左手ワルツ
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 常磐津の師匠をしている幼馴染に、酒の席で突然手を握られた。

 この幼馴染はいくらか小奇麗な顔をしているとはいえ、男同士だ。突然手など握られても対応に困る。

「何のつもりだよ、久一」

 思いのほか不機嫌な声が出た。

 だが幼馴染の鳥谷久一は全く気にかけず、真剣な顔を近づけて俺に尋ねる。

「なあ、どう思った?」

 そう問われても、どうもこうもない。

「……陰間かと思った」

「そうかあ。そういう見方もあるね」

 思いつきでいい加減な感想を口にしたが、幼馴染はうんうんと頷いた。

 その子供じみた仕草を見ていると、これが本当に師匠と呼ばれる人間なのかと疑いたくもなる。

 そもそも男で常磐津の師匠というのは珍しい。

 まず嫁入り前の娘に常磐津を習わせようというような親は、当然男の師匠のところへやったりなどしない。そうなると弟子は自然と男ばかり取ることになる。

 しかし男の弟子はと言うと、どうせ顔を付き合わせるのならとやはり女の師匠のところへ行きたがる。道楽であれば尚更だ。

 結局、男の師匠に付くのは本気で常磐津をやろうとする人間が主になる。そのため余程の腕がないと、男の師匠が身を立てるのは困難だった。

 少なくとも、一般的にはそのはずだ。そのはずなのだが。

「今日、大塚のご隠居が稽古に来たんだけどね」

 どうもこの幼馴染の弟子には、真面目に常磐津をやろうとする人間が少ない。どこぞの大旦那だのご隠居だの、道楽で通って来ているとしか思えないのが大勢いる。

 理由はあまり考えたくないことだが、おそらくこの男の顔を見に来ているのだろう。それも、比喩ではなく本気で。

「……あの爺まだ生きて――いや、来てるのか」

「おかしなこと言うなよう、みっちゃん。僕の貴重なお弟子さんなんだから」

 ちなみにみっちゃんとは池辺繁光の幼少期の愛称であり、すなわち俺のことである。

「おい、いい加減その呼び方は止せよ」

「何だ、まさか恥ずかしいのじゃあるまいね。別に人前で呼びやしないよ」

「そういう問題じゃないだろ」

「いいじゃないか。それにどうせ、この名で呼ぶのはもう僕だけなんでしょうに」

 『みっちゃん』は僕専用だ、と言って久一は何故か少し得意げな顔になった。それを見て、しまったと思う。

 この男はいつでも俺に対する好意を隠さない。いつからか、そのことを少しだけ苦痛に感じるようになっていた。

「……で、大塚の爺さんがどうしたって」

 このままではどうにも落ち着かないので話を元に戻すと、久一は簡単に乗ってきた。

「そうそう、その大塚のご隠居がね。いつもは稽古が終わったら丁寧に挨拶して帰るんだけど、今日はそれがないからおかしいなと思って」

 俺はぞんざいに頷きながら徳利を傾ける。空になったので次を頼もうと、久一から目を離したその時。

「どうしたんですかって言って近寄ったら、こう――」

 そう言って、久一は俺にぐいと身を寄せた。そうして再び手を握る。今度はさっきよりもいくらか力がこもっていた。

「――手を握ってきて、『妻を亡くした家に一人で帰るのが、時折たまらなく淋しくてねえ……』って哀しそうに言うんだよ」

 後になってみれば、言葉通りに受け取って同情するなり、あの助平爺がまた色気を出しやがってと笑い飛ばしてやればよかったのだ。

 だがその時は何故か、大塚の爺に大して無性に腹が立った。

 そのうえ久一の長くしなやかな指が、俺の節くれ立った指にしっとりと絡みついたまま離れない。

 俺は困った。嫌だとか恥ずかしいだとかではない。とにかくこのままでは困ると本能的に感じた。

 そんな混乱した気分をどうにかしようと、つい大声で叫んでしまう。

「おっ……かしいんじゃねえのか、その爺!? 男の手なんか握って楽しいのかよ!」

 幸いなことに、ざわついた店内のおかげで俺の声が人目を引くことはなかった。

 だが途端に幼馴染の表情が曇っていくのを見て、俺は自分の言葉が過ぎたことに気付いた。

「……みっちゃんは口が悪いなあ」

 苦笑した久一がさりげなく手を離す。それこそ俺が望んだ結果だった。

 それなのに、どうして俺は今になってこいつの体温が離れていくのを後悔しているんだろうか。

 そのことに気付き、腹の中が妙に重くなった。

 男に手を握られるのが嬉しいだなんて、どう考えてもおかしい。これじゃあ久一の手を握って喜ぶ大塚の爺と大差ない。

 だからと言って、男同士云々ではなく幼馴染のこいつだからこそ特別に感じるなんてことは、余計にあってはならないことだ。

「……ああ、そういや徳利も空だな。そろそろ帰るわ」

 俺はわざとらしく空の徳利を振ってみせてから、席を立った。もはやこのままここにいても美味い酒など飲めそうもない。

 久一は困った顔をしていたが、すぐに立ち上がると俺の後について店を出た。

 

 

 

 人気のない夜道を、家に向かって早足で歩く。

「御免。御免よ、みっちゃん」

 小走りでついてくる足音と共に、哀しげな声が俺を呼んだ。

 その声には振り向かずに、低く答える。

「別に、お前は悪くないだろう」

 俺が勝手に機嫌を損ねただけだ。

「いいや、僕が悪いんだ。だって大塚のご隠居の話をしたのは――」

 言いながら、久一が俺の隣に追いつく。

「みっちゃんが妬いてくれたらいいと思ったんだよ」

 流石にその言葉には足を止めて振り返る。久一も足を止めた。

 座っていると大差ないが、並んで立つと久一の方が俺よりも上背があるのが分かる。

「……何を考えてるんだお前は」

「ねえほら、やっぱり僕が悪いと思うだろう?」

 幼い頃はよく少女のようだと言われた久一の顔に、苦い笑みが浮かぶ。整ってはいるが、今では決して女と間違えられることはない。

 勿論、俺だってこいつを女だと思っているわけじゃない。だからこそ俺はこいつへの態度を決めかね、己の苛ついた気持ちを持て余している。

 俺が黙ってしまうと、久一は沈黙に耐えかねたかのように言葉を絞り出した。

「みっちゃんは大塚のご隠居をおかしいって言ったけど、僕もみっちゃんの手を握りたいと思ってるんだよ」

 そう言われても、別段驚きはしなかった。

 元々子供の頃から触れたがる癖はあったが、それとは別に、最近はもっと違った好意が俺に向けられていることに何となく気付いていた。

 気付いていながら、考えないようにしていただけだ。

 考えないようにしていたことはほかにもあった。大塚の爺の話であんなにも腹が立ったこと。手を握られたぐらいであんなにも落ち着かなくなったこと。

 そして、俺自身がこいつをどう思っているかということ。

「……やっぱり、おかしいと思うかい」

 恐る恐るそう付け足した久一の姿は、いつになく小さく見えた。

 こいつからの好意が苦痛だったわけが今なら分かる。好意のこもった視線を向けられる度に、まるで自分の気持ちを見抜かれているようで怖かったのだ。

 だが怖れていたはずの久一は今、俺の前でただ一言を待って俯いている。きっと俺の一言で、この幼馴染を簡単に打ちのめすこともできるのだろう。

「……ああ、そうだな。それはおかしいだろ」

 その言葉に、久一の肩がひくと震えた。

 だが向こうが何事か言う前に、俺は幼馴染の左手をとった。

「ほら、突っ立ってないで帰るぞ」

「え?」

 顔を上げた久一が掴まれた手と俺を交互に見る。その表情があまりにきょとんとしているので、少しだけ笑いそうになったが我慢した。

「みっちゃん、手……」

「生憎だけどな、俺も頭がおかしいんだ」

 できるだけ乱暴に言い捨てると、顔を背けて歩き出す。握った手は離さずにいる。

「うん、ありがとうみっちゃん」

「莫迦。会話がかみ合ってないぞ」

「うん」

 答える久一の声は、酷く幸せそうだった。

 帰り道が分かれる場所まで二人並んで歩く。

 久一は嬉しそうに俺の手を握り返して、呟いた。

「こうなると大塚のご隠居に感謝しないといけないなあ」

 その言葉に、俺は思わず顔を顰める。

「ああ! そういやあの助平爺、今度会ったら釘刺しとくか」

「いや……それはあんまり……」

 だが久一は何故か複雑な表情で言葉を濁す。俺は嫌な予感がした。

「……お前、何があった」

「御免!」

 突然両手を合わせて頭を下げる久一から事情を聞くと、予想外の答えが返ってきた。

「おい、わざと手を握られたってどういうことだ?」

「いつもなら巧くあしらうんだけど、もしみっちゃんが知ったらどう思うか試したかったんだ。だから、大塚のご隠居だけが悪く言われるのも……」

 断言するが、こいつは正真正銘の莫迦だ。

 だがそれに引っかかった俺はそれ以上の莫迦だった。

「だって、こうでもしないと手の一つだって握らせちゃくれないじゃないか」

 口を尖らせて言う久一に呆れて、思わず片手で自分の顔を覆う。

「怒ってるかい?」

「……呆れてるんだ」

「御免ね。だけどみっちゃんのためなら、僕はどんな手管だって使うよ」

 嬉しげに耳元でそう囁かれてしまうと、腹を立てるどころか嬉しいとさえ思う。

 やはり俺の頭は本格的におかしくなっているらしかった。

説明
架空レトロBL。幼馴染。常磐津の師匠。ツンデレ×長身。
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ボーイズラブ BL 架空レトロ ツンデレ×長身 幼馴染 

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