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「本当に困ったことがあったら、これを使いなさい」

 

 そう言って母から箱を手渡されたのは、男が高校三年生の時だった。

 小学生の時までは裕福な家庭に育った男であったが、父と母の離婚の際、母に付いていったために、相当な苦労をした。中学を卒業すると、さっそくアルバイトを始め、どうにかこうにか二人三脚でやってきたのだ。春には大学への進学も決まっており、貧しいながらも充実した日々が約束されているはずであった。

 そんな折、神妙な面持ちの母から古びた箱を受け取った。男は不思議に思ってそれを開けてみようとするが、すぐさま母に止められてしまう。

 

「駄目よ。そのまま持って居なさい。それがあなたのためになるのは、あなたが本当に困った時なのよ」

 

 強い口調でそう言われてしまい、諦めるほかはなかった。中身が気になって仕方がなかったが、母の目の前では開けるわけにもいかない。「絶対に開けない」と約束させられた後、母が見守る中、自室の押し入れの中に仕舞わせられた。

 男は隙を見て中身を見てやろうと画策したが、その日は母が目を光らせていて、とても覗き見るどころではなかった。二日目も母の監視は厳しく、三日目も同じだった。

 そのうち、そのうちと思っている間に、母の監視もどんどん甘くなってくる。しかし、それと同時に男の興味も薄れていった。鬱陶しい勉強からも解放され、存分に遊び回れるという時期だ。関心はすっかり内側から外側へと流れ、大学に入学するころになると、箱の存在などすっかり忘れてしまっていた。

 

 それから実に、二十年あまり。

 男は立派に家庭を持ち、子どもはなかったが、自慢の妻と一緒にそれなりの生活を送っていた。

 しかしある時、一世一代の大勝負となる舞台で失敗を犯し、男の人生はすっかりままならぬものとなってしまった。借金が積み重なり、身の回りのものはすべて売り払い、賃貸の住まいも、いつ追い出されるかわかったものではない状況に追いやられてしまう。

 困り果てた男は、なにか金にできる者はないかと必死で家じゅうを探しまわった。――と、遥か二十年前に母から預かった箱が、引っ越しの際に荷ほどきもしていなかった段ボールの中から見つかった。母はすでに他界しており、生家もすでにない。箱を今の住まいに持ちこんだ記憶もなかったのだが、どうやらあれこれと放りこんでいるうちに、意識せず紛れこんでいたらしい。

 

「母さんは、本当に困ったらこれを開けろと言っていたな」

 

 男はそう呟き、誰に気兼ねするわけでもないのに当たりを見回した。

 妻は金策に走り回っている。男は独りだった。

 箱を見下ろせば、埃を被った木造りのみすぼらしいものである。持ちあげてみると軽く、中になにか入っているのかどうかわからない。ただ、蓋の部分に男には判読不能な朱印が捺されており、中身は匠の品なのではなかろうかと期待ばかりが膨らんだ。

 生唾を飲み込み、そっと箱を結わえていた紐を外す。それからそっと蓋の両端に手を添え、開ける。

 

「……なんということだ!」

 

 男は叫び、それ以降はなにも言えずに硬直した。

 箱の中身は空っぽだった。ただ小さな闇の空間がそこにはあった。手を突っ込んでみてかきまわしてみても、なにも出てきはしない。

 ありったけの絶望が男を包み込み、箱の中から闇が溢れ出たように目の前が真っ黒になっていた。

 ――母はなぜこんな残酷な嘘を。

 そこで男は気付いてしまった。母は、もっと早い段階で男が箱を開けてしまうだろうと思っていたのだろう。

 大して困ってもいない時に開け、空箱に呆然としている男に向かって、母はこう言うのだ。『そんなに世の中は都合がよくできていないのよ』と――

 

 男はいよい母に裏切られたのだと思い、悲しみのあまりに姿をくらましてしまった。

 残された妻は途方に暮れ、しかしとにかく借金は返さないと、自分の身が危ない。妻は夫をあてに待つ勇気はどうにも持てなかったので、仕方なく夫が残したものもすべて売り払ってしまうことにした。

 

 空っぽの箱は、五百万円で売れた。

 

 

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文学

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