Revolter's Blood Vol'01 第一章 〜Heroic Lineage〜
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 険しい山岳地帯。

 麓から吹き上がるような独特の風に晒されたその地に草木の類は少なく、薄茶色の土が露出している。

 そんな不毛の地の頂上に、その都は存在していた。

 都は垂直に交わる二本の大路と、それを起点とした小路と路地が升目の如く縦横断し、それに沿って家屋や店舗が立ち並ぶ。

 荒れ果てた外界とは異なり、そこは整然とした街並みが保たれていた。

 街の名はグリフォン・テイル。

 宗教都市として名高く、この世で広く布教されている教団の総本山たる『大聖堂』が存在している唯一の地。

 それ故、人々はこの街の事を『聖都』と呼ぶ。

 そして、この聖都グリフォン・テイルは今、熱気に包まれていた。

 熱気の正体は、人の群れ。

 街中を埋め尽くさんとばかりに集いし群衆であった。

 人の群れは、街の西端に聳える一際大きな、絢爛にして荘厳なる純白の建造物──大聖堂へと集っていた。

 彼らが見つめているのは、その最上階にある無人の露台。ある者は興奮の余りに騒ぎだし、またある者は固唾を呑みながらも瞬きさえ忘れ、片時も視線を放そうとはせぬ。

 人々は一様に黙する事を知らず、騒然と時を待っていた。

 ──正午。太陽が空の真南へと差し掛かった時、聖堂の中より、一人の女が姿を現すと、取り囲む群衆が割れんばかりの歓声をあげた。

 群衆の三割は純白、或いは白と青を基調とした衣を身に纏いし者。これらを纏うは、巡礼者や神官、高僧といった聖職に就きし敬虔なる神の信徒。

 残りのうち、三割は銀色に輝く甲冑を身に纏いし戦士たち。彼らはみな一様に、胴鎧の胸部に揃いの紋様が刻まれていた。その様は、馬上にて戦場を駆け抜ける騎兵の如き衣装。

 事実、彼らはここより遥か東に位置する王都より派遣された騎士隊の者たちであった。

 そして、残りはこの街に居を構える一般の住民。聖都の民に相応しく、彼らもまた敬虔な神の信徒。清貧を尊び、人を敬い、家族を愛する善良なる民。

 そんな彼らが皆、熱狂し、声を上げ、無人の露台へと現れた女の登場を歓迎した。

 赤と白を基調とした聖衣を纏い、長い白髪を靡かせた女を。

 現れたのは一人の老女であった。

 その衣を身に纏うことを許されているのは、この国では唯一人。

 司教と呼ばれる最高位の僧であり、司祭たちを管轄し、束ねる役目を担う。故に、司教は国政にも意見できる権限を持ち、政教の繋がりの深さを示す象徴的な存在でもある。

 老いてはいるものの、衰えを感じさせぬ程にその背筋は真っ直ぐ伸び、ゆるりとした所作で手を振って群衆の歓声に応える様は気品に溢れ、そして深い皺に刻まれた顔に浮かぶは慈愛に満ちた色彩。

 その所作に、集いし僧や騎士、そして民は更に歓声を上げた。

 極限までに高まった数多なる声は音のうねりと化し、高山地帯にあるこの街を丸ごと飲み込まんとする。

 自らを讃える音の奔流に、赤と白の衣を纏いし壇上の司教は、まるでその声が神の言葉であるかのように、歓声のひとつひとつを噛みしめ、感謝をするかのように、ゆっくりと、そして深々と頭を下げた。

 声の奔流がこの聖なる都を支配すること数分。次第に群衆の声が小さくなり始めた。それを見計らい壇上の老女が掌を正面に翳すと、街はまるで潮を引くかのように静まり返った。

 聖者は口を開き、声を発した。

「この聖都が、悪意の手より救われて五十年。瞬く間に過ぎ去ったような、そんな気が致します──」

 それは、老人とは思えぬほどの朗々とした声。群衆の遥か遠くの者にまで届かんばかりに街中へと響き渡った。

「瓦礫を撤去し、蛆沸く肉塊と化した死骸を除け、魔物の血に汚れた土を掘って浄化をするのに一年。人を呼び戻し、崩れた家屋を建て直し、朽ち果てた最後の戦場に街としての機能を回復へと至らせるまでに五年の月日を要しました。ここまで随分と長くかかったものです。最初は老いも若きも、貧しき者も富める者も、誰もが復興など望めぬと思っておりました。復興に一縷の望みを賭ける我々を嘲笑した者も多かったと聞きます。ですが我々は三十五年前、遂にこの聖都は完全なる復興を成し遂げたのです」

 静まり返る空間に、声が残響する。

「復興を成し遂げた我々を、次に待ち受けていたのは別離の連続でした。我々が復興の為に費やした十五年という長き月日は、世代を交代させるには十分なる時間。老いた僧は、明るい未来を若き僧に託してこの世を去り、若き騎士は次なる戦場を目指し、この聖都に別れを告げて行ったのです。その中には、我が生涯の友にして、五十年前の戦い──その最大の戦功者であった英雄『双翼の聖騎士』と呼ばれる二人の騎士もいました」

 しばし、声が止む。

 壇上の老司教も聴衆も、誰もが過去に思いを馳せ、有りし日の事を、或いは先人より語り継がれる昔話を思い起こしているかのように。

「二人が、次なる戦場と定めたのは、ここより遥か東の王都グリフォン・ハート。当時は前国王が崩御された事が契機となり発生した後継者争いに議会が便乗した所為で政治は停滞しておりました。その年は、不幸にも冷害などの天災に襲われ、各地で餓死者すら出ている有様。──にも関わらず、貴族たちの権力闘争はやがて武力衝突にまで発展させ、民にも直接的な被害を及ぼすなどという暴挙に出る始末。まさに『暗黒の時代』と称するに相応しい惨状。そんな指導者なき我が国を支配する暗雲を晴らす為に、彼らは再び立ち上がり、そして、この騎士団の介入によって衝突は収束致しました。これからの話は皆様も御存じの、騎士団による『十年政権』の成立です」

 その言葉が出た瞬間、聴衆から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。

 王家と議会が安定した王位継承者と政権を樹立するまでの間、一時的に政権を譲渡された騎士団による政権。

 騎士団の長、及びその副長である『双翼の聖騎士』と呼ばれる聖騎士夫婦が指導者となり、国内にある豊富な鉱山資源の採掘や、農工業を中心とした施策と、他国との交易を活性化させた事により、貧困に喘いでいた民衆の生活を改善し、王家と議会に政権を返却するまでの十年間において、国に空前の発展をもたらしたと言われている。その厳格ながらも公平なる施政は、やがて『十年政権』と称されるようになり、今も尚、民衆の心の中に残っていた。

 その十年が、民衆にとって良き時代であったのは言うまでも無く、騎士や僧、そして一般の民からあがる歓声は、まるでその時代を懐かしんでいるようであり、その時代の再来を願って止まぬかのようですらあった。

 この沸き起こる歓声こそが、民からの意思表明。騎士団より権力が返還された現王家や議会に対し、否を突きつける評価であった。

「今は亡き、聖騎士の二人が我々に遺してくれたもの、恩恵の数々を挙げれば枚挙に暇はありません。ですが今日、その中でも一つ挙げるとすれば、この人を除いて他はないでしょう──」

 そう言うと、司教は後方にある、開け放たれた扉──先刻まで自分がいた聖堂の奥へと視線を送る。

「御紹介致します。あの『双翼の聖騎士』レヴィンとエリスの直系の子孫にして、この度、かつての祖父母と同じく『聖騎士』に任じられました──アリシア様です」

 三度起こる拍手と歓声。

 聴衆が歓喜に沸く中、聖堂の中より、露台へと現れたのは、一人の若き女。細かい装飾が施された衣服の上に、聖印が彫刻された鎧を纏っていた。

 少し癖を残した銀色に輝く髪は、肩の辺りまで伸ばされており、その毛先は、同じく銀色に輝く鎧の肩当てに軽く触れていた。

 眉と目の端が少し上がり気味なせいか、一見すると厳しい性格なのではないかという印象を受ける。しかし、その碧眼の奥に宿るは真摯なる誠実さと、獅子の如き気高さを併せ持った光。武人として必須たる強さの象徴に他ならぬ。それを含め、整った顔立ちはまさに強さと美しさを両立させた女傑の証。

 年齢は二十を少し超えたくらいだろうか。その煌びやかな装いに劣らぬほどの気品と、溌剌とした若さ、そして女性として溢れんばかりの魅力を漂わせていた。

 若き女聖騎士が口を開く。

「只今、セティ司教よりご紹介に与り、この度は祖父母と同じ、名誉ある『聖騎士』の位を拝命致しましたアリシア・クラルラットと申します。本日は私の為に、このような盛大な会を設けて頂き、感謝の言葉もございません」

 そう言い、一礼する。

 その凛とした声と態度は、隣に控える老司教に負けぬ程に堂々たるもの。万にも及ぶ聴衆を前にしても緊張した素振りを見せず、むしろ穏静とした様は、この盛大なる披露目会の主役に相応しき風格を備えていた。

 新たな聖騎士は頭を上げ、続けた。

「私が生を受けたのは、既にこの街の復興が終えた後のこと。かつての戦の激しさと熾烈さ、そして、戦後の荒廃を両親や祖父母より聞くにつれ、事を成し遂げた先人らの偉業に感服し、尊敬の念を新たにした程です。我々、若人が成すべき事は、これら過去の悲劇を再び繰り返さぬよう、その教訓を後世へと語り継ぎ、そして今の安寧が揺るぐ事のなきよう力を尽くす事に他なりません。今日、私が祖父母以来とされている『聖騎士』の称号を託されたのは、その象徴的な役目を天より任されたものと受け止めております」

 静まり返った聖なる都に、朗々とした声が再び残響する。

 先刻の老司教の発したそれとは異なり、その声には生命力と活力に満ち溢れていた。

「しかし、今の我が国は非常に不安定な情勢にあります。かつての『十年政権』の末、王家と議会に権力が返還されましたが、その実態は幼い王子を担ぎあげた一部の有力議員らによる傀儡政治の体を成していると言うこと。そして『十年政権』の名残ゆえ、一部の地域ではその地方議会よりも、その地域を管轄する騎士隊の意見を尊重するといった歪な体制が習慣づいていること。この不安定な情勢は、五十年前の戦の影響が、姿を変えて残存している──そう言っても過言ではないのです」

 本来、この国は武を象徴する我々騎士団と、教を象徴する教団勢力、そして、政を象徴する議会──この三権が分立し、相互の力を均衡させ、監視をしあう事によって、権力の偏頗を防ぐといった構造をとっている。

『十年政権』は、当時の騎士団の賢明な判断により、人々に豊かな生活を齎したという成果を残している。

 そして現在、現王家や政権が、民衆にとって必ずしも満足のいく成果を上げていないがゆえ、再び騎士団による政権を望む声が大きい。

 しかし『十年政権』とは、当時の議会が王家の後継者争いに乗じて紛糾し、本来の役目を果たさぬばかりか、民衆に直接的な害を与えてしまったが故の緊急的な処置であり、平時の今、それを望んでも叶うものではない。

 万一、それが叶ったとしても──当時政権を担っていた騎士団の者達は、『双翼の聖騎士』レヴィンとエリスをはじめとし、半数以上が既に逝去、或いは引退をしており、かつてのような善政が施されるとは限らぬ。

 聖騎士の発言は、そういった民意を憂慮し、牽制する意味が込められていた。

「そう、我々の世代に課せられた責任は騎士団、議会共々が各々に内在する問題を解決させ、一日も早く正常化を図る事に他なりません。過去の悪夢の呪縛から、この国を解き放つためには決して避けて通れぬものであります。その為には騎士団として貴族らの傀儡と化している王家を助け、為政者としての自立を促さねばなりません」

 そこまで言うと、アリシアは昂った思いを落ちつかせるかのように、両目を閉じ、口を閉ざす。

 一呼吸の間を置いた後、最後に一言、付け加えた。

「この場で皆様にお誓い申し上げます。私──アリシア・クラルラットは新たな聖騎士として、この国を過去の悪夢の呪縛から解き放つ為の一助となる為、この身を、生涯を捧げる事を!」

 宣誓し、アリシアは腰より抜いた剣を天に翳す。

 刃が真昼の陽光に反し、眩き銀色の輝きを放つや、場内は四度、割れんばかりの拍手と歓声によって包まれた。

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 威厳に満ちた表情を浮かべた神像と、穏やかな表情を浮かべた天使の像が静かに見下ろしている。

 大聖堂の敷地内に併設されている聖職者の居住棟。一番奥にある部屋に置かれた寝台の上に横たわり、司教セティは、これらの顔をぼんやりと眺めていた。

 祭りの喧騒が外界を支配している中、この一室は、張り詰めたかのような沈黙に満ちていた。

 先刻、露台の上で聴衆に見せた覇気は何処にもなく、威厳を更に高める装飾の役目を果たしていた顔皺も、今となっては老いの象徴と化していた。

 死の床に横たわる聖者は、傍らで自分の手を握り、片時も離そうとはせぬ女に微笑みかけた。

 新たなる聖騎士──アリシアに向けて。

「主役たる貴女が表に出ずにどうするのです? 私の事など放っておいて、貴女の門出を祝福する人達に声をかけてあげて下さい」

 アリシアは無言で首を横に振る。視線を落とし、髪に隠れてはいたが、その瞳には涙が溜まっていた。

「セティ様は王都で隠居なさっていた祖父母に代わり、私の成長を暖かく見守って頂きました。その温情、愛情を一心に注いで下さった貴女は私にとって第二の祖母も同然。そのような方が不調と知った以上、外で遊び呆ける訳にはいきません」

 ──自分の命が、もう長くはない事をアリシアも悟っているのだろう。聖騎士は頑としてその場を動こうとはしなかった。

 このやりとりを何度繰り返しただろうか。司教セティは口元を歪め、苦笑めいた表情を浮かべる。

「その頑固なところ──あの二人の若かりし頃に、本当にそっくりですね」

「祖父上と祖母上に──ですか?」

「ええ」司教は喉の奥で笑う。

「聖騎士という人物は往々にして、そのような素養の持ち主なのかも知れませんね。貴女を聖騎士に推挙した私が言うのもなんですが」

「……祖父母上には幼少の頃、王都で数度ほどお会いしただけですから」

「そうでしたね。ごめんなさい」

 そう言い、微かな嫉妬の感情を浮かべる聖騎士に笑顔で謝罪する。

「ですが、私は長く生きすぎました。先立たれた仲間達を寂しがらせるのも良くありません」

「そんな……」

 反射的に、アリシアは顔をあげる。

 彼女は、その大きな瞳から大粒の涙を流していた。

 顔を伏せていたのは、この涙を覚られまいとしていたが為。聖騎士としての責任感ゆえか、或いは武人としての意地か、はたまた死の床にあるセティを気遣うがゆえか。

 しかし、そのような理性という虚飾を施そうとも、生来の優しさは覆い隠せぬ。

 老司教は、自分の手を握るアリシアの手を解くと、それをゆっくりと彼女の頭へと伸ばし、優しく撫で、抱き寄せる。

「私も貴女の事を我が子、我が孫も同然と思い、その成長を見守って参りました」そして天を仰ぎ、呟いた。「かつては私の手を焼かせた、その頑固なところも、そしてその優しさも──今は、全てが愛おしい」

 慈愛に満ちた言葉が、聖騎士の心へと沁み渡り、アリシアは涙を滂沱と流し始めた。

「セティ様……」

 両手で鼻と口を覆い、泣き声を必死に噛み殺す。

 しかし、それが無駄と知るや、アリシアは寝台へと顔を伏せ、櫃を切ったかのように泣きじゃくった。

 まるで幼き子供のように。

 そんなアリシアの銀色の髪を優しく撫でながら、セティは言った。

「それで良いのです──お泣きなさい。悲しければ存分に泣けばいいのです。それが人間なのですから。貴女は騎士である以前に、一人の人間であるのです。それを決して忘れてはなりません」

「はい……セティ様」と、アリシアは涙声で答えた。

「そう言えば、あの子は元気でいるのでしょうか? 王都の士官学校で騎士訓練を積み、昨年晴れて騎士となった──」

「はい。先日、手紙が届きまして、王都騎士隊に籍を置いて、毎日の任務を忠実に遂行しているそうです。先月の人事編成の際に、この聖都騎士隊に編入される事が決まったそうで、恐らく数日中に聖都へと戻って来るものかと。せめて、あの子が──ウェルトが帰って来るまでは……」

「それは、神のみぞ知る運命。もし、間に合わなかった時は貴女の口から、私の死を伝えてあげて下さい」

「……」

 アリシアは顔を上げ、押し黙った。

 涙によって赤く変じた彼女の目に、自嘲的な笑みを浮かべるセティの顔が映る。

「こんな弱音が出てしまうとは──そんな無様な姿など、あの娘には見せられませんね」

「──御養女様ですね?」アリシアは問うた。「お姿が見られませんが、今はどちらに?」

「今頃、外の祭りで遊んでいる事でしょう。付きの者を従えておりますから、退屈はしていないと思います」

「では、今のセティ様の容体は──」

 司教は静かに首を横に振る。

「付きの者に口止めを命じております。あの優しい子の事、今の私の姿を見れば、泣きじゃくってしまう事でしょう。今の貴女のようにね」

「セティ様……」

「私にとって、あの子の悲しむ顔を見るのが、何よりも辛いのです」

 アリシアは、その娘が如何様な素性を持っているかは知らぬ。

 しかし、この二言三言の言葉で、聖騎士は二人の関係を理解した。

 二人の間には、確かなる愛情が存在しているという事を。

 養女に対して深き愛情をもって接し、またその養女も、それに応えるかのように愛情をもって養母に接しているという事を。

 それだけで十分であった。

 そこに親子としての確固たる情がある以上、血の繋がりや娘の素性などに何の意味などあろうか?

「……私が死んだら、あの子はまた一人ぼっち。仕方がないとはいえ、それだけが本当に心残りです」

「ならば、やはり最後に一言だけ、言葉を交わしては──」

「いいえ。今日だけは──今日だけは、あの子に思う存分遊ばせてあげたいのです。楽しませてあげたいのです」

「──ですが!」

 聖騎士は少しだけ語気を強めた。

 誰の目にも明らかであったからだ。司教の命が、もう長くはない事を。もって二日──いや、存命のうちに明日の夜明けを迎えられるかも疑わしいほどに。

「大丈夫です」しかし、司教セティは笑顔で頷いた。

 そして、軽く祈りを捧げる。

「神は──そこまで残酷ではありません。私に、それくらいの時間と命を与えて下さると信じております」

「セティ様……」

「大丈夫です。きっと、きっと──」

 

 そして──

 司教セティが、関係者に看取られながら神の御許へと旅立ったのは、これより二日後の事だった。

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 悲しみに暮れる聖都の大路を歩く一人の男がいた。

 旅の戦士であろうか、深く被るフードの奥から覗く顔、身に纏う簡素な鎧、その背に背負う無骨な大剣の鞘は砂塵で薄汚れ、その長きに亘る旅の苛酷さを物語る演出の役割を果たしていた。

 大聖堂へと至る大路。路の端には、悲しみの涙に暮れる僧や、騎士らの姿があった。

 青年は立ち止まり、遥か前方に聳える純白の大聖堂を視界にとらえると、おもむろに頭に被せてあったフードを外す。

 少し赤みの帯びた黒髪が印象的な男であった。

 若く、その容貌は少年期から青年期へと移りゆく最中。

 年の頃は十七、八といったところであろうか。長旅による疲れの色こそ濃く残していたが、その肉体は溌剌とした生命力に満ち、同時に戦士としての覇気も持ち合せていた。

「やはり、間に合わなかったようだな。かなり御年を召されていたから、もう長くはないとは思っていたのだが──」

 戦士は往来を行き交う人々の暗く沈んだ表情を一瞥し、呟いた。

「司教様──最後に一目、お会いしたかったな」

 視線を、大聖堂の上空をゆっくりと流れる雲へと向け、眺め見る。

 空は不思議なほどに晴れ渡っていた。透き通るかのような青色が、どこか悲しげに映る。

 戦士は再び歩き始めた。

 目指すは前方に聳える純白の大聖堂。

 それは彼の、この地を守衛する『騎士』としての第一歩であった。

 

 大聖堂内にある、執政官室。

 そこに通された青年は、下座に備えられたソファへと腰を下ろし、懐より一通の書簡を取り出すと、その表面を眺めた。

 蝋による封印の上より捺印されたのは騎士団の紋様。

 騎士団長からの命令書であった。

「『ウェルト・クラウザーをグリフォン・テイル騎士隊──別名・聖都騎士隊への編入を命ずる』──か」

 開封すらせず、青年は書簡の内容を言い当てた。

「他の騎士隊ならば、事前に使いの者を出して、先方へ伝達するのだけど」苦笑を浮かべ、小さな声でぼやく。「遠方の騎士隊、それもたった一人だけの異動ともなれば、こうも扱いは悪くなるのか。まさか、自分で自分の人事に関する命令書を携える事になるとは、なんとも格好悪い話だ」

 そう、彼が手にしているのは『自分』の──このウェルト・クラウザーという名の男、その人事に関する命令書であった。

 青年ウェルトは、手にした命令書を眼前の卓の上に置き、室内を眺め遣る。

 南北両側の壁には、書物や書類の束が収められた本棚の類が詰め込まれ、棚や卓の上には花の類も飾られてはいない。

 機能性だけを追求した、極めて殺風景な室内であった。

 また、大陸規模の一大宗教勢力の総本山である大聖堂にありながらも、宗教的な品も見当たらぬ。

 この大聖堂は国の管理下に置かれてはいるものの、政教分立の原則により、半ば独立したものとして扱われていた。

 だが、宗教都市としての性質上、聖職者によって構成される議会の決定が街の運営を大きく左右する事も多く、それ故、この大聖堂は教団の象徴であり、信仰の対象であると同時に、執政機関としての役割を果たしている。

 国より派遣された執政官は、執務の効率化の為、この大聖堂内にて日々の執務を行っているのだ。

 それ故、この部屋の主のように、大聖堂内に身を置きながらも敬虔なる信徒ではない者が管理する部屋に至っては、このように宗教的建造物の一室には似付かわぬものと化すのも道理。

 程なく入口の扉が開かれ、ウェルトのもとへと歩み寄る者がいた。

 その執政官の装いは、決してこの神の御園に相応しきものではなかった。纏いし衣は薄汚れ、さらにその歩みは、清廉にして穏やかな僧のそれとは対照的に大股で荒々しきもの。

 これらの態度の主は、年の頃三十を間近に控えた、壮年の男。

 室内にウェルトの姿を認めると、その男は満面の笑みを浮かべた。

「よく無事に帰って来たな!」

「ただ今戻りました──ゼクス兄さん」

 ウェルトも笑い返し、兄の手を取り、握りしめた。

「セティ様がお亡くなりになられたと聞いて驚きました。大聖堂はさぞかし大変だろうと思いましたが」

「セティ様が亡くなられ、大聖堂は大荒れよ。何の理由があってかは知らぬが、御存命のうちに後継者の選別をされなかったからな。まぁ、あのような偉大な大司教殿の跡目を継ぐに相応しき候補など、簡単には現れないのは当然とも思うが、暫くは、気の滅入る日々が続くと思うと……」

「やはり、そうでしたか。あまり休まれてないように見えますが」

「三日は碌に寝ていないさ」ゼクスと呼ばれた男は言った。「王都をはじめとした、各地への伝達に人を送る手配をするにも骨が折れる有様よ。何せ、悲しみに暮れる僧や騎士に長旅となる任務を命じねばならぬからな。彼らには随分と恨み事を言われたものよ」

「その割には、殆ど堪えてはいないようですが」

「無論だ。この程度で心を病ませているようでは執政官など務まらぬ」

「頼もしいものですね」

 ウェルトは歳離れの兄を讃えた。称賛の対象となったゼクスは、この賛辞に冗談めかして応酬する。

「最期に一目、セティ様にお会いしたかった。幼少期より、よく面倒を見て頂きましたからね。せめて最後に思い出話の一つでも、と思っていたのですが……」

「天命ゆえ、仕方ないさ」

 表情に翳りを見せる弟に、執政官は慰めの言葉をかける。

「セティ様の御遺体は荼毘に付され、この大聖堂隣の墓地の一角。祖父母上の墓の隣に埋葬される事となった」

「若かりし頃は祖父母上の無二の親友として、御二人の側で共に戦ったとか。それならばセティ様も、さぞかしお喜びの事でしょう」

「うむ。流石は我が血族、直系の嫡女たるアリシアと言うべきか。セティ様に対しては格別の思い入れがあるが故の気遣いであろうな」

「アリシア従姉(ねえ)さんが?」

 疑問と興味が表情の翳りを拭い去り、ウェルトは笑顔を浮かべた。

「セティ様がお亡くなりになる二日前、『聖騎士』に任じられたそうではないですか」

「ああ。祖父母上と同じく、な。何とも名誉な話だが──」

 今度はゼクスの表情が翳る。

「戦乱期にあった五十年前の──祖父母上の時代なら兎も角、比較的平和な今、騎士となってまだ四年のアリシアには『聖騎士』の位を戴く程の武功などない」

「釈然としないのですか?」

「──ああ。何故この時代に『聖騎士』の地位を持ちだしたのか、見当がつかぬ」

「しかし、アリシア従姉さんを『聖騎士』へと推挙したのは、セティ様であったと聞きます。祖父母上の血を引く母と伯父は、騎士にはならず神官や文官になり、我が血族の中で『祖父母上と同じく』騎士の道を志したのは、僕を除けばアリシア従姉さんのみ。それならば、唯一の直系であるが故に箔付けが必要であったのではないのでしょうか?」

「そうか。ならば、これからはお前が支えてやるのだ。『聖騎士』の名がもたらす重圧に、彼女が潰されぬように」

 ウェルトは静かに頷いた。決意を新たにした弟の姿を見て、兄は満足げに──そして、半ば冗談めかしたかのような笑みを浮かべた。

「それは早くこの地での任務に慣れてから期待する事としよう。お前は、暫くその従姉御と共に行動する手筈となっている。まぁ、精々たっぷりと扱(しご)いてもらう事だな」

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 中心街より、やや北に外れた一角に、騎士隊の詰所や宿舎、訓練場が併設されている施設がある。

 その敷地内にある石造りの壁に囲まれた円形の部屋。

 まるで闘技場を思わせるような構造の部屋の壁には、剣や槍、斧などといった様々な武具が掛けられていた。これらは訓練用の武具であるため、安全の為に刃は丸めてある。だが、これらも本気で扱えば、その重量だけでも命を奪いかねない危険な代物。

 これらが並ぶ室内の中央には、訓練用の剣を合わせ、試合をしている若い男女であった。

 重厚な金属製の鎧を身に纏った二人は、その重さに屈することなく、各々の得物たる剣を縦横に操り、技を繰り出しあっていた。

 男とはウェルト、女とはアリシアであった。

 ウェルトの『騎士』としての訓練は、彼がこの聖都に帰還したその日より始まっていた。

 軽量な旅装束から、訓練の為に貸し与えられた甲冑へと装いを変え、久々に纏うその重厚さに四苦八苦しながらの試合形式による訓練は、旅に疲れた彼にとってこの上なき地獄。

 それでもウェルトは得物を必死に操っては、怒涛の如く襲い掛かる攻撃を凌ぎ、そして反撃に転じて、容赦なくアリシアを攻め立てる。

 ウェルトが手にしているのは両手持ちの大剣。

 この絶大なる威力をもった攻撃には、如何なる重厚な甲冑など役には立たぬ。練習用の剣ではなく刃を備えた実戦用のそれを用いれば、胴体を防護する板金など易々と斬り裂いて、甲冑ごと胴体を真二つに断つ事も可能である。

 そして、この威圧めいた重量をもつ大剣による攻撃を武器で受け流そうものならば、防御に用いた得物を弾き飛ばし、同時にその手首を折る事も容易であるのだ。

 膂力に優れた者ならば、極めて実用的な武具であると言えよう。

 しかし、この苛烈なる攻撃を、相対するアリシアはいとも簡単に受け止めた。右手の長剣ではなく、左手の大きな盾をもって。

 大剣と盾の間に、火花が迸る。

 この防御を契機に、攻守が逆転した。

 アリシアが手にしているのは長剣と大盾。この二つの武具を用いた戦闘技術こそが、長き騎士の歴史の中で培われ、洗練された業。

 彼女の祖母──『双翼の聖騎士』エリスによって完成されたと言われている妙技の数々は、子孫であるアリシアにも脈々と受け継がれていた。

 その技術の根幹を成しているのは、盾を用いた徹底的な防御にある。半身を隠す事が出来るほどの広大なる盾は、如何なる攻撃も、その威力を悉く殺すほどに堅固。

 騎士とは本来、街の外に跳梁跋扈する魔物より人を守る防衛者である。故に、盾を用いた戦術は騎士の象徴、存在意義の証に他ならぬ。

 彼女の戦術は、それに忠実であった。防御とは敵の攻撃の目を潰す最高にして最大の妙手であるが故に。

 そして、防御に成功した瞬間、攻撃者の心に大きな衝撃が走る。攻撃が防がれた事による、一瞬の気落ちと気抜け、張り合い抜けの如き変化が。

 それこそが、攻撃者が無防備になる時である。

 その一瞬の間隙を縫い、アリシアは攻撃に転じたのだ。

 攻撃に転じたアリシアの次なる一手は巧みな牽制と攻撃の波状攻撃、その連続。

 ウェルトの大剣に比べ、彼女の得物は小さく、そして軽い。故にその攻撃は極めて素早い。

 更には小回りが利き、手首の返しひとつで、その太刀筋は無限の変化を遂げる。

 これらの攻撃に対し、ウェルトは為す術がなかった。

 彼の攻撃、その威力の一因を担っていた大剣の重量が、防御面においては仇となっていた。大剣とは余程の達人でなければ、このように加速度的に繰り出される斬撃に対する防御に極めて不向きな代物であるからだ。

 アリシアが攻勢に転じた数瞬の後、彼女の剣の先端はウェルトの喉元へと向けられていた。

「ふむ。こんなものか」

 そして発せられる勝者の言葉。それが訓練終了の合図となった。

「流石は祖父上の血を引くだけの事はある。この二時間で鎧の重さに対する慣れを見せ始めたな」

 そして、肩で息をし、今にも床に倒れこまんとする従弟の姿を一瞥し、微笑んだ。

「毎年行われる士官学校での剣術大会では無敗。そして、王都騎士隊に入隊していた頃も、僕達の世代の人を相手と限定するのならば、連勝記録は継続中だったのだけどね」

「素晴らしい成績を残していると聞いている。この私が驚くほどに」

 そう言い、アリシアは誇らしげな笑みを浮かべた。

「だが、学徒に毛が生えた程度の騎士に遅れを取る訳にはいかぬ」

「──ごもっとも」

 ウェルトはアリシアより手渡された手拭いを受け取ると、顔中を流れる滝のような汗を懸命に拭う。

 柔らかな感触と上品な花の香りが、触覚と嗅覚を刺激する。

「ウェルト──これだけは覚えておけ」

 一息つくウェルトにアリシアは真摯な眼差しを向け、言った。

「その剣の重さ、鎧の重さこそが騎士としての責任の重さであるという事を。私利私欲の為に武力を行使せぬよう、自らを戒める枷と考えても良い。そして騎士とは単なる『軍事力』を担う者達にあらず。我々は肉体的な強さもさることながら、勇気、高潔、誠実、寛容、信念、礼節、崇高さを美徳とし、清貧を尊び、弱者を守るという高潔な精神の持ち主であると同時に、模範的な存在として人々を導く存在であり続けなければならぬ」

 その眼差しと言葉は、鋭き槍の穂先の如くウェルトの心を貫いた。

「だからこそ国や民は、我々を貴人として扱い、身分を保証してくれるのだ。我々に与えられし力や権利は、独力で手にしたものではない。このような方々より授かりしものであると心得ろ」

「ああ」ウェルトは真摯な表情で頷いた。「肝に銘じておくよ」

 しかし、額からは次から次へと汗が流れ落ち、何度拭けどもそれは収まる事を知らぬかのよう。

 この訓練の苛酷さを物語る。

 そして遂に力尽き、ウェルトは石畳の床に大の字に寝転んだ。

「一つ、聞いていいかい?」そして、問うた。

「どうして聖騎士の披露目会の時、『十年政権』の事を話に出したんだい?」

「──良く知っているな。その日はまだ、ウェルトは聖都に戻ってきていなかったはずだろう?」

「麓の、フラムの街で聞いた。従姉(ねえ)さんの談話の事を」

「ほう」アリシアは唸った。「街の者達の反応はどうだった?」

「肯定派と否定派──半々と言ったところかな? 祖父上が政権を担っていた頃を知っている人は複雑な思いをしたのだと感じたよ。それだけ良い時代だったのだろうね。そういった世代の人達はアリシア従姉さんに『十年政権』の再来を期待していたのではないかな?」

 アリシアの顔が翳る。視線を落とし、一度、二度と頬を掻いた。

「それは極めて危険な考え方よ。一つの勢力が大きな権力を有する事──善政を施しているのならまだしも、権力がもたらす蜜に狂い、その勢力が暴走した時、抑止する事が出来ないという事なのだからね」

「かつてのこの地に存在していた──」

「そうよ」アリシアは決然と言った。「その独裁体制こそ、歴史上最も悪名高いソレイア公国と同じ権力構造なのだから」

「──ソレイア公国」

 ウェルトはその名を忌々しげに、そして畏怖の念を込めて呟いた。

 五十年前、狂気に取りつかれた尼僧・ソレイアによって、この聖都を蹂躙して建国した魔物らの国家。かつての戦の発端ともなった小国である。

 君主たるソレイアと一部の上層部のみが支配する独裁体制を敷き、占領した聖都の民を最下層民と定め、一切の権利を与えなかった。

 その徹底的なる圧政の下、財の搾取に終始したという。

 また、権謀術数に長けた彼女は、次々と周辺地域の有力貴族を籠絡し、最盛期においては大陸の西半分を影響下に置き、建国一年にして最大の脅威として恐れられたと言われている。

 民の生活は異聞伝聞を含め、その惨憺たる様を伝える逸話は数多。四年間のみ存在し騎士団によって滅ぼされた国であったが、五十年経った今でも、その悲劇は色褪せることなく人々の心に深く根付いていた。

「だから、如何なる勢力であろうとも、人々が如何に望もうとも、一つの勢力だけに大きな権力を有させる訳にはいかない。何かしらの抑止力を備えておく事が必要なのよ」

「では、『十年政権』の中核を担った祖父母上をはじめ、当時の騎士団は──」

「聖都奪還を成功させた実績による民衆の絶対的な支持。そして共に聖都奪還を行った教団と蜜月関係を築き、そして、議会はといえば王家の後継者争いに終始し、民衆の信頼を失っていた。──この時代背景を考えれば、騎士団が絶対的な権力を有していたのは想像に難くない。にも関わらず、権力を暴走させず、一切の悪政を施さず、厳格なまでに公正な執政を徹底させていたのは奇跡であったと思う。このような政権など、二度と実現しないだろうな」

 だから私は、その奇跡を演出した祖父母上を心より尊敬しているのだ。

 そう、アリシアは言葉の最期に付け加えた。

 誇らしげな表情をもって。

「だからこそ、今の王家のあり方について、敢えてあの場で苦言を呈したと言うのかい?」

「──ああ」

 アリシアの誇らしげな表情が暗く沈む。

 あの談話の際に発せられた、現王家に対する批判ともいえる発言は、聖都内のみならず、周辺地域の者達の間にも伝わり、物議を醸していた。

 その殆どは、彼女に対する批判。

 聖騎士という高位の騎士であれども、本来、忠誠の対象たる王家に対する発言としては、過度のものではないかというのが専らの評判であった。

「私も、騎士として行き過ぎた発言であるとは思った。しかし、現王家が王都議会の傀儡(かいらい)と化している現状に我慢できなかったのだ」

「──その頑固なところ、昔と変わっていないね」

「忠誠と妄信は似て非なるもの。騎士たる者、たとえ身分が上の者であろうとも、間違った道を歩まんとしているのならば、全身全霊をもって、それを食い止めねばならない。体裁に捕らわれず、一人の人間として判断し、自らの内に見出した信念と正義によって行動する勇気を持つ事も騎士として必要な素養であるのだ。お前も騎士となった以上、いずれは私と同じ悩みを抱える事になると思うが、その時は私のこの言葉を思い出してほしい」

 そう言い、アリシアは従弟の頭を優しく撫でた。

 手に大量の汗が付着する。その不快な感触に聖騎士は苦笑いを浮かべるや、怒りに任せ、アリシアはウェルトの頭を叩いた。

 明らかな八つ当たりである。

「そんな事よりも頭から水でも被ってこい。夜は太守様へ挨拶をせねばならないし、大聖堂で天に召されたセティ様に祈りを捧げておきたいだろう? 私が片付けておくから、鎧は床に脱ぎ散らかしておいて構わん。だから早くしろ」

 そう言い、優しく微笑む。

 そんな従姉の笑顔に安らぎを覚えたウェルトは、照れくさそうに頬を掻いた。

 

 ウェルトが去った訓練場。

 一人残されたアリシアは床に脱ぎ散らかされた甲冑、その部品の一つ──籠手を手に取った。

 ずしりとした感触が、彼女の手の上に圧し掛かる。騎士が通常用いるそれよりも幾分重い。

 ──鉛が中に仕込まれた特別の品であった。

 籠手だけではない。胴鎧、肩当て、脛当て、鉄靴、全てに至るまで同様の加工が施されており、全ての重量を合算すると、通常の品の二割以上も重い。

 騎士の歴史と共に歩み、日々進化を遂げているのが甲冑の製作技術である。これらの改良と軽量化は、武具職人にとって永遠の課題でもあるのだ。

 聖騎士が手にしているこれらは、まさにその進化の時流に逆行した代物。無論、このような品など実用的である筈はない。

 これは筋力強化用に用いられる訓練用の甲冑であった。騎士団に入団して間もない騎士に、一日も早く一人前になるよう願いが込められ、その身に纏わされる伝統的な鎧。言わば、荒々しき武人の洗礼。長く険しき騎士道を志す若者に対する第一の関門であった。

 重き鎧を纏わせた事──それは、アリシアの彼に対する期待の表れであると言い換えても過言ではない。

「──驚いた。まさか、この鎧を纏っても尚、この私を相手に二分以上も持ちこたえるなんて」

 驚愕と喜びが混じりあった呟きが、聖騎士の口から漏れる。

「士官学校での剣術大会での無敗記録、そして王都騎士隊での連勝記録も、あながち伊達や酔狂の類ではないという事ね」

 このまま順調に成長を遂げてくれれば、大陸中に名を轟かせるほどの武人となるであろう。

 それほどまでの手ごたえを感じていた。

「本来は、このまま名門である王都騎士隊に居続けさせれば良かったのかもしれないが──まったく、我が騎士隊の者達も身勝手なものだ」

 そう、ウェルトがこの西の果ての騎士隊への編入が決まったのは、彼女が所属する『聖都騎士隊』の推挙によるものであった。

 聖都を救い、『聖都騎士隊』を設立した英雄『双翼の聖騎士』の直系であるアリシア。その従弟──即ち、傍系にあたるウェルト。

 その二人が、この『聖都騎士隊』へ身を置く。同騎士隊に所属する者達にとって、それは大いなる悲願であった。

『双翼の聖騎士』がこの世を去って八年。『十年政権』によって隆盛を極めていた騎士団も、かの英雄を失ってからはその勢力に陰りを見せていた。

 王家を舞台とした権力闘争に終止符を打ち、明確な政権を樹立しても尚、民衆の心が離れている貴族議会や、騎士団と蜜月の関係を築いている教団と比べ、『十年政権』という実績の記憶が色濃い騎士団は、いまだ最大の勢力であるのは事実。

 しかし、時の流れとは残酷である。

 長く時が流れ、世代が変わっていけば、そのような過去の実績など何の意味も持たぬ。過去の戦によって得た教訓、そこより派生した様々な規則や規制も、やがては形骸化していく。

 誰もが薄々と勘付いていた。いずれ訪れる騎士団の衰退を。

 アリシアが聖騎士に任じられたのも、騎士団としての力を──議会や教団に対する牽制勢力としての力を、将来的に維持する為に間違いはなかった。

 そして、それ故に騎士団は無意識のうちにウェルトを求めていたのかも知れぬ。

 かの英雄の家系にあり、そして、かの英雄のように騎士道を志したウェルトを──アリシアと共に『双翼の聖騎士』の再来、その片翼を担う人物として。

 それは儚くも、身勝手な夢。いずれ訪れる騎士団の衰退という現実より目を背ける為の、一時の慰めなのかも知れない。

「だが、そんな夢物語ごときに、ウェルトを翻弄させる訳にはいかない」

 アリシアは呟き、先刻まで従弟が振るっていた練習用の大剣を拾い上げた。

「私がさせない。私が守ってみせる──」そして決然と誓う。

「誰一人として絶やさせはしない。この誇り高き血族を」

 聖騎士は、大剣を両腕で抱きかかえた。

 腕に籠もる力は強く、まるで何か得体の知れぬものに恐怖を覚え、縋りついているかのように。

-5ページ-

 <5>

 

 白銀に輝く月と、無数の星が天空の円屋根を飾る。

 深夜の礼拝堂。窓の外より降り注ぐ月光に照らされし祭壇は、室内の蝋燭の灯りと重なり、幻想的な彩りを見せていた。

 新たに聖都騎士隊の一員となったウェルトは、祭壇に祈りを捧げた後、兄である執政官ゼクスと、従姉である聖騎士アリシアと共に、礼拝堂内の長椅子に座し、談笑をしていた。

 話題の中心は専ら、先日逝去した司教セティの思い出話。

 故人は聖職者の頂点に君臨していた聖人。この礼拝堂は、まさにその所縁深き場所に他ならぬ。

 祭壇や神像などの祭器、壁際に備えられた楽器や燭台といった備品ひとつにおいても、眺めれば自然と故人との思い出と共に記憶がよみがえり、瞳を閉じれば、いまだ故人の温もりが残存しているかのような錯覚すら覚える。

 成長した今だからこそ、生前の故人と交わしたかった話題の数々。今となっては叶わぬ願いとなったとしても、せめてこの思い出の場所で──そう、無意識のうちに思っていたのであろう。亡き司教に対する感謝の意を最奥に秘めながら言葉を交わす三人の心は温もりに満ちていた。

 まるでこの会話を側で穏やかな笑みを浮かべながら聞いている故人の存在を、この場のどこかに錯覚しながらも交わされる会話は、最高の慰霊となるであろう。

 宵の口より始まったそれは夜半を超えた今でも尽きる事を知らぬ。

「セティ様は祖母の無二の親友。祖母に子が無事に生まれるや、その子を一番に抱きあげ神の祝福を授けて下さったのだそうだ。一族が息災であったのは、全てセティ様のお陰。感謝せねばならないな」

 兄ゼクスが祭壇を眺め、言った。

「セティ様が産まれたばかりのウェルトに祝福を授けて下さった事を今でも覚えている」

「それは私も覚えているぞ」アリシアが続いた。

「産湯で清められたお前をセティ様が抱きあげ、あの神像へ向けて掲げられた時の──その光景がなんと美しく、清らかなる姿だったことか」

 そう言うと、おもむろに立ち上がり、両手を斜め上──祭壇の奥にある神像へと向けて差し出す仕草を見せ、当時の司教の所作を再現する。

「窓を照らす穏やかな陽光も、楽師が歓びの楽曲を奏で、僧らが聖歌を歌う様も、何もかもがこの瞬間の為に用意された舞台であるかのように思ったものだ。あの時は私も六歳。幼子ながら、その姿の神聖めいた美しさに心を奪われたものだよ」

「勿論、僕は自分が産まれた時の事は覚えていないけど、妹が産まれた時の事を覚えているよ」

 ウェルトには二人の兄妹がおり、兄は彼の眼前で談笑する執政官ゼクス。それと三つ離れた妹がいた。名はイデアといい、ウェルトが士官学校へ入学する為、王都へと発った時は十。今は十四となっていた。

 数多の少女の例に漏れず、思春期の歳月は彼女を美しく成長をさせていた。

 しかし、高名な女騎士である祖母をもち、それに似た所為か、端正な顔に似合わぬほどに御転婆に育った妹は、父母のみならず兄であるゼクスやウェルトの手をも焼かせていた。

「昔、私がクラウザー家に遊びに行った時、イデアとの喧嘩に負けて、よく私に泣いついていたな。お前は」

 悪戯めいた笑みを浮かべる聖騎士に言葉に、ウェルトの脳裏に幼少期の苦々しい記憶が蘇る。

「……大聖堂に入って僧になったと聞きましたが、少しはお淑やかになったのでしょうかね?」

「それをお前の目で確かめてもらおうと思い、イデアもここへ呼んだのだが──」

「都合が悪いのですか?」

「姿が見当たらないのだ」

 兄は答えた。

「たとえ、我が一族が聖騎士の一族、そしてセティ司教と縁が深いとしても聖職にその身を投じた以上、特別扱いは許されぬ。下端の一人として厳しい戒律の下に置かれるのが道理。おおかた上の者に命じられ、何処かに使いに出されているのだろう」

「聖職者の朝は早い。外泊が必要なほど遠方には行ってはいまいよ」と、アリシア。「今頃は宿舎に戻って眠っているはず。日を改め、語らいの場を設ければいいさ」

「そうだね。明日の楽しみにしておくよ」

「まぁ、期待しないでおく事だ」ゼクスが苦笑いを浮かべ、言った。

「俺も聖堂に身を置いている立場上、イデアと会う機会も多いのだが──歳を重ねて、少しは分別がついたようだが、根本的なものはなにも変わってはいないようだな」

「そうですか。それは安心しました」

 その言葉を聞き、アリシアは「ほう」と唸った。

「大人しくなって欲しいと思っていた訳ではないのか?」

「勿論、大人しくなって欲しいと思っているけどね」

 ウェルトは天を仰ぎ、幼かった頃の記憶に思いを馳せる。

 そして、意地悪めいた笑みを浮かべ、続けた。

「たった四年で、急にしおらしくなっても気味が悪いからね。もし本当に大人しくなって現れたら、僕は妹の身を案じてしまうかも知れないよ。大聖堂でどれほど大変な目に遭っているのかとね」

「それもそうだな」

 三人が一斉に遠慮のない笑い声をあげる。

「それはそうと、ウェルト」一頻り笑った後、アリシアが言った。「士官学校での生活はどうだった? 師たちは元気だったか?」

「大丈夫だよ。殺しても死ぬような人達ではないからね。師たちも従姉(ねえ)さんの事を気にかけていたよ。士官学校の一期生にして首席で卒業した優秀な生徒が、今どうしているか気になるのだろうね」

「機を見計らい、一度は挨拶に行かねばならないと思ってはいるのだが……聖騎士に任じられた以上、そう簡単に暇など頂けないだろうな」

 新たなる聖騎士は、ふと東の窓の外を眺め遣る。

 視線の遥か先、馬で一月という長い距離の果てにある王都──そこに存在する、かつての学び舎を幻視していた。

「共に学んだ仲間達も元気でやっているだろうか? 叶うならば、もう一度会いたいものだ」

「俺の時代には、士官学校など存在していなかったからな」

 昔を懐かしむ従姉の姿を見て、ゼクスがぼやく。

「もっと以前にそういった教育機関が存在していたら、俺もそのような思い出を作れたのかも知れないな──まったく、お前達が妬ましい」

「兄さん。恨み事は祖父上の墓前で言って下さい」

 半ば冗談めかして愚痴る姿に、半ば本気の嫉妬を見た弟は苦笑を浮かべながら、腐る兄を宥める。

「わかっている。──しかし、流石は祖父上だ。先の大戦による大功により、国王より賜った莫大な報奨で、まさかあのような立派な教育機関を作るとは」

 アリシアとウェルトが卒業した士官学校は彼らの祖父──『双翼の聖騎士』レヴィンが騎士引退後、設立したものである。

 学者の家系に生まれ、幼少期より様々な学問に精通していたレヴィンは、騎士となっても知識の蒐集に情熱を傾け、そしてそれは先の大戦のみならず、『十年政権』時代においても如何なく発揮されたという。

 その教訓からか、騎士を志す者にも、一流の教養や知識は必要であると騎士団入団前に、徹底的な教育を行う機関を設立し、騎士団の負担を大きく軽減させた。かつ、この機関を設立によって、狭き門でありながらも人材不足にあえいでいた騎士団への道を一般の者達にも開放する事を可能とさせ、より優秀な人材を、短期間で多く取り込む事に成功を収めていた。

 また、その学校は騎士としての教育のみならず、学徒の希望に応じて様々な分野の学問を教授している。その為、学者や錬金術師、医師や商人、果ては政治家を志す者も、皆こぞってこの学舎の門を叩く。

 しかし、その歴史はまだ浅く、世に多大なる功績を残す偉人が現れるまでには至ってはいない。

 だが、毎年優秀な人材を多く輩出しており、世の活性化が図られはじめているのも事実。彼らが各分野で大きな功績を残すのも時間の問題と言えよう。

「──とは言え、騎士を志す者にとっては毎日が辛く厳しい訓練です。毎年、多くの人が優秀な騎士として卒業していきますが、それ以上に心身を参らせ、脱落していく人も多いのです。実際、僕も厳しい訓練に肉体を酷使し続けた為、何度も意識を失い、倒れた事がありますが、教官はそんな僕の首根を掴んで立ち上がらせようとするのです。流石にその時は死を覚悟しました」

 鮮明となる修羅場の記憶。それはアリシアのように美しい思い出として消化するには、新しすぎる心の傷跡であった。

「そう思えば、設立以降の八年間、誰一人として死者を出してはいないのが不思議なくらいだ」と、アリシア。「毎年、厳しい訓練を施す教官を逆恨みした落第者が寄って集って刃傷沙汰を起こすものの、不思議と死人は出ないと聞く」

「最早、それも風物詩。教官も慣れているのだろうね」

「引退したとはいえ、流石は現役時代に素晴らしい功績を残した武人。粋がった餓鬼の十や二十が束になろうとも敵う筈などないのも道理か」

 士官学校の創立により、武人への道が一般の者にも広く門扉が開かれた事により、様々な人間がその門を叩く。

 無論、その多くが若者である。しかし、何を勘違いしているのか、その中でも、力を持て余すばかりに荒れた思春期を過ごした子を持つ親が、その歪んだ人格の矯正の為に入学させる場合も多いという。

 しかし、そのような者が日々の厳しい訓練に耐えられるほどの精神力を持ち合せているはずもなく、大抵は己の無力を徹底的に思い知らされ、脱落を余儀なくされる。

 そして毎年、その己の無力すらも理解できぬ愚か者が一定数現れる。そういった性質の悪い者が、事件を起こすのだという。

 アリシアやウェルトのような優秀な人材を多く輩出するという輝かしい側面の傍ら、このような表沙汰に出来ぬ事も多く存在している。

 この光と闇が学徒を取り巻く現実であると言えよう。

 ゼクスは彼ら学徒の生活など知らぬ。しかし歳を重ね、世の実態をある程度掴んでいるからこそ、十分に想像が可能な現実でもある。

 そして、それはまさに正鵠を射た感性でもあった。

 そう思えば『聖騎士』という地位に任じられようとも一切動じぬアリシアや、『騎士』という厳しい武人の道を歩み始めたにも関わらず、平然としているウェルト──彼ら二人の肝の据わり具合にも納得がいくというものである。

 まるで地獄の沙汰の如き壮絶な過去話を、まるで愉快そうに笑いながら話す弟と従妹の姿に、一抹の恐ろしさを感じたゼクスは、先刻の発言を後悔し、心の中で修正した。

 やはり自分の時代のほうが、幸せだったのかも知れぬ、と。

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 <6>

 

 ──同時刻。聖都の北。小高い丘の上にひっそりと聳える、一際絢爛な建造物がある。

 そこは高僧専用の礼拝施設が備えられており、『神霊が住まう聖域』と信じられている場所。

 下位の僧や名誉職である騎士隊の者達も許可なく立ち入る事は禁忌とされており、同時に最も警備が厳重な一角であった。

 その礼拝施設の中──祭壇の前に立つ男がいた。

 端正な顔立ちをした中肉中背の壮年の男。金色の髪を短く奇麗に刈っており、一見すれば名家の一族といった風貌である。

 しかし、彼が纏っている独特の色合いをした長衣は、高位の僧のみが纏う事を許された僧衣に他ならぬ。

 彼は怒り狂っていた。夜半を過ぎたにも関わらず高僧は礼拝堂に数人の部下を集め、彼らの前で激昂し、怒鳴り散らしていた。

『聖域』の中に佇む聖職者にあるまじき態度を露わとしていた。

 しかし、それこそがこの『聖域』の存在理由の一つでもある。

『聖域』──即ち、誰も寄りつかぬ地帯である事を逆手にとり、他人に聞かせる事の出来ぬ会話を交わすに、これほど最適な場所はなく、悪用を恐れた司教セティは、かつてこの『聖域』の利用に関し、徹底した制限を施したほどである。

 しかし、彼女の没後、高僧らはその制限を即座に廃止に追いやっていたのだった。

 怒り狂う壮年の高僧の前に集ったのは武装した僧──『僧兵』と呼ばれる者。

 かつては騎士団に代わって聖都を守衛していた者達である。

 しかし、先の大戦以降、聖都が国に帰属したのを契機に、その任務が新たに設立された『聖都騎士隊』に移管された事により、かつて大聖堂のもと威光を誇示していた僧兵団も次第に形骸化し、現在は高位の僧が私有する兵団へと姿形を変えて存在していた。

 彼らの役目は、主に高僧の身辺の警護や、大聖堂、及びこの『聖域』の警備が殆どである。

 しかし、それはあくまで表面上の話に他ならぬ。

「説明しろ! 何故そのような失態を演じたのかを!」

 再び、高僧の怒声が室内に響く。

 耳を劈かんばかりの声。それは聖都にも届くほどに響いていた。

 しかし、この騒ぎを聞き、異変を察して誰も駆けつけようとせぬ。それはここが下位の僧など、事情の知らぬ者らにとって『聖域』として信じられているが故。自然と人払いが成されている一角であるが故であった。

「……申し訳ございません」

 だが、怒声を浴びた眼前の兵らは平身低頭したまま延々と謝罪の言葉を繰り返すのみ。

「人語がわからぬか! この馬鹿者どもが!」

 その態度に、高僧の苛立ちは更に募り、遂には腸が煮え繰り返る思いに駆られ、近くに平伏す僧兵の顔面を、渾身の力を込めて蹴り飛ばした。

「何故、そのような失態を──あの娘を逃がしたのかと聞いている! 大聖堂の地下に閉じ込めていた筈の、あの『悪魔の娘』を!」

 高僧の興奮は冷める事なく、肩で息をし、絶え絶えとなりながらも発せられる苛烈な怒声は、聖域の空気を震えさせた。

「……」

 しかし、僧兵らは平身低頭したまま、或いは足蹴によって壁際に吹き飛ばされたまま、その姿勢を僅か足りとも動かそうとせず、押し黙った。

「……何故、答えぬ」僧衣の男は鬼の形相で詰問した。「逃がした経緯を説明せよと言っているのだ」

 嗄れた声で発せられたものであっても、眼前の部下を戦慄させ、震え上がらせるには十分。それに慄然としたのか、平伏する僧兵らより、一切の返答はない。

 誰もが、自分以外の誰かが説明をしてくれる事を期待し、押し黙っていたのだ。

 その下卑た性根を察するや、高僧の興奮は一気に醒めた。代わりに発せられたのは冷淡なる口調。

「そこまでして、この高司祭アヴァルスを侮るか? ならば神の御意志の反したとして、我が名において、貴様らを処罰せねばなるまい」

 アヴァルスと名乗った高僧は、いまだ平伏す僧兵のもとへと歩み寄り、兜を強引に剥ぎ取ると、露わとなった髪の毛を掴みあげた。

 恐怖に引きつる哀れな表情が露わとなる。顔中に滝のような汗が滲み、それはやがて、顎の先を伝い、聖域の床を濡らした。

「なぁ、パッセ僧兵よ。貴様もそう思わぬか?」

「どうか、お許しを……」

 髪を掴まれた僧兵の顔が、苦痛と恐怖に歪む。

「先の大戦により聖都の守衛者という役目を騎士団に奪われ、閑職と化した貴様ら僧兵団に新たな役目を与えてやったのは誰だと思っている?」

「貴方の──御父上様にございます」

「では、その父より家督と地位を引き継ぎ、本来整理されるはずだった貴様らの身分を保障したのは誰だ?」

「それは貴方様──アヴァルス高司祭様にございます」

 矢継ぎ早に投げかけられる詰問に対し、震えながら答えるパッセという名の僧兵の姿に心が満たされたのか、アヴァルスは口元に少しだけ笑みを浮かべた。

 しかし、それも一瞬の事、再び鬼の形相へと変じる。

「ならば、説明出来るだろう? 何故、地下の警護を疎かにした?」

「……」

 しかし、その質問が投げかけられるや、再び僧兵らは押し黙る。その様に、アヴァルスはある事を察した。

 眼前で脅えてはいるものの、彼ら僧兵は騎士と同じく魔物と戦う事を生業とした者達である。

 皆が皆、腕に覚えのある者達であり、誰もがゴブリンやオークの十や二十、殴り殺した経験の持つ猛者であるのだ。

 そんな者達の誰もが口を噤む理由。

 それは武人にあるまじき不手際があったのかも知れぬ。

「知略に翻弄され、失態を犯した訳ではないようだな」

 アヴァルスは鎌をかけた。僧兵らの様子を見て、自分が思い描いた憶測に確信を与える為に。

 案の定、僧兵らは反応を見せた。ぴくりという微細な体の動きであったが、それこそが図星を突かれた際に出る本能的な動作であった。

 高僧は確信を得た。彼らは間違いなく、何らかの理由で正面より力技に任せた戦いを挑まれ、そして敗北を喫したのだと。

 ならば、その相手とは幽閉した『あの娘』ではない。外部からの何者か──恐らく、格上の者ではないだろう。本来、格下と思った人物に思わぬ不覚をとったのだろう。

 そう、思い至った。

 その確信を前提に、アヴァルスは更に詰問した。

「では、猛者たる貴様らを倒し、『あの娘』を外へと連れ出した者とは誰だ?」

「それに関しては、調べがついております」

 その言葉を待っていたと言わんがばかりに、僧兵のうち一人が顔をあげる。

 その様子に、白々しさを感じながらも、アヴァルスは更に促した。

「そうか──では、申せ」

 

「探せ! 寝ている交替要員も叩き起こし、総員をもって何としても探し出すのだ!」

 報告を受けた刹那、『聖域』に再び怒声が鳴り響いた。

 その声に部下の僧兵らが、まるで弾かれたように飛び出していく。

 そして、僧兵らの去った礼拝堂。

 高僧は最大の上に置いてあった真鍮の水差しを手に取り、口をつけ、荒々しい所作でその中身を呷った。

 興奮のあまりにその手は震え、口の端より透明の液体が流れ落ち、神聖なる祭壇を濡らす。

 水を飲み干した男が水差しより口を離すや、荒々しく息を吐いた。

 その眼光は豺狼の如く、そして、表情を彩る眉や頬、口角に至っては鬼の如く。まさに怒りに我を忘れし狂人の形相。

 高僧は血を吐くかの如きうめき声をあげる。

「まさか、このような事になろうとは。司教が死に、『悪魔の娘』が庇護下から離れた、この唯一の好機を──始末する無二の機会を、逃してしまうとは」

 それは、神前で告げられた恐ろしき独白。

 狂いし高僧は、神の名を唱え、一心不乱に祈りを捧げた。

「浄化せねばならぬ。あの呪われた血を継ぐ者を、一刻も早く」

『悪魔の娘』

 その見かけの容貌故に、白日の下で殺めれば罪に問われよう。

 誰にも悟られてはならぬ。全ては闇の中で事を成さねばならぬ。

 アヴァルスは祈り続けた。

「探し出さねばならぬ。連中に嗅ぎ回られる前に」

 高僧は拳を祭壇に叩きつけた。

「抵抗勢力の連中にも、無論、騎士団にも──」

 騎士団の名を呟いた瞬間、男は奥歯を噛む力を強めた。

 奥の歯茎より、血が滲む。

 そして先刻、部下より受けた報告の内容を、頭の中で反芻する。

 大聖堂の地下室を守衛する僧兵らに正面から挑み、これらを殴り倒しては、閉じ込めていた『娘』を連れだしたのは、たった一人の下級の僧。

 しかも、年端のゆかぬ少女であるという。

 大聖堂は国内のみならず、諸外国民の信仰の対象としての役割を一手に担ってきた宗教機関である。寄せられ、蓄えられた財の高は推して知るべし。

 それ故、賊に対する警備には十分な配慮が成されていた。夜間は多くの僧兵を常に巡回させ、備えている。

 表向きには用途不明となっている地下室の警備に人員を割いても、不自然にならぬ程に。

 しかし今回、『娘』を連れ去った女は、その警備の虚を突いたのだ。

 警備は外部からの賊に備えたもの。故に、内部の人物である僧に対しては全くの無力。

 そう、想定外の人物からの襲撃であったのだ。それ故、歴戦の僧兵であろうとも、突如の事態に備える事は出来なかったのだ。

 しかも、見かけは年端もゆかぬ女。侮りもあったのだろう。

 だが、襲撃者たる少女は、なかなかに敏捷で、戦槌を振るう腕も確かであったという。

 これらの要素全てが重なり合い、合算された結果の失態である。

「まさか、『あの血筋の者』に目をつけられるとは思わなかった。騎士の家系故、聖堂の覇権争いには無関心であると思っていたのだが」

 騎士の家系の人物によって『娘』が連れだされたのならば、身内が属する聖都騎士隊に頼るのが筋。

 そうなってしまえば、全てが明るみとなるだろう。

 亡き司教が生前に保護していた『娘』を地下に幽閉し、虐待をしていた事実が──

 知れ渡れば、抵抗勢力に格好の攻撃材料を与えてしまいかねぬ。

 新しき司教となる夢も、未来永劫失われてしまう。

 アヴァルスは、自らを見下ろす神像を仰ぎ、再び神の名を唱えた。

 あるはずも無き、救済を求めた。

 狂気の宿りし瞳に、冷淡な視線を投げかける神像の姿が映る。

 そして、狂いし高僧は、自らの野望の邪魔をした女の名を神の前で告げた。

 最後に呪いの言葉を添えて。

「──イデア・クラウザー。『双翼の聖騎士』の傍系クラウザー家の末妹。下級の僧の分際で、高僧である私に歯向かった報い、受けてもらうぞ」

説明
C82発表の「Revolter's Blood Vol'01」のうち、
第一章を全文公開いたします。

※本作品は2011年に完結いたしました「Two-Knights」シリーズと同一の世界観を引き継いだ作品であり、「Two-Knights」シリーズが終了した時点より五十年後の時代を描いた作品となっております。
(前シリーズの世界観を踏襲した続編という位置づけではありますが、新規の方でも十分に読めるような仕様にしておりますので、どうかご安心ください。)
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