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 ――ちらりと覗いたその鏡のなかに、ふと自分ではない誰かの面影を目にしたのは、なにも偶然ではなかったのかもしれない。

 

「その鏡はいわくつきのものでね」

 店の壁に掛けられた売り物の鏡をまじまじと覗き込んでいると、店主である古物商の男が奥から顔を出した。その肥満気味の体を揺らしながら傍まで来る。

「人の心を映すんだ」

「心を?」

「ああ。それも思いが強ければ強いほどより鮮明に映るそうだよ。といっても、こうして前に立ってみても自分の顔が映るだけで、そんなものワシは見たことないがね」

 店主は鏡を見ながら口ひげを整えると、また奥に戻っていった。

 たしかに彼の言うとおり、何の変哲もない鏡だ。いま映っているのは紛れもなく私自身で、後ろにある古びた棚にごちゃごちゃと雑多に商品が並べられているのも現実世界と一緒だった。

 いろいろな角度から確認してみるが変化はない。

 さっき一瞬、鏡の中に懐かしい顔がよぎったような気がしたのだが。

 ただの勘違いか、そうでなければ白昼にもかかわらず幻影でも見たのだろうか。

 とりあえず一枚だけ写真を撮っておく。

 いつまでも鏡に執心していると店主がまた顔を出した。

「そんなに気になるなら買ってってよ。安くしとくからさ」

「いや、それは……」

 胸のあたりから頭のてっぺんまで枠内に収まるほどの大きさの鏡だ。まだ旅も続く。ここで買ったところでとてもではないが運べない。第一、代金を払ってまでこの鏡を手に入れたいわけでもなく、また、そんなことに金を使えるほどの余裕もなかった。

 断ると店主も「まあそうだろうな」とあっさり引き下がった。

「親父の代からだからもう三十年以上も店にあるんだよ。いつまでたっても売れやしない。そのくせ噂を聞きつけて冷やかしに来るやつはいるんだ」

「そんなに有名なんですか、この鏡は?」

 私が問うと店主は困ったような顔をした。

「有名というかちょっとしたエピソードがあってね。もう何十年も前のことだが、その鏡はこの町に住んでいたある男の屋敷にあったんだ。その男というのが変わり者で、親が残した莫大な遺産を食い潰しながら働きもせず家に篭ってたそうだ。たまに近所の人が外で見かけることもあったらしいが、女みたいな服を着てひとりでぶつぶつ言いながら誰とも目を合わせようとしなかったっていうから、ひょっとしたら初めからここがちょっとおかしかったのかもな」

 と、言いつつ店主が自分の頭を指差した。

「まあ、そんな具合だから、気味悪がって誰もそいつの屋敷には近づかないだろ。仕方なくその男の叔母にあたる人が時たま様子を見に行ってたらしい。そしたらあるとき突然、『好きな人が出来た』って男が言い出したそうなんだ」

「それだけ他人との関わりを断っている人なのに……ですか? ひょっとして散歩のとき見かけた女性にでも一目惚れしたとか?」

 私の推測に店主は首を横に振ると、なにやら恐ろしい話でもするかのように声を潜めて、しかしはっきりとした口調で続けた。

「そう思うだろう? ところがその叔母の聞いた話によると、男は『鏡のなかの女性に恋をした』とか言い出したっていうんだ」

「鏡のなかの女性に?」

 思わず振り向く。鏡は相変わらず私のすぐそば――店の入り口あたりに掛けられたままだ。何も不思議なところなどなく、表から射し込む光を鋭く反射している。

「さすがにそんな妄言まで吐くようになっちゃどうかしてるというので、叔母は医者に診てもらうよう勧めたらしい。だが、怒った男に家を追い出されて後はそれっきりになっちまったそうな。それでも一応、生活に必要なものだけは玄関先まで届けていたようだが」

「じゃあ、男がどうなったか、後はわからずじまいですか?」

「いいや。あとでそいつの日記がみつかったからある程度はわかってるよ」

 なにやらすんなりと飲み込めないところがあってさらに訊ねる。

「あとで、ですか?」

「失踪したんだよ」

 それだけ言うと店主がやおら腰をかがめた。すぐそばにある背の低い棚を探っているようだ。私が店主の元まで近寄るのと探し物が見つかったのはほぼ同時だった。

「これだ、その日記っていうのは。普通こんなものは買い取らないんだが、どういうつもりかあの鏡と一緒に引き取ったらしい」

 手渡された本は、色褪せてはいるものの存外保存状態がいい。これなら読むのに慎重になる必要もないだろう。

 ページをめくると、しばらくは取り留めのない日々の生活の様子が綴られていた。

 しかし、ちょうど叔母が医者にかかるように勧めた前後から、明らかにおかしな表現が見られるようになった。

 それによるとある日、屋敷内の階段の踊り場にかけられていた鏡のなかにとある女性の姿を見たという。はじめて目にしたにもかかわらず、古くから知っている親しみのある人物に思えたそうだ。そんな刹那の出会いから、彼は変わってしまった。いや、異様さに拍車がかかったというべきか。一目で惚れたその女性にまた会いたくて、男は暇さえあれば鏡を眺めるようになった。そうしているうちに、またその女性が鏡のなかに現れるようになったと、日記には書かれていた。

 男の妄想と捉えるのが普通だろう。だが、今なお囁かれるその妖しい言い伝えの真偽を証明しない限り、否定することもまた出来ない。

 男が叔母との繋がりを断って他人と一切会わなくなると、いよいよ内容は現実離れしていく。

 鏡のなかの女性に話しかけると彼女はいつも優しく微笑んでくれたのだという。そして彼女も何かを伝えようと口を動かすのだが、どうしてもその声は聞こえない。そのたびに悲しそうな表情を浮かべる女性。男はそれでも彼女が退屈しないようにと、ずっと鏡のそばにいたようだ。そのうちに女性の顔を見るだけでは満足できなくなってきた。

 ――彼女に触れたい。

 男の願望はエスカレートしていく。しかし、いざ手を伸ばしても指先に触れるのは冷たく硬い鏡面の感触だけ。それでもどうにか彼女と一緒になりたい男はついにある結論に思い至る。すなわち各地の民話などに散見する呪いを解くひとつの法。

 ――お互いの愛を確かめ合うことが出来れば奇跡がおきるのではないか。

 根拠は何もない。けれども男は本気だった。

 そして彼は考えを実行に移した。

 最後の日付が記されたページには、ただ一言「彼女にくちづけを」とだけ書き殴られていた。

「おそらくそこに書かれているとおり、鏡越しに彼女にキスしたんだろうよ。ただ、そこから先、男がどうなったかは誰も知らない。叔母が気づいたときにはもういなくなってたって言うしね。男の願望どおり女を鏡のなかから救い出して一緒に逃げたか、逆に男が鏡のなかに吸い込まれちまったか。あるいは奇跡なんかおこらず絶望して行方をくらましたのか。とにかく何もかも放ってそいつはいなくなった。ただ、世間ってのはそんな話を面白おかしく解釈して流してしまうもんなんだよ。だから、男が心の中に生み出した女性が鏡に映っていたんじゃないかって誰かが言い出したのが広まって、あの鏡は『心を映す鏡』と呼ばれるようになったわけさ」

 私は閉じた日記を店主に返した。

 事の顛末を頭のなかで反芻しながら、男がどういう人物であったかあらためて考える。

 店主は言った。男はたまに女のような格好をして外に出ていた、と。

 そういう趣味嗜好の持ち主ならともかく、まるで別人の所業である。そこまで思考をめぐらせたところで、以前得た知識に符合するものがあることに気づいた。

「ひょっとして……その男の中にはもうひとりいたのかもしれませんね」

 私の言葉に店主は小首をかしげた。

 まれに一人の人間に別の人格が現れる、そういう心の病があると聞いたことがある。もしかしたら男がそうだったのではないだろうか。ならば女性の人格のときに鏡を見て、自分自身に心を奪われた可能性が――

 いや、それだと女性の人格が女性に恋をしたことになって矛盾してしまう。

 また答えが遠ざかってしまった……。

 

 ふたたび鏡の前に立つ。そこには自分の姿があった。

 やはりこの鏡は心を映すのだろうか。

 たしかに私もはじめ、故郷にいる親しい者の顔を見たような気はする。それは瞬く間に消えてしまったので自分でも半信半疑だったのだが、あるいはかの男のときと同じように、手の届かないところにいる大切な人の姿を本当に映し出したのかもしれない。

 

説明
2012年1月31日作。偽らざる物語。
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