短編小説「喫茶 街角」その1
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 ある冬の日だった。彼は馴染みの喫茶店に居た。席に着くと、彼の元に一杯のコーヒーが置かれた。彼は長年この店に通いつめていて、毎回決まってブラックコーヒーを注文している。それ以外のメニューは決して注文しないのだが、マスターもそのことを覚えているのである。まるで長年連れ添った夫婦の如く無言の会話が成立していた。コーヒーを啜りながら、彼は徐に小説を読み始めた。彼はもう何十年もこれを続けている。店内にはBGMのジャズのコードが静かに流れていた。

 彼が店に入って数十分が経った頃、彼は珍しく口を開いた。

「なあ、マスター。」

マスターは作業の手を休めることはなく、しかし彼の話しにしっかりと耳を傾けていた。

「実は、今日で定年を迎えるんだ。」彼はそう続けた。

「おめでとうございます。」

マスターは一言だけ口にすると、作業を続けた。喫茶店にまた静けさが戻った。

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 程無くして、何かの音が再び静寂を切り裂いた。音の正体は、彼の携帯電話だった。見ると、今日まで共に働いて来た同僚たちからのメールが数通来ていた。

「あいつらめ。」

彼はそう呟くと、嬉しいような、恥ずかしいようなそんな表情でメールを眺めていた。「おめでとう」だとか、「お疲れ様です」だとかまるで電報の定型文の様なメールばかりだったが、彼にはとても嬉しい物だった。

 ふとマスターが彼を見ると、彼はまじまじと携帯を見ていた。その表情は感慨深く、目には薄っすらと涙を浮かべていた。マスターは彼に尋ねた。

「奥様ですか。」

「ああ。」

彼は一言だけ言い、女房からのメールを読み続けた。

 数分が経ち、彼は立ち上がり、口を開いた。

「マスター、お勘定。今日ぐらいはあいつの為に早く帰ってやることにするよ。」

そう言って、彼はテーブルに静かに代金を置いた。

「サービスにしときます。」

とマスターは代金を受け取ろうとはしなかった。彼は微笑んで玄関に向かった。彼が店を出る時、外には雪が降っていた。マスターは雪の中に消え行く男の姿をいつまでも見送っていた。辺りはすっかり暗くなっていた。

説明
個人的には気に入ってるお話。
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小説 短編 

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