C.H.A.R.I.O.T&W.O.R.L.D W
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 あなたは手を取り合って共に歩む存在を見つけてしまった。

 その相手が如何な状況にあったとしてもその身に危険が及んだとしたのならあなたはそれを助けるべきじゃない?

 喩えその相手を助ける事で多くの犠牲が出たとしても、

 それは恥ずべき行いじゃないよ。

 何故なら私達は誰からも好かれなかった存在なのだから、

 呪い、恨まれ、憎まれ、石を投げつけられる事にすら耐えてきたのがこの世界に住む存在じゃない。

 それがまた一つ増えるだけでしょう?

 恐れるほどの事なのかしら?

 

 

 私達はまた一歩邪悪の二文字ににじり寄った。

 

 

A

 

 

 さとりはこいしの手を握りしめ、世界を放浪した。その先であらゆる”言葉達”と出会った。

 私が放浪した年月は一体どれだけだったのだろうか?

 百年? 千年? それとも、何千年?

 私は心を失った妹を連れてただひたすらに世界を放浪した。

 同じ場所に何度も訪れたりもした。

 けれどもその時代によって人々が語る言語も違えば住む人々の文化も変わっていった。

 その土地で使われていた言葉はどこへ消えていってしまったのだろうか?

 その時、ふと人の死を意識した。

 インダスと呼ばれる土地で死んだ人の火葬が行われていた。

 盛大に焼かれる人は長く健やかな生を過ごしたらしく、彼を慕う人々の数は多く、死んだその体を天へ戻し、水に流し、自然と言う循環の中に帰っていった。

 そうして彼の魂はまたこの世界のどこかで転生するだろうと信じられていた。

 真偽はどうであれ、その土地で生きる人々はそうなる事を信じていた。

 彼らは死んだものの灰が流された川で生活を行っていた。

 そういう意味では彼の体は自然に帰って行ったのだろう。

 その姿を見て、私は一つの事に気が付いた。

 言葉も、文化も生まれ、そして成長して、死んでいくのだと、

 そうしたらこの私の持て余している能力もいずれ老いて死んでいくのだろうか?

 彼女は自らその能力を殺してしまった。

 私はそんな度胸もなく、ただ彼女が行っていた様に人々の言葉を採集していた。

 多くの言葉と出会い、そして別れていった。

 もう一度その言葉と出会うために長い時間を掛けてその土地に辿り着いても、その言葉が既に失われている事だってあった。

 失われずに変質することだって……それは何だか良く知っている友人を失ったみたいな気持ちになって、そして新たな友人を迎え入れる気持ちを整えていった。

 私は何度も自身を戒めた。

 例えそれがどんなに親しい友人であったとしても、私は決して友人と同じ道を歩み続ける事は出来ない事を理解し、その為に一つの場所に留まらず世界の西から東へ、南から北へ、数多ある人々の世界へと旅をした。

 幾度と無く訪れた場所で言葉は分からずとも、その土地に住んでる人間より詳しい私に対して人々は様々な疑問を投げかけてきた。

 世界は変わっていく、例え同じ土地が続こうとも、そこで生活を営む人々が変われば社会構造が変わる。

 その中にある日突然侵入しては去っていく二人の少女はやはり人目についた。

 私達は様々な場所で口々に人々から言われた。

 

「あなた達は何処から来て、何処へ向かうのか?」

 

 その問いかけの答えを人々が聞き取る前に、私達はその土地を去った。

 ある時だった。

 人目に付かない森の中を歩いていた。

 その頃になると獣道を歩く事にも幾分か慣れてきた。

 ふと天気が気になり空を見上げると多くの鳥が一つの方向へ飛び去っていくのが見えた。

 その時だった。

 私は自身の能力の全てを自己が認識していない事を改めて思い知らされた。

 私は空を見上げて近々嵐が来る事を理解してしまった。

 ただそれが空模様で理解したわけではなかった事が問題だった。

 空に沢山飛ぶ鳥は天候の変化を鋭敏に察知する。

 その鳥達の数多の思考が自身の瞳から流れ込んできたのだ。

 新たな認識は自己の能力を高めたのか? それを意識し始めると今度はその森で目に映るすべての生命体の思考が瞳を介して流れ込んできた。

 あまりの情報量の多さに頭が激しく痛む、

 人間ではないものの思考は私の理解を超えていた。

 顔にある両の瞳では見ることのできないような小さな存在達の思考とも呼べないものの集合が、瞳に、

 塞ぎたい、この瞳を塞いでしまいたい!

 胸にある第三の瞳に両手で掴み、力を込める。

 けれども、その私の手を上から掴み、私の行動を阻む者が存在した。

 妹のこいしだった。

 私は何度も彼女の手を振り払うとした。

 けれども彼女の腕は離れなくて、ただ私の行動を阻止した。

 

「逃げちゃ駄目だよ。お姉ちゃん」

「こんな力……身に余るわ」

「でもかつて私の力を否定したお姉ちゃんはその責任を負うべきでしょう? だから駄目、その力を捨て去る事なんて、私が絶対に許さない」

「でも、こんなのじゃあ私はもう何処にも行けない! 人が家畜を殺す時ですら両者の心を等しく見ていなければならないのよ?」

「そうだよ。私はそうして、彼らを私自身の家畜にしようとした。けれどもお姉ちゃんはその事実が気に入らなかった。人間が家畜を餌にするように人間を私が餌にする姿が気に入らなかった」

「それとこれとは話が別よ。私はあなたのその行いにも嫌悪は感じていたけれども、あなたがその実、その餌にしていた人間に手を噛み千切られる姿が想像できたからよ。何回失敗したの? 何回同じ過ちで裏切られたの? 私はもう“私”がこれ以上傷だらけになる姿が見たくなかっただけよ!」

 

 その言葉を聞くと彼女は私の両手を引っぺがし、そして私の瞳を今度は優しく両手で包む、その感触に少しだけ安堵感があった。

 

「見えすぎるものは見えなくすればいい、心を振り絞って、感覚で視界を調節して、あなたはただ多くのものに目を向け続けることばかりを気にしすぎているの。もっと、感覚で、自分の能力を最低限愛してあげて、私の行いを嫌っていたのに最後まで私を愛してくれたお姉ちゃんだもん、そのくらい出来るよね?」

「愛する? 私が?」

 

 私は両の瞳でこいしを見つめた。

 彼女は笑顔で頷き、そして付け加えた。

 

「だからきちんと探そうね。私達の楽園を……」

 

 その言葉を最後に……私の目の前から妹は消えた。

 いつの頃からだったのか?

 それ以来私は妹の姿をきちんと認識した記憶が無い。

 けれども彼女の最後の言葉を境に、私は自分の能力を持て余す事は無くなった。

 呪詛は消えなかったけれども……

 

 

B

 

 

 あたいがこの旧地獄に来た時の記憶は、残念ながらはっきりとは憶えていない。

 何せあたいがここに運ばれてきた時瀕死の重傷を負っていたからだ。

 その事に関しちゃまぁ、自分の失態なんだけれどさ、気が付いたら何だか殺風景な部屋だなって思ったよ。

 けれども清潔だった。

 あたいの住んでいた場所は特別汚らしかった。

 石畳に汚物が撒き散らされている事なんてしょっちゅうだったし、毎日のように工場から湧いていた煙も、汚水もただならない臭いを発していた。

 そんな最悪極まる場所に住んでいた人間共も屑の集まりで、その塵溜めで人の墓を荒らしていたらいつの間にか妖怪に成っていたのがあたいだった。

 ちょっとした人間には無い能力で人間を脅し、襲って食料品を奪ったり、そのまま人間を食い殺したりもした。

 でも、自分が何故人間の姿になったのかはあたい自身でも良く分からなかった。

 それに人間の姿になってからというもの、あたいも人間のように生き方だとかそういったものに思い悩むような事になっちまったんだよ。

 そしたらさ、ある時戸惑いが出来てしまった。

 こいつらと自分とは何が違うのか?

 根源的な回答なんて勿論でなかったさ、

 でも表面上の回答らしきものは出来たさ。

 それはあたいは一人だけれど、人間は数多に居るって事さ。

 あたいの存在は人間の間で噂になっていた。

 その為に囮を使ってあたいを捕まえたかったんだろうさ。

 そして見事に餌に食いついた馬鹿な獲物だってだけさ。

 散々人間に殴られたのは憶えちゃいるけど、後のことなんて覚えてないさ。

 そんなあたいをどうやって助けたのかすらも分からないけれどもさ、

 彼女はベッドで眠るあたいに言った。

 

「買い取りました」

 

 その一言には驚かされたね。

 だってあんな屈強な野郎共が私刑にかけてるところにあの低い背の女性が一人割り込んで行ける度胸があるとは考えられない。

 しかし実際命を助けられたわけだし、それだったらこの人に買われるのも悪くは無いなって思った。

 でもあたいは疑問に思った。あたいみたいな死体漁りの下衆な存在に一体どんな魅力があるというのかってね。

 その事を考えた瞬間だった。

 少し見た目に不機嫌そうな彼女の顔の額に皺が寄ったのさ。

 そしてあたいの頭を一回だけ、バシンって叩いてきたのさ。

 

「あまり自分の事を卑下しないで下さい。あなたはただ……そう、ただ生きるべき場所が間違っていただけよ」

「ならあなたがあたいの生きる場所を提供して下さるんですかい?」

「いいえ、私があなたに提供したのは幾つかの金細工、それによってあなたの命を買った。私が与えるのは義務です。私の下で働きなさい」

「では、質問を変えます。あたいのこの姿に一体どれだけの魅力を感じて金を支払う気になったのですかい?」

 

 あたいの言葉を受けると彼女はほんの少しだけ顔に笑みを浮かべたんだ。

 それがさ、なんていうか、悪戯を思いついた子供がそれを種明かしした時の顔に似ていて、なんかやっぱりあんな修羅場に割って入ってこれるような存在じゃあ無いなって思ったさ。

 彼女はゆっくりと歩き、そして病室の窓を開けた。

 そうしたらさ、少しだけ温かい風と、それとなんだかあの街を思い出した。

 あのくっさい汚水の臭いそっくりの硫黄か何かの臭いが僅かに鼻をくすぐったのさ。

 

「紹介しましょう。ここは旧地獄、そしてこの私はその旧地獄を統べる者にしてこの地霊殿の主、古明地さとりと申します。私があなたを買った理由、それはあなたが死体を集めたがる気質と、その怨霊を操る能力を必要としているからです。幸い、ここには死体も怨霊も数え切れないほどあり、それを掃除する存在は一人でも多く必要なのですよ。だからようこそ、旧地獄へ」

 

 自分の生き方が正しいものだなんて自惚れちゃいないけどさ、正しく地獄行きにされるなんて思わなかったさ。

 何のジョークか分からなかったけれどもさ、彼女の言うとおり、自分の中の本能が告げてくるんだ。自分の獲物があることと、それに自分が人を驚かしたり、それこそ攻撃していた道具がこの場所には沢山あるぞってね。

 だからこの良く分からないアクセサリーを胸につけた女性の言葉をある程度信じる事にしたよ。

 あたいがそう考えていると、彼女はまた額に皺を寄せてきたよ。

 今度のはいまいちタイミングがつかめなかった。

 どうやらあたいの疑問符に反応したのかあたいに答えを言い渡してきた。

 

「これはアクセサリーではありません。体の一部です。私は覚り妖怪という妖怪です。この第三の瞳によって他者の心の中を覗くこの旧地獄で最も嫌われ者の妖怪です」

 

 あたいのうわあっていう叫びは一体何度目になるんだろうな? それも全部筒抜けだって言われると気恥ずかしくてならなかった。

 思わず触ってみてもいいですか? と聞きそうになり睨まれる。

 言葉に出さずに他人に体を馴れ馴れしく触られるのはあなたも嫌でしょう? と言われたような気がした。

 

「良く憶えておいてください。あなたが仕える妖怪とはそういう存在です。仕事に関しては後に言い渡しますので、今は治療に専念して下さい。やがて、この館に住む者達も紹介しますよ」

 

 彼女は静かに、そのままあたいの病室から出て行った。

 驚くほど物静かな人だった。

 言っている事は一方的だったのにあたいはそこまで尊大な人だとも思わなかった。

 それにあたいは気になった。

 人の心を読むってことはあの人はあれが見えるのだろうか?

 負傷していない左の指を鳴らすと早速出てくるのは以前自分が殺した小僧の怨霊だった。

 青白く光る人魂はあたいに対して怨嗟の声を投げかけてくる。

 そうかい、そんなにあたいが憎いのかい、けれどもあたいに殺されちまうあんたが悪いんだよ。生きているのに、隙なんて見せるからこうなっちまうんだい。

 あたいはその人魂に今一度触れ、その熱を感じない雰囲気を楽しむと、その怨霊を物質的な物に変えて、即座に指を鳴らす、

 今度は激しく音を立ててその怨霊は光って散って行った。

 あたいの能力の顕現、怨霊の魂をその暗いイメージとは裏腹の青白い炎を上げる物質に変える力、

 あたいの名前はその能力からこう呼ばれるようになった。

 

 火焔猫燐

 

 あたいの能力をもってすれば怨みの念は正しく炎をもたらすものになる。

 常温でも自然発火をするような制御不能な物質、それは正しく人間共が持て余してやまない感情と同じ性質の物だった。

 あたいはその名前を貰って漸くのところ自分が何故人の形を取ったのかの一つの見解を得られた。

 あたいは好きなのだ。人間のそういった感情が――

 だから地獄なんて辺鄙なところに堕ちたのだ。

 そう考えるとなんだか妙に納得がいったさ、自分の生きるべき場所だとかあの旧地獄の領主様は言うけどさ、これも人が言う運命だとかそういうのだったらそれでもいい、その時はただ、そう感じていたさ……

 

 

 それから暫くしてからだった。あたいは館の連中に紹介された。

 色んな奴がいた。

 というか殆どが動物だった。

 それがどういうことかは良く分からなかったので首をかしげていると、さとり様は答えてきた。

 

「私の部下は、というより彼らは私のペットなんですよ。それが時間が経つにつれてこの旧地獄の瘴気に当てられ妖怪に成長してしまう者が出てくる。今この館を運営しているのはそんな妖怪達です。勿論そうじゃあない者も居ますけれどね」

 

 一同を見渡して、あたいは妖怪という存在の多様性に驚かされた。

 殆ど動物に近いものから、体だけ人間に近いもの、人の姿に確かに近い、けれども似て非なるものの存在をその時点では自分とさとり様以外は見た事が無かったためそれは純粋に新鮮な気持ちになった。

 けれどもあたいは彼らにはあまり心を開けそうになかった。

 あまりにも自分とは外見が違いすぎるそいつらを同じ妖怪とは到底見えなかったからだ。

 それは人間にあまりにも近い姿をした自分の姿から来る傲慢なのかもしれない。

 そんな中あたいはあいつを見つけた。

 真っ黒い綺麗な長い髪とそれよりももっと深い暗闇を背負ったような翼を持ったそいつはあたいより少しばかり背が高くてあたいをどちらかというと見下ろしていた。

 

「初めまして、火焔猫燐さん、私はお空、地獄烏のお空だよ」

「そうかい、その邪魔臭い翼ってここじゃ不便だろうね」

「ひど! 私結構自分の翼は気に入ってるんだよ?」

「知らないよそんな事」

 

 あたいは別にここの連中と仲良くしたいとか思っちゃいなかった。

 まぁ自分の邪魔にならなければいいかな? 位の気持ちだったさ。

 だけれどそいつと来たらわざわざあたいが作った境界線を越境してきて、

 

「ねぇお燐、どこいくの?」

「あたいが何処にいこうと勝手だろ? 大体なんだい? そのお燐って奴は?」

 

 後ろから着いてくるそいつは外見には似合わずどこか子供染みていた喋りをする奴だった。

 直感が告げてくる。

 こいつは自分が苦手なタイプの性格だと、子供臭い割にはナリはでかくて見下ろしてくるのも好きにはなれなかった。あと狭い廊下じゃあ邪魔臭い翼も……

 

「名前が長くて覚え辛いからさ、呼びやすい名前考えちゃった」

「本人の了解も無しにかい?」

「別にいいじゃん、可愛いし」

「可愛い? ちょ! 何恥ずかしい事いってんのさ?」

 

 やっぱりだ。あたいが一番苦手なタイプだ。

 先ほどのさとり様の紹介ではここの妖怪達はさとり様が育てたらしい。

 この屋敷はとても広い、調度品も質の良いものが多い、それにこれだけ広い上に動物だらけなのに屋敷の管理が行き届いている。

 こんなにも暖かい場所であんな良く出来た奴に育てられたんだ。誰かに甘えなれてるとでも言うのだろうか?

 

「それじゃこれからもよろしくね。お燐」

 

 差し出してくる手を握り返してやらなかったのは自分自身の意地だった。

 あたいはこいつみたいに人に育てられたわけではない。

 だからあたいはこいつの気持ちを決して分かってやる事はないだろう。

 いや、分かってやる必要なんてあるわけ無いじゃないのさ。

 

「いいえ、実はあるんです」

「って、うわ! さとり様、どこから湧いて出てきたんですかい?」

 

 あたいは確かに先ほど別の道に行った筈だ。それが何故先回りされているのか?

 なんともはや……

 

「この地霊殿には数々の隠し通路が存在します。それはあたかも毛細血管の如く、私ですらその全てを把握し切れていません」

「いや、そこはしましょうよ! 主なんですから!」

 

 あたいの突っ込みにさとり様はしばし表情を曇らせ、そして手を顔にあてて伏せる。

 

「私があなたのような獣の姿になれれば良かったのですが、流石に獣しか通れない様な隠し通路は、私には流石に……」

「なんでそれくらいの事で落ち込んでいるんですかい? メンタル面虚弱なんですか? そういうお薬とお友達なんですかい?」

「いえ、ただそういったものがあるという事はそういうことなんですよ……つまりはあなたが思っているほどこの世界は安定しているわけではないのです」

 

 急に表情を険しくした彼女から冷たく言い放たれた言葉、言われて思い返した。

 ここが旧地獄だという事を、例えばこの目の前の人だって表面上はよく出来た淑女を気取っていても人には言えないような趣味を持っていたりしているかもしれない。

 

「趣味は料理と裁縫です。それにどんな趣味を持っていても人間の死体を持ち去るあなたには誰も言われたくは無いと思いますよ?」

「むむむ」

 

 笑顔で返してくる地獄の領主は何かおかしい、こう、なんていうか地獄の領主らしからぬ表情を見せてくる。地獄といえばもっとこう、魑魅魍魎が跋扈としてるような本能的に逃げ出したくなるような存在が沢山住んでいて然るべきじゃないのかい?

 

「何度も言いますが人間の死体を持ち去ったり、人間の子供を焼き殺して食べていた妖怪が何を言っても他人にそれは言えませんよ」

「いや、まぁそうですがねぇ」

「他がどうであれ私は仕事と趣味は別にするのが性分です。私はあまり仕事に熱心な方でもありませんし。まぁ家にいる限り仕事には追われる毎日ではありますがね。とはいえ、お燐、私達、これはこの館に住まう存在全てに言える事なのですが、私達の立場はあまり良いものではありません。旧地獄の領主は私ですが、ここは旧地獄にある都、旧都からは遠く離れています。向こうには独自の自治権がありますし、幾つもの派閥があります。そして残念ながら私はあまり人々から好かれる立場にある存在でも人格でもありません。誰がいつどこで襲い掛かってくるかもわかりません。この屋敷だって私の以前の持ち主が遥か昔に建てたものです。だから、最低限この屋敷の中に住んで居る者とは仲良くしなさい」

 

 その言葉を聞かされると確かに自分の考えが些か甘かったと考え直さないといけない。

 この目の前の烏女も地獄らしさってのが何かしらあるんだろうか?

 そのあたいの思い浮かべた言葉を読み取ったのか、何故だかさとり様はあたいから顔を僅かだけ逸らした様な気がした。

 気がしただけだったからそれはあまり気にしなかったけれども、本当はあの時にもその違和感に何かしら気付いていたらと思うな。

 

「とりあえず差しあたっては、まずこのお空と仲良くしなさい」

「えーどうしてですかーあたいの心を読んでいたら分かりますでしょう?」

「言ったはずよ。お燐、私があなたに与えるのは義務、そしてあなたと同じ仕事をするのは彼女、つまりあなたと彼女は同僚であり、そしてあなたの先輩でもあるのよ」

「……そりゃまた、結構な事で」

 

 思わず肩を落として呻く、あたいとは対照的にお空は飛び上がるように嬉しがる。

 あのさ、先ほどまでのあたいの反応を見ていなかったのかい? って思わず聞いてやりたくなった。

 

「やったね! お燐! 明日からずっと一緒だね!」

「ああ、精々あたいの足を引っ張らないでくれよ」

「天邪鬼ですねあなたは」

 

 そんなあたいの姿を見てさとり様は唐突にそんな事を告げてきた。

 あたいは訳が分からなくてその真意を尋ねようとしたところ、彼女から先に答えてきた。

 

「そうやって嫌そうにしていますが内心安堵しているのでしょう? お空の居る目の前であんな会話をしちゃった事」

「え?」

 

 言われて漸く意識し始めた。

 何かあたい実はお空に凄く酷い事言ってない?

 お空の顔をもう一度きちんと見据える。

 そこには悪意だとか敵意とかそういったものとはまるっきり無縁そうで、本当に、見た目よりも幾分、いやかなり精神年齢は低そうだ。

 そいつが嬉しそうにあたいの腕を掴んでくる。鬱陶しい事この上ないけれど彼女はあたいのあの卑しい考えを理解しなかったのだろうか?

 先ほどまでと違い彼女の腕から伝わってくる熱が幾分かあたいの心から罪悪感を拭い去ってくれる。

 

「それと、お燐、あなたの傷もそろそろ癒えた頃ですのであなたも使用人の部屋に移って貰います」

「私室を頂けるんですか?」

「いいえ、あなた一人の部屋ではないわ。そこのお空と相部屋ですね」

 

 あたいは抱きついてくるお空を押しのけながら半眼でさとり様を見つめる。

 本当にこの人には作為は無いのだろうか? などと邪推をしてしまう自分を恥じようと思ったが、

 明らかに何かを堪えるように口元を押さえ、さとり様は彼女の能力の顕現である第三の瞳ではなく、あたいたちと同じように顔についている二つの瞳をあからさまに明後日の方向へ向けている。

 

「それじゃあお空、彼女をきちんと部屋に案内するんですよ」

 

 わかりましたー、と大きな声でお空は返事をする。

 さとり様は、宜しい、と一言答えて、そのまま踵を返してしまった。

 でも振り向き様に今一度聞いてきた。

 

「お燐も、仲良くしなさい。返事は?」

「はい、そのぅ、お燐っていうのは決定なんですかい?」

「いいじゃない、お空にお燐、私は呼びやすくって私は気に入りましたよ」

「あたいは気に入ってませんよ!」

「なら気に入るように努めなさい。それじゃあ」

 

 今度こそさとり様は振り向かずに歩いていってしまった。

 ……なーんかいい様にあしらわれた気がするなぁ。

 こういうのをパワハラっていうのかねぇ。

 

「じゃあ、お燐、私の部屋に、ってお燐の部屋にもなるのか、とにかく案内するね」

 

 どうにでもしてくれって気持ちを込めて、ああ、とやる気が無いように答える。

 彼女のテンションとは反比例してあたいのテンションは下がっていく、

 こいつの第一印象から今の印象はやっぱり大して変わらない。

 多分、というか絶対だけどこいつの部屋は子供っぽい、

 それは単純に子供的な趣味の家具を持っているというよりも、なんていうか、人間の子供が持っている玩具箱だとかそういったものをひっくり返して片付けない。

 それでもこれが整理しているんだ。

 とかそういう事を言いそうな感じである。

 想像しただけで嫌な予感が消え去らない。

 二つほど廊下を曲がってその先に、ネームプレートが付いている部屋があった。

 綺麗な筆跡で書かれたそれはあまり目の前の彼女からは想像できないものだった。

 恐らくさとり様あたりが書いたのだろう。

 とりあえず扉はそこまで汚れているわけではない。

 その清潔さが、なにやら余計にあたいの第六感をくすぐってくる。

 

「じゃーんこれがこれからお燐の住む部屋だよ!」

 

 トンネルを抜けるとその向こうは――なんていう感慨に浸るつもりも無かった。

 自らの顔が引きつるのがわかる。

 彼女が部屋に“何か”を意識的に避けながら入っていくのが分かる。

 そして部屋に備え付けられているオイルランプに火をつけると、視界に入ってきたのは……

 

「お空、あたいはさとり様に言われたからもうこのこと自体には異存は無いさ」

「良かった。お燐も気に入ってくれたんだ。これからも宜しくね」

 

 右手を差し出してくるお空の態度にあたいはもう限界だった。

 振るえる拳をなんとか押さえつけながらあたいは自身の出せる精一杯の声でこの阿呆鳥に言ってやった。

 

「お空! あたいと健やかな毎日を過ごしたいのなら今すぐこの散らかりまくった部屋をさっさと掃除しな! 今すぐにだ!」

 

 彼女の部屋はあたいの予想を超えていた。

 流石に脱ぎ散らかした服や下着は(そんなには)無かったが、床には数々の光物が落ちていた。

 どこぞで拾ってきたようなきらきら光る宝石か何かの原石から、医療用のメスまで、それこそ踏んだら致命的なものまで散乱していた。

 なんでこんなものを集めてくるのか良く分からないし、あいつの趣味なんて関知することじゃないけどさ、これから共同生活を行うんだったら足の踏み場も無いような場所に文句をつける事くらい当たり前だろう?

 さとり様もさとり様だ。あいつったら表面は淑女ぶってるけど絶対内面はズボラだろ! こんな住居としての機能すらきちんと果たしていない部屋に住まわせるなんて! どうしてこういうところに目を光らせてないのかなぁ!

 

 

 結局その日は一日中かけて二人で部屋の掃除をした。

 お空曰く、光り輝くものを見ると欲しくて堪らなくなるそうだ。

 だから教えてやった。

 

「いいかい、お空、どんなに光り輝いているものでもこうやって埃まみれになったら輝きを失っちまうんだよ。そうしたら勿体無いと思わないかい? 折角だから分類も分けてきちんとした場所に仕舞いなよ」

「うん、ただ私仕舞ったら仕舞ったでどこに置いたか分からなくなっちゃうし」

「なら仕舞った場所に何入れたか書いておく、忘れっぽいならそれを補う知恵を振り絞りな! 図体だけでかいだけじゃただのうどの大木さ」

 

 結局彼女に物を仕舞わせても整理なんて付くはずも無しに、あたいが最後まで殆どを片付けてしまった。

 そうして部屋の全てを見渡すと、確かにさとり様が言ったとおりにゆうに2人は簡単に入れそうな程の広さの部屋だった。

 

「凄いね、お燐、この部屋ってこんなに広かったんだね」

「それを狭くしてたのはあんただろうが! このお馬鹿」

 

 脳天にチョップを食らわせせると、あいた! と悲鳴を上げる彼女、けれども少しも悪びれる表情は見えない。

 ふと、もう一つ気になることを聞いてみた。

 

「で、お空、あたいの寝床はどこだい?」

 

 部屋にあるのはシングルの少し大きめのベッドが一つ、他には寝具のようなものは無い。

 

「うーん私も自分のベッドしか知らないなぁ」

「……」

 

 嫌な予感はいつだって当たる。無いと言うことは今ある物で我慢しろってことかい。

 あのズボラ地獄領主め!

 丁度その時、壁にある時計が音を立てる。

 

「ほら、お燐丁度、夕食の時間だよ。夕食は一階の食堂でみんなで食べるの! 行こうよ」

「う〜んでもこの問題は解決してないしなぁ〜」

「昔から言うじゃない。無いなら自分で作ればいいじゃないって」

「どっからの引用だい! 大体ベッドなんて今日造れるわけ無いだろう! だったらあの狭いベッドに二人で寝るのかい?」

 

 あたいのその言葉を聞くと、彼女は若干顔を紅くしながらこう答えた。

 

「えっと……その……お燐は嫌…か…な?」

 

 こいつはぁぁ! そんな態度取られたら嫌だなんて言える筈が無いだろう!

 あたいは答えるまでもなくそのまま部屋を出た。

 

「お燐待ってよ〜」

「ほら、早く行かないと料理を他の連中に取られたりしそうだろ? ベッドは、半分に割るから越境してくんなよ」

 

 最後の言葉を言うのは恥ずかしすぎた。だってその言葉を聞いた彼女ったら嬉しそうに答えてくるんだから……

 全く、あたいみたいな擦れた妖怪がこの地に来るのは分かるけれども、どうしてこんな明るい奴が旧地獄に居るのかねぇ。

 世の中訳がわからない事だらけだよ。

 

 

 結局その夜の彼女の越境を防ぐ事は出来なかった。

 寄るなって言ってるのにあいつったらあたいに無意識のうちに抱きついてくる。

 暑苦しい上に放したかと思ったら今度は翼が顔面に当たってくる。

 痛いとは思わなかったけれども抜け落ちた羽根が何本か落ちてきてその度にそれを掃除する羽目になった。

 結局一睡も出来ずにあたいは朝を迎えた。

 

 

「あら、お燐、体調が悪そうね。まだ本調子じゃあなかったかしら?」

 

 あたいは余程酷い顔をしていたのだろう。よく紫色の光を放つ下方のステンドグラス越しにこちらの表情が分かったものだ。

 

「そう、それは難儀したわね。でもそれならあなたと、お空には別の仕事をやってもらいましょうか?」

 

 そういうと、さとり様はあたいを手招きして自身の書斎へと案内した。

 彼女の外見に似合わず、その書斎はファンシーさの欠片もなかった。

 木で出来たデスクは如何にも頑丈そうで、ちょっとした会社のオフィスのようだった。

 本棚を見ると数多の本が並んでいた。

 あたいの知っている言葉もあればあたいのまったく知らない言葉で書かれたものもあった。

 さとり様に病室に居た時に教えてもらった漢字だとかかな文字というこの国の文字で書かれた本も数多に存在していた。

 この空間では逆に彼女自身が些か場違いな存在のような気がした。

 そのあたいの考えを読んでか、彼女が少しだけこちらを睨んでくる。

 彼女の睨み方はかなり独特だ。

 強い怒気だとかそういったものを表面に一気に押し出すようなタイプではなく、じとーっと相手が折れるまで静かに怒るタイプである。

 

 彼女はあたいの感情にはそれ以上興味を無くたようで、デスクに座り、一枚の書類を認めた。

 「発注書」と書かれたそれに、彼女は最後に自身のサインをして、三つ折にして封筒に入れた。更にはライターを取り出して蝋燭を炙り、蝋を垂らして最後に印を押して厳重に封をした。

 それから机を漁り、地図のようなものを取り出し、それに印をつけると、その両方をあたいに渡してきた。

 

「その地図に書かれた場所にお空と一緒に行ってきなさい。そこの受付か責任者にその書類を渡してきなさい」

「あの、これは一体何の書類ですか?」

「あなたのベッドを作るためには木材が必要です。旧地獄には大木は自生していない。その為全てを外部との流通で賄っている。故に貴重なのですよ。そこに記された場所はその木材の卸業者ですよ。私が旧都に出向くのはあまり好まれる事ではないですし、何より、あなた自身の事なのですから、自分でやってきなさい」

「あの、でも木材はあってもベッドなんて作ったことなんて無いのですが?」

 

 あたいのその言葉を聞くと、さとり様は、またいつか浮かべたような子供っぽい暗黒微笑であたいに笑いかけた。

 

「それに関してもお空を頼りなさい。まぁ、何にせよ、この旧都を見ておくのもいい機会かもしれないわ」

 

 こうして朝食を終えたあたいとお空は旧都に出掛けた。

 お空はあの散々昨晩あたいを悩ませた自慢の翼で羽ばたこうとしていたが、空なんて飛べるはず無いじゃんと答えると、彼女も渋々歩くことを決めた。

 

「お燐も飛べるよ」

「何を根拠にそんな事いうのさ? あたいは烏じゃないんだよ? 猫だよ」

 

 するとお空は空を指差した。

 その先には普通に空を飛んでいる妖怪が居た。

 翼も無しに……

 

「妖怪は認識すれば空も飛べるって確かさとり様が言ってた。だからこの旧地獄には空を飛ぶ妖怪の為に照明をあちこちに置いているんだって、ぶつからないようにねって」

 

 言われて周囲を見渡すと、等間隔でガス灯か何かが設置されている。

 そういえば眠れないで昨日の夜も窓の外の風景を見ていたが、夜も絶えず明かりがついていた。

 この地霊殿ではない、まるで対岸にあるような世界、旧都の明かりは絶えることは無かった。それは深夜を迎えると途端に灯りが消えていく外の世界の常識から考えると不思議な感覚だった。

 

「なぁ、お空、一つ聞いてみてもいいかい?」

「何?」

「さとり様もあんたもだけどさ、朝とか夜って言ってたよね?」

「うん、それがどうかしたの?」

「いや、こんな穴倉の生活じゃ朝も夜も無いんじゃないかなって思って」

「外では違うの?」

「少なくともあれは違うさ」

 

 あたいは上空を指差した。

 

「“上”がどうかしたの?」

「違う、いや、違わないけどさ、ここは地上から閉じた世界だからさ、理解しづらいかもしれないんだけどさ、外の世界には空があった。朝っていうのは空にお天道様が上ったときに始まって、夜ってのはお天道様が沈んだ時に始まる」

「それってさ! どう違うの?」

 

 あたいの言葉に彼女は興味津々だった。ここまで食いついてくるのはやっぱり驚いたけれども、よくよく考えてみれば、空を知らない世界で生きてきたこいつが空を知っているはずが無い。

 お空なんていう名前なのに、その自分を表すものがどんなものかも知らないなんて、ちょっと間抜けている気がするけれど……

 

「空は、時間によっても姿が変わっていくし、季節やその時の気分しだいで色も変わっていく、一日中鉛色の雲が空を覆う時もあれば、真っ青な何も無い時もある。その中に一際でっかくお天道様っていうのが上っているのさ。尤も、あたいが住んでいた場所はそんな綺麗な空はあんまり見せちゃくれなかったけどね」

「それはどうして?」

 

 あたいはその事について多くを説明する気にはなれなかった。

 人間共が作った工場から出てきていた真っ黒い煙が空を覆っていたなんて、説明して分かる奴でもないだろう。

 

「そうだな、空にも感情があるんだよ。あんたみたいにね」

 

 我ながら恥ずかしい言い訳だけれども、お空は何かを納得したらしく、深く頷いてきた。

 

「それじゃあお燐はその空とは仲が悪くて私に会いに来たんだね」

 

 あたいはまた彼女を見誤っていた。

 あたいはさっきのやつを自分の考えうる一番恥ずかしい言い訳だったけれども、彼女は素でそれを越える恥ずかしい台詞を用意してくれた。

 聞いているこっちが恥ずかしいさ。

 全く、あの地獄の領主様はこいつにどんな教育をしてきたんだい。

 旧地獄の街道を歩いて旧都へとたどり着く、

 ガス灯で彩られた街はそれなりに活気があった。

 こんなことを言うのも変化も知れないけれども、あたいが住んでいた街よりも良い意味での活気があった。

 適度に富んでいて、適度に寂れている。

 街という想像を働かせるのならそこまで悪い場所ではなかった。

 見た感じ旧地獄だけあって治安はあまり良くなさそうではある。

 街の喧騒には罵倒も多いし、当然ながら人間なんて一人だっていやしない。

 その喧騒と言う言葉はいい意味であたいの中のリアリズム的な視野を広めてくれた。

 

「初めての旧都の感想は?」

「んむ、まぁ地獄って言われたら少し拍子抜けするけどさ、慣れれば悪くないって所かな?」

「良かった、ここにはお燐の苦手な空は居ないよ」

 

 未だにお燐と呼ばれるのにむず痒い、でもそれよりも彼女がまた単語の意味を捉え違いをしている方が気になった。

 

「感情があるからといって空ってのは別にあんたみたいな人の姿をしているんでもなけいんだよ。まぁここの上を見た時に真っ暗なだけじゃなくて星だとかが見えるのは結構気持ちが良かったけどさ」

 

 同じ夜の暗闇でもここの空には月もなければ星も無い、空を見て方角を理解するのは難しいだろう。

 ここにガス灯を建てた奴はそのことも理解してたのだろうか?

 

「でさ、お空朝と夜ってここじゃどうなんだい?」

「どうなんだって言われてもね。ただ地霊殿のみんなが起きた時が朝で地霊殿の皆が寝るときが夜かな?」

「なんだいそりゃ適当な」

「でもこの街もそうだよ」

 

 言われてみると街では商売を営んでいる見せもあればあたいたちにとっての朝なのに店を閉めているところもある。

 まぁ空が無いだけでもこうまで生活環境は変わっていくってことかい。

 この街も出歩く時間帯によっては装いがまた変わっていくのかもしれない。

 ここでの生活に慣れたのならそういったところを発見する為にもやっぱり一度暇を見つけて出歩く癖はつけておいた方がいいかもしれない。

 さとり様の言うような危険があるのなら尚更に……

 

 あたいたちが地図に書かれた場所にたどり着いたとき、あたいがまず感じたのは卸問屋だとかそういった感じじゃなくて、その場所は、なんというか廃材置き場だった。

 お空がその中で一人厳つい顔をした真っ赤な男に話しかける。

 あたいの見た印象では真っ先に危険の二文字が浮かんできそうなそいつは、一度だけ黙って頷くと、誰かを呼びに行った。

 

「ほらお燐、さとり様から受け取った手紙出して」

「あ、ああ、そのお空は怖くないのかい?」

 

 手紙を取り出しながら彼女に尋ねてみた。

 あたいは人の目を伺いながら生きてきた時代があった。

 だから当然他者の怖さも知っているし、それ故に自身の力量と他者の力量の差をある程度把握できる。

 

「うーん、私はさ、鬼の人たちはどこかで親近感があるかなぁ、あの人たちは隠し事だとかそういうのはしない人たちだしね。それに……」

「それに?」

 

 何かを言いかけて、彼女は口を噤んでしまった。

 彼女には珍しく、ほんの少しだけ顔を紅くして首を横に振った。

 

「ううん、内緒、それよりほら、親方が呼んでるよ!」

 

 彼女の表情にあたいはもう少し注意して見ていれば後の驚きも薄らいだだろう。

 ただ、あたいは鬼なんて存在だってここで初めてみたのだし、今ではその姿に対する畏怖の念の方が強かった。

 一際大柄な鬼が出てくると、あたいの手紙を受け取り、あの巨大な掌で器用にも小さな便箋をペーパーナイフで切り開け、そして眼鏡を取り出して文面を確かめると一度だけ頷き、そしてお空に親指で一箇所を指し示すとまた部屋の奥に引っ込んでしまった。

 

「やったね、お燐、結構良さそうなのが手に入りそうだよ!」

「ああ、うん、けどあたいは木材加工とかやった事ないし」

「だからそれは私に任せてって! 作るのだって私なんだからさ!」

「作るって、ちょっと! 何言ってんの?」

「大丈夫! 私は結構こういうの得意だよ――えーっとこういうときなんて言うんだっけ?」

「……泥舟だよ」

「そう泥舟に乗った気持ちで任せてよ!」

 

 胸を強く叩いて彼女は間違った表現で自信たっぷりに答えてきた。

 いや、ある意味で正しいんだけどさ……

 その発言の後に、彼女は沢山ある廃材を漁り始めた。

 鬼から軍手を借りて一つ一つ木材を注意して見ていっている。

 その姿は確かにどこか手馴れていて、頼もしくはあるのだけれど、

 

「でも、中身があいつじゃあねぇ」

 

 黙って眺めているあたいを一人の鬼が呼び止めてくる。

 思わず飛び跳ねるくらい驚いたけれども、彼は一度首を横に振り、そして、厳つい顔だけれども軽く微笑んでいるのがわかった。

 彼は一つの方向を指差すと、そこには馬車があった。

 二頭の馬……恐らく妖怪か何かなのだろうが、それに荷車が取り付けられていた。

 この鬼は多くは語らなかったが、恐らくこれに乗せて持ち帰れって事だろう。

 なんというか、案外悪い奴らでもないのかもしれないな。

 少なくともあたいらには……

 

 

 お空は二時間ほど悩みながらも、自らの眼鏡にかなった木材を見繕い、それを二人して荷馬車に積み込む、

 最後に二人してその廃材……じゃなかった木材の卸問屋の人々にお礼を言い、そして馬車に乗って地霊殿へと帰った。

 門で出迎えてくれたのはさとり様だった。

 さとり様は帰りが遅かった事に多少の苦言は言ってきたが、すぐに食事の用意が出来ている事を告げると、あたいらを館の中に招いてくれた。

 お空は言った。

 

「昼食が終わったら早速開始だね!」

 

 昼食、という表現が無ければあたいは今がここでの昼だという事にまた違和感を憶えただろう。しかし、製作者がこいつじゃあ、寝転んだ瞬間釘の一つや二つが落ちたりしないだろうねぇ……

 それを踏んで大怪我をするとか、それはそれで洒落にならないけれど……

 あたいの表情を察したのか、さとり様がこっそりあたいに耳打ちしてくる。

 

「大丈夫よ、この事に関しては彼女の能力は十分です。あなたは安心して自分の友人を信頼しなさい」

「誰が! あいつの友人ですかい!」

「あら、違うっていうと彼女の表情がまた曇ってあなたのベッドはまた変なものになるかもしれないわよ?」

 

 この人は――全く、そんなんだから他人に嫌われるんじゃないのかい?

 あたいはそう思いながらこの頼りない地獄の領主を見た。

 けれども彼女はこんな時に限って明後日の方向に全ての瞳を向けている。

 なるほど、見るだけではなく見ない事も能力の使い方の一部なんだね。

 ふてぶてしいというか、図太いというか……

 

「さぁ、あなたも昼食を食べに行ってきなさい。限られた食材しかないけれどもそれなりに奮発させていただきました。ここに住んでいる者達は食いしん坊が多いですから、早く行かないとあなたの分がなくなりますよ?」

 

 その言葉を聞くと、流石に焦った。喰いっぱぐれだけはごめんだ。

 お空もなんだかんで結構食いそうだし、当面の悩みはとりあえず棚上げだ。

 あたいは急いで食堂に向かった。

 あたいはもしこの時さとり様の方へ今一度振り向いていたら、或いは何かに気付いていたのかもしれない。

 彼女が何かをはぐらかそうとしている態度に気付いていたのなら……

 けれどもあたいがもし彼女に今一度振り向いていたとしてもそれに気付けたとは未だに確信が持てない。なぜならその時あたいは彼女達の事をあまりにも知らなさ過ぎたからだ。

 

 

C

 

 

 あの時こうしていればよかった。あの時何かに気付いていれば良かった。

 人……ううん、この場合私達妖怪はそう考える事のなんて多いことか?

 けれどもその考えって実はとても危険、

 何故ならそれは自分が万能であるという最も傲慢な感情を呼び寄せてしまうから、

 だれもそう、結果が出た時にそう考えてしまう。

 それは私でさえ……

 彼女だってそう考えてしまうタイプだ。

 故に過去の自身の侵した過ち、いえこの場合過ちともいえない他者がかもし出すある種の信号を受信できなかった事に何時までも悔いる。

 それは罪とはいえない。だからこそ余計に罪悪感を持ってしまう。

 決してそれ自体は悪いことではない。

 でももしこう出会ったのなら、もしそうであったのなら、イフはいくらでも思いついてしまう。

 なんて度し難い存在なのか、私達は……

 救い様が無いね。

 

 

D

 

 

 地霊殿の中庭で二人して木工作業をしている二人を窓から見下ろしながら私は軽く安堵した。

 彼女に、お空にあんな表情が戻ってくるなんて思わなかった。

 ここに来てからの彼女はお世辞にも上手く立ち回っては居なかった。

 外から、この場合旧都のことだけれども、その旧都からやってくる妖怪の事を館に元々住んでいたペット達はあまり快くは思ってくれなかった。

 私だって最初は驚いた。

 まさか彼女からここに住まわせてくれだなんて、

 私は知っている。どんなに人から酷い事を言われても怒りを返さない彼女の下に眠っている感情の姿を、本来この旧地獄に住む妖怪達なら持って然るべき感情を、

 彼女はそれを無意識の内に彼女の心の中に封じ込めている。

 だからここにきて暫くの彼女はそれに引きずられてからか、他の感情までも封じ込めたように塞ぎこんでいた。

 どうにかしてやりたい。そう考えるのは欺瞞なのだろうか?

 

「欺瞞だよ」

 

 私の心に答える者が一人、私は私室にある鏡を見た。

 そこには私が映っていた。

 ただし、表情は今の私とは恐らく違う、微笑を絶やさず、ただ私に厳然とした事実を伝えてきた。

 

「何故なら本来その感情は締まっておくべき感情ではなかった。元々は私に向けられてきた感情なんですもの。それを忘れて家族ごっこなんてやっている時点で私の欺瞞、いえ、詐欺とも取れるわね」

「それは私自身が弾劾できる事?」

 

 私の影は私の言動に心底呆れたように答える。

 

「あなたを裁くのはあなたに害された人々、あなたは彼女に自分が彼女を害したという事実をひた隠ししているだけ、あなたはイーブンな立場から何時だって逃げる。逃げるだけの生き方であなたは何が手に入ったの? あなたはあなた自身の楽園を手に入れたの?」

「ええ、私は手に入れたわ。この旧地獄という、喩え他者から嫌われてもいい、自分の支配できる場所があれば、それが私の楽園です」

「恒久的ではないのに?」

 

 影は笑いながら反駁してくる。

 

「恒久的な楽園なんて存在しないわ」

「いいえ、あなたはそもそもこの場所を選んだ理由がその恒久的ではない理想的な世界を望んでいる。私は願った。自らの楽園を手に入れる為に生きる事を誓った。でもこの旧地獄は遠い未来ではなく滅びの道へと向かっている。それと分かっていてこの土地の管理を引き受けたのでしょう? そこであなたは嫌われ続けながら治世を行った。あなた自身にとってそれは楽園ではない。自己矛盾もいいところよ」

「けれども私は少なくとも必要とされているわ!」

「必要悪としてね! その必要悪となった今をあなたは本当に幸せだと感じているの?」

「ええ、この上なくね。少なくとも居場所だけはあるわ」

「嘘だ! ならば何故あなたは言わない? 彼女に自分の立場を明かさない?」

 

 私はその言葉を聞き、言葉に詰まった。

 鏡の中の私は今度は恨めしそうにこの私を睨みつけてきた。

 

「感傷だからよ。彼女は私の感傷になんて巻き込まれなくてもいい、あの子はあの子なりの生き方をすればいい、そう考えたからよ」

「そうして誰もを破滅へ導くわけね? 新しいペット、彼女だってこんな世界に来なければ別の生き方が出来た。いや死に方がね! ここで死ねばあとは怨霊になるだけ、ここは世界の最果て、他に行く場所なんてあるわけ無いのだからね」

「まだこの世界が崩壊すると決まったわけではないわ」

「ならあなたは奇跡でも起こすつもり? その代償に支払うものは何かしらねぇ、奇跡、もちろんそんな悪夢めいたものがただで手に入るなんて、あなたは考えていないでしょう?」

「当たり前じゃない。けれどもこの状況は打開できる。当然奇跡なんかじゃあないわ」

「でも奇跡的な“何か”に結局は頼るんでしょう? その為の生贄も揃ったわけ、あとは芽吹くのを待つばかりね。あなたの本心はどうなのかしら? 楽しみ? それとも、また自身に向けられる感情に浸れる喜び?」

「私が本当に人々から罵倒されているのを楽しんでいると思っているの? 人々から向けられる怨嗟に、耐えられると思っているの?」

「ええ、“私”だったら耐えられないでしょうね。でもあなたはかつて私に言ったでしょう? 自分になら出来る、私とは違う事が出来るんでしょう? それならあなたは未だ為しえていない“私”の為の楽園を作り出してよ? こんな詰まらない世界じゃなくてさぁ!」

 

 それきり鏡は私に感情を向けてこなくなった。

 ただそこには戸惑いを隠しきれていない愚かな自分の姿が映っているだけだった。

 私はまだ赦されていない。

 だから私はまだ立ち止まれない。

 どんな犠牲を払ってでも……

 眼下でお燐がお空を怒鳴りつけているのが聞こえてきた。

 その姿は、つかの間の平和を表しているようで、どこか、目を背けたくなるような暖かな光景だった。

E

 

 

 あたいがここに来てから暫くして、あたいは漸く自分の置かれた立場を理解したよ。

 まぁ正確に言えばあたい達の立場かな。

 広義的に言えばこの旧地獄全ての妖怪、狭義的に言えばこの地霊殿の住民の、

 ここが何故地獄と未だに言われているのかもなんかもね。

 確かにここは地獄だった。

 毎日いい食事にありつけるし、生きることにそこまで苦労はしちゃいないさ、

 けれども他の土地はどうであれこの旧地獄には一つだけ足りないものがあった。

 それは未来だった。

 それは正しく“旧”という言葉が言い表している通りの事実だった。

 この土地はかつて地獄であり、今ではその多くの機能が死んでいる。

 その為新たな亡者が能動的に送り込まれてくることは無い。

 だからこそこの旧地獄をさとり様が所属している組織もここの機能を能動的に残しておくつもりは無かった。

 ほぼ完全な自給自足、外部とは隔てられた一種の監獄、そして何よりも今も空から降り注ぐ雪、

 あたいは旧都にまで休日を使って散策に出ていた。

 今日も軽く雪が降っている。

 あたいは地霊殿の底で毎日あのクソ暑い職場に居るからこんな物が降る事も当初知らなかった。

 空は無いのに雪は降る。

 それがどういう構造なのかはあたいには分からなかったし、恐らく誰に聞いても分からないだろう。

 けれどもこの雪がこの旧都に住む奴らにとっては背筋を凍りつかせるには十分な代物だってのは良く分かった。

 絶対零度の先駆、いや象徴か?

 手に纏わり付く雪結晶を指の熱で水に変える。

 それは旧地獄の辺境からもたらされるものらしい。

 旧地獄の、この場合地霊殿から離れた場所の事だ。

 一箇所じゃあない。

 その辺りの説明はさとり様のいまいち要領を得なかった。

 さとり様はその土地の事を紅蓮地獄という単語で表現していた。

 けれどもその紅蓮地獄という場所は一つの場所ではなく、寧ろ増える一方だと言う。

 全ての者が凍りつき、まるで真っ赤な蓮の花の様に悶えて死ぬ絶対零度の地獄、そんなとんでもないものがこの旧地獄には広がっているのだという。

 あたいはあたいを遠巻きに観察する奴らが決してあたいらに一方的に危害を加えてこない理由も分かった。

 この旧地獄を暖める機関が結局のところあの地霊殿の底にある灼熱地獄にしか無いからだ。

 灼熱地獄が止まればこの旧地獄は冷え切ってしまう。そうなれば彼らもあたいも運命共同体だ。

 あの絶対零度の地獄に悶えて死ぬ、

 彼らは冗談と言うオブラートに包んで言う、凍えて死ぬ位なら焼かれて死にたいと、

 それは彼らの本心なのだろうが、あまりにも悲観的過ぎるジョークにあたいですら肩をすくめたくなった。

 あたいの職場は決して綺麗事を行うような場所では無いけれど少なくともここの連中には恩恵を与えている。

 街の連中は明るい所を好む、井戸端会議ならぬガス灯の下に集まるガス灯会議なんかも行われているそうな。

 しかし、お空は言う、

 

「これだけ暑い場所だけれどもね。今は昔に比べると火は小さくなったんだよ」

 

 そりゃ昔に配属されていなくて良かったと思わず肩をすくめてしまうが、要するにそれだけ切迫しているという事だろう。

 この事に関する解決策に関してはさとり様は一向に話してくれない。

 

 知っているのか、それとも知らないのか……或いは知っていてもその解決策を取り入れる事ができないのか……

 普段は少しとぼけた雰囲気のあるあの地獄の領主に、その時だけ何故だか少しだけ悪い予感がした。

 もしかしたら何かとんでもなく嫌な事を招いてきそうな、そんな表情だったからだ。

 それが予感だけで済めばいいけれども、あたいは獣だったからかこういう勘は結構鋭い。

 大きな問題にならなければいい。

 あたいだって漸くこの世界に馴れ始めたんだから……

 

「そうだよな。折角住み心地のいい家を手に入れたんだから、精々楽しませてもらいたいものだよな」

 

 今日はお空が居ないから相槌を打ってくれる相手が居ない。

 少しだけ寂しいけれども、いい加減毎日のように構ってくる彼女にはうんざりしていた。

 その為に一人で旧都へ散策に来たのだけれども、いざ合いの手がいないとなると少しだけ寂しくなる。

 

「これも順応って奴かな。我ながら現金だねぇ……」

 

 ここに来て暫くたって漸くあたいも空を飛べるようになった。

 最初はぎこちなく、お空には散々お姉さん面をされたのには結構腹が立った。

 一片引っ叩いてやろうかとも思ったけれども空ではあいつには追い付けやしなかった。

 まぁ烏が猫に空で追いつかれるようじゃあいつも形無しだろうしね。

 しかしあいつも変わった特技を持っている。

 最初本当に泥舟に乗った気分で彼女にベッドを作って貰ったが、あいつったら精密な製図から始めて、しかもそれが妙に手馴れた手つきだったから驚いた。

 本格的に木材の加工を始めるとそこからもう手つきが違った。

 あたいが鉋をかけたところとお空がかけたところでは手触りからして違っていた。

 一体どういうことかと彼女に聞いてみても彼女は何かを隠したがるようで教えてくれない。

 後にさとり様に聞いてみると、彼女は鬼から木材加工の一通りを教わっていたらしい。

 変わった経歴を持った妖怪なんだなぁと思うが、それで先日の鬼の前でもそこまで物怖じしない態度が取れたんだと思うと多少の合点はいった。

 これもいくつもの妖怪達が混在して住んでいるから起こる事なのだろうか?

 

……

 

 そこまで考えて今一度頭を振って考えを改める。

 どうしてあいつと距離をおきたいのにあいつの事ばっか考えているんだか、あいつがどういう出生でどういう趣味を持っているのかなんて関係ないだろう。

 まったく……

 気分を変える為にもう一度辺りを見渡す、丁度角の所になにやら焼き菓子を売っている店があった。

 そういえばここのところさとり様の食事ばかりで変わったものを食べたかったところだった。

 そう考えると唐突にお腹が少しだけ鳴る。

 うーん、ああいう匂いってどうしてこうも食欲をそそらせるんだろうなぁ。

 早速さとり様から頂いたお金を渡して焼き団子を4串ほど買ってみる。

 みたらし団子とか言う醤油と砂糖で味付けをした団子らしいけれども、さてさて、どこかで食べるところは無いかなぁ。

 と辺りを見渡してみると、丁度街道を挟んだ対岸に長椅子が設置されていた。

 当たり前だけれども、ここで買ってすぐに食いたいやつなんて幾らでもいるだろうし、だったら店先に置けばいいものを……

 なんて近くでその椅子を見てみるとそれはなんというか石材をそのまま切り出したような椅子だった。

 そういえばここでは木材は貴重だったんだな。

 家屋なんかには良く使われているみたいだけれども、これは共有財産的な意味合いが強いらしく、正確には各々の家は個人の所有物ではないらしい。

 だから旧都に住む妖怪達は住居にはそこまで困らないらしい。

 

「ありゃ、これも鉄串かい」

 

 みたらし団子の串を手にとって若干の重みを感じる。

 包み紙には食べ終わったら串は回収箱に入れて置いてください。と書かれている。

 丁度その椅子の隣に回収箱と書かれている箱があり、見た目は正しくゴミ箱のそれだった。

 若干興味が沸いて中を開けてみると、丁度同じ包み紙に入った鉄串が入っていた。

 

「結構繁盛してるって事は味には期待していいってところかな?」

 

 食べる前からゴミ箱漁るなんて正直野暮だけど、野良の頃の習性が抜けない自分に悔しさを感じる。

 でも箪笥があれば漁る、ゴミ箱を開ければスイッチが底にあるか探す、壷は割って中身を確かめる。確かどこかにそんな常識が人間にもあったんだから色々間違っていないはずである。

 さて、いい加減自己弁護的な下らない思考をめぐらしても仕方が無い。

 団子は逃げないが温かい団子は冷める。

 折角だし美味しく頂きたい。

 醤油の焦げた匂いとカラメル色の団子は食欲をそそる。

 あたい元々肉食系女子だけどここに来てからはこの醤油とかいう調味料にはやられっぱなしである。

 あの焼けば香ばしい臭い、穀物なんて猫の体じゃあそんなに取れないけどあれで鰹節とかあればご飯三杯はいけるね。

 ああ、でも穀物ばかり食べると体に悪いという猫の悲しい性、さとり様にも途中で取り上げられるし、正しく魔性の調味料だ。地獄に堕ちて正解だろう。

 この調味料の魅惑に負けて地獄に堕ちる同胞が沢山出てきたらどうするんだい。まったく……

 さて、口の中でもはやその香りからやがて訪れるであろう悦楽の味が想像されてくる。

 もう一時の猶予もいらない。

 食べる時は座って食べるというさとり様の躾けは守った!

 買い食いはするなっていうのはこの際棚上げ!

 

 いざ、尋常に! いただきます!

 

「ぎゃ、ぎゃ〜ていぎゃ〜てい、はらぎゃ〜てい」

 

 そこにすかさず何者かが目の前で訳のわから無い事を言い始めた。

 また食べるタイミングを逸してしまった。

 そのあたいの至福の時を邪魔した奴の顔を一目見てやろうとその声を掛けて来た奴を睨む、

 睨んで、後悔した。

 ものっそい物欲しそうな目でこちらを見つめてくる奴がいたからだ。

 明らかに自分よりも年が上であろう妖怪、

 妖怪を外見だけで判断する無かれってのは肝に銘じているけれどさ、やっぱりあたいなんかは妖怪になってからそう長い年月が経っていないわけだから年上ではあるんだろう。

 だっていうのにこの年上のしかも外見上はどう見ても人間にしか見えない頭巾を被った女性はあたいを見ながら、いや、正確に言えばあたいが手に抱えている包み紙に入ったそれをガン見している。

 なんだか良く分からない呪詛めいた言葉を呻きながらにじり寄ってくる。

 

「し〜きぃ〜ふ〜い〜くぅ〜くぅ〜ふぅ〜いぃぃしきぃぃぃぃ」

「あの、何かあたいに用でもあるんですかい?」

 

 あたいの言葉で漸く意識を取り戻したのか、今更取り繕うべき威厳もクソも無いのに、姿勢を正して目の前に立ってくる。

 

「で、何がしたいのさ、あんた」

「いえ、私は仏門の徒として修行をしていただけです」

「あたいは宗教には興味ないさ、それよりその仏門がどうしてあたいを見ていたのさ」

「別に見ていたわけでは」

「不妄語戒」

「う……なんでそんな言葉を……」

「あんたらみたいな存在にはあたいはさぞかし嫌悪を抱くだろうよ。敵を知るのはあたいら弱い妖怪にとっての処世術さ、であんたの興味はあたい? それともあたいがさっきからお預けくらってるこの団子かい?」

 

 あたいはまだ熱々のそれを口の中に入れた。

 口の中に広がる砂糖の甘味と少し焦げた醤油の辛味が餅の歯ごたえと共に広がっていく、

 ああ、駄目、癖になりそう、予想を超えた味覚があたいの脳を直接刺激してくれる。

 通おうかな、ここ、もうそこまで考えてもいいなって思っちゃう。

 そのあたいの姿をさも羨ましそうに見つめてくる尼さん妖怪、良く考えれば色々矛盾しているような気がしてならない。

 旧地獄の底で尼さんの姿で読経してるなんて、まるでこのお団子みたいな人だ。

 甘くて、辛いのにその加減が絶妙にバランスを取っている。

 彼女はこの旧地獄の奥底で如何にもひもじそうな顔をしているが、うまくこの世界に溶け込んでいるのかなんだか知らないけれども存在している。

 普通こういうのが居たらリンチにでも遭うだろうに……

 何せここは旧地獄、人間から嫌われた者たちが集った土地だ。

 尼さんなんて、喩え真似事でもいい顔はされないだろう。

 ……まぁだからひもじい思いをしているとも取れなくも無いかな。

 あたいが旨そうに団子を頬張るのを見て喉を鳴らす彼女、全く、そんな態度じゃあ聖職者なんてやってられないんじゃないのかい?

 

「私は修行としてここで托鉢を行っているだけです」

「そうかい、大変だね。あたいには関係ない話だからどっか他でやっておくれ」

 

 二本目の串を取り出した時、彼女の喉が鳴る。

 見られてると本当に食べづらい。

 

「なら有難いお話を聞かせてあげましょう」

「いらないよ。放っておいてくれ」

「無受想行識というのはね、この世には感覚も、概念も、意志も、認識もない事を顕しているんですよ」

「知らんわ。そんなマイナス思考な教義なんて! あたいはそんな概念よりも」

 

 あたいは基本的に宗教だとかそういうのは好きじゃあない。

 まぁ旧地獄の死体運びなんかが信仰する神なんて居るのかねぇ。

 死を司る神とか憎悪を司る神とか、闇を操る女神とか居れば多分信仰するのかもしれない。ましてや概念なんていう途方も無いものを信仰できるほどあたいの頭は良く出来ちゃいない。

 三本目の串に手を掛けたところ、その腕を彼女が掴んでくる。

 物惜しげに、これからあたいの腹の中に納まるであろうみたらし団子をなんとも名残惜しそうに見つめてくる。

 

「……」

「……」

 

 静かなにらみ合いが始まる。

 こっちとしては冷めていく団子が滅茶苦茶名残惜しいんだけど、さっさとどっか行ってくれないかなぁこの人、

 

「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界です」

「はぁ、そのお経がどうかしたんですかい?」

 

 イライラしながらも、多分この人は話を聞いてあげない限り手を離してはくれないだろうなという納得をしてしまう時点であたいは何かを諦める事に自分が思っている以上に慣れているんだな、などと言う認識をしてしまう。

 

「この世にはあらゆる感覚も意志も概念も無い、もちろん意識も」

「それがどうしたんだって言うんだい?」

「精神世界、意識、無意識などと言うものがあるとどうして信じてしまうのでしょうか?」

「そりゃこの美味しいお団子が目の前にあるからさ」

「いいえ、あなたの場合違うでしょう? 他でもない人の意識を読む覚り妖怪の従者さん?」

 

 言われてそこで漸く自身の危機意識が反応した。

 さとり様の言っていた言葉が脳内に駆け巡ったからだ。

 掴まれた腕を振り払い、警戒する。

 丁度その時だった。

 すぽ

 正しくそんな音が聞こえてくるようにあたいが持っていた串から団子が二つほど抜けた。

 

「あ〜!」

 

 その団子をすかさず彼女は空中で手に持っていた鉢でキャッチして満足そうに食べ始める。

 

「この卑怯者! あたいの団子返せ!」

「これはあなたが捨てたものですので、私の托鉢椀に入ったものは折角ですので有難く頂戴させてもらいます」

「こんなやり方ってあるかよ! あーもー!」

 

 残りは喰われまいと串に残った二つを頬張る。

 甘っ辛い味が口に広がり、それが奪われた残りの二つにも同じだけあると考えると余計に腹が立つ。

 

「まぁお聞きなさいな火車の猫さん」

 

 彼女は托鉢椀の中にある団子を美味しそうに食べると、まだ物惜しげな顔をしている。

 やらないよ! これはあたいの物だい!

 

「この言葉はあなた達の主の姿の一面を捉えているとは思えないでしょうか?」

「……あんたは、さとり様と会ったことが?」

「ええ、毎月顔を合わせるわ。あまり気持ちのいいことではありませんが」

「そうかい、そりゃ難儀な事で」

 

 後ほど知った事だったがこの女性、名前は雲居一輪というらしい。他の妖怪とは違い、邪悪な雰囲気はまるで感じなかった。当然ながら敵対意識と言うものも、彼女は外の世界で人間に排斥された存在ではあったが、それが所謂一方的な邪悪なものから来る物ではない事を知った。

 その為彼女は他の妖怪達とは少しばかり雰囲気が変わっていた。

 

「古明地さとりという妖怪を見てあなたはどう感じますか?」

「どうって、まぁ性格は悪いし難儀な能力は持っていますが、この旧地獄では割と公平な人だと思いますがね」

「そうですね、私も概ねそう感じます」

 

 あたいの言葉に彼女はただ同意する。

 同意するだけしてその先の言葉が出てこない。

 何かを言おうとしているのか、それともこれだけの与太話をしたかっただけなのか、未だに真意がつかめないので業を煮やして思わず聞いてしまった。

 

「で、あんたはそれで何が言いたいんだい?」

 

 その言葉を待っていましたといわんばかりに、いや、表情には出ていないけれども、口に出して言いやがった。

 

「これはこの旧地獄の存続に関わる事だから簡単には喋れないわね。ただ甘いお団子とかがあればもしかしたら口を滑らせてしまうかもしれませんね」

「うわ、汚っ! そんな風に足元見ますかい! この乞食坊主!」

「尼僧に権威は要りません生き延びる事こそ大切な事なのです」

「さっき言っていたこの世に意識も何も無いって奴はなんだったんですか?」

「言葉よ。短命で変質しやすい言葉、それ以上のものではないわ」

 

 その言葉に彼女には一体どれだけの意味合いを込めているのかは分からなかった。

 ただその言葉を吐く時にほんの少しだけれども悔やみの念が込められていた。

 

「あの古明地さとりの部下であるあなたにこんな事を言うのはおかしいけれども、私はあまり彼女を信用していないわ」

「そりゃ、あなただけでなくこの旧都に住む存在は皆そう感じているでしょうね」

 

 あたいだって毎日食事を提供してくれる人に尽くす義理くらいは持ち合わせていた。

 その主人に当たる人物が悪く言われるのはあまりいい気持ちではない。

 

「いいえ、この旧都に住む妖怪の殆どは彼女を心の底から信じている」

「まさか」

 

 あたいは思いっきり笑い飛ばしてやりたくなった。それはさとり様の言葉もあるが、それ以上に自分自身で身に感じたこの街の妖怪共のあたい達に対する風当たりの悪さがこの旧都では地霊殿という存在自体がどういう扱いを受けているのかが良く分かる。

 

「いいえ、ここの住民はこの上なく古明地さとりという存在を信じていますよ。必要悪としてね」

「必要悪?」

「古明地さとりがこの地に赴任してきてからこの土地には確かに多くの恩恵がもたらされました。整った町並み、途切れないガス灯の光なんていうものは彼女来なければ決してなかったでしょう。そしてやがて訪れるであろう旧地獄の終焉は更に早まっていたかもしれない」

 

 彼女は頭巾に少しだけついた雪を手にしみ込ませて水に変える。

 そのまま手を払った。まるで穢れを祓う様に

 

「だから喩えどんなに嫌っていてもこの世界に恩恵をもたらした者ではある。それにはそれ相応の少なくない犠牲を払っていた。そしてその犠牲の量が堆積していけばいくほど彼女は多くの妖怪から憎悪を一身に受ける。私達は信じている。恩恵をもたらす者ではあるけれどもそれ以上の犠牲……生贄を求めた」

「そんな言い草だと、まるで彼女は神みたいじゃない」

「ええ、神よ。彼女は間違い無くね。この世界の秩序と統制を一身で担う、限定的な力を持った万能の神、彼女はこの世界の全てを作り直した。その代償に多くの血肉を求めた。勿論これはあくまで比喩だけれども、概ねのここの妖怪達の考え方よ」

「それじゃあたいはその神のミニオンか何かなのかい?」

「そう捉える者も中には居るかもしれないわね」

 

 なるほど、だからあたいを遠巻きに見る者も居るわけか、触らぬ神に祟りなしってか、確かに、いい気持ちはしないなぁ

 

「けれどもあんたはそうは考えていないようだね?」

「ええ、私は彼女とは何度も言葉を交わしているからね」

「なるほど、それで合点が言ったよ。あたいの主人も大概嫌われているけれども恐らくあんたも相当嫌われてるんだろう? 旧地獄なんぞでお経を唱えて尼僧の真似事をする偽善者、そんな風に言われた事は無いのかい?」

 

 あたいの言葉に彼女は若干顔をしかめる。

 まぁ、お団子の怨みとさとり様の悪口の返礼にはこれくらいでいいだろう。

 

「でだ、あたいは思うんだがそんなあんたがどうして生きているのか? 幾ら治世が整っているとはいえ旧地獄だって地獄だ。私闘もあれば犯罪も幾らでもある。差別や貧困、そんな地上でも悪夢といわれているモノは存在しているはずだ。ここでのはみ出し者であるあんたがそんな立場に立たされていない。つまりあなたはさとり様と何らかの交渉をする立場に居るんじゃないかしら?」

 

 あたいの言葉を聞くと彼女は何かを観念したように目を閉じ、その事に同意した。

 

「思った事を好きなように口にするのね」

「思っている事なんてその場でしか言えない。言えなくなるくらいなら言って死んだ方がマシ、刹那的な考えだって言いたいかもしれないけれど、野良で生きてきたあたいにはそう考えちまうのさ、でだ、あんたが何を言っていたかは分かった。では尋ねるが、それで何故あんたはさとり様を信じていないんだい? 数々の犠牲を出してもこの旧地獄を良く統治してきたんだ結果としては上々だろう?」

「そう、彼女の結果は決して悪い物ではなかった。けれどもそれは過去のもの、私が信じられないのは未来、彼女が紡ぐ未来予想図を信じられないのよ」

「ほう、」

 

 彼女はあたいの包みに手を突っ込み最後の団子をとっていった。

 

「不偸盗戒!」

 

 あたいが叫びながら取り戻そうとするのを笑いながら彼女は身を翻してかわす。

 

「ここまで聞いてしまったんですもの。契約は成立と見て間違いないわね?」

 

 全く、なんて食えない妖怪だい!

 おまけになんだか彼女、予想以上に身のこなしがいいと言うかなんだか、まるで自分の筋肉で動いたと言うより何か別のものの干渉があったかのように不自然なかわし方をした。

 能力なんて人それぞれだし、そういう能力でもあるのだろうか?

 まぁこれは考えてもしょうが無い事だ。ただ美味しそうにあたいの団子を頬張るのを恨めしく思う限りだ。

 

「折角だから聞いていきなさいな。彼女はこれまでの結果は確かに恩恵をもたらしてきた。けれどもこれには一つだけ先延ばししてきた問題がある」

「……紅蓮地獄かい?」

「その通り、どんなに灼熱地獄に火を灯そうとも決して消えない絶対零度の狂気の世界、それどころかこの問題は消えるどころか増え続けている。これに関して彼女は未だに明確な答えを出していない。その為にこの旧地獄はどんどんと狭くなっている。これだけは彼女は未だに答えを出していないわ」

 

 その問題に関しては、或いはあたいの方が彼女よりも切実に問題の核心に近い立場に居るのかもしれない。

 何故ならあたいは正しく彼女が指摘する場所で働いているからだ。

 炎を制御し、燃料をくべ、排熱をする。

 この旧地獄を温める真っ赤な炎を制御するのがあたい達の仕事だ。

 お空や他の妖怪達からも口々に聞く、この炎は昔と比べて弱くなっていると、

 いずれ消え去るのではないか? などと叫ぶ奴だっている。

 あんなにも熱い中良くそうも悲観的になれるもんだと汗を拭いながらも考えていたが、それはそんなにも切実な問題になっていたとは思わなかった。

 いや、想定していたのかもしれないが、実感が湧かなかった。

 

「それに私は彼女の人となりもあまり信用していないのよ。それは感情面だけではなく彼女の能力に関してもね」

 

 それから彼女はまた先ほどまで唱えていたお経をまた口ずさんだ。

 

「この世のすべてのものには実体がないという性質がある。生ずることもなく、滅することもなく 汚れることもなく、汚れなきものでもなく。増えることもなく、減ることもない。それゆえ、実体がないという中においては、形はなく感覚も、概念も、意志も、認識もない 眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、意識もなく 形も、音も、匂いも、味も、触覚も、法則もない 眼に映る世界もなく、精神の世界もない。迷いもなく迷いがなくなることもない。老いや死もなく老いや死がなくなることもない。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、悟りへの道もない。知ることもなく、何かを得ることもない。何も得るものがないからこそ 悟りに至る者は 智慧を完成しているがゆえに、心にとらわれるものがない。心にとらわれるものがないがゆえに 恐怖におののくこともなく一切の倒錯した想いから遠く離れ 究極の平安の境地に入っているのである……覚り妖怪とはどういった経緯でそんな名前で呼ばれたのでしょうか?」

「そんな事はあたいは知らないさ。あたいは外の世界からやって来た妖怪だ。それもまだここでは日が浅いんでね。あんたらの確執も分からないんでね」

「私はただ知りたいんですよ。彼女が一体どういった動機でこんな役目を勤めているのかをね」

「……あんたの言っている事は飛躍しすぎていて分からないよ。それとも訳のわから無い事を言ってあたいからのリアクションから何かを探ろうとしているのかい?」

 

 あたいは彼女の動向を注意深く探った。要するに彼女は本人がどう個人的に関わっているかは別としてもさとり様の敵対する勢力の何かなのだろう。

 けれども彼女はあたいの緊張感とは裏腹に食べ終わったお団子の串を名残惜しそうに舐めている。どこまでも食い意地の張った女だ。

 

「私は彼女に尋ねました。あなたは何故他者から虐げられる立場を自ら買って出るのか? とね。失礼とは思いましたけれども彼女の前ではこう言った隠し事は通用しませんからね。すると彼女は自身の言葉からか? それとも私の心から想起したのかこう答えました」

 

 彼女はその時に、その金属製の串をゴミ箱ならぬ回収箱に放り投げた。

 顔は少々しかめっ面なのはもう食べる物が無いからなのか? それとも自身がこれから発するであろう言葉の忌々しさからなのか、あたいには良く分からなかったけれども、もったいぶった喋り方をする女だ。

 

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 あなた方の信奉する言葉のように私には実体があって実体が無い、私は私であって私ではない。私とは人々の反響体であって私が何かをしたいわけではない。現に私があなた方に行った事はあなた方が望んだ事であるし、その為に必要なモノを犠牲にした。あなた方が望むけれどもそれを自身で行え無い事を私が代行して行っただけの事、それが私の望みであって望みではない。私は何かを望むわけではない。ただ目の前にある事をただ消化していくだけです。ってね、私も数々の妖怪を見てきました。彼らの多様性には幾度も驚かされましたが、私はあなたの主人ほど不気味な妖怪は見たことがありません。ただ存在する事だけを望む妖怪なのか? それとも存在する事すらも否定する妖怪なのか? 私は果たしてそんな妖怪がトップに立っていても大丈夫なのか疑問に思っていたんですよ」

「それを聞かされて、だったらあんたは革命でも起こそうって考えてるのかい?」

「いいえ、違います」

「あんたが聞いた事は確かにあたいにとっても衝撃的だったよ。他人のそんな所まで聞いてしまえるあんたの性根がね」

 

 言葉に棘を含んだのは本音半分打算半分である。

 何しろあたい自身彼女が何故このような事を聞かせてくるかが良く分からなかったからだ。想像してみる。さとり様のことではなく、この目の前の人物の動機についてだ。

 立場上彼女はまず地霊殿とは別の勢力の存在だと考えた方がいい、そう考えると例えば今言った様に自身の主に対する不信感を煽り離反でもさせようと言うのか?

 どちらにしてもあまりあたいにとっては益にはなりそうに無い話ではある。

 

「あんたはそうやってさとり様の事を悪く言うがね。だったら他の誰がここまでこの土地を良く出来たんだい?」

「そうね、良く出来た。そして旧地獄にいる者のだれにもこうまでは出来なかったでしょう。だからこそ気になる。紅蓮地獄の事もありますがそれ以上に気になるのは、彼女が本心からこの土地を良くしようと考えているか? という疑問があるのです」

「そうかい、だったら何故そんなに他人事のようにいうのさ?」

 

 あたいの言葉に彼女は固まる。

 あたいは正直に言えば弱い立場の妖怪だ。この旧都にいればあまりいい顔のされない妖怪だ。野良の時代ではそれはなおの事だった。だからこそ理解できる。

 彼女がこの事に対して本心から心配しているのではない事を……

 

「あんたが欲しいのは恒久的な平和だとかそういった御大層なもんじゃないだろう? この旧地獄の未来だって? 笑わせんな。あんたはどんな目的があるか知らないがね、どうせ自分がその目的が達成されるまで少なくとも自分の立場が悪くならない。そういう思惑でもあるんじゃないのかな?」

 

 あたいの言葉に遂には折れたのか、彼女はその本音を吐き出した。

 

「ええ、あなたの言うとおりだわ。私はね、正直に言えばこの旧地獄という土地がどのような末路を辿るかと言う事にはそこまで興味が無い。でも自分がこの土地にいる限りはこの土地での職責だけは放棄するつもりも無い。そうね、どうせ隠していても仕方が無い事だし言いましょう。私が求めて居る物、それはこの旧地獄という世界から外の地上世界へと脱出する方法です」

「そりゃまた大胆な事で」

 

 彼女の言っている事は普通ならば世迷い事と捉えてしまってもいいようなものである。

 旧地獄に落とされたという事はその反対はない。地獄の亡者が報われないのはそこに尽きる。この旧地獄で死に、その旧地獄の亡者となる。これはさとり様に言われた事だ。

 だからいつかは分からないけれどもあたいもあたいが使役する怨霊共のようになるのだろうとうっすらと予測をしていた。

 けれどもあたいは知っていた。この旧地獄から定期的に出て行く人物を知っている。

 それはあたいを外の世界から連れてきたあたいの主人さとり様だ。

 だから彼女がそのさとり様が知っているはずである地上への出口を探っているのだろう。

 なるほど、あたいという外から来た者ならばそれを知っていると考えるのは不思議ではない。

 

「残念だけれどさ、あたいは何を言われても自分の主人を売るような事も、あんたが考える様な企てに加担する気も無いさ、団子の代金分の話は聞けたよ。あたいはこれで失礼させてもらうよ」

 

 あたいは紙袋に纏めた串をそのまま回収箱に入れるとその場を立ち去ろうとした。

 

「これは私見なのですが、あの人は表面上の温和なだけの人物ではないわ。それはこの旧地獄を統率してきた、という過去からだけ来る物ではない。彼女はそれ以前の深い“何か”をその心にひた隠している。それを理解できなければ、あなたはある時もしかしたら彼女を感情的にか、それとも自己保身のためか裏切らなければならなくなるかもしれない。その時あなたは自身の罪の意識がどの様な方向へ向くか、それだけは忘れないでいてください」

 

 あたいはその言葉に明確な答えを出さなかった。ただ後ろ手で彼女にさっさと消えろ。という意思表示だけを向けた。

 あたいにとって彼女に対する最初の印象は最悪極まりない事だったけれども、後々に考えれば彼女が或いはあたいの立場を最も理解していたのかもしれない。

 いや、あたいと言うよりこの旧地獄が置かれている立場と言うものを……

 後にして思う。彼女の言葉にもう少し耳を傾けていれば、あたいは後に訪れる最悪の状況をもう少しマシな状況で迎えられたかもしれない。

 でも悔やんでも仕方が無かった。

 何故なら過去と言うものはどうあっても変えられない。そして、変えられたとしてもそれは自分自身の、そしてあいつの決定の全てを否定する事になるのだから……

 

 

F

 

 

「一輪にしてはさ、随分と挑戦的だったね」

 

 少し遠くの物陰に隠れていた自縛霊の友人が笑いながら出てくる。

 

「水蜜、彼女は決して知的な妖怪ではなかったわ。けれども恐ろしい程の勘の鋭さがあったのよ。下手すれば喉笛を噛み千切られていたわ」

「雲山は?」

「私の能力だって万能ではないわ」

 

 懐から金属製の輪を取り出して友人を召喚する。

 白い霞が全身を包み込む、

 

「こんな姿では彼女の警戒心を余計に強めるだけよ」

 

 それだけじゃあなくこの友人の力を頼るには最初から彼を呼び出しておかなければ、完全に敵に先手を取られてしまう。あの距離で先手を取られれば確実に私はやられていただろう。

 

「それに私も荒事には極力しないようにしたいわ。姐さんは少なくともそうした」

「けれども手段は選ばないんだね」

「まぁ、目的の為ならね。でも暴力に訴えるのは最後の事でしょう?」

「全く、地獄ではありえない程の穏健派だねぇ。だから鬼達とも対立する。そしてその度に古明地さとりに助けられる」

「あれは助けているのではないのよ。私をダシにして、間接的に自分の意見を通しているのよ」

「誰も彼も腹の探りあい、そしてそのメインは全ての手の内を知っていて無敵状態、不平等もいいところだ」

「けれどもあの子との会話には少なくとも収穫はあったわ……我ながらあこぎなやり方だとは思うけれども、彼女はいずれ問う事になる。主人を取るか、自分の身の安全を問うか、その時に、あの古明地さとりにも隙が出来るかもしれない」

「一輪、この旧地獄に来てから随分と策略とか謀略に強くなったね」

「そうでなければ私も死んでいたわ。それに私達の目指すべき目標は――あなたとは一致しているでしょう?」

「その為には手段は選ばない。私も概ねそれには合意だわ。ただ何と言いますか、その為に何かを犠牲にしなければならないというのは自らの身の上を考えると複雑な気持ちになるね」

「言わないでよ、良心なんて、この旧地獄じゃあ一番無用な感情でしょう? それに、既に犠牲になる者は決まっているのだから」

 

 私は空を見上げた。地上とは違って、星も何も無い、本当の意味での真っ暗闇、私はこの空が嫌いだった。幾度と無くこの空を見上げてはかつての自身の無力さを思い知らされていたからだ。一方でこの星も月も昇らない空を当たり前の風景として見ている自分を発見してしまうと尚更に嫌になってしまう。

 

「神は生贄を求め、それに応えて人に力を使う。けれども神とはそもそも求められなかったらそんな力は存在しない。ならば逆にこういえるのじゃあないのかしら? 神とは人に生贄という餌を与えられて顕現する存在だと、だとしたら神に支配された世界とは神と言う人に飼いならされた生贄そのものなのではないのか?」

 

 それが古明地さとりの出した答えだった。

 この世界の、やがて訪れるはずの終末を回避する方法、それこそが、たった一人の神という生贄によるものだという事だ。

 けれどももし、その神が生贄となってもこの世界が絶対零度の恐怖から逃れられなかったら?

 私はその時どうやってこの世界から脱出すればいいのだろうか?

 姐さんならどう考えるのだろうか?

 教えて欲しい、たとえ回答が出なくてもいいから何かが犠牲にならないと存続すら出来ない世界の救済の方法を……

 けれどもそんな問いかけには、恐らく自身が慕って止まない彼女でさえ応える事はできないだろうという確信があった。

 何故なら彼女こそがそういった犠牲へと自ら進んで歩んでいったのだから……

 そしてその結果として何一つとして救われなかったという過去を持ち合わせているのだから……

 

 

G

 

 

 彼女が提案した案に真っ先に反対の意を唱えたのは意外にも鬼だった。

 鬼でも珍しい一本角の星熊勇儀といったか?

 毎度顔を合わせているがあまり鬼の顔を積極的に覚えるのも彼女の趣味ではなかった。

 何より鬼達もそれは望まないだろう。彼らは自らの存在をその力によって語りたがる。彼女達は戦う前に自らの存在を示す肩書きとそして名前をセットで名乗る。

 それこそが彼女達の自意識であり、自らが存在する所以であり、自らが行使する力を現すものなのだから、故に彼女達は名前に拘っているというよりも自らの力を誇っているのだ。

 それが矜持なのなら別にその矜持を邪魔する気は私には無いし、何より鬼達に顔を覚えられるのも勘弁願いたいのが本音ではある。

 この旧地獄に落ち延びてから経験した数少ない鬼との共通の認識だった。

 いや、この会議室に出席している妖怪達の悪意を古明地さとりは一身に背負っている。

 

「どういう事なのかはっきりと説明してもらおうじゃないか。勿論納得がいくまでだが」

「ええ、その方が宜しいでしょう。お互いの為にも――今言った通り、この旧地獄を現状のまま維持するのは不可能です。私が所有する灼熱地獄の熱だけではこの旧地獄全体を温め続ける事は不可能であり、そして近い将来、あの絶対零度の恐怖、紅蓮地獄はこの旧都にまでやってくるであろうと言う事です」

「お前達の怠慢がそれを招いているのではないのか?」

 

 鬼のその答えにさとりは若干の余裕を持つためだろう、一度大きく溜息をついて応じた。

 

「私を疑うのは結構です、疑いを持てば事実を覆せるのならそれも宜しいでしょう。何せ私の部下達は動物とそれから妖怪になった半端者達、怠慢が無いとは言い切れない。けれどもあなた方旧都の妖怪達の中であそこに立ち入る勇気のある者達は果たしてどれだけいらっしゃるでしょうか?」

 

 凍えて死ぬ位なら焼かれて死にたい、などと言う冗談がこの旧都には流行っている。

 それは紅蓮地獄に飲まれた妖怪達の末路を見て、それでいて正気を保とうという酷く重い気持ちをオブラートに包んだ物ではあったのだが、言う事と実際に行える事には大きな差があるのは常の事だ。

 灼熱地獄の内部に入り、運悪くその炎に飲まれる様な自殺志願者はここには居ない。

 

「勇気云々は兎も角、灼熱地獄の火が弱くなっているという事実には間違いはないのですね?」

 

 私は席を立って彼女に発言した。

 

「ええ、日増し、というのは流石に言いすぎですが、年を追うごとに灼熱地獄の炎はその勢いを弱めています」

「それはあなたの管理不行き届きの可能性はありませんか?」

 

 彼女は私の言葉を聞くと、首を横に振り、静かに、けれども全ての妖怪達に聞こえるように透き通った声で喋った。

 

「かの灼熱地獄の炎はこの旧地獄がかつてまだ地獄であった頃からその火を絶やさずに存続してきました。かの炎はただの炎に非ず、人の死体を燃料とします。これに変わる燃料が今現在存在しないのは、その炎が、ただその亡骸を糧として存在しているのではなく、人の死骸が持つ“何か”を糧としているからに違いないでしょう」

「その口ぶりですと、その“何か”と言う物が何なのかをあなたはご存知なのではないでしょうか? もったいぶらずにはっきりと仰ってください」

 

 そこで私は彼女の微笑に気付く、危うく彼女に飲まれるところだった。

 強い感情で彼女に当たると彼女はその感情の弱みを握り、途端に他者の立場を悪くする事には神がかった才能を持っている。

 けれどもその微笑はどうやら今回はそういった意味合いではなく、ただ一つの確信の下に何かを告げるときの自信を持つ者のそれだった。

 

「要するに今のあなたの様な物です。ここに堕ちてくる死体、それらの中には多くの感情が内包されている。憎悪、怨嗟、野心、呪詛、憤怒、嫉妬、他にも、沢山の感情、その感情をあの炎は食べ成長していたのです」

「その言い方ですとまるで灼熱地獄の炎はまるで生き物の様な言い方をしますね?」

「ええ、生きていますよ。今はまだ」

 

 その言葉に私も含めて全ての妖怪達が戦慄する。

 彼女の言葉には二つの脅威が示されていた。

 一つは灼熱地獄の炎というものが生きているといういう事実を今日まであの地霊殿が隠し通してきた事、そして、それによってその問題が不可避の問題である事……

 前者も論議には十分に価するものではあるが、後者に比べればそれは遥かに小さな問題であった。

 騒ぐ妖怪達を制する為にさとりは右手を軽く上げ、発言を続ける意志を皆に示した。

 

「今更何を驚く事があるのでしょう? 妖怪達の中で生き物から生まれた存在だけではない事くらい周知の事でしょう? 元々は無生物であった私のように、嫉妬などと言う人が持つ概念によっていき続けている妖怪だっているでしょう? 石が意志を持つように、人々からただの風だと言われ続け、本当にただの風へと回帰していった妖怪がいる様に、地獄の底で人々の感情を燃焼させ続ける事によってその行為に意味を持ち、そして感情を持ち、生命を持つ事に疑問の余地はあるのでしょうか?」

「それはあなたの能力の認識によって確認された事ですか?」

 

 私ではない妖怪が彼女に尋ねる。こちらは名前は思い出せないが、この旧地獄に古くから住んでいる妖怪だ。

 聞くところによると、今現在この旧地獄を管理している古明地さとりよりも遥かに古い時代からこの地で生きているらしい。

 時々酒の席で彼女に対する悪態をついているが、表立って彼女に対して悪意を顕したりはしない。当然心は読まれているだろうが……

 

「ええ、当然ながら、しかし、恐らく私以外にあの炎の生存を確認する事はできないでしょう? 絶えず燃え続ける炎に自意識などと言う物があると言う事実を確認できる者が他に居るでしょうか?」

「だが、お前さんが勝手にそう我々に信じ込ませようとしている可能性だってある」

「私は先ほど今現在は生きているという表現をしました。つまり、この先彼は生き続けるかどうか分からない状況にきているからです。私が自身の誇大妄想をこの場で発言していると思いたければ勝手に思っていてください。けれども彼は今現在正に死にかかっているのです。灼熱地獄の火種が死ねば即ちこの土地の熱は消え去る。その先は……ご想像にお任せします」

 

 彼女はちらりと鬼の方を見た。鬼は悔しそうにただ、握った両の拳を机で震わせている。

 今日も彼女の言葉から“嘘”を見出せなかったのだろう。

 

「延命、という言い方でいいのでしょうか? “彼”が生き延びる方法は模索しましたか?」

「当然ながらしました。しかし、この世界に生きる全ての物が定命の輩であるように彼もまた定命でありました。いずれ果てるのが命ならば、それを回避する事は出来ないでしょう? ただ、そのいずれが今来たという事です」

「だからと言ってだ!」

 

 これまで沈黙を通していた鬼が机を叩き立ち上がる。

 

「その地獄の炎の代価を用意するなんてやり方はないだろう?」

「ええ、例えばそれが穢れ無き浄土に住まう者が言うのなら正しい考えなのかもしれません。ですが星熊勇儀、あなたも、そしてあなた達も皆認識していないだけでこの世界では灼熱地獄の炎という犠牲の下に成り立っていたという現実があります。今更その犠牲にもう一人や二人くらい増えたところであなた達の良心は痛むのですか? ならばそれこそ偽善と言うものでしょう? 勿論、この地獄の底で善を唱えられる者は居ないでしょうが……」

「だが、しかし!」

「悔やむ気持ちは分かります。けれども私達がこの土地で生き延びるには他の方法がありません。この土地に住まう者は外の世界では邪魔であると認識された者達によって成り立っています。この土地も、私も、そしてあなた方も……外の世界からの救援などもっての外、何故なら彼らこそ私達の消滅をこそ望んでいるのですから、ならば自らの身を削って生き延びなければならない。この地底世界には存在しない太陽の恩恵も、全て私達でこの手に掴まなければならない。あなたは違うでしょうが、他の方々が反発するのはその恐らく、その犠牲となるものが一体誰であるのか? と言う事に集約されるのではないでしょうか?」

 

 一気に、場の空気が変わった。誰もが固唾を飲み込むような音を聞いたに違い無い。

 けれどもこういう場合は皮肉にも一番恐怖を実感している奴が安全だ。

 何故なら犠牲が決まっているのなら、その犠牲者に知らされるのは最後になるのだから……

 かつてを思い出し、些か気分が悪くなる。

 何よりあの鬼は事情に些か通じているらしい。

 例えば何者が犠牲になるのか、若しくはこの途方も無い計画の内容にもある程度理解があるのかもしれない。

 

「何者かが犠牲になる、等と物騒な話になっていますが、その計画の具体的な内容にまで突っ込んで応えていただきませんと、これだけでこの旧地獄が安泰だとは思えませんね」

 

 例えばかつての旧地獄のような強い火力を持った炎が現れたとして、あの絶対零度の地獄に対抗できるかどうかも今のままでは分からない。計画の理念だとかそういったものだけが先行しているだけなのならこんな計画はただの駄法螺だろう。

 当然彼女はただ法螺を吹くだけの妖怪ではない事は分かっている。

 いや、そうじゃない位有能なのがこの場合憎悪の対象になっている程彼女は用意周到だ。

 そしてどうやら今日もその例に漏れないらしい。

 彼女は無言で幾つかの資料を配った。

 旧都などで使われている紙よりもよっぽど上質なそれに書かれていた表題には二つの言葉が目に付いた。

 

 一つは「核融合炉」

 そしてもう一つ、これこそ彼女のおぞましさを表すようなものだった。

 「八咫烏」

 彼女はどうやらこの旧地獄に神をおろす心算らしい、そして彼女の言葉に偽りが無く、正に太陽をこの旧地獄に呼び込むのだ。

 その資料には詳しい手順が一つ一つ書かれていた。

 どうしてこうまで遠大な計画が立てられるのか? そしてその為に自らないし、他者の犠牲を強いることに戸惑いが無いのか?

 けれどもそんな些細な事に気付く者はいるのだろうが、けれども太陽という言葉に多くの妖怪達が心を惹かれた。

 地上の光から捨てられた妖怪達はかつてその身に浴びていた光をガス灯に想い起され、街灯に良く集まる。

 そして旧地獄に地上にあるそれと同じものを呼び込むという魅力に勝てるほど強い妖怪はそう多くは無かった。

 こうして一見地上の神から侵略された旧地獄では秘密裏に……暗黙の了解の下、一人の地獄烏が犠牲になる計画が進められた。

 喩え親身になっている鬼でも、大多数の賛成には勝てず、そして、元々この地に未練の無い私にとってもこの案を賛成しないわけにはいかなかった。

 外から何かを呼び込むという事は、言い方を変えれば外からの侵入する方法を見出すチャンスなのだから、それは自分にとっては有益な事だ。

 会議場を出て行く古明地さとりには好意を寄せる者など当然居なかったが、私には彼女の姿がほんの少し不思議に見えた。

 彼女はあそこまで全ての存在に嫌われていて、それでも何故存在し得るのだろうか?

 彼女はこの旧地獄では強い権力とそれを行使する決定力を持っているが、それは殆どの場合が悪と取られる様な行為が目に付いた。

 いや、もしかしたら悪と見られるように行動をしているのかもしれない。

 ならばその感情の奥底に彼女にとって必要な“何か”があるはずだろう。

 しかし私には見えない、彼女の真実の素顔が、

 私には自ら進んで犠牲になった大切な人が居た。

 彼女とは似ても似つかない面影や境遇だが、私はあの古明地さとりの妖怪としての在り様がどうしても姐さんに被ってしまう。

 何かのために自らを犠牲にする。

 では何の為に……?

 

「ねぇ、もしさ、灼熱地獄に意思があったとしたらだよ?」

 

 会議が終わり、多くのものが退室する中、唐突に私は背後から声をかけられる。

 窓際の壁に背を預けているはずなのに、振り向こうとしても、私の背後に存在する“誰か”はあまり良い雰囲気を出しては居ない。

 

「ならばこの旧地獄から熱を奪っていく存在にも意思があったらどうかしら?」

「どういうこと?」

「熱とは命の象徴、生きて動いているのは熱が存在するから、でも霊体は違う、その身は外気温を下回り、触れるものに凍傷を負わせる。もし、紅蓮地獄と言うものがそういった物だったとしたら? ねぇ? 面白い事だと思わない?」

 

 くすくす、と嗤う少女の声、この旧地獄に住んでいるというのにあたかも他人事のように、良くも言えるものだ。

 

「ならその事を進言したらいいじゃない?」

「いや、だってお姉ちゃんは光を見て私は陰を見る。ずーっと昔にそう決めたんだもん。でもさ、もしそうだったら面白い話じゃない?」

 

 私は腰に下げている輪を取り出し、雲山を召喚する。

 けれども、敵は何処か? どこにも姿は見えず、結局私はその正体も掴めずに終わった。

 一応雲山に周囲を調べてもらったが、この中に先ほどの存在はついぞ掴めなかった。

 

「何者? お姉ちゃんって言っていたけれど……」

 

 まさか古明地さとりの姉妹? 覚り妖怪が二人も居るなんて聞いた事は無いけれども、でもあの旧都には内情が殆ど知られていない地霊殿には在り得ない話でもない。

 頭に過ぎる感覚に何かを感じ、退出しようとしている古明地さとりを追った。

 

「どうかしました?」

 

 彼女はその三つの瞳で私を見てくる。私の心の内を覗き、そして暫く口元に手を当てて考えを巡らせるような顔をしながら彼女は尋ねた。

 

「神をおろす方法を知ってあなたはどうする心算でしょうか?」

「私がどういう思惑か、と言うよりもご自身の発言に矛盾を感じる点はありませんでしたか?」

 

 私はこの心を読む化け物に手玉に取られないように細心の注意を払って彼女の誘導尋問から逃れようと試みる。無駄だとは分かっていても防波堤は必要だ。

 

「矛盾、ですか……ならばあなたが矛盾だと感じた点を仰ってください」

「あなたは外の世界の助けを受けずに、この世界の存在はこの世界の犠牲によって成り立てると言いましたよね? けれどもあなたは外の世界から八咫烏を呼び込むと言いました。私が疑問に思うのはこの遥か空に存在する神の鳥を一体どうやってこの世界に呼び込む心算ですか?」

「ええ、それは確かにあなたにとっても興味が潰えない事柄でしょうね」

 

 彼女は意地悪く嗤う、私が何を望んでいるのかなんて分かりきった事だ。

 今更そんな事で咎める気なんて無いという事は、私がどう足掻いてもこの地からは逃れられない事を確信しているか、若しくは私がこの世界から消えたところで何かが変わる事なんてないと強い自信があるからか? 出来れば後者であればいいのだけれどもどうやら彼女は前者らしい。

 私が思考を巡らす度にその笑みを深めていったからだ。

 それは愚者に対する嘲りであり、彼女の嗜虐性を正に表現したような表情だった。

 

「一度だけです。外の世界の神と連絡を付け、そして八咫烏をこの世界に呼び込みます」

「神は果たしてこんな捨てられた世界に興味を持つのでしょうか?」

「ええ、大変、人も、妖も、神ですらもどこで何が必要になるかは分からない。彼女達は恒久的なエネルギーを求めている。その恒久的なエネルギーを発動させる神をおろしたいが、その為の器を探していた。だから私はそれを提供した」

「それは地上と地下との間の相互不可侵を侵すものではないでしょうか?」

「私はこの旧地獄のすべてを統括してきました。けれども未だに決められた場所にゴミを捨てるという慣習を全ての妖怪に義務付けさせる事ができていません」

「それは……つまり、見逃すという事ですか?」

「さぁ? 私は人の心は読めても全てを見渡せるほどの視力はありません。ただ私の知りえている事実は外の世界の二人の神がこの旧地獄に今はその姿を具現化できなくなった八咫烏という神が再び受肉する為の器を見出したという事と、その神の心をこの土地に留める為の石榴の実の味を知っているだけです」

 

 その喩えは良く分からなかったけれども、恐らく罠か何かなのだろう。

 そう具体的に自分が行う事を言わなかったのは、恐らく彼女の所属している組織に対する言い訳が立つのだろうか?

 要するに対外的にも内面的にも外の世界の神が勝手に行ったと主張したいのだろう。

 私の思考を読んでもその事に関しては肯定も否定もしない彼女はただ邪悪な笑みだけを湛えている。

 

「最後にお聞きします。あなたの本心は一体どこにあるのでしょうか? この旧地獄? 地霊殿? それともあなた自身?」

 

 私の問いかけに今度こそ彼女は初めてその表情を崩した。

 彼女は私のたった一言で彼女の仮面は一枚がまるでずり落ちたかのようにそれは崩れた。

 

「それをあなたと言う他人に明かす理由はあるのですか?」

 

 先ほどとは打って変った弱気な声色で彼女は尋ねてくる。

 それは先ほどまでの他者を威圧するようなそんな物ではなかった。

 

「いいえ、私にはあなたに何かを強要する事なんて出来るわけが無いじゃないですか」

「そう、そうですね……ならば改めて言わせていただきます。私には私以上の何者も無い、そしてここは私の世界です。この世界に居るという事はたった二つの選択肢しかありません。私と共に生きるか? 私と共に死ぬか? です」

「まるで神の様な仰り方ですね」

「ええ、神を使役しようとする者ですから、神を騙る悪魔か、神そのものにならなければならないでしょう?」

 

 彼女の今度の表情は、先ほどまでの邪悪な微笑みでも、ましてや不安げな表情でもなかった。

 冷徹な、それこそあの紅蓮地獄のような冷たさを持ったような表情だった。

 わからない、この女の素顔が、その場その場で使い分ける幾つもの仮面、それはまるで人の悪意を映す鏡だ。

 

「ええ、そうです。私に自我なんて物は存在しないんです。私はこれまで数多の人々から蒐集してきた意識、感情、言葉それによって形作られたのがこの私です。すべての意思あるものの反響体、そんな私に当然のことながら人間らしい感情なんて、あるわけ無いじゃない?」

 

 彼女は無生物から生まれた存在だと自身を語った。それが本当なのなら彼女がこうして多くの生物的な習慣や身体、果ては能力までを手に入れたという事なら、確かに彼女にとって人間的、或いは妖怪的な感情とは常に客体なのかもしれない。

 自身が使役する入道の事を思い出す、彼は特にその事に関しては多くは語らない。

 いや、私が尋ねなかった。もしかしたら彼女の感性は彼に近いのかもしれない。

 

「なら私はあなたが是非とも前者であると思いたいですね」

「願いうのは構わないけれども、願えば世界が変わるわけではないわ。もういいでしょう? ここでは私は厄介物扱い、私にとっては日常ですが、あなた方にとっては耐え難い事でしょう?」

 

 そういうと彼女はその場を立ち去ってしまった。

 私は瞬間に考えてしまった。彼女は悪魔か神かと言われたら悪魔であって欲しいと、

 自身の友人のことを考えると複雑な気持ちではあったが、二つの可能性があり、そのどちらをとってもこの旧地獄にとって危険極まり無い事だろう。

 可能性の一つは彼女は自身が言うように自らの持つ感情と言うものが人間達の反響体なのなら彼女の采配の全て無機的に行われていると言う事になる。

 そうなら彼女は本質的にこの世界を大切にする気が無いだろう。

 そんな奴が上に立っていたらいつか必ず合理にそぐわないと言う非情な理由で多くの犠牲者を出す日が来るだろう。リスクがリターンに見合わない程の手痛い犠牲を、

 そしてもう一つ、彼女が意識してか、それか無意識の内にか分からないけれども自分の中にひた隠しにしている根本的な欲求や指向性の下にこれまでの行動が行われてきたのなら、少なくとも隠した相手にとっては不利益な結末が最終的には待っているに違いない。

 旧地獄中からもたらされる怨みの数々を擬態とはいえその身に受けてきたのだ。そんな存在がこの旧地獄の数多の妖怪達の生命に対して好意的であるはずが無い。

 

(尤も、私個人としては少なくとも前者であってほしくないという欲求があるのが、私自身の性格が度し難い物だと考えてしまうのだけれどもね)

 

 彼女自身が言う様にこの旧地獄の存在は多かれ少なかれ外の世界から排他されてきた妖怪が集った場所である。そして彼女はその妖怪達を統率する為にその妖怪達からではなく、外部から派遣された領主である。

 その為に彼女が個人としてだけではなく立場として多くの妖怪達から忌避されてきているのだが、些か飛躍的ではあるが、もし彼女が本来この旧地獄を救う気持ちが無く、これまで効率的だという犠牲を払いながらその実、効率よくこの旧地獄の妖怪達を始末してきたのかもしれない。

 紅蓮地獄の問題だって、そもそも誰もが確認できない事実を押し付けて選択を迫る彼女らしい選択の余地が無い提案だった。

 八咫烏をこの地獄におろすと言う事だって成功率はどれだけの物かも明示しない。

 けれども現状維持だけだと確実にこの世界は滅ぶ、これだけでも人々の選択肢は大分狭められる。

 前者ならば、いつ自分がその犠牲になるのかさえ分からない。

 後者は、彼女が心の奥底に“何を”隠し通しているかによって危険の質と度合いが変わっていく、そちらの方は探りを入れないと私にはどれだけ危険な事かも分からない。

 ただ後者の場合、動機はなんであれ物事を良い方向へ導いている、という事実をこれまでで証明している。少なくとも今現在から前者に比べると自分にリスクが及びやすいかどうかと言われたら前者の方が及びやすい、

 自分の都合ばかりで考えてしまうから彼女の手玉に取られてしまうのは分かっていても私にとってのこの世界とは所詮その程度でしかない。自分が生きて友人と共に地上に出られればそれでいい、ただ、それだけの世界だろう。

 自分に言い聞かせながら今一度自分が心に思い描いていて人物の顔を思い出す。

 

「こんな姿をみたら姐さんになんて言われるかな」

 

 この世界は見放された土地と救い難い妖怪達、そして何より誰もが忌避して止まない人物を頼る事でしか存続できないという救い様の無い思想に支配されているという事実の下に成り立っている。

 それは誰一人として例外は無く、同じくそれは私自身にも翻ってくる。

 結局私はその後も彼女の本心を探る事は続けていたが、結局答えが出せないままこの旧地獄から立ち去る事になった。

 体面上は追放、私個人としては脱出と言う意味合いで、

 だから後に後悔する事になるのだが、彼女に対する考察はそれ以上続ける事はなかった。

 

 

H

 

 

 天井を貫くような巨大な閃光を見た瞬間、あたいは全身から血の気が引いていく感覚を自覚した。

 両膝を地に付きそうになるのをなんとか耐えて今一度見上げる。

 光は一度だけだった。

 二度目はない。それがどういう意味を持つのかは分からないけれども、それは何かが終わった事を告げる合図だった。

 お空が終わるのか? さとり様が終わるのか? 私には分からなかったけれども、そのどちらかの結果でも不幸な結末を呼び込む事が頭の中で何度も駆け巡った。

 自身に言い聞かせる。

 第三の結果だってあるはずだ。どちらかが終わらない結末が、

 そんな奇跡を信じる事こそ愚かなのかもしれないけれども、そんな物でも信じない限りあたいは前に進めそうになかった。

 旧都で話した鬼との会話が頭の中を駆け巡る。

 何かを、誰かを犠牲にするだけの世界なんて絶対に報われる結果なんてもたらしはしない。

 地霊殿の最上階を目指しあたいは歩を進める。

 幾らあいつが馬鹿でもそんな道理くらい分かるはずだろう?

 けれどもあたいのそう考えていた世界は常に犠牲によって成り立っていた。

 それは野良の時だったら恐らくそんなにまで不思議と感じなかっただろう。

 ましてや、何一つ本人は悪い事をしちゃいない奴が一方的に犠牲になるなんておかしな事だ。

 今なら間に合う、さとり様に頼んで彼女からヤタガラスなんていう珍妙な力を取り払って貰おう。

 廊下を駆け、階段を走り、そして目指す階まで辿り着く、

 しかし、いつもはその先が続いているはずの階段が、今日に限って瓦礫で埋まって前に進めない。

 苦々しい思いで、自分が漸く空を飛べる事を思い出して近場の窓をブチ破って外に抜ける。

 そしてあたいは漸くその場所の状況を把握した。

 地霊殿の一箇所に大きな風穴が開いていた。

 そこから内部の状況がある程度見える。

 目視できただけで三人の存在が確認できた。

 一人はさとり様、こちらは無事だったが、何やら動揺しているようだった。

 そのさとり様の前に、丁度さとり様を庇うように立ち塞がっている見知らぬ妖怪が一人、長い金髪に紫色の服を着た女だった。

 さとり様と比べると結論を出すには難しいが、その面構えはあからさまに胡散臭かった。

 そしてその二人の眼前にもう一人、地に足を付き、泣いているあいつの姿を確認できた。

 

「お空!」

 

 あたいの叫びに応えた彼女は、これまで見た中で最も頼りの無い姿だった。

 涙と鼻水でぐずぐずになった顔を上げて、彼女はあたいを見つめてくる。

 それだけであたいは状況の大よそを悟った。

 彼女はあたいに向かって何かを言ってくる。

 ここまでは届かないけれども、きっともう最後に残った勇気を振り絞って言ったのだろう。

 弱々しくも、助けて、と……

 だからあたいはさとり様達の前に立ちはだかった。

 

「さとり様、これが! この結果があんたの求め願った世界の末路なのかい?」

 

 さとり様は応えない。ただあたいから目を背けるばかりだった。

 

「そうかい、それがあんたの答えなのかい。ならあたいはもう金輪際あんたの下にはつかないよ!」

 

 地に這い蹲っているお空の肩を抱きつつ、即座に自身の周りに怨霊を召喚した。

 

「二人ともそのまま動くなよ? あたいの能力は酷く不安定だ。ちょっとした熱を感じただけでその怨霊共は発狂したように爆散するからね。火傷をしたくなければ近寄るなよ」

 

 あたいはさとり様というよりもう一人の妖怪を警戒した。

 こいつは勘なんだけど、この女はあたいのような動物的な突発的な敵対行動は取らない代わりにもっと凄惨な、罠を仕掛けてくるタイプだろう。

 僅かにでも動く素振りを見せるようなら即座に牽制に回らないといけないだろう。

 彼女も、さとり様も結果としてあたいがお空を抱き上げるまで動かなかった。

 

「今日まで有難うございました。あたいはこの地より去ります」

「去って、あなたは何処で生きるつもり? あなたが抱えている存在はあなたとは体の構造が既に根本から違うのですよ?」

「知るかボケ! あたいは一人でもやってこれたんだ! こいつ一人くらいなんとでもなる」

「お燐、自暴自棄にならずに、反逆するならもっと計画的にやりなさい」

 

 こんな状況で一体何故彼女は落ち着いていられるのだろうか? 彼女はあたいが担いでいる物の価値が分かっているはずだ。

 彼女の態度が、いつか聞いた反響体だという言葉をまるで肯定しているようだった。

 

「この身を案じていただかなくても結構です。私は既にあなたに反逆している身です。それよりもその怨霊が消え去るまでは底を動かないで下さいよ。喩え反逆したとはいえ、元主人の首が吹き飛ぶ姿なんて見たくは無いですからね」

 

「そう、あなたはそう言いながらも私の身は案じてくれるのね」

「うるさい! もうそんな親身になるような喋り方をするな!」

 

 それきりあたいは彼女達に背を向けて旧地獄の闇の中を飛んだ。彼女の目が届かないどこか遠くへ、この旧地獄では無い外の世界へ、

 

 ふと、あたいの眼前に一人の少女が現れる。

 黄色い服の、さとり様とは違った閉じた瞳を持った覚り妖怪、

 まるであたい達を祝福するような声音で一言だけ喋るとまた、旧地獄の闇の中へ消えていった。

 

「あなたは火車、戦火を撒き散らす妖怪、その炎で、存分に抗ってきなさい」と……

 

 その言葉よりも彼女ののっぺりとした仮面のような表情に違和感を憶えたけれども、振り返ったところで彼女はもう見えない。

 

「ねぇ、お燐、私……殺せなかったよ。さとり様の事、憎くて、にくくて、ここ最近ずっとそのことばっかり考えていたのに、いざ彼女に立ち向かったら、私はさとり様を撃つ音なんて出来なかったよ。私って臆病者なのかな? それとも無能なのかな?」

「何言ってんだい! 何かを殺す勇気もあれば何かを生かす勇気だってあるのさ! これからの事はこれから考えればいい、もう、あんな奴の事なんて考えなくていいんだよ」

 

 背中で泣きじゃくる友人を何とか泣き止ませるように努めるが、彼女が泣き面をやめるのには暫く時間がかかった。

 この旧地獄に行き場は無い、何処に行ってもさとり様の眼は行き届いている。

 ならば旧地獄の脱出こそが自分の取れる選択肢だろう。

 

「なぁ、お空、いつか話したよな? この旧地獄には無い空って奴、それを見に外の世界へ行かないか?」

「私には、もう何処だっていい、どこに居ても、誰にも必要とされないよ」

「何言ってんだい。あいつらに何を言われたのか知らないけどさ、あたいは少なくともあんたの事を必要としてる。それだけじゃあだめかい?」

 

 あたいはこいつのお陰で多くの事を学んだ。

 昔のあたいだったらこいつ一人が犠牲になる事で世界が回るのならどうでもいい、で終わっていただろう。でもこいつと出会って、他人に自分と同じかそれ以上の感情があるって言う事を漸く肌で感じてきたんだ。

 それは救われた気持ちだったし、今の自分を肯定しているのはこいつのお陰だ。

 だからこんどはあたいがこいつを助ける番だ。

 誰かに、何かをやられっぱなしじゃああたいのプライドも傷つくってもんだ。

 橋姫の橋を駆け抜け、地上へと続く、大穴へと入った。

 

「向こうに行ったらさ、お燐はまずどうする?」

「さぁ、知り合いっていってもこの間戦った二人の人間と、あと一応知り合いの妖怪が居るからさ、そいつらを頼ればいい、話せば分かるはずだよ」

 

 当然こんなのは希望的観測に過ぎない。けれども今はお空を少しでも安心させたかった。

 それにあたいもそいつら位しか当てが無いのは確かだ。

 でもあの人間二人は話は分かりそうだったし、あの尼さん妖怪だって仲が悪いわけでもない。頼れるか? って言われたら微妙だけれど、でもだれも知り合いがいないよりかはマシだ。

 

「お燐降ろして」

「どうしたんだい?」

「お燐相変わらず空飛ぶのは下手だね。全然遅いよ」

「こいつ、さっきまであんなに落ち込んでいたのに!」

「だってお燐が遅すぎるから考え続けてるのが馬鹿らしくなってきてさ」

「まぁ、あんたみたいな鳥が猫に空で負けてちゃ世話無いさ」

「負けないよ。他ならぬ空ではね」

 

 漸く元気を取り戻したのか、彼女はあたいから降りると、すぐにあたいの手を取って飛び出した。

 そのスピードはやっぱりあたいじゃあ出せないようなスピードで、やっぱり彼女の本分なんだなと、痛感させられる。

 

「でもね、お燐、私は前はこんなにまで速く飛べなかったんだ」

「ううん、お空、あんたは十分前も速かったさ」

「うん、そうだね」

 

 彼女は何かを言おうと含んだまま、閉口してしまった。

 やっぱり能力の事に負い目を感じているのだろうか? でも長い間見てきた彼女の表情はただ単純なそんな感情だけじゃあない何かを含んでいるようだった。

 やがて、明かりが見えてくる。

 外はどうやら昼間なのだろうか? 日差しが強い、

 久々の眩しさだ。地上からではなく、空からの日差し、

 地上の感覚が懐かしく思う事があるとは自分でも思わなかった。

 

「お空、目を傷めないように気をつけなよって、そういやお空はあんなに太陽を近くに見ていても目が大丈夫だったか」

 

 少しだけ空気の変わりに心が興奮していたのか、下らない事を言ってしまったな。

 そして漸く空が良く見えた。

 穴から出ると、真っ青な空に太陽が丁度真上に輝いていた。

 あたいの嫌いな雨じゃなくて良かった。

 

「久々の空は心地いいな!」

 

 と、その時だった。あたいは違和感を憶えた。

 あたいを引っ張って空を目指したそいつの動きが急に止まったからだ。

 それどころか、あたいが引っ張り上げなかったらそのまま落っこちちまうところだった。

 

「お空! 外はまだ慣れなかったかい?」

 

 彼女の表情があの長い髪のお陰で見えない。

 なんとか引っ張りながら地面で寝かせる。

 体が全く動かない。

 どういうことだ?

 頭の中に幾つもの疑問符が浮かぶ、彼女の体温は確かに感じる。けれども彼女を地面に寝かせる事で漸く彼女の異変に気が付いた。

 

「お空? お空、どうしたんだい? その瞳は? 一体どうしたんだい?」

 

 彼女の瞳が開かない。その両の瞳じゃなくて、ヤタガラスとかいう奴の力を取り込んでから胸に出来ていた真っ赤な宝石みたいな瞳が、閉じてしまっている。

 右手が僅かに震える。なんとかその手で彼女の胸のそれを撫でるが、どういう構造なのか? 彼女のそれはまるでカメラがシャッターを閉じたまま動かなくなったみたいに黒い瞼を閉じたまま開かなくなっちまった。

 それと連動しているのか、彼女は全く動かなくなってしまった。

 

「お空、お空、どうしてだい? なんで動かないんだい?」

 

 彼女の肩を激しく揺さぶる。けれども彼女の体に力が入る気配が無い。

 

「一体、何が起こったんだい?」

 

 その問いかけに答えられるものはここには存在しなかった。

 

 そして後ほど火焔猫燐は自覚する事になるが、この瞬間から旧地獄の地上侵略の狼煙が上げられた。

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