き場を駆け上った。

押しつぶされ、ねじれて、元は何の機械だったかもわからない大きなジャンクの塊りに足をかけたボッシュが見下ろすと、残った騎乗用ディクが3騎、数十メートル後ろの地面を追いすがって駆けて来るのが見える。

はるか下のほうを、大きなジャンクの塊りをわざと蹴り落としながら、リュウが上がってくる。

「合流しろ、リュウ!」

ボッシュは、返事を待たずに、バニッシュが先んじた場所、ちらりと銀色の光が見えたジャンクの頂上へと向かう。

頂上では、半分泥に埋もれた大きな冷蔵庫の後ろで、銀色のアタッシェケースを地面に置いたバニッシュが、息を殺して、待ち構えていた。

「なんだか、わからないが、別に計画がありそうだな。」

「念には、念をと、入れておいた。これのほうが、話が早い。」

ボッシュは、バニッシュの傍らに滑り込むと、いままでバニッシュが輸送してきた銀色のアタッシュケースを、自分の方に引き寄せ、電子式のロックを手際よく外す。

「はめられた。道理で、ずいぶん重かった筈だ。」

「極秘任務、と言われた、…だろ?」

のぞきこんだバニッシュが、息を吐いた。

銀色のケースの中に、折りたたまれていたロケットランチャーを、ボッシュは手早く組み立てはじめた。

ボッシュの声に押されて、ジャンクの山を駆け上ったリュウは、泥にまみれて、開かなくなった冷蔵庫の後ろ側に飛び込み、目を丸くすることになる。

背中を冷蔵庫の扉に持たれかけているバニッシュと開いた空のアタッシェケース、その隣でぴかぴかのランチャーを組み立てているボッシュが、そこにいた。

リュウが何か言う前に、左肩にランチャーを乗せたボッシュは立ち上がり、ランチャーの中ほどに取り付けられた照準器に目を当てて、まず一発を撃った。

空気を焼くような音とともに、飛びだした鉄骨の後ろにはりついて、背後をうかがったリュウの目に、追っ手の一人が駆けていた場所のすぐ隣のジャンクの山が崩れ、ふっとんだ。

続いて、反対方向に伸びていく白い軌跡は、岩壁の上を這っていた空調システムのパイプに命中し、白骨のような残骸が、もうひとりの追っ手の上に、降り注ぐ。

一番後ろを走っていた最後の一人は、騎乗用ディクの向きを変え、あっという間に姿を消した。

ボッシュは、倒された巨獣の遺骸のような、赤黒いジャンクの山の上に足をかけ、処理施設全体を見下ろしている。

白い蒸気を吐き出して、のたうつパイプのほかは、もう、動くものはない。

 リュウは、駆け出して、ランチャーを持ったままのボッシュに、横から体当たりをくらわせた。

重い銃身を右手にぶらさげたボッシュがバランスを崩し、ふたりはそのまま、ジャンクの山の後ろに、もんどりうって、倒れこむ。

「……っ殺すぞ、リュウ。」

「下層街を壊すなよ!! ボッシュ!!」

「知るかよ。パイプのひとつやふたつで、いきり立つんじゃない。

それより、お前、アンガスの見張りはどうした?」

ボッシュは、まだ指をかけていたランチャーの引き金から右手を離すと、ジャケットについた埃をぱんぱんと払った。

そでにべったりとついた機械油のしみを見て、眉の角度と不機嫌さが跳ね上がる。

「言っただろ、終えてきた。

ルートを見てて気づいたんだ、地下ルートには、近道があった。

だから、下層街の仲間に頼んで、アンガスを近道に誘導してもらった。」

とくに悪びれるようすもなく、リュウは、さらりと言った。

「アンガスのほうは、怪しい素振りもなく、バイオ公社に着く時間が短縮できて、喜んでたよ。

もちろん襲う人間も、接触する人間もなく、無事に輸送は完了した。

その後で、こっちへ支援に来たんだ。」

「…余計なことを…お前は自分のルートだけ守ってりゃよかったのに。」

「相棒のようすを見にきちゃ、悪い?」

「は? お前が? 支援?」

「見張りかな。たまに、下層街を吹っ飛ばす相棒がいるからね。」

「…ちっ、任務放棄してきたんだったら、懲罰してやったのに。」

ボッシュの瞳の中央にある碧の色の円が、きらりと底光りして、リュウに跳ね返る。

それが貴石でできた左耳のピアスと同じ色になったとき、ボッシュが、暗い穴に落ちた巨大なディクと同じくらい冷血になることを、リュウは知っていた。

けれども、いまの瞳の色は、洞窟に溜まる天然の水のように、不思議にないでいる。

リュウは、深い水の底を覗き込んだときのような気持ちになった。

「…それで、任務は完了? つまり、やっぱり彼が内通……。」

言いにくそうに、リュウは、座り込んだままふてくされたようにふたりのやりとりを見つめているファーストレンジャーに目を向けた。

「おいおい、俺は、ダミーの運搬役って話だろ。

本物のドラッグは、アンガスの野郎が運ぶと聞いてるんだがね。」

「え、さっきのは、ドラッグをバイヤーに引き渡そうとしたんじゃ……」

「俺がか? いい加減にしろ。最初から、中身は偽物だと知ってる。

俺をはめるつもりか、ええ? どういうことか、全部説明しろ!」

バ二ッシュが思わず立ち上がり、リュウが振り返ったが、視線の先のボッシュはたじろがずに言った。

「言ったろ? 極秘任務だ。

まだ任務は完了してない。

ここまで来たからには、終わりを見届けたいんだろ、リュウ?」

「聞くまでもない。」

熱いスープに舌をつっこんだ犬みたいに、これ見よがしに眉をしかめるボッシュに向かって、リュウは、にっと笑ってみせた。

 

(後編へつづく)

 

説明
ゲーム「BOF5 ドラゴンクォーター」二次創作小説です。ドラッグ密売組織の内通者探しに、リュウとボッシュが巻き込まれる話。前編です。※ボッシュがちょっぴりダークで、少し女性向表現(リュボ)を含みますので、苦手な方はご注意を。
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