天声を聞いた坂(後編)
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     ※

 

 十字架を掲げられた鳥居坂教会の尖塔は、直上から注ぐ秋の澄んだ幾条もの陽の光を受け、美しかった。

 明は、あおりレンズから中望遠レンズに換装した高級一眼レフデジタルカメラを尖塔に向け、シャッターを夢中になって切り続けた。

 長身の若者である明は、ようやくにファインダーから目を離し、カメラ本体の背面にある液晶ファインダーで撮影の成果を確かめると、上々で、

「どう?」

 同様に覗き込んできたガールフレンドの千種にも臆することなく見せることが出来た。

 

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 昭は明に、千草は千種に、それぞれ字は換えられていたが、間違いなく七年前の自分と昭が鳥居坂教会を訪ねた際の体験を描いている。

 この後、二人の主人公は、鳥居坂教会へ入って行くという展開になっていて、教会の来歴をタイミングよく説明している。

 1873年(明治6)、カナダからメソジスト教会の宣教師らが来日し、東京と横浜の居留地を拠点として宣教を開始している。

 東京の居留地に足がかりを求めた一行は、伝道とともに学校教育の必要性を痛感し、麻布永坂町に土地を購入し、麻布講義所を置き、同時に東洋英和を冠した男子校と女子校を開校した。

 麻布講義所では、礼拝と聖書講義が行われ、日本人を初代牧師として、麻布メソジスト教会を設立した。

 1941年(昭和16)、日本におけるプロテスタント諸派は、日本基督教団となり、麻布メソジスト教会は鳥居坂教会と名称変更し、メソジストの伝統を継承し、今日に至っている。

 思い起こせば、クリスチャンではない昭が、教会の入り口で必ずパンフレットを求め、熱心に理解に努めようとしていた姿勢は、千草にとっては嬉しかった。あるいは、単に短編小説を書くに当たっての取材で、信仰とは全く関わりのない行動だったのかも知れない。

 それにしても、なぜ、昭が突然に音信不通となったのだろうか……物語の展開から知ることが出来るかも知れない。物語は礼拝堂の中へと移って行った。

 

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 正面右手に設置されたパイプオルガンからは、美しい調べが続いていた。

 コンサート本番ではなくリハーサルらしく、女性のオルガニストは、不備があると思われる部分を納得が行くまで丹念に繰り返すその姿は、正に奏者と楽器の真剣勝負であった。

 聴衆は、明と千種だけで、後は日曜礼拝を終えたばかりで、牧師の手伝いに就いていた妻と有志だけだったが、オルガニストは全く意に介していない。

「ねえ、これ、なんていう曲?」

 信者席の片隅で、千種が明の耳元に口を寄せて尋ねると、明は、

「J・S・バッハの『ゴルトベルグ変奏曲』だ。元々はチェンバロ演奏用に書かれたものだが、パイプオルガンでの演奏が、これほど壮麗なものになるとは思いもよらなかった」

 オルガニストの背を見つめ、嬉しそうに瞳を細め、小声で答えた。

 やがて、リハーサルを終えたのか、オルガニストは楽譜をまとめ、礼拝堂を後にすると、明と千種も教会を辞し、鳥居坂へ出た。

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 鳥居坂の左右には、東洋英和女学院の校地と国際文化会館の他に高級マンションが建ち並び、正に閑静な高台の一等地であることが解る。明は辺りを見渡し、

「鳥居坂教会のランチタイムコンサートは毎月第一金曜日で、今日、来てもオルガン演奏は聴けないだろう、と諦めていたが、ついていた。人生とは、本当に人と物との出会いでつづられていくんだなぁ」

 何ものにともなく感謝の思いを抱くと、千種は思わず眉間にしわを寄せ、

「それ、仏教の教えだよ。聖書には書いてないもの」

 思わず否定した。明は、オルガニストの全身全霊をもっての華麗な演奏を、無惨に足蹴にされた思いになり、かぁっと腹を立て、思わず立ち止まると、

「ほう、仏教とは言った本人が初耳だ。真言宗か、華厳宗か、法相宗か、日蓮宗か」

 日頃、明が何か口に出せば、それは仏教の、それはイスラム教の、それはキリスト教でも他派の、と知ったかぶりを始め、聖書には書いてない、と権威を示すがごとくの千種に表情を険しくさせた。

「何を怒っているの? わたし、あなたを怒らせるようなこと言った?」

「日常的に言っている。お前は聖書に書いていないことは全て否定する。旧約聖書の最初の一行から新約聖書の最後の一行まで丸暗記しているわけでもないだろうに。そんな女と話しをしていても、面白いわけがない。何かというと、聖者を気取り、上から目線で物を言うお前の態度には、いい加減、我慢出来ない。お前、職場で自分が周囲から何て言われているのか、知っているのか?」

 三年間も交際してきた明が、まさかそんなことを考え続けていたとは思いもよらず、千種が茫然としていると、明は言葉を継いだ。

「キリスト教は父と子と聖霊を唯一の神、と信じる宗教らしいが、現実に世界には無数の宗教があり、神と呼ばれる存在がある。日本だけでも天地八百万だ。この矛盾を説明してみろ」

 千種が、涙が溢れた目を見開いていると、明は、

「地球の地軸は、公転面の法線に対して23.4度傾いている。これにより赤道付近の低緯度地域と、極点付近の高緯度地域では、倍も太陽から受ける熱量が違うそうだ。従って、地球上には多くの民族が存在し、多くの文化が生まれ、神と呼ばれる存在が無数にあって当然だ。お前の日頃の言動は、小学一年生に小学六年生の教科書を投げつけて、理解出来ない子供を責めているのと同じ理屈だ」

 現実とキリスト教義の矛盾を問うたが、千種は何一つ答えられなかった。明は千種に対する我慢も限界に達し、

「三年間の短い間だったけど、ありがとう、さようなら」

 別れを告げると、鳥居坂下の交差点を雑踏の中へと姿をかき消した。

 千種はいつの日か明と再婚するのなら、明もクリスチャンになってほしく、折りにつけ教会教義を話してきた姿勢が、まさか、自分自身の首をじわじわと締めていた真実に、もはや涙も出ず、鳥居坂の途中で、茫然と立ち尽くす他なかった。

 

     ※

 

 千草は、劇中の二人の主人公の会話に息を呑んだ。

 現実の昭は、千草に何も言わずに音信不通となったが、その陰には都心の一等地の往来で怒鳴りつけたい衝動と三年間も闘い続けていたのだった。

 物語は、鳥居坂にうずくまり、途方に暮れた千種が、たまたま通りかかった外人の幼い女の子に声をかけられ、再生のために努めようと、誓うシーンで終わっている。

 幼い女の子……千草は、ふと先ほどデールームで出会った絵本を読む幼い姉妹を思い出した。妹の成長のために、わざと冷たく突き放した姉の姿が、劇中の男主人公に重なった。

 一見、不誠実、無責任と思える行動だったが、自分自身で気付いてほしいと願う誠実な心遣いがあるのだった。

 同時に、鳥居坂教会で、ランチタイムコンサートの本番に訪れることが出来ずとも、リハーサルを目にし、耳に出来たことに、何ものかに感謝を抱いていた明の描写が、映像のようにはっきりとした姿となって胸に迫った。

 では、自分は肺癌末期という忌み嫌われる病に冒され、一体、何ものにどんな感謝を捧げて再生を目指せばいいのか……

 このとき、今日の日勤時間帯の担当者となったベテランの病棟師長が、点滴を取り替えに来た。病棟師長は慣れた手つきで素早い作業をしながら、

「斎木さんは症状も副作用も殆ど出なくて、幸せですね」

 何気なく言い、病室を出て行ったが、千草は目を見開いた。

 肺癌も症状が進めば、内臓を丸ごと吐き出さんばかりのひどい咳と共に、血痰を吐き続け、胸痛から転げ回るような苦しみを味わうのだった。

 また、副作用から頭髪は抜け落ち、やせこけて、四十七歳でありながら老婆のような姿になっていても全く不思議はないのだった。

 正に、生き地獄を味わう重病を負っていても、苦しくもなければ、つらいとも感じないのなら、嘆き悲しむ理由はどこにもなくなる。

 残ったのは、生きることへの執着と死の恐怖だった。しかし、それさえもいつの日か生まれ変わってきて、今度こそ、出会った環境から誤解を受け続けることのない、豊かな人生を授かれる唯一の機会と思えば、希望にあふれた門出が得られるのだった。

 千草にとって、鳥居坂は死ぬことさえも希望へと変化させることが出来る天声を聞いた坂であった。(完)

説明
皆さんお久しぶりです。小市民の最新作をお届けします。
肺癌末期の斎木千草が、投稿サイトに七年も前に送られていた短編小説から掴んだ真実は……という物語です。
鳥居坂教会は、野口雨情の「赤い靴はいてた女の子」のモデル岩崎きみちゃんゆかりの教会です。きみちゃんの墓は青山墓地にあります。童謡に興味のある方は、是非、お訪ね下さい。
小市民は、横浜在住で「赤い靴」にはン十年前から興味があり、今回、自分の作品のモチーフに鳥居坂教会を使えて、やっと肩の荷を降ろしたような気持ちです。
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鳥居坂、鳥居坂教会、港区六本木五丁目、「赤い靴はいてた女の子」

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