マンジャック #16
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マンジャック

 

第十六章 人の集いて求むるものは

 

 薄闇の中、幾百と知れぬ人々が蠢いている。ままならず暑いばかりの空調や、自分に割り当てられた狭苦しい場所にも不平を言わず、ただこれから始まるであろう出来事の始まりを待ちわびている。

 

 池袋・サンシャイン第二タワービル75階。

 

 そのホールは、75階と76階をぶち抜いて作られた擂り鉢状の空間である。中央にセリ舞台が円形状に据えられ、そこにとぐろを巻いていくような形で外側に向かって螺旋状にシートが置かれている。

 今そこには一席洩らさず人が配され、最外郭を為す円形の通路ですら、この奇妙なイベントに参加せんと集まった観客達により埋められている。

 

 ロンド・バリ。世紀末に沸き起こったその集団舞踏は、破滅芸能、集団狂気など陰口を叩かれながらも、都市における新進娯楽としての地位を固めつつあり、都内に作られたそれ専用の劇場も片手には足らぬほどになってきた。

 文化とも、芸能とも定義立てしにくいこの奇妙な集会に、都市の若者達の多くが躊躇なく集まる。ラフな普段着や背広を身につけた彼らは、学生や社会人等、様々な人々で織りなされる。今やそこは彼らの日常の存在として、CD店で試聴する如く自然なものとして受け入れられるものとなっているのである。

 人々はここに集う。何を思って。何を期待して。

 

 ロンド・バリ第一段階。個と個を認識する段階。

 観衆は、導者と呼ばれる中央の踊り手にその視線を集めることで、ロンド・バリへの参加をする。それは導者と観客個人の、個と個の関係を基調にした精神の表現である。

 導者は観衆の前に、黒き衣を身に纏って現れる。表情さえも窺うことができないその衣装は、観客が自我を自分の中に覆っていることの象徴とされている。導者はこの様に、観客の個々の意志を代弁する存在として設定され、同時にやがて彼らが赴かなければならないだろう精神のありようにまで導く存在として機能している。

 導者の合図で舞踏が始まる。ここで言う舞踏は導者が行うのではなく、観客達の様々なリズムの表明、すなわち、手拍子なり、足を踏みならすなりすることを指す。

 その拍子は初めはゆっくりだが、やがて自然に一秒よりも僅かに速い程度のものに収束していく。会場全体で周期的に織りなされる雷鳴地響きのようなリズムが、観客達の興奮を高める作用をしている。

(明美書房刊 池田羅月著 ”ロンド・バリ” 第三章より抜粋)

 

 ホールの人々はざわめいていた。照明は既に、床からの反射が眩しいほどに中央舞台の上に集められ、開演時刻も過ぎている筈なのに、ロンド・バリを行うに中心となる人物、導者が出てこないからだ。

 しかし、このざわめきは不審とか、怒気含みのものではない。それどころか、既に何度も通い詰めているような観客達にとっては、この様なシチュエーションは好ましいものとさえ思っている。というのも、こういった”待ち”や”焦らし”といったものが、ロンド・バリにおけるベテラン導者の使う演出だからだ。

 期待を持って来る人の事前の興奮を助長する効果を狙ったもので、ともすれば自分に制御できないほどの興奮の中に立たなければならない事にもなりかねないため、一流の導者でなければしない演出だ。だから通の者は言う、今日は期待できるぞ。

 これは、裏を返せば、今日集まっている観客が、既に会場に来る前から明らかに興奮していた事を示すものでもある。それは、ここ数日都内各所で頻発するテロ事件が起こした社会不安が原因の一つでもあろうか。そして、それでもなお強行される今日のこの舞踏に、集う人々の期待は無意識にせよ高まっているという事なのだろう。

 ましてや、中央の照明を外してまで取り付けられた、天井中央の大がかりな開閉扉。六枚の三角形を六角形状に並べた扉が開いたとき、いったい何が起こるのか。観客は導者を待つまでもなく、興奮するのだ。

 何かが起こることを期待して。

 

 ドン!

 誰かが大きな音をたてて足を踏みならした。

 それが合図となった。リズムは瞬く間に会場全体に広がり、ある一定のリズムへと収斂してゆく。

 ロンド・バリ、集団陶酔舞踏の第一段階を示す地響きが始まった。

 

 くくく。導者を発端としなくとも良いほど積極的になっているな。分厚い鉄筋の天井を通じてすら、上から響いてくる重い轟きに満足して、成木は思った。

 彼は今、会場の真下、舞台のセリが降りている脇にいた。セリのリモートスイッチか、何か小さな機械をいじっている。しかし彼の描写で特筆すべきは、その身がいま黒い衣に覆われていることだろう。

 闇より湧き出したような黒い衣を纏って、彼は上階に今にも上がらんとしている。

 そう。彼は導者になっているのだ。ロンド・バリ、幾百の人が集まるこの集会の中心人物たる、導者に彼は憑いていたのだ。彼は既にこの男の身体中枢の制御も完璧に把握し、後は観客からの招きに応ずるばかりとなっている。

 彼らをもっと興奮させるのだ。成木は導者の身体を揺らして笑んだ。

 そして導いてやる。新しき場所へ。

 

「始まったか!」

大野は叫んだ。原尾と駆け上がる階段の上方から、隠しようもなく響いてくるその音を認めて、彼の声には少なからず戦慄が篭っていた。それは人が集っていること。集団転移の獲物となるべき数えきれぬ人々が、そこに集まっていることを示していたからだ。

 大野と原尾は、ロンド・バリが行われている75階から5階ほど下の階段を駆け上がっていた。

 二人はあれから、事故すれすれの際どい運転で、園子をかつぎ込んだ病院からすっ飛んできたのだ。そして今は、出来るだけ自分達が来ていることを悟られないようにする目的から、65階から非常階段に抜けて会場に近づこうとしていたのである。

「事前阻止には間に合わなかったわね。」

原尾も同様、気落ちした声で言った。もし間にあったなら、対特の権限を行使して、舞踏の開催を阻止するつもりだったのである。

「ああ。」大野は半ば空返事をしながら考えていた。

 車中で行った無線による応答でも、警視庁の混乱はまだ治まらず、援助はとても期待できなかった。だからこそ懸命にここまで来たのだが、ロンド・バリは今一歩と言うところで始まってしまった。もう覚悟を決めなくてはならない。

 となれば。と大野は思った。原尾の処遇を決断しなければなるまい。

 

 大野は駆け上がる足を突然止めた。だから勢い余った原尾は大野の背にぶつかってしまう。

「ど、どうしたの。」

てっきり75階まで上がるものと思っていた原尾は、息を切らしながら尋ねる。

 大野は、彼女を見ずに言う。

「もう一度会場のレイアウトの確認をしたい。不意を突くには現場を知る程いいからね。」

彼は、踊り場の脇にあるドアに近寄った。そして二秒で鍵をあけると、さっさと中に入ってしまった。

 車中であれほど食い入るように調べていたのに...。原尾は訝りながらも大野の後に続く。

 部屋は配電室のようであった。入って正面の暗闇に、緑と赤のランプがポツポツと見える。してみると、かなり狭い部屋のようだ。

 上からは止まることなく足踏みによる振動が響いてくる。もうこの部屋のすぐ上は会場なのだ。

 原尾は無線機を渡した。そのモニターには先に警視庁コンピュータよりダウンロードしておいた会場の見取り図が映されている。

 大野は差し出された無線機を手にした。原尾には、微かに触れた彼の左手から、彼の感情を感じとることはできなかった。

 大野は覗き込むように身をかがめた。為に原尾にはその次の行動が見えない...。

 会場について、大野さんはどうするつもりなのか。大野を見下ろしながら、原尾は思っていた。ロンド・バリが始まってしまった以上、成木がどの時点で集団転移を実行しようとするにせよ、熱狂する観客達の中での大野の阻止行動は、それこそ捨て身にならねばならないだろう。そういった決意でいる筈の彼に対して、私はどうすれば足手まといにならないだろうか。

「!」そう思ったとき、原尾は大野の真意を悟った。が、それは、瞬間身をあげた大野が、原尾のみぞおちに拳を埋めるのと同時だった。

「ぐっ。」原尾は瞬時にして腹中の空気を抜かれる。

 大野の選択は、原尾をここに留めておくこと...。

 合気道をやっている彼女に当て身を入れられたのは、彼女が自分に気を許してくれていたからに他ならない。それが分かるからこそ、崩れていく原尾に、大野は静かに言った。

「ここまで来れたのは君がいればこそだ。だが、危険な目に遭うのは一人で充分だ。」

 死ぬ覚悟なんだわ。薄れていく意識の中で原尾は思った。彼は全てをこの闘いに賭けている。その決意は鬼気迫るものがある。だが、それが分かるからこそ、彼女は自分を連れていって欲しかったとも思う...。

「な...ぜ...。」原尾はくずおれた。

「すまない...俺がハンターだからだ。」

 そっと暗闇に寝かせた原尾にそう言い残して、大野は出ていった。

 

 が、大野はとんでもないミスを犯していた。警視庁のデータは会場見取り図のみだったから仕方がないとはいえ、彼は、配電盤の向こうには実は空間が続いていたこと、そしてその向こうには、黒い衣装に身を包んだ男が、二人の会話に耳をそばだてていたことに気付かなかったからである。

 

 スポットライトが集まる会場中央、幾百の視線がその光よりも強く、激しく見つめていた丸い舞台に、変化が生じた。リノリウムの床に亀裂が丸く生じ、蓋が開くように下に落ち込んだのだ。

 会場内の足踏みにいっそうの力が加わる。いよいよ始まる! その期待が、否応なく彼らの心に勢いを与えているのだ。

 

 男が出てきた。黒い男が。

 

 せり上げ舞台からその姿が現れるにつれ、会場内には今までとは別の雰囲気が漂いだした。

 おー!!

 一斉に声が出た。腹の底から絞り出す、建物すら震わす程の声が。そして全体の拍子も、一気にテンポが速くなった。

 彼らの昂ぶる心は、彼ら自身を高みに引きずりあげるべく、沸き始めた。そして黒き布に開けられた穴から、それを見つめる成木。

 ロンド・バリの導者となって、成木はどうするつもりなのか。そしてそれが、集団転移と何の関係があるというのか。

 

 ロンド・バリ。第二段階。個が個に集中する、もしくは、個が個に吸い寄せられる段階。

 観客達は導者をカリスマとして認識し、完全に導者の動き、指示に同調する。足踏みや手拍子に、声(多くの場合咆哮)が加わる。テンポの刻みは倍加し、二分の一秒より僅かに速い程度になる。

 導者の指示は主として、観客全体の拍子を二分割することに費やされる。これは後の複雑なテンポを行うに際して観客を支持に慣れさせるためと、観客の意識の制御を自分の元に完全に置くためのものである。

 導者は観客の精神的な解放を積極的に促すため、象徴的な行動を取る。すなわち、纏っていた黒布を取り去るのだ。この時多くの場合導者は半裸もしくは全裸である。これ以降、導者は本格的な舞踏を行いながら客達に指示をだすことになる。

(前掲書 第三章より抜粋)

 

 成木は導者として舞台に登場するや、観客に己の存在感をアピールする行動を開始した。

 黒布に隠された両腕をゆっくりと横に広げ、自分を大きく見せて観客を惹き付ける。集中、熱狂の度合いを感じとって再び腕を上に上げていく。昂揚感を煽るのだ。

 観客もそれに乗り、どよめきが湧く。

 それにしても、腕を上げるだけで観客の心を掴み、更なる高みへと引き上げる。成木の憑いている導者はおそらくロンド・バリのシャーマン(ダンサーのこと)の中でも一二を争うほど熟達したテクニックを持つ者だろう。

 雷雲が沸き上がる時にも似た全体の気分の昂揚。成木の憑いた導者はそれを、入道雲としてイメージしていた。もくもくと高き空に巨大化するそれは、やがて空いっぱいに己を広げ...。イメージが限界を感じとったとき、成木は跳んだ。

 ダンッ。思いきり身体を広げて着地する。彼を取りまく客達の中の正面半分がそれに同調して音をたてる。

 成木はもう一度跳ぶ。そして空中で反転して反対側を向き、同様に着地する。

 客達の残り半分が、それに同調して吼えたり足踏みをしたりする。

 成木は満足げに頷いた。客達の心が自分に向いていることに。

 

 ロンド・バリ会場の入り口扉を前にして、男の一瞬の躊躇い...。

 しかし、俺は何でこんなことしてるんだ。大野は自問する。

 報酬に見合ったことしかしない、危険なことには首を突っ込まない。プロのハンターとして、そのくらいのことは常識だ。それがどうだ。いつ死ぬかもしれない状況に、わざわざ向かっている。何故だ?

 彼のその一瞬には、多くのものが去来した。人が、時が、想いが...。

 やがて彼に浮かぶその表情は...。

 俺は...、あの男と対峙できる力を、たまたま持っている。そして俺以外にそんな奴がいないとすれば...。大野は苦笑を置き去った。

 当然、俺がやるしかないじゃんか。

 

 バン! 勢い込んで扉を開けて、ロンド・バリ会場の最外郭に達した大野を、とてつもない轟音が襲った。

 オーッ! オーッ! 足踏みと共に叫ばれる咆哮が、大野の鼓膜を直撃したのだ。

 それは会場定員の750人を遥かに越えた人々の、この閉鎖空間全てを震わせる大音響だ。

 さかんに飛び上がる者、腕を振り回す者、会場の中にごった返す彼らそれぞれが、己自身の方法でもって熱狂の様を表現する、そこはもう、日常とは完全に切り放された異空間になっていた。

 とはいえ、まだ集団転移は行われてはいないようだ。大野は複雑に安堵しながら視線を飛ばす。会場に隙間なく埋められた人、人、人。八百...九百? そして彼らの頭の先に、彼ら全ての者たちの視線を一身に受ける男。

 導者...。成木か?

 大野は半ば本能的にそう思った。成木が集団転移を実行するとして、人達の真ん中にいるのが一番合理的だとの推論は、後からついてきた。

 直情径行のある大野はいつもなら、ともすれば違うかも知れない可能性など考えることすらなしに、中心にいる人物に突進していったであろうが、今回は違う。

 そんなことをすれば、理性を失った観客にもまれて、男の衣服すら掴む前に殺されてしまうだろう。冷静に事態を判断する心で、彼はそう考えて直進を思いとどまったのだ。

 大野を慎重にしているもの。それは、言うまでもなくこの闘いの重要性だ。彼が負けたら後がない。彼を落ち着かせているもの、それは、もし彼が成木に負ければ、成木を止められる者はいないのだという、自分を絶望的なまでに崖っぷちに立たせたプレッシャーだ。

 だが、なればなんとするのか。あの導者がもし成木であれば、今この瞬間にすら集団転移に繋がる何かを始めかねない。そうなってからではもう遅い。この人の壁をかき分けてそれを阻止することは不可能なのだ。

 全てに於いて追い詰められていくこの状況で、しかし大野の表情にはまだ余裕すらある。彼には一案があるからだ。というのも、車中で原尾に運転を再度任せねばならなかったほど食い入るように見ていた会場の見取り図の中に、ある一計を為すヒントが記されていたことからである。

 大野は上を見上げた。無数のライトの光条に遮られてはいるが、網状の鉄板を敷き詰めた構造の天井は、その上に明らかに空間があることを示していた。中心部にある巨大な開閉部から見て、そこから出てくる何かを収容するだけのスペースはあるだろう。

 すっ、と大野は扉横の暗幕の中に身を隠した。そして翻って壁の所を見る。彼はニヤリとする。そこには、客から見えないようにして上方へと続く梯子が取り付けてあった。

 さっすが警視庁のデータだ。見取り図どおりだ。

 彼はもう一度振り返って導者を見た。

 ここを上って上からならば、お前と俺の間には阻む者はなくなる。体当たりしてでもお前を倒してやるぜ。

 会場内でただ一人、他の者たちとは違った視線を導者に残して、大野は梯子を上っていった。

 

 天井裏は、大野が思っていたよりも広かった。少しも小さくならない轟音に聴覚を占領されながらも、彼は観察の目を飛ばす。張りがむき出しになった天井からは、舞台裏らしく夥しい数の電線やロープが垂れ下がっている。本当に工事中なのか、よほどの突貫工事をしたかのいずれかであろう。全般的に、慌ただしい行動を為した雰囲気がある。

 その先、会場の中心方向に視線を移すと、あった。下から見たときに開くであろうと予想された部分の丁度真上に配された物体を。

 それは一見、いかにも奇妙な物としか映らなかった。敢えて何かと言われれば、全体でそれは何かをモチーフとしたオブジェに見える。

 六角形の開閉部分は、三角形を六枚敷き詰められて成り立っており、それぞれが外側に向けて開く構造になっているようだ。そして奇妙なのが、その扉一枚一枚に一本ずつ突き刺してある鉄棒だ。それはくの字に曲げられた片方を扉に突き刺し、もう一端は中心に背を向けるようにして外側に突き出ている。使用途がさっぱり分からない以上、オブジェとでも考えるほかないような代物だ。

 何に使うんだこんなもん。大野は半ば呆れながら近づいて見る。開閉部は確かに導者の真上にあるのだが、開閉扉は結構頑丈な造りになっているので、密かにこじ開けてということは出来そうにない。

 ちっ。成木に近づくにはブチ破るしかないか。彼は下を覗き込んで思った。だがそうなると、不意打ちは出来なくなる。一撃必殺が出来ないのは痛い。

 そうしているうちにも、飛び回っている導者は確実に観客達の興奮を高めてゆく。

 

「!」

一心に下を見つめている大野が、背後のそれに気付くのはいかにも遅かった。彼が防御態勢を取ったときには、ナイフは深々と彼に突き刺さったからだ。それが左腕だったのは、単に幸運だったにすぎない。

「ちいっ! また左腕か。」

叫んでナイフを引き抜く男の影。

「な、な、な。」大野は飛び退いて頭を回転させる。彼の脳には連想的に単語が飛ぶ。”ナイフ”、”また?”、”ジャッカー”、”敵意”...。彼は結論を、体勢を整えつつ叫んだ。「操乱か!」

 僅かに差し込んでくる、会場の過大な照明の反射に照らされて、男が現れた。大野はその顔に見覚えはないが、ヒステリックに口元を歪める男の表情が、自分に対して敵意を持っていることはわかる。

「流石だな。ピンぞろハンターよ。」男が呟くように言った。「いかにも俺は操乱だよ。」

 

 オン!! 一際大きい観客達の咆哮。成木はこの反応に、ロンド・バリ第二段階もかなり熟してきたことを感じていた。

 これはどうしたことなのか。自分で煽動しておきながら、彼らの振る舞いに成木は今更の驚きを隠せない。この会場を自分の行動の拠点にしていた彼である、導者となったことも一度ならずあるのだが、その度に思う疑問を、今日もまた彼は感じていたのだ。現代の社会、それも都会に住む人々にとって、個人であることは絶対不可侵の牙城として離したがらなかったものであったはずだ。それが今はどうだ...。彼ら自身にとって一番大切な物は自分自身ではなかったのか。

 成木は舞踏する。太古から続く闇を纏った力強さで...。

 彼らは己であることに意固地になればこそ、頑なに己の本質を知られることを恐怖していたのではなかったのか。本能のままに身体を動かしながら、成木は自問する。一抹の怒りをこめて。

 そんな愚かしい心が集まった社会だったからこそ、今の世に病的なまでのジャッカーへの嫌悪が生じたのではないのか。そんな人々ばかりになったからこそ、我らジャッカーが社会的迫害者にまで追い詰められたのではなかったのか。

 そんな人々がしかし、今はロンド・バリに熱狂する。放心して、白痴寸前の表情をしているサラリーマンと思しき男に視線を合わせて、成木は思う。

 個というものを自らかなぐり捨てるロンド・バリに、彼らはのめりこんでいる。

 いまそんな彼らを導いているのは、ジャッカーである自分...。

 成木が憑いている導者のその瞳には、侮蔑とも憐憫ともつかぬ色が浮かんでいた。

 人とは、所詮人との関わりの中にあってこそ人なのか。

 

 バッ! 突然成木は、マントを取り去った。導者としてのその動作は、観客が自我の壁を取り去ったことを象徴する行為とされる。観客がいっそう湧いたことは、そのタイミングが正しかったことを示す。そしてそれ故に、再び彼ら全体が奏でる曲のテンポが上がった。

 よかろう。成木は思った。矛盾に満ちた人間どもが生み出した、矛盾に満ちたこの舞踏。最後まで演じてやろうではないか。

 マントを捨てた導者は半裸であり、女性かと思えるほどしなやかな身体を持っていた。そんな導者が生み出す力強い舞踏。

 それは観客に、導者があたかもアンドロギュノス(両性具有者)であるかのような錯覚を起こさせる効果を持つ。導者は観客達から、自分と同じ者として共感を受け、また自分に無い物を持つ者として憧憬の対象ともされる。男達、女達の心に等しく訴えかける者として、ロンド・バリの導者にはそのようなハーフの体型を保つ者が多いのだ。

 成木は叫ぶ。儀式化された、それ故に聴く者の魂に届く呼びかけを。

「我らの心に狂気は満ちた。かくてなお汝らの望むものは何ぞ。」

 人々はその問いに答える。儀式化された、それ故に叫ぶ者自身を震わす言葉を。

「血だ!」そして更なる大きな声で、「贄(にえ)だ!!」

 

 ロンド・バリに湧く人々のほんの少し上で、大野と男は隙を見せぬように身構えている。闘気が二人を包んで弾け合う。

「...。」男を見つめる大野の表情が険しい。彼はさっきから心の内に篭ったものがあったのだが、それをどうしたものか決めあぐねていたのだ。

 操乱は自信満々だ。自分の先制攻撃が大野をおののかせていると思っているのだ。

 当然だよな。操乱は思う。セリフも決まったしな。

 悪いかな...。翻って大野はまだ思っている。でも、やっぱり後で困るしな...。大野は悩んだ末に、意を決して叫んだ。「今なんて言ったんだ!」

 こ、こいつは...。ひっくり返った操乱は思わず逆上した。聞いてなかったのか。操乱は答える代わりにナイフを大野に向ける。

「だって下うるさいんだもん!」躱しつつ大野は叫ぶ。

「名セリフなんだからしっかり聴けよ!」怒りにまかせた操乱が攻撃する。

「長ゼリフ多いんだから一言くらいいいだろ、成木!」

「成木は下だ。俺は操乱だ!!」

 はーい、やっぱりそうだったのね。大野は刃を避けつつ心中ほくそ笑んだ。やっぱりあの導者が成木だったか。

 しかし、大野の余裕もそこまでだ。操乱が大野に近づきざま身体を回転させ、体重を乗せてナイフを切りつける。その速度!

「!」楽々躱した筈の大野の服がひらりと垂れた。

 き、切っ先が鋭い...。大野は瞬時に顔色が変わった。踏み込みがもう一歩あったら身体が真っ二つじゃねぇの。お、怒らせといて良かった。

 このテクもジャックして得たんだろうが、いったい誰から盗ってきたんだか。大野は混乱しているが、それでも何とか考える。これほどのナイフ捌きを持つ者がそんじょそこらにいるはずはない、東京はまだ魔界都市ではないからな。しかしとなれば思い当たるのは...、こないだのクール隊の男か!

 シュン! 大野の胸の前で閃いた光は、彼にすら追い切れぬものだった。

 身体の回転を止め、再び大野に向き直った操乱の顔に浮かぶ笑み。

 くっ。自分を取り戻してきたな。大野は真剣に焦燥してきた。冷静になったら躱せないかもしれん。

 大野は下を見ることすらできないのに、時だけは過ぎる...。

 成木はどうしてる? 大野は忌々しげに思う。集団転移はどうなった?

 

 ロンド・バリ第三段階。”個”同志が互いを認識しあい、調和を成し始める段階。

 観客の気分が昂揚してくるにつれ、拍子、そして音楽そのものがそれに応じた変化をしていくが、足踏みなどをするのに物理的な困難を要する四分の一秒よりも速いテンポになるにつれ、音楽そのものの維持には他の客との拍子の分業が必要不可欠になってくる。そしてやがて観客一人一人がその音楽を構成する単位として存在していることを認識するのである。それは、自分一人ではこの曲をこれ以上制御しきれないことを意味し、それ以上の昂揚感も得られないことを意味する。畢竟、観客個々人は、全体の中で自分の造り得ない他の部分を補完してくれる必要不可欠の要素として他の観客を認識することになる。

 自分の昂揚感を満たすものが基本的に歌い手一人である人気歌手のコンサートと、ロンド・バリの熱狂が別次元にあることの本質はこの部分にある。すなわち、中心となる個とのみではなく、周りの他者との関係が心理的な絆のようなものでネットワーク化してゆくのである。それはあたかも、究極の個人主義と究極の全体主義に対比せられる。

 導者の舞踏はそれまでのような、観客のどの部分にどのパートを担当させるかを具体的に指示する目的を持った舞から、全体としての曲に合わせた舞に変化してゆく。それは部分となった個々の観客に全体のイメージを伝達する目的で行われ、導者の舞踏の才能、表現力などが最も試される段階である。

 この段階では希に、原初の衝動を観客に起こさせる手段として、”血”をモチーフとした儀式を導入することもある。導者の脇に引き出される鳥、小動物などを剣や鉾などによって殺害することでそれを得る。この生け贄のことを”贄”と呼ぶ。

(前掲書 第四章より抜粋)

 

 回転しながら上昇するセリ舞台に、観客達は熱狂した。彼らはそこから上がってくる物が何か知っているのだ。自分達の興奮を更に高める存在、”贄”が上がってくることを。

 だが徐々に台が上がってくるにつれ、彼らはそこに、いつもとは違うものを見出すことになる。それもその筈、そこに乗っているのは動物ではなく人、人間の女だからだ。

 台が一回転して上昇する毎に彼女は会場にその全貌を見せ、上部に取り付けた無数の照明が彼女の全身を照らし出してゆく。そうして人々の前に晒されたその女性の顔を、大野が見たら肝を潰すほど驚いたろう。彼なら見違える筈もない、少し青ざめてはいるがその顔は、紛れもなく原尾だったのだから。

 

 遂にセリが登り切って、原尾は舞台に立った。人々の注視の対象にされた彼女は、背中に大きく黒模様がある以外は純白の布を着せられている。その表情は必死で現状の何かを打開しようとしているそれだったが、彼女の努力も空しく顔以外の四肢はピクリとも動かない。

 一体どうしちゃったの。原尾は自分の身に起こったことが理解できず、そう思わず洩らしてしまうのだった。

 それでも原尾は現状の把握に全力を注ぐ。大野にみぞおちを打たれて気を失ったことまでは記憶にある。では、今のこの状況は何だ。そして、体の自由がきかないのは何故だ。

「気がつきましたか。お嬢さん。」

大音響の中、自分に向けられる声に原尾は振り返った。

 導者? 言葉が、原尾の脳裏を掠めた。同時に、自分がロンド・バリ会場にいることも朧気に理解した。

「あなたには施術させてもらいました。ここで重要な役割を演じてもらいたいものですからね。」

 施術...催眠術か。はっとして導者を見つめる原尾。そして彼女はその男の顔に、もう何度感じたか分からない邪悪な何かを嗅ぎとった。

「黄泉...。」

 成木が微笑む。黄昏にこそ相応しい男は、まさにその時刻にこそ輝きを増すのか。

 

 ふふふ。操乱が笑っている。自分にさんざ辛酸を舐めさせてきた大野より、明らかに優位に立っていることが分かっているからだ。

 全く俺はついてるぜ。(いや確かに転移してるから憑いてるんだけど、そうじゃなくて、”おっ百円落ちてるじゃんラッキー”の方のついてる、だ。)操乱は思う。開閉扉の最終調整に、渋々ながら上がってきてみれば、大野がのこのこと昇ってくるじゃないか。ここで会ったがって奴よ。今までの礼は倍にして返してやる。

 操乱は飛び込んで一閃。今度は踏み込みが深い。大野は目一杯後退するも、右腕に血線を引く。

 ちいぃぃい! 何かないか、ないかないかないか。大野が打つ手を考えてまごつくうちに、操乱のナイフが休む間もない返し手をうつ。こいつっ。

 キンッ! 金属音が響く。大野が思わず手にした棒が操乱の攻撃を止めたのだ。

 体勢を立て直して、あらためて大野はその棒を手に取る。それは集音用のマイクを取り付けるスタンドであった。会場の音を拾うために天井の梁からにょっきりと突き出しているのを偶然手に取ったのだ。

 まじまじとそれを見つめていた大野は、左腕でそれを天井から引き抜いた。

「形勢逆転だな。」大野が言った。「こっちの方が長い。」

「単純な理屈だな。」言いつつ、操乱は再度攻撃を仕掛ける。しかし、繰り出したナイフは鉄棒によって遮られてしまう。

 大野の笑み。だが、操乱も笑み。大野が不審顔になる。

 ナイフは鉄棒で止まっている。だが、操乱のもう片方の手が、拳銃を取り出して大野に狙いを付けた。

 な! 操乱の銃の腕前は渋谷で痛感している。大野の眉間に据えられた狙いはまず外すまい。

 ガン! 操乱は撃った。大野は思わず弾丸を左腕に当てて回避する。が、無理な動きで尻餅をついてしまった。すかさず再び銃を構える操乱。

 大野は左腕で思いきりスタンドを引くが、もう間に合わない。

「死ね!」操乱が撃つ。大野の眼差しはしかし、たじろぐことなくそれを見据える。

 

 ドサッ! 鈍い音。その音と共に倒れ伏したのはしかし、座り込んでいる大野ではなく、銃を撃った操乱の方だった。彼は引き金を引く寸前、何重にも束ねられたコードにいきなり降り懸かられ、その下敷きになったのだ。

 そのコードは、天井の梁の上に無造作に束ねられたものだった。マイク設置の際に長すぎたコードを、調整することなくそのまま放置しておいたのだろう。大野が引っ張ったのはスタンドではなく、束ねた固まりに繋がるマイクのコードの方だったのだ。

 起きあがった大野は、埃を払って操乱に言った。

「言ったろ。形勢逆転だって。」

 

 大野はつと操乱を見て、完全にのびていることを確認すると、回り込んで下をあらためて覗き込んだ。真下では導者が少し退き、円形に開いたセリ舞台が下から上がってくるところだった。しかし、そこに乗っている影を見て、大野は飛び上がらんばかりに驚いた。

「ま...マキちゃん。」

 

「一体何を企んでいるの。こんな茶番があなたにとって何の意味があるの。」

原尾は寧ろ冷静に成木に問いかけた。会話で集団転移の実行を引き延ばすことが、今の彼女にできる闘いだと思ったからだ。その心の強さは、彼女の職業がさせるのか、それとも大野への絶大な信頼がさせるのか...。

「茶番に思えるかね。ふふふ。」成木は苦笑した。「そう思われても仕方がないかもしれないね。」

 動けない原尾の背後にしゃがみかけ、彼は続ける。

「だが私は、無駄な行動はしない。」

 どういうこと。原尾は成木の言葉の真意を測りかねたが、それ以上考えられなかった。再び立ち上がった成木が、手にしたナイフを、原尾のうなじに走らせたからだ。

「痛っ」彼女が痛みに呟いた。そして、それが引き金になったかのように、ナイフが付けた傷口から血が滲み出した。

 

 し、しまった。天井裏から見下ろす大野は、頭を殴られたような衝撃を受けていた。何て馬鹿なんだ俺は。あの舞台下と配電室は繋がっていたんだ。

 とはいえ悔やむより、成木を倒して原尾を救う方が先決だ。大野は不意打ちが駄目になったことを幸い、開閉部をぶち破ることにした。大野の最大の武器である左腕の破壊力をもってすればそれも不可能ではあるまい。だが、成木への攻撃というステップに繋げることを考えると、一撃で破壊しないと意味がない。それには、左腕のパワーを最大限に引き出さねばならない。

 最土家で起こったような激情の爆発による左腕の力の暴走は制御が難しく、オーバーヒートの末に暴走してしまう。今回はあくまでも冷静に、力を貯めることが不可欠なのだ。

 落ちつけ。落ちつけ。

 大野は、はやる心を必死に抑えながら、腕に力を貯め始めた。

 

 原尾の汗の浮かんだうなじにつけられたナイフの筋後から、見る見るうちに赤いものが湧き始める。

 原尾は恐怖する。傷つけられたことにではなく、会場内にいる九百人を越える一般人の殆どが、彼女の首から流れる赤い血に、心からの歓声をあげていることに対して。

 ヤッ!! ヤッ!! ヤッ!! ヤッ!!

 贄に人間を使う。ちょっと考えればそれが行き過ぎた行為と分かるはずだ。だが、過激化するイベントの行き着く常として、観客達はその事実を微塵も疑わずに受け入れているということなのか。いやそもそもそうした判断力すら、人々からは既に失われてしまったということなのか。原尾の着た衣の、純白の背を染めてゆく赤さは、寧ろ絶大な刺激となって彼らの脳幹を刺激してすらいる。

 そしてその血が、衣の中心の黒き模様を浸食しようとした時...。

 バッ! 突然、原尾の纏う衣の黒模様が動き、音を立てて衣から飛び出すほどに大きくなった。

 な、何? 原尾は背中に氷が走る。これは、ただの服じゃない!

 彼女の驚愕をあざ笑うように、彼女の背には1mはあろう黒い物体が蠢いていた。そう。模様と思っていたものは蝙蝠だったのである。プリンスホテルで死にかけた成木を己に憑かせたあのオオコウモリが、彼女の背を覆わんばかりに羽を広げたのだ。

 彼は血の匂いを嗅ぎつけるや、息を吹き返したように動き始めたのだ。羽ばたきつつ原尾の背をよじ登るや、ディナーとして差し出されたうなじに咬みついた。

「ああっ。」

 原尾のあげる悲鳴にどよめく人々。何という偏執、何という狂気。

 ここに、観客の平常心は無くなった。全体の曲に合わせた調和感と、贄のもたらす血のイメージが、彼らに至高の陶酔を与えてしまったのだ。

 痛みから逃れようとしても、首から下の原尾の身体は施術によりびくともしない。

 彼女が打ちのめされたのは、寧ろ心の方だろう。彼女の回りにいる人々は、公僕に就く者として、彼女が守っていると思っていたもの...、ここに集うほんの三十分前までは、ごく普通の一般人だったのだから。

「いったい...。」原尾は喘ぎながら成木に問う。「この人達は何なの。何故ここに集まってくるの。彼らは一体何を求めて、こんな悪魔のような行為に参加しに来るの?」

 勝利を確信した者は饒舌になるものだ。それは成木とて例外ではない。

「不思議かね。彼らの異常が。嫌いかね。彼らの本質が。」

「本質?」

 原尾は問い返し、成木の満悦した笑みを誘う。

「そうだ。ここで見せている彼らの喜悦は、彼らの私生活に於いて隠匿している個そのものなのだ。」

 

 臨界だ。大野は左腕に貯めていた力が、これ以上ないというレベルまで達したことを感じていた。これなら。

 彼は真下を見下ろす。騒然たる人々の舞踏の中心では、導者たる成木が、棒立ちになった原尾の回りを飛び回って何事か語っている。左腕の高指向性集音マイクでも、この大音響では流石に使えないが、原尾が時間を稼いでいるのだろうことは察せられる。

 待ってろよ。いますぐ...。大野は篭ったエネルギーでうっすらと光りすら放っている左腕を振り上げ、真下の開閉扉に向かって振り下ろした。

「うっ!」

大野は自分を襲う凄まじい殺気に思わず身を躱した。

 山となっていたコードを切り上げつつ縦に振り上げられる光条は、すんでの所で大野を掠めた。

 大野自身は無傷だったが、攻撃態勢にあって逃げ遅れた左腕の薬指と小指が宙に舞い、逃げ場を失ったエネルギーで小さな爆発を起こした。

 爆発の光で浮き上がった操乱。手にしたナイフの輝きは、第二ラウンドの始まりを告げていた。

 

「日常生活に於いて彼らは、非の打ち所のない善良者だ。彼らは人生の大部分を、そうした皮を被って生きている。」

 社会を維持するために取られたこうしたシステムは、故にこそ個人主義を奨励する。社会の趨勢と教育による根拠の浅薄な個人主義の賛美は、人の行動を過激な方向にしか進めない。結果、彼らの被った皮はいつしか壁になり、殻になり、己を包みこんでしまう卵となった。その中に留まることは、子宮内の胎児ほどの心地よさだろう。だがそれは 個人主義の行き着く先であり、限界でもある。

 導者として踊りながら、成木は原尾に語る。

「内面の快楽はしかし、相応のストレスと表裏一体だ。個人に尊重される権利と権限は、同時に個であることの責任と強さ、意志を持たねばならぬ義務を持つからだ。

「その重さに堪えきれなかったからこそ人々はここに集ってくる。堕落と焦燥が己を染めきった人々の無意識の欲求が彼らを宛てもなく突き動かし、彷徨した末に辿り着いた場所がここなのだ。」

「辿り着く? 澱だわ、これは。」原尾は反駁する。

「いいことを言うね。正にその通り。ここは彼らの堕落の果てだ。理想の捻じ曲がった投影だ。リビドーの落ちこんた奈落の底と形容してもいい。」成木が広げて見せた腕の先には、蟻地獄の巣のような会場が浮かぶ。そして、落ち込んだことすら気付かず歓喜におぼれる観客達が...。

「私はロンド・バリが世紀末に湧いたことの必然性を、だからこそ感じる。他との調和、一体感をなす舞踏であるロンド・バリが、今の世に現れたことの必然を。」

「それはおかしいわ。」原尾はなおも対峙する。「人が希求するのは恒久的な幸福である筈よ。」一般論ではあろうが、それは市民を守ることを職務とする原尾の論理の基点であり、行動のよすがでもある。「ロンド・バリは刹那的な人との関係でしかない。魂の救いはこんなことで得られる筈ないわ。」

 彼女の理想は、目の前の嫌悪したくなるほどの事実の前ではいかにも説得力を欠いている。

 時間伸ばしの駆け引きによって始めた議論ではあったが、皮肉にもそれが彼女自身を追い詰めだしていた。

 

 大野は舌打ちして体勢を操乱に向ける。せっかく貯めた左腕のエネルギーが放散してしまったからだ。だが落胆は許されない。操乱の仕掛けた今の一閃は侮れないものだ。銃弾すら貫けない左腕の指を切り取ってしまったのだから。

「寝てろよ。もう。」

もう一度心理的有利に立とうとして大野は挑発する。操乱はうまく、またも怒りを爆発させたようだ。

「貴様...許さねぇ。」

 よし、切れちまった。大野は冷や汗を落としつつもニヤリとする。

 タンッ。軽快な音と共に、操乱が近づく。ダッシュの瞬発とバネはさっきの比ではない。

 くっ! 大野は思わず引く。そうは言っても距離を置かないと...。

 雑然と物が散乱しているこの場所では、体勢を崩し易いが故に接近戦は地の利がある操乱に有利だ。後退の判断は正しいだろう。

 だが大野が行動したその瞬間、操乱の表情に理知の閃きが出た。計算高い、罠を持つ者の目だ。

「かかった!!」

操乱はもう片方の手に隠し持っていたコードを引いた。大野が確認するまでもなく、そのコードはずっと大野の行く先まで続いており、延びきったそれは後ろ向きに退いた大野の足に引っかかる。

「!!」

大野は転倒した。咄嗟に反転して手をついたが、お陰で操乱に背を曝すことになる。

 芝居をうったか。大野は愕然とした。こいつ...キレてなんかいねぇ。

「何度も同じ手にかかると思ったか。」襲いかかる操乱。

「ちぃい!」

 

 原尾は今、自分が精神的に追い詰められていることに焦っていた。だがなんということだろう、それは今にも成木が集団転移を行うかもしれないという緊急度が為しているからではない。彼女を追い詰めているのは、目の当たりにしたロンド・バリの事実。彼女の生きる世紀末で、ロンド・バリのような文化が違和感もなく存在するというその事実だった。

「あなたが、彼らが魂の救いを求めていると思っているのは、一面正しい。だが大きな勘違いは、あなたはその理想のよすがの先に神を見ていることだ。」

 成木の舞踏は、背後の客達と完全に同化している。舞踏の最終段階が近いのだ。

「現代社会に住む彼らのような、神と同等の生活を送る者たちに、神は不必要だ。何故なら彼らにとって神は、もはや己を救う者ではないからだ。清貧者に来世での平穏を約するかつての神は、現世に満たされた彼らを救う力を持ちあわせてはいない。

「彼らがここに集まったことそれ自体がその事を裏付けている。」成木は皮肉をこめて言う。「なぜなら、ここは神の目すら届かぬ場所なのだから。」

 地上200mのバベルの搭にあるこの会場に、外を見られる窓はない。

「それじゃあ。」原尾は抗する。さっきと比べればいかにも頼りなげな声で。「彼らがここに集うのが、彼らにとって何らかの救いがあるからだと言うの? こんな閉じきった人いきれだけのつまった空間が、彼らにとってやすらぎの場所だと言うの?」

 精一杯の抵抗は、成木に苦もなく受けとめられ...、

「見て解らないかね。それが事実であることが。」

「!」原尾は言葉を失った。目の前に展開されているこの狂いの宴、彼女の目に映る狂然たる光景を構成しているものは、間違いなく人...、心底からの神の陶酔を表現している悪魔の仮面は、隠しようもなく顔そのものであり、それを被っているのは間違いなく人なのだ。

「ああ。」原尾は嘆ずる他なかった。

 

 道化と悪魔の仮面の使い分け。大野を油断させ、更に地に伏させたその才知は、大野を憎めばこそ操乱に閃いたのであり、真下の客達はそを讃えているかのように一層激しく沸く。

 そして大野は無防備の背を向けたまま。

 勢いに乗った操乱はそのまま大野に覆い被さるようにして身を倒す。突き立てたナイフは、大野の心臓に狙いづけられる。

 ズン。

 

 ナイフは深々と、その刃の根本まで刺さった。ただし、大野の左腕の中に。

 義手! 操乱は心中叫んだ。伏したままの大野の、ヨガの行者でも不可能な位置に回された腕が、常識の範疇で攻撃した操乱を嘲笑する。

 ナイフは大野が回した左腕を掌から突き刺し、そのまま一直線に腕を鞘として納め込んだ形になった。

「ちぃい!」

今度は操乱が悪態をつく番だ。だが、ナイフは抜けないどころか、操乱の手はそのまま大野の左手に包み込まれてしまっていた。

 接近戦の最大の武器であるナイフは封じられた!

 大野は操乱の右手を掴んだまま体を素早く反転させる。反撃のために向き直った大野はしかし、操乱の闘志はまだ消えないことを知る。

 大野の眉間に、操乱が左手が手にした拳銃を突きつけられたのだ。

 殺気立つ操乱。だが、まんじりともせず見つめ返す大野。

 

 大野の勝ちなのだ。銃を持つ操乱の左手には、大野の右手が添えられていたのだから。

 

「彼らはここで自由を得る。」まるで諭すように成木は繰りかえす。「一人であることを一時でも止めたいと思う人間はここで、人の海に浸かることで逆説的な自由を得るのだ。」

「こ、こんなところで、こんな神からも見放された場所で...。」原尾のあえぎ。

「絶対の個を手に入れた彼らが求めるのは、皮肉なことにそれを手に入れたが故に失った”人”だった。そしてその希求がピークに達したときのみ、人は人に接しに来る。それがロンド・バリだ。ここに集う人々は、己の持っているそんな矛盾に羞恥を感じることもなく、人の波の中で漂うのだ。ロンド・バリという舞踏に一時の快楽を興じるのだ。」

 人は、エゴイズムを持ち合わせたまま他人を欲する。何と都合の良い話であろうか。

 愚劣なほど単純だが、原尾にはそれ故にこそこの行為は人が為すものだと思え...。

「だからここでの自由には、天使の羽も、悪魔の翼もいらぬのだ。」成木は彼女に追い討ちをかける。彼が発する喜悦を反映するように、蝙蝠もまたうち震える。

 微笑んで、成木が叫んだ。

「ここでは、天からも自由になれるのだから。」

 蝙蝠が飛んだ。

 

 ロンド・バリ第四段階。個が個でなく、全体が単位となる段階。

 ロンド・バリの最終段階。観客の意識は、全体の曲の中に埋め込まれ、全員一体となって曲を奏でるという行為そのものに対して集中することになる。ここにおいて”個”は、単位としての機能を失い、あたかも全体の部分として位置づけされるに相応しくなってくる。前段階を更にテンポアップし、十〜十二分の一秒ほどのリズムで全体の曲が創生される。この段階では導者の導きすらほぼ必要なくなる。全体の中で自分がどの役割、どのパートを為すのかは観客自身が本能的に判断するのであり、曲は全体の意志が赴くままに展開される。その曲は似て否なる物であり、二度と同じ曲が演じられることはない。(そのライブ性が、ロンド・バリの人を惹き付ける一因となっている。)曲は、客達の舞踏する体力が尽きたところで自然崩壊する。放心で倒れる者、疲労で意識を失う者は数しれない。

(前掲書 第五章より抜粋)

 

 叫声が閉鎖空間を満たした。客達の舞踏のテンポは遂に十二分の一秒に達し、ロンド・バリ円舞曲の本当の始まりを祝したのだ。

 人を欲する心自体に何が悪いことがあろう。少なくとも原尾はそう信じてきた。だがその確信がぐらつくのは、ひとえにここの参加者達のこの醜態を目の当たりにしているからだ。

 調和(と、ロンド・バリでは称している)に入った彼らは理性をかなぐり捨て、およそ人間とも思えないほど舞踏に酔いしれている。手を挙げ、だらしなく大口を開き、一つのリズムとなって曲を構成していることに魂からうち震えている。

 倦怠、退廃、鬱屈、無為。世紀末の舞踏、原尾が今初めて目の当たりにしたロンド・バリから受けるイメージは、どれも昏い場所から湧き出してくる重いものばかりだ。

 人を欲して何が悪いの。原尾は自己矛盾に陥りだしていた。

 人の希求。その言葉に寄り添っていた筈の一抹の暖かさは、閉塞した未来像を演じる彼らの前に、脆くも瓦解してゆく。

「かくて、人は人間であるがゆえに幸福である。」

成木は原尾を見透かすように言葉を告げた。牧歌の昔日に人を謳歌した詩人の言葉は、世紀末に生きる原尾の心には、社会の絶望宣告そのものとして映った。

 

「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁあ!!!」

操乱が絶叫する。大野がその手から、拒絶波を出したからだ。

「がぁぁああぁあぁあぁ。ああぁぁぁぁあ!!」

微塵の容赦もない大野の精神波に、真下の客達の大音響にも負けぬ雄叫びを発する操乱。

 畜生。このままでは、自己崩壊しちまう...。畜生!

 操乱は思うが、どうしようもない。彼が憑いた身体は既に彼の制御から離れてしまったのだ。大野の眉間に突きつけた銃の引き金を引く指すら動かすことができないことが、彼の悔しさをいや増した。

 大野はゆっくりと身を起こすと、柄をくわえて左腕のナイフを引き抜き、操乱から拳銃を奪い取った。そしてその間にも、反対にくずおれていく操乱に、更に精神波動を強める。悲鳴が高まる操乱。

 

 操乱は自分が気絶しかけているのか自己崩壊しかけているのか分からなくなっていた。彼は既に依童の制御の殆どを失い、視覚から入る情報の、大野が立ち尽くす様を見ているばかりだった。

 開閉扉の上に立ってやがる。開閉扉...だと。

 

 ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ!!

轟き渡る声は、心地よいゆらぎを伴って会場を満たす。ロンド・バリの綾為す響きは、この狭き空間を埋め尽くす全ての人に陶酔と恍惚を与える。

「今の彼らの喜悦は、集団の中に没入し、一要素となっているという事実そのものから来る。彼らは今、個人としては存在していない。ロンド・バリの最終段階では、客達全てが、あたかもそれ全体で一つであるかの様な状態になっているのだ。」成木は既に導者のリードから離れて舞いだした周囲に目をやりながら原尾に語る。

「この状態、何かに似ていると思わないかね。」

「!」ああ。原尾は思わず心中で呻いた。これは、これは...。

「集団...転移。」立ち尽くす原尾が小さく答える。

「そう。複数の依童をジャックできる集団転移に酷似しているのだよ、ロンド・バリは。」そして原尾の耳元で呟いた。「だから、私が集団転移を追究する場として、ロンド・バリを選んだとしても不思議はないではないか。」

 これだけおおっぴらに転移のことを話しても観客は全然反応しない。おそらく論理的な会話そのものが、ロンド・バリのこの段階に達してしまった人間の脳には解析できないのだろう。

 

「ま、まさか...。」

原尾は思わず呟く。成木がロンド・バリ会場を選んだのは、単に人が集まるという理由だけではなく...。

「ふふ。集団転移の前段階。私にとってロンド・バリの位置づけはそういうものなんですよ。」

 打ちひしがれ、驚愕する原尾。だが、彼女の感情がどうあろうと、それは遂に始まるのだ。

 

 バン!!

あまりにも突然に、開閉扉は開いた。下に向かって開いた六角形の空間。扉の一つを足場としていた大野は、宙に浮かんだ。

「なっ!」

大野は思わず操乱から手を離す。擂り鉢状の会場の中央だ。下までは10mはある。

 落ちる!

 何が起こったかは知らないが、とにかく落ちる。藁でも何でも...、掴んだ。大野はロープを掴んだが、弛みきったそれでは下まで落ちそうだ。

 つ、ついてねぇ! 大野は共に落ちるロープを昇るほどの勢いで、それでも何とか...「だぁ!」...別のワイヤをひっ掴んだ。

 助かった。ぶら下がった格好の大野はほっと一息つく。開閉扉を取り付けてある六角形の鉄枠を固定するワイヤの一本だ。これなら安心だ。と思ったのだが...。

「あ。」

 見上げると、そこに操乱が立っていた。

 

 六角形の開閉扉が開き、各扉から突き出た鉄棒と、ぶら下がった大野が衆目に曝される。沸く観客。

「大野さん!」僅かに視界に入った大野を見て、原尾は叫んだ。絶望に追い詰められた彼女の叫びは、故にこそ真意を伴って彼を希求する。

 天井で、だらしなく宙ぶらりになっている大野は、声には気付いたが、愛想を返している余裕もない。

「あんな所にいたのか。ハンターめ。」成木も気付いた。そして大野の上に立ちはだかっている操乱らしき影に叫んだ。「落としてやりたまえ!!」

 その声に客はまた沸く。彼らの理性は失われているのだ。

「言われずとも...。」操乱は呟いた。大野がひきつるのは、今度こそ操乱が切れているだろう事がその表情から察せられることだ。

「おい。ちょっと待て、落ちつけ。」大野は無駄と思うが言ってみる。こういうときの常套句だからだ。

「待ってろ...。ワイヤごとお前の腕を切り落としてやる。」操乱は大野が捨ておいたナイフを再び手にしている。

 切れてる奴が切る。いかん、冗談言ってる場合じゃない。大野は焦った。奴の腕ならホントにワイヤでも切るだろうが...。

「止せ。お前、ここの構造を熟知してんのか?」大野は寧ろ操乱の憑いた依童の身体を案じて叫ぶ。「固定ワイヤってのは、何処と繋がってるか分かったもんじゃないぞ。」

「安心しろ。」操乱は目が据わっている。「この扉は成木が後から付けたものだ。ワイヤの一本切ったところで、天井が落ちはせん。」

 操乱はナイフを振りかぶった。

「止めて!」原尾が叫ぶ。

「いい余興だ。」成木が笑む。

 ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ!! 興奮する客達。

 

 切った。

 大野の腕がミリ秒前まであった位置のワイヤは寸断された。大野はすんでで手を離したが、当然その見返りは、「落ちる!」だ。

 勝った。操乱の心が喜悦で満ちる。とうとうあのピンぞろハンターをやった!!

 操乱は自分が切断したワイヤが、張力によって上方に吹っ飛んでいくのは計算ずくだった。だが、大野が先程掴まろうとしていたもう一本のロープが、下から急速にせり上がって来るのは予想していなかった。

「!」彼は視界の隅に、壁際を巨大な方状鉄塊が落ちていくのが見え、それにワイヤとロープが付けられているのが見え...。

 ロープは瞬く間に操乱を襲い、彼を抱えて上に飛ばす。

 操乱は目を剥いた。自分が運ばれて行く先に、天井の梁がロープを引っかけていたからである。

 確かに天井は落ちなかったが...。

 ザッ。

 鈍い音をたてて、操乱の憑いた依童の身体は両断された。

 原尾は目を背けた。成木ですら声を失ったが、客は沸いた。

 

 依童の身体は左脇の下から心臓を通って右脇腹に抜ける形で真っ二つにされた。下半身は梁に引っかかり、上半身だけが落下する。

 操乱はその瞬間、開閉扉の一つから突き出た”く”の字状の鉄棒に掴まっている大野を認めた。大野は、落ちたわけではなかったのだ。

 ドサ! 操乱は天井裏に落ちた。その顔は、思わぬ事で自分が死にかけているショックより、またしても大野に勝てなかったことへの悔しさで火と燃えていた。

 負けるのか...。クール隊アジトでのジオの言葉が、朦朧とした操乱の頭をよぎる。安らぎだと? 満足だと? けっ! 俺はそんなに達観しちゃいねぇ...ぜ。

「畜生...ちくしょう...ちく...。」

 

 左腕で掴んだのか。運のいい奴め。成木は鉄棒にぶら下がっている大野を見て苦々しげに思った。だがまあいい。あの状態で奴はもう動けない。

 成木の考え通り、大野は動けなかった。闇雲に鉄棒を掴んだはいいが、離れなくなってしまったのだ。

「こ、これは...。」大野は気付いたようだ。そして真下の成木に叫ぶ。

「貴様、これからやる気だな。」

 成木が冷笑と共に頷いた。

 

「大野さん! ロンド・バリが...ロンド・バリそのものが、集団転移の為の儀式だったのよ!!」原尾が叫んだ。

 だろうな。聴こえないところは唇を読みながら大野は思った。集団転移を決行するのに何か別の方法があるとすれば、導者としての成木の熱意は不自然に大きすぎる。そしてこの両者の関係はそもそも、人間の脳幹をそのまま晒け出すような集団狂気舞踏の会場を成木が狙っていると分かったときから、薄々感じていたことだったのだ。

「その通りだよ、ハンター君!」成木は叫んだ。「私はロンド・バリに接したとき、殆ど直感的にこの舞踊と集団転移の類似性を頭に描くことができた。

「そのきっかけはこのリズムだ。ロンド・バリの最高酩酊に達した者たちの作り出す、この曲の持つ周波数は、全体と個との関係である集団転移を研究する上でも重要な部分だったのだよ。」

 ガイア周波数か。大野は苦々しく思った。一歩間違えればトンデモな話に聴こえるが、地球そのものが振動している周期である10〜12Hzの波動がガイア周波数と呼ばれ、それが人間や生物に及ぼす効果は、近年徐々にではあるが認められることが多くなってきているのである。

 アフリカ系の民族音楽や、和太鼓のトリの部分での乱れ打ちなど、このテンポが昂揚した人間達によって自然生み出されるリズムであることは少なくとも事実であり、ロンド・バリもそんなガイア周波数を集団の無意識によって作り出すということなのだろう。そしてそれらはどれも、多数の人間がその音楽に等しく心酔することが必修条件となっている。

 

「故に私は集団転移を追究する上で重要な鍵を握る材料としてロンド・バリを認め、様々な工夫をして人々の昂揚感や酩酊状態を高めてきた。」成木は記憶を反芻して語る。「だが結論から言えば、その研究は徒労に終わった。どんなに彼らが全体としての一体感を強めても、集団転移は出来なかった。すなわち彼らの精神を飛ばすことは出来なかったのだ...。」

言葉を止めた時間の長さは、そのまま成木の味わっていただろう焦燥を投影している。

「だが。」

「そこへ万丈司か?」大野が叫ぶ。

「そうだ。人工転移を、集団転移へと至る別の角度からの方法である人工転移法を売買するという、万丈の情報を手に入れたのだ。だから私はジャッカーの立場を悪くするだけのその男を制裁し、人工転移法もいただくことにしたというわけだ。とはいえ、まさか最土が集団転移まで完成させているとは考えていなかったがね。」

「じゃあ、プリンスホテルでの成果がこれって訳か。」大野は自分が掴まっている鉄棒を指して言った。

「流石だな。私はあの時、このお嬢さんの中の万丈の残留思念から、人工転移に外部刺激としての高周波が必要だということは知り得たのだ。だからその仕掛けを作ったのだよ。」

 花びらの如く開いた天井扉に付くアンテナは、してみると花弁か。新しき人が生まれる要因の一つが花を模しているのは、空間への電波の伝搬の必然なのか、それとも成木の闇の美学なのか。

 原尾は心底驚いた。私に転移している短時間の間に、私自身がイド催眠による決死のサイコダイブで得た情報以上のことを掴んでいたとは。なんというジャッカー。おそるべし成木黄泉。

「用意がいいわけだ。」大野は叫ぶ。「じゃあ最土の家から持ってきたディスクから得た情報は、その周波数と出力だけで良かったって事か!!」

 成木の笑みは大野の推理を裏付ける。120MHz近傍の高周波には、脳内の神経伝達パルスと相乗効果を起こす領域があることが知られている。最土は重症の精神患者を用いた人体実験でそれを突き止めたのだろう。

 では、上に出てきた六本のくの字棒は、アンテナだっていうの。原尾は思って、あらためて上を向いた。だがその時、彼女は大野の真上に、黒い影を見つけて叫んだ。

「危ない! 大野さん!!」

 

「ピンぞろハンター!!」

ナイフを持った上半身だけの依童に憑いた操乱がその最後の力をもって、アンテナにぶら下がっている大野に飛びかかってきた。

 大野は目を剥いて驚いたが、それは自分の身を危惧したからではなかった。

「危ないぞ! こいつに触んな!!」

 操乱の勢いはしかし、大野の忠告で止まるはずもない。加速度をつけたナイフは、金属棒に一回手をついただけで大野の心臓に届くのだ。

 今度こそ終わりだ!

 操乱は金属棒に手を添えた。これで大野を一突きにできる。

「死ね!」

 だがその瞬間、彼は凄まじい光を発して燃え上がり、何をすることもできずに爆発した。高出力で高周波を出しているアンテナをまともに触れたためだ。

 大野は操乱の頭が炸裂する刹那、その唇が悪態をついているように見えた。

 四散する血肉が、会場に降り注ぐ。叫声をあげる客達、おぞましいことにそれは恐怖ではない、歓喜だ。

「狂ってやがる。」眼下の者たちを見て、大野は呟くことしかできなかった。

 

 ああ。地獄の光景に原尾は正気を保つのが精一杯だ。だが、彼女の正常を保ちさせしむる最大の要因は、既にアンテナには電流が流れていたことが判ったからである。それは、集団転移が今しも始まろうとしていることを告げるものであり、今以上の悲劇の始まりを予感させるものだからだ。

 操乱の爆死はこれから始まる更なる地獄のプロローグでしかない。

 ! しかし原尾には、読者同様腑に落ちない点がある。

「大野さんは何故無事なの?」

「俺は電波のエネルギーを電池に吸い取ってるのさ。」唇を読んで大野が言った。「成木をぶっ飛ばすための力を蓄えてんだよ!」

「ふふ。上手いことを言う。できるものならやってみたまえ。」成木が挑発する。「君はそこから離れられん筈だ。」

 見抜いてやがる。大野は舌打ちした。誘電体は高電圧に引き寄せられる。ましてや持ってしまったら、離れるのは至難の業だ。

「そこでじっくりと集団転移の完成を見ていたまえ。」

 

 成木の集団転移の完成を目前にしながら、全く動けない大野と原尾。

 正に万事休す!

 

 集団狂気が作り出すリズムと、目に見えぬ高周波との相乗効果。これぞ集団転移に欠くべからざる二条件。

 その両方が整えられ、今まさに九百人を越える大規模の集団転移が起ころうとしている。

「ううっ。」

大野は呻いた。観客の織りなす動きが、一秒前よりも確実に揃ってきているのだ。それはリズムに合わせて一斉に動くというものではなく、全体で一つの...まるで九百人が一つの細胞になって、脈打つような動きをしているのだ。

 それはあたかも新しい生物が誕生する前の胎動のようであり...。

「この時をどれだけ待ち望んだことか。」成木は原尾に言った。「ゼロ・ヒューマンとなって以来、私がどれほど集団転移を希求したか。」

「何故私に話すの。」原尾が成木に問う。「何故私にそんなことを言うの。」

 成木はつと我に返った。

「確かに、私があなたにこんなことを打ち明けるのは奇妙なことだ。だが考えても見たまえ。今この瞬間にも、集団転移が実現しようとしている。」

「あなたが操れる人数が増えるだけのことじゃないの。」

「ふふ。女性はリアリストだな。だが今回に関してはそれは視野狭窄というものだよ。集団転移はあなたが思っているほど単純なことではない。

「何故なら、集団転移の本質は、ジャッカーが多人数に憑けると言うだけのことではないからだ。私が集団転移を追究していたのは、集団転移のもう一つの側面を見てみたかったということがあるからなのだよ。すなわち、依童の意識そのものを彼ら自身の体から解き放つという依童側の変革を。」

「!」

「そうなった瞬間、彼らの意識は私の元に集い来る。九百余人が一つの心になるのだ。」成木はその言葉に陶酔していた。

「素晴らしいことだとは思わないかね。それはこれからの人類のあり方となる。人の心は全て一つ所に集められ、私の心の元に世界の人々が動かされるのだ。」

「あ、あなた。」原尾はやっとの思いで言い返す。「おかしいわ。」

 

「見栄だよ。」成木は思いついたように言った。「私があなたの意識を覚醒させたままにしているのは。」勿論もう一つ、大野に対する人質と言うこともあるだろうが、それは言わずに彼は続ける。

「これから達するであろう人類の新しい地への邂逅の瞬間に、一人の目撃者もいないなど、惜しい事じゃないか。」

 大野は戦慄した。会場の人々が、北朝鮮ですらかなわないほどの調和した動きを始めたからだ。螺旋状に配された人々のその動きは、人そのものは動かないのに、何かを中心に送っているように見える。

 それが何であるのか。成木の今の会話を聞いていればこそ、大野は恐怖する。

 このままでは何もかも終わりだ。何かないか。何か。

 

 バン!! 大野の焦燥がピークに達したとき、会場のぐるりにある十二のドアが全て開け放たれた。

 一つのドアにつき四〜五人ほどがいる。シルエットになってはいるが、戦闘服らしい様相と、ヘルメットを被っている。そして何より、銃を手にしている。

「ようやく助けが来たようだぞ。」成木がぼやいた。「おかめ仮面にならなければよいがね。」(きっついなぁお前。)

「機動隊!」原尾が叫んだ。援助の隊が派遣されたのだ。と思ってすぐに彼女は訝んだ。しかし...どうやってここを...。

「違う!」大野が叫ぶ。自動小銃持ってる機動隊なんかいるもんか。「自衛隊だ!」

 光の加減に目が慣れてくると、戸口に配された彼らはくすんだ濃緑の衣服を身につけ、自動小銃を構えているのが分かる。大野の言う通り、自衛隊らしく見える。

 期待されぬ者の突然の乱入に、舞踏のテンションが少し落ちた。

 それを待っていたかのように、銃を構えた者たちを脇へ退かせて現れた男が拡声器を持った。

「すぐに騒ぎを止めなさい。国家機密を不当に漏洩した者を匿っている疑いがあるため、我々の指揮下により君たちを拘束する。」

 隊長らしき男は続けて驚くべき名を挙げた。

「原尾マキ! お前がここにいることは判っている。名乗りを挙げたまえ。」

 えっ? 原尾は訳が分からない。一体どういうことなの。

 救援に来てくれたと思っていた男達が、実は自分を取り押さえに来た? 彼女は事態の全く予期せぬ方向性に、すっかり混乱してしまう。

 

「原尾マキ! 出たまえ。いることは判っている。

「!」とにかく反論をと、叫ぼうとした原尾の口を、成木が押さえた。

「殺されますよ。お嬢さん。」成木は囁く。「あなたを本当に捕まえるのなら、それは警察の仕事でしょう。司法が為すべき仕事を何故自衛隊がやるのです。彼らの血走った目を見なさい。あなたは口実に過ぎない。」

「出てこないならば、実力行使に出る用意がある。」隊長は最後通牒らしき宣告をした。構える兵士達。

「まさか。」

 原尾の言葉は、成木に打ち消される。

「撃てますよ。彼らの目的はここの鎮圧にある。」

 ダダダ!

 扉の付近にいた観客が倒れた。舞踏が止んだ。

「なっ!」大野は信じられない面持ちでそれを見た。「ホントに撃ちやがった。」

「馬鹿な!」原尾は成木に口を押さえられたままで叫んだ。「何てことを。」

「あなたは21号特令を使ったんでしょう。」成木は言った。目を見開き、原尾が硬直した。「あれは元々、こういう処置を下すための特令なんですよ。対特に与えられた権限など表向きに過ぎない。発生源の完全抹消を行うための初期通報システム。それが21号特令なのです。」

 なんだと。成木の唇を読んで大野は愕然とした。

 ダダダ!

 また人が倒れた。

 成木は狙撃者に手をかざす。

「人を支配する者はそれ故に、かくもそれを浸食されることを畏れる。転移可能者を最も忌み嫌ったのは権力者だったのだから、ジャッカーが生まれた時点でこの特令は作られる運命だったのですよ。」

 成木は原尾の口から手を離した。力無く原尾が言った。

「そんなことを...あなたが何故知ってるの。」

「私が、ジャッカーだからですよ。」成木の言葉は何故か、原尾にはもの悲しく響いた。

 ダダダ! また撃った。最外郭の五十人程はほぼ即死だろう。

 その行為。原尾は怒りで髪が逆立ってゆく。彼女の心をあれほど追い込んだ人々の死は、それでもなお彼女の心を震わせたのだ。

 どんなに荒んだ心を持っていても、どんなに未来が暗鬱に満ちていても、私は彼らを守らねばならない。原尾の中で何かが弾けた。私はそれで糧を得、そしてそれよりなにより、私にはそれが生きる意味なのだから。

「やめて!」その激情が原尾にかけられた施術を解いた。すぐにも彼女は手を広げて叫ぶ。「私が原尾マキよ!!」

「無駄ですよお嬢さん。彼らは止めない。」

 原尾は成木に振り向いてその胸ぐらを掴む。

「解ってるなら。解ってるなら元に戻しなさいよ!」彼女は振りかぶって会場の人々を示す。「あの人達を!! 一人でも逃がしなさい!!」

 原尾の激情に、成木は動じない。どころか、この期に及んでなお、彼女を気圧すような落ちつきさえそこにはある。

 成木の落ちつきの根拠。それを彼は、冷厳に語る。

「ロンド・バリだけで集団転移を為すには、実はけっこう時間がかかるのです。集団の無意識はカオス的で、その統一は気紛れを待たなくてはならないですからね。ところが興味深いことに、あるエッセンスが加わるだけで、それは瞬く間に促進されることを、最土は突き止めている。」

 成木が余裕と自信で見上げる先には、エッセンス達が攻撃を仕掛けている。

「ま、まさか...。」

 驚きと怒りに震える原尾に、予感を裏付ける成木の声が届く。

「死への恐怖。これがあるだけでね。」

 大野と原尾は心臓が止まりかけた。

 

 兵士達が四連射目を放とうとしたときだ。観客達に変化が起きた。

「あ。」はじめは一人の呆然とした呻き。「ああ。」それが二人の嘆きの声となり、「ああああああ。」十人の詠唱となって...、

「ああああああああああ!!!」九百人の悲鳴となった。

 彼らは思った。死にたくない。死にたくない。そして目指した。中央を!

 螺旋に配されたシートを乗り越えて、彼らは集まる。落ちる。中央へ、擂り鉢の底へ。

 中央にいた原尾と成木はあっと言う間に客達に飲み込まれる。身体が潰されそうになり、思わず原尾は悲鳴を上げる。「ああ!」

「マキちゃん!!」大野は叫ぶがどうすることもできない。そしてその間にも、兵達は追い討ちをかけるように客達の背に弾を埋め込んでいく。

 地獄だ。大野は思った。これは地獄だ。

 利用するったって。みんな死んじゃ何にもなるまい。成木!

 

 原尾は圧死寸前だった。おそらく肋骨の二〜三本は折れただろう。この分だと後五秒も持たない。

 私はこの人達を守らなくてはならないのに、これでは...。人の中に埋もれゆく原尾が、悔しさに涙を流した。

 だがその時、客達の動きが止まった...。

 

 兵達はその瞬間から、急に撃つのを止めた。いや、正確には、撃てなくなったと言った方がいいだろう。彼らは自分達が標的にしている人間達から発せられる、形容のできない何かに気圧されて、引き金を引くことは疎か、動くことさえできなくなってしまったのだ。

 

 大野は見た。彼の眼下で、会場の真ん中に必死で逃げる人々が、もうそれ以上行き場を失ったときだ。そこで立ち止まってしまった彼らから、彼らとは違う別のものが動くのを。それが真ん中に、導者の元に集まってゆくのを...。

「こ、これが...、集団...転移...。」

 

「集まってくる。集まってくるぞ。」成木は悦びに震える。「人の想いが...人の心が...。」

 

 静寂が訪れた。そこに居合わせた全ての者が、ある者は立ったまま、またある者は倒れたまま、止まっていた。

 生と死の境が、そして個人と集団との境が、その瞬間には無かった。

 

 

 

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第十七章へ続く

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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