愛しい人達
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 人々のまばらな往来の中で、音も無く赤い髪留めが落ちてしまった。私は味噌と塩の((甕|かめ))を買って両手が塞がっていて、それを拾うのは億劫だった。しかし気に入っている髪留めだったので捨て置くわけにもいかず、私は甕を両脇に抱えながら膝を曲げ、指先でそれを摘みあげようとした。今思えば二つの甕をその場に置いて普通に拾えばよかったのに、変な横着をしてかえって時間と労力がかかるなと、己の浅はかさを自嘲する気持ちと共に、それでも一度こうしようとしたのだからこのまま取ろうという変な意地が起こり、私はその場にしゃがみこんで爪で何度も地面を引っかいた。

「お嬢さん、気分でも悪いのかい?」

 悪戦苦闘しているところに背中から知らない若い男の声を掛けられ、自分ははたから見たらそんな風に見えるのだと気付き、その声の主への幾ばくかの申し訳無さと、人前でしょうもない努力をしている滑稽な自分への恥ずかしさで、返事をするのが少し遅れた。

「いえ、平気です」

 すぐに拾って何事も無かったようにその場を逃れてしまいたかったが、甕の陰になって死角の髪留めは中々捕まらず、かえって焦った指でその髪留めを弾いてしまい、いよいよそれがどこにあるのか分からなくなった。自分の耳はきっと赤くなっていて、その耳を後から殿方に見られていると思うと、また恥ずかしくてさらに顔が赤くなっていくのを感じた。

「これですか?」

 後ろから長い腕で目の前に差し出されたのは、間違いなく自分が落とした髪留めであった。声はすぐ耳の後ろから聞こえた。

「ありがとうございます」

 返事をしてから、両手は甕を抱えていて、髪留めを受け取ることが出来ないことに気付いた。指先に挟んで受け取るというのは、拾ってくれた態度としてはいかにも無礼だった。そして今さら甕をおいてそれを受け取ると言うのもなんとも間の抜けた話だった。

「それ、僕が持ちましょう。お嬢さんには重いでしょう」

 どうしたものか悩んでいるとその人物は私の正面に藍染めの着流し姿を現し、私が断る前に二つの甕をなんてこと無しに片手で抱え込んだ。すっかり自由になった私の両腕は鳥の羽のように軽くなった。

「博霊神社の方ですよね? 知っていますよ、赤い服を着た可愛らしい巫女さんがいるって」

 断ろうとしたが、そんなことを言われてどうにも言葉が出なくなり、結局そのまま神社まで甕を持ってもらった。その男性は道中よく話しかけてきて、博霊の巫女には感謝しているとか、一度に重い物を二つ買うのは無理があるとかそのようなことを言ってきた。彼は背が高く大柄だったが、会話の最中でさほど私と年が離れていないことが分かった。

「それでは僕はこの辺で。また会いましょう」

 背中を向けて鳥居をくぐる彼の背中は大きく見え、普段見る面子と全く違う筋骨たくましい後姿に不思議な信頼のような感情が起こった。彼がこちらを振り返ることなく長い石段を降りて見えなくなるまで私はその背中を見ていたが、その姿が見えなくなってから、お礼と称して茶でも出せば良かったことに気付き、後悔した。

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「ねえ霊夢、最近化粧してない?」

 ちゃぶ台を囲み、いつものように三人で茶をすすっていたところ、アリスが何気無さそうな顔で尋ねてきた。

「ええ、してるわよ」

 努めて冷静に返事をした。

「好きな人でも出来たの?」

「そんなんじゃないよ」

 たまたま里で出会ってちょっと甕を持ってくれただけで好きになるというのなら、私はいかにも単純過ぎる、と自分の言葉を一人で補完した。アリスの唇の端を上げた意地悪っぽい顔に、何かよからぬ想像をされているのがありありと見て取れたが、ここで焦って重ねて否定するのは自分から墓穴を掘ることになるだけらしかった。

「へえ、霊夢がねえ」

 アリスは変わらぬ目つきで私を見ていたが、それ以上追求はしないつもりのようだった。静かに両手で湯飲みを抱える魔理沙はこの話題に関しては特に何も言わなかった。

「そんなことよりもね、里に行きましょうよ。最近新しい甘味処が出来たらしいわよ」

 自然に話題を逸らせたかどうかは疑わしいが、とにかくこの話を終わらせたかった。

「神社の仕事はいいの?」

 と、アリス。

「もともと私がいるのも飾りみたいなものよ」

 自分で言って情けないが、悲しいかなそれは事実だった。

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「新しいってのはそれだけで価値のあるものだと思うわ」

 どのように振舞っても演技っぽくなってしまうので、いっそ自ら演技っぽく振舞おうとし始めた私は、自分でもよく分からないことをさもそれが当然であるかのように言った。

「分からないでもないわ。新しい土壁の匂いは好きよ」

 アリスはにんまりしながら同調した。

「霊夢が新しい店を知ってるなんて意外だぜ。普段はずっと神社にいるんだろ?」

 魔理沙は本当に至極当然の質問をぶつけてきた。

「舐めてもらっちゃ困るわ。仕事で何回も里に来てるから里のことはなんでもお見通しなのよ」

「お仕事、最近減ったんじゃなくて?」

「記憶力はいい方なのよ」

 我ながら苦しい言い訳だったが、それ以外に思いつかなかった。そもそもなぜ自分はこんな場所に二人を案内したのか、その時点でどうしようもない墓穴を掘っていることに、三人でこの甘味処へ歩む途中に気付くという有様だった。私は明らかに動揺していた。アリスに自分の奥深くに続いていそうな慣れない感情を見透かされて、それを自分としては隠すべきか、それともあけすけに言ってしまうべきかも分からず、なんとなくの気恥ずかしさからつい強がって、意味の無い嘘をついている。救いなのは、アリスがその私の心中すらもどうやら見透かしていることだった。自分から言い出さないことで、彼女を裏切っているような気まずい申し訳無さが少しあって、気づいていない魔理沙に不審に思われないよう、アリスにだけ私の気持ちを伝える器用な言葉を探したりもしたが、そんな便利な言葉は思いつかなかった。

「ま、食べましょうか」

 嫌味なくらい落ち着いている、人形のように綺麗なアリスの横顔には、私が何をどう言っても敵わないようだった。

「いただきまーす」

 私はこんなに焦ったり考えたりしているというのに、普段と変わらぬ調子の魔理沙が羨ましかった。

「いただきます」

 二人に続いて私も鮮やかなガラスの容器に入れられた餡蜜に木のヘラを入れた。

「あれこの前の」

 すくった餡蜜を口に入れようと持ち上げたところで背中から声がして、振り返るとあの時の男がいた。

「奇遇ですね」

 そう言いながら私は木のヘラを器に戻して長椅子の上で体を回し、その男に向き直った。以前と変わらぬ着流しを着た男は片腕だけ袖を通して涼しい格好をして、その胸元がちらりと覗いていた。

「ここ、気に入ってもらえたかな?」

「ええとても」

 もう二人に言い逃れは出来ないと諦めながら答えた。

 その後、彼は私達と離れた場所で一人餡蜜を食べ、すぐに出て行った。一緒にどうかと誘ったが友達同士の邪魔をしては悪いと言われた。

「彼が霊夢の好きな人?」

「……そうよ」

 アリスに遠慮無しに言われ、もう隠すのも無理なことだし、大人しく白状することにした。

「へえ、霊夢がねえ。うーん」

 魔理沙は目を丸くしてあたかも意外そうな顔をして、腕を組んで次は難しい顔になった。

「私だってうら若き乙女なんだし、恋の一つや二つしたって何もおかしくないでしょ?」

「いやはや、これまたどうして、意外だ」

 最後にはっきりと言われ、私は言うことが無くなった。

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 境内の掃除も終わり、いつも通り賽銭箱が空なのを確認してから、離れの縁側に座った。薄い雲のかかった水色の秋の空の下で杜の木々がちらほら色付いている。時々音も無く黄色の葉がひらひら左右に揺れながら落ちるのを見るともなしに見ながら、私は熱めの緑茶をすすった。

 もの寂しい杜の景色を眺めながら自然に彼のことが思い浮かんだ。また会えたら嬉しいな、もしかしたら賽銭を入れに来てはくれないだろうか、そうしたら今度こそお茶に誘おう、お茶は何がいいだろうか、というようなことを茶を飲みながら考えていた。里に出ようか、先日のようにまた会えるかも知れない、とも考えたが一応は巫女である身なのでそう頻繁に神社を空けるわけにも行かなかった。

 自分の胸の内に芽生えた温かくて少しはにかみたくなる感情と、それを抱いて彼を想っては高鳴る鼓動に、私は今までに体験したことのない、えも言われぬ幸せな気持ちになって空想していた。いつか婚姻して家族を作って、私は家事や子供の世話をしながら彼の帰りを待つ。そんな空想をいつまでも続けられそうだった。そう言えば、今まで意識せずに生きてきたが、私は子供を生むことだってできるのだ。

 こんなに静かで自然の豊かな情緒あふれる景色を見ながら、いつの間にか私の心臓は激しく興奮していて、気付けば顔が熱っぽい。植物の豊かな静謐な景色と、自分の肉体の生々しい感情のギャップがなんだかおかしくて、つい自分が助平な人間なのではないかと心配になる。いや、別に助平でもいいけれど、それにしても自分がこんな風になるのは驚きだった。自分でさえそうなのだから、アリスや魔理沙が驚いたのも当然だったのかも知れない。

 私は、本来の性質としてはあまり他人と深く関わることは無い。けれど彼については心も体も奥深くまで関わりたいと切に望んでいた。

「よお」

 空想が一区切りついてドキドキしていたところに、魔理沙が庭にやって来た。私は顔を見られたくなかったが、不自然に背けるのも格好が悪かった。

「どうした、赤い顔して」

 魔理沙は大きな箒を地面に置いて私の隣に座った。

「別に、大丈夫よ」

「風邪か?」

 と、私と自分の額に手を当てて比べる魔理沙。心配してくれるのは嬉しいのだが体の状況を説明する気にもならず私は無抵抗のまま人形のように黙っていた。

「少し熱いぜ。布団敷いてやろうか?」

 本当は必要無いけれど、こんないい天気の元で昼寝をするのもいいかも知れないと思った。

「お願いしていいかな」

 魔理沙は縁側から和室に上がり、押入れから布団を持ち出すと私のすぐ近くに手際よく敷いた。

「ありがとう」

 私はきっちり整然と敷かれた布団にもそもそ潜り込んだ。

「それでなんだが霊夢。今日はちょっとした知らせがあるんだ。大したことじゃあないんだが」

 私が横になると、魔理沙は胡坐をかいて布団の脇に座って話し出した。

「最近人間を襲う妖怪がいるんだってよ。でも襲うのは里の人間でも退治できるような弱い妖怪だから霊夢が出るまでも無いって里の警備の連中は言ってた。今は早苗が修行を兼ねて警備に協力してるんだとよ」

「それじゃあ私は寝てていいのね。安心して寝ることにするわ」

「そういうことだな。以上が警備の連中からの伝言だぜ」

 その後しばらく他の話をして魔理沙は帰っていった。その彼女の背中を見送ると私は縁側に戻って来た。

 そして赤い装束を縁側に脱ぎ落とし、上半身をサラシ姿にして再び布団に入った。

 涼しい秋の風を感じながらの昼寝は、先ほどまでの体の火照りを優しく冷ましてくれた。

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 数日後、のんびり縁側で茶を啜っていると、落ち着かない様子の慧音が現れた。

「早苗が怪我したんだ。霊夢も協力してくれないか」

 里の詰所に連れられて来ると、そこには右腕を真っ白な三角巾で吊った早苗と、二人の警備の者が居た。

「面目ないです」

 早苗がバツが悪そうに言う。

「相手は弱い妖怪じゃなかったのね」

「霊夢はこの一連の出来事を知らんだろうから初めから順を追って話そう」

 一つ咳払いをして、慧音が話し出した。

「夜中に妖怪が里にやってくるようになったのは十日前だが、実はそれ以前にも同じものと思われる妖怪が里の内部で見つかっている。それを最初に発見したのは里の産婆だ」

 慧音はそこで一旦言葉を切った。妙に静かになった空間に、誰かが唾を飲む音が聞こえた気がした。

「それは人間の女性から生まれ、人間の赤子と全く同じ産声を上げたそうだが、人の形はしていなかった。産婆はすぐに括り殺そうとした。しかし首に手をかけたところでそれは産婆の手から抜け出し、自身の足で立ち上がってすぐに外へ走って逃げたということだ。産婆によると、それは、重度の無脳症児そのものだったそうだ」

 慧音は一つ息継ぎをした。

「その日から毎晩警備の者が奇妙な妖怪を見るようになった。それは人間の赤子のようだが二本の足で立っていて、警備している者の後ろをゆっくり付いてくるというのだ。どうやら明るいものが苦手なようで、行灯をかざすと竹林の方へ逃げていったという報告もある。別段実害があるわけではないのだが、どうにも気味が悪いのでなんとかならないかと、警備の者が私に相談に来たのが七日前のことだ。その相談を受けて私が調査した結果、その妖怪が先の人間から生まれたものという可能性が高いことが分かった。断定はできんが、産婆と警備の者の証言からするとおそらく同じものだ。そして守矢家に相談に行ったのが五日前。先に霊夢ではなく早苗に掛け合ったのは、早苗の方が霊夢より少し歳をとっているからだ。今回はどうやら若い娘には辛い仕事になりそうだったのでな」

 慧音は淡々と話す。警部の二人は黙って腕を組んでいた。早苗は俯いていた。

「五日前から夜の警備に私と早苗が交互に付き添い、その正体を見極めようとしたが、やはり人間の赤子に酷似した姿ということと、我々の後を付いてくること、明かりを嫌うことくらいしか分からなかった。そして昨夜、早苗が負傷した」

 慧音は早苗に目配せした。

「そこからは私が話します」

 静かな、ため息のような息を吐き、早苗が顔を上げて静かに話し出した。

「昨夜の丑三つ時の時分です。私は警備の弥七さんと里を見回っていました」

 こちらの、と早苗が隣の警備の男を左の手の平で示すと、その腕の太い男は腕組みしながら頷いた。

「里の端の水田に来た所でその妖怪が現れました。見るのは二回目だったので驚きはしませんでしたが、相変わらず様子が分かりにくいので、ええと、つまり行灯を近づけると逃げてしまうので暗がりの中で様子を伺いながら里を歩き回ってたんです。そして突然、本当に突然その妖怪が私に飛びついてきたんです。今までよちよち歩いてたのがびっくりするくらいに俊敏に跳ねて……」

 早苗は唐突に言葉を切り、しばらく待っても話し出す気配がなかった。

「それで?」

 何か言いたくないことが起こったんだろうと思いながら、私は促した。

「その妖怪は私の耳元で『おかあさん』と……」

「早苗さんが襲われたと思った俺は警棒をそいつに振り下ろしたんだが、そいつは妙に素早い動きで警棒を避けて竹林の方に逃げた。早苗さんの怪我は俺がやったのさ」

 弥七と呼ばれた男が早苗に続けて話した。

「あなたは悪くないですよ」

 早苗はまた俯いていた。

「とまあ、そういうことがあったわけだ。我々なりに考えてみたりもしたが、一体どうしたらいいのか分からないのだ。霊夢はどうするべきだと思う?」

 慧音が仕切り直すようにきっぱりした声で私に言った。

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「水子の妖怪ねえ」

 私の話を聞いたアリスは、紅茶のカップに一口付けて出窓の外の景色を眺めた。私はアリスの言葉を待ち、アリスは遠い目をして考え込み、白を基調とした洋風の室内は、外の木枯らしが銀杏の葉を揺らす音が聞こえるくらい静かになった。

「私は第三者だから冷静に意見を言うわよ。その水子はきっと母親を探しているんでしょうけど、母親に会わせるべきではないわ。冷たいようだけど、本来ならすぐに括り殺されてあの穴に放り込まれるものだったのが、今更母親に会った所でその子に安息は訪れないし、子を無くした悲しみの最中の母親の目の前に妖怪を突きつけて『これがあなたの子です』って言った所で母親が喜ぶとは思えないわ。私は子供を産んだことがないから母親がどう思うかは分からないけど、きっと相当な苦しみを味わうことになるわ。だからその水子は、最初に産婆がやろうとしたように殺すしか無い。その水子にしても、生きていたって何も楽しいことは無いわよ」

 アリスは淡々とした声で話した。

「それにしても霊夢は本当に大変な立場ね。私はその水子やその母親や里の人間よりも、霊夢の方が心配だわ」

「大丈夫よ。こうしてアリスが相談に乗ってくれるし、慧音や魔理沙もいるし」

 アリスは神妙な顔でまた紅茶を一口飲んで、私の目を見た。

「霊夢っていっつもどこかで私達に遠慮してるでしょう。それはそれでいいんだけど、もし霊夢がこの手の仕事をやって辛い思いをしてるんなら、ちょっとくらいは私達に甘えたりぶつけたりしていいのよ。少なくとも私は霊夢のために傷つくんなら、むしろ嬉しいもの」

 理由もなく不定期に開かれる博霊の宴会に毎回出席し、いつも甲斐甲斐しく働きまわる彼女は、いつもそんなことを考えているのだろうか。

「私はそこまでされるほど立派な人間じゃないわ。そんなに私にこだわらないで」

「迷惑?」

「私はアリスに何もしてあげてないのに、私ばっかりアリスに良くしてもらうのが申し訳ないのよ」

 私は視線を、つい逸らしてしまった。

「らしいといえばらしいけどさ」

 アリスは窓の外を見ながらまた紅茶を一口飲んだ。

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「お母さんの所に何度も取り調べに行くのも悪いでしょうから、霊夢さんには私からお母さんのことをお話しようと思います」

 慧音に詰所に連れてこられてから二日後、未だに判断の付けられない私は、再び里の詰所にやってきて早苗の話を聞くことにした。普段は警備が常に一人は居る場所だが、早苗が常駐しているということで、今この場所には私と早苗しか居なかった。

「証言、というほどのものではないのですが……」

 早苗は番茶を机に置いて話し始めた。

「質問をしていたのはもっぱら慧音さんで、私は黙ってやり取りを聞いてたんですけど、彼女は一見した所は気丈に振舞っていました。でも、やはり死産になったことは本当に残念そうでした。出産前の話も少ししてくれました。臨月が近づくとその子はよくお腹を蹴っていたそうで、きっと元気な子が生まれるに違いないと旦那さんと話していたそうです」

 そう話す早苗の表情は、その時の母親の表情と同じものなのだろう。暗い影が落ち、気を張ってはいるけれど生気の感じられない虚ろな顔だった。

「これは私の個人的な感想ですが、本当は死産じゃあないんですよね。お母さんには死んだことにされていても、その子は今も生きていて、お母さんを探しているわけですから。親に死んだと思われ、親の元に帰ることのできないその子は、本当に可哀想です」

 早苗は番茶の湯のみを見つめて、続けた。

「でも、無理ですね。あの子はやはりあの穴へ放り込むしかありません。せめてあそこを、墓標を立てて雑草も刈って、もっと立派なお墓にしてあげたいというのが私の考えです。それであの子が救われることにはなりませんが、せめてそれくらいのことはしてあげたいです」

 力なく下がった眉は、早苗のその妖怪に対する憐憫を表しているように見えた。

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 満月だというのに灰色の雲が空をすっかり覆っていて暗い夜だった。三人で里のはずれにまで来ると虫の声がにわかに高く聴こえた。秋の涼しい乾いた風が吹いたかと思うと、その風はずっと遠くまで広がるススキの群生をなびかせながら離れていった。

 早苗に話を聞いたその夜、私は警備の者と早苗の見回りに付いて行くことにした。何か考えがあったわけではなく、ただ、その妖怪を見てみたかったのである。もしその妖怪が人間に危害を加えるようなら安心して退治もできるが、今回の場合はそうもいかない。かといって奇妙な姿の妖怪が人間の里を夜な夜な徘徊するというのも里の人間にとって好ましくない。私の胸には、この如何ともしがたい問題はどんなに時間を費やしても解決できないであろうという達観があった。けれども私はとにかく、何らかの行動を取りたかった。

「出ましたかね」

 と、小さな低い声で弥七が私達に囁いた。

 里の端、水田が広がる一帯で、いつの間にか何か背の低いものがゆらゆら揺れながら私たちの後ろを付いてきている。後ろの様子は、行灯を持った先頭の弥七の背の影になっていてよく見えないが、確かに何かが居て、私達と一定の距離を保って歩いているのが分かる。

「水田から出てくるんでしょうか」

 と、早苗。

「分からないわ」

 どこからやって来たのか、いつからそこに居たのか、全く察知出来なかった。

「弥七さんはなぜ分かったの」

「なに、時間通りってだけです。いつもこの辺で出て来るんでね」

「最初はすぐ追っ払ってたんですけど、慧音さんがよく観察しろと言うんで、里の中心近くまではこのまま歩くことにしました」

 その言葉通り私達、つまり後ろからヒタヒタと足音を立てて付いてくる姿のよく見えないものを含め、全員が里の中心近くまでやって来た。風は相変わらず吹いていたが、水田のあたりに比べるとずいぶん緩やかになっていた。

「いつもはこっちを通るんですけど、ちなみにあっちの通りには件の人の住処があります」

 道が分かれている所で弥七が反対側の道を行灯で照らすと、その先には何の変哲もない長屋があった。

「俺達があの家の前を通ると、何かが起こるんでしょうか」

 弥七も早苗も、私に並々ならぬ信頼を寄せているようだが、私はこの事件をどう捉えるべきかも、どうするべきかも、あの妖怪の真意も、何も分からなかった。けれど……

「話を動かすにはそうするしか無いわ。あの妖怪が本当に母親を探しているのなら、私はその願いを叶えてあげたい。母親には酷かも知れないけど、そうしないと私達はずっと堂々巡りをするだけになるわ」

 二人は少し沈黙したが、程なくして早苗が口を開いた。

「実は私もそう考えていました。でも、果たしてそれをしていいんでしょうか。どうなろうともあの子に先はないのに、ぬか喜びをさせるだけになるのではないでしょうか。それならいっそこれ以上苦しまぬよう一瞬で、というのが今の私の考えです」

 彼女は既に御幣を懐から取り出していた。

「ぬか喜びでも、生涯で一度も喜びが無いよりはきっとマシよ。殺すのはその後でもいい」

 早苗は口をつぐんだ。

「こっちへ行くわよ」

 指を指して促すと弥七は黙って従い、その長屋の方へ足を向けた。私と早苗は静かに彼に続き、後ろからはやはりヒタヒタと、地面に張り付くような水っぽい足音が聴こえた。

 虫の声が遠くに聴こえ、雲に隠れた満月の朧な明かりと、弥七の持つ赤い行灯が長屋の通りをぼんやり照らしている。それとなく足音に集中すると、私達の他の足音が確かに付いて来ていた。もう少ししたらその足音の主は私に殺される。それを知る由もない妖怪は、私達の行く先にきっと何かがあると期待して後ろに居る。

 通りに入って数十歩進んだ所で弥七が足を止めた。

「本当にここなの?」

「そうですが」

 私はこの場所を知っていて驚いた。が、今は関係の無いことだった。

「こんな夜分に起こすのも悪いけど、仕方ないわね」

「霊夢さん……」

 その戸を叩こうとした時、背中から早苗のつぶやきが聞こえた。気付けば、ずっと後ろにあった足音がいつの間にかすぐ背後にまで移動していた。やがてヒタヒタと聞こえた足音が無くなり、地面の砂と肉を擦る音と、不規則な荒々しい呼吸がすぐ足元から聴こえた。感覚を研ぎ澄ますと、生ぬるい吐息が私のふくらはぎにかかっているのが分かった。

「もうすぐだから、いい子にしててね」

 私がそう言った瞬間、妖怪は人間の赤子のような泣き声を上げた。あたかも産声のような、細くか弱いのにひどく大きな声でその妖怪は泣いた。その耳障りな騒音を真下に聴くと、私は手を振り上げたままの姿勢で動きたくなくなった。私が呼ぶよりも、この子が母親を呼ぶ方が自然だと思えたからだ。戸はすぐに開き、中から襦袢姿の女性が飛び出してきた。ぶつかりそうになった女性を私は抱きとめた。

「あなたの子です」

「ええ、知っています。この声には覚えがあります。この顔にも」

 そして私の足元で泣きわめく妖怪を抱き上げ、女性はあやすように体を揺らした。妖怪はやがて、出目金のような目を閉じて静かになった。

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「この子が普通の体をしていないことは知っていました。産婆様も慧音様も早苗様も、私に妙に気を遣ってらしたし、それに私、見たのです。この子が産婆様の手を逃れて外に逃げ出すのを。だから、この子が普通と違う姿をしていたって私はなんとも思いません。けれど、周りの方々には気を遣わせてしまったみたいで心苦しい限りです」

 妖怪の泣き声で目を覚ました野次馬を追い払って、ようやく場が落ち着いた頃、私達三人は女性の家に上がり、茶を振舞われていた。女性の隣には見知った男性が真面目な顔つきで胡坐をかいていた。

「驚いた。博霊の巫女さんじゃないか」

「奇遇ですわね。こんな時間にお騒がせして申し訳ありません」

 私は努めて無表情で返事をした。

「それで、非常に申し上げにくいことなのですが」

「この子を退治するのでしょう。博霊の巫女さんはそういうお仕事をなさっていますものね」

 女性はとても穏やかな口調だった。

「話が早くて助かります。私はただ、最後にこの子にあなたの顔を見せたかっただけですので、これからすぐに、この子は私が責任をもって退治します」

「この子は、やっぱり妖怪なんですね」

 女性はその腕の中で安らかに眠る我が子の頭を撫でた。その頭の中には恐らく脳が無く、異常に凹んだ形状をしている。人間なら母体から離れて数時間もせずに死亡するはずだった。何の因果でこの子が妖怪として生まれたのかは、きっと誰にも分からない。

「妖怪です」

 きっぱり言う私は、彼女とその隣の男性の目にどう映ったろう。あまり考えたくなかった。

 その後しばらく女性は静かにその子に別れの言葉をつぶやき、私に渡した。

 二人に見送られ、その戸口がゆっくり閉じられると、にわかに女性のすすり泣く声が聞こえた。

 家の中で終始無言だった早苗は、その声に触発されたように、う、う、と篭った声を出しながら肩を震わせ、ほろほろ涙を流し出した。

 できることなら私もそうしてしまいたかったが、腕の中で可愛らしい寝息と立てているこの子を起こしたくなかった。

 弥七は一旦点けた行灯の火を消し、早苗の肩に手をやって慰めていた。

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 アリスが持ってきた紅茶の香りに混じって、外の銀杏の匂いが縁側から入り込み、仄かに鼻腔をくすぐった。

「それで、うまくやれたの?」

 と、アリス。話の途中からなぜか彼女はちゃぶ台を立って私の横に居た。

「痛みも苦しみもなかった、はず」

「それなら上出来じゃない。その水子はきっと今も幸せな夢を見ているわ」

 横から顔を覗き込んできた。

「そうだといいわね」

 私は湯のみを持ったままのけぞった。

「思ったより平気そうね」

「いつもあんな風に泣いてたら博霊の巫女なんてやってらんないわよ」

 と、強がろうとした。が、心残りは確かにあった。

「でも、あの人が子持ちだったのはショックだったわ」

 あれほど私の胸を騒がせた狂熱は今はもう薄れていたけれど、どこか落ち着かなかった。数日前に一人で縁側で様々な空想をしていた自分がなんだか滑稽で、恥ずかしかった。

「殿方はきっと、ああいうおしとやかな女性が好きなのね」

 自嘲するつもりで笑顔を作ると、不意に涙が零れた。

「あ」

 声を出さなければ誤魔化せたのかも知れないが、今更アリスに隠すのもおかしい気がした。

「霊夢っていっつも何でも平気そうな顔してるから、見てる方は結構不安になるのよ。限界に張り詰めるまで頑張るのは悪い癖よ」

「そうだね」

 私はそれだけを辛うじて喋って、目を閉じてそのまま涙を眼の奥にまで押し込めようとしたが、無理だった。目の端から溢れ、筋になって流れていく涙を袖で拭おうとすると、それより先にアリスが少し冷たい指先で拭った。そして座ったままアリスが後ろに回り込み、私を軽く抱きしめた。アリスが後ろに回ったのは、私が彼女に顔を見せずに遠慮無く泣けるようにする為だったのだと、いよいよ涙の筋がはっきり感じられるくらいになって気づいた。

「私は霊夢が頑張ってるの知ってるよ。霊夢は本当に偉いし、私よりもずっと強い。けど歳は私の方が少しお姉さんだから、力になれることはきっとあるわ」

 ひとしきり泣いた後、彼女は私の顔を後ろからハンカチで拭き、私の耳に話しかけた。

「ねえアリス」

 それは声を出して泣き喚いて、変に気持ち良くなった勢いだったのか、不意に私は彼女に言いたくなった。それは友情とか親愛とか、そういう類の感情を彼女に抱いていること。そしてその感情がもしかしたら普通と違うのかも知れないこと。言えば言ったで彼女はきっとあっさり受け入れるのだろうけど、それがかえって悪い気になる。彼女は私の不幸な境遇に同情しているだけなのかも知れないのに、私から『アリスが欲しい』などと言った日には、彼女だって困るに決まっているのだ。だから今までは健全な友人関係を維持するために、ある程度深い話をする時には素っ気ない態度を決めていたのだが、もしかしたら私より少しお姉さんの彼女はその私の気持も見透かしているのだろうか。もしそうなら、もうこの場で全てを洗いざらい吐いてしまうのがお互いの振る舞いに、もとい私自身が彼女に対してどう振る舞えばいいのかに悩まなくて済むのではないか。

「私をお嫁さんにして」

 ごく短い時間に様々な思考が錯綜し、結局私は言ってしまった。普通の状況で言えば冗談にしかならないが、きっとこれは伝わるのだ。私がいつから抱き始めたのかも思い出せないこの感情を、彼女に端的に伝えるにはこの言葉だろうと、私は随分前から考えていた。

「ええ、いいわよ」

 アリスは間をおかずにあっさり返事した。その準備の良さに、少しの拍子抜けがまず起こり、続いて大きな安堵が、私の心に満ちていった。

「やっぱり、バレてたの」

 すっかり悲しい気持ちは無くなっていた。

「安心して、私もずっと同じだったから。いつ言おうかと何ヶ月も前から機を窺ってたのよ。結局先に言われちゃったけど」

「アリスはなんて言うつもりだったの」

 後ろで彼女は小さく笑ってから言った。

「『霊夢を私にください』って」

「それは私に言う台詞じゃないんじゃないかな」

「気持ちは伝わるでしょ?」

「まあ、そうだけど」

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 それから私達は、今までより少し親密な態度で接するようになり、アリスはティーセットや着替え、人形作りの道具などを博霊神社に持ち込み、よく寝泊まりするようになった。アリスの寝泊まりの頻度が毎日のようになってくると、互いに料理を作る当番を決めたりして、いわゆる同棲生活というものを始めた。

「女同士ってのはおかしいのかしら」

 雪の降り積む静かな夜、真っ暗な畳の寝室にて、隣の布団に寝ている彼女に素朴な疑問を尋ねてみた。

「おかしいけど、それでいいのよ。私は今とっても幸せだから。霊夢はそうじゃないの?」

 彼女の明快な言葉に、私の迷いが急速に意味を無くしてしぼんでいった。

「私も幸せ」

 もう年の瀬が迫っていて、そろそろ博霊神社で大きな宴会が開かれる頃だった。

 来年はきっと今までと違った一年になるのだろう。その一年が終わるとまた新しい一年が始まる。どの年にも今と同じように彼女と共にありたいと思った。それを今言うと、彼女に笑われるだろうか。

「私も」

 真っ暗な部屋の中、我慢できずに話すと、彼女はそう言って私に笑いかけた気がした。

説明
霊夢が心配シリーズのよっつめ。
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東方 霊夢 アリス 早苗 慧音 魔理沙 

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