マンジャック #6
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マンジャック

 

第六章 茜色の攻防

 

 ははははははっ。ロビーいっぱいに鳴り響く原尾の狂笑が、居合わせた者達の心臓を縮めた。

「そうか。判ったぞ。貴様だったのか。」

原尾の中にいる成木は思わず叫んだ。そしてまた、クール隊の一人にはがい締めにされたままに、天を仰いで高笑いをする。

 ははははははっ!

「き、貴様! 血迷ったか。何がおかしい。」

ヤムが原尾に叫んだ。パシフィックの意識がまだはっきりしていない以上、プロジェクト推進を図るのは彼の義務だからだ。ヤムも原尾の意思がやっているとは思っていないが、彼女の中に入ったらしい二人のどちらのジャッカーに話せば良いかまでは見当がつかない。

 ヤムの怒声で、まるで回りの世界があったことに初めて気付いたと言わんばかりに我に返った成木は、嘲笑するような目をヤムに向けた。

「そんなに興奮しては体に毒だよドクター。と言いたいところだが、気の毒なことに今回、あなた方のプロジェクトは失敗したようですよ。」

原尾の表情に醜悪な笑みを湛えさせて、成木は喋り続ける。

「何故って、ギルバートから転移してこの女性にとり憑いていた男は、どこかに消えてしまったのだからね。」

 何だと。大野は耳を疑った。ギルバートにジャッカーが憑いていただって!俺が拒絶波を流したギルバートに...。

 困惑を隠せないのはヤムも同じだ。

「な、どういうことだ。」

「ありのままを申し上げているだけですよ。彼はこの女性の中から消滅してしまった。どうやればそのようなことができるのか、ジャッカーである私にもわからない。だが唯一言えることがある。」

 原尾が放心した。だから続く言葉は原尾の口からではなく、彼女を拘束していたクール隊の男から発せられる。

 どうやればよいかは判らないが、どういう能力を使ってそれを為したかは判る、だから...。

「この能力、君たちには渡さない。」

 彼はおもむろに懐から銃を取り出すや、ギルバートめがけて発砲した。

「!」

 両脇を二人のクール隊に取り押さえられていたギルバートが、その腹部から血を吹き出した。両脇の二人は思わず彼を取り落として臨戦態勢をとる。

「ひいいい!」自分に何が起きたのかを悟ったギルバートは、恐怖の悲鳴を上げて助命を嘆願する。

「た、助けて。俺は利用されただけなんだ。」

「だから殺すのさ。手がかりがなくなる。」成木ののり移った男は構わず撃ち続ける。じたばたと逃げようとするギルバートは胸に二発、頚部に一発浴びるに至り、絶命した。

 殺気がフロアーを満たし、クール隊の反撃が始まる。仲間が乗っ取られていることは彼らをして引き金を引くことを躊躇わせることはない。それはもちろん、成木の盾にされている原尾に対しても同様だ。

「マキちゃん!」

二人の男に組みしかれたまま叫んだ大野の声が届いたか、彼女の本能が放心状態のままの意識に成り替わって彼女を動かした。原尾が風を切って横っ飛びし、銃の軌道上から退いたのとほぼ同時に、無数の銃声が轟いた。ロビー内にいるクール隊のすべてが発砲した弾丸が彼女の脇を僅かに掠める。そしてそれは彼女が倒れ伏す前に、一発洩らさず成木の憑いた男に命中した。

 硝煙が噎せる一瞬が過ぎた。だがその光景を見て、ロビー内にいる全ての者が恐怖した。なんということだろう。それだけの弾丸を浴びて身体中穴だらけになりながらも、それでも男は倒れていなかったのだ。

 クール隊として鍛えた肉体が持つ生命力と、それを120%引き出すことが出来る成木の身体操作のなせる技だ。既に死者である筈の人間の笑みは、周囲の者をすくみ上がらせる。

 タン!

 彼は手近にいるクール隊に突進した。正に自分が狙われていると知った隊の一人は必死に銃を連射するが、全て命中させながらも成木を止めることはできない。男が絶望に頭の芯を焼き付かせたとき、成木がその男の肌に触れた...。

転移。

 同時に、あれほどタフだった穴だらけの男は音を立てて床にくずおれた。

 彼の死が幕を切ったのか、地獄の舞台が始まった。新たに乗っ取られた男の放つ銃が、隊員の死者を三人に増やした。成木の撃った弾は一分の狂いさえなく眉間に当たる。拳銃の腕は確かに乗っ取った男のテクニックだが、それを一瞬で利用するのは、成木の天才的とも言えるジャッカーとしての悪魔の才能だ。それが身に染みて判る大野は、芯から戦慄した。

 成木が憑いた男の右腕が吹き飛ばされた。だが成木がそんなことを気にするはずもない。この男が撃たれても替えはいくらでもいるのだ。そしてまた別の男達へ...。

転移。

 大野を束縛していた二人が頭を打ち抜かれた。大男二人が漬け物石のように覆い被さって大野はますます動けなくなった。天敵の失態を成木が見逃すことはない。目は既に次の敵を追いつつ、置き土産に大野の眉間を狙い撃つ。

ち、ちょっと待て、俺が死んだら死体の鏡もちになっちまう。

大野は慌てに慌ててもがく。そしてやっとのことで左腕を死体の下から引っぱり出すと、ぎりぎりかざした腕に弾は辛くも弾かれた。

 転移学会会場ロビーは今や地獄絵図と化していた。床は血に赤く染まり、哀れにも即死しなかった男達の呻き声が銃声の合間に響く。さすがのクール隊も動揺に隊列が乱れ始める。彼らも自分たちの相手にしているのが悪魔だということをようやくながら実感したのだ。

 それでもなお次の犠牲者を捜して、成木が憑いた男の持つ銃の砲身を横に靡かせる。

 だが、

「奴から離れて攻撃しろ。いたずらに被害を増やすだけだとわからんのか。」

パシフィックの警備に専念していたクールが檄を飛ばした。すると忽ちクール隊全員の表情が変わった。クールの隊員への影響力が判るな。死体を退けつつ大野は思った。

 

 実際、その一言で戦況は一変した。クール隊は冷静さを取り戻し、成木を遠巻きに包囲しての攻撃に切り替えた。向こう側の仲間に当たらないように確実に成木の身体に撃ち込む。成木が動けばその包囲の輪も動くという戦術だ。これで成木はこれ以上の転移は出来なくなった。

 成木はあっというまに自分が不利になったことを悟った。流石はプロの殺し屋集団だ。これは本当に危ないかもしれん。彼はじりじりと追いつめられ、着実に体内に鉛玉を埋め込まれていく。反撃もおろそかになってきた。彼の視覚は、彫りの深い眼窩から冷たく見据えるクールをとらえていた。

 雌雄は決した。もはや多勢に無勢、成木は窓際に追いつめられ、無数の拳銃に照準を合わされている。全身血だらけ、穴だらけの成木にはもう成す術がない。

「待て!」

クールの一喝でとどめの一斉射撃が止まった。

 パシフィックの護衛を別の隊員に任せたクールが、包囲の輪の一端を開けて成木と対面した。彼は血塗れの成木に言った。

「我々クール隊にここまで損害を与えるとは流石だ。だがそれもここまでだ。お前からパシフィックに憑いていたとか言う奴のことを聞き出したら、あの世に送ってやる。」

 瀕死になりながら、成木は答えた。

「...私が、私が言うと思っているのかね。」

「言わなくても殺すことには代わりがないがな。」

 成木は不敵にほくそ笑んだ。

「君はまだジャッカーのことを甘く見ているようだね。私を殺すことなどできはしない。」

「試してやろうか?」クールの片眉がほんの少しあがった。「撃て。」

 ようやく死体から解放された大野が制止しようと近づく間もなく、クール隊全員が発砲した。成木は憑いた男の身に更に数十発の弾丸を受け、背後で割れた窓ガラスごと外に吹き飛んだ。

 

 鈍い音が遠くから小さく聞こえた。殺人鬼は計百発を越える弾をその身に受け、20mは落下した。その末路は火を見るよりも明からだ。

 だが大野は緊張を解いてはいない。

「まだ終わっちゃいない。」そう言いながら彼はクール隊の輪を押し退け、クールよりも早くガラス窓に走りよると、身を乗り出して外を見た。

 窓の真下は傾斜の付いた法面で、ホテルの地下駐車場に通ずる道路がその下に平行して敷設してあり、大野の見た時にはそこに、いち早く逃げ出した学会の関係者達の車が、エンジンを唸らせて何台も駆け上がっていくところだった。大野がそこから視線を真下に戻すと、既に西に傾いていた太陽は、その赤みを帯びた光で眼下の景色をも同色に変えていたのだったが、法面の芝生は陽に晒されたよりも更に真っ赤に染められていた。ガラスは周囲に散らばり、反射する光が縁を彩るその中心に、その赤色はあった。そしてそのまた中心部にはその赤を放出したひとつの肉塊と...人影!

 別の誰かがいる! 大野は仰天した。

 肉塊の脇に縦膝をついているその男は白人の様だ。薄いグレーがかったチェックの背広の左脇を微かに上げているのは、そこに拳銃を携帯しているからであろう。となれば彼もクール隊と見て間違いあるまい。彼は外の警備に回されたがために、上で何があったのかを知らぬまま、落ちてきた仲間の生死を確かめるために脈を取ろうとしているのだ。

「やめろー!!」

大野はその身を落とさんばかりに窓から乗り出して絶叫したが、昼間との気温差が起こす猛烈なビル風の音に空しくかき消されてしまった。

心優しきその男は、出来るなら仲間を助けようという想いからその腕を取ったに違いない...。

 

 その男は、ゆっくりと立ち上がってこちらを見上げた。静かに微笑んでいるのが明らかに見えた。そして悠然と、その場から立ち去ろうとしている。

「くっ。」悔しさに大野は歯がみした。

「ほう。」横に来ていたクールが感心したように言った。

 こいつ、自分の部下なのに...。いや、今はそんなことより黄泉を捕まえる方が先だ。

 階段を使っていたんじゃ間に合わない。大野は窓の脇にある消火栓に走り寄ると、扉を壊すほどの勢いでこじ開けた。そして中のホースを鷲掴みにするや、勢い良く窓から飛び出した。ホースをロープ代わりにして降りるつもりなのだ。彼には恐怖は微塵もなかった。その目はもはや奴しか捉えていないからだ。眼下の標的、黄泉しか。

「ほう。」クールはもう一度感心したように言った。「だがあれは俺の獲物だ。」

言いざま、あろうことか、クールは何も持たずに飛び出した。五階の高さから。

「え。」大野は一瞬目を疑った。壁を滑り降りる自身の脇をすり抜けてなにかが落ちていったからだ。「クールか!」

ダン。という大きな音とともに、クールは足から着地した。とりたてて苦痛を感じている様子もないようで、それが更に大野を驚かせた。人間か、あいつ。

「上からだと頭に当たっちまうもんでね。」

クールは呟きつつ懐から拳銃を取りだすと、逃げ去る成木に向けて発砲した。

 成木に憑かれたクール隊の男は、クールの発射したその弾を背中から受け、心臓を丸ごと打ち抜かれた。瞬時に機能を停止したその肉塊は慣性を持ったまま斜面を跳ね、坂の付いた道路に落下した。ぴくりとも動かなくなったその脇を、我を忘れたドライバーの乗った脱出組の最後の一台が、ドアを壁にしこたま擦りつつ逃げていった。

 

 一瞬後に降り立った大野がクールに掴みかかった。

「貴様、自分の部下だろう。それに町中で発砲しやがって、ここを何処だと思っている。」

「判断を誤るような奴はクール隊ではない。」クールはスーツの下のホルスターに拳銃を納めた。「俺達は外交官付けのシークレットサービスとして登録されている。要人警護のため銃の携帯とその発砲は許可されている。」

 ほんとかよ。どうなってんだ。怒り心頭に達している大野の方を見もせずにクールは続ける。

「そんなことよりいいのか、あいつをほっといて。」

大野は、顎をしゃくったクールの視線の先を辿って腰を抜かしかけた。馳が成木の肉塊の近くまで来ていたのである。

「ば、馬鹿野郎。」大野は叫んだ。「近寄るんじゃない!」

 馳もこちらに気付いたらしく答える。

「どうしてです。怪我人じゃないか。手当しないと。」

「ど阿呆。そいつはジャッカーだ!」

 この一言で流石に馳の動きも止まった。自分がどんなに恐ろしいことをしようとしていたかが判ったらしく、混乱した表情をしている。

「ようしそれでいい。」宥めるように大野は走り寄った。

 改めて成木の状態を見ると、まざまざとクールの銃の凄まじさを見せつけられる思いだった。身体の真ん中に拳さえ入りそうな穴がぽっかりと開いていて地面がのぞいているのだ。とんでもねぇ銃創だ。こりゃ即死だな。大野は思った。

「俺は上に戻る。早く手を打たんと大騒ぎになるんじゃないか。」クールが脇をすり抜けながら捨て科白を残していく。確かに奴の言う通り、建物の角の向こうにある駐車場への坂道の降り口の辺りから声がしている。

「いかん、新米君。野次馬を止めるぞ。」

「あ、はい。」

 

 馳が呼んだか学会会場から逃げ出した誰かが通報したかしたのだろう。大野と馳が坂道を曲がりきった時には、既にホテルの入り口にパトカーが到着するところだった。そうであれば後は、近づいてきた一般人を遠ざけるだけだ。

「はいこれ以上先には行かないでください。」馳がテキパキと観衆を遠ざける。曲がりなりにも現職警察官である馳がいたのはとりあえず正解だったようだ。ジャッカー関係の事件はとかく世間に知らせない方がいい。大野も手助けしながらふと野次馬越しに見ると、自分のおんぼろ車がここの地下駐車場への入り口辺りに置いてあった。なるほど。そういう位置関係だったのか。人を押し返しつつ馳は言った。

「あなたのボロ車に乗ってると暑いわシートはひっくり返るわでさんざんでしてね。外でビル風に涼んでたら下から何台も車が暴走してきて、それに驚いてたら銃声がしたっていうわけです...。」

「ボロは余計だ。愛車なんだぞ。」

 とその時、反論する大野の顔から、馳の視線が脇にずれた。どうかしたのか。

「あれ、何でしょう。」

 促されて大野も顔を向ける。坂道の真ん中にぽつんと成木の身体が転がっているのは変わりないものの、その上空に何かがひらひらと動いているのだ。夕闇の迫るこんな時刻に鳥があんな風に飛ぶことはない。それは...。

「蝙蝠じゃないか。」しかしなんてでかい蝙蝠だ。猫くらいはありそうだ。

 そいつは何を考えているのか、意味も無さげに旋回を繰り返している。

「吸血蝙蝠でしょうか。血を吸いに来たとか。」

馳は冗談で言ったのだろうが、その蝙蝠は本当に成木の死体の上に舞い降りたのだ。

「あっ!」大野は思わず叫んだ。彼の頭の中で迷彩をなしたままだった謎で構成された蜘蛛の巣が、やっと一つの意味を持った。河合がホテルの地下のボイラー室でしていた行為と、そのすぐ後に彼がその付近を探ったときに出てきた小動物と...、あの蝙蝠!

「いかん!」奴は、成木は蝙蝠の身体に転移しようとしているのだ。全てに追いつめられても尚、奴が不敵でいられたのはこのためだったのだ。

 大野は全速力で坂道を駆け下りると、死体の上にいる蝙蝠に飛びかかった。

 間一髪。大野の身体は空しく空を切った。一瞬の差で、そいつは彼の身体をすり抜けて飛び立ってしまった。

「ちぃ。」大野は一回転して体勢を立て直したが、振り返ったときには既に遅く、成木の意志を乗せたであろう蝙蝠は、夕暮れの上空高く舞い上がっていた。

「新米君。あの蝙蝠を打ち落とせ!」

「町中で発砲なんか出来ませんよ!」

 蝙蝠はあざ笑うかのように大野の上を旋回した後、濃くなっていく闇に紛れて羽ばたきを開始した。

「逃がすか!!」

大野はそいつが向かっていった方向に駆け出した。馳の近くには二人の警官が既に到着して、野次馬の対処に当たっていた。

「一緒に来い、新米君。あの蝙蝠を追うぞ。」

「あ、はい。でもどうして僕を。」

「一人よか二人の方が見逃す確率は低い。」

「ぼ、僕は頭数ですかぁ。」

 

 大野達二人は蝙蝠を追って、夕闇が急速に濃くなってゆく町を必死で疾駆した。対称的に、空を駈ける奴の方は悠々と距離を開けていく。

 二人は大通りに出たが、そこは既に仕事を終えた人々で賑わっていた。まずい、これでは全速で追いかけられない。だがそれでも彼らは人混みをかき分けながら奴を追う。

「ちょっ、ちょっと通してくれ。頼む。」

「な、何するんだ。」

「すいません。通して下さい。」

 しかしその速度差はもはや歴然。彼らはますます水を空けられてゆき...。

「あぁ! 行ってしまう。」

馳の悲痛な叫びのすぐ後、蝙蝠は道路の向こう側のビルの陰に消えた。

 二人がそのビルの一階のテナントであるコンビニの角をようやく曲がったとき、黒きその姿は既に無かった。

「くっそーっ。」大野が電柱に八つ当たりする。「水臭いやつめ、さよならの挨拶ぐらいしろよ。」彼の落胆はプロとしてのそれだ。ジャッカーハンターのこの俺がジャッカーを逃がしてしまうなんて...。

 馳も落ち込んでいる。半ば息を切らし、膝に手を置いて答えた。

「蝙蝠は超音波で喋るんでしょ? 僕らには挨拶は聞こえませんよ。」

 ガッカリした言い方でつっこむな。大野は不機嫌に思った。いや、待てよ...。

 何を思ったか、突然大野は左腕を空にかざし、その腕をゆっくりといろんな方向に回し始めた。面食らったのは馳の方だ。彼はまるっきり鳩豆の顔で聞いた。

「な、何やってんですか。あの、恥ずかしいんですけど。」

 通行人が二人を避けて歩く。そりゃそうだ。

「おまじないの儀式さ。蝙蝠を見つけるな。」

「へっ、それが...ですか?」

 不思議がっている馳をよそに大野はまだ手をかざしている。コミカルな動作に似合わぬ真剣な目つきだ。彼はいったい何をしているのか。

 そうかぁ。馳は感心した。そんなおまじないもあるのか。

 ほんの数秒で、大野の目から力が抜けた。自分の横で、馳も同様に手をはちゃめちゃに動かしているのに気付いたからだ。

「な...何をしているんですか新米君。」大野が半ばひきつって言う。

「あなたの手伝いですよ。頭数だってこのくらいはしないと。」自信ありげに馳は答える。

 二人して人通りの多い道の真ん中で太極拳紛いの踊りを踊っている。大野は頭が痛くなった。俺はこんなことしてんのか。

「わかったわかったやめろよもう。」大野は馳を制した。

「俺がやってんのは儀式じゃない。冗談言ったのは悪かったよ。ほらこれを聴いてみな。」

大野は自分の耳からイヤホンを外して馳の耳に付けてやった。馳には何とも不快な高音しか聴こえない。

「俺の左手には小型の集音器がつけてあるんだよ。その信号を周波数変換して聴いてんのさ。」

「さよならの挨拶をですか?」

「んなもん聴いてどうすんの。蝙蝠ってのは前方に超音波を出して、その反射波を聞き分けて物の位置を掴むだろ。」大野は再び自分にイヤホンを戻しながら続ける。「あれは超音波がとても指向性がいい、平たく言えば直進性があるからできるんだ。つまりそのおこぼれの音を拾えればその一直線上に奴がいるってことさ。」

「そ、そんな高性能のマイクなんてあるんですか。」

「お前さんもさっきパシフィックの声を聞いたろう。」

 馳は昼間、大野の車の中でパシフィックの音声解析をしたことを思い出してハッとした。

「俺のマイクは数十m先の人間の独り言でも聞き分けるほどの指向性があるのさ...。」言い終わらぬうちに大野の唇の端が上がった。

「あった! この方向だ。」

「あ、あなたはいったい何処にそんなものを...」彼の疑問も構わず走り出した大野の後に、馳は付いていくのがやっとだった。

 

「いました。あそこです。」馳は東側のビル壁の模様の変化に気付いて叫んだ。

 西の彼方の高速道路の高架の下から、僅かに覗き込むだけの高度しかない太陽。最早その輝きはあまりにも儚い光しか放たなかったが、その最後の光明が闇に紛れようとする悪魔の逃走を彼らの前に暴き出したのだ。

「頭数君が早速役に立ったじゃないか。」

 大野もそれを確認して更に足を速めた。二人の走ってきた距離は、既にかなりのものになっていた。港湾再開発のロイヤルホテルから真っ直ぐ西に一キロ以上だ...。そうして今、彼らの眼前には堤防を兼ねた公園が見えていた。悪魔が乗り移った蝙蝠は、その上空辺りで弧を描き、不規則な軌道を描きながら降下していくところだった。

「あそこか。」あそこに奴の本体がある...。大野は笑みを浮かべて呟きながらも、背筋が寒くなる思いだった。

 奴には、成木には他のジャッカーの常識が全く通じない。

 これだけ遠くに離魂体を置く大胆な策は、奴を除けば、自分がヴァンパイヤと化することを全く恐れていないような者にしかできまい。しかも奴はあれだけの銃に囲まれて尚動じない度胸も持っている。だが真に彼の心肝寒からしめていたのは、成木がその移動法に小動物を使ったことだった。

 

 精神が転移するとはいえ、自分の脳味噌まで持っていけるわけではない。このことは、転移先の制御細胞の限界が、同時に転移時における転移者の活動の限界でもあることを示している。パシフィックにジャッキングしていたときの成木が、パシフィックが本来持っている短気な性格に悩まされていたことからも、これが転移時におけるジャッカーの弱点の一つであることが分かる。では、転移先の生物である依童が、転移者と同レベルの制御細胞、つまり脳味噌を持っている人間以外の場合はどうか。理性的思考を司る大脳皮質というものの無い生物に転移することは何を意味するのか。

そもそもそういった転移が可能なのか。という問いには、レベルの高いジャッカーなら不可能ではない、と答えられる。自分としての精神の全てを保存することが可能なだけの数の制御細胞を有している生物なら、転移者がその生物から自分の離魂体に戻ったときに記憶喪失などの症状を呈することはない。身体のあらゆる部分にまで張り巡らされている神経組織などの制御細胞すら、自己の精神の保存用細胞として転用できるほどの能力を持つ者ならば、哺乳類はおろか脊椎動物全般にまで転移は可能と考えられる。簡単に言えば、人間の精神の情報量を仮に100とすると、相手の制御細胞の記憶容量が100以上あれば、その生物への転移は可能ということだ。まして成木ほどの転移技量を有する者ならば、蝙蝠にジャッキングするなど朝飯前といってもいい位だろう。だが現実には、他の生物に転移しようとする転移者は、ジャッカーの中においてさえ殆どいない。

 人間以外の生物への転移、それはその生物の脳の持つ能力しか、思考に費やせないことを意味する。それは畢竟、自分の精神活動のうちの大部分を機能停止に陥れることになる。(記憶容量があるということと、その情報を全て思考に費やせるということは違う。)だからもちろん思考力は限りなく無いに等しくなり、残された本能だけで依童とされた動物を操ることになる。それがどんなに危険なことかは容易に察しがつくであろう。それはとり憑いた瞬間にとり憑いた生物の行動しか出来なくなるということなのだから。下手な生物に転移してしまえば、その生物は本能的に人間の元から逃げ出してしまう可能性の方が大きいわけで、それは即ち、ややもすれば戻るべきタイムリミットをオーバーして離魂体がヴァンパイアと化してしまい、その姿のまま死んでしまうことになりかねないのだ。

 

 つまり、成木黄泉とは、それほどの危険を全く畏れずに行うことが出来るのだ。

 

 防波用の堤の上につくられた公園には、夕暮れの風を目当てに涼みにやってくる人やアベックが少なからずいた。彼らはめいめいに、周りの景色やその日の出来事を話題にのぼせている。

 彼らの待望していた黄昏の風が木々を吹き抜け、葉ずれの音が周囲を支配した時だ。その一瞬、大野達が追ってきていたあの蝙蝠は、人がいる海岸側とは反対側の端にある木々の中、低い塀の近くにある樹の下で死んだように眠っている男の元に降り立った。

 実のところ、成木はこの蝙蝠については、その体内に転移しただけで、操ってはいなかった。彼は己の運命をまるっきり、蝙蝠自身の本能の行動に任せていたのである。それほどの信頼をこの小動物に寄せることが出来るのも、彼がこの蝙蝠タクシーは行き先に迷うことが決してないことを確信しているからだ。何故って、たとえどんなに離れていようとも、周りがどんなに喧噪に包まれようとも、蝙蝠は成木を間違えないからだ。それは、たとえどの身体であろうと、彼の主人が憑いた身体からは常に、誰かの犠牲によって流された血の匂いと、闇から湧き出す妖気が漂っているからだ。

 今では絶滅に近く、WWFでも最重要種の一つに挙げられているこのアジアオオコウモリは、吸血性の蝙蝠の中でも特に人の血を好むことで知られているが、この個体は更に、その血に暗黒が混じったものを嗜好する...。成木の可愛がるこの蝙蝠とは、そういうものなのだ。

 彼、蝙蝠は仰向けになっている男の胸の上を、ぎこちない足どりで移動すると、男の頚にカッとかぶりついた。

 男の血が蝙蝠に吸われるが、逆に成木の精神が人間の肉体に戻る...。ゆっくりと男の怜悧な目が見開かれる。黄泉がえりは完了した。

 頚部から流れ出る血を、蝙蝠が貪る。その食事が済んだのを見計らって、成木は左手で彼の背を撫でた。するとその蝙蝠は嬉しそうに一回身体をうち奮わせると、その翼を広げてばさりと上空に飛び立っていった。

「お前に身を任せていれば何の心配もいらんな。」飛び立つその姿を目で追いながら、成木は呟いた。

 完全に蝙蝠の姿が見えなくなると、成木はゆっくりと起きあがった。痩身だがしまった体躯を、うす汚れたシャツとGパンが包む。逆三角の顔は生気を取り戻していくごとに若々しくなっていき、正確な年齢は推定しかねた。彼は右手の中の何かの死骸を投げ捨てた。何かの小動物であることは確かなのだが、あまりに酷くボロボロになっているのでそれ以上は分からない。

 彼はそうして体調を完全に回復し、その場から去ろうとしたときだ、自分を見つめる視線に気付いた。

「まさかな。ここまで追ってくるとは思いもしなかったよ。」

成木がそう呼びかけると、樹の陰から大野が現れた。

「堂々と公園でひっくり返ってるなんざ流石の俺も思いつかなかったよ。現代人は浮浪者がいても無視するもんな、たとえ死んでいても通報すらするかどうか。離魂体の隠し場所としてまさに最適って訳だ。」

大野は真に感心した様子で言った。

「褒められると嬉しいよ。」

「俺が今感心しているのはもう一点ある。それはあんたが離魂体の中に鼠だか何だかを転移させていたことだ。」

「これは。鋭いね。」今度は成木が感心した。

「成田であんたが出てきたときから今まで八時間。最低に見積もっても、もうとっくにヴァンパイヤの時間は過ぎてるのに、何故あんたは平気だったのか。あんたは離魂するときに小動物の精神を変わりに自分の身体に入れたんだ。そうすればその小動物がヴァンパイヤを起こして死んでから、あんたの離魂体のカウントダウンが始まる。あんた自身がヴァンパイヤになるには、まだまだ十分時間があったってことさ。」

 そうするとその小動物が離魂体を扱えそうなものだが、小動物の精神の分を越えた脳の制御は不可能である。彼はせいぜい、閉じこめられた身体の生命活動を維持することで手一杯であろう。

 成木が捨てた小動物はそうするとヴァンパイヤ化していることになる。大野よりも更に離れた場所で二人の様子を窺っている馳は、そう考えただけで気分が悪くなった。

「驚いたな。見事な推察と説明だ。読者も納得するだろう。」成木は言った。うるさいなぁ。

「と、とにかく。大した計画だが、俺が追ってくるのは計算外だったようだな。」

「神妙にしろ。」馳は木陰から顔だけ出して言った。説得力がない。

「確かに。」成木は頷いた。「私は君を少し見くびっていたようだよ。君は確かに私がこれまでに対峙したジャッカーハンターとは違うようだ。だが私はそれでも、今君に捕まるわけにはいかないんですよ。」

「小悪党はみんなそう言うよ。な、新米君。」

「そ、そうですね。」

 本体に返ったジャッカーがハンターに勝てることはまずない。大野の余裕は根拠があるものだ、成木とてそう思うからこそ、焦燥を感じ始めていた。今は何より、奴よりも心理的優位に立つ必要がある。

「君の言う通り、さっきまでの私は小悪党だったろう。裏切り者のギルバートを抹殺することしか考えていなかったのだから。」

 転移可能者の社会的迫害の現状を考えれば、軍隊に身売りするような真似をする者を誅しようとする気持ちも、大野には解らないでもないが...。

 成木は語り続ける。

「だが今は違う。奴に、奴に接して私は、今や自分の未来に対して確たる目的を見いだしたのだ。」彼の言うのは、彼が人工転移以上だとみなした、あの男のもう一つの能力のことか。「だから今、君に捕まるわけにはいかない。」

「ギルバートをジャックしてたって奴に何か見出したのか。だったら弟子入りでもするつもりかい。」

「鋭いが、今君に教えるつもりはない。」

「じゃあお手紙でも出すんだな。刑務所に面会に来てくれってな。」大野は言うなり、成木に向かって突進した。

「どうかな。」成木は数歩後ろに下がると、腰の高さほどの塀に軽々と飛び上がった。「誰とても今の私を捕らえられん。」そして彼は大野達の方を向いたまま、ぴょんと飛び降りたのだ。

「あっ。」大野は思わず声を上げた。ホテルの5階からではないにせよ、下までは5mはある。無事で済む筈が...。

 大野が塀から身を乗り出して下を見たとき、しかし成木は何事もなかったようにこちらを一瞥し、

「私には最後の手が残されている。」と言って走り出した。

 本体だろ? 生身の人間だろ? 疑問を湧かせてはいるが、大野も躊躇なしに塀を越える。だが流石にジャンプは出来ないので、左手を崖に滑らせて降りた。当然タイムラグが開く...。だが、この程度の時間差で何をしようというのか。崖下の道路に降り立ったとき、成木は既に表通りに面した道の角を回っていた。

 ちっ、人混みに紛れて逃げ切る気か。と思った瞬間、大野は成木の真意が突然理解できた。それは彼自身慄然とするものだった。

 成木はパニックを起こすつもりだ。

自分がジャッカーであることを人混みの中で喧伝するつもりなのだ。そんなことをされたら周りの人間は狼狽して手が付けられなくなる。その隙に奴は悠々と逃げ果せるだろう。

 大野は狭い裏道を通ってほんの少しでも成木に追いつこうとする。ゴミ箱を蹴っ飛ばして表通りに出ると、逃げながら振り返った奴と目があった。

 大野と成木の間には十数mの空間...そして二人の間には最寄りの地下鉄駅から出てきた多数の一般市民がそれぞれの家路を急ぐ...。

 してやったり。成木が微笑んだ。

 

「マンジャックだー!!」

黄昏の喧騒を突き破る大声で叫んだのはしかし、なんと大野の方だった。何てことを...彼は血迷ったのか。公衆に放った自分の声が彼らにどんな結果をもたらすか、彼は判っている筈ではなかったのか...。が、声を限りに叫ぶ大野の表情は、決して自暴自棄の顔ではない。

 彼は賭に出たのだ。果たして結果は。

 大野にもっとも接近していた者たちは、大野の叫びで本能的に彼から離れようとして道の両側に飛びすさり、逆に大野とある程度の距離を置いている者たちは立ち止まって彼の去就を一瞬見守る...。

 ここに、二人の間の障害物は一瞬にして消え去った。しかも不意をつかれた成木は突然停止した一人の男を避けきれず、正面からぶつかった。成木と男は道路に倒れ伏す。

 周りの状況を逆手に取った大野の大博打は当たった。彼は成木との距離を一気に詰めることに成功したのだ。大野は自身のテンションの高まりを感じた。

「おおおおお!」

大野が吼えた。そして高々とジャンプし、左腕の拳を猛然たる勢いで仰向けになっている成木めがけて振り降ろす。

 だが、目にも止まらぬパンチは空を掠め、舗道に敷いてあるレンガを打ち砕いただけだった。成木は仰向けの姿勢から、人間離れしたジャンプで大野の攻撃を躱したのである。

 凄まじい破壊力だが、当てられなければ意味がないよ。そう考えた成木が軽く2mは離れて着地しようとしたとき、その余裕は表情からすぐに消えた。目の前に大野がいたからだ。

 お前の身が軽いのはさっきの崖での振る舞いで判っていた。地面をぶっ叩いたのは更に加速するためさ。

 大野はもう一度吼えて、自分の全体重を載せたその拳を、今度こそ成木の腹部に決めた。

 今回は操乱の憑いた馳にしたような手加減はなしだ。大野の拳は成木を身体ごと宙に浮かせ、そのまま道路脇の電柱に叩きつけた。拳はなおも深く成木の腹部に食い込む。まるで体内の気体を残らず吐き出させるかのように。

「がぁあああぁああ!」

成木がたまらず悲鳴を上げた。顔は悪鬼の如き形相で苦痛に歪み、手足は中空に浮いて何かを求めるかのように真っ直ぐにのび、ひきつった。そして痙攣が成木の全身を走り、まるで鼠のごとく跳ね回った。

 肺の空気を出し尽くし、成木の喉から最後の一声が漏れて、ようやく大野は拳の力を緩めた。

「終わった...。」大野は小さく呟いた。

 

 成木が電柱にそってずり落ちていく。頭はそのまま抜け落ちそうなほど垂れた。俯いたその頭の中では、屈辱と衝撃が渦巻いていた。成木ほどのジャッカーがこうまで追い詰められたのだ。彼の自尊心が瓦解してゆくのも無理はない。彼の動揺たるや計り知れない。だが、それ以上に沸き上がる大野への敵愾心が、成木に最後の抵抗を試みさせた。

 腕だけが......腕だけが素早く動いた。成木の両腕はまだ自分の腹部に突き刺さったままの大野の左手の拳を包み込んだ。

 転移!

成木の光を失った目がしかし、困惑に見開かれた。ジャッ...ジャッキング出来ない! なんて、そんな...。だが、最後の意識で彼は悟った。

「貴様...義手だな... そうか...一本腕の...一色......だった...とは...」

成木はそう言うと、今度こそ本当に白目をむき、地面に倒れ伏した。

 大野は遂に成木をしとめた。正に、圧倒した。

「光栄だね。俺は一本腕の一色、あんた達にピンぞろハンターなんて呼ばれてる大野一色だ。」

大野が左腕を降ろしたとき、太陽も没した。

 

 はっと、大野は我に返った。いかん。周りのことを忘れていた。

「あれぇ皆さん。どぉしたんですかぁ。」

思いっきりとぼけた声を大野は張り上げて周囲を見た。が...

みんな逃げてしまって誰もいなかった。

 

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第七章へ続く

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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