うそつきはどろぼうのはじまり 42
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今まで何も知らずに育てていたのだろう。初めて出会った花の名を、少女は何度も反芻する。

「プリン、セシア・・・」

エリーゼは口元を緩めた。

「素敵な名前・・・」

「俺にこの花の名を教えてくれた人の両親は、当時まだ幼かったその人の成長を願って、プリンセシアを庭先に植えたのだそうだ。吹雪の止むことのない、北の山奥で。暖かな気候を好む植物に、精霊術を施してまでして。俺はその人から、そう聞いたことがある」

運び屋は眉を顰めた。説明の途中から、ぱちんぱちんと、鋏を使う音が加わったのだ。先ほどからしゃがみ込み、一体彼女は何をしているのかと足元を見やった男の鼻先に、花束が突きつけられる。

「はい」

腕一杯にプリンセシアを抱えた少女が、甘い香りの中でふわりと微笑む。

「今日の記念に、ぜひ、お持ちくださいませ」

流石の男もこれは固辞した。とてもではないが受け取れない。この花に纏わる思い出は重すぎて、とても過ぎたこととして流し去れたものではない。

一向に手を伸ばそうとしない男を見て、少女はふいに目を細めた。

「お話のその人は、あなたの大切な方、ですね?」

男は一瞬目を伏せ、そして頷いた。

「ええ。世界で一番大事な人でした。かつて共に旅をし、背中を預けた仲間でもあります。できることなら、俺の手で幸せにしてやりたかった・・・」

受け取った花束を、男は掻き抱く。

夕暮れの迫った庭が、橙から赤に染まる。西の空に太陽が沈み、群青色の闇に一番星が瞬き始める。

「あのっ・・・」

思わず呼びかけたその声すら攫うように風が吹き、幾つかの花が花弁を散らした。エリーゼは具風に乱された髪を撫で付ける。遠くから、雷鳴のような轟きが聞こえた。

呼びかけに応じ現れたワイバーンの背に、男は速やかに跨る。高い背から庭を見下ろすと、食い入るようにこちらを見つめる瞳と目があった。

男は、その緑の瞳に問うた。

「あなたは今、幸せですか?」

少女は一瞬口を噤み、やがて頬を薔薇色に染めて、はっきりと言った。

「はい」

答えを聞いた男は、どこか満足したような笑みを彼女に向けた。

「その答えが聞けて、良かった」

出立だ、と男は手元の手綱を引く。ワイバーンが再び羽ばたきを始める。巻き起こる烈風に負けじと、男はやや大きめの声でいとまごいを告げた。

「従兄弟のバランは変わり者だが良い奴だ。どうか末永く、お幸せに。――お別れだ、ルタスさん」

「さようなら、アル・・・フレド、様」

ぐんぐん高度を増すワイバーンの背で聞いた少女の声は、随分途切れ途切れだった。彼は無意識のうちに嫌がっていたのかもしれない。彼女からアルフレドと呼ばれることを、多分、嫌悪していた。

(どうして・・・)

アル、と呼んで構わないと言ったではないか。二人だけの旅路の始まりで、自分もエリーと呼ぶからと、互いに呼び合う名を決めたはずだ。なのにどうして、よりにもよって捨てた名で呼ぶのだろうか。

(本当に、いなくなっちまったんだな)

アルと呼んでくれた少女はいない。共に旅をし、世界の理を変えた体験を共有した少女とは、二度と巡り会えない。世界はとても広いけれど、どこを探しても絶対に見つからない。

出立間際の男の質問に、エリーゼは肯定した。照れに頬を染め、はにかみながらも幸せだと頷いた。

(わたし、今すぐ幸せになりたい)

あの夜、涙目で訴えてきた少女を男は抱いた。少しでも幸せにしてやりたくて、自分の手で喜びを与えてやりたくて、精一杯の労わりをもって彼女を抱いた。

それももう、男一人だけの思い出だ。彼女と共有する未来は永遠にやってこない。

いつだってそうだった。本当に大切なものは決して目に映らず、失って初めて気づく。

男の過去は嘘で塗り固められていた。他人にも自分にも嘘をつき続けて、逃げることばかりが上手になった。利害を超えて寄せてくれた愛情も、信頼も、受け入れることができずに走り去った。

遠い遠い、遥かなる土地リーゼ・マクシアで、周りには自分を庇護してくれる人や、逃げる以外の道を示してくれる人は誰もいなくて、彼は真の孤独を知り、真の寂しさを悟った。

産みの親にさえ裏切られ、深い絶望のふちを覗き込んだら、自分の顔の部分が真っ黒に塗り潰されていた。その風貌に驚く前に、そうなってしまった自分が悲かった。変わり果てた姿は、それまで当主の息子として育ってきた自分からは、想像もつかないほど鋭利で凄惨だった。

思わず怖気づいた。

それが今の自分だと頭ではわかっていても、悲しかった。悲しくて悲しくて、涙した。

たった一人、やがてアルヴィンと呼ばれるようになった少年は、声を殺して泣いた。

ぽつぽつと、茶色の外套に染みが落ちた。一粒、二粒と数えるうちに雨粒はみるみる数を増し、空の配達人の上に降り注いだ。

(ああ、雨が――)

思わず天を仰いだ男の手の中で、花びらが零れ出す。どしゃぶりの雨に晒されたプリンセシアは、その幾重にも包まれた重い花卉を支えきれなかった。大粒の雨に容赦なく打たれ、薄紅の切片を散らした。

それは、まるで思い出が霧散するようだった。

花びらがひとひら、虚空に吸い込まれる度に、男の中で少女の笑顔が一つ消えた。

(アル)

優しい声。優しい瞳。優しい言葉。

(アル)

不安に怯え、揺れる双眸。からかいすぎて、頬を膨らませた回数は数え切れない。そして男を認めるなり、輝くばかりの笑顔で駆け寄ってきた少女。

(アル)

思い返せば、出会った頃からそうだった気がする。

自分が落ち込んでいる時や悲しい時、悩んでいる時。気づけば彼女が横に立っていた。触れるわけでもなく、人としての温かみが感じられる絶妙な位置に、エリーゼの姿は常にあった。

自分はそんな彼女に、何もしなかった。何も出来なかった。やったことといえば、言われるがままに彼女を連れ出し、本心を殺して彼女の婚約を祝い、挙句、かけがえのない記憶を失わせてしまった。

(俺の、せいだ)

あんなにも、信頼を寄せてくれていたのに。一度として見返りを求めず、ただただ孤独な男の側にいてくれたというのに、いようとしてくれていたのに、自分は一体、彼女に何をした。

自分を偽って、彼女は既に婚約の身だからと職務に忠実であろうとして、でも彼女を自分の物にしたくて。

矛盾にもがき、苦しんで、なけなしの勇気をはたいた彼女に迫られてようやく手を取ることができて、そしてその手を放した。

本当は自分から手を伸ばすべきだったのだ。伸ばせば届く距離にあるうちに、手中に収めておくべきだった。

だがアルヴィンは、不幸なことに逃げる術しか知らなかった。だから最愛の人に迫られるまで、受身にならざるを得なかった。

幼い頃、異世界に放り出された彼に生きる術を叩き込んだ人は、彼に逃げる危険性を知らせなかった。アルヴィンには最初から逃げる道しか提示されていなかった。

彼は逃げた。父の死から逃げ、叔父と不貞を働いた母から逃げ、寄せられる信頼から逃げた。

逃げざるを得なかったと言うのは簡単だ。でもそれは所詮、言い訳だ。指の隙間から零れていったものに、こんなにも心残りがあるのに言い訳をして何になる。

男は自分の胸倉を掴んだ。服は既に雨でじっとりと重い。きつく握り締めた生地から、水が滴り落ちる。

前かがみになってアルヴィンは喘いだ。苦しくて息が思うように出来ない。あまりにも胸が痛くて、身を起こしていられない。

どうしてあの時、手を繋がなかったのだろう。握った手を離してしまったんだろう。

あの日、あの時。あの夜の褥の中で、そっと繋いだ手を、絡められた指を解かなかったら、きっと今とは違う未来が訪れていたに違いないのに。

御者の案じて、ワイバーンが鼻を鳴らす。手綱を握っていた手が緩む。もはや葉と茎だけと化していたプリンセシアが、男の膝からずりおち、そのまま落下していった。

(エリー・・・ごめん・・・)

生まれて初めて後悔に苛まれた男に、雨はただただ降り続けた。

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