迷宮四
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「ミグネの迷宮、ね」

 ゼロは呟く。小躯の殺し屋は焚火を前に腰を下ろし、殺した獣の肉を炙っているところだ。炎に照らされた特徴の無い顔、その片頬には皮肉の笑みが浮かんでいる。端から信用していないのは明らかだった。

「只の伝説、だと思っていたが」

「多くの伝説には、一片の真実が含まれているものよ」

 したり顔で告げるのは長身の女。緑の布を頭に、今一つの布切れを左の手首に巻いている。守りは軽鎧、得物は背に携えた長大の弓。名はアレクサ・レイ、通り名はレクス。

「ある程度まで時間を溯れば、伝説は歴史と見分けがつかなくなる。尤もミグネの伝説は、それ程古い出来事ではないと思ったけれど」

「およそ二百年前さ」

 頭上の声が言った。シックは焚火の真上に伸びた太い枝にうつ伏せに横たわり、長い手足をだらりと下げている。指先では鋭い爪が凶悪な光を放ち、背は不気味な青灰色の鱗に覆われている。

「場所は知られちゃいないが、時代はドーギス公の崩御と同時期だ。二百年前、大昔だぜ。なんせ俺が生まれる前だからな」

「伝説だな」とゼロ。「で、あんたはそれが歴史だと――実際の出来事だと、そう言いたい訳だ」

 語りの主に目を転じる。ゼロと焚火を挟み、女は膝を抱えて炎を見つめている。白い長衣姿。目深のフードが顔を隠し、表情は読み取れない。

 ――峠の街道、深い森への入口。民家はおろか人の気配すら無く、明りといえば揺らぐ炎と星の灯火のみ。薪の爆ぜる音に重なり、レクスの馬の草を食む音が闇に木霊する。

 キウの街への途中で日が暮れ、ゼロとシック、レクスとその乗馬は野宿を余儀無くされた。シックが捉え絞め殺した獣をゼロが捌き、レクスの熾した火で調理していた時、女がゆらりと現れた。旅の途中、やはり陽が沈んで戸惑っていたと言う。

 女は故郷も、旅の目的も、己の名すらも語ろうとはせず、代わりに口にしたのは噂のみに伝わる幻の迷宮の話だった。

「ミグネの迷宮は実在します」と女。

「信じられんな」ゼロは一笑に付した。「方々で噂を聞いちゃいるが、その場所を知る者にはお目に掛かった事が無い。迷宮ってからには広いんだろうぜ、その場所が知られていないって事は、そんな場所は存在しないって事さ」

「知られていないのは、その大半が地下にあるからです。入口は土食虫すら近寄らぬ洞窟の奥深く、迷宮本体は山の中腹に埋もれています」

「……まるで場所を知っている様な口振りね」

 レクスの表情が強張る。それは女の返答を予測していた為だ。

「知っています」

 ゼロが身を乗り出す。「何処だ」

「遠くはありません」と女。「お望みならばご案内しますが、それには条件があります」

「財宝か」ゼロはにやりとした。「いいだろう。分け前ならやるさ。この場に四人、四等分で良いだろ」

「俺が人間のお宝なんぞ欲しがるかよ」頭上の声が嘲笑った。「それより聞かせろよ。その女、妙に詳しいじゃないか。誰も知らない筈の、ミグネの四つの迷宮の話にな」

 枝から身軽に跳び降りる。一回転して大地に伏せ、シックはぐいと首を伸ばして女に笑いかけた。

「どうせ夜明けまでは動けまい。聞かせろよ。あんたの素性、目的、ミグネとの関係。全てをな」

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 焼き上がった肉片を手に、ゼロとレクスは炎を挟んで女と向き合う位置に腰を下ろしている。既に食事を終えていた――生肉と腸を食らった――シックは、快適な泥を見つけてその場に陣取った。

「私の故郷はこの道の先、名も無い小さな村です。魔道師ミグネもその村の住人でした」

「……この先に村など無いと思ったがな」

 訝しむゼロを余所に、女は言葉を継ぐ。相変わらずフードを深く降ろしたまま、視線は焚火に落としたまま。

「当初のミグネもまた、無名の取るに足らぬ若者でした。名声を求め神と契約し、無類の力を手に入れました。味を占めた若者は更なる魔力を求め、更に三柱の神と契約を交わしました」

「その魔力で財を成し、迷宮を築いて財宝を隠した、か」とゼロ。

「私の知る噂と違うわ」とレクス。「最後の契約で神に迷宮を与えられ、その代償に生涯を迷いの中で暮らす様強いられた、と聞いたけれど」

「違うな」耳まで裂ける笑みを浮かべ、シック。「その魔力で神に戦いを挑み、破れて迷宮に放り込まれたのさ」

「その何れでもありません」

 女がかぶりを振ると、顔に落ちたフードの影が揺れた。

「取引の一環として、ミグネは全ての財産を神へ捧げる様強制されていました。ところがある時点で、ミグネは財産の提供を拒みました。村の女性カロールへの求愛の為です」

「ほう」ゼロは興味深げに唸る。レクスは手の食料を口に運ぶことすら忘れ、全霊を傾けて女の言葉に聞き入っている。シックは泥に横たわり、不気味な笑みで思考を覆い隠している。

「ミグネの想いにカロールが応えた矢先、解約不履行に気づいた神が罰を与えました。迷宮の只中に封じられたミグネは正気を失い、他の三神との契約も続行不可能となりました。先の迷宮に重ねる如く、更に三層の迷宮が築かれました。最後の迷宮が村を押し潰し、村人は散り散りになりました。以来、ミグネは最深の迷宮に封じられ、死すら許されぬまま現在に至っています」

「その莫大な財宝と共に、な」とゼロ。

「カロールは贈り物に目が眩んだ訳ではありません。結局、ミグネからは何一つ受け取りませんでした。ミグネの財産は全てミグネの手中です、未だに」

「迷宮自体については」レクスが口を挟む。「何か知っている?」

「第一の迷宮のみですが」と女。「大地の神クルゥの手によるものです。一辺が約二尋の正方形の小部屋、それが東西に八、南北に八並んでいます。六十四の小部屋の何れかに、第二の迷宮への入口が。但し小部屋の大半には罠が仕掛けられています」

 シックが一旦身を起こし、失望の表情と共に再度泥に倒れた。「罠に埋もれた六十四の部屋を、一つ一つ調べろってのか。泣かせるねえ」

「私の知るのはそれが全てです」女は続けた。「第二の迷宮から先へ進み、生きて戻った者は居ません」

「話は判った」とゼロ。「で、何故俺達にその話を?」

「私は戦士ではありません。私に迷宮の攻略は不可能です。ですが入口の場所は知っています」フードの奥からゼロを見る。「腕の立つ戦士と見受けました。あるいは迷宮を抜けられるのでは、と思い打ち明けたのです。断るのも自由、但しその場合、迷宮の場所は明かせません」

「私は降りるわ」唐突にレクスが宣言した。「大地の神が相手だと私の魔力も使えないし、そもそも迷宮を抜けるのは、私の武器には不得手だもの」

 背の弓に手を添える。――レクスの守護者は風の神シャノン。大地の神とは正対する相にあり、彼女がクルゥの制する迷宮に踏み込んだが最後、頼みの魔力は役立たずか、悪くすれば暴走を始める。

「その女の監視役が要る」ゼロはレクスに顔を向け、顎でフードの女を示した。

「何かの罠とも限らん。その場合、俺とシックが戻らなければ、そいつを殺す役目が必要になる」

「貴方が裏切る可能性は?」女は顔も上げずに問う。「財宝を手にした後、貴方が行方を晦まし財宝の独占を図った場合、私はどうすれば?」

「その女を殺せよ」と、ゼロは顎でレクスを指し示す。

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 それは道すら無い森の奥、斜面の中腹に唐突に開いていた。知らぬ者ならば獣の冬眠窟と見るだろう。周囲を短い草が覆い、天井は太い根に支えられている。一見すると脆弱だが、根の梁のお陰で簡単には崩れそうに無い。

 夜明けと共に四人は歩き始め、程無く目的地に辿り着いた。巨木の根を踏み越え、下生えを踏み付けて辿り着いたゼロは、既に一つの迷宮を抜けたかの様にうんざりしていた。枝から枝へと跳び進んで来たシックは涼しい表情。レクスはしきりに背後を振り返っている。街道沿いに待たせた愛馬が気になる様子だ。

 案内役の女は息一つ乱さず、洞窟の入口を示した。

「ここです」

「地下に水流があるな」シックが鼻をひくつかせた。ゼロには緑と土の匂いしか捉えられなかった。

「成程、只の穴ぼこだ。財宝の眠る迷宮への入口にはとても見えんな。今迄見落とされていた訳だぜ」

 入口の下半分は枯れ枝で塞がれていた。ゼロは靴先で枝を蹴り散らした。全貌を見せた入口は狭く、人間の大人が身を屈めてようやく入れる程。

 小躯のゼロは易々と入口を潜った。巨体のシックがずるりと地を這い後に続く。

「……貴方を殺すつもりは無いわ」

 足音が洞窟の奥へ遠ざかったのを確認し、レクスは口を開いた。

「二人は只の仕事仲間、友人でも相棒でも無いわ。偶然方角が一緒だから、共に旅しているだけの事。二人が死んだとしても、仇を討とうとは思わない」

 フードの女を見据える。昨夜と同様顔を伏せ、その全貌は影に隠れている。

「命乞いをする訳じゃ無いけど、貴方も私を殺そう、などと考えないで欲しいわ」

「私は誰の死も望んではいません」

 女は断言した。拍子にフードが揺れ、整った面持ちの下半分がほの見えた。

「では一体何が望み?」レクスは鋭く訊ねる。「財宝が望みの様には見えないわ。そして私達に悪意を抱いている様にも見えない。答えて、貴方の目的は何?」

 女は顔を背けた。レクスは嘆息した。

「いいわ」元来た方角へ目をやる。「馬が心配なの。私は街道へ戻るわ。此処で二人を待ちたいのならそれで良いし、あの、」

 女の名を呼ぼうと試み、レクスは途方に暮れた。

「――せめて名前くらいは教えて貰える?」

 振り向くと、女の姿は消えていた。

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 闇に身を委ねる。爬虫人のシックはともかく、ゼロの目では数歩先すら見通せない。腰の鞘から短剣を引き抜く。《何者》の刀身が青白の光を放ち、行く手を照らす。

 岩壁が光を反射し怪しく光る。湿り気を帯びた空気は淀んで風も無く、ゼロは多少の息苦しさを覚えた。ゼロの靴音、そしてシックの這い進むひたひたという音の他、響くのは滴り落ちる水音のみ。

 奥へと進み行くにつれ、洞窟の幅が広がっていった。今ではゼロが両腕を広げても岩壁に届かぬ程、天井はゼロが背を伸ばして歩ける程。だがシックには僅かに低く、身を起こしはしたが首を真横に傾げて歩く。

「なあ、どう思うよ」

 不自由な姿勢も気にせぬ様子で、シックは陽気に訊ねる。

「あの女、真実を語ってると思うかい? どうにも妙な話じゃねえか、突然現れて古の迷宮を語り出したと思えば、己の素性については最後まで黙したままだぜ」

「半々、てとこだな」ゼロは張り出した鍾乳石を屈んで避けた。「完全に信用した訳じゃ無いさ。だが確認せんとな。この先に迷宮とやらが存在すれば良し、無いなら戻って女を斬るまでさ」

「罠だとしたら?」

「蹴散らすまでさ」ゼロは肩を竦める。「危険は迷宮と大差無い。違うか?」

 天井が崩れている場所で足を止めた。床の瓦礫の様子から見て、少なくともここ数年間は訪れる者も居なかったらしい。瓦礫の山を苦心して乗り越える。

「仮に女の話が真実として、」とシック。「財宝、どれ程の代物と読むよ? 迷宮四つも通り抜けて、割に合う仕事なんかね?」

「知るか」ゼロは応じた。「財宝の額についちゃ、噂にも伝説にも残っちゃいない。だが――ミグネが神に逆らって迄手中にしたお宝だ、かなりの量なのは間違い無いだろうぜ」

「殺し屋稼業を引退出来る程にか?」シックの口調は愉快げだ。

「さあな。手に入れてから考えるさ」

「引退などしないさ、あんたはな」

 前転してゼロの前に出ると、シックは振り返った。爬虫人の瞳が闇に輝く。口を開くと、鋭い牙も同様に闇に光った。

「生涯を酒と女に溺れて暮らすだけの金、あんたは既に稼いでるだろ。にも関わらず、あんたは更なる稼ぎを得ようと、こんな墓穴にまで鼻を突っ込んでやがる。教えろよ、そんだけ金を掻き集めて、どうしようってんだい」

「……さあな」ゼロは肩を竦めた。「集め終えてから考えるさ」

 シックは嘲笑した。踵を返して奥へと歩む。ゼロは無言で後に続いた。

 間も無く変化が訪れた。岩壁が唐突に途絶え、行く手を塞ぐのは大理石の壁。だが一部が崩れて隙間がある。隙間からは強い光が漏れ、闇に慣れた目に眩い。

 ゼロは易々と潜り抜けたが、シックが通るには全身の関節を外す必要があった。

 シックが関節を戻している間、ゼロは部屋の中央に立ち周囲を探った。――一片が二尋の正方形。壁も天井も、シックの転がる床までもが見事な大理石。室内には家具一つ無い。最後の冒険家が訪れてから、少なくとも数年間が経過している筈だが、埃も蜘蛛の巣も無い。

「発光物も無いぜ。この光は何処から?」

「石さ」ゼロの呟きにシックが応じる。「この大理石自体が、光を放ってやがる」

 一見すると只の石、だが目を近づけると眩しさに痛みすら覚える。大理石の壁はその内部より発光していた。ゼロは試みに《何者》の切先を押し当ててみたが、滑らかな表面に傷一つ残せない。鋼も切り裂く《何者》の刃でも。

「こいつは並の壁じゃねえ、魔法の壁さ。となると――」

「ふん」

 ゼロは片頬を持ち上げ、歪んだ笑みを相棒に向けた。

「つまりは、これが第一の迷宮か。あの女の話は嘘じゃなかった訳だな」

「だが、こっからが骨だぜ」

 全ての骨を嵌め終え、シックはゆらりと起き上がった。関節の具合を確かめる様に、身体の各部を伸び縮みさせる。

「六十四の小部屋。その何れか一つに、次の迷宮への通路。残り六十三には罠が口開いて待ってるって寸法さ。しかも、その後は更に三の迷宮が控えているんだからな」

「八掛ける八、か」ゼロが呟く。「まるで戦戯盤だな」

 シックは壁の一つに歩み寄り、耳を押し当てた。そしてにやりとする。

「古の扉」

 唐突な物言いにゼロは面食らった。「あ?」

「古の扉。八音節だろ。い・に・し・え・の・と・び・ら」

 出来の悪い息子に説教する父親の如く、シックは一音ずつ噛み締めて説明する。ゼロは困惑するばかりだ。「何の話だ?」

「古い戦戯盤の位置取りの方法さ。八掛ける八。左から右へ”いにしえのとびら”、上から下へ一から八。枡が左上の隅なら”一い”、その右隣は”一に”。判るか?」

 拳で壁を一叩きする。「洞窟の入口からこの部屋までは一直線、俺達は北へ向かって進んで来た。この壁の向こうは並の岩。てことは、この部屋は南東の端だ。北を上にして戦戯盤と重ねると、この部屋は右下の隅、”八ら”さ」

「……成程」ようやく合点のいったゼロは、入口の裂け目を背後にして正面の壁を見た。

「この正面が北。そして目前の部屋が”七ら”、左隣の部屋は”八び”。って事だな」

「そうさ。そいつを覚えとけば、少なくとも自分の位置は見失わずに済む」

「俺達は戦戯の駒かよ」ゼロは肩を竦めた。「さて、そうなると――」

 四方を見回す。ゼロの背後は入って来た裂け目。右手の壁には何も無いが、正面と左の壁にはそれぞれ、中央に人が充分に潜れる程の入口が在る。扉も障壁も無いが、隣室は暗闇で様子は判らない。

「どっちへ行くよ。シック、リズの勘では?」

「見当もつかんぜ」とシック。「殺し屋の勘を働かせろよ」

「んなもんがあるかよ。畜生、何の手掛かりも無いのなら、やはり六十四の部屋を片端から探って行くしか――」

「おい」

 突然シックが声を張り上げ、鼻をひくつかせた。「何か臭うぜ」

 その異常はゼロにも直ちに知れた。先刻までは土の匂いしかなかった空気が、今ではどんよりと淀んだ臭気を含み、視界も薄く滲み始め……。

「毒霧か!」

「まずいぜ」リズの声が緊張している。「今直ぐ選べ! 左か、正面か?」

「左だ!」叫んで、ゼロは西側の闇へ跳び込んだ。

 ――ぐにゃりと柔らかい靴底の感触に、ゼロは総毛立った。思わず跳び下がろうとした所を、背後から転がり出たシックに衝突した。

「この野郎、俺の場所くらい空けておけ!」

「……そうは言うがな」

 ゼロは呆れた表情で床を見つめた。その視線を追ったシックも同意する。

「成程。こいつは余分な場所など有り得んか」

 先刻の部屋と同様、この部屋も輝く大理石の壁に囲まれている。天井も同様、但し床の詳細は知れない。床一面を、無数の毒蛇が覆い尽くしているからだ。

 突然の進入者に機嫌を損ねる蛇はしかし、一定の距離を置いて近寄ろうとはしなかった。只鎌首を持ち上げ、牙を剥き出して威嚇するのみ。

「お前が相棒で良かったぜ」ゼロは嘆息した。「シック、お前を恐れて近寄れんらしいぜ」

「美味そうな床だが、のんびりもできんな」シックは無念げに舌なめずりした。「次だ。”八と”か”七び”、どっちだ?」

 部屋の出口は三つ。背後に元来た部屋への通路、そして北と西の壁に一つずつ。やはりどの戸口も闇の幕で閉ざされ、先は見通せない。――闇の幕には壁の役割もあるらしく、隣室の毒霧はこの部屋へは流れていない。

「端から行こうや」ゼロは西の壁を示した。

 シックが足を踏み出すと、蛇の床が退く。そうして現れた床を慎重に辿り、ゼロはシックの先導で次の部屋、戦戯盤の”八と”へ移動した。

 ――続く部屋では雨が降っていた。死の雨が。

 足を踏み入れた直後、シックが苦痛の呻きを上げた。足元の淀みを避けようと右往左往するが、液体は床一面に渡り逃げ場は無い。次の瞬間には、相棒に続いてゼロの口も唸りを発した。

 天井から滴る酸がゼロの長衣を焼き、手や首筋に針の如くに突き刺さる。だが悲惨なのはシックだった。剥き出しの上半身を覆う蒼灰色の鱗を、履き物の無い足を、悪意を孕んだ液体が容赦無く貪る。

「畜生!」一声叫ぶと、爬虫人は迷う暇も無く正面の出口へ跳び込んだ。止む無くゼロも後に続く。

 闇の膜を抜けると、一体の彫像が二人を出迎えた。背丈は迷宮の天井に届く程、巨体のシックも到底及ばない。半裸の戦士を象った青銅の像は部屋の中央、力強い両足と凶悪な棍棒を支えに聳えている。

 髪に残った酸の滴を振り払い、ゼロは周囲を見渡した。大理石の壁も床も先刻と同様、だが他の部屋との明確な違いが二点ある。一つは床に転がる三体の白骨。今一つは、背後の一面を除く三つの壁に出口が無い事。

「袋小路だ」

 シックは床をのたうち、酸に焼かれた鱗を癒そうと懸命だ。だが光り輝く床には、砂はおろか埃すら無い。

 苦痛に呻く相棒を横目に、ゼロは白骨に注意を移した。三体の何れもが武装している。入口横の一体は兜を割られ、右手の戦士は黄金の鎧を潰されている。青銅の像の足元に平伏す白骨には、首が無かった。頭蓋骨は何処にも見当らない。

「妙だな」

「何がよ」

 苦々しく応じてシックが起き上がった。未だに残る苦痛に顔を歪ませ、長い舌を伸ばして傷ついた肩を撫でる。

 ゼロは古の戦士を示した。「こいつらは何故死んだ? この部屋には罠が無いぜ」

「そのうち出るんだろうぜ。最初の毒霧を思い出せよ」とシック。「酸の雨に戻るのは御免だ。この部屋が真に袋小路かどうか、調べようぜ」

「……その暇は無いな」

 呟いて、ゼロは両の剣を抜いた。ゼロの視線を追ったシックも、腰を落として身構える。その二人の眼前で、青銅の戦士が棍棒を振り上げた。

 同時に飛退く。ゼロは右へ、シックは左へ。直後に棍棒が振り下ろされ、二人の居た空間を押し潰した。素早く起き上がり、ゼロは魔剣で戦士の足元を切りつけたが、青銅の身体には傷一つつけられない。

 横様に振り回された第二撃を、ゼロは転がり、シックは跳躍して躱した。シックは戦士の首に組みついたが、肩に爪を立てられずに滑り落ちた。

「おい、どうするよゼロ!」戦士の股の間から叫ぶ。「こいつを倒さん事にゃ、先へは進めんぜ!」

 ゼロは舌打ちした。――《何者》の能力を一部解放すれば、あるいはこの彫像を倒せるかも知れない。だが第一の迷宮、そのほんの入口で、貴重な魔力を消費したくはなかった。魔剣を振るい続ければ、体力を奪われて自滅するか、悪くすれば迷宮の只中で《何者》と対峙する事になる。

 物言わぬ青銅の戦士は、動きは鈍いが強力だ。攻撃を避けるのは容易いが、倒すのはまず不可能。この部屋で死んだ三人の進入者は、ここが真の袋小路か、目に見えぬ抜け道が無いかを調べていたに違いない。その隙をつかれ、棍棒に頭を潰されたのだ。とすると、

「ここは袋小路だ」ゼロは確信した。「この彫像は罠じゃない、罰だ。道を誤って袋小路に嵌まった事に対する、罰則なのさ」

 際どい所で棍棒を避ける。その風圧に肌が粟立つ。棍棒の先端が床を叩き、迷宮全体を揺るがす程の震動を招いた。

 シックは大理石の壁を攀じ登ろうと躍起になっている。

「なら、どうしろってんだ。あの酸の雨へ戻るのはお断りだぜ!」

「他に手があるなら言えよ」ゼロは役立たずの剣を収めた。「無いなら先に行け。前の部屋、北に戸口があった筈だ。”七と”で会おうぜ」

 シックは苛立ちの表情を見せたが、何も言わなかった。彫像の股を潜って背面に回ると、”八と”へ続く戸口を抜ける。ゼロは戦士の死角に入り、青銅の戦士が振り向くより早くシックの後に続いた。

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”七と”の床には無数の小石が散乱し、足で触れると爆発した。シックはゼロの身体を掴み上げ、北の戸口へと放った。自身は一跳びに部屋を横切る。

”六と”は拷問部屋。天井から鎖に吊られた無数の巨大な刃が、風も無いのに左右に揺れていた。ゼロは《何者》を振るったが、鎖は魔剣の刃を弾き返すのみ。暫しの思案の後、ゼロは相棒の肩を足掛かりに、腕を伸ばして鎖の中程を掴んだ。猿の如くに鎖を伝い部屋を横切る。巨体を身軽に躍らせ、シックがその後に続いた。

”六の”には蠍の群れが居た。”八び”の蛇とは異なり、爬虫人の侵入者にも蠍は動じない。だが蠍の毒もシックには通用しなかった。両手で群れをかき集め、掬い上げては口へと運ぶ。嬉々として毒虫を貪る相棒を、ゼロは苦笑して見守った。

 ――幾つもの部屋を過ぎ、幾つもの罠を抜けた。その都度肉体は疲労し、血流は零れ、精神は削られていった。ゼロは無言を貫いたが、シックは次第に冷静さを失った。

”七い”で五体目の彫像に出くわすと、シックは何処の言語とも知れぬ悪態をついた。

「焦れるな、シック」ゼロは諭した。

「焦れるな、だと?」青銅の拳を掻い潜りつつ、噛み付く様にシックが叫ぶ。「どの面下げてそんな台詞を吐きやがる。この迷宮へ俺を導いたのは、手前の考えだろうが」

「反対はしなかったろ」

 再び耳慣れぬ悪態。「前の分岐が何処か覚えてるか? ”五に”だぜ。罠を三つ戻らにゃ、新たな部屋は調べられん。無駄骨もいいとこだぜ」

「未だ序の口なんだぜ」ゼロは大きく跳退いて棍棒の攻撃を避けた。「忘れるなよ、迷宮は四つだ。こいつは第一の障害に過ぎん。それに、まだ部屋の半分も廻り終えてないんだぜ」

「畜生め。あんたもこの迷宮も、魔道師ミグネとやらも糞食らえだ」

 苦々しげに青銅の戦士を一瞥すると、シックは元来た北の戸口へ消えた。ゼロは両の剣を引き抜くと、歯を噛み締めて相棒を追う。

 二人は無数の矢が部屋を横切る”六い”を抜け、天井から雷の落ちる”五い”を通り、西瓜程の大きさの鉄球が跳ね回る”五に”へ戻った。先刻は見過ごした北の出口を使う。”四に”だ。

 部屋は静寂していた。罠の気配も感じられない。以前訪れた戦士もそう考えたらしい。結果、彼は胴体を四分されて部屋の中央に横たわっていた。ゼロは慎重に歩み寄った。

 鎧の裂け目を検分する。何か鋭利な刃で切断された様だ。天井を仰いだが、刃物らしき物は見当らない。

「切断面は部屋の対角線だ」とゼロ。「対角線を遮ると罠が作動し、天井に刃が現れて切断する仕掛けだろうぜ。シック、部屋の対角線上に触れるなよ」

 シックは怪訝な顔をした。指の一本を口に入れ、唾液で湿らせてから慎重に爪を伸ばす。正方の部屋の対角線に爪先で触れる。何も起こらない。

「何も起こらんぜ」

 ゼロは眉を寄せた。背の鞘から《キス・オブ・ライフ》を抜き、切先で対角線の床を突く。暫し反応を待つ。静寂が答えた。

 一つ深呼吸の後、シックが奇妙な笑みを浮かべた。鱗の剥がれかけた背を丸め、一息に跳躍する。対角線の境界を越え、左手の戸口の前に着地した。

「……妙だな」

 対角線を無事に超えた相棒の姿に、ゼロは首を傾げた。

「罠を作動させる仕掛けがある筈だ。でなきゃ、この間抜けが四断される筈が無い」

 慎重な動きで、ゼロは対角線を跨ぎ超える。シックとは正対する、右手の戸口の前に立つ。

「壊れたんじゃないのかね。間抜けが死んでから五十年の間によ」

 シックは鼻先でせせら笑い、足先で戦士の死体を突いた。――途端、天井から鋼鉄の壁が現れ、部屋の対角線に十字を描いて落下した。地鳴りが部屋を揺るがした。

 ゼロはすぐさま跳び退き、背を壁に押し付けた。暫し動きを凍らせ、震動が収まるのを待つ。額に一筋の汗が流れ落ちる。それ以上の罠が無いのを確信した後、緊張を解いた。

「聞こえるか、シック」

 鋼鉄の壁に阻まれ、部屋の反対側は見通せない。天井から伸びた巨大な刃は部屋を完全に四分していた。ゼロは東の、シックは恐らく西の端に居る筈だ。

「シック!」

「畜生め」枯れた声が答えた。「たっぷり警戒しといてこの様か。俺の鼻も落ちたもんだぜ」

 ゼロは吐息をついた。「無事なら直ぐに答えろ。……恐らくは、部屋の中央に仕掛けがあったんだろうぜ。それとも、この戦士自体が仕掛けか」

 床に膝を付き、改めて死体を調べる。新たな切断面が現れた以外、異常な点は見当らない。だがゼロは手を触れぬ事に決めた。

「で、なあ、どうするよ」壁の向こうの声が言う。「この刃、消えるのかね」

「罠の奴も、新たな犠牲者に備えにゃならんだろ。待ってりゃ何時かは元に戻るんだろうさ。一年後か、それとも百年後か」

「それまで待つか?」

 シックのにやけた顔が目に浮かんだ。ゼロは鋼鉄の壁に笑みを返す。

「それも良いがな、二手に分かれるのが正解だろうぜ」

「承知」暫し間があり、「この部屋が”四に”、そっちが東で戸口の向こうは”四し”。こっちは西だ。”四い”だな」

 小さく頷き、ゼロは壁に背を向け戸口に正対する。「外で会おうぜ」

「おいおい。あんたこの期に及んで、未だ無事に迷宮を抜ける気かよ」嘲笑混じりの声が言った。「俺は自信無くなってきたぜ。次に会うのは千年後、迷宮が崩れ去った時さ」

 相棒の皮肉に微笑を漏らし、ゼロは戸口を抜けた。

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”四し”は炎の部屋だった。燃え上がる床を走り抜け、正面の出口へ辿り着く。続く流砂を一息に駆け、”四の”へ辿り着く。

 眼前に聳える彫像を目にして、ゼロは落胆した。袋小路だ。

 彫像の動きは遅く、動き出すには若干の間がある。ゼロは床に腰を下し、暫し休息した。――直前の二部屋に分岐は無く、最後の分岐はシックと別れた”四に”。戻ったところで、仕掛けが解除されていなければ成す術が無い。

 途方に暮れ、ゼロは青銅の巨人を見上げた。そして異常に気づいた。

 これ迄の袋小路の戦士は、皆棍棒を手にしていた。この部屋の戦士の得物は長剣。その刀身には紋様の彫刻が施され、切先は部屋の中央を指して下に向けられている。

 紋様には見覚えがあった。水霊イーチェの印。――シックの言葉を思い出す。”地下に水流がある”。

 部屋の中央、戦士の剣が指し示す床に僅かな切れ目が在るのを認めて、ゼロは確信した。袋小路では無い。この部屋は通路、第二の迷宮への入口だ。

 ゼロは慎重に立ち上がった。ほぼ同時に、青銅の戦士が剣を差し上げた。

 剣が振り下ろされるより早く、ゼロは戦士の足元へ駆け寄り背後に回った。切れ目のある床の中央に立つ。と、床の大理石がぐるりと回転し、ぱっくりと開いた奈落にゼロの身体は吸い込まれた。

 

 ――瞬間、ゼロは後悔した。判断を誤ったらしい。こいつも罠か。

 ゼロの身体は闇を落下してゆく。両手を伸ばすが手掛かりは無い。風を切る音が耳障りに響く。その背後に、大岩の転がる轟音も聞こえた。落下の終点は絶壁か、とゼロは覚悟を決めた。

 その覚悟も誤りだった。轟音が足元に迫り、気づくと足から着水していた。水面深くまで沈み、直ぐに浮上する。激しい流れに翻弄されつつ、水面の僅かな隙間から空気を貪る。

 一本の蔓が頭上に垂れているのを、ゼロは危うく見逃すところだった。手を伸ばして蔓を指にからませ、身体を支える。そこでようやく動きが止まった。急流に嬲られながらも、ゼロは辛うじて水面に顔を出し、周囲を見渡した。

 壁も天井も大理石、だが頭上の迷宮の壁とは違い、輝きを発してはいなかった。にもかかわらず、ゼロの目には周囲の景色がはっきり見てとれる。地中深くの水路、腕を伸ばせば両方の壁へ届く幅の水路に、驚く程大量の水が轟音と共に流れる。

 蔓は天井の裂け目から延びている。ゼロの体重を支えるに充分な太さだが、急流に煽られる現状では頼り無い。壁にも天井にも細かなひび割れが走り、その隙間から蔓や植物の根が這い伸びる。植物にとっては豊富過ぎる栄養源だ。

 ゼロの落ちた縦穴は、最早遥か上流へと離れてしまっている。流れに逆らって泳ぎ戻るのも、ひび割れを手掛かりに壁か天井を伝い戻るのも無理だろう。

 下流へ目を転じる。謎の光源に照らされた水路は無限に続くかの様だが、注視すると彼方で二股に分岐しているのが判った。

 ……分岐。

 蔓から片手を放し、水に潜らせる。掌中に残った水が淡い光を放つのに気づき、ゼロは確信した。罠では無い。この水路が迷宮。水霊イーチェの手に成る、第二の迷宮。

 そうと悟れば、蔓にすがって体力を浪費するのは愚策。深呼吸の後に蔓を手放し、流れに身を委ねた。自由となった蔓が水中を踊る様が見えたが、それも一瞬のこと。見る間に遠ざかり、白波の中に埋もれ、消え失せた。

 暫し急流に嬲られたが、要領さえ判れば水面に顔を出したまま泳ぐのは苦も無い事だった。だが流れを制御するのは別の話。瞬く間に分岐路へ到達し、選択の余地も無いまま、ゼロの身体は水路の一方へ飲み込まれていった。

 道を誤った者の運命を案じる暇すら与えられず、ゼロの目は次の分岐を捉えていた。二手に別れる水流はどちらも差違が感じられず、どちらが正しい水路かは見当もつかない。決意を固めるより早く、第二の分岐点も過ぎ去った。己の無力にゼロは唇を噛んだ。これでは水霊の慰み者だ。

 水路は右へ緩く曲がっている。その先の水音が微妙に変化するのに気づいて、ゼロは腰の鞘に手を伸ばした。案の定、カーブの先には奈落へと通じる滝が待っていた。

《何者》を引き抜いた。左手を高く差し上げ、魔剣を壁に突き立てる。青白く輝く刃が大理石に突き刺さり、滝に呑まれる寸前のゼロの身体を支えた。

 流れ落ちる水流越しに、ゼロは深淵を覗いた。水路はゼロの足先で途切れ、垂直に伸びる洞穴に繋がっている。水の流れはここで真下へと方角を変え、落下と同時に水音も途絶える。束の間の静寂の後、水流は遥か下方の滝壷で轟音を立てる。

 この滝が袋小路なのは明白。落ちれば命は在るまい。ゼロは舌を鳴らした。背の鞘から《キス・オブ・ライフ》を抜き、壁のひび割れに切先を差し込む。柄を胸元へ引き寄せ、じりじりと流れを溯る。

 第一の迷宮に置き去った相棒に――遥か昔の出来事に感じられる――ゼロは思いを馳せた。水霊の加護を持つリズの相棒ならば、水の流れを読む事も容易いだろうに。だが存在しない相棒を頼る程、ゼロは愚かでは無い。

 崖を垂直に登る方が、まだしも楽だったろう。横向きの匍匐前進を終え、先刻の分岐へ戻る頃には、ゼロは困憊しきっていた。手前の水流に下半身を、今一つの水流に上半身を預け、腹を支えにして休息する。こんな状況でも、その気になれば眠れるものだ。

 ――正しい通路を発見する迄に、ゼロは幾度もの崖昇りを強いられた。その都度ゼロは舌打ちし、毒づき、疲弊した。更なる袋小路に舌を鳴らす直前、異変を感じた。天井から下がる蔓を握り締め、ゼロは周囲を見渡した。

 唐突に消える水路も、垂直に続く洞窟も、先の袋小路と違いは無い。異なるのは唯一、天井に開いた縦穴のみ。ゼロの縋る蔓はそこから伸びている。

 淡く輝く水の光は縦穴の中途で途切れ、その先を覗き見る事は叶わない。これが第三の迷宮へ続く通路かは不明だが、既にゼロは水路に辟易していた。両手で蔓を引き寄せる。ゼロの体重を支えるだけの強度はありそうだ。

-7ページ-

 

 蔓はしばらくは縦穴を垂直に伸びていたが、その後は水平に開いた洞窟へとゼロを導いた。暗闇の中、ゼロは蔓を頼りに洞窟を進んだ。

 更に進むと、枝で編まれた扉が行く手に現れた。蔓は扉の下を潜って向こう側へ続いている。枝の隙間から漏れる光が、闇に慣れたゼロの瞳を眩しく射抜いた。

 指で触れると、扉は容易に開いた。ゼロは扉を潜り抜けた。

 目が光に慣れるまで、暫しの時間を要した。ゼロは目を細め、眩い光を見透かした。

 ここは通路の発端。腕を伸ばせば容易に届く程の、幅の狭い通路。壁も天井も蔦に埋め尽くされ、通路自体が植物で出来ているかの様だ。葉が生い茂り、花は咲き誇り、見慣れぬ果実すらたわわに実っている。

 通路に分岐は無く、階段も曲がり角も無い。通路は彼方まで伸びてそこで行き止まり、その手前の床に小さく、黒い点が見える。恐らくは迷宮の出口だろう。

 ――迷う要素は皆無。だがゼロは確信していた。この回廊が第三の迷宮だと。

 確信の根拠は二点。一つは、壁と天井を覆う蔦の葉が光り輝いている事。第一の迷宮では大理石が、第二の迷宮では水の流れが光を放っていた。それぞれの迷宮内で光源を提供するのは、その迷宮を作り上げた神。頭上の輝きも同種の物。

 この回廊の主は恐らく、樹木の精ビィム。只の通路では有り得まい。

 今一つの根拠は、屍。

 比較的新しくはあるが、完全に白骨化した死体が足元に横たわっている。朽ちた布切れを身に纏い、片手を通路の先へ差し伸べた姿で。死因については知る由も無いが、罠でも戦闘でも無いのは確かだ。携えていた剣は鎧と共に、通路の隅に置き去りにされている。

 ゼロは慎重に足を踏み出した。罠の無い事は承知だが、何やら別の仕掛けがあるに違いない。

 足先に神経を集中し、一歩毎に探りを入れる。頭上の葉の数からすると奇妙な事に、床には一片の落ち葉も、それどころか塵の一粒すら無い。大理石の床には継ぎ目も見当らない。

 時折顔を上げると、彼方の黒い点は少しも近づいていない様に思えた。かなりの距離を歩いた筈だが、とゼロは背後を振り返り、そこで凍り付いた。

 枝で編まれた扉が、ほんの数歩戻った個所にある。白骨の戦士は未だに足元。

 再度前進し、振り返った。僅かたりとも進んでいなかった。ゼロは走った。額に汗する迄走り続け、立ち止まると振り向いた。足元の白骨がゼロを迎えた。

 ――呼吸を整えつつ、ゼロは先駆者である戦士の死に様に思いを馳せた。争いや罠では無く、餓死や衰弱死とも違う。壁には食物が豊富に実っており、通路を戻れば水は無限に入手が可能。だが鎧を脱ぎ捨てた事実を考慮すると、戦士はかなりの時をこの回廊で過ごした事になる。

 そして今ゼロは悟った。戦士の死因は二つに一つ。自ら命を絶ったか、もしくは老衰か。

 床の長剣を拾い上げた。鞘から抜こうと試みる。赤い粉が舞っただけだった。すっかり錆付いている。

 しかし目的には支障無い。ゼロは通路の先に背を向けると、剣を杖代わりに床を探りつつ後ろ向きに歩き始めた。正面には枝で編まれた扉、それが一歩退く毎に遠ざかる。

 通路の空間が歪んでおり、何処か特定の地点で出発点へ戻されるのなら。その地点さえ特定すれば、何らかの手掛かりが得られるに違いない。ゼロはそう踏んだのだが、出発点の扉は何事も無く遠ざかってゆく。空間の歪み等は感じられず、謎の現象に押し戻される事も無い。

 幾らかでも進んでいるかと、ゼロは首を捻って背後を確認した。終着点は未だ彼方に在り、黒い点は些かも近づいてはいない様だった。ゼロは舌打ちして正面に向き直り……思わず呻いた。扉は目前にあった。

 勉めて冷静を保とうと、ゼロは深く息をついた。濡れた長衣を脱ぎ捨てようかと考えたが、床の相棒と同じ行為という事に思い当たった。代わりに手近の果実を一つもぎ取り、腰を下ろした。酸味の多い果実を噛りつつ思案する。

 ――今迄ゼロの行った幾つかの試行は、恐らく足元の先達も試みた事だろう。それらが全て不首尾に終わったからこそ、彼は此処に止まっている。つまりは、まともな手段でこの通路を抜ける事は叶わぬという意味だ。

 まともでない手段とは何か。

 ゼロは立ち上がった。右手の果実を一口頬張り、左手で腰の魔剣を引き抜く。咀嚼しながら《何者》の切先に意識を集中させ、右から左へと薙ぎ払った。柄に熱気が走る。

 青白く輝く刃の軌跡に、緑の通路とは明らかに異なる空間が覗いた。ゼロは片頬を歪めて笑った。……が、それも束の間の事。一瞬後に空間の裂け目は閉じてしまい、先刻と変わらぬ通路が遥か前方に伸びていた。

 失望し、再び通路に腰を下ろす。腰の鞘に魔剣を収め、果実を口へ運ぶ。汁気の多い果実が口に苦い。

 ゼロは別の側面に注視した。――最初の迷宮では、出口に水霊の紋様を備えた彫像が立っていた。続く第二の迷宮では、上から伸びる蔓が次なる扉への通路を示していた。出口には予兆がある。次なる迷宮の支配者が、何らかの手掛かりを記しているのだ。

 では、この夢幻の回廊では?

 先刻《何者》を用いて空間を切り裂いた際、裂け目に見えたのは暗黒だった。わずかな明るさもその身に含まず、幾多の葉が放つ光をいとも容易く飲み込んでしまう、真の暗闇。

 賭けても良い。第四の迷宮の支配者は、闇の王グルア。《何者》がこじ開けた空間に身を預ければ、最後の迷宮へ辿り着けるだろう。だが、裂け目の閉じるのが早過ぎる。無理に抜けようと試みれば、身体を裂け目に挟まれ身動きがとれなくなる。

 ゼロは嘆息した。畜生、次なる迷宮への予兆ならば、最初から目にしているではないか。遥か通路の終端、床に開いた暗黒の穴。あの暗闇まで辿り着かねば、闇に身を投じなければ、先へは進めない。

 ――闇へ踏み入れば。

 食い残した果実を投げ捨て、再度立ち上がった。《何者》を振るうまでも無い、樹木の精ビィムは、魔剣を用いねば抜けられぬ迷宮など作らない筈だ。もっと容易い方法がある。容易く闇を引き寄せる方法が。

 ゼロは目を閉じた。

 真なる闇の中、ゼロは手探りで一歩踏み出した。更に一歩。続いて数歩。肌に感じる空気の質が微妙に変化する。髪が風に揺れるのを感じる。気温が下がり、冷気を帯びた風が周囲を吹きぬけた。

 目を開くと、無限に続く緑の通路は消え失せていた。代わってゼロの目に映じたのは、果てしなく広がる暗黒のみ。

 会心の笑みを浮かべる。ゼロは第四の迷宮、闇の王グルアの手に成る最後の迷宮の只中にいた。

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 肉体が溶けて流れ行きそうな程の闇、目に入るそれが全て。己の手すら見えない。ゼロは腰の短剣を抜いたが、《何者》の刃の輝きは闇に埋もれてしまっている。目前で刃を振るってはみたものの、光の欠片さえも閃かなかった。

 肩膝をつき、掌で床に触れる。冷たく滑らかな大理石の感触があった。凹凸も継ぎ目も無く、己の位置を示す何らの手掛かりも与えてはくれぬ床。シックの”いにしえのとびら”流の迷宮脱出法も、ここでは役立ちそうには無い。

 耳に届くは風の音。だが肌を切り裂く冷風は方向が定まらず、右から吹いたかと思えば正面から、また直ぐに左からと気まぐれに向きを変える。風向きで方角を判断するのは無理の様だ。只、この場が広大な空間である事は見当がつく。風は彼方より到来し、何処とも知れず吹き抜けて行った。

 ――この広大な闇の中、ただ当所も無くさ迷うのは自殺行為。同じ個所をぐるぐると巡り、やがては衰弱する末路。

 だが、この場に留まるのは更に愚かだ。この闇の何処かにミグネが居る。己の財宝を抱えて。その財宝を拝まぬことには、はるばる三つの迷宮を超えてこの闇を訪れた意味が無い。

 ゼロは慎重に歩み始めた。

 目を見開きはしているが、相変わらず映じるのは闇ばかり。並の者ならば狂いそうな闇の中、ゼロは平然と歩を進めた。闇は経験済みだった。そればかりではない、闇の王と直接対峙した事すらある。

 歩きながら、思案した。闇を抜ける術、闇の只中で己の位置を見定める方法を、ゼロは探っている。

 例えば長衣を切り裂き、解して糸を入手する。何らかの手段で糸を床に固定すれば、現在位置を知る手掛かりにはなる。捜索の範囲を徐々に広げてゆけば、いずれはミグネの居場所に行き着くだろう。

 そんな手を試みるつもりは毛頭無い。時間がかかり過ぎる。体力を消耗し、目的地へ辿り着く頃には無力の棒切れと化している。更にその後、ミグネ当人と対峙しなければならないのだ。

 凍てつく風が頬を撫ぜる。風は微かに湿り気を帯び、濡れた長衣を通して体温を容赦無く奪ってゆく。ゼロは舌打ちした。あるいはシックならば、この風に何らかの臭気を感じ取れたかも知れないが。ゼロの鈍い鼻には何の匂いも感じられない。

 ゼロは思案を続ける。思考はゼロの歩みと共に方々をさ迷った。――迷宮を作り上げた闇の王グルアを思う。ミグネの交わした契約を思う。ミグネが手中にし、神々へ捧げるのを拒否した財宝を思う。その財宝が渡る筈だった人物を思う。

「ミグネよ」

 喉が裂ける程の大声をゼロは発した。

「ミグネよ、お前の財宝を頂きに来た」

 片頬を歪め、闇の彼方へ笑いかける。ゼロは極めて現実的な、己の呼び名に似合いの手段を試みていた。

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「俺はゼロ。『二殺のゼロ』で通ってる」

 叫びつつ、ゼロは背の鞘から《キス・オブ・ライフ》を抜いた。二振りの抜き身は闇に覆われ目には触れず、だが手に馴染んだ柄の感触が、ゼロに力をもたらした。湧き出る泉の如く、身内に自信が満ちて行く。

「尤も、お前は俺の呼び名に覚えは無いだろう。当然だ、お前は二百年、この迷宮に封じられていたんだからな」

 周囲を彩る闇に変化は無い。――だが彼方より吹きつける風に、ゼロは何かの気配を感じていた。何かが聞き耳を立てている。この闇の向こうで。

「お前が二百年間超えられなかった迷宮、俺は容易く抜けて来た。それがお前と俺の差さ。お前如き、この『二殺のゼロ』の敵じゃ無いぜ。諦めて財宝を明け渡しな」

 暫し沈黙し、返答を待つ。静寂が応えた。ゼロは嘲り笑った。

「どうした? それ程財宝が惜しいか。元々お前の物では無い筈だぜ、神への捧げ物だろう」

 足を止め、挑発の目で闇を凝視する。

「それとも……女への捧げ物か。確か、カロールとかいう名だったな」

 女の名を口にした瞬間、強烈な感情の放射がゼロに襲いかかった。濃い闇を通して、動揺が渦を巻いて吹き荒れる。ゼロは反射的に短剣の切先を掲げて防御の姿勢をとった。

 不浄の波に飲まれつつ、ゼロは余裕の笑みを浮かべた。これで方角が特定された。激しく猛るミグネの感情が、彼の所在を教えてくれている。最早、闇は迷宮ではない。

 負の感情に流されぬ様、ゼロは一際声を張り上げた。

「女の為の財宝ならな、ミグネよ、俺に寄越せよ。あれから数えて二百年――女はとうに死んでるさ」

 彼方で感情が燃え上がった。怒りの放射に煽られ、ゼロは身を屈めた。感情の波が過ぎ、ゼロが顔を起こすと、闇を透かして灰色の人影が浮かび上がった。

 ゼロは深く息を漏らした。遂に辿り着いた――終点に。

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 疲弊しきってはいたが、探索の終焉による喜びはより強かった。濡れた衣服の重みも気にならない。ゼロは唇の端に薄笑いをへばりつかせ、朧な人影へと走った。両の剣は腰のあたりを上下に揺れ、獲物の気配を待っている。

 近づくにつれ、人影が鮮明に見えてきた。

 灰色のローブは腐り今にも千切れんばかり、だがそれを着る人物も劣らず腐り果てていた。ゼロは束の間骸骨と見誤ったが、異様に輝く両目に気づき思い直した。落ち窪んだ頬は深い影、頭皮にわずかに残る毛髪は枯枝の如く。節くれだった腕は肉が削げ落ち骨ばかりだが、錫を握る手は力強く、その錫の上部に埋め込まれた宝石が淡く光って、闇にくすんだ人物像を浮かび上がらせている。人影の背後に微かに見えるのは、棺程の大きさの箱。ゼロの笑みが広がる。恐らく中身は財宝。

 男が錫を差し上げた。ゼロは本能的に錫の届かぬ間合いで立ち止まった。男の顕わになった歯がかたかた震え、どうにか言葉らしきものを絞り出した。

「彼女は……カロールは生きている。死ぬ筈などあるものか」

 声には異様な響きがあった。成程、とゼロは口の中で呟いた。噂通りだ、この男、完全に正気を逸してやがる。

「あれから二百年だぜ」ゼロはさらに挑発した。「生きてるかもしれん、すっかり干乾びた姿でな。そう、お前と似た姿でな。そんな女に財宝をくれてやる位なら、俺に寄越せ。それが有効ってもんだぜ」

「煩い!」頬の肉が腐り落ちているにしては鋭い叫びを男は発した。

「こいつは渡さん!」

 左手を伸ばし、棺様の箱に振れた。一方の手を力強く振り上げ、錫を床に突き立てる。大理石に亀裂が走り、ゼロはすかさず飛退いた。亀裂は見る間に広がり、優に人を飲み込める程の幅になった。

 だがゼロを引きずり込む目的では無かった様だ。亀裂から二本の巨大な腕が生えて淵を捉え、その腕が本体を引き上げた。一瞬の後、ゼロの眼前には大理石の身体を持つ巨人が立ちはだかっていた。第一の迷宮にて出会ったと同じ、彫像の戦士。

「大地の技か」ゼロは呻き、石の棍棒が届かぬ場所へ退いた。天井に届かんばかりに棍棒を振り上げ、石の戦士は只の一歩で間合いを詰めた。

 ゼロにとって幸いな事に、彫像の動きは鈍い。雷の勢いで振り下ろされた棍棒を躱すと、ゼロは戦士の脇を駆け抜けざま《何者》を閃かせた。右足を深く抉られ、彫像の戦士は安定を失い、地響きをあげて倒れた。

 魔道師に向き直る。ミグネは苛立たしげに錫を振り回した。

「宝は渡さん、決して渡さんぞっ!」

 ゼロは眉を潜めた。なんて妄執だ。その執念で身を滅ぼしたってのに、狂って尚も財宝に固執してやがる。

 干乾びた男は錫を高々と差し上げた。肉の落ちた顔が狂気の表情を形作る。ゼロは本能的に身を投げ出し床を転げた。一瞬前までゼロの居た空間を、錫の先端から放たれた光線が貫いた。

 ゼロは立ち上がる隙すら与えられぬまま、幾度も転げては続々襲い来る光線を避けた。それが恐るべき勢いを持つ細い水流だと気づいたのは、床に水溜まりが出現したからだ。抉られた床の状態から見て、水とはいえゼロの身体を切り裂くには充分の威力だった。

 何かの走り寄る気配を読み取ったが、注意を払う余裕は無かった。幾度目かの水撃を避けようと身を伏せたゼロの頭上を、馴染みのある裸足が跳び超えていった。

 岩を抉るはずの水撃は、蒼灰色の鱗によって弾かれた。

「……シック」

「何て情けない格好してやがる」這いつくばる殺し屋を見下ろし、爬虫人は嘆いて見せた。

 ゼロは吐息を漏らして立ち上がる。「そっちこそ遅かったな」

「これでも急いで来たんだぜ」

 不敵に笑みを漏らすシックの肩を、今一度の光線が襲った。水霊の加護を持つリズの鱗には傷一つ残らない。

「話は後だ」とシック。「水霊の攻撃は任せろ。あんたは残り三つの能力を相手にしてくれりゃいい」

「それじゃ割が合わんぜ」ゼロが抗議した。「俺は既に大地の戦士を倒した。樹木の精は引き受ける、お前は闇を受け持ってくれ」

「冗談ぬかせ」

 軽口を叩き合う間にも、水霊の力による攻撃は続き、リズの鱗によって空しく妨げられた。魔道師は狂気の呻きを上げると、節くれだった腕で錫を水平に薙ぎ払った。

 足の裏に奇妙な感触を覚え、ゼロとシックは視線を足元へ向けた。大理石の床を食い破り、得体の知れぬ植物の根が生えていた。根は見る間に棘のある茎を伸ばし、葉を広げ、不気味な赤紫の花を開いた。

 シックの表情が強張った。「用心しろ、こいつは食肉だぜ」

 その花はゼロも見知っていた。不用意に近寄る獣の肉に棘を突き立て、葉の表面で流れる血を吸い取る。だが通常の食肉植物とは異なり、この迷宮の植物は明らかに、二人の血を求めて蠢いていた。術師の意志により動いているのは明らかだ。

 ゼロは両の剣で、シックは両の爪で緑の刺客を片端から引き千切っていった。だが食肉植物は二人が片づける以上の勢いで増え続け、遂には視界を覆い尽くす程の草原となった。ゼロの衣服の裾が破られ、鋭い棘が脛に食らいついた。滲んだ血を、深緑の葉が嬉々として啜った。

 リズの皮膚は人間のそれよりも強靭だが、しかし棘の攻撃を防ぐ程では無かった。苦痛に顔を歪め、シックは押し寄せる植物から逃れようと空しくその場を飛び跳ねた。

「成長が早過ぎる、これじゃ骨までしゃぶられちまうぜ!」

「何か策でもあるのか!?」両の剣を忙しく振り回しつつ、ゼロ。

「魔道師を殺れば術は破れる、先にミグネを倒すしかねえ! この場は任せろ、あんたが近づいてミグネを殺れ!」

「飛び道具は無いぜ、レクスは地上だ! この植物を踏み越えて奴に近づくのは難しいぜ! どうする!?」

「こうだ!」

 シックはゼロの身体を掴み上げ、無造作に放り投げた。突然の行為に殺し屋は困惑し、衝撃に備えて身を丸めるのがせいぜいだった。

 不意をつかれたのは魔道師も同様だった。崩れかけた顔で驚愕の表情を浮かべるのは至難の技と思われるが、それでもミグネはやってのけた。枯れた両腕を差し上げて防御の姿勢をとる。その上半身に、ゼロの背が激突した。

 二人はもつれて転げた。立ち上がったのはゼロの方が先、だが魔道師は錫を掲げて素早く左右に振った。錫の先端から暗黒の霧が滲み出、ゼロの身体を覆った。

 その瞬間、ゼロの全身を猛烈な虚脱感が襲った。辛うじて膝をつき、頭から倒れるのを防ぐ。両手の剣を手放さずにいるには強靭な意志が必要だった。

「ゼロ!」シックの叫びが耳に届く。

 目眩を意識の外に追いやる為、ゼロは目を閉ざした。左の剣を闇雲に振り回し、闇の霧を追い散らそうと試みる。《何者》の柄は即座に熱を帯び、ゼロの掌を焼いた。

 闇の気配が薄らいだ一瞬、ゼロは目を見開いた。視界に魔道師の痩せた腕と、その手に握る錫が映った。大きく一歩を踏み出し、両の剣を振るう。《キス・オブ・ライフ》の柄が錫を叩き折り、《何者》の切先が魔道師の胸を貫いた。

「貴様の契約と貴様とで『二殺』だ」

 魔道師の耳元に口を寄せ、小声で呟いた。一瞬の後、魔道師の肉体は粉々に砕け散った。二断された錫が床に落下し、乾いた音を立てた。

 続いて轟音が鳴り響いた。迷宮全体が揺れ動き、天井の破片が頭上に降り注ぎ始めた。

「まずいぜ!」枯れた食肉植物を掻き分けつつ、シックが歩み寄ってきた。「主を失い、迷宮の意味が失せたんだ。直ぐに迷宮ごと崩れるぜ!」

「くそ」ゼロは呻き、財宝の箱に駆け寄った。棺様の木製の箱は、二百年を経たにしては不気味な程頑丈だった。

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 不意に顔を上げ、目をしばたたかせる。耳が機敏に動き、周囲に振り向けられた。

「どうしたの、シンガー?」

 愛馬の突然の行動にレクスは戸惑った。立ち上がって街道の前後に目を走らせたが、異常は捉えられない。夜明け間近の森は静寂に満ちている。迷宮に消えたゼロとシックが戻る気配も無い。

「シンガー……何か気になるの?」

 焚火を離れ、馬の首筋に手を添える。と、馬はレクスの肩口を顎で捉え、街道の中央へと押しやる様な動きをした。

「ちょっと……!」

 レクスが抗議の声を上げるより早く、遠い地鳴りが響いてきた。続いて大地が震動を始め、慌てたレクスは愛馬の首にすがりついた。大地が滑り、幾本もの木々が軋みを上げて倒れた。

 地震は始まったと同様、突然収まった。レクスは呆然と周囲を見渡した。焚火のあった場所には数本の樹木が折り重なる様にして倒れている。その場に留まっていれば、間違いなく太い幹の下敷きになっていただろう。

 レクスは愛馬の瞳を見つめ、その鼻に額を押し当てた。

「またあなたに助けられたわね」

 馬は得意げに嘶いた。レクスには歓喜の歌に聞こえた。

「あの二人、何かやらかしたみたいね。貴方は此処に居て。様子を見てくるわ」

 ――森の景観は大きく変化し、一日前の足跡を辿るのは一苦労だった。レクスは苦心して倒れた樹木を乗り越え、迷宮の入口だった場所に辿り着いた。洞窟は天井が崩れて埋もれ、その痕跡さえ見分けるのが困難だった。

 視線を巡らせる。辺り一面の樹木はなぎ倒され、大地が抉られている。視界を遮る木々が無い為、レクスは山頂までを容易に見渡せた。山全体が、巨大なハンマーで潰されたが如くの様相を見せている。

 山頂近くの山肌が削られ、大理石の瓦礫がむき出しになっていた。と、瓦礫の一角が崩れ、鋭い爪を持つ巨大な腕が現れた。

 シックは瓦礫の下からずるりと這い出ると、潜んでいた下向きの箱を引きずり出した。瓦礫を払い退け、箱を引き起こす。

「なあ、死んだか?」

「生憎だな」ゼロの返答には力が無かった。なんとか立ち上がりはしたものの、足元がおぼつかない。

 レクスは二人に歩み寄った。

「酷い有様ね」

 殺し屋と爬虫人は互いの姿を見やった。全身血と埃に塗れ、衣服は破れて見る影も無い。

「実際、酷い目に合った」ゼロは嘆いて見せた。足元に屈み込み、瓦礫の下で輝いている何かを拾い上げる。

「散々苦心して、その報酬がこれさ」

 それは小さな胸飾りだった。珊瑚を象った黄金の土台に、無数の宝石が埋め込まれている。

「……それは?」

「これがミグネの財宝さ。奴が必死に守っていた箱の中身は、これ一つだった」ゼロは肩を竦めた。「四つの迷宮を潜り抜け、四神の仕組んだ謎を解いた。四つの能力を退け、迷宮の主を倒した。得られた物は胸飾り一つ。割が合わんな」

「割が合わない、ですって?」レクスは苦笑した。「二百年間、誰一人成し遂げられなかった偉業を、貴方は成したのよ。それを――割が合わない、それが貴方の感想?」

「実益が無けりゃ、偉業も只の徒労さ。しかもこの胸飾り、四等分せにゃならん」

 そう呟き、ゼロはふと気づいた様に視線を巡らせた。

「あの女は? 姿が見えんな」

「彼女は消えたわ」レクスは感情を押し殺した声で告げた。「ねえ。彼女の言葉、覚えてる? 自分はミグネと同郷だ、そう言ってたわよね。――二百年前、迷宮の下敷きになった、その村の出身だ、って」

 ゼロはシックと目線を交わした。

「カロールか」とゼロ。「成程。腕の立つ戦士を雇っては、想い人の解放を託す。そいつを延々続けてた訳だ、二百年間」

「御苦労なこった」シックはせせら笑った。「尤も、そのお陰で多数の人間が死んだ。俺としては、あの女に感謝しなきゃな」

 レクスは感情の無い目でシックを見やり、やがて今一人の殺し屋に目を転じた。

「その胸飾り、どうするの?」

「欲しけりゃやるよ」

 ゼロは手にした装飾を無造作に放り投げた。片手で受け止めたレクスはしばし視線を落とした後、瓦礫の上に投げ捨てた。

「私には似合わないわ。それに……これは彼女の物よ」

-12ページ-

 

 ――三人の戦士が歩み去った後、二つの人影が瓦礫の上に現れた。

 太く力強い腕が、レクスの手放した胸飾りを拾い上げた。財宝は今一つの、細くしなやかな手に渡され、やがて人影は虚空へと歩み去った。

 

説明
魔導師ミグネの財宝が眠る、四階層の迷宮。謎の女に導かれ、殺し屋ゼロと相棒シックは迷宮に足を踏み入れる。――連作短編「二殺のゼロ」の一編。無駄に長いです。
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