明日あたりはきっと春
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 二度ほど、大きな失敗をしました。

 鬱陶しそうな表情で、松木さんは言った。

「二度ほど」

 鸚鵡返しに言いながら、私はロールスクリーンを下ろして西日を遮る。まだ鋭さを残した陽光が、窓ガラスを通り過ぎて、私たちのいるダイニングまで転がり込んでいた。松木さんは髪をかき分けて、それから再び口を開いた。

「そう。二度ほどです」

 松木さんは、少女である。病によって、このあいだから、そういうものとして暮らしている。その前は、老爺として、暮らしていた。

 私は、松木さんの、世話係だ。このあいだまでは、仕事として、このあいだからは、より近しいものとして、やっている。気付いたら、そういうことになっていた。

「どういう失敗だったんですか」

 二つの湯呑みに煎茶を注ぎながら、私は松木さんに訊いた。

「どういうものだったでしょうか。……はっきりとは、覚えてないので」

 そこまで言って、ただ、と、松木さんは付け加えた。

「ただ、くだらない失敗だったということは、覚えています」

 私は煎茶を啜りながら、松木さんの横顔を見た。二月の終わりの、午後のことだった。

 

 

 事務所の所長と喧嘩をして、仕事を辞めた。喧嘩の内容は覚えていない。たぶん、とてもくだらない事だったのだろう。

 とかく私は、怒った。怒りに怒って、早足のまま、仕事場へ向かった。

 その当時の私の仕事というのは、ホームヘルパーだった。昼の、隙間のような時間に、衰えた人の家事を請け負ったり、おつかいに行ったり、していた。

 松木さんは、その当時、私が担当していた老人だ。年老いた一軒家に一人でいた。足腰が弱り切っていて、御手洗いに向かうことすら困難であったが、しかし、一人でいた。

 仕事を辞めるにあたって、私は松木さんのことだけがひどく気がかりであった。勿論、私ひとりが辞めたところで、松木さんが訪問介護の契約をしている以上、別の誰かが松木さんの手足になるのだから、心配なんてどこにもないはずなのだ。

 しかし、私は心配した。松木さんには、私がいなければ一人きりになってしまうのではないか、という、どこか妄想じみた考えを相手に持たせてしまうような、そういう空気を纏っていた。

 そして結局その日、私は松木さんの家へ向かった。行ったところで何がどうなるというわけでもないのに。

 私は呼び鈴を、二秒おきに三回鳴らした。それが私と松木さんとの間で交わした約束だった。あなただと思って出てみて、なにがしかの勧誘だったらいけませんから、とは、松木さんの弁である。

 暫くの間、私は松木さんを待った。とかく松木さんは足が悪いので、玄関までやってくるのにもだいぶかかる。

 やがて足音が聞こえて、玄関の鍵がかちゃりと開いた。

 あれ、と私は思った。足音が、いつものそれとは違うような気がした。

 松木さんの足音は、たどたどしい。今の足音も、たどたどしかったが、しかし、軽かった。ふわふわ浮くような、足音だった。

 引き戸が、がらがらと声を荒げる。違和感を抱えたままの私の視界には、見知った老爺の姿は無かった。

「あの」

 だぶだぶの、すすけたパジャマ。波打つ長髪の奥で、視線はただ私に突き刺さっていた。

「ま、松木さん、ですか」

 私は目の前の見知らぬ少女に訊ねた。少女は私の質問に答えず、うすぼんやりとした口ぶりで、大変なことになりました、とだけ、答えたのだった。

 

 

 男は、子供も大人も老人も、運悪くその病にかかれば、ただひとつの例外もなく、少女になる。そして近頃、その、運の悪い男、が、増えてきた。

 昨日の新聞に載っていた文言を、ふと、思い出した。

「僕は確かに、運の悪い人間だったかもしれません」

 そう言えば、今朝、松木さんがふいにそんな事を言っていた。聞いたその当時は、いまひとつぴんとこなかったのだけど、その文言を思い出して、なんとなく、合点がいった。

 今、私はその松木さんの長い髪を、櫛で梳かしている。風呂上がりだった。

 松木さんの髪は、長くて、白い。それでもって、やわっこい。すこしでも強く握ってしまえば、そこからもろもろと崩れしまいそうな気さえ、する。

 髪の毛だけではない。皮膚のひとつひとつ、肉のひとつひとつ、骨のひとつひとつ、その全部が、やわっこく、そしてもろく感じられた。少女である前も、松木さんはそういう人であったが、少女になってからは、それがよりいっそう、強くなった気がする。

 少女になるというのは、運が悪いというのは、つまりそういうことなのだろうか、と、私は不思議に思った。また、おそろしいことだとも、思った。

「終わりましたよ」

 松木さんの背中に、声をかける。絹のようにも見える髪の毛が、目の前で揺らめいた。

「ありがとうございます」

 遠回りな声が聞こえた後、松木さんが立ち上がった。見とれてしまうような、仕草であった。

 あるいは、と、私は思った。あるいは、松木さんは、あるべきかたちにおさまってしまったのかもしれない、と。

 病がそういう都合の良い物でないことくらいは、分かっている。けれど私には、松木さんが少女の姿になったということが、まったく意味のないことであるとは、とうてい思えなかった。

 

 

 一緒に暮らしませんか。

 松木さんにそう提案されたのは、私が仕事を辞めた、その日の夕方のことであった。

 その日私は、松木さんの保険証やら証書やらを持って、松木さんを病院へ連れて行った。それから本人確認の検査を行った後、いくつかの手続きを経て、近くの喫茶に逃げ込んだのだった。

「一緒に、ですか」

 コーヒーを吹き出しそうになるのを押さえながら、私は松木さんに訊いた。

「あなたが、次の仕事を見つけるまででもいいので」

「でも、どうして」

 頼み込むようにする松木さんに、私は訊ねた。松木さんはすこしだけ黙りこくって、それから、ガーゼのあてられた左手首をさすりながら、寂しくなってしまいました、と言った。

「若い頃は、ひとりでいても、そんなこと、思いませんでした。むしろ、よいうことであると、思っていました」

 少女になった松木さんの声は鈴の音のようで、しかし、いやにじりじりとしていた。像が、だぶだぶのトレーナーの中に、吸い込まれているようだった。

「生きながらえてゆきながら、色々な物を手放して、しがらみから逃れることができたのだと。自由になったのだと、思っていました」

 店のBGMが替わった。ジャズから、ボサノヴァになった。冬なのに、ボッサだった。

「しかし、今日になって……私は、寂しくなってしまった。取り残してきたはずなのに、取り残されていたような気に、なってしまったのです」

 半分は、独白だった。少なくとも、その時の私はそう感じた。

 思い返せば、私はあてられていたのかもしれない。松木さんのか弱さや、私自身の状況や、夕方にうっすらと表れる、暗たんとした空気に。

「住みましょう」

 ボッサが終わる頃、私は松木さんに言った。一月も前の、話だった。

 

 

 いつも、ご贔屓していただいて。

 お代を渡す私に、野々村の奥さんは愛想の良い笑顔のまま、そう言った。

 野々村さんは、服を仕立て直す仕事を、している。今は、以前の松木さんの服を、今の松木さんに合うようにしてもらっている。これも、松木さんの希望だった。

「買い直さなくたっていいんですよ」

 ブラウスだとかその程度だったら、新しいものを買ってしまってもいいのではないか。そう言う私に、松木さんはそう返した。

 松木さんはただ服を買いに行くのが恥ずかしかっただけなのかもしれない。短絡的にそう考えてしまうことだって、私にはできた。けれども、ただそれだけが理由でないことぐらい、分かってはいるのだ。少なからず、私はそのつもりでいる。

 野々村さんは、それから二言三言、言葉を投げた後、熊のような足取りで帰っていった。私はその後ろ姿を見送ってから、仕立て上げられた松木さんの服が入った紙袋を片手に、居間へと戻った。

「野々村さんでした」

 松木さんに話しかける。今日の松木さんは、ブラウスの上から、大判のカーディガンを羽織っている。凹凸が左右逆になるだけでだいぶ手こずるものですね、と、初めてブラウスを着た松木さんが言っていたのを、急に、思い出した。

「そうですか。何が、届きましたか」

 蜜柑を剥きながら、松木さんは言った。私は紙袋を開けて、ブラウスが二着と、ロングスカートが一着です、と言った。

「コートは」

「コートは、まだみたいですね」

 そうですか、と、もう一度松木さんは言った。

「あれで最後でしたっけ。もうだいたいは、終わったみたいで」

 野々村さんの店に持ち運んだたくさんのボール箱の中身をひとつひとつ思い出しながら、私は言った。

「冬には、間に合いませんでしたね」

「そうですか? まだ暫くは、寒いんじゃないんですか」

 私がそう言うと、松木さんはすこし微笑みながらかぶりを振った。

「もうじき、春になりますよ。においが、変わりましたから」

「におい?」

「そう、においです。春が近づくと、においが、変わるんですよ。鼻先のあたりが、あまくなるんです」

 言い終えてから、僕だけかもしれませんけどね、と、松木さんは照れくさそうに付け加えた。

 窓からの陽光で、白髪が鱗粉を纏ったかのように輝いている。時間を経て、松木さんの微笑みが、やんわりと引いていく。

 きれい、と私は思った。松木さんという少女が、じゃなく、そういうものである松木さんが、きれいだ、と。運命的なものを、もう一度、信じてみたくなった。

「思い出しました」

 唐突に、松木さんは言った。

「二つの失敗について、思い出しました」

 奥の台所にある冷蔵庫が、急にかたんと鳴って、それから音を失った。

「一つ目は、妻を持たなかったこと」

 二つ目は。そこまで松木さんが口にしたところで、私は、待ってください、と言って、松木さんの言葉を遮った。

「言わなくて、いいです。言わないでください」

 松木さんはきょとんとしていた。私も、そこまで言っておいて、きょとんとした。どうして松木さんの言葉を遮ったのか、自分でもよく分かっていなかった。分かっていないまま、ただそうしなくてはと思って、遮ってしまった。

 ぽってりとした沈黙が、私たちの間に落ちてきた。水晶みたいな松木さんの瞳が、私を、不思議そうに見ている。私は頭の中で、散乱した言葉の端々を拾い集めた。

「あ、あの、明日あたりは、きっと春ですから」

 言って、また暫く無言が続いた。私は、しまった、と思った。うまく整理をつけた言葉では、なかったのだ。

 すると不意に、松木さんが苦笑するように笑った。

「そうですね。春ですからね、もう」

 つられるようにして、私も笑った。体中から、空気が抜けていくような気がした。涙がすこしだけ出た。

「そろそろ、晩ご飯、作りましょうか」

 一呼吸おいた後、切り上げる体で私は言った。松木さんもそれに同意して、すっくと立ち上がった。

 たぶん。

 たぶん、この、さざ波のような日々は、長くは続かないだろう。分かってはいる。

 でも私は、明日やってくる春を、今あるこのかたちを、信じてみたいのだ。気づかないふりを、し続けてでも。

 ガスコンロの元栓を開けながら、私は窓の方を見上げた。磨りガラスの向こうは夕暮れだった。春は、近い。

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