風と麦藁帽子
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 自転車は坂を下っていく。

 

 その出来事はあっという間だ。

 登ってくるまで大変だった坂道を一瞬のうちに通り過ぎ、私は風を感じていた。

 

 目線の遥か下には、海に望む街並みが見える。

 

 この坂道が、私はとても好きだ。

「あ…」

 不意に、私は自転車を止めた。

 止まろうとした場所から少しだけ行き過ぎ、自転車は緩やかに制止する。

 

 気にかかったのはなんだろう?

 

 止まる寸前までは、何かを見つけて止まろうとしたはずなのに、止まった後でそれを見失ってしまった。

 

 何か大切なことだったような気もするし、全然大したことないような気もする。

「なんだろ…」

 

 なんだかよくわからない、一瞬だけ空白に包まれた気分。

 

 胸になんだかもやもやが残ったが、ペダルに足をかけ、私は再び坂を下り始める。

 ブレーキを軽く握って、緩やかな風を浴びながら、ゆっくりと坂を下る。

 と、突然の突風。

 山から海に吹き降ろす風。

 

 かごの中に入れてあった麦藁帽子が、それに煽られて舞い上がった。

 

「あっ」

 手を伸ばしたけど、もう遅かった。

 それは遠く、街の中へと落ちていく。

「あーあ…」

 だんだん小さくなっていく麦藁帽子を見限り、私は目線を海へと向けた。

 遥か向こう。

 水平線と空が交わる境界。

 湾内に戻ってくる船に見送られながら、雲がその向こうに消えていく。

 ふと思う。

 風は何処に行くのだろう……と。

 風は何処から生まれ、何処を目指していくのだろう……と。

 

 私は目を閉じた。

 

 木々のざわめく音。

 鳥の鳴く声。

 

 全てが染みるように、私の中に入っていく。

 もうすぐ7月も終わる。

 ゆっくりと目を開き、私は握っていたブレーキを離してスピードを上げた。

 

 空へ舞った麦藁帽子。

 

 風がそれを欲しがったのならあげよう。

 何処へ行くのか知らないけれど、長旅になるなら帽子の一つも必要だ。

 

 代わりを買えばそれでいい。

 

 そうだ、それなら旅に出よう。

 帽子を買うなら旅に出よう。

 旅には帽子が必要だから、帽子を買うなら旅に出よう。

 

 何かを探すたびに出よう。

 

 旅には帽子が必要だ。

 帽子には旅が必要だ。

 

 

 風よ、きっかけをありがとう。

 

説明
坂道と 風と 自転車と

あと 偶発的な思い出


この坂は実在します
僕の好きな場所です
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コメント
とっても気持ちが前向きないい感じになりました。このお話がいいきっかけになりそうです。(華詩)
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