クリスマスケーキ、届けます
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 十二月二十四日。放物線徒界駅二十時三分発の下り列車には、たくさんのカップルが乗り合わせていた。皆一様にクリスマスムードに浮かれている。

 そんな中に、雅也は居た。隣に彼女はいないが、その代わり小さなケーキの箱を大切そうに抱えている。ふいに列車が大きく揺れて、雅也は慌てて吊り革を握りしめた。

 雅也は今、偵察の仕事を終え、ケーキを買ってアパートへ帰るところだった。苺のロールケーキで良かったんだよな、と、雅也は心の中で確認する。彼はアパートを出る時、恋人である茜に「いい? 普通の苺ショートなんかダメ。砂糖サンタさんにも惑わされないで! 苺のロールケーキ、はい復唱!」としっかり念を押されていた。彼らは今、仕事の都合上、田舎の小さなアパートに同棲していた。

 雅也に復唱させるほど苺のロールケーキにこだわっているのだから、よほどこのケーキが好きなのだろう。雅也はケーキの箱に目を落とした。箱の中身を見た時の、茜の嬉しそうな顔を思い浮かべると、雅也は笑みを零さずには居られなかった。

 雅也の降りる一つ前の駅に、列車が止まった時のことだった。ドアが開くと同時に、ある人物が列車に乗り込んできた。フードを目深に被り、顔を隠している。その人物は乗客たちの間をすり抜け、雅也の居る車両にやって来た。

 一度大きく揺れてから、列車は動き出した。その人物はゆっくりと雅也に歩み寄り、彼の背後で足を止めた。雅也はまだ、後ろの気配に気付いていない。その人物はフードの下でにやりと笑った。その拳の中に、怪しげな光が灯る。

「っ!」

 地面を蹴る音。何かが空気を裂いた。そして、軽い着地音が一つ。

 瞬目にして事は起こった。その一瞬後には、フードの人物は小型の斧を雅也の居たところに突き出していて、雅也は頭上にあった荷物棚の上で縮こまっていた。

「あっぶねー……」

 雅也の額から、汗が噴き出した。

 車内は騒然となった。雅也の向かいに座っていたカップルは恐怖に身を寄せ、周りに居た人々も、潮が引くように雅也たちから離れていった。甲高い悲鳴と共に、「モンスターが出たぞ!」という叫び声が上がった。

 モンスターに対処をする仕事に就いている雅也は、周囲の人と比べるといたって冷静だった。

「お前なのか? この辺りで悪さをしているっていうモンスターは」

 ああそうさ、とモンスターは言って、雅也を見上げた。その拍子にフードが外れ、その顔が露わになる。毛むくじゃらの茶色の毛に覆われ、頭には尖った耳が生え、二つの目が石炭のように黒光りしている。まるでオオカミだ。

「我が名はウォン! 今日はお前を倒しに来たのだ!」

 今にも飛び掛かろうとする体勢のウォン。しかし雅也は、おずおずとウォンに話し掛けた。

「あー、あのさ、ウォン? 俺を倒すのって、今日じゃなきゃ駄目か?」

「何を言っている、当たり前だろ!」

「明日、どこかで待ち合わせして戦わないか? その――ここだと、狭いしさ」

 ここでの戦いを避けようとする雅也にウォンは訝しんだが、雅也の腕に大切そうに抱えられたケーキの箱に気付き、何かを悟ったようだった。ほほうと笑って、再び雅也に飛び掛かる。間一髪で、雅也は荷物棚から飛び降りた。

「今だ。今お前を倒す!」

 列車の床に着地した雅也は、小さく舌打ちをした。

 とはいっても、やはりここで戦うのは望ましくない。ここは狭くて動きにくい上に、乗客を人質に取られたら面倒だ。どこか戦うのに良い場所はないかと、雅也は素早く視線を走らせた。その目はすぐに列車の窓に留まった。どうやら、強行下車が最善の道のようだ。

 雅也はいきなり乗客の方を向いた。

「乗客の皆さん、お騒がせしてすみませんでした!」

 そう叫ぶと、呆気に取られるウォンの横をすり抜け、雅也は反対側の窓へ駆け出した。

「乗車料金は後で払――」

 い、で踏み切り、ます、という声は窓ガラスの割れる音によって掻き消された。冬の夜闇へと身を投げた雅也は、列車のまとっていた風に圧され、数メートル横へ吹き飛んだ。風の中に混ざっていたガラスの破片が、雅也の頬を掠める。

 柔らかな土の地面に、雅也は猫のように着地した。ケーキの箱は、その腕にしっかりと抱えられたままだ。雅也の目の前には、深緑色の林が広がっている。きっとこの線路は、雑木林を切り開いて作られたものなのだろう。

 背後を列車が走る音の中から、ふいに「逃げるな、貴様っ!」という声が聞こえてきた。雅也の思惑通り、ウォンが列車を降りたのだ。声の方に振り返ると、ウォンが数十メートル離れた所からこちらに走って来るところだった。

 ウォンの様子を確認してから、雅也は目を閉じ、両手を前に突き出した。心の中で、強く念じる。

 ――剣よ!

 彼の両手に、温かな紅の光が宿る。次の瞬間、雅也の手には一本の剣が握られていた。雅也はケーキの箱の取っ手を口にくわえると、両手で剣を構えた。列車の明かりを反射した剣は紅色に輝く。雅也と戦える距離まで来たウォンも、武器である斧を構えた。

 数秒間の静。列車の音は、辺りに染み込むように消えていった。

 二人が地面を蹴ったのは、ほぼ同時だった。金属のぶつかり合う甲高い音がして、双方、後ろに弾き飛ばされる。間髪を入れず、二人は再び飛び掛かる。今度は雅也が一瞬速かった。ウォンは辛うじて雅也の剣を避けた。

「ほー、なかなかの腕前じゃないか」

「んんーんんんん!」

 ケーキの箱をくわえているため、雅也はまともに喋れない。

 しかし、ウォンは気にせず「だが」と続ける。

「我輩はお前の弱点を知っている!」

 ウォンの言葉に、雅也が眉をひそめた、その時だった。雅也の頬に鋭い風が当たり、歯が一斉に一方へ揺れた。殴られたような衝撃。しかし、どこも痛くない。

「お前、何を――」

 そう言いかけて、雅也ははっとした。喋れる。即ち、口にくわえていたケーキの箱がない!

 顔の横で何かの音がした。振り返ると、宙に浮かんだケーキの箱をウォンが掴んだところだった。ケーキの箱を手にしたウォンは、嫌らしい笑みを雅也に向けた。

「返せ!」

 とっさに手を伸ばすも、ウォンはそれをひょいと避けた。そして褐色の舌を雅也へ突き出し、踵を返して雑木林の方へ駆け出した。

「待てーっ!!」

 ウォンの後を追って、雅也も駆け出した。

 

 

 夜の暗い雑木林では、僅かな月明かりだけが頼りだ。雅也は目を凝らして、ウォンを追った。見失うわけにはいかない。何としてでも、ケーキを取り返さねば! 雅也はただ一心にウォンを追いかけた。

 どれくらい走った時だっただろう。ふいに、ウォンが雅也の方を振り返った。傾きかけた三日月を背にしたウォンは、雅也へ余裕の表情を見せた。

 ウォンはケーキの箱を掲げたかと思うと、次の瞬間、それを勢いよく振り下ろした。あ、と雅也は呟く。ケーキの箱はウォンの手を離れ、宙に浮いていた。白色のそれは、月明かりの逆光を浴びて青白く見える。

「ケーキッ!!」

 ケーキの箱は、見る間に速度を増しながら落下していく。雅也は地面を蹴り飛ばし、まるで磁石に鉄が吸い付くように、空中でケーキの箱をキャッチした。雅也の口から、安堵のため息が零れた。

 しかし、それも束の間。彼の身体はぐらりと揺れたかと思うと、急激に落下し始めたのだ! その上、いつまで経っても地面に足が付く気配がない。身の危険を感じた雅也は、とっさに身体を捻り、片手(ケーキを持っていない方の手)を突き出した。指先に触れた硬い何かを、すがる思いで掴む。指先に全体重が掛かり、落下は止まった。雅也は再びため息を吐いた。

 いくつかの小石が、雅也の脇を落下していった。恐ろしいことに、どれほど時間が経過しても、小石が地面に落ちたような音がしない。どうやらここは、崖のようだ。

 頭上で砂利の擦れる音がして、雅也は顔を上げた。

「まさか、これほどまで上手くはまってくれるとはな……」

 それを聞いて、雅也ははっとした。これらはウォンの罠だったのだ。ウォンはこの辺りで悪さをしていた。つまり、この辺りの地形には詳しかったのだ。偶然雅也の持っていたケーキの箱を見て、この崖までおびき寄せることを思いついたのだろう。

 雅也は舌打ちをし、指先に力を込めた。全体重の掛かった指先に砂利が食い込み、指先と手の筋肉が同時に悲鳴を上げた。しかし、今はこの指先が命綱だ。これを離してしまったら、雅也の命も、お土産のケーキもなくなってしまう。崖下から吹き上げてくる冷たい上昇気流は、雅也を嘲笑うようにそのコートと髪をなびかせた。

「ふん、いつまででもそこに掴まってろ」

 ウォンはそう言うと、持っていた小型の斧を天高く掲げた。

「我輩が岩もろとも砕いてやる!!」

 反り返る刃が、月明かりに青く光る。雅也は思わず目をつむった。空気が切り裂かれる音は、小さな悲鳴にも似て――。

 

 

 

 鈍い音がした。

 

 

 指先に伝わる僅かな振動。そして静寂、一秒、二秒、三秒。

 

 

 どうやら、雅也の掴まっている岩は砕かれなかったようだ。雅也は恐る恐る目を開けてみた。

 頭上の地面に、ウォンが倒れ込んでいた。ウォンの向こうには、一つの人影が見える。臼のように巨大なピコピコハンマーを肩に担いだその人は、雅也の仕事の先輩であり、恋人でもある茜だった。

 ふいにウォンの体が光に包み込まれたかと思うと、その光と共にウォンの姿が消えた。彼は本来モンスターのいるべき次元へ還ったのだ。

「戦闘慣れしてないね。まだ当分は、偵察係をやってもらうよ」

 茜が指を鳴らすと、ハンマーは煙となって消えた。雅人に歩み寄り、彼の前で屈み込む。

「さ、ケーキの箱を貸して。引き上げてあげるから」

「茜先輩……。何で、こんなところに」

 雅也はケーキを渡し、空いた手を茜に差し出すと、茜はよいしょと雅也を持ち上げた。胸の辺りが地面の高さまで持ち上げられると、雅也は地面にしっかりと手を付き、そこからは自力で這い上がった。雅也は数歩歩いてウォンのいた辺りにへたり込んだ。

「はぁ、ひきかえった……」

「雅也。私たちのアパート、あそこに見えるのよ」

 茜は林の向こうに見える灰色の建物を指差した。雅也は間の抜けた声で「ほんとら」と言った。

「ぼんやり窓の外を見てたら、あんたたちが見えて。それで、剣はどうしたの?」

 茜にそう言われて初めて、雅也は自分が剣を持っていないことに気付いた。

「林の中に置いてきたみたいだ」

 いけねと呟き、雅也は二回指を鳴らす。一回目で手中に剣が戻ってくると、もう一度指を鳴らして剣を消した。

「やれやれ」

 雅也は自らの生存を確認するように、深く息を吐き出した。その様子を見て、茜は「無事で何より」と微笑んだ。

「ところで……」

 茜の笑みが、期待を込めたものに変わる。可愛らしい前歯がちらりとうかがえた。茜は雅也から渡されたままだったケーキの箱を持ち上げた。

「買って来てくれたのは、苺のロールケーキだよね?」

「もちろん! 嘘だと思うなら、開けて確かめてみなよ」

 雅也はにやっと得意げに笑う。茜は「わっほー!」と叫んで、ケーキの箱に手を掛けた。雅也は立ち上がって茜の横に並び、箱が開けられる瞬間を見届けることにした。二人の目に見守られながら、それはゆっくりと開けられた。

「あ……」

 雅也の表情が強張る。

 箱の中にあったのは、間違いなく苺のロールケーキだった。しかしそれは箱の片側に偏り、いびつな形になっていた。ロールが解けつつさえある。ケーキの背中に載っていた苺やチョコの飾りは箱の側面や底面にへばりつき、ケーキから漏れた生クリームで、箱もケーキもべとべとになっている。きっとウォンと戦ったりしているうちに、こうしたひどい形になってしまったのだろう。

「こんなはずじゃ……」

 雅也は眉尻を下げ、すがるような目でロールケーキを見つめた。今にも泣きそうだ。

「大丈夫だよ。少し潰れたって、ケーキの味は変わらないって」

 諭すような茜の口調。雅也が顔を上げると、茜は彼に向かってにこっと笑ってみせた。

「アパート帰って、一緒に食べようよ!」

 茜につられるように、雅也も笑顔を取り戻した。

 

 

 

「……っていうか、俺もケーキ食べていいのか?」

 

「何言ってんの。一緒に食べられるようにロールケーキにしたんじゃない」

 

 

 

説明
恋人のためにクリスマスケーキを買った雅也は、あとはアパートに帰ってクリスマスを祝うだけだった。

とんだ邪魔さえ入らなければ……。
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