残片
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 気持ちのいい晴天。自然と背伸びをしたくなるような見事な青空である。

「マツイチー、どこか遠出しようよー」

 と、そんな麗らかな日には自然と出る台詞。

「そう考える人間がどれだけいると思うんだ。せっかくの大型連休を芋洗いに費やす気はない」

 切り返す台詞はまたそれぞれ。

 人ごみに揉まれて遠出するよりも、邪魔のない広い庭を掃除する方が万倍楽しいと考える松壱には、休日にレジャーという発想はない。

 いつもと変わらず箒を手にした松壱は、社を開け広げて伸びている狐を睨んだ。

「出掛けたいならユキを連れて二人だけで行って来い」

 黄金の名を頂くこの数日間、わざわざ長い石段を昇ってまで神社にやってくる人間は稀だ。ご神体がいなくてもさして問題にはならないだろう。

 ごろごろと転がり、頬杖をついて沖は半眼で松壱を見つめた。

「えー、その間に黒刀と二人で出かけたりしない?」

「しない。する意味がない」

 揺草山の裏手に住む鴉天狗の黒刀も暇を持て余しているのか、最近ちょくちょく遊びに来ていたりする。

「ふふふ」

 にやにやと笑い出す沖を、松壱は気持ち悪そうに見た。

「なんだ?」

「んー、マツイチも変わったなーと思って。ちっちゃい頃は黒刀にベッタリだったのにねー」

 まだ小学校にも上がらない頃の少年にとって、耳が生えているだけの沖より、翼を持つ黒刀の方が一緒に遊びたい存在だったのである。

「昔のことだな」

 怒るわけでもなく、冷たく返されて、沖はまた床の上を転がった。

「暇だよー、マツイチー。ご神体に不自由させないのは宮司の務めなんじゃないのー?」

「そういう教育は受けておりません」

 きっぱりとそれだけ答えて、松壱は沖に背を向けた。そしてカサカサと石畳の上を掃き始める。

 だんだん遠ざかっていく松壱の後姿を眺めながら、沖は瞼を擦った。

(眠い……)

 鳥居の側まで来て、松壱はふと手を止めた。視界の中に箒の先と人の足が入っている。顔を上げると、石段を三段ばかり残した位置に男が一人立っていた。

 紫の開襟シャツに白いスラックス、ちょっとばかり派手で、ちょっとばかりセンスが悪い。伸ばしっぱなしにしたような黒髪を揺らし、男は片手を上げた。陽光を弾いてサングラスが光る。

「ぼんじょーるの」

「…………こんにちは」

 あまり関わりたいタイプではないと感じながら、松壱は一応ぺこりと頭を下げた。

 男は笑みを浮かべて、残りの石段を昇ってくる。

(……う)

 松壱は隣に立った男に目線を合わせるには、わずかに上向かなければならないことに気づき、思わず眉を寄せた。黒刀と同じかそれより高いか。

 いずれにしろ自分より背の高い相手というのはあまりなく、松壱としてはどことなく苦手な感を受けるのである。

「君が宮司?」

 男は松壱を上から下に眺めたあとそう尋ねてきた。松壱は頷く。

「ふーん、確かに可愛い感じではあるね」

「かっ……」

 可愛いなどと。面と向かってはたまに参拝に来る中年女性などにしか言われたことがない。

 絶句して一歩あとずさる青年に男はくつくつと笑って見せた。

「いや、町のほうで美青年だと聞いてきたからさ。なるほど噂も馬鹿には出来ないらしい」

 からかわれている。そう悟って松壱は箒を握る手に力を込めた。もちろん顔には出さない。

 そんな松壱に気づいているのかいないのか、男は別の方向を見やり片手を上げた。

「……アレは何?」

 男の指差す先を振り返って、松壱は眩暈を覚えた。

 社でくかくかと沖が寝息を立てている。

(……あ、の、バカ狐!)

 拳を握り、絶対にゴールデンウィーク中は外出なんかさせないと心に決める。

「あはは、あれが『オキツネ様』?」

 耳を打ったのは、まさか、と思うような台詞だった。笑いながら男は歩き出す。

「……あ、ちょっ」

 呼び止めかけて、松壱はやっと男が人間でないことに気づいた。彼を包む気の色は人外のものだ。

「あー、ごめん。忘れてたね」

 宮司の声に振り返って、男は微笑んだ。サングラスを外す。

 松壱は息を呑んだ。

「自己紹介。俺は玖郎(くろう)」

 男の青い青い双眸がこちらの驚愕の表情を映している。

 

「玄狐の生き残りさ」

 

 その青は沖のそれと同じ色だ。

 考えるよりも先に身体は動き、松壱は男のシャツを掴んでいた。

「……ん?」

 不思議そうにその手を見下ろし、玖郎は首を傾げた。

「何?」

「な、何って……まさか、本物、なのか?」

 玖郎のシャツを掴んだまま、松壱は問う。

 四百年前に玄狐は沖という例外を除いて絶滅したのだと祖父に聞かされていたのだ。突然現れて玄狐だなどと言われて受け入れられるはずがない。

「疑ってるわけ?」

「……疑うというか……」

 じっと見上げてくる明るい色の双眸を玖郎は逆に覗きこんだ。

「君、ハーフ?」

 間近に沖と同じ青い瞳。本物なのかと目を見張りながら、口は勝手に質問に答える。

「……いや、クォーター……です」

「お国はどちら?」

「……ドイツ……って、なんであなたに答えなきゃならないんですか」

 口を動かすうちに我に返り、松壱は不満げに眉を寄せた。

「さあ、素直に答えてるのは君だけど? うん、ドイツもなかなかいい所だったな。麦酒は美味しかった」

 言いながらその味を思い出したのかぺろりと唇を舐め、玖郎は腕を組んだ。

「俺が生き残ったのはそういうわけだ。玄狐の里が壊滅したとき、俺はヨーロッパにいたんだ」

 沖は揺草山にいたから助かったのだと祖父から聞いている。

 松壱は玖郎のシャツから手を離した。

「なんでヨーロッパなんかに……」

 玖郎はちらりと沖のほうを見やってから答えた。

「傷心を癒す旅さ」

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「沖、起きろ」

 松壱が沖の肩を揺さぶるのを見ながら、玖郎はまた首を傾げる。

「『沖』っていうのは人間からの呼び名?」

「……というと?」

 松壱が振り返ると、玖郎はあまり自信のない様子で唸った。

「うーん、確か聞いた話では俺以外の生き残りは『氷輪(ひょうりん)』て名前だったと思うんだけど」

 なるほど、と松壱は思う。

 「沖」はオキツネの「オキ」である。もとよりそれが親がくれた名だとは思っていなかった。

(氷輪、ね……)

 これで間違いがなく氷輪が沖であったならば、松壱の知る彼の名は「沖」を含め三つになる。

「おい、起きろ」

 沖はむにゃむにゃ言いながら瞼を擦った。

「んー……何?」

「お前に客だ」

 そう言って松壱は退き、玖郎に道を開けた。やあと言って玖郎は片手を上げる。

 沖はその男を見るなりぎょっとして床の上に座ったままあとずさった。

「なっ、なっ、…………お化け!!」

「妖怪が何言ってるんだ……」

 松壱が呟く。

 玖郎は苦笑して両手を広げた。

「お化けは酷いなあ。俺は玖郎」

「くろう?」

「うん、うん。君は?」

 嬉しそうに頷き、玖郎は問う。沖は戸惑った様子で松壱を見やった。

 松壱は薄い笑みを浮かべて、促すように首を傾ける。

「別に俺に遠慮することじゃないだろう。俺はお前の名前くらい知ってる」

 それは「高嶺」を継ぐ者がもうひとつ継ぐもの。

「あ……うん、そうか」

 沖は頭を掻くと玖郎のほうを向き直った。

「俺は氷輪。ここの人たちには『沖』って呼ばれてるけど」

 ぱあっと玖郎の顔に笑みが広がる。沖の手をとって身を乗り出す。

「本当に? 氷輪? 十夜(とおや)の子どもの?」

 その名を聞いた瞬間、沖が青褪めるのを松壱は見た。

「……母さんを知ってるの?」

 玖郎を凝視したまま唇を震わせる。玖郎は頷いて沖に頭を下げるように身体を屈めた。

「知ってるよ。十夜は俺の……友人だ。ああ、一言謝りたかったのに……」

 うつむいて声を絞る男を沖は困惑がちに見下ろしている。松壱は玖郎が説明を始めようとするのを聞かず、袂を翻してその場を去った。

 社を離れ裏庭の方に回ろうとしたとき、背後から声がかかった。

「放っていいのか?」

 松壱は足を止め、声の主を睨んだ。受け止める紫黒の双眸は揺るがない。

「いつから見てたんだ」

「あの男が山に入ったときから。あれだけの妖が現れたら誰だって警戒するさ」

 黒刀は銀杏の木に背を預けたまま、視線を社の方に向ける。沖の前に座る、背の高い黒い獣。

「玄狐の成獣だ。あれは……危険だ」

「本物の玄狐なのか」

 呟く松壱に黒刀は冷笑を浮かべてみせる。

「俺に確かめるようじゃ『高嶺』の名が泣くだろう?」

 松壱は拳を握った。

「俺の霊的感知能力は……低い」

 吐き捨てて、松壱は自宅の方へと歩き出した。

 その後姿を眺めながら、黒刀はため息を零した。松壱の能力についてはよく知っている。

(ちょっと意地悪だったかな)

 もう一度視線を流し、沖と玖郎を眺める。二つの巨大な妖気を前に、警戒がぴりぴりと全身を覆う。

「悪いな、高嶺。俺も余裕がないみたいだ」

 玄狐は強力な妖怪だ。

 沖はまだ妖怪としては子どもだ。だが、あの男、玖郎は違う。一千歳を越えるかもしれない。そうなれば見た目は若くとももう老獪と言える。

 沖のことを知っているというだけで、善い悪いの判断は出来ないのだ。

(揺草山に害なすようなら……)

 潰さねばならない。

 それが黒刀が生まれたときから負っている役目だった。

 

      *      *      *

 

 玖郎と沖は高嶺宅に移動し、その縁側に腰掛けて話をした。

「氷輪はずっと、この家に住んでるのか?」

「ああ、うん。玄狐の里が滅ぶちょっと前から」

 沖は頷いて青空を見上げた。初代高嶺の松韻は晴れた日の眩しさと同じ笑顔を持つ人だった。

「初代高嶺に恩があって、それを返そうと思って居ついてたのが最初……」

 実際、沖が恩返しをしようと思って高嶺家を訪れたときには既に松韻はこの世にはおらず、彼らの孫が揺草山で家族と暮らしていたのだ。

 そして間もなく玄狐の里は壊滅した。

 沈んだ表情で空を見上げる沖を見、玖郎も倣って空を見上げた。

「……俺はヨーロッパにいたから。日本にもすぐに帰られなかったし……」

「そういえば、どうしてヨーロッパに?」

 不思議そうに問う沖に玖郎は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「いや、君に話すのは恥ずかしいんだけどね……。十夜にフラれて……それでちょっと……」

 玖郎はへへへと笑う。沖は目をぱちくりと瞬いた。

「母さんに、フラれたの……?」

「迦葉(かしょう)はいい男だったからなあ」

 迦葉は沖の父親である。迦葉も十夜も四百年前に一緒くたに死んでしまった。

 玖郎は肩をすくめる。

「親友だったんだ……。俺がいつまでも側でグズグズやってたら二人とも気にすると思ってさ。それで里を離れたんだよ」

 沖はうつむいて地面を見つめた。風は感じられないが、雲の影が玉砂利の上を過ぎっていく。

 玖郎は袴を握る沖の手に自分の手を重ねた。

「氷輪……、里を見に行ってみないか?」

「……里に?」

 玖郎は沖を見つめて頷いた。

「……四百年。そろそろ蹴りをつけるべきじゃないだろうか」

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 夕食を終えて、沖は松壱にしばらく出掛けていいかと尋ねた。

 玖郎は客室で休んでいる。

「玄狐の里に?」

 沖の申し出に、テーブルに座ったまま松壱は無表情に応じる。

「どれくらいかかるんだ?」

「えと……三日くらいかな」

 神社を三日も開けたことはない。許可が下りるだろうかと、沖は不安な面持ちで宮司を見つめた。高嶺神社の封印を施された身体は、「高嶺」の許可なく遠く離れることはできないのだ。

「行ってくればいい」

 それは意外なほどあっさりとした回答で、沖は思わず自分の耳を疑った。

「え……本当に? いいの?」

 驚いた様子で念を押す狐に、松壱は立ち上がって背中を向けた。

「そう言ってる。そのかわりユキも連れて行けよ。俺は子守なんてしないからな」

 沖はこくこくと頷いた。

「うん。分かった。ありがとう、マツイチ」

 話をじっと聞いていたユキも表情を明るくする。

「お出掛けですか?」

「うん。ユキも一緒に行んだよ」

 嬉しそうに沖にしがみ付きながら、しかしユキは松壱を見上げた。

「高嶺は行かないの?」

「なんで俺が」

 冗談じゃないと言わんばかりの口調で返され、ユキは眉を下げる。それを見て沖は何か不思議な感覚を覚えた。

 その正体が分からないうちに松壱が振り返り、ぴんっと沖の額を指で弾いた。

「いッ」

「解けた」

 額を押さえる沖にそれだけ告げて、松壱は自分の部屋へと戻っていった。

 三代目高嶺が施し、その後代々の高嶺が受け継いできたご神体の封印が解かれる。沖は身の内側にあったものが一つ無くなるのを感じて胸元を押さえた。

(なんか……変ていうか、嫌な感じ……)

 何も失くしたくなんかないのに。

 

『月佳の封印は解いてはならない』

 それは三代目高嶺の言葉だったという。

(解けば沖は里に帰り……死ぬから)

 死んだ仲間達のあとを追っていってしまうから。

 松壱はベッドの上で天井を見つめた。

(もう四百年経ってるんだ。……今更な封印だ)

 ユキも一緒なら大丈夫だろうとも思う。

 そして、玖郎が本物の玄狐だというなら、関係がないのは自分だけだ。

 

      *      *      *

 

「それは見事に拗(こじ)れてるな」

 夜中、明日から出掛けると沖に聞いて、黒刀はそう返した。

「拗れてるって何が?」

「お前の頭の中」

 眉を寄せる沖に、高嶺家の裏の木の上から黒刀は手を振る。

「ちょっと前のお前なら出掛けやしないだろうさ」

「どういう意味だよ?」

 黒刀は片眉を上げて意地悪そうな笑みを浮かべて見せた。

「高嶺は明日から一人だな」

 話を逸らす天狗に不満をあらわにして沖は唇を尖らせる。

「だから、山のことお願いって言いに来たんじゃん。俺がいなくなって、神社の結界薄れるかもしれないからさ、悪いのが入ってこないようにちゃんとしてくれよ」

「そんなのは言われなくてもやってる。それが俺の仕事だ。お前も高嶺も関係ない」

 黒刀はつまらなそうに答えて、沖を見下ろした。

「せいぜい楽しんでくればいい」

 沖は黒刀を睨み、身を翻した。

「里には誰もいやしないのに、楽しめるわけないだろう」

 言い置いて、そのまま去っていく。

 黒刀は闇の中に消えていく沖の後姿に心中で問いかけた。

(じゃあ何で出掛けるんだ。高嶺を一人にしてまで……)

 いないはずだった生き残りが現れて、それで里に行くなんて言って、それで終わりだと誰が思うだろうか。

(側にいてやれるのはお前だけなんだぞ)

 見た目は平静でも沖はパニック状態なんだろうと黒刀は思った。

 もう誰も生き残っているはずがない、そう思っていた四百年。そして現れてしまった血族。いとも簡単に解かれた封印――。

 松壱の様子の変化になど気づかないほどに、彼の頭の中は拗れている。

「ああ、やっかいだな……」

 ぼやいて黒刀は目を閉じた。

 

      *      *      *

 

 昨日に引き続き晴天。今年のゴールデンウィークの天気は行楽一家の味方らしい。出掛けて行く三頭の狐を見送って、松壱は家へと戻った。

 ふとダイニングを覗き、彼はこめかみを押さえた。

「…………何やってるんだ」

「何って、朝飯」

 勝手に食器を出したのか、黒刀は味噌汁を啜りながら松壱を見やった。

「ちゃんと温めなおしたから美味いぞ」

「そういう話じゃないだろう。天狗様が何勝手に人ん家で飯食ってるんだ」

 不機嫌さを滲ませて松壱が険悪に吐く。ことんとお椀を置き、黒刀はそれを一蹴するかのように笑ってみせた。

「今夜から三夜連続で時代劇の総集編が放送されるんだ。テレビ見せてくれ」

 松壱は肩を落とす。

「ああ……もう好きにしろ」

 投げやりに呻いて、ダイニングを離れていく。

 黒刀は食事を再開し、かぼちゃの煮物をくわえた。ほんのりと甘いが、さっぱりとした後味。

 一人ぶん余計に作ってあったのは、おそらく松壱の昼食を兼ねていたのだろう。

(まー、昼にまた二人分作ればすむことさ)

 黒刀が急に押しかけてきて、作る食事の量が増えるのは松壱も慣れたものであるはずだ。

(冷えた料理を一人で食べるよりいいぞ、高嶺)

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 石段をすべて降り終えて、沖は振り返って仰いだ。階段の頂上は左右の木に隠れている。葉の隙間から赤い鳥居が覗いていたが、松壱の姿が見えるはずもなかった。

「沖様?」

 足を止めた養い親をユキが呼ぶ。沖はそれに気づかず、先ほどのことを思い出していた。

(マツイチ、変だったな……)

 

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ」

 そっけない返事はいつものことだ。

 ただ日の光を吸い込んだような明るい双眸が、静か過ぎる気がした。

「帰りが遅れても連絡はいらないから。三日いないら四日いなくても気づかないさ」

 そう意地悪を言って松壱は口元に笑みを刷いた。

「何言ってるんだよ。確かに遅れる可能性はあるけど、さ。連絡もするから。ちゃんと電話出てよ」

 もう四百年も行っていない土地へ向かうのだ。いつ予定外の出来事が起こるかも分からなかった。むしろ予定通りの行程で進めない可能性が高いかもしれない。

「いらないよ」

 松壱は抑揚なく言う。

「せっかく封印を解いてやったんだから、羽を伸ばしてくればいいさ。実際オキツネ様がいるかどうかなんて普通の人にはわからないんだから」

「もー、高嶺ってば、そう甘やかすようなこと言わないでよ。沖様が羽目を外したらユキが苦労するじゃない」

 まるで引率者かのように言って、ユキが腰に手を当てる。

 松壱は少女の姿をした銀狐を見下ろして微笑んだ。

「お前こそ年相応に羽目を外せばいいさ」

「失礼ね、ユキは子どもじゃないわよ」

 松壱は肩をすくめて、沖に向き直った。

「じゃあな。あんまりのんびりしてると電車に乗り遅れるぞ。まったく、公共機関で移動しようなんて今どきの妖怪は変わってるな」

「無駄な妖力消費を避けるに越した事はないよ。人間とそうは変わらない」

 答えたのは玖郎だった。松壱はそちらを見やり双眸を細めた。

「じゃあ、行ってきます」

 沖は笑ってそう言った。軽く手を振る。

「ああ……」

 茶髪が風に揺れて光に溶け込む。

 松壱は髪も目も肌も淡くて、出掛けるのは沖たちのほうなのに、いなくなるのは彼のほうな錯覚がした。

 

「氷輪」

 玖郎の声が耳を打ち、沖ははっとして振り返った。

 白いシャツと黒いジーンズを着た玖郎が遅れている沖を待っている。

「行くぞ」

「……うん」

 後ろ髪を引かれる思いで沖は歩き出した。

 

      *      *      *

 

 黒刀はガラス戸の内側から空を見上げ、眼差しを鋭くした。

(神域の結界が薄れている……)

 神社という一つの聖域はそれだけで結界を成す。その結界を強固なものにし、外敵――邪心を持つ魑魅魍魎の侵入を防いでいたのは、ご神体として結界の内側にいた沖である。

 結界が薄れたということはすなわち沖が揺草山から離れたということ。それも高嶺の封印なしで、だ。

(これで強力な妖怪は揺草山への侵入を可能に出来る)

 無論、結界で弾くほどでもない小妖怪は常に出入りを繰り返している。

(四百年ぶり、か)

 そのとき、考え事をしながら廊下を進んでいた黒刀は何かに躓(つまづ)き、バランスを崩した。

「……っわ」

 咄嗟に床に手をつき、顔を打つことは避けられたが――黒刀は避けられたが、あいにく躓かれた人物は強(したた)かに頭を打ち、小さく呻いたあと、上に覆いかぶさっている天狗を睨みつけた。

「……お前は何がしたいんだ」

 言わずもがな、縁側に座っていた松壱である。

「いや……すまん」

「いいから早くどけ」

 煩わしそうに告げて松壱は相手の肩を押す。だが黒刀は動かず、ブラウンの前髪に指先で触れた。

「捨てられた猫みたいな目してんなよ」

 逆鱗にも触れたと気づいたときには既に遅かった。乾いた高い音が晴れた空に響く。

「誰が猫だ。この鴉!」

「なっ、猫ッ毛のくせに!」

 ひっぱたかれた頬を押さえながら黒刀は喚いた。松壱は眉を吊り上げる。

「うるさい!」

 べしっと黒刀の額を叩き、松壱は彼の下から這い出た。

「だいたい捨てられたってなんだ」

 乱れた髪を手櫛で直す松壱を見ながら、黒刀はその横に座った。

 理由を言えば松壱が怒るのは目に見えている。それに、本当は分かっているのだ。認めたくないから、わざわざ聞き返して、否定させようとする。

「……別に、なんとなく」

 黒刀は適当に濁した。

 頬杖をついて、松壱が目元を緩める。そして可笑しそうに天狗を見やった。

「なんだ? なんとなくで頬を腫らしたんじゃ割に合わないんじゃないのか?」

(腫らしたのはお前じゃないか……)

 熱を持ち始めた頬を指先で撫で、黒刀は唇を歪めた。

 松壱はそんな男を笑って、視線を空へと昇らせる。その横顔を見ながら黒刀は口を開いた。

「お前はここで何してたんだ?」

「……うん、なんとなく、だな」

 答える松壱は遠くを見つめたままだ。

 黒刀は双眸を眇めた。

「高嶺、あまり深く考える必要はないと思うぞ」

 沖が帰ってこないかもしれないなんて。

「考えるって何を?」

 不思議そうに松壱がこちらを見つめる。

 松壱は一人だ。母と祖父はだいぶ前にこの世を去っているし、祖母は足を悪くした身内のために遠くドイツに離れている。父は――。

 黒刀は首を振った。

「……今日の昼食。何でもいいから」

 長い間を置いて並べられた言葉に、松壱は一瞬目を見開いた。それから笑う。

「何でもいいなら何も言うなよ。食事はリクエストがあるときだけ言ってこい」

 何でもいいなんて困るだけだ、と彼は言って立ち上がった。そのまま歩き出すのを追って、黒刀も腰を上げる。

「どこに行くんだ?」

「買い物。昼は中華にしよう」

 振り向かないまま答えて、松壱は廊下を曲がり、外へと出て行った。

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 向かいの窓の中をめまぐるしく駆けていく風景を見ながら、沖はじっと動かずにいた。

 ユキは自分の隣の窓から外を見ている。いつまでも飽きない様子だ。後ろの席にいる玖郎は頬杖をついて眠っていた。

(なんだろう……この感じ)

 胸にわだかまりを感じる。落ち着かずに沖は薄手のトレーナーを手で撫でた。

(嫌な……予感?)

 滅んだ里を見に行くからか。

 沖は目を閉じた。

『ちょっと前のお前なら出掛けやしないだろうさ』

 黒刀の低い声が耳に甦ってくる。彼もまた松壱をよく知る人物だ。

(出掛けやしないって、いつも出掛けてるのに……)

 沖が神社を出て街をうろうろすることはよくあることだ。別に珍しいことではない。

 なぜだか憎らしくも見える青い空を沖は睨んだ。

 

      *      *      *

 

 石段を降りながら、松壱は不意に視線を横にずらした。薄暗い木々の向こうに何かが見える気がした。

(なんだ?)

 目を凝らすが上手く見えない。気配を掴もうにも松壱にはそれが出来なかった。

 沖がいれば彼を呼んでそれで終わるのだが……。

(黒刀は呼べない。あいつは……本当は人間なんかが呼んでいい存在じゃないんだ……)

 山の守護者――その力は風雷を自由にする。本来なら妖怪、魔性と呼ばれる類ではない。神性の――。

 逡巡の後、松壱は石段を蹴って、森の中へ入っていった。

 

(破られた!)

 黒刀は庭に降り立ち、空を、結界を見上げた。

(早すぎる)

 妖怪の出入りが可能になったからと言って、神社に用のある妖怪など滅多にいはしないだろう。それがなぜこんなに早く現れるのか。

 神域には、彼らに触れられるものは何もないのに。

(……いや、ある)

 人間という器に納まった力の塊がある。

 舌打ちをして、黒刀は羽ばたき宙に舞い上がった。

(高嶺が俺から離れるのを待ってたんだ)

 上空から山全体を見下ろして、黒刀は松壱の気配を頼って滑空していった。

 

 闇のように真っ黒い髪がふわりと揺れる。

 そこにいたのは一人の男だった。薄墨色の隈取のある細長い目を更に細めて松壱を見つめる。

「お前か」

 待っていたとでも言うような様子だ。

 松壱は姿勢を低く構えた。

(鬼だ)

 ただ獰猛なだけの大鬼とは違う。冷徹な眼差しが足を凍らせる。

「なるほど、噂に聞くとおりだ。……素晴らしい。そして」

 独り言のように呟き、すっと手を上げる。それ以外の動作はなかったのに鬼がぐっと近づいた錯覚がした。

「っ!?」

 見えない何かに首を掴まれ、そのまま凄まじい力で引き摺られる。バランスを崩して倒れるよりも先に、鬼の手が首を掴んでいた。

「――そして、宝の持ち腐れだ」

 にいと口が大きく裂ける。

 間近で見る鬼の顔は面を思わせた。それは人ではない人の形をしたもの、常人以上の力を持つもの。

「そのような力は人間が持つべきものではない。私に寄こせ」

 軽い息苦しさを覚えながら、松壱は口元に笑みを刷いた。

「そこまで太っ腹にはなれないな」

「なに遠慮するな」

 鬼のもう一方の手が首に触れ、そのまま下へと滑り、心臓の上で止まる。

「これを私にくれるだけでよい」

「冗談言うなよ――抜光!」

 松壱は鬼の額に手の平を向け、霊力を迸らせた。

 鬼が手を離す。同時にその胸を蹴り、松壱は地面に着地するとすぐさま間合いを開いた。

 ぱっくりと開いた額から真っ赤な血が流れる。唇まで伝ってきたそれをぺろりと舐め、鬼はただの汗を拭うように額を拭いた。間もなく傷は癒え、消える。

「なるほど。無抵抗よりは面白いぞ」

 瞠目する金の眼光が狩る者のそれに変わる。

 松壱は指で印を組み、更に組み替え、体内の霊力を活性化させた。力の暴走を恐れるゆえに普段ならば絶対にしないことだが、そうも言っていられない状況であることは間違いない。

 手の平で地面を叩き、地の脈を鬼へ向ける。

「爆魄!」

 脈に沿って爆撃が正確に鬼を襲う。

「魄を砕く技か」

 動揺のない静かな声が、背後から耳を撫でる。松壱が振り返ろうとした瞬間、熱い衝撃が背を走った。

「……っうあ!」

 悲鳴を上げて松壱は地面に崩れ落ちた。目の前の土が赤く染まる。

(まずい……。背中をやられた)

 ぐっと手を握る。力を込めるが上手く体が動かない。

 その肩に鬼が手を置き、耳元で囁いた。

「動くな、『松壱』。死なせてしまっては使えなくなる」

 名を支配する言霊。妖怪の真名には劣るが、似た効力を持つ技だ。体が凍る。

 愕然とするブラウンの瞳を見下ろし、鬼は改めて口を開いた。

「霊力も技術も申し分ない。だが、集中力が足りない」

 両の手の平で青年の顔を包み、優位の笑みを浮かべる。

「美しい人間よ。何に心を奪われている?」

 答えは簡単だ。

 だが、それを口にする気はない。口にしたところで何が変わるわけでもない。

 松壱は黙ったまま鬼を見上げた。

「松壱」

 応じない松壱を従わせようと、鬼が再びその名を口にした瞬間――

「発雷!」

 山の気を震わす声が響き、天地を貫く紫電が鬼の背後を穿った。

 言霊による金縛りが解ける。目を瞬く松壱を何者かが抱え上げ、ふわりと跳躍する。

 大気が揺れる中、松壱は自分を助けた人物の顔を見上げ、その黒い衣を握り締めた。気づいて相手が微笑む。それを見て、朧な意識のままその名を呼んだ。

 落雷の衝撃が空中に霧散し、視界が晴れると、鬼ははじめて不愉快そうに顔を歪めた。獲物を奪った男に牙を剥く。

「邪魔をする気か、鴉天狗!」

 相手の怒気の滲んだ声に振り返り、黒刀は不敵な笑みを見せた。

「悪いな、こいつとこいつの先祖には借りがあるんだよ」

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 乗り換えの駅で、沖は再び足を止めた。

「……俺」

「氷輪?」

 首を傾げる玖郎の声は耳に届かなかった。胸騒ぎがそれを凌駕している。足が帰りたいと訴えていた。

 沖の手が震えているのを見て、ユキは彼の服の裾を掴んだ。

「沖様、高嶺がひとりです」

 水色の双眸が見開かれる。

『明日から高嶺は一人だな』

 黒刀の台詞をもう一度反芻し、沖はやっと理解した。彼は「独りだな」と言ったのだ。

「俺……っ馬鹿だ」

 今頃、気づくなんて。

 

      *      *      *

 

「黒刀……なんで来たんだ」

 松壱は掠れた声で後姿に向かってそう訴えた。振り返った黒刀は質問には答えず、汗の滲んだ相手の額を撫でてやった。

「何だ? さっきみたいに昔の呼び方はしてくれないのか?」

「……気の迷いだ」

 意地悪に尋ねてくる黒刀に松壱はうんざりと答える。雷鳴の中、霞のかかった頭で呼んだ名はもうずっと忘れていた愛称だった。

「迷っていたのが分かってるなら大丈夫だな。応急処置しかしないぞ。時間がない」

 言うが早いか、黒刀は額を撫でた手に光を溜め、血を止めた。傷口を塞ぐことまではしなかったが、ヴェールのようなものが肌を覆うのを松壱は感じた。

 黒刀は立ち上がり、何もない中空から錫杖を掴み取った。弧を描いて両手で構える。

「羅刹鬼(らせつき)か」

「興醒めじゃ」

 見下す視線で告げてくる鬼に黒刀は片眉を上げて見せた。

「じゃあ、帰ったほうがいい。痛い目を見る前にな」

 ざわりと鬼の髪が揺れる。

「……まさか、そう言われて退くと思うか」

 ざわざわと鬼の妖気が膨れ上がっていく。

「飛焔!」

 噴き出す妖気を声が制御する。矢のように飛んでくる炎を黒刀は錫杖で払った。紫黒の瞳が冴え、周囲の空気が帯電する。虚空を切り裂く錫杖の切っ先が鬼を指した。

「雷麟!」

 唸りを上げて光が走る。対して鬼は手を上下左右振り、防御結界を築く。

「臥盾(がじゅん)!」

「安い壁なんか作ってんじゃねえよ!」

 相手の盾と己の雷撃が相殺する次の瞬間を狙って、黒刀が二撃目を打ち込む。

(これは、入る)

 松壱は強烈な風が鬼を地面から剥がすのを見た。格が違う、そんな現実味のない言葉が頭に浮かぶ。

 鬼が宙に舞い、木で背を打った。地面に落ちて、鬼は唸り声を上げる。

「おのれ、おのれえ……っ!」

 口角に泡を飛ばし、溢れる妖気で傷を治していく。

「人間なぞに情けをかけるような腑抜けに勝てぬはずがないのだ!」

 黒刀は錫杖で肩を叩いた。不愉快気に鬼を見下ろす。

「あいにく、俺は人間なんかに情けをかけられるほど優しくはないんだよ。どっかの狐とは違うんでね」

「ならば、なぜ――」

 松壱を助けるのだという鬼の問いは、肉薄する黒刀の妖気の凄まじさに掻き消された。

 驚愕に声を欠く鬼の耳に、静かな声音が響く。

「『特別』って言葉を知ってるか?」

 黒光りする柄が、その身体を貫いた。

 

      *      *      *

 

「俺、帰る」

 そう言って妖力を解放する沖の肩を玖郎が掴む。

「帰るって、里は?」

 沖は悲しげに眉を寄せ、玖郎の手を払った。

「行かない」

「見なくていいのか」

 責める響きを帯びた声音に、沖は首を振る。

「ごめん。玖郎が一人じゃ見られないかもしれないと思って言わなかったけど……俺はもう見たんだ。四百年前に」

 血の匂いも生々しいその土地に。三代目高嶺が連れて行ってくれた。

 そして、声も上げられない沖に代わって、泣いてくれたのだ。沖を抱きしめて彼が泣いてくれたから、生きている。

 玖郎が驚きで顔を染める。

「……四百年前に、見た……」

「……っだから、ごめん!」

 沖は叫んで、地面を蹴った。今乗ってきた電車の屋根を更に蹴り、青空の向こうに消えていく。

 残ったユキは呆然としている玖郎を見上げた。

「他種族のユキじゃ不満かもしれないけど、一緒に行ったげるよ?」

 小さな銀狐を見下ろし、玖郎は笑みを零した。

「いや、いいよ」

 首を振る。

「俺ももう見たからさ」

 ただ四百年前ではない。二百年前だ。

 そこにはすでに里の跡はなく、若い森が形成されつつあるだけだった。

 皆の屍を吸い込んで茂る木々。十夜が、迦葉が、どこで死んだのかも分からない程の緑。

 だからせめて、二人の息子を連れて行きたかった。

 これからは彼と玖郎とが二人だけで、一族の無念を背負う。その覚悟を決めさせなければいけない――、そう思ったから。

「……俺は意外と後ろめたい奴だったんだな」

 ぽつりと呟いて、眦を押さえる。

 氷輪は無念を背負うことはないだろう。彼はもう、別のものを背負っていたのだ。

 玖郎の服の裾をユキがくいっと引っ張る。玖郎が見下ろすと、そこにはしっかりと見上げてくる幼い双眸があった。

「大人は後ろにいっぱい過去があるんだから。沖様より後ろめたくったってしょうがないわよ。気にすることないわ」

 少女の言葉に玖郎は目を瞬いた。

 そして笑う。ユキの頭を撫でてやり、玖郎は歩き出しながら、どうしても笑んでしまう口元に手をやった。

 

(……これならば俺も背負いたいというものだ)

-7ページ-

 鬼の身体に錫杖を突き立てたまま、黒刀は妖力を御する声を紡いだ。

「崩雷」

 白い光が肉を切り裂く。断末魔は雷鳴に消された。

 どんなにリアリティのある映画や本も敵わない、生々しい本物の死の匂いが鼻をつく。思わず松壱は目を閉じた。

 羅刹鬼を蒸気と化し、黒刀は錫杖を振り払った。視線を動かせば、こちらを見つめる明るい双眸とぶつかる。

「……」

 無言のまま松壱の側に膝をつく。

 黒刀はしばらくその背中の傷を眺めたあと、何事かを呟き、手の平の光で撫でた。見る間に傷が癒えていく。

「殺すとは思ってなかった?」

 自嘲を含んだ問いに松壱は黒刀の衣の袖を掴んだ。睨む。

「そんなことは言ってない」

 結界が薄れている今、異界との道を開くことは危険だ。それくらいは分かっている。

 黒刀は責務に忠実なだけなのだ。

「それに……お前が来てなかったら……」

 死んでいたのは自分だっただろう。鬼の冷たい眼差しが脳裏を過ぎった。袖を握る手が震える。

 黒刀は眉を下げて息をついた。色の白い手を握り返してやる。

「寂しくて死んでた?」

「違う! そっちじゃない!」

 噛み付かんばかりの勢いで松壱は否定する。

「分かってるよ」

 答えてから、黒刀は背筋に戦慄を覚えた。彼が振り返ると同時に、それに気づいた松壱が叫ぶ。

「起壁!」

 霊力の防御結界が飛来した氷の矢を砕く。

 細かな氷の粒が舞う中、黒刀は錫杖を掴み、素早く立ち上がった。

「また、羅刹鬼か」

 薄闇の向こう、陽光に照らし出されるのは先ほどと同じ顔。違う白い髪。

(片割れか)

 憎しみはさほど窺えなかった。鬼に兄弟愛などない。ただそこに飢え求める獣のような眼光がある。

 錫杖を向け、黒刀は重心を落として構えた。

 一瞬。

 場の空気が一転する。黒刀と羅刹鬼は総毛立つ感覚に襲われた。

「双刻の暗!」

 聞く体が震えるほどによく通る声が木々の間を貫いた。

 同時に鬼の足元が真っ黒に染まり、水面のように揺れ、また生き物の触手のように伸びて鬼を捕らえる。鬼がその闇の中に消えるのを見ると同時に、松壱の声が黒刀の耳を打った。

「沖!」

 黒刀もすぐにその影を見つけて、肩を落とした。

(結局、戻ってきたのか……)

「マツイチ!」

 黒刀には目もくれずにその横をすり抜け、沖は松壱に飛びついた。

「大丈夫? 何もされなか――っあ、背中……」

 松壱の破れた服を握り締めて、沖がぽろぽろと涙を零す。

「ごめん。俺……約束したのに……っ」

 まさか泣き出すとは思っていなかった松壱はただ唖然として、膝を濡らす滴を見ていた。

「絶対守るって……大助と約束したのに」

「……だいすけ?」

 聞き慣れない名を松壱が繰り返す。答えたのは黒刀だった。

「三代目高嶺だよ。松韻の孫で沖と実際の契約を交わした男だ」

 ため息をついて錫杖をしまう。

「霊力は松韻の孫というだけあったが、術の方はあまり褒められたものじゃなかったな」

「いいんだよ。そんなの……大助は優しかったんだから」

 ぐしぐしと涙を拭いながら、沖が言い返した。

「あれはお人好しと言うんだ」

 黒刀は呆れたようにそう零す。

 沖は黒刀を見上げて小さく笑い、松壱に手を差し伸べた。

「帰ろ」

「……ああ」

 その手は握らずに、松壱は立ち上がろうとした。

 が、ふらりと一歩傾ぐ。

「マツイチ?!」

 そのまま倒れようとするのを、沖が慌てて支える。

 腕の中の松壱は気を失っていた。冷たい汗が頬を伝う。

「血が足りないんだろ」

 黒刀はそっけなく言って、地面の血溜まりを見下ろす。先ほど触れた手も冷たかった。

「まあ、どっちにしろお前が戻ってきた以上結界も心配ないし。俺はもういいよな」

 背を向け、一人で山を登ろうと黒刀は足を踏み出した。しかし、沖が松壱を支えたまま、声を上げる。

「待って!」

「なんだよ」

 眉を寄せて振り返る黒刀に、沖は肩をすくめて笑った。

「俺じゃマツイチ運べない」

 

「ったく、なんで俺が……」

 ぶちぶちとごちりながら、黒刀は松壱を背負って緩やかな山道を踏みしめていく。沖はその斜め後ろを歩きながら、まあまあと言った。

「いいじゃん。そんなに疲れないだろ」

「疲れるっつーの。高嶺でかくなり過ぎなんだよ」

 昔もこうして背負ったことがあるが、その時はなんだか子犬か何かを背負っているような気分だったのを覚えている。無論いくらなんでもそんなに軽かったはずもないのだが。

「でも、マツイチの霊気は気持ちいいだろう?」

 黒刀は答えなかった。気持ちいいと表現するのはなんだか気持ち悪い気がしたのだ。

 実のところ、背中にぴたりと触れてくる「気」は清流のように澄んでいて、鬼が狙うのも無理はないと思うのだが。

「松蔵が厳しかったから、マツイチは邪心で力を使ったことがない」

 だから綺麗なんだ、となぜか沖が自慢げに話す。

(というか、力を使うことに怯えてるから……穢れるようなこともなかったんだよな)

 黒刀は心中で沖の意見に加筆をした。

「……今更だけど」

 と、ふと思ったことを口にする。

「高嶺、感知の力が低いのはまずいんじゃないのか?」

 敵が近くにいても気づけない。目で見てはじめて、相手を認識する――それでは遅いのだ。

 これだけの霊力を抱えながら、それを狙う妖怪たちを察知することが出来ないのは致命的である。

「……うん。でも生まれつきのものだし」

 沖は頷き、松壱の白い顔を見た。

「俺達がしっかりしないとね。六花とも約束したし」

(……『達』ってなんだ。俺は約束してないぞ)

 声には出さずに抗議しながら、けれど黒刀は「松壱をお願いします」と言った女性の笑顔を脳裏に描いていた。

-8ページ-

 沖と黒刀が裏手側から高嶺神社まで登ってくると、出口に玖郎とユキが立っていた。

「沖様」

 ユキはお帰りなさいと言って、駆け寄ってくる。

 だが、玖郎はじっとこちらを見ているだけだ。睨んでいるようにも見える。

「えっと……あの」

 玖郎は言い淀む沖にすたすたと歩み寄り、しかし、くるりと方向転換をして黒刀の方を見た。

「どうした?」

「え、……ああ、貧血だよ」

 松壱の事を聞いているのだと悟り、黒刀が答える。

 すると玖郎は手を掲げ、ふわりと松壱の頭を撫でた。血の気を失い真っ白だった肌が淡く赤みを帯びる。

「……すごい」

 呟いたのはユキだった。

 沖と黒刀がしなかったとおり、見えない体の内側、極細の管の中を流れるものを増やすのはそう容易なことではないのだ。

 茶色い長い睫毛を見ながら、玖郎がぽつりと呟く。

「これが今一番大切なもの?」

 息を呑む沖のほうを振り返り、青い双眸がぴたりと見据える。

「――うん」

 沖はしっかりと頷いた。

 玖郎の眼差しが柔らかくなるのを感じて、安堵しながら続ける。

「ちょっとひねくれてるけど、優しい子だよ」

 玖郎は目を伏せた。

「そうか……」

 声はどこか寂しげで、沖は慌てた。

「あ、でも、俺……玄狐のことは……」

「ああ、忘れられるわけないよ」

 沖の言葉を遮って、玖郎は笑った。

「運がなかったんだよな。玄狐はさ」

 靴の裏で地面を擦る。

 こんな簡単な動作と同じようなあっけなさで玄狐は滅んだのだ。

 滅ぼしたのは久遠(くおん)――異界とこの世の間を逍遥(しょうよう)するように漂い続ける破滅の生き物だ。存在するだけで次元を歪ませる。周りのすべてを巻き込み、嵐のように引き裂き、闇に呑み込んでいく。

 ただ、久遠に意志はない。玄狐は運がなかったのだと、玖郎は心の底からそう思っていた。

「まあ、二人も生き残った事に関しては上出来だと思うけどね」

 そう言って、玖郎は顔を上げた。

「仲良くしようよ」

 片手を沖に差し出す。

 沖はそれを握り返そうとしたが、黒刀に阻まれてしまった。沖より先に口を開く。

「それだけか?」

「どういう意味だい?」

 玖郎はわざとらしく片眉を上げて問い返した。紫黒の双眸が倍を生きる玄狐を射る。

「言わなくても分かっているだろう」

 その眼光に怯まず、真っ直ぐに受け止め、玖郎は頷いた。山を守る彼の役割は分かっている。

「それだけだ」

 青空を仰ぐ。

「俺はもう頑なに何かを欲しがるほど幼くはない」

 そして、空と同じ色の瞳を持つ同胞を見る。

「ただ十夜と迦葉の子を見れただけで、満足だよ」

「玖郎……」

 沖は頭上に太陽を戴く玖郎を見つめた。

 この玄狐は沖も黒刀も軽く超越する力の持ち主であるはずだ。彼が望めば、それは彼のものになるだろう。

「……俺は子どもだから……欲しいものがあるんだけど」

「お前が望むなら何なりと」

 沖の言葉に玖郎は嬉しそうに頷く。

「これからは俺のことは沖と呼んで欲しい」

 沖は自分の胸に手を当てて続けた。

「『氷輪』は父と母の墓前に添えたんだ。玖郎は玄狐だから最初は氷輪と名乗ったけど……。やっぱり俺は『沖』なんだ」

 玖郎は視線を下げた。

(一族の名を捨て、真名も人間に委ね……それがお前の生き方なのか……)

 拒む気はない。

 消えたものにこだわって何になる。新しい希望があるならそちらを選んでもいいだろう。

「いいとも、沖」

 

      *      *      *

 

 庭に緑の木陰が降り注ぐ時間。雲の影が白い寝顔を撫でていく。

 窓際のベッド、陽光を半分しか遮断しないカーテンは風がないため揺れていない。

(……全然起きないや。眩しくないのかな)

『長時間妖気に当てられたからな。自浄作用が働いている間は起きないだろう』

 そう言ったのは黒刀だった。

「ごめんね……」

 一人で呟いて、沖は明るい色の前髪を撫でた。

 かつて松壱はすぐに熱を出すような子どもだった。少しのことで眠れなくなることもあった。だが、ここ数年目立って体調を崩したことはなく、この冬に久しぶりに寝込んだ姿を見たのだ。

 単に体が弱かったからとかそんな理由ではない。怪我による熱も少なくはなかった。

 生傷の絶えない小さな子ども。力を持て余し、自らを傷つけ、また大事な人まで傷つけて、いつも泣いていた。

(泣かなくなったよなー。……まあ、男の子だし。ちょっとのことでオロオロするよりはいい、のかな……?)

 松壱の年になって大幅な性格改善ができるとは沖も思ってはいない。

 そして松壱は沖よりもずっと早く年を取っていくのだ。

(……最後まで守るから……)

 それが約束だから。

 大助と六花と高嶺たちとの約束。そして自分との、約束だ。

-9ページ-

 松壱が目を覚ましたときにはすでに昼食の時間を過ぎていた。眠りすぎたことは鈍い頭痛ですぐに分かる。

 手には握られていたような感触が残っていた。握っていたのが誰なのか容易に想像がつく。松壱はため息を漏らした。

「やあ、おはよう。気分はどうだい?」

 まるでタイミングを計っていたかのように玖郎が襖を開けて入ってくる。手には食事がのった盆。彼は断りもなく、枕元に腰掛けた。

「いやいや、びっくりしたよ。ユキちゃんはともかく、沖も黒刀君もまともな料理が出来ないんだな。自分が食べるものは作れるようだが、とても病人には食べさせられない」

「……俺は病人じゃないんですが」

 ベッドの上でため息をつく青年に玖郎はにこにこと笑う。

「失礼。病み上がりの間違いだな」

 なぜこんなに上機嫌なのだろうかと松壱は気味悪く玖郎を見た。沖の時もそうだが、狐の機嫌が良すぎるのは落ち着かない。

 胡乱な眼差しを向けながらも、松壱は彼の料理を受け取った。

 玖郎の作った――ここ最近松壱が口にした他人の手料理の中では最高のものだといえる――料理を食べ終えて、松壱は手を合わせた。

 ご馳走様でした、と言ってから食器を重ねる間も、玖郎は笑顔で彼を見ていた。

「美味しかった? ねえ、お礼をねだってもいいかな?」

「……」

 食べ終えてからそういうことを言うのかと、松壱は玖郎に自分と近いものを感じた。

「何が欲しいんですか?」

「君の手」

「手?」

 指差されて、自分の手を見下ろす。なんのことはない男の筋張った手だ。

 玖郎はその手をとると、そのまま口付けた。ぞっと松壱が全身の毛を逆立てる。

「な、な、何を……」

 動揺しながらも、松壱は自分の中の何かが奪われるのを感じた。体の力が抜ける。

「何をした……?」

「君の霊気を少々……俺が調理に費やした労力に相当する量をいただいた」

 玖郎はそう答えてぺろりと自分の唇を舐めた。

「ふむ。非常に美味で文句はない。これなら今後もお付き合い願いたいものだな」

「……今後も……?」

 青褪めて問う松壱に玖郎は相好を崩す。

「君が見合った霊気をくれるなら、俺は君の使いをしてもいい」

 人を化かす「狐」とは本来こういうものなのだろう。沖から得ていた見解を改めるべきかもしれないと思い、松壱は玖郎を見据えた。

 こんな雇い主を手玉に取るような使い魔など正直欲しくはない。だが、断るのもなんだか怖い気がする。笑顔はそこはかとなく威圧的だ。

 どう答えるか悩んでいたそのとき、ぱんっと襖が開かれた。

「なにそれー!?」

 外で聞き耳を立てていたのか、叫んで、沖が転がり込んでくる。

「俺だってマツイチの霊気には手をつけてないのにっ。ずるいよ、玖郎!」

「おや、沖。お前はこの子に真名を知られているんだから、首輪を付けられているも同然だろう。それで霊気をもらおうなんておこがましいことだ」

 床に転がっている子玄狐を見下ろして、玖郎は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。

「これは対等な取引だ。松壱がイエスといえば契約は成る」

 そして松壱を抱き寄せて額にキスをする。ぎゃっと沖は悲鳴を上げたが、当の松壱はもはや抵抗する気にもならなかった。もとより頬や額への接吻は祖母の習慣上、慣れている。

(馬鹿馬鹿しい)

 白々とした気分で状況を認識する。

(この人は沖をからかって遊びたいんだ。それこそ『今後』ずっとだ……)

「黒刀も何か言ってよ!」

 沖が背後に向かって声を上げる。その視線の先、廊下には黒刀が立っていた。沖とは対照的に落ち着き払っている。

「俺は別に……」

 興味がない、と言う天狗に玖郎が同意を求めるように微笑む。

「黒刀君は松壱の霊気は好き?」

「……」

「美味しいよな?」

「……悪くはないな」

 笑顔の押しに負けたのか、黒刀がため息混じりに認める。ショックを受けたのは沖だった。

「なにそれ、どういうこと!? まさか、黒刀まで!?」

 ぱくぱくと口を動かす沖を見て、松壱はこれはこれで面白いかもしれないと思った。

「松壱、返答は?」

 尋ねてくる玖郎に、松壱は目を細めて優美な笑みを返した。

「いいだろう」

「マツイチ!」

 身を乗り出してくる沖を片手で押し返し、松壱は玖郎に向かう。

「ただし、俺は人使いが荒いぞ」

「妖狐も天狗も味方につけてしまっているような人間だ。無論、覚悟の上さ」

 そしてお互いに笑みを交わす。しかし双方の瞳が笑っていないのは一目瞭然である。

 何かとんでもない繋がりがここに誕生したのではないかと、沖は頬を引き攣らせた。

(きっと俺が被害を被ることになるんだ……)

 絶望的にそう悟ると、ぽんぽんと肩――否、肩には届かず二の腕を叩かれた。

 見下ろすとユキが笑っている。

「いいじゃないですか、沖様。玖郎さんの料理は美味しかったです」

「ははは……」

 乾いた笑いが漏れる。この幼い養い子はすっかり餌付けされてしまったようだ。

 彼女が松壱に心を許したきっかけも手料理だったということを思い出し、沖は頭を抱えた。そしてふと天狗が気になって振り返る。

 黒刀は笑っていた。沖が見ている事には気づいていない様子で、静かな笑みを称えている。

(ああ……そっか……)

 その見守るような視線の先。

 そこには沖も守りたいと思っているものがある。いつもどおりの高慢な笑みを浮かべた、その人がいる。

「マツイチ」

「ん?」

 呼ばれて松壱がベッドに頬杖ついて見上げている狐を見下ろす。沖はへらっと笑った。

「呼んだだけー」

 無言で一刀。笑顔をかち割る手刀が振り下ろされる。

「痛ーっ!」

「誰をおちょくってるんだ、おまえは?」

 松壱が怒気を滲ませ、指を鳴らした。ざーっと沖の顔から血の気が引く。

「おおお、おちょくってません!」

 必死に首を振る沖を見ながら、玖郎は笑った。側のユキに問う。

「いつもこんな感じ?」

 満面の笑みでユキは頷いた。

「うん、いつもこんな感じ」

説明
シリーズもの4作目。1作目:http://www.tinami.com/view/361157
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タグ
現代ファンタジー シリアス 

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