さと 〜 獣人雪男伝説 〜
[全11ページ]
-1ページ-

●1 山の暮らし

 

Igor Stravinsky - The Rite of Spring - 1/4

「春の祭典」

http://www.youtube.com/watch?v=ZTDSd0jQ5PQ

 

日本のアルプス一万尺といわれる深い深い山奥に

わたすの住んでいた部落はあった。

なにせ子どもの頃のことだから、あんまりくわしいことは憶えていない。

それにあんまり思いだしたくもないんだ、あの部落のことは。

とにかくあんまり山奥なんで、他から人も来ないし。

おとこたちは銃を持って獣を狩って、捌いて、

売れるものは売って、喰うところは喰った。

おんなたちはちいさな畑を耕して作物を作った。

粟とか、多かった。

粟ぁ、美味かった。

おかぁが作った粟団子の味はわすれられね。

 

わたすのなまえは、さと。

いまではそれほど意味はなさない。

けど、そのなまえはきらいじゃない。

自分のお里はきらいなのにね、ふしぎなもんだ。

でもそのひびきは、きらいじゃない。

とても素敵なひびきだと思う。

 

他の土地を知らねぇから、よそのことはわからねぇ。

けど偶に熊の胆とか猪の肉を買いにくる人たちのナリときたら

まるで西洋人みたいでさ、あんまり格好が違うから、

やっぱり貧しかったんだろうな。

 

子供心に、あぁいう人たちが、わたすらを見下したような態度を

とることはわかった。

さゆりねぇが、麓の村に奉公に出ても、落合の部落のもんだって

わかったときからみんなに虐められたっていってた。

猪や鹿や狸や、ときには熊だって捌いていてよ。

それだってわたすら生まれたときからそうやってきたんだし、

いまさらそれが汚らわしいといわれてもなぁ。

だいたい捌いた肉は、ほかの人たちも喰ってるんだから。

汚らわしいとかいえねえだろ、普通は。

でぇ、さゆりねぇ、部落に帰ってきたが、そのあとがいけねぇ。

 

ほんの子どもの頃に、川沿いに下っていったところにあるお寺

に行ったことがある。

部落から二日ほど下ったところだ。

大きな釣鐘が釣ってあって、あれがいつも鳴っているんだな。

明けも暮れも。それ以上、山から下ったことはない。

さゆりねぇが帰ってきたあとはとくに、山を下る気はなくなった。

他のおとなたちも、年寄りたちも多かれ少なかれそう思っていたんだろ。

山奥暮らしのわたすらがよ、山を下ったところで違う生活なんて

出来ないんだ。

昔から、やってきたことだから、変わることはできねえ。

 

わたすの育った部落と云うのは、あの寺からいうと川に沿って歩くんだ。

だいたい一日掛かって箒沢につく。

箒沢から干上がった方の川の川底を進むと、

岩の切り立った崖が見えるようになって。

おとこたちはその崖を登ってゆくことができるだろうが、

土地のおんなこどもでも難しい。

だから西にまいて行くと、目の前に真っ黒な岩代山が見えるようになる。

その裏には蝙蝠岳があってその名の通り、

夕暮れにはとにかく数なんて数えられないの蝙蝠が飛び立つ。

空をうめつくすように蝙蝠が飛び立つんだ。

やぱりいつ見ても気持ちが悪いよね。

岩代山に登りつくには、深いイモリ沢を越さねばならん。

だから一日目はここいらで野宿だな。

次の朝、蝙蝠が戻ってくる前に出発して、谷を横断して

岩代山をまいて登る。

途中から叢の道から一気に川まで降りる。

土砂崩れの跡のガレ場だから一気に駆け下りる。

そしたら川沿いに歩いて滝が見えたら、滝をまいて崖を登ると

わたすらの落合の部落だ。

 

滝に沿うように六軒の小屋があってちゃんと数えたこと

はないが二〇人ほどもいたんじゃなかろか。

小屋といってもあばら家で、吹けば飛ぶような、みすぼらしい物で。

だがこんな辺鄙なところでも住んでいるにはわけがあって

風向きの影響で、冬でも深い雪に埋もれることもなく

滝は凍りつく事はなかった。

だから水に事欠くことだけはなかった。

山の斜面に雪が積もって通れなくなると、

むしろ風が吹き込むことがなくなって温かい。

小屋はよく潰されたが冬になれば大きな岩の裂け目で暮らした。

あすこは地面の熱があるんでそこで過ごしたぁ。

雪にとざされる間ぁ、ひっそりと過ごすんだ。

おとこたちは猟に出ることもあったが、

下手をすれば帰ってこれねぇこともあって。

 

あと急な斜面に住むことによって、猪や狼が襲ってくることもない。

たまに乱暴な猿たちが襲ってくることがあったが、

たいした食糧があるわけじゃないのですぐに行ってしまう。

 

そんなへんぴなところに住んでいたけど、わたすは他のところを

知らないから別に不自由も感じなかったんだ。

 

数え切れないほどの蝙蝠の群れが日暮れになると山の奥から空に舞い上がる。

その姿はまるで、黒い竜のように見えた。

夏の夕暮れには毎日この光景が見られる。

わたすは子どもの頃からその異様な光景を見ていたので

誰に云われるまでもなく蝙蝠谷と蝙蝠岳には近寄らないようにしていた。

「ところで、さとょぉ」

片目の修験者さまはわたすによく言い聞かせたものだ。

「こうもりたにには行っちゃぁならねぇぞ。

あっこはなぁ、山の神さまがおられるところだかぁよぉ。」

「山の神さま?」

「をぅょ、山の神さまよ。」

「修験者さまは山の神さまを見たことがあるの?」

修験者さまは困った顔をした。

「山の神さまぁ、見たらなんねぇどぉ」

「どうして?」

「決まっておるでしょ、神様というのは人間が見ちゃぁならねえんだ。」

「修験者さまは、結局見たことがないんだな。」

「いいや、実は一度だけ見たことある。」

「どんなお姿をしてるだか・・」

わたすが顔を覗き込むと修験者さまぁ傷で潰れた

左目を指さして、

「ワシは神様を見てしまったから、罰が当たったんだ。」

わたすは、修験者さまに言った。

「だってぇ、こないだぁ、ひとくい熊に襲われたって・・・」

すると修験者さま、怖い顔になって

「兎に角、こうもり谷に入っちゃぁなんね、わかったな!」

とすごく怖い声でいうんで、はいと答えて、逃げるように小屋に帰った。

 

この修験者さまというのが部落のいちばん高いところの祠に

狭い修験堂を作って住まっている。

この人の云うことは部落の者は聞かなくてはいけない。

そんな決まりがあったのか不思議なもんだが、皆、修験者さまの話は

絶対だった。

白髪で薄汚れた白い着物を纏いまじないごとをして、ひとに指図する。

不思議なもので指図されれば、おもしろくもないのだろうが

修験者さまがいうと何故か皆、絶対に聞いてきた。

 

修験者さまの予言は常に当たったから。

あすの天気などは良く当てていた。

はずれることがあると、修験者さまは山の神さまにお祈りをした。

猟の安全と、豊かな山の味覚をもたらさんことを。

部落のほかのものの代わりに「あきなひ」を代行してもくれた。

だからよそ様でしか手に入らないものというのは

修験者さまを通じて手に入れるよりなかった。

 

だが銭には限りがある。

部落のものが皆で使ってしまったらすぐに無くなってしまう。

だから修験者さまが銭を守ってくれていた。

だから皆、修験者さまの云うことを聞いていた。

 

そして修験者さまん腰巾着みたいな男が六蔵。

生まれつきのカタワなもので右足と左足の長さが違うんだかで

ヒョコヒョコと歩く。

だが猟に出るんで、その変な歩き癖を自分で注意しながら

ヒョコヒョコとではあるが素早く歩く。

顔面に大きなアザがあって歳は若いらしいが年寄りのように傴だったため

気持ちが悪かったんで、わたすは嫌っていた。

それだけでなく、実際に銭に汚く、ひとの物を盗むような男で

とにかくカタワで生まれたのを口実に、慇懃に人に迷惑をかけるのが

当たり前だ、とするその態度が我慢ならなかった。

部落中で好くものなどいなかったが、修験者さまが、修験堂の

見張り番として使っていたので、皆、仕方なしに付き合ってやっていた。

そんな六蔵は、部落の間を行ったりきたりしながら、在ること無いことを

修験者さまに伝えていた。

だから修験堂の前というのは立ち止まったりするもんじゃね。

皆、用もなければそそくさと立ち去ったもんだ。

 

修験堂の上の道を森に入ると明るい山道になっていて

そこからふたやまほどは、こどもたちの遊び場だった。

春にはタンポポを狩り、初夏にはキノコを摘み

真夏には谷を渡る風に涼を得て、豊穣の秋にはどんぐりを拾う。

 

さゆりねぇはわたすより二つほど年上なんだが

地黒のわたすとちがって、おかぁみたいな、おんなっぺぃおなごで

わたすもあぁなりてぃ、と思ってもいたけどな。

とにかくわたすにやさしくしてくれた。

 

あと瀧の淵に近い小屋にいたのが

さゆきちゃんで名前のとおり、雪みたいに色が白くて

ちょっとっここいらの顔ではないような、品のいい顔立ちで

奉公先も幾つも決まりかけたが、修験者さまぁ、

「高く売れるなら高く売ったほぅがえぇ。」と口入屋を追い返したほど。

三人でそのあたりでよく遊んだもんだ。

 

そのさきは子供が立ち入れないほど急な坂となり

坂を抜けると岩肌の露出した崖となる。

崖を登りきると明るいブナ林になりやがて栗林となる。

ここで、三股に道が分かれる。

その脇に大きな栗の木がある。

そこを過ぎると蝙蝠谷に急激に下る道になる。

だから、部落の女子供はここより先には入っちゃならなかった。

おとこたちもここより先は、あまり立ち入りたがらなかった。

ここから先は「山の神さま」の世界。

滅多なことで立ち入ってはならない。

-2ページ-

●2 狩猟の季節

 

Alexander Borodin - In the Steppes of Central Asia :

中央アジアの高原にて

http://www.youtube.com/watch?v=vV5uwcXZH6Q&feature=related

 

滅多なことで立ち入ってはならない蝙蝠谷に

おとこたちが入っていく日がある。

短い夏の終わりになると獣達の毛が生え変わる時季がくる。

長くて辛い冬のそなえとして毛皮を準備する季節だから。

毛皮はわたすらの衣服であるので、とても大切なものだ。

そして保存食を作り始める季節でもあるから。

おとこたちは銃を背負って、蝙蝠谷へ分け入っていく。

いのしし狩りの季節。

 

修験者さまは夜どうしご祈?なされて山の神さまに

蝙蝠谷に入る許しを乞うた。

薪を燃やし、狼煙をあげて、粟と酒と川魚の干物をお供えして

一晩中、火を絶やさずに、呪文を唱えて。

 

火薬庫の小屋で準備をするおとこたちの緊張感はすごいもので

網を縫い、罠を作り、火薬の調合をする。

子供心に硫黄とマグネシウムと火薬の調合された臭いがなにか

別なとんでもない世界のものを想像させてくれた。

おとぅは腕のよい猟師だったから。

 

そぅ、おとぅは誰にも負けない腕のよい猟師だったから。

狙った獲物を外したこたぁない。

皆、そういってた。

実際、部落じゃ一番の獲物を獲ってきた。

ウサギや、シカや、キツネや、タヌキや・・

それだけじゃねぇ、カワウソや、モモンガや・・

まだまだ、クマだって・・。

 

おかぁはおとぅに、わたすとさゆりねぇの毛皮をねだった。

勿論、わたすらもおとぅにねだった。

温かな猪の毛皮を、おくれよぃ。

おとぅは、わたすらに約束してくれた。

「腹いっぱい喰わせてやるからよ。毛皮もいっぱい着せてやるからよ。」

 

おとこたちは勇ましい雄叫びを上げると蝙蝠谷へ分け入った。

女子供は待っているだけ。ひたすらおとこたちの帰りを待っているだけ。

これから三日間、おとこたちは山に入る。

そのあいだ、おんなたちは畑仕事をしてる。

 

三日たって、夕暮れになって。

修験者さまぁ先頭にさ、おとこたちが帰ってきた。

イノシシが三頭、ウサギが十羽、シカ二頭、そして大きなクマが一頭。

しかもツキノワだ、のど元に白い毛が月の輪のような模様で生えている。

「この森でいちばん大きくて強い動物がツキノワだ!」

そう教わってきたからな、それをやっつけたおとぅたちが誇らしく思えた。

わたすとさゆりねぇがおかぁの手伝いして山道脇の小さな畑で手伝っていて

おとこたちが帰ってくるのに出くわしたんだから、

それから皆で部落に帰って、驚いた。

 

部落の小屋と云う小屋が壊されて、さゆきちゃんのおかぁが

物凄い傷をつけられて死んでいた。

さゆきちゃんのお爺ぃとお婆ぁは、ツキノワが突然襲ってきて

小屋を次から次に壊してさ、

さゆきちゃんを滝壷に落としていった、っていうんだ。

左目に傷のあるそりゃぁ馬鹿でかい、小屋より大きなツキノワだったそうだ。

猟から帰ったさゆきちゃんのおとぅは泣き出してさ。

そりゃそうだ、部落一番の可愛いじぶんの娘が殺されたんだから。

それだけじゃない、おかぁも殺されてさ、自分の小屋も壊されてさ。

 

それからただでさえみすぼらしい小屋を更にみすぼらしい形で建替えて

その晩はたいまつに火を灯してやりすごした。

それから二日間、喪に服した。

だが、三日目には今度は捌き小屋で、獲物を捌く作業がはじまった。

山のけものたちは、山の神さまからの戴き物であるから感謝せねばならん。

だからよ。

肉片ひとつ、骨のひとかけら、毛の一本、血の一滴にいたるまで

無駄にしちゃぁなんねぇ。

そういわれてきた。

 

だから丁寧に素早く捌くのよ。

特にクマはその肝は山の下から札束を牛で運んで買いに来るそうでな。

手のひらぁは中華人が好きでしかたないんだと。

変わった人たちもいるもんだよな。

肉としちゃぁ、硬いからあんまり美味いもんじゃねぇ。

もっとも美味いところは、おとこたちがもっていってしまうんだろうがな。

わたすのところに廻ってくるは、スジ肉ばかりさ。

 

だが、おとぅはわたすにとても素敵なものをくれた。

おかぁとさゆりねぇにはイノシシの毛皮と白いウサギの毛皮をくれた。

「さとぉ、これをおまえにくれてやるぅ、大事にしな。」

おとぅはツキノワの毛皮をわたすにくれた。

「これを着ておれば、ツキノワも怖れて出てこやぁせんじゃろ」

わたすはうれしかった。

クマの毛皮を着ておるものなど部落にも数人しかおらん。

しかもツキノワといえば、わたすだけだったから。

 

だからだいじにだいじに、仕立てた。

それからずっとぉ、ツキノワの毛皮を着てる。だいじに、だいじに。

-3ページ-

●3 転落

 

Alexander Borodin - Quartet Nocturne,

「夜想曲」

http://www.youtube.com/watch?v=gMDJg8ooejU&feature=fvsr

 

冬んなると、小屋じゃ寒くて辛いから岩の裂け目の洞穴に引っ越す。

引っ越すといっても小屋自体が岩の裂け目の前に建っているから

奥に移るだけのことだが、子ども心にも冬の到来がひしひしと感じられた。

新しい毛皮を着こんで、イノシシやウサギの干し肉をぶら下げて

粟とか稗を詰めたナガモチに入れて。

今年の冬は熊ん脂もあるからな、温かだ。

雪が降ってきて、寒い冷たい季節がくる。

この辺りは洞穴は一家にひとつ、ふたつ持っている家もある。

地べたが温かくて、なんでも昔は火山だった、と修験者さまぁ云ってた。

 

おかぁは子供のわたすが見ても部落一のべっぴんだった。

だから、おとぅもおかぁが可愛くてしかたなかったんだろ。

いまは、さゆりねぇとわたすしかいないが、前にもこどもがいたらしい。

ある歳になると麓の村のあきんどのところへ奉公に出されたらしい。

「いずれはあんたらもね、世界を知るんだよ、これからは」

おかぁはそういい聞かせてくれたん。

外は寒くて辛い季節だったが、いま思えば、幸せな季節だった。

 

だがわたすは六蔵がおとぅにふたりきりで話しているところに

出くわしたことがある。六蔵のヤツはおとぅにしたり顔で上目遣いに見てさ。

「手負いの親クマのことは黙っててやるからょ、さゆりぃ抱かせなぁょ。」

おとぅは断って背を向けると「ええんだか?ここに居られんようになるぞ」と

捨て台詞を吐いたが、おとぅはなんにもいわなかった。

そんなこともあったがたいしたことじゃぁねぇ。

 

うららかな春になれば、もっと幸せになる。

そんな夢を見ながら、やがて雪が解け、氷が溶け、滝を落ちる水の量が

増えて春になった。眼にも眩しいほどの緑が山を覆い始めた。

けど、修験者さまがおとぅの正蔵を呼び出して、

「兵隊」さんになることを告げて。

赤い紙をみんなの前で見せて、部落のものみんなで「万歳!」して。

おとぅの正蔵は、山を降りた。

 

その夜から、修験者さまが、夜、わたすらの小屋に入ってきて、

おかぁを力づくで強引にかわいがって。

その晩から、おかぁは笑わなくなった。

朝も早ぅから畑の仕事をして、おとこたちに紛れて獣の捌きもした。

さゆりねぇとわたすも獣の捌きの仕事をするようになった。

血の臭いが身体の芯にまでつくような仕事さ。

皮を?いで、さっさとやらにゃ脚が速いからな。

臓物が腐る前に肉を削ぎ落としてよ。

これが、部落での生活さ。

 

そして夜は夜で、おかぁは修験者さまに裸で泣かされて。

わたすらのために。わたすらのために。

はよぅ、はよぅ、おとぅ、帰ってきて・・。

兵隊から帰ってきて・・。

 

さゆりねぇと一緒に泣いたもんさ。

しかも六蔵が、さゆりねぇに悪戯しかけて。

さゆりねぇ、泣いてた。

それで、おかぁと相談して修験者さまに裸でお願いして。

麓の村の庄屋に奉公に出たんだけど。

獣の捌きをしてきたような娘に奉公させられねぇ、と。

 

そうじゃない、本当はそぅじゃない。

おかぁが云ってた。戦争に負けたからだって。

戦争に負けたら、おとぅは・・?!

おかぁは連絡ひとつよこさないおとう・・正蔵は

もう戻ってこないかもしれない。

そう思うていたんじゃないか。

 

そんなことがあって、さゆりねぇが戻ってきて二回ほど夏が過ぎて

おとぅ、正蔵が帰ってきた。

汚れてはいるが「兵隊」さんのかっこうしてた。

さゆりねぇとわたすは喜んだ。

これですべては良い方にころがる、おかぁもそう思った、と思う。

 

おとぅの正蔵は、山を降りて、鉄でできた軍艦に乗って、

海を渡り南方のジャングルでアメリカの兵隊を射ちまくって、やっつけて

勲章を貰った、と自慢した。

撃ち殺した相手から奪い取ったアメリカ製のライフル銃を

土産に持って帰ってきた。

「こりゃぁ、力が強いからにぃ、熊ぁでも一撃よォ。」

その夜、おかぁはおとぅに可愛がられたかったが、

おとぅはおかぁを可愛がらなかった。

 

やがておとぅは麓で買った女郎を連れてきた。

おかぁやわたすらのまえで夜な夜なふたりで交わしたので

おかぁはこころを病んでしまって、仕事をしなくなった。

おとぅの正蔵は昼も夜もなく仕事もせずに女郎とまぐわい

飯と銭をおかぁにたかった。

 

さゆりねぇは、泣いておとぅに女郎と別れるように頼んだが

正蔵は・・修験者さまと相談して、さゆりねぇを山の神への

「捧げもの」にした。

「捧げもの」って云ったって・・「いけにえ」には違いない。

「不猟なのは山の神さまが怒っていなさるのよ。

これは若い娘っこを捧げにゃぁならん。」

修験者さまの言葉に、部落の年寄りたちは大きく頷いてさ。

半狂乱になって拒むおかぁは物置小屋に閉じ込められてさ。

わたすは自分の小屋の柱に括りつけられてさ。

さゆりねぇはさ、蝙蝠谷に通づる三股の栗の木に縛られて

山の神さまの捧げものにされた。

 

次の朝ぁ、行っちゃならんって云われても、

三股の栗の木まで飛んで走っていったさ。

そしたら、そしたら・・忘れられないな、あの光景は。

栗の木に縛り付けられたまま、・・やめよう。

狼の群れが通った足跡がたくさんついていた。

 

おかぁは物置小屋に閉じ込められたまま、

泣いて暮らしている間にバカになっちまった。

ある日、わたすに火打石の使い方を教えてやるといって、

持ってこさせて。火の付け方を教えてくれた。

どうやって作ったんだろうな、きれいな巾着袋に入れてくれた。

「これをいつも身につけておくんだよ」と。

火打石を巾着袋に入れてくれてくれた。

 

それがおかぁとの最後だった。

おかぁは夜に自分で火打石で小屋に火をつけ、焼け死んでしまった。

夏は暑く、冬は雪に埋もれて辛いこの山奥の滝淵のこの部落で

わたすらにやさしく「生きるためにすること」を教えてくれたおかぁ。

粟のつくりかたを教えてくれた、おかぁ。

火が付けられれば、人でいられることを教えてくれた、おかぁ。

おんなの「はじめて」は好きなひとに捧げることと教えてくれた、おかぁ。

とにかくひたすらにわたすらを守ってくれた、おかぁ。

 

もう誰もわたすを守ってくれやしない。

当然のように我が物顔でのさばる女郎はわたすに飯の用意をさせるが

わたすに食わせる様なことは、せなかった。

正蔵は、わたすの顔を見ると、「おかぁを思い出す、気色悪い!」と

せっかんした。

すると隣の六蔵が、わたすに悪戯しようとしてふるちんで歩き出す始末。

そんな境遇だから。

わたすは梅雨明けの月のない夜に不猟つづきのいけにえとして

「山の神さまへの捧げもの」にされた。

不猟だと?誰も猟にも出ないで昼夜なく、まぐわっているからよ。

 

正蔵はわたすが縄で縛られるのを見て、泣きもせず。

女郎は厄介払いできたかのように、笑い出す始末。

あぁ、おかぁとさゆりねぇの元に、・・。

修験者さまが縛られたわたすの前で護摩を焚き、部落のもの皆で

捧げものを奉る歌・踊りを繰り広げ、わたすに最後に酒を飲ませた。

まぁだ子供のわたすに酒を飲ませて、酔わせて。

月のない暗い夜、わたすは修験者さまに先導され部落のおとこたちに

囲まれながら蝙蝠岳に通づるブナ林を縛られたまま歩かされ

そして、さゆりねぇが縛られて亡くなった栗の木に辿りついた。

 

あぁ、ここに縛り付けられて、狼に喰われるのか。

正蔵は私を栗の木に縛り上げた。

「おまぁもそのつもりだろうが、ワシもおまぁが我が娘とは思っちゃおらん。

おかぁと姉のもとに行くがいい。」

わたすは正蔵に唾を吐き掛けると、顔面をしたたか殴られた。

「ざまぁみやがれ・・」

六蔵がケタケタと笑うのが癪に障る。

ビッコを引いて歩いていく。

おとこたちは、部落へ戻ってゆく。

 

月のない暗い夜だった。

星は瞬いていたが、秋風が谷を抜けていった。

誰もいなくなったのを見計らって

修験者さまがやってきた。

栗の木に縛られたままのわたすの唇を吸い・・

「このまんま、けものどもにくれてやるのも惜しかろう」

そういうと手に唾を吐き掛けわたすの股座を刺激し

まるでおかぁにしたように、力づくで着物を?いで

わたすの「はじめて」を奪った。

「おまぁの姉のはじめてもいただいたんさ、おまえの家族の女ぁ、

皆いい味しよる」

 

もうこれ以上、なにを失えというのか。

与太者の爺が腰を激しく動かそうとも、耐え難い痛みに貫かれようとも

もうどうでもいいことさ。

あとは狼の餌食になるだけ。

そうおもうと涙も出なかった。

獣のような眼で、わたすを犯し終えると修験者さまぁ鼻歌交じりに

部落に帰っていった。

-4ページ-

●4 遭遇

 

The Rite of Spring - Igor Stravinsky 2/4

http://www.youtube.com/watch?v=NVQnvYy0jes&feature=related

 

わたすは栗の木に縛られたまま。

おんなの「はじめて」を失った血を垂れ流したまま。

月のない暗い闇夜に、ひとりきり。

きっと、狼たちがこの血の匂いをかぎつけてやってくる。

そすれば、わたすは栗の木に縛られたまま、喰われてしまう。

いつかみた、さゆりねぇのように・・。

そんな絶望を夜の闇が。そして長すぎるときが。

わたすは、舌を噛んでみようと試したが、

それすら出来ないほどに夜の森は怖かった。

 

秋の虫たちの鳴き声がパタリと止まって、あたりはなんの音もしなくなった。

ブナの葉っぱがざわざわと揺れて、なにかがこちらに近づいてくるのがわかった。

猪なら、どうする_。

いや、葉っぱは広くで揺れている。

一匹じゃね、いっぱいいる。

やはり狼が・・群れなして・・。

 

朽ち果てたまま立ち枯れた松の木がなにか凄い力で倒された。

狼にあんな力はねぇ・・。

真っ暗な森のなかは、一瞬ざわめいたが、すぐに虫の鳴き声すら停まった。

こんな力があるのは・・熊だ!しかもツキノワに違いない!

わたすはあんまりの恐ろしさに眼を瞑ったが、眼を開けていたときと同じ闇だった。

なにか物凄くくさい臭いがしてさ。

恐る恐る眼をあけると、目の前に大きな眼がふたつ、わたすを見ていた。

あぁ後生だよ、堪忍してくれ、消えてしまうなら消えておくれ!

だが、大きな眼はわたすを覗きこむように見ていてさ。

たのむから、喰うなら、さっさと喰っちまえ!殺すなら、ひとおもいに!

歯を噛みしめて、目を閉じて、そう念じた。

ツキノワよりおおきな獣がわたすを覗き込んでみている。

恐ろしさのあまりすぐに目を閉じた。

必死になってゆっくりともう一度目を開けると、大きな目はもっと増えていた。

いっぱいいる。いったいなんなんだ。

ひょっとして、これが山の神さまなのか。

あまりの怖さに動転して、大声をあげると、わたすを覗き込んだ大きな目の下にある

大きな牙をもった口がひらいて、鼻持ちならない臭いの息を渡すに吹きかけながら

静まり返った森中に響かんとするほどに、谷中に響かんとするほどに大声で叫んだ。

 

うヴヴヴヴぅぅぅぅぅぅーッ!

 

わたすはあまりの恐ろしさに、気を失ってしまったようだ。

ばかでかい、毛むくじゃらの肩の上で激しく揺すられて

わたすは目を覚ました。

八尺、いや一丈ほどあるんじゃねぇか。

陽射しがすでに夕暮れ近いことを教えてくれた。

どこのあたりか見当もつかないような断崖絶壁の途中の

小びろい岩棚で立ち止まると、わたすは軽々と肩から下ろされた。

すると脚を朝顔のつるで編んだような紐で縛られた。

わたすは恐る恐る見上げると、ばかでっかい猿のような、

いつかどこかで聞いたゴリラというのかね、猿というか人というか・・

「あんた・・山の神さまかい?」

ばかでっかいその生き物は、わたすを見て大きな声で吼えた。

 

うヴぅぅうう・・

 

わたすはもう、こうなれば早く殺しておくれ!

さっさと喰えばいい!と喚いていた。

更に興奮気味に喚くわたすに、もっと大きな声で吼えてみせた。

 

うぅぅヴヴヴヴヴヴぅぅぅぅぅうううううッ!

 

すると他の同じ仲間たちであろうでっかい猿のような・・

山の神たちが集まってきた。

わたすを担いできたのが一番でかくて、いちばんえらそうだった。

寄り添うように座るのは乳が大きいからおっかぁなんだろか_。

六尺ほどの大きさのがふたり・・ひとりは夫婦の息子のようだ。

他にも痩せ型の七尺ほどのがいたり、年寄りなんだろうか全身白髪のがいたり

結構な群れだ。皆、二本足で歩いていて、腕が長くて膝よりも下まで伸びていた。

 

どこからか持ち歩いているのか木の実をばらまくと、皆で喰い始めた。

乳の大きなおっかぁはわたすに松の実をくれた。

食べろというのか_?

わたすは与えられた木の実を食べていると、食べ終えた山の神たちは

その場にゴロリと横になった。しばらくすると地響きかと思えるほどの

イビキがした。

わたすは逃げようとして断崖絶壁を覗き込んだが、

日が沈んだ今、降りられそうなほどのものではなかった。

わたすは、山の神さまたちに飼われるのだろうか?

なんのために・・て、そりゃぁ肥えさせてから食べるため・・そう思うと

なぜ与えられた食糧を食べてしまったのか、後悔した。 

 

とうさんの神さまは若い神さまとわたすを連れ立って、山を歩かせた。

どうもわたすの着ているツキノワの毛皮が気になるらしく若い神さまは

わたすの背中をつついて遊ぶんだが、こちらとしちゃ歩きにくくてたまらん。

とうさんの神さまぁ、常に風を気にしろとでもいうようになんどもなんども

指をしゃぶっては風向きを見させた。

そして常に音を立てるのは気をつけろといわんばかりに歩く足音さえ

たてるな、と注意するように怒って見せた。

実際、ものすごいおおきなとうさんの神さまですら、音もなく、

しかもきつい匂いもさせずに近寄ることができる。

わたすはそれが神さまだからできるんだ!と思っていたが

なんども促されるうちに夏の終わりには自然に振舞うことが

出来るようになった。

 

山の神さまたちは、わたすのことばを理解できないようだったが

不思議なもので山の神さまの云おうとしてることが、なぜだか知らんが

わかるんだよ。ことばではなく、こころに話しかけてくるんだな。

これが山の神さまのことばなのかねぇ。

 

だからなんなんだぃ?

そうやってわたすを虐めて、でも最後には喰っちまうんだろ?

どうだい、ひとおもいに喰ってしまえよ!

と大きな音を立てて歩いたときだった。

その音を聞きつけて、イノシシがものすごい速さでわたす目掛けて走ってきた。

猪突猛進とはこのことか_。

わたすはすぐそばにまで迫ったイノシシを恐れた。

だが、音もなく背後に現われたとうさんの神さまはわたすを持ち上げ

走ってくるイノシシをゲンコツいっぱつで倒してしまった。

 

目の前で起こったことがあまりに強烈で、あまりに力強く

わたすは腰を抜かしてしまった。

山の神さまぁ、わたすを助けてくれた?

ぃぃゃぁ、今日の晩飯を仕留めただけの事さ・・。

しかし、強い、きっとツキノワより強い・・。

 

その日の夜は、イノシシの肉を仲間うちで振舞われたが

わたすは生肉を食べることが出来ず、また血を滴らせ生肉にかぶりつく神さま

たちの様子がとても怖いものだったので木の実を砕いて食べたが

いずれはあのイノシシの肉と同じような運命を辿るのだろう

と思うと、吐いた。

 

-5ページ-

 

●5 逃亡

 

Stravinsky - The Rite of Spring - Sacrificial Dance

http://www.youtube.com/watch?v=BiH3vA7q0jo

 

神さまたちは、次々に居場所を変えるが、おそらくは蛇沢の頭をくだった

辺りからけものみちを深い深い谷を降りて行くと崖の途中に大きな洞穴

がある。

わたすは若い神さまに背負われて降りてきて辿りつくことが出来た。

そこは、部落の洞窟なんかと比べ物にならないほど大きくて、温かい・・。

この洞窟には、神様たちが寄ってたかって住んでいるらしい。

冬の間の篭り場なんだろう。

たくさんの木の実や干し肉や食べ物を集めている場所もあって。

神さまの赤ん坊たちもいた。

だから泣き声に気づくのが遅かったんだろ。

 

神さまの赤ん坊とは違う、さめざめとしたシクシクとすすり泣く声がして。

わたすはそれがヒトの泣き声だと思って、泣き声の方を探すと、

ひとりだけ神さまとはなれて泣いているのは・・さゆきちゃん?

声をかけると、さゆきちゃんがわたすの顔を見て抱きついてきた。

「さとちゃん!?」

 

泣き腫らした眼がかつての美少女という趣をなくしていたし、

酷くやつれて頬もこけていたので、別人か?とかおもいながらも

さゆきちゃんは、わたすに泣きながら抱きついてきた。

べそかきながら、さゆきちゃん、ここ数年のことを語りだした。

もう次から次へと喋るから、わたすも収拾つかなくて

だが、まとめていうと。

 

あの日、身体の調子が悪かったさゆきちゃんは

お爺ぃの小屋で寝ていた。

そしたら夕暮れになって左目が傷ついたでかいクマが

部落の小屋を壊して廻って、逃げるまもなくさゆきちゃんの

お爺ぃの小屋も潰されてしまった。

それで滝まで必死に走って逃げたが、クマが走って追ってきて

崖に追い詰められて足を踏み外して落ちてしまった。

 

ところが地面に落ちることなくすんでのところで山の神さまたちに

助けられたのだが、さゆきちゃんは山の神さまの姿を見て恐れ戦いて

しかも来たこともない山の奥のこの穴倉に閉じ込められている、と。

「さとちゃん、逃げよ!」

さゆきちゃんはわたすといっしょに逃げてくれという。

でもここがさ、だいたいどこらあたりかもわからんのに。

「崖を下ってさ、沢に出れば、沢伝いにいけばさ、川に出るよ。

川に出れば川下に行けば・・きっと分かる場所に出るよ!」

おんなの足じゃ無理だよ・・

「でもここにいたら、汚いもの食べさせられて、

最後はこいつらに食べられちゃうんだよ!」

たしかにそうだ。ここらでなんとかせねば。

わたすは、おおきく頷いた。

 

夜中に神さまたちが寝込んだ後、ゆっくりと洞穴から出て崖を降りる。

でっかい壁のような絶壁をゆっくりゆっくりと足場を探しながら降りる。

果てしない地獄の閻魔様の元まで降りてゆくんじゃなかろうか。

ゆっくりと降りる。

真っ暗ななか、余り気持ちのいいもんじゃない。

だが、東の山の稜線が白みかけると更に気が遠くなった。

断崖絶壁のまだ真ん中程度にいて、その下は遥か遠くに霞んで見えていて

おそらくは・・川か何かがあるようで。

陽が昇り空が青く晴れ渡っても、なかなか進まないのでやきもきした。

こんなことでは山の神さまたちにまた捕まってしまう!

焦る気持ちが仇となり、さゆきちゃんとわたすはわずかな足場を踏み外し

転落した。

随分高いのだろう、落ちるまでの時間を感じたほどだ。

あぁこれでおわりだ。

 

次の瞬間背中が強くたたきつけられ、呼吸が出来なくなり

水の中にいることが分かった。

わたすは泳げないのでもがいていると、さゆきちゃんも溺れかけていた。

かなりの急流で流され、わたすは気を失った。

 

気がつくと川辺に流れ着いていて、だがもう夕暮れだった。

わたすは火打石で火を起こして。

焚き火があれば獣たちも襲ってくるまい。

 

それから二日三日歩いた。

川辺を歩いたので水に困ることはなかったが

腹はすいた。

途中で見たこともない滝があり山に入ってけものみちを巻いて歩くと

蝙蝠岳が見えた。

おそらくは・・蝙蝠岳のあちらがわが部落に通づる道があるはずだ。

だが、女だけで蝙蝠谷に入るのはふたりとも怖かった。

だから稲波の頭を通って迂回することにした。

さぁ、あすは部落に着くかもしれない。

そう思うとわたすはなんだか気まずいものを感じた。

 

それがなんだかわからなかったが、なにか悪いことが

起きるんじゃなかろうか。

そもそもわたすは部落に帰ったところで居場所などないんだ。

ところがさゆきちゃんは、そうじゃない。

さゆきちゃん、おっとぅが待ってるだろ。

あぁ、おかぁが亡くなったことは言ってなかった・・。

 

部落に近づくにつれて次第にわたすの脚は遅くなっていったが

さゆきちゃんの脚は速くなっていった。

 

見覚えのある栗の木が見えると、さゆきちゃんは走り出した。

部落へは、あと少しだ。そんな想いがさゆきちゃんを走らせたんだろ。

わたすはさゆきちゃんの跡を追った。

 

「わたすだァーっ、さゆきだぁーっ、助けてぇー」

部落の入り口の祠の前に六蔵が立っていて、さゆきちゃん助けを求めた。

わたすは木陰にとっさの判断でかくれた。

慌てた様子で六蔵が、さゆきちゃんの話を聞くと、修験堂に誘い込んで。

驚いたように飛び出してきた修験者さまと六蔵が、さゆきちゃんに猿轡して。

 

昔、むかしのことだ。

だけれども、いまでも夢に出てくる。

悪い夢だ。

 

縛り上げたさゆきちゃんを肩に担いで六蔵が叢の中を

ひょこひょこ歩いていく。

そのあとを修験者さまがついていって、蝮沢の崖の上で。

修験者さまぁ云った。

「おまぁ一度は死んだ身じゃからょ、

生き返ったら皆ぁ迷惑するじゃろぅが。

聞けばぁ、おまぁ助けたんは、山の神さまよぉ。

神さまの元から逃げてきたおまぁをよ。かくまったらよ。

神さまにわしら楯突くことになろうょ。

だからおまぁには死んでもらうしかないんだにぃ。」

修験者さまぁ、そう云うと六蔵の方に顎を上げた。

 

六蔵は鉈を振りかざして。

あたりは真っ赤な血に染まった。

それから六蔵は蝮沢にさゆきちゃんの骸を投げ捨てた。

笑いながら。

蝮沢にはひとなんか、はいらない。

狐か狸か狼か。

いずれにしろさゆきちゃんの骸は見つかることはなかろう。

 

「さゆきぃの話じゃ、さとも山の神さまの元におるらしい。

妙な事考えんように・・始末する事も考えんとな・・」と。

 

わたすは修験者さまのすぐ後ろの叢で聞いていた。

風下で気配も無く、すぐ後ろで聞いていた。

 

昔、むかしのことだ。

だけれども、いまでも夢に出てくる。

悪い夢だ。

いまでは、そう思うようにしている。

 

わたすは蝙蝠谷まで降りて、泣いた。

さゆきちゃんが惨たらしい殺され方で。

もう帰る場所がないことを。

そしてわたすのいた部落がわたすの命を狙っていることを。

わたすは底なしの絶望のなかで、泣くしかなかった。

声を上げて泣くなんて出来ない。

だれが聞いているかしれないじゃないか。

-6ページ-

 

●6 山に棲む

 

The Rite of Spring - Igor Stravinsky 3/4

http://www.youtube.com/watch?v=fJbWGsSR1Xk&feature=related

 

蝙蝠谷の一番深い森の中で、ひとりで、夜どうし泣いていた。

もうどうしたらいいのかわからない。

帰る場所もない、行く宛てもない。

川に沿ってくだればやがて人の住むまちに出る、とは

聞いたことがあるが、なにが怖いと問われれば、人間が一番怖い。

目の前でさ、さゆきちゃんの殺された後で。

さゆりねぇのことも頭をよぎった、川下のまちの人間だってさ。

なにをするか知れたものでない。

 

途方にくれて、泣くしかないじゃない。

いますぐにでも、狼のむれが襲ってくるかもしれない。

そしたら、さゆりねぇみたいにさ。

ばらばらに裂かれて食い殺されてしまうんだろう。

ここにもしおかぁが出てきたら狐に違いねぇ。

わたすを沼に誘い出してヒルの餌食にするかもしんねぇ。

いちばんいやなのは、いたずら好きの猿どもにいたぶられるのがいやだ。

群れになってわたすを石や棍棒で殴りつけるに違いない。

わたすは、余りの哀しさにやっぱり、座りこんですすり泣くしかなかった。

 

そしたら、とうさんの神さまが、わたすの後ろに音もなく立っていた。

びっくりはしたが、後生だから、食うならひとおもいに食ってくれと願った。

なんにもいわない。厳しい眼をしたまま。

わたすはさゆきちゃんと逃げ出したことをひとの言葉であやまった。

通じもしないのはわかっているけど。

 

とうさんの神さまぁ、わたすに木の実を獲ってくれた。

わたすはおなかすいていたから。

でも、肥えさせてから、喰うんだろ?

と思うと喰えなかったが、見せないように振り返ったように見えたが

とうさんの神さまの目に涙が見えた。暗いなかでも潤った眼が見えた。

そのとき、わたすは思った。

わたすは神さまの言葉はわからない。

神さまもわたすの言葉をわからない。

だが、わかってくれてるのかぇ?

わたすの言葉じゃなくても、わたすのことをわかってくれてるのか?

なにか小さな希望が見えて、必死に神さまにお願いした。

 

わたすがこの山の自然の中で生きてゆくには

山の神さまたちとしか生きてゆくほかない。

戻ったところで、さゆきちゃんみたいに殺されるんだろう。

この大きな大きな山の中でさ、わたすの居場所は山の神さまのところしかない。

わたすを食べないで!

わたすはなんでもする!

ちゃんとはたらくから!

いっしょにいさせてください!

泣いてなんどもなんどもお願いした。

 

すると願いが通じたのかわからなかったがとうさんの神様ぁ

わたすを抱えると仲間の待つ洞穴へ駆け上がっていった。

洞穴につくと神さまの仲間たちが集まっていた。

暗かったが光る眼の数が多かったんで、わかった。

 

それからしばらくしても。

いつまでたっても、わたすを喰うどころか、わたすに食い物を分けてくれた。

その量は、食べきんないほどぉ、部落にいるよりよっぽど贅沢だった。

乳のはった嫁さんの神さまぁ、わたすをとくに大事にしてくれた。

わたすの着ている毛皮が気に入っているのか、良くじゃれてくれた。

若い神さまぁ、わたすのことが気に入らないだか、よく怒る。

でも、わたすが登れない崖など手助けしてくれる。

だからわたすにできること、してあげるんだ。

かぁさんの神さまぁ、肩を揉んであげた。

やっぱり神さまでも肩ぁ凝るんだね。

かぁさんの神さまぁ最初は痛がったけど、すやすや眠ってすまった。

若い神さまの肩を揉んでやると、くすぐったいようで逃げてしまった。

とうさんの神さまぁ・・もうイビキかいて寝てしまった。

 

山の神さまの家族と仲間の神さまたちぃ。

 

初雪が舞い始めた。

もう冬がくるんだねぇ。

 

冷たい空気が吹き込んでくるのを大きな岩で封じて、

家族が身を寄せ合って眠る。

わたすは、とうさんの神さまとかあさんの神さまと若い神さまと身を寄せあって。

わたすは思わずとうさんの神さまを“おとぅ”と呼んだ。

かぁさんの神さまを“おかぁ”と呼んだ。

“おかぁ”は眼に涙を溜めてわたすの毛の無い寒々しい体を抱いてくれた。

“おとぅ”はなにも云わず、いびきをかきはじめた。

若い神さま・・あんたは“ぼんぼ”ょぉ。

 

それから、わたすは神様たちと暮らすようになった。

 

まるで墨で描いたような凍える季節の間、必要もなければ外に出ることも少なくなった。

たまに“おとぅ“たちが外に出ると、ウサギを獲ってきたりもしたが

冬の間は、洞窟の中で静かにしていた。

 

-7ページ-

 

●7 美しい夏の思い出

 

Borodin Symphony No. 2. 1st Mvt.

http://www.youtube.com/watch?v=Z3e6CPLBZWI&feature=related

 

山が緑に包まれる頃。

この山の全てが萌たち、いのちのいぶきを全身に行きわたらせて。

暖かな陽気に心踊らされて地面に顔を出したいのちは

やがてくる雨の季節のもたらす天からの恵みである水を欲して

天へ天へと伸びてゆこうとする。

みずみずしい瓜とか大きく茂る香のよい大葉とか

沢を泳ぐ川魚とか食べるものにも困らない。

夏の美しさは、素晴らしさは、

長くて辛い凍える冬の全てを忘れさせてくれる。

暖かな陽射しと、谷を越える涼しげな風の心地良さよ。

 

雨の時季は山の高い方へと移り住む。

湿気が篭るこの季節、山の神さまたちは全身の毛が生え変わるんだろうか

伸びきった毛が痒いのか、互いに背中を掻きあったりすると

沢山の毛が抜け落ちる。

その様子がわたすには滑稽に思えてさ。

わらっちゃぁいけないと思ったけどさ、笑ってしまうよね。

だからと云うこともないんだろうけど、

雨雲の上に突き出した山の高いところに移り住む。

 

湧き上がる雨雲より高い場所にある夏の棲家は乾燥していて

真夏の蒸し暑さからも逃れられた。

高い山の稜線を吹き抜けるさわやかな風はとても気持ちのよいもので。

 

雲に隠れ、霧と霞に紛れて。

雲の間からこの岩山の頂きに立っていた。

風の向きが変わったところに陽の光が差し込み

やがて霞が晴れて、わたすたちの暮らしている山々が見渡せた。

こんな光景を見れたのは、そのときが初めてだった。

わたすたちより高いところは・・話に聞いていたが、東にふじのやまを

初めて見たのもこのときだ。

それだけじゃない、ずっと足元の下、部落のずっとずっと下に

青い、青い、広い、広い・・あれが海なのか_。

この世はなんと広いものか、と思ったな。

 

わたすはいまここにいる場所こそがいちばんだと思うて。

だってこれこそ山の神さましか見れない世界なのだから。

 

山の神さましか見れない光景・・。

あぁ、あれは不思議な景色だった。

わたすもなんどもというわけではない、二度三度ぐらいしか。

乳のような、濃い霧の中をさまよい歩きながら

雲の中の滴に濡れながら、雲の神さまの腹の音を聞きながらさ。

雲を抜けて山を登りつめると、足元にまるで雲がおおきな河のように

いやぁあれが雲海というんだろうかね、流れてゆくんだよ。

やがて、夕暮れが近くなり傾いたお日さまが、雲の流れを橙色に染めていて。

赤く、黄色く、けぶったような雲流れがゆっくりと流れてゆくんだよ。

 

だがそれだけじゃね。

お日さまが沈んだ後、雲の神さまがさ、雷神様を呼んだんだな。

雲の流れが広い範囲で青白く強烈な光を発して。

足元の雲の中で雷が光っている。連発する雷が光り輝く雲を中から照らす。

雷様が、どどーんと音を響き渡らせてさ、青や赤の稲光を走らせるんだよ。

あちらこちらでさ。

わたすの足元でさ。

風神様より雷神様よりわたすは、高い場所にいるんだ。

あんな物凄い光景は、神さまでなきゃぁ見れないよね。

 

そんな素晴らしい夏が大好きだった。ずっと夏だったらよいのにね。

だが、夏は短い。

短い夏が終わると、もっと短い秋が来て、長い冬が来る。

山に生きるものは皆、そう覚悟している。

だから、夏を謳歌するんだ。

 

夏の終わりに、わたすらは大きなツキノワに出喰わした。

鉄砲で撃たれたのだろう左目を失い化膿していた。

悪いばい菌が入って、悪知恵だけが早くまわる、そんな顔つきだった。

わたすの着ている毛皮が気になったのだろうか。

深い憎しみを込めてわたすを睨みつけた。

そのときわたすは、ひらめいた。

わたすの着ている毛皮ぁ、このツキノワの子供だ、と。

子どもを奪われ、自らも目を奪われ、その憎悪は出喰わすものすべてに

向けられているようだ。

 

雷のような唸り声を上げ大きな鍵爪でわたすを威嚇したが

“おとぅ”がそれより大きな声で叫んでわたすの前に割って入って。

暫く、胃のキリキリと痛むような、胆汁が煮えくりかえるような

睨み合う時間が過ぎて、ツキノワは咆哮をあげ去っていった。

-8ページ-

 

●8 山の神さまの生活

 

Igor Stravinsky: Three Japanese Lyrics (1913)

「日本の3つの抒情詩」

http://www.youtube.com/watch?v=tbn05st7Azs

 

その年は、“おかぁ”がイノシシに襲われて怪我をしてしまったこともあって

わたすらの家族は夏になっても移動することはなかった。

わたすは“おかぁ”の代わりに木の実を獲りに出たが、巧くはいかず

人間のおかぁが教えてくれたように、せまい岩場と岩場の間に

畑を耕して粟をつくった。

粟は丈夫なもので、こんなところでも生えてくれた。

山の神さまたちは、自分で食べ物を育てることはしなかったので

不思議なものをみるようにわたすのすることを眺めていた。

そして、粟団子を作って。

 

“おとぅ”は火を使うことを嫌ったが、わたすは生肉は体が受け付けなかった。

だから風の向きを見ながら火を使うように、わたすに教えた。

居場所を知られることほど危険な事はない。

“おとぅ“はそのことを伝えたかったのだろう。

だが“おとぅ”がいちばん粟団子を気に入ってくれたようだ。

 

わたすは自分の体が小さく神さまたちのように頑丈に出来ていないから。

木の実を食べるにも磨り潰したり、そもそも肉などは噛み切れるほどの

ものじゃなかったんでね。硬い石を研いで磨いてさ、石斧をこさえた。

ヒノキの硬い棒をつけて、イノシシの皮を割いて作った紐で結び付けてさ。

粉をひく臼も作ったんだ。

体ん弱った“おかぁ“も柔らかくしたものは食べられたから。

 

やがて冬が来て、洞穴での生活がはじまった。

ある夜、身を寄せあって寝ていると、“おとぅ”がわたすを違った目で見て。

わたすはなにが起こるのかはわかりきってはいたが

しかし、山の神さまと?

だって“おかぁ”がいるじゃないの?!

わたすは“おかぁ“を見ると、”おかぁ”は哀しい目をしながらも

優しくうなづくじゃないか。

 

“おかぁ”のおんなが終わってしまった。

 

わたすは不思議な思いの中で、おんなになった体で“おとぅ”を迎え入れた。

その冬は洞窟でなんども受け入れ、わたすも求めた。

遅い春がくるころ、わたすは激しい吐き気におそわれて、

やがてわたすの体の中にややが出来たことがわかった。

わたすは、山の神さまの子供をはらんだんだ。

その夏は皆で大事にしてくれた。

“おかぁ”は、わたすの見よう見まねで粟を作ってくれた。

 

やがて秋が来て、わたすは母になった。

双子だった。ひとりはわたすのような体に毛の少ない男の子。

もうひとりは山の神さまのように毛むくじゃらの女の子。

ふたりとも可愛いわたすの子。

 

そして冬が来て、春が来る前に・・。

男の子が、死んでしまった。

暖かくだいじにだいじにしていたのに。

わたすは狂ったように泣き、“おかぁ”は私をやさしくなだめてくれたけども。

わたすはわが子を失った。その哀しみにくれた。

そして“おかぁ”を詰ったりもした。

やがて草木が芽吹く季節に、わたすたちは赤石岳の断崖をくだった

きれいな白い花の咲く岩棚に男の子を弔った。

下界では梅だろうか白い花が咲き、桜が咲き乱れ、

桃が咲き始めているのが見えた。

霧に紛れて、神さまたちはふかぶかと頭を垂れて思い切り泣いた。

“おとぅ”は嗚咽をあげ、“おかぁ”は自分の生んだ子供でもないのに

わたすより大きな声をあげて泣いた。

イノシシの骨とカラスの羽で作った小さな墓標を前に

山の神さまのやりかたで手厚く弔った。

男の子が天にましますように。

 

その後なんども子供を産んだが、次第に“おとぅ”の気持ちが変わっていった。

“おとぅ”は夏のある日に“ぼんぼ”を連れて遠出をした。

三日しても帰ってこない。

四日しても帰ってこない。

そしてさらに何日か経って帰ってきた。

短い秋がはじまると、いつもとちがう蝙蝠谷の北の絶壁の洞窟に連れて行った。

そこには仲間たちもいて大きな洞窟だった。

しかも奥が深くて、奥に行けば行くほど温かく、いや暑くなるほどだった。

真っ暗な細い岩と岩の間をゆくと大きな広い場所があって、

そこは光るコケが生えていて薄ら明るかった。

だから・・高い高い天井が見えたんだが、天井いっぱいにコウモリがいた。

そこは・・温泉が湧いていて・・とても温かい場所だった。

これならわたすのような体の毛の少ないものでも寒さで死ぬような事はない。

毛の薄い子供たちもここでなら冬を越せる・・。

わたすは“おとぅ”に感謝した。

“おかぁ”に抱きついた。

子どもたちに頬ずりした。

 

その洞窟は、ヒカリゴケの他に、青白く光るおおきなキノコも生えていた。

試しにわたすが食べてみたが、死ぬことは無かった。

むしろ冬場の食糧には、よかった。

だがこれを食べつづけると、毛が青白く光るこどもが出てきた。

 

※ストラヴィンスキー「日本の3つの抒情詩」

1. 山部赤人

 わが背子(せこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば

 (万葉集)

 あなたにお見せしようと思った梅の花、どれがその花か見分けがつきません。

 雪が積もっているので。

 

2. 源当純

 谷風に とくる氷の ひまごとに うち出づる浪や 春の初花

 (古今集)

 谷風が吹いて解けた氷の隙間ごとから波が現れます。この波こそ、春の初花です。

 

3. 紀貫之

 桜花 咲きにけらしな あしひきの 山のかひより 見ゆる白雲

 (古今集)

 桜が咲いたようです。山あいから見える白い雲は桜の花でしょう。

 

「春の祭典」と同時期に書かれた小品。日本版「春の祭典」とでもいうのでしょうか。

幽玄な春の到来を感じさせる楽曲です。ここでは山の神さまの性、季節、宗教などを

モチーフに選びました。

 

-9ページ-

 

●9 衝突

 

The Rite of Spring - Igor Stravinsky 4/4

http://www.youtube.com/watch?v=g5Vl0X3AWtU&feature=related

 

あれは、秋が深まり“おとぅ”と“ぼんぼ”と、わたすが

蝙蝠谷の洞窟に貯める冬場の食糧を探しに明るいブナの林を

歩いていたときだった。

大家族となったため貯めこむ食糧も多く必要になった。

そのころにはわたすも雲の様子がわかるようになっていたから。

季節はずれの生温かな風が、秋の嵐の予感を運んできた。

夕暮れが近づき棲家に戻ろうとしたとき。

いつも目印にしていた大きな栗の木に、大きな爪跡が付けられていた。

“おとぅ”はすぐ近くに新しい糞をみつけて、

いつかの左目に傷を負った手負いのツキノワが潜んでいるのを感じ取って

周りを注意深く見渡した。

 

ツキノワは、冬眠をする前に寒さに耐えるために脂肪を増やす。

手当たり次第になんでも口にする厄介な季節。

鉢合わせれば、互いにそのままでは通り過ぎることはできまい。

林は色づき森は豊穣の季節を迎えていたが、出逢ったが最後という

血生臭い季節でもあった。

 

わたすらは山のものが互いに出くわさぬのを一番賢いみちとして暮らしてきた。

だが、あの手負いのツキノワは違う。

だが、わたすのそうした考えは誤りだった。

二本足で歩くものの肉の味に、味をしめたに違いない。

しかもあの左目の傷は、おそらくは部落の人間に撃たれた痕だろう。

部落の人間と、わたすらとツキノワに見境いなどあるわけはなかろう。

 

ツキノワは、すでにわたすらを誘い込むように目立つところに爪跡を残し

匂いを付けて回っていた。注意すれば注意するほど。

わたすらはツキノワの罠に深く深くはまっていった。

蝙蝠谷の西の断崖に続く急斜面に誘い込まれていた。

そんなことに、気付くのが遅かった。

“おとぅ”はわたすと“ぼんぼ”に注意を怠らぬように厳しく静かに呻くと

気配を感じ取ろうと聞き耳を立てていた。

 

山から吹き降ろす風がブナの黄色く染まった葉っぱを揺らす。

それが止まった瞬間。

虫たちのこえも、鳥たちのこえも、なにも聞こえなくなった瞬間。

風下の岩陰に息を潜めて隠れていた巨大な手負いのツキノワが

“おとう”目掛けて巨大な爪を振り下ろした。

胸をえぐられるような傷を負いながら“おとぅ”はツキノワに掴みかかった。

 

“おとぅ”とツキノワの巨大な体がぶつかり、取っ組み合い、足を払って

岩盤が剥き出しになった坂を転げ落ちてゆき、わたすと“ぼんぼ“は追いかけた。

ツキノワは“おとぅ”の首筋に噛み付こうと鋭い牙を剥いた。

大きなガタイがぶつかるたびに地響きがして。

“おとぅ”はツキノワの大きな牙を握り締め、力づくでもぎ取ったが

同時に、なんども大きな鍵爪で全身を傷つけられた。

満身創痍の“おとぅ”は牙を失いひるんだツキノワの腹の下に潜り込み

思い切りツキノワを崖の下に投げ飛ばした。

 

大きなツキノワの体が地面に叩きつけられて。

地震がきた、と思へるほど。

頭を強か打ちつけられてふらふらと立ち上がろうとするが

ツキノワは立ち上がれないほどになっていて、仰向けに倒れこんだ。

間髪入れず、わたすは全身の力を振り絞ってツキノワの右腕を押さえつけた。

鋭い巨大な爪に注意しながら、なんども突き飛ばされそうになりながら

右腕を地面に押さえつけた。

“ぼんぼ”もツキノワの左腕に圧し掛かり、

“おとぅ”が太い棒をツキノワの口に押し込むと

胸にどすっと座り込んで、頚をしめた。

傷だらけの体で、だが力を振り絞ってツキノワの頚を絞めた。

さすがに鶏を絞めるのとは訳が違う。

ツキノワの激しい力を三人掛かりで封じ込めて、ツキノワを仕留めた。

でかいツキノワが、全身の力が抜けて、息絶えた。

“ぼんぼ”も力を使い果たしたか、その場で寝転んだ。

“おとぅ”も傷だらけの体でツキノワの体の上に寝転んだ。

 

すると、わたすは久しぶりに笑いがこみ上げてきて。

“ぼんぼ”は、つられて笑った。

“おとぅ”は、最初、馴染めない態度をとったが、そうしている自分の姿が

滑稽に思ったのが笑った。

山の神さまたちも笑った。そう思うと、わたすは嬉しくなった。

山の神さまたちと暮らすようになって、どのくらいの月日が経ったか定かではないが

「家族」となり、こどもたちを儲け、だが心から笑ったことなんてなかったから。

厳しい山の暮らしで笑う余裕がなかったから。でも、いま、こうして笑っている。

なんか、すごく満ち足りた気分になった。

さぁ、“おかぁ”とこどもたちを呼んできて、ツキノワを捌かねばな。

体が大きいから苦労するだろうが。

わたすは新しい毛皮が手に入ることを喜んだ。

こどもたちに着せてやろう、そんな思いでいっぱいになった。

陽は沈み、冷ややかな心地よい風が岩肌の間を抜けてゆく。

やがて、夜になった。

 

ぱあぁん!

 

と、乾いた鋭い音が岩肌に響いて、鳥たちが空に羽ばたいた。

わたすを護るように“おとぅ”は背後に立っていたが

ぅぅぅをぉぉぉぉっ

と力無く呻くと脇腹を押さえて、吹き出す血を止めようとした。

 

風向きが変わり、乾いた匂いが周りにひろがった。

いつか嗅いだ火薬の匂い。

 

“おとぅ”は、わたすの顔を見て優しく笑ってみせて、しかし。

辛そうな耐え難い痛みに耐えながら、ひきつりながら笑ってみせて、だけんど。

“おとぅ”は、もう長くはないのを悟ったようだった。

脇腹をおさえながら膝をつき呻く“おとぅ”に駆け寄るわたすに

忘れかけていたひとの言葉が飛び込んできた。

 

「お、おめぇは・・さと・・さとなのかぁーっ?!」

 

猟銃を持った狩人がわたすの名を呼んだ。

わたすは久しぶりのひとの言葉が、正蔵のものだとわかった。

正蔵が、手負いの熊を追って、間違えて“おとぅ”を撃ったんだ!

ふりむくと脅えたように震えながら猟銃を構えた正蔵が、わたすに銃口を向けていた。

わたすに湧き上がるのは郷愁でも、懐かしさでもなんでもない。

正蔵への恨みなんかじゃない。

わたすの「家族」を傷付けたものに対する激しい怒りだった。

 

「正蔵ぉーッ!」

多分、わたすはそう叫んだ!

この世に生けとし生けるもの、互いに無用な殺生はしちゃなんね。

だが、この山で生きるものどおし、命を賭けた闘いともなればそうもいっちゃいられね。

たとえ、その昔、親だったとしても。

動転して放たれた跳弾をかわし、正蔵には思いもよらないような速さで駆け寄り、

“おとぅ”に倣ったように、一気に息の根を止めるように、正蔵の喉元に喰らいついた。

「さとぉ・・」

真っ赤な血が吹き出し泡を立てて、わたすへの驚きだろうか。

それとも蔑んだような目をしながら、命乞いをしているのだろうか。

くふふふふふと、血泡を噴いて、倒れた。

わたすは正蔵の倒れてゆく姿を、ゆっくりと観ていた。

「さと!さとが・・正蔵を殺した!」

六蔵の声が谷に響き渡り、部落へ逃げ帰っていくような足音を聞いた。

 

わたすは、怒りに震えていた!

わたすの「家族」を傷つけたものに対する怒りの炎は胸を焦がした!

わたすは、「家族」や、なかまたち、こどもたちに声をあげて知らせた!

 

ううヴぅぅぅぅぅーっ!うヴヴヴうぅぅぅーッ!

 

六蔵を殺してしまえ!

生かしておくとまた「家族」が襲われる!

いいや、二度と「家族」が襲われないように・・!

もう全てを殺して、焼き尽くしてしまえ!

皆殺しだ!

二度と愚かな殺し合いが起きないように!

わたすの怒りの咆哮は家族や仲間達にもすぐに受け入れられた。

 

ううヴぅぅぅぅぅーっ!うヴヴヴうぅぅぅーッ!

 

ブナの葉っぱがざわざわと鳴り、山裾を流れる風は更に強くなり

その風より早く、私の「家族」は、六蔵を追って、部落に辿りつくと

部落のものに片っ端から襲い掛かった。

男たちにも女たちにも。子どもたちにも。

慇懃な風習を続けて生き続けてきた年寄りたちにも。

 

わたすは火打石で火をつけると、瞬く間に風に乗って火はひろがった。

簡単な作りの掘っ立て小屋みたいな部落だったから、すぐに燃え広がった。

赤ん坊ひとり残すんじゃないよ。

可愛そうだからね・・。

 

わたすは火の中を修験堂に向かって逃げる六蔵を追った。

昔のまんま、ひょこひょこ歩く癖は変わっちゃいない。

わたすは音もなく背後から六蔵に近寄り蹴り倒すと

六蔵の顔面を蹴り上げ、六蔵の頭を石斧で叩き潰した。

さゆきちゃんの頭ぁ、とおんなじように。

六蔵の頭はざっくりと割れた。

 

修験堂も火に包まれていた。

年老いた修験者さまがヨロヨロ逃げてきた。

わたすの顔を見ると、叫びよった。

「さとぉ・・さとょぃ・・なんて事ぉしたんだぁ!」

いけにえに出す前に娘っこたちを犯すときのような

気の触れたような狂いっぷりで、わたすのほうを血眼で見てわめいた。

すべてこの修験者さまが悪りぃ、すべてこん修験者さまが。

 

わたすは修験者さまの後ろ側に素早く回り込んで

背後に押し倒して両手の指で眼を突き潰してやった。

顔を抑えて暴れる修験者さまぁ、ふんどしから悪いむすこが

はみだしよって、二度と悪さできねえぇよぅに、叩き斬ってやった。

修験者さまぁ、男のくせにおおきな声で泣きわめいた。

それで十分だ。

 

火に包まれて焼け死ぬもよし。

流した血を求めて集まる狼に喰われるもよし。

足を滑らせ谷底に堕ちて死ぬもよし。

 

うヴぅぅぅぅ、うヴヴヴヴぅぅぅぅ

 

山に帰るぞ!というなかま達の声が聞こえたので

森に入った。

小高い見晴らしのいい崖の上で、振り返ると

炎に包まれた部落が焼け落ちてゆくのが見えた。

漆黒の闇の中で、部落が燃えてゆく。

嘗てわたす自身が生まれ育った部落が。

大人のエゴとまぐわいだけの爛れた記憶しか残らない部落_。

そこに住むもの全ての命を奪ったいま、去来するものがあるのだろうと

期待したが、実のところ、なにも無かった。

 

わたすはそのときはじめて思った。

わたすはひとでなしになっちまった、と。

ひとでない、山の神さまになっちまった、と。

それは、必ずしも哀しいことではなく、

かといって嬉しい事でもないように思えて。

気持ちが混乱したわたすは、谷全体に響くような大きな声で叫んだ。

 

うーヴヴヴヴヴヴヴううううぅぅぅぅぅーッ!

 

その声は谷のいきものたちが、いっせいに息を潜めるほど、哀しく響いた。

-10ページ-

 

●10 此処より永久に

 

Alexander Borodin - Polovetsian Dances

(「イーゴリ公」から「ダッタン人の踊りと合唱」)

http://www.youtube.com/watch?v=ChoRfYn5qP4

 

“おとぅ”は、正蔵の放った弾が当たって以来、

大きな体を引きづるようにして弱々しく歩くようになった。

ほぼ毎晩、洞穴の奥にある温泉に浸かるようにもなったが

傷が癒えることはなく、日に日に悪化していった。

冷たい風が峰を越えて吹き降ろしてくるころになると身動きするのも辛くなった。

寒さに弱い子どもたちにツキノワの毛皮を着せてあげて

肝油をしみこませた地海苔に火をつけて暖をとった。

洞窟の奥の温泉の熱気と湿気で温かなことが分かった。

だが家族が増えた分、そして働き者の“おとぅ”が怪我した分

蓄えた食糧は、むしろいつもの冬より少なかった。

 

初めての雪がちらついた夜、“おとぅ”と“おかぁ”は見つめあい、抱き合い、

睦みあって、泣き出した。

“おとぅ”は泣きじゃくる“おかぁ”を優しく抱いた。

すると“おかぁ”は、一晩中、しくしくと泣いた。

 

次の朝、洞窟の外は一面の雪に覆われていた。

“ぼんぼ”とわたすは、吹き上がる冷たい風を土壁を作って遮って

しかし細い通路を戻ってくると、寒さはなかった。

“おかぁ”はわたすに抱きつき、“ぼんぼ”に抱きついて泣いた。

そして、毅然とした表情で、まだ幼い子どもたちにも伝えた。

“おとぅ”が亡くなったことを。

 

“ぼんぼ”が新しい“おとぅ”となり、わたすが新しい“おかぁ”となることを。

“おかぁ”はこれからは乳母となるのだそうだ。

そして時が来れば、家族と離れて、仲間と離れて暮らしたい、と伝えた。

わたすは“おかぁ”にいつまでも、いっしょに暮らしてほしい、と思ったが

“おかぁ”は、それについては目を閉じて答えてくれなかった。

 

そしてその夜、仲間たちも集って“おとぅ”の死を悼んだ。

ひと冬をかけて、“おとぅ”の体を皆で分け、糧とした。

“ぼんぼ”は泣きながら“おとぅ”を噛み締め、わたすと交わした。

 

深い雪がものすごい音を立てて崩れてゆくのを感じながら

やがて食糧も無くなり、哀しいことだが二人の子どもが亡くなった。

だが、その頃のわたすはすでに以前の“おとぅ”や“おかぁ”のような考えが

出来るようになっていた。

厳しい自然のなかで生きてゆけないものも多い。

その辛さに耐えられない者は、出来れば早くに生まれ変わればいい。

と。

 

春になり、亡くなった子どもたちの亡骸を鄭重に弔いに表に出ると

仲間たちの住んでいた蝙蝠谷の洞窟の中で、大半のものが亡くなっていた。

いつもより寒い冬だったから、皆、耐え切れずに洞窟の中で死んでしまった。

残されたのはわたすたちの家族とあと僅かな仲間たちだった。

これから冬は皆で洞窟の奥に温泉のある“我家”で暮らすことにした。

 

やがて、冬の棲家を離れるときが来て、わたすは“おとぅ”となった“ぼんぼ”の

子どもを宿したことに気づき、新しい“おとぅ”は私を大事にしてくれた。

峰をまいて崖を下ったところにある夏の棲家に引っ越す間に

“おかぁ”は誰にも何も告げずに、居なくなった。

新しい“おとぅ”は、泣きじゃくる私を抱きながら優しく諭してくれた。

 

それから何度辛い冬を越し、美しい夏を過ごしたことか。

 

こどもたち。

わたすのことばを話すこどもたち。

山の神さまのことばも話せる新たなこどもたち。

わたすより毛が濃くて冬の寒さにも強い。

 

わたすは、この子たちとここで暮らす。

子どもたちはこの温かな洞窟ですくすくと育っていく。

わたすももういい歳だ。

“おとぅ”たちのようには暮らせないかもしれないが

神さまたちに教わったように、家族を大事にしながら

互いに愛を育みながら生きてゆくんだ。

雲に隠れ、霧と霞に紛れて。

これからも、ずっと、ずっと_。

 

わたすらは山の神さまなのだから。

-11ページ-

 

エンド・クレジット

 

この文章は完全なフィクションです。

不肖・平岩この書き物を書くにあたり以下の方の作品に

多大な影響を受けまた感謝の意を表したいと思います。

 

健忘真実(作家)

 

本多猪四郎 (映画監督)

村田 武雄 (脚本家)

橋田壽賀子(脚本家)

木村大作 (映画監督・撮影監督)

深田久弥(作家)

五社英雄(映画監督)

 

アレクサンドル・ボロディン(音楽家)

イゴール・ストラヴィンスキー(音楽家)

 

ピーター・ジャクソン(映画監督)

円谷英二(特技監督)

 

説明
「獣人雪男」といえばですよ。あの御禁制の幻の映画で。
本当はこの”幻の”東宝特撮映画のタイトルを使うのが
申し訳ないというか、名前だけで出落ちなんですけど
他に良いタイトルの映画もなかったし、
「美女液」に続く東宝特撮映画へのリスペクトということ
もありまして。
拙作「地底王国」の”姉妹編”になります。

前回がラブクラフトとでしたがね、
今回は不肖・平岩meets橋田壽賀子!
というなんとも怖ろしい取り合わせw
もうね<おんなの一代記>ですから。シンドイです。
さらに巨獣と巨獣が!父と子が!戦いと確執が怒涛のように迫る
東映映画並みのテンション高さが・・再現できたか?!

今回TINAMIさんに移行するにあたり
「獣人雪男」から改題いたします。

長編にsoundtrackを指定してみました。
なんか妙にロシア、中央アジアな匂いを感じてしまって
ストラヴィンスキーとボロディンの曲を取り上げてみました。
お試しくだされ♪章のヘッドラインからyoutubeのURLで
探してみてくだされ
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
1572 1568 0
タグ
獣人雪男 山の神さまサーガ 東宝特撮 雪男 

平岩隆さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。


携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com