海に行こう (AIR 二次創作小説)
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AIR 二次創作小説   

 

 

 「海に行こう」                           by AE   

 

「…もういいよ」

 静かな病室に、私の言葉が響きわたる。

 …言わなくてはいけない。本当はとても大好きな、たった一人の友だちなのに。

 いや、だからこそ言わなくてはならない。彼女をこれ以上傷つけないためにも。

 あの夢を見始めた今、私は、私がどうしてこの病を患っているのかを理解していた。

 そして、昨夜から背中の激痛を訴え始めた彼女を助けるためにも……

 私はその一言を言わなければならなかった。だから、語気を荒げて叫んだ。

「私、本当はあなたのこと、大嫌いなの!」

 点滴を刺された私の手を握り締めている彼女は、私の叫びに身をすくませた。

 いつもの癇癪が始まったと思ったのだろうか。彼女は辛抱強く、私を見つめ直した。

 その顔を見ているのが辛かった。身体の痛みよりも。歩けないことよりも。

 だから視線を外して、言った。

「だってそうでしょう? あなた、いつも情け深いような顔で。

 こんな私を見下すような、同情してあげてるんだ、なんて偉そうな態度で」

 何を言ってるの…そんな驚愕の表情を浮かべたまま、彼女は私の手を離した。

「…あの力だって、気持ち悪くて」

 私を励ますために、私だけに明かしてくれた秘密のことだ。彼女が手にした物は、生命が吹き込まれたように動き出す。病院暮らしが多い私に微笑みを与えてくれた力。それは、きっと彼女にとっては「普通とは違う」という悩みでもあったはずだ。だから私はそこを強調した。彼女に嫌われるために。彼女を裏切るために。

 彼女はまだ何を言われたのかわからない様子で、私を見つめている。

 そのとき。小さく唸った彼女が私のベッドに倒れ込んだ。

「国崎さん?!」

 私はまるで人形のように動かない自分の身体を起こそうとする。かろうじて、肩から上を彼女の方へ向けることができた。彼女の両手が布団を掻き毟っている。甲には筋が浮き上がり、今彼女が耐えている苦痛が痛いほどにわかった。その手を握ろうと手を伸ばす。そうすれば今までの芝居が嘘だとわかってしまう。それでも私は自分に嘘がつけなかった。やっと届いた彼女の手はとても熱く、震えていた。伏せた額には滝のような汗が光っている。刃物で斬られたような痛み、と彼女は言っていた。それでも…いや、だからこそ私はこの芝居を続けなければならない。彼女が私を嫌うように。

「もういいよ、国崎さん」

 痛みが遠のいたのか、彼女は弱々しく身を起こした。握られた拳がまだ震えている。

ぱた、ぱた、と何かが布団の上に落ちる音が聞こえる。彼女が絞り出すような声で言った。

「…私、何もできない」

 涙の粒だった。それが落ちる音。その音が病室の静寂に木霊しているように聞こえる。

「あなたを海へ連れて行きたい。たったそれだけのことなのに、私は…」

 大粒の涙を浮かべたまま、彼女はつぶやいた。背中の痛みによるものではない、自分の無力さを呪う涙。その彼女を救う手段はたった一つしかない。

「あなたと海なんか、行きたくない」

 棒読みになるのを構わずに、私は言った。

「…もう、私には近づかないで」

 私はこれ以上我慢できなくて、握られた手を振り払う。

 そして震える喉を振り絞って、今まで何人もの人に送った言葉をつぶやいた。

「さよなら」

 その言葉をきっかけに、彼女が顔を上げた。視線が合う。彼女の顔が滲んで見える。

 でも、その頬の涙がはっきりと見えた。歪んだ像の中、それは宝石のように輝いていた。

「ごめんね」

 小さくつぶやいてから彼女は立ち上がり、病室のドアを目指した。まだ痛みが続いているのだろうか、少しふらついている。彼女は震えながら、ゆっくり一歩一歩歩いて病室のドアを開ける。そのまま振り返らずに、消えた。ドアが閉じた。

 私は独りになった。

 そうして、またあの夢を見続けるのだ。暗い森の中、悲しくて泣き続ける夢を。

 私の生命を削っていく夢を。

 

 その夕方、私は痛みの発作で気を失った。腕の刺痛に目を覚ますと、もう夜だった。

私の視野には父母の顔がぼんやりと映っている。その手前に焦点を合わせる。見たことも無い、大きな点滴のパックがぶら下がっていた。新しい鎮痛剤なのだろうか。そのおかげなのかどうか、今の私はあの背中の向こう側の痛みを感じてはいなかった。

 しかし、この現実感の無さはどうだろう? 大きく深い注射針の痛みだけが私の意識を私の肉体に縫いつけている。例えようのない途絶感。でも、それを言葉にする事はできなかった。喋ることもできないほど、私はこの治療に酔わされているらしい。

 突然、母が泣き始めた。父の胸に顔を埋めて嗚咽を上げる。母を抱き締めた父に白衣の人影が近寄り、とても沈んだ声で報告した。

「今は強力な鎮痛剤で神経ブロックをかけています。しかし、激痛と衰弱の原因は全く…

 残念ですが、もう娘さんが回復する見込みは…」

 ああそうか私はとうとう死ぬのだな、と第三者の視点で私はその告知を受け取った。母の声がさらに大きく病室に響く。もう立っていられないらしく、父が肩を貸した。

 …ごめんなさい、お母さん。お父さん。

 去っていく三人が病室のドアを開け、閉めた。その音が引き金になり、睡魔が襲って来る。それは暖かいぬるま湯の中に沈んでいくような、そんな平穏な眠りに感じられたけれど。その向こうに広がる灰色の景色からは、決して還ってこれない予感があった。次にあの夢を見たら、私の心は耐えきれずに破裂してしまう…そんな予感。

 それでも疲れ切った私の身体は、ゆっくりと沈んでいった。灰色の微睡みの中へと。

 

 

 気がつくと、夏虫の鳴く声が聞こえていた。

こんな街中の病院で珍しいことだなあ、などと感慨に耽ってみたりする。それが聞こえるということは、私はまだ生きているのだろうか。見回すと、周囲は眠りに落ちた時と変わらず、私はベッドに一人で横たわっていた。病室は照明が落とされて、それでいて暗いということは、たぶん真夜中なのだと思う。窓から差し込む淡い光だけが部屋を薄青く染めている。覗くと、大きな満月が輝いていた。

 その時になって、おや、と私は違和感を感じる。意識ははっきりしているし、身体の痛みもそんなに酷くない。先程の薬のせい? いや、身体も動かせるし、鎮痛剤の効き目とは思えない。とにかく、入院した頃の体調に戻っている。

 そのとき、カチャリ、というドアノブの回される音が響いた。

廊下も照明が落とされているらしく、ドアの隙間からは何も見えない。しかし闇に慣れ始めた私の目が何かを捉えた。あっ、と叫び声を上げそうになる。

 闇の中、音も無く人影が近づいて来るのだ。

人間に間違いない。が、第一印象は影そのものだった。闇夜の鴉、とでも言うべきだろうか。その人はまるでこの瞬間に闇から湧いて出たように…ドアを通ってではなく、闇の中から死神が迎えに来たように思えた。近づくにつれ、その顔が月明かりに照らされていく。背が高く、黒いシャツを着ている。そして恐そうな切れ長の目。人間と正体がわかっても、私は震えが止まらなかった。闇を人の形に切り取って、仮の命を与えたような…そんな造り物の影のようなイメージが付きまとっている。

 男の人は私の枕元まで来て、冷ややかに私を見下ろした。

そこまで近づいた彼を見、私は今度は吹き出しそうになる。なぜって、その死神のような男の人の肩に女の子を形取った可愛い人形が座っていたから。人形、というよりはぬいぐるみに近いだろうか。栗色の毛糸で出来た長い髪を白いリボンで束ね、四頭身の身体は制服のようなものを纏っている。顔はさらに傑作だった。丸い目と一本線の口がアップリケで縫いつけられている。我慢できずに私は吹き出した。

 男の人は困ったような顔になり、肩の人形を見て言った。

「やっぱり笑われた」

 すると、人形がモゾモゾと動いて、こう答えたのだ。

「でも、この人形を作ったのは往人さん」

 …わけがわからない。これは腹話術のようなものなのだろうか?

「いわゆる、じごうじとく?」

「漢字で言えよ」

 私は自分が無視されているようで、何となく不満を感じた。

「あの、あなたはいったい…?」

 その時になって初めて私に気づいたように。男の人は額に指を当てて考え込んでから、

「あー、いきなりだが、人形使いだ」

 …たしかに唐突だった。

「いきなりすぎるよ、往人さん」

「じゃあ、どう名乗ればいいんだ」

「ここはやはり旅芸人らしく往人さんアーンド観鈴ちん。で、同時に後ろでね、五色の大爆発が巻き起こるの」

 男の人が無言で人形の頭を叩いた。ポカッ、と軽く。裏拳で。

「が、がお」

 人形は怒られたみたいだった。私はさらに吹き出してしまう。二人(と言うと変かも知れないけど)は、とても良いパートナーだと思ったからだ。ポリポリと頭を掻いてから、人形が私の名を呼んだ。話しているのは男の人なのだろうけれど、私は男の人の肩に座っている人形の方に視線を合わせた。人形が両手を合わせてお辞儀をする。

「こんばんは。今日はあなたのお見舞い公演に参りました」

「お、お見舞い?」

「うん。頑張ってるあなたを応援しにきたの」

 ぴょん、と肩から飛び降りて、男の人の腕を数歩駆けてベッドに着地する。一体、どうやって動かしているのだろう。糸は見えないし、男の人は動いていない。そんな私の疑問に関わらず、人形はトコトコと歩いて私に手を差し伸べた。どう反応したら良いのか分からずに男の人を見ると、うん、と頷いてくれた。私は差し出された人形の手をつまんで、握手の真似をしてみる。人形が頷きながら喋った。

「これで友だち。私たち、お友だち」

 きっと人形なら私の病は移らないだろう、と私は手を小さく揺すって握手を続けた。

「…でも私、お金持ってません。朝になればお母さんが来るけど…」

「いや、いいんだ。こいつの言った通り、今日は君のために見舞いも兼ねてやって来た」

 言いながら、男の人はジーンズの後ろポケットから小さな人形を取り出した。

それはとても古ぼけていてはいたが、かろうじて男の子だということがわかった。サイズは女の子の人形と同じ。でも頭身が違うので、済む世界が異なるように見えてしまう。並ぶと女の子の姿が滑稽に見えた。演じる劇に合わせて使い分けているのだろうか。

「それでは、はじまりはじまり〜」

 女の子の人形の開幕宣言と共に、ベッドの脇の果物篭の置かれた机が舞台に変わった。男の子の人形が歩いてくる。これも一体、どうやって動かしているのだろうか…。

「おなかが減ったなあ。いったいどこまで行ったら翼の女の子に出会えるんだろう?」

 その男の子の台詞は棒読みで、お世辞にも上手いとは言えない。照れているような感じだった。辺りを見回しながら、男の子は大きな何か(おにぎりのつもり?)を取り出し、机の端に腰掛けて食らい付いた。

「おっきなおむすびですね!」

 反対側から現れた女の子の人形が、男の子に話しかけた。本当に女の子の声に聞こえる。これはどういう腹話術なのだろうか? この人形はまるで人間の魂が宿っていて、本当に喋っているかのようだった。

 とにもかくにも、海の見える街で二人は出会ったのだった。素気ない男の子と、世話好きな女の子。どこにでもあるような、それでいて羨ましい二人の出会いと暮らしだった。微笑ましい、と私は思った。本当にこの人達は私を慰めるために来てくれたんだ、と。

でもそんな想いは女の子の人形の、たった一つの仕草で壊されてしまった。

「う、うぅ…うえぇぇ〜ん」

 ある日、男の子と遊び始めた女の子が、理由もなく突然泣き始めたのだ。

 心配そうに慰めようとする男の子の手を振り払い、女の子は泣き続けた。

「これは…」

 私のことなの?と問いかけようとする私を無視して。人形劇は続いていく。

舞台は女の子が見ているという、哀しい夢の内容に移っていった……。

 

 それは、お母さんを、大好きな人を捜して幾度も生まれ変わる、翼を持った少女のお話。

私は目の前で繰り広げられているこの人形劇に、瞬きもせずに見入っていた。

 …なんて辛い話なんだろうか。自分の知らない所で、自分の生命が削られていく。その理由を知り始めた頃、女の子は死ななければならないのだ。愛されねば救われないのに、彼女を愛した人は彼女と共に傷つき、朽ちていく。そんな哀しい輪廻は永遠に続くかに思われた…。

 でも、最後の娘は違った。彼女は強い子だった。そして彼女を愛する人達も、とても強かった。彼女を愛した男の子は自らのヒトとしての生命と引き替えに、彼女に最後の時間を与えた。彼女は頑張り続けた。そして、最後の夢を見終えた翌日、彼女は……。

 それをはっきりとは表現せずに、女の子の人形のこんな台詞で物語は唐突に終わった。

「つばさのおんなのこは、せんねんをこえてやっとすくわれたのでした。

…おしまい。」

 私は納得できずに、人形達を見続けた。拍手もせずに、続きを待ち焦がれて。人形達も男の人も私の視線に困っているようだ。沈黙に耐えきれずに、私は尋ねた。

「ねえ、最後の娘はどうなったの?

 それに鴉になった男の子は? 二人はそのあと、どうなったの?」

 男の人と人形は顔を見合わせて、黙り込む。二人で眉をひそめ、少し考え込んでから、「アドリブで演るか?」

「そうだね」

 案の定、物語には続きがあるようだった。男の人の語りが始まる。

それは鴉になった男の子が旅立ってから、随分と後の話だった。旅路の果てに辿り着いたのは、何処とも知れない青空だけの世界。遥か下に白い雲の絨毯が広がっている。鴉の姿を真似た男の子はふらふらで、その旅はとても過酷で永いものに見えた。今にも倒れそうなその先に、男の子は確かに見た。あの女の子が膝を抱えて眠っている。それはまるで、見終えたあの夢の続きを見るように。そして、その背には白く大きな翼が畳まれていて…

 …なぜか私は、その場面をどこかで見たことがあった。

 男の子は鴉のふりを止め、女の子が眠り続けている繭のような空間に手を差し伸べた。

女の子が身じろいで、寝返りを打つ。男の人の台詞が続いた。

 

「迎えに来たぞ。目を覚ましてくれ、みすず」

 

 …この台詞だけ棒読みじゃなかった。その声はとても真剣で、心がこもっていた。

 

「そんな翼なんか、もう要らない。海だって何処へだって俺が連れていってやるから。

 俺がおまえの翼になってやるから。だからもう一度、目を開けて俺に微笑んでくれ」

 

 それを聞いた女の子の人形が動かなくなった。…いや、違う。人形は震えていた。

 人形は泣いている…ように見えた。

 私には、まるでその人形が生きていて涙を流している…そんな風に見えた。

「おい、観鈴」

 呼ばれた女の子の人形は、そのまん丸い手の甲で涙を拭う仕草を繰り返して、

「…あ。そうだね、わたしの台詞だよね。

 うん。これからいっしょ。往人さんと、ずっといっしょ」

「それ、すげぇ省略してると思うんだが」

「いいの。とにかく、みすずちんは幸せになりましたとさ、おしまい。」

 人形は目を擦る仕草をしてから、スカートの裾を持ってフィナーレのサイン。

 私は思わず拍手、とにかく拍手。頑張った彼と、彼女と、その母達に向けて。それを見て男の人が目を丸くする。

「…こんなに感激されたのは初めてだ」

 そう言いながら、とても大げさなお辞儀を私に送った。男の子の人形が同じポーズでお辞儀するのを見て私は笑ってしまう。女の子の人形も笑い出し、男の人がムスッとなる。

 …こんな気分になれたのは久しぶりだった。最後に心から笑えたのは何時のことだったろう。たしか国崎さんと初めて会った時のことだ。

 旅が好き、と彼女は言った。一緒に何処か遊びに行こう、とも。でも知り合ってすぐに私はこんな状態になって、挙げ句の果てに国崎さんの元気まで奪って…

「…私には翼が無いから」

 誰に言うでもなく、私はつぶやいた。

「私が最後の娘みたいに強くて…何処にでも行ける翼があったら、こんなことには…」

「そんなことはない」

 静かに、でもとても強く、男の人が言った。その肩に戻った人形が、うんうん、と頷きながら私を見つめた。

「わたし、知ってる。あの翼の子だけじゃなくてね。ヒトはみんな、翼を持ってる。

 わたしも、往人さんも、お母さんも、みんなが自分だけの翼を持ってる」

 視線を外して窓の外、月の方を見上げながら女の子の人形は続けた。

「その翼は目に見える物じゃないし、空を飛ぶための物でもない。自分が行くべき所へ、向かうためのものなんだと思う」

 私はすがるように人形に尋ねた。

「…私にも翼があるの?」

 まるで人間に尋ねるかのように私は言った。振り向いた人形は答える代わりに、もう一度私に向かって手を差し伸べた。

「これが本当に伝えたかったこと。わたしたちが頑張って、あの子が笑った瞬間」

 そうっと伸ばした私の指が彼女の丸い手に届く。一瞬、電気のような痛みが走った次の瞬間。

 …それは人形劇ではなかった。女の子の人形が握った私の指先から、何かが流れ込んでくる。青い空のイメージ。指先に目があって、そこから覗き込んでいるような不思議な感覚。その空の中、長い黒髪の女の人が大きく両腕を広げていた。その胸に向かって、同じ髪の少女が飛び込んでいく。とても優しい笑顔で女の人は少女を抱き締めた。

 私は目を見張った。二人の背に白く大きな翼が生まれていく。二人は母娘のようだった。

その周囲にいつしか人の輪が集まっていた。良く見ると、私と同じ年頃の女の子たちだった。その輪の中で、翼の少女はお母さんの腕を離れて、翼を広げた。とても碧い、人間では手の届かないような高みに向けて。弱々しく、戸惑いながらも…しかし、ゆっくりと確実に舞い昇っていく。いつの間にか、私はその輪の中で翼の少女にエールを送っている。周囲で巻き起こる拍手喝采に負けまいと、痛いほどに手を叩きながら。…痛み? そう、気づくと身体の痛みは全く消えていた。身体の重みすら感じられない。視野を変えれば、あの病室に戻れると思い、振り返った。あるのは空の碧ばかり。しかし、その碧をかすめて揺れる、ゆったりとした何か。

 

 見ると、私の背にも…小さいけれど、透き通った翼があった。

 

 死、という言葉が脳裏を過ぎる。けれど、不思議と恐くはなかった。父や母たちと別れるのはとても辛い。そして国崎さん…私の大切な友だちと別れるのは。しかし、なぜか恐くなかった。

 深呼吸をしてみる。呼吸するこの大気の重みの意味を、今の私は理解していた。高みに昇って行く、大気に還って往くあの少女のことをとても身近に感じることが出来た。

 同じ星に在るということ。そして、この同じ大気の流れの中に父母や国崎さんが呼吸し、活きている。奇妙な安堵感に、私はほんの少し疑いを抱いてみた。

 これは…死に往く自分を誰かが慰めているだけなのかもしれない。

でも、そのように考えることで私は、なぜかまた皆に会えると思った。

 

 そう安心して目を閉じると。

 

 もう一人の、現実の私はまだ夕刻のベットに横たわっていた。背中が痛い。その痛みは見えない翼にあることを私は知っていた。痛みは酷くて、息が出来ない。顔を覆う呼吸用のマスクか何かが、私の視界を妨げている。医師や看護婦達の喧噪と父母の声が聞こえてくる。それに混ざって聞き覚えのある懐かしい声。

 彼女だった。一番近くから、国崎さんの声が聞こえた。

 

 ……戻ってきてくれたんだ。…私、あなたにあんな酷いことをしたのに。

 

 彼女が、国崎さんが叫んでいる。死んじゃだめ、一緒に海に行こう、と。

握り締められた片手に、とても熱いぬくもりが伝わってきていた。大好きなあなたの顔を、はっきりと見つめたい。これを外して、と首を振る。…伝わった。医師達の制止する声に構わず、それを外したのは国崎さんだった。

「うみ…」

 声を絞り出す。

「…うみにいきたい、あなたと…」

 国崎さんが頷く。何度も頷き続ける。

「約束だよ。私はきっとあなたを海に連れていく。明日になったらきっと。だから…」

 ありがとう、と答えようとした瞬間、瞼が力尽きた。

 真っ暗になった途端に、もう一度私は高い空に戻って、こんな会話を聞いていた。

 

   おまえ、本当に全員に会いに行くつもりなのか?

 

   うん。往人さんと一緒に人形劇。

   それでね、最後はあの娘も幸せになれたって伝えたい。

   今の、ふわふわした私達にできるのはそれぐらいだから。…だめかな?

 

   …いいよ、付き合ってやる。約束だからな。何処へでも連れてってやる、って

 

 

 そんなささやき声が聞こえてきた。声のする方の高みを見上げると、会話の主たちが空を歩いている。先程のあの男の人と女の子。…女の子? そう、それは確かに人形ではなく。長い栗色の髪の女の子だった。そして、私は目を見張る。その子の背には、透き通った大きな翼があった。ゆったりと羽ばたくその翼から、一枚の透き通った羽根がワルツのように舞い降りてくる。舞いながらその色が黒に変わっていく…鴉の羽根のような黒い羽根に。私はその羽根に手を伸ばす。その時、重かった身体がさっきの夢のように軽くなり。

 

 するり、と私は、何か重く厚ぼったい物を脱ぎ去った。

 

 振り向くと、その脱ぎ去った物がはっきりと見える…それは大きくて真っ白な、けれど所々傷ついた翼だった。翼だけの、記憶と願いの詰まった存在。それはまるでそれ自身が意志を持っているかのように羽ばたき、私から離れて飛び去っていく。果たされぬ願いを抱いたまま、次の娘に望みを賭けて。…でも私は既に知っていた。次の娘と、彼女を愛する人達がその願いを果たすであろうことを。

 そして私には私の行くべき場所がある。そう、あの人形の女の子は教えてくれた。それを目指すため、軽くなった身体に力を込めて。私は舞い降りる黒い羽根に手を伸ばした。指が届いた、と感じたその瞬間。青い空間に眩しい光があふれた。

 どこからか泣き声が聞こえてくる。赤ん坊の声だった。

 

 …それが自分の泣き声だと知った時には、全てを忘れている。

 

 その仕組みに気づいた私は恐くなり、黒い羽根を握り締めたまま震え始めた。ふと自分の姿を見ると、それが透き通って散らばって逝くのが見え、それを掻き集めようとする私の腕からも色彩が失せ、大気に散っていく私の苦しく哀しくそれでも大切な記憶たちが青く輝き始めるのを為す術も無く私は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのバスは降車払いだった。

 

 あたふた、と財布を漁る私の横を彼女の腕が通り過ぎ、小銭が料金箱に飲み込まれる。

「二人分」

 それだけ言って、彼女が私の腕を取る。ぐい、と引かれた次の瞬間。私は真夏の日差しの中に引き込まれていた。街中とは別世界の、青い空と潮の香りに彩られた空間。バスで三十分の距離にこんな場所があるなんて、ちっとも知らなかった。

「ほら、こっちこっち」

 あの子が指差す先には海がある。もう本当に、海。停留所は高台にあるらしく、ほんの少し見下ろした位置に紺碧が広がっている。ぐいぐいと前進するあの子を追って、私は俯いたままで歩き始めた。緩く編んだ三つ編みが一本、彼女の背で揺れている。鬱陶しいから、と纏めたそれは行動派の彼女のトレードマークだった。

 

 商店街を越えると少し古めかしい民家が並ぶ通りに出た。その通りの突き当たり、通りと直交する形で堤防が見える。歩くにつれて近づいてくるそれは、視界の左から右へと灰色の壁になり、覆い被さるように迫ってくる。だから私は萎縮してしまう。まるで今の私の心のように。私は歩みを遅くして、立ち止まろうとする。

 突然、ばあんっ!と背中が叩かれた。

「もう!クヨクヨしなさんな!」

 痛い。すごく痛い。それに凄いバカ力。こんな華奢な身体の何処に宿ってるんだろう。前につんのめりそうになり、私はよろめく。でも、そのおかげで、心の痛みは和らいだ。持つべきものは友だ、なんて思った。この娘は親友…なんだろうな、たぶん。性格は正反対だけど。教室の片隅で本を読む私と、毎年委員長な彼女。でも、物心ついた時からずっと一緒だった。幼馴染みとも言うのだろうか。その生来の親友がかく申すには、

「あんなヤツ、あんたにはゼッタイ向かないって。

 うまくいったら、あたしがブチ壊してやろうと思ってたんだから!」

 毒舌だが、暖かい励まし…のつもりなんだろう。昨日まではあんなに応援してくれてたのに。苦笑して私はもう一度灰色の壁を見つめる。

 あの向こうに海がある。ついさっきまでは 喧噪だらけの放課後の校舎で泣いていたというのに。思えば今日は散々だった。一世一代の告白…そして玉砕。付き合っている人がいたなんて知らなかった。そんなのあり、って感じだった。そして、とぼとぼ教室に戻った私の表情をひとめ見て。我が親友は私にこう提案したのだ。

 「よし、海に行こう。こういう時は海だよ、うん!」…と。

 どうして海なのか、全くわからなかった。いや、言った当人も良く分かっていなかった。バスの中では、何でカラオケ絶叫にしなかったんだろう、などとつぶやいていたから。

 そんな回想をしながら、コンクリートの階段を昇り堤防の上に立つ。瞼を閉じて深呼吸を一つ。それから上を向いて、空を見上げ、目を開けた。そこに海よりも透き通った青い空が広がっていた。本当に青かった。

 

 そのまま何をするでもなく、どのくらい見つめていたのだろうか。

 むぅーっ、と隣であの子が背伸びをした時、バシャバシャと騒がしい音が聞こえてきた。

 音の方、海岸線の右方向から、誰かが走ってくる。

 二人。男の子と女の子。小学校に上がるくらいの歳?

 全速力だった。握った手を離さずに、ときどき見つめ合ったりしながら。

 突然、女の子が激しく転んだ。

 濡れた砂の上にスライディング。痛くはないだろうが、びっしょりだ。

 男の子が助け起こす。でも、泥だらけの女の子の顔を見て笑い出す。

 二人とも大笑い。本当にお腹を抱えて笑ってる。突然、女の子が男の子に水をかけた。

 直撃する。男の子も濡れネズミになる。笑い合いながら二人でかけ合いになった。

 いいなあ、と私は思った。男女、とかそういうのではなくて、ともだち。

 もっと深いつながり。そういうモノを感じた。隣で彼女がつぶやいた。

「いいねぇ、ああいうの」

 うん、と私は頷いた。

「あ、手を振ってるよ」

 おおーい、と私達は手を振り返す。もう一度手を振ってから、子供達は再び駆け出した。

 目的地は遠いらしい。波打ち際を手を繋いだまま全速力で走っていく。

 恐れる物は何もないのだろう。ためらうことなく、二人は走り去って行った。

 

 その姿が遠くなるまで見守っていた。遠い視線のまま、水平線を見つめてみる。

 頬がくすぐったい。風かな、と思って触れると……

 それは涙だった。

 なぜか私は泣いていた。ふられたからじゃない。それとは違う感情。

 心の底の方で、誰かがつぶやいている。

 

     やっと来れたね

 

 それを私は、懐かしいアルバムを紐解くように聞いていた。

 そう、これは達成感。たどり着いたという想い。遠い遠い約束を果たした、そんな気分。

「ちょっと、だいじょうぶ?」

 肘でこづかれて私は我に帰った。視線を、すぐ隣にいる彼女に移す。

 涙で歪んだ視界は、厚い靄のように彼女の姿を遠ざけていく。こんなに近くに居るというのに。突然、本当に突然。彼女がこのまま離れ去ってしまうような錯覚に私は陥った。

「ねえ……」

 甲で大粒の涙を拭って「埃が」なんてごまかしながら、私は尋ねた。

「手、つないでいい?」

 彼女は真剣な表情で答えた。

「…その趣味はないわよ?」

「ばか」

 小さく笑いながら彼女に近い方の片手を、指を絡めて握ってみる。

 彼女が強く握り返してくれた。そのまま、見つめ合ってしまう。

 二人とも黙り込んだまま、なんだかバツが悪くなる。

「知ってる?」

 話題が無いのに耐えられなくなったのか、彼女がこんなことを言った。

「海の匂いってね、地球の匂いなんだって」

 それはとても真剣な口調だったので、茶化すことなく、私は頷いて海を見た。

 それから、すう、と息を吸って。私はこの星の匂いを吸い込んだ。

 心が凪いだ。

 なぜだろう、誰かが見守っているような気がした。

 それはとても優しい、羽毛の布団のような暖かいもの。

 遠い昔から、ちっぽけな私たちを包み込む、とても大きな翼。

 それはとても大きくて、喜んだり哀しんだりする私達を優しく抱きしめ続けている。

 失恋の傷は深くて、とても痛い。

 その痛みを、この優しさは少しづつ癒してくれるような気がする。

 でも、痛みを消してはいけない、とも思った。

 逃げてはいけない。刻んで、受け止める。そうして新しい私に変わっていく。

 

 名前を呼ばれて、私は我に帰る。手を離した彼女が私と向き合って叫んだ。

「がんばれっ!」

 ぎゅっ、と私よりほんの少し小さな胸の前で、両の拳を固めるあの娘。

「がんばるっ!」

 鏡で映したように、同じポーズを決める、私。

 もう一度、空を見上げる。空は青いままで、そこに在った。

 …どうか、ずっとそのままで。こんな他愛の無い営みを見守っていて欲しい。

 そう、私は空そのものに祈った。

 

 ばあんっ!と背中が叩かれた。よろめく。でも、今度は負けなかった。

 思いっきり力をこめて、私も叩き返す。とんでもなく良い音が響いた。

 それは思いのほか強かったのだろう。彼女はよろめいて、砂浜に落ちそうになる。

 彼女が睨む。やったな、という表情。そのまま見つめ合う。

 それから肩を叩き合い、笑った。

 恐れる物が何もないのは、あの子達だけじゃない。私達もそう。まだまだ、だ。

 私にも哀しみや喜びを分かち合える友が在る。それがある限り、何にだって負けない。

 それはとても掛け替えのないものだということを、私はたった今、気づいた。

「じゃあ、次こそはカラオケで熱唱と行こう!」

「うん、いいね」

 答える私を置き去りに、彼女はもう歩き始めている。

 いつだってそうだ。私のために私を何処へだって連れて行ってくれる。

 昇ってきた階段を横目に、彼女はひらりと堤防から通りへと飛び降りた。

 風が味方したかのように、ふわりと着地する。まるでRPGの冒険者ってところ?

 その勇者様を追って、私もジャンプを試みる…がやっぱりやめた。

 恐いからじゃない。背後で何か聞こえたからだ。誰か見ているような、そんな…

「はやくはやく!」

 はやい。よほど歌に飢えているらしい彼女は、もう次の角まで歩いている。

 背中の気配を振り払うように、私は急かす彼女に向けて大きく飛び出した。

 遥か彼方で感じたような浮遊感に戸惑いを覚える。一瞬「翼があれば」なんて考えた。

 いや、私は翼を持っている。こうやって彼女と何処へだって行けるではないか。

 そう認めると着地はかろやかだった。彼女と同じように軽く、大地に片足が届く。

 両足が着くより早く、そのまま勢いに乗って私は彼女の背を追いかけ始めた。

 まるで空を飛んでいるかのように、私を包む大気が風に変わっていく。

 耳をくすぐる、なぜか懐かしく響くその音に私はエールを送る。

 ありがとう、と。

「ちなみに料金は全部あんた持ち、ね。ありがとう」

「どうして!」

「んー、さっきのバス代とか慰め料とか、失恋記念とか?」

「ひっどーい、踏んだり蹴ったりだー」

 叫びながらも、私は私の痛みが薄れていくのを感じていた。

 あなたにも、ありがとう。

「…なんか言った?」

 いえ別に、なんてごまかしながら、去り行く波の音に耳を澄ませてみる。

 

   …それはきっと、私の気のせいかもしれないけれど。

    遠い風の音に、誰かの短い笑い声が聞こえた。

 

                                     以上。

 

 

 

説明
AIRラスト後のお話。
いえ、正確には一世代前のAIR、先代の少女のお話ですが、視点を変えれば「ラスト後のお話」になるのかも。

書いた発端は、往人の母は何処へ消えたのか……とか、歴代の全ての「翼の少女」に幸せを……とかでしたが、書いてるうちに「やっぱり観鈴&往人の漫才は面白いなあ」という想いでいっぱいに。

新作の「今日の神尾家」CDとかまた聞きたい……と思いましたが、今となってはそれも叶わぬ夢。
PSやPSPやアニメでの、あの可愛らしい観鈴ちんの声を、私は決して忘れません。ありがとう。
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