隣人
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 隣人が私に話しかけてくるのは、決まって夜半のころである。

 

「まだ、寝ていないのかい」

 

「起きているよ」

 

「もう寝なさいよ」

 

 決まった文句。私はあくびを噛みしめて、「まだ、やることがあるからね」と答える。これも決まって同じ文句だ。私は理由もなく夜更かしをするたちでもないので、でたらめを言っているわけではない。

 

「そうかい」

 

 かれはそっけなく言ってから、

 

「それは、今やらなくちゃならないことなのか」

 

 探るような声でそう訊ねてくる。私はこの問答に飽きているが、一人で黙々としているのにも飽きているころなので、適当に相手をする。

 

「明日までに、きっとやらなくちゃならんのだ」

 

「でも、もうすぐに『明日』は来る」

 

「私の明日は、朝とともにやってくる」

 

 時計を見ると、本当にもうすぐ明日になる。が、それはあくまで時計の上でのことだ。私には私の時間がある。私の明日はまだ遠い。

 

「そうか、でも、きみの時間はいったいどこにある」

 

「だから、この私とともに」

 

 質問に即答すると、隣人はげらげらと笑うのだ。少し品の無い、いたずらの成果を見て笑っている子どものような笑い声をあげる。

 

「いやいや、きみはだめだ。自分の時間をもってはいないね」

 

「どうして、そう思う?」

 

「それを今やらなくて、困るのは誰?」

 

「それは私だろう」

 

「じゃあ、それを今やらないきみを、許さないのはいったい誰?」

 

「それも、私だ」

 

 答えると、彼はまたげらげらと笑う。

 

「いいや、違うね。それを今、きみがやらないことを許さないのは、明日にそれを受け取るはずのはげのおやじだろう?」

 

「そうかもしれないが、やらなくちゃならない」

 

「そう思っているだけで、ほんとうはきみが許せばきみは眠れるのだ。自分の時間っていうのは、そういうものだよ」

 

「よしてくれ」

 

 私は吐き捨てた。

 違う、それは自分に負けたと云うのだ。自分がこれと決めた時間を生きられなければ、「私の時間」ではない。イレギュラーな行動を自分で許すなど、あってはならないことなのだ。

 

「自分の欲求に忠実じゃない時間なんて、馬鹿らしいだろう。そう思わないかい」

 

「思わないな」

 

「ほんとうに?」

 

「ほんとうさ」

 

 しばらくの沈黙の後、彼は打って変わってクスリというような、小さな笑い声をたてる。そして囁くようにして言うのだ。

 

「正直ものは損をする。でも、意地っ張りな嘘吐きはもっと大変な目に遭うもんだ」

 

 声が私の頭の中でぐわんぐわんと広がっていく。

 ぼんやりとしていて、はっとして身を起こすと、左耳の穴からすこしの砂がこぼれてきて、メヤニで目が痛んだ。

 

 隣人の声はもう聞こえなく、時計を見るともう明日が今日に、今日が昨日になっていた。

 唖然として聞き耳を立てると、隣人がもそもそとベッドに潜り込む音が、薄い壁の向こう側から聞こえてくる。

 

 私は目をこすりながら考えた。

 

 いったいいつから、自分に負けていたのやら。

 

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