残留思念 下編
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「久しぶりだね…凛ちゃん、桜ちゃん?」

 予期せぬ深夜の訪問者は、十年ぶりの…十年前と変わらない笑顔を浮かべて…十年前と同じように姉妹の事を呼んだ。

「雁夜…おじさん?」

「本当におじさんなんですか?」

 青白い肌色に、明らかにありあわせのボロボロの服を着て、靴すらも履かない浮浪者の風体ではあるが、それは間違いなく十年前に遠坂姉妹を可愛がってくれた男…間桐雁夜…見間違いではない。

「凛、知り合いなの?」

 イリヤが事情の説明を求めてきた。

 雁夜の姿は明らかに不審人物のそれだが、凛と桜の顔見知りらしいという事で、どういう対応をするか判断がつきかねているらしい。

「え、ええ…どうしておじさんがここに」

「凛ちゃん、そこまでだ。そこで止まってくれ…」

「え?」

 駆け寄ろうとした凛を、雁夜が手を上げて止める。

「雁夜おじさん、なんで?」

「はは、ごめんね…ちょっと病気でね、君達に移すわけにはいかないだろう?」

 確かに雁夜の肌の色は悪く、何かを耐えているかのように余裕がない。

病人のそれだと言われれば、そう見えなくもないが…直感は明らかな嘘だと伝えてくる。 

「凛ちゃん、桜ちゃん…葵さんに伝えてほしい事があるんだ」

「え?」

「お母さまに?」

「うん、おじさんの最後の頼みだ。どうか聞いてほしい」

 最後の頼み…雁夜の様子を見れば、それが単なる比喩にも思えない。

 事実、雁夜の様子はどこか危うい物を含んでいる。

 その必死さを見せられては頷くしかないが…。

「その前に、私の質問に答えてもらえませんか?」

 いつの間にか、凛達の壁になる様に立ちはだかったのはカレンだ。

「え?カレン?」

「カレンさん、なんで…」

「貴方の名前は間桐雁夜…間違いありませんか?」

 カレンらしくない意外な行動に、桜が何事かを問いかけるが、当のカレンはそれを無視して雁夜を誰何する。

 その意味を察したのか、元々白かった雁夜の顔色がさらに白くなった。

「ち、ちょっとカレン?何を言って…」

「私が目を通した前聖杯戦争の資料の中に、間桐雁夜の名前がありました。…戦死者の名前として…」

「「「え?」」」

 どうやらその辺りの事は知らなかったらしい三人が虚をつかれて絶句するが、カレンはそれすらも無視して雁夜を見る。

 元々、特殊な場合を除いて感情を表に出さない彼女だが、天女の羽衣のように展開されているマグダラの聖骸布が本人以上に警戒を語っている。

 空気が緊の一文字に満たされる。

「そ、それは…」

「…それに、間桐雁夜…貴方はさっき遠坂凛に近づくなと警告しましたね?」

 尚も問い詰めようとする凛を無視して、カレンの金の瞳が鋭く尖る。

「なのに何故…貴方の方からこちらに近づいてきているのです?」

「な!?」

 カレンの言うとおりだった。

 聖堂の扉の先にいたはずの雁夜が…いつの間にか聖堂の中に入ってきている。

 誰もが会話に気を取られている間に前に進んでいたのだろうが…それに一番驚いたのはほかならぬ雁夜本人…自分で近づいて来たくせに、この驚きようは何だ?

「お、俺…は…ぐが!?」

 何かを言いかけた雁夜の言葉が、苦痛の悲鳴に変わる。

「お、おじさん!?」

 そして見た。

 雁夜の左頬、そこから首筋にかけての皮膚が波打っている。

 蠕動するような動きが形を取り、雁夜の肉体に浮き出たのは、人間の顔…しかも見覚えのある顔だ。

「間桐臓硯!?」

 雁夜の体に現れた人面疽は…間桐臓硯の顔をしていた。

 しかも瞼を開けた臓硯の目がぎょろりと周囲を見回し、イリヤに目を止めると大きく見開いて凝視する。

 それだけで、目があっただけでイリヤに本能的な怖気が走った。

「見つけた。聖杯…貴様の聖杯の器を…寄越せ」

「きゃ!?」

 恐怖を感じ、イリヤが悲鳴を上げて後ずさる。

  人体に浮き出し、人間と同じように目を見開いて言葉までしゃべる人面疽…そんな物に対し、初見で平然としていられる人間は多くあるまい。

魔術師とは言え、生理的嫌悪を抑え込む事は容易ではないのだ。

「引っ込んでろ爺!!」

 よろよろと前に足を踏み出しかけた雁夜の体が、本来の持ち主の一喝で止まる。

 いきなり前に出そうとした足を止められ、肉体がつんのめって転ぶ。

「ぐが、がぁぁぁぁぁ!!キエロ爺」

「どこまで儂の邪魔をするか貴様!!」

 事情は今を持って不明だ。

 だが、臓硯と雁夜の間で肉体の主導権争いが行われているのは分かる。 

 互いに獣の声でののしりあいながら、外から見えない所で熾烈な綱引きが行われているようだ。

「キエロキエロキエロ!!」

「お…ぐく…オノレーーーー!!」

 頬に浮かんでいた臓硯の人面疽は、雁夜の肉体を滑り落ちるように首から服の下の肉体に移動して行って見えなくなる。

 どうやら主導権争いは雁夜が勝ったらしいが、その勝利が辛勝であったのは四つん這いで荒い息を吐き、必死に空気を取り込もうとしている姿を見れば一目瞭然だ。

 おそらく…何かの天秤がもう少しだけ臓硯の方に傾いていれば、ここにいたのは雁夜ではなく臓硯だっただろう。

「おじさん…一体何が…」

「くっ!!」

 いきなりだった。

 たちあがった雁夜は、心配する凛達に背を向け、開いていた扉の先に飛び込んでゆく。

「待ちなさい」

 カレンのマグダラの聖骸布が雁夜の背中に向けて放たれた。

 男であれば決して逃れられない赤い布が雁夜に追いつき、その左手に触れて拘束しようと巻きつく。

「フィ…な!?」

 感情の薄いカレンが目を見張る光景というのはなかなか珍しいが、マグダラの聖骸布に拘束されたはずの雁夜の左手が砕けるところを見てしまえば、その驚きもやむなしだろう。

「…ちがう、あれは砕けたんじゃない!!」

 雁夜の左手だったものが、その擬態を解いて散らばっただけだ。

「間桐の蟲!?」

 床で身を震わせているのは言葉通りのものだった。

 おぞましい外見の蟲が十数匹…地面に散らばって落ちたのだ。

「キシャーー!!」

 主の敵と認識したか…それともただ単純に、その柔らかそうな肉体を餌として認識したのかは知れないが、蟲達は明らかにカレン達を威嚇している。

 毒があるのは葛木が身を持って証明してくれた…こいつらを無視して雁夜を追うのは無理がある。

「カレンさん、ここは僕が…」

「引っ込んでなさいバカ!!」

「おぶ!!」

 とりあえず、蟲達をどうにかしようとしたのだろうギルガメッシュの頭に、凛が拳骨を落として抑えつけて止める。

「あんたの|火力(ゲート・オブ・バビロン)だと教会が吹っ飛ぶわ!!」

 手のひらサイズの蟲を駆除に、伝説の武器を使うのは|威力過多(オーバー・キル)に過ぎるだろう。

「ガンド!!」

 凛のガンドが蟲の一匹を正確にとらえて破裂させる。

「わ、私もガンド!!」

「shape ist Leben(形骸よ 命を 成せ)!」

 桜が姉ほど使い慣れていないガンドで援護し、イリヤが針金で作った鷹が舞い降りて本物のように蟲達を爪と嘴で引き裂く。

「おじさんは!?」

 全ての蟲を駆除するまでさして時間はかからなかったが、雁夜の姿は夜の闇に消えていた。

 扉の先にはすでに誰もいない。

「…逃がしたようですね」

 聖骸布を見ながら、カレンが呟く。

 学校で臓硯がイリヤの拘束を逃れた時も、似たような形で逃れたのだろう。

体をバラバラにできるのなら、拘束して動きを封じるのは不可能に近い。

「…とりあえず、エミヤシロウに連絡を」

「あ、はい」

 聖骸布をじっと見ながら、妙な空気を発散しているカレンに、イリヤが頷いて従う。

 携帯を取り出し、登録されている番号にコールした。

「ねえカレン?」

 電話をかけているイリヤを一先ず置いて、凛がカレンを呼ぶ。

「…何ですか?」

「さっきの、おじさんが死んだはずって…どう言うこと?」

 凛の質問に、カレンがやっと顔を上げた。

 互いの視線が交差し、奇妙な緊張が生まれる。

「言ったとおりです。聞いていないのですか?」

「な、何を…」

 凛だけでは無い。

 その後ろで桜も息を飲んで、カレンの次の言葉を待っている。

 聞こえていなかったわけではなく、信じられなくて問いかけた質問の答えを得るために…。

「間桐雁夜は、十年前の聖杯戦争の折り、遠坂桜の安否を調べる過程で間桐臓硯に騙され、聖杯戦争に参加し、死亡しています」

 

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「何時まで…何時までワシの邪魔をするつもりだ!?」

「う、うるさい…」

 姉妹が十年前の真実を知らされていた時、教会から逃げ出した雁夜は商店街の裏路地に逃げ込んでいた。

 ただし、その姿は一人だ。

 雁夜が会話している相手の姿はない。

 その代り、雁夜は己の右手の甲を睨んでいる。

「忌々しい出来損ないが!!」

 そこに浮き出しているのは臓硯の顔だ。

 一時は乗っ取られる寸前までいったものの、なんとか腕一本にまで臓硯を追いつめる事に成功したらしい。

「…貴様ごときが…何時までもあらがえると…」

「黙れって言っているんだよ!!」

 怒声と共に、雁夜は右手を手近なコンクリートに叩きつける。

 コンクリートの硬さは臓硯の人面疽ごと右手を潰した。

 ただし、傷口からまき散らされるのは血の赤ではなく黒い蟲の体液の色だ。

 痛覚は通じているのか、雁夜の顔が苦痛を耐えるために歪むが、それに構わず右手をコンクリートに叩きつける…何度も…何度も…。

「はあ…はあ…邪魔なのは、お前だ爺…」

 やっと殴りつけるのをやめた右手からは臓硯の人面疽は消えていた。

 同時に手は完全に破壊され、五指はそれぞれあらぬ方向を向いて骨まで見えている有様である…しかし、醜い傷口が一瞬うごめいたかと思えば蟲の姿を取り戻し、寄りあい、後には元通り傷一つない手に戻る。

 握ったり開いたりを繰り返すが、その動きに違和感はない。

 教会で失った左手も、残った蟲達が補う事でいつの間にか元通りになっている。

「は…はは…」

 自分の体があり得ない再生を遂げる一部始終を見ていた雁夜は、乾いた笑いを漏らした。

「…やっぱり、間桐の毒からは逃げられなかったって事か…あんなに嫌っていた爺と同じ…化物の体になってまで…“自分”ですらなくなって…」

 雁夜の肉体が間桐の蟲で作られているのは明らかだ。

「でも…それでも俺は…」

 自嘲の笑みを浮かべながら、雁夜はフラフラと裏路地を出て歩き出す。

 何か目的があってその場所に向かっているのか…それとも半ば無意識にでも動いていなければ耐えられないのか…その姿から読み取る事は出来ない。

 少なくとも、間桐邸すら焼失したこの時代、間桐雁夜の帰る場所はとっくに失われている。

「ここは…昔のままなんだな…」

 やがて、雁夜が辿り着いたのは公園だった。

 生前、雁夜が冬木に戻って来た折には良く葵と待ち合わせ、凛や桜と一緒に遊んだ公園だ。

 十年の歳月による劣化はあるが、雁夜の記憶の通りの場所に公園はあり続けた。

「…久しぶりね、雁夜君?」

「っ!?」

 そして、雁夜の記憶通りなのは…公園だけではなかった。

 

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「あっ…なんで…」

 公園の中に…葵がいた。

 雁夜の目に映るのは、十年前と同じ…憧れ、自分に向けられることに幸せを感じた微笑みだった。

「…くっ!!」

 思わず前に踏み出しそうになっていた足を、意志の力でねじ伏せる。 

 何故葵がこんな時間に公園にいるのかは知れないが、これ以上近づくのはまずい。

 今は抑えつけていられるが、葵に近づく事で気が抜け、臓硯が表に出てくれば、あの妖怪爺の事だ…葵に何をするか知れない。

 それだけは何にもまして我慢がならない…あの爺に葵を好きにさせるなど悪夢だ。

「雁夜君?」

「俺に…近づかないでくれ!!」

「あっ」

 そして、葵の方から雁夜に近づいてくることも却下だ。

 拒絶じみた言葉に罪悪感を感じる…すぐに傍に言って謝りたい。

 しかし…今の自分達にはこの距離が精一杯だ。

「話なら…この距離でも出来ますから…」

 雁夜は戦っていた。

 葵の傍に行きたいと願う己の欲望と…そして己の中で騒ぎ続けている臓硯と…他の誰にも共有できない戦いを、雁夜は必死に耐えている。

 葵を守るため…ただそれだけの理由でたった一人、孤独な戦いの中にいながら…雁夜は同時にもう一度、葵と話ができた事の喜びも感じていた。

「そう…そうね…」

 葵は魔術師では無い。

 故に雁夜がどんな状態にあるかは分からないが、彼が戦っている事は分かる。

 そしてそれを自分に隠したいだろうという事も…だから何も言わない。

 なにも聞かない事で、葵は雁夜のプライドを守る。

「十年ぶりね…」

「そう…ですね…」

 葵にとっては十年ぶりの再会、雁夜にとっては…どうなのだろうか?

 久しぶりというには十分だろうと言うくらいしか分からない。

「雁夜君は何も変わらないわね、私はすっかりおばさんになっちゃったわ」

 自嘲気味に笑って、葵が冗談じみた物言いで会話の口火を切る。

「そんな事はありません。葵さんも…ずっと奇麗なままです」

「お世辞でも嬉しいわ、ありがとう」

「お世辞なんて、本心ですよ」

 それは…久方ぶりに再会する友人同士の会話だった…少なくとも外見上は…お互いに、内心での葛藤もあるだろうが、それを表に出す事はしない。

「でも…すいません。俺は…本当の間桐雁夜じゃないんです」

「え?」

 その瞬間、雁夜の顔に浮かんでいた表情を何と言い現わせば良かったのだろうか…泣きたいのに、必死に笑う…笑顔を見せようとして…笑顔を見せたいのに失敗した泣き笑いの表情…。

「どう言う…事?」

「本物の間桐雁夜は…十年前に確かに死んだんですよ」

自嘲気味に…ぽつりぽつりと雁夜は語り始める。

「でも、間桐雁夜は…息を引き取るその瞬間、自分の中にある刻印蟲に爺が乗り移ってくるのを感じて…最後の力で無理やり割り込もうとしたんです」

 非凡…凡才に非ずとはこういうことを言うのだろう。

 雁夜もまた間桐の魔術師である事を考えれば、臓硯と同じやり方で刻印蟲の中に己の魂を割り込ませる事も可能かもしれないが、用意を周到に行っていた臓硯のそれとは違う。

 少なくとも、死の間際のような最悪のコンディションで出来ることとは思えない。

 間桐臓硯にとっても予想外だっただろう。

 肉体を守る術は数あれど、魂を守る術は多くない。

 魂の移行の途中に割り込みをかけられるなど考えもしなかっただろう。

 ましてや、その相手が自分が侮っていた相手、しかも死に際の雁夜がそんな行動に出るなど…“上手くいけば”臓硯の代わりに雁夜が復活していたはずだ。

 そう…上手くいっていれば…。

「でも…上手くいかなかった。いや、爺の思う通りにさせなかったって言う意味では成功したのか…間桐雁夜の狙いの“半分”は成功したんだから…」

 元々座れる椅子は一つ、そこに雁夜と臓硯が同時に座ろうとすれば無理が出るに決まっている。

 しかも瀕死の状態でとっさにやった事だ。

 上手くいけば、そちらの方が異常だろう。

「…俺は、間桐雁夜は魂の割り込みに失敗したんだ」

「そんな、それじゃあなたは…」

「全部じゃなかったってだけですよ。間桐雁夜の執念が…一番強い記憶だけが、刻印蟲の中に残った。それが俺なんです」

「記憶?」

「葵さん、俺はね…間桐雁夜の記憶を中途半端に吸収したことで、混乱している間桐臓硯の一部なんです。本当は…間桐雁夜じゃない」

「そんな…!!」

 思わず葵は悲鳴を上げた。

 雁夜の言葉を信じれば、ここにいる雁夜はやはり偽物で、自分を間桐雁夜と勘違いしている間桐臓硯という事になる。

 一番近いのは二重人格の概念だろうか…|我思う故に我あり(コギト エルゴ スム)…究極の所で、自分にとっての現実は自分だけという概念だが、肉体は紛い物、人格さえ記憶の混濁による錯覚から生まれた物、今の雁夜に人と同じ感情と思考があるとすれば、正気を保っていられる事さえ驚異的と言わざるを得ない。

「ああ、でも悪いことばかりじゃないですよ?こうやって肉体の主導権を取って嫌がらせもできるし…はは」

 冗談めかして言う雁夜の姿が痛々しい。

 言葉より、歪んだ笑い顔の方が明らかに本心だろう。

「それに、俺は爺の一部だから、本体の記憶も見る事が出来るんです」

「っ!?雁夜君…それって…」

 知っているのだろうか?

 自分が騙されていた事も…命をかけてやったことが全て徒労だった事も…何もしなくても桜が助かっていた事も………自分の死に意味がなかった事も…?

葵が口にするのを戸惑っていると、雁夜が照れくさそうに笑って首肯した。

「あはは、俺…色々空回りしちゃったみたいですね、恥ずかしいな…」

「そ、そんな事はないわ、私が貴方に話さなければ…」

 雁夜に桜がいなくなった事も含め、事情を話したのは葵だ。

 葵はそれをずっと後悔してきた。

 あの日…雁夜に話さなければ、雁夜が魔術師の世界に戻る事はなかっただろう。

 臓硯に騙され、死ぬ事もなかったはずだ。

 雁夜が死ぬきっかけを作ったのは…葵だ。

「葵さん…俺が、間桐雁夜が死んだのは葵さんのせいじゃないです。俺が間抜けだっただけなんだ」

「で、でも…」

「それより、聞いてほしい事があります」

 雁夜が…葵の目を正面から見た。

 背筋を伸ばし、さっきまでの弱弱しさは微塵もない強い視線だ。

「俺、間桐雁夜じゃないけど、偽物だけど、聞いてほしい言葉があります」

「……はい」

 雁夜の決意を感じた葵は、それ以上何かを言うのをやめた。

 次の言葉は、きっと間桐雁夜が葵に一番伝えたかった言葉…そこに本物と偽物の区別は関係しない。

 その言葉には、葵を見続けてきた雁夜の思いがこもっているはず…雁夜の全てをかけた物だろう。

 ならば、葵はそれを受け止めなければならない。

「…葵さん、俺…間桐雁夜は貴女の事が好きでした。…ずっと…」

 雁夜の言葉は…十年越しの告白だった。

「…ありがとう」

 雁夜の告白に対して、葵は感謝の言葉で返す。

「私、貴方の思いに気がついてあげられなかった。ずっと傷つけていて…ごめんなさい」

 二人は幼馴染だった。

 変わらず、友人として雁夜を見ていた葵…いつの間にか友人を超え、一人の女性として葵を見ていた雁夜…二人の思いが何時の間にすれ違っただろうか?

 その理由を葵にだけ求める事も出来ない。

 今まで心の内を明かさなかった雁夜にも責はあるはずだ。

 しかし、そんな理屈で割り切れるものではないのも事実、心に罪悪感を感じる限り、やはりそれは罪なのだ。

「でもね、雁夜君…私…私は夫を愛しているの…娘たちを愛しているのよ…」

「……」

 そして…葵はさらに罪悪感を重ねる。

涙を流しながらも、雁夜に向けて明確な拒絶の言葉を口にする。

それを…葵の謝罪を…雁夜は取り乱したり、動揺する事さえなく静かに聞いた。

「だから、貴方の思いには応えられません……ごめんなさい」

 葵は深々と頭を下げ…、完全な断りと謝罪の言葉を持って、雁夜の思いを断った。

「…ありがとうございます」

 雁夜は…笑っていた。

 ホッとしたような、解放されたかのような安堵の笑みだ。

 告白し、ふられた直後の人間が浮かべるものでは…無いのではないか?

「こんな蟲の体ですからね!!葵さんを幸せになんてできないしー、偽物だし。万が一「はい」とか言われちゃったらどうしようかなって思ってたんですよ?!?昼ドラみたいなドロドロ展開も柄じゃないから、むしろ振られてラッキーというかほっとしたって言うかははは?」

「雁夜君…」

 立て板に水というのはこういうことを指して使う言葉なのだろう。

 葵の言葉を封じるというか、何も言わせないと言わんばかりに雁夜は言葉を重ねる。

 それは…そうしないと耐えられないからじゃないのか?

「間桐雁夜も、気づいていたはずです」

「え?」

「葵さんが幸せだって事に、間桐雁夜がいなくても…葵さんは幸せにできるやつが傍にいるんだって…」

 …遠坂時臣。

「そんな…」

「凛ちゃんと桜ちゃんを見ていて、“それ”に気づかないわけがないんです」

 夫婦の仲が悪い子供があんないい子に育つはずがない。

 葵が遠坂時臣を誰よりも愛している…そして、口にしないだけで遠坂時臣も…。

「でも、それでも良かったんです。いつか…歳をとってからでもいい。時臣が死んだ後、葵さんが自分に振り向いてくれるかもしれないなんて…そんなあさましい事まで“俺”は考えていたんです」

「雁夜君…」

 雁夜の告白に、葵は何も言えなくなった。

 凛と桜との触れ合いに、そういった邪さが全くなかったとは言えないだろう。

 その程度の夢を見る自由は誰にでもあっていいはずで、責めるにはあまりにも儚い夢だ。

「だから、間桐雁夜は遠坂時臣が許せなかった」

 雁夜の声のトーンが沈む。

 言葉の通り、雁夜は許せなかった。

 最愛の人が幸せを感じながら生きていたのに、その幸せを壊したのが、よりによって彼女が愛する相手だったのが許せなかった。

 その理由が“魔術”…雁夜が忌み嫌い、捨て去った物…そんな下らないシガラミを葵の幸せの上に置いた時臣の事が不愉快で許せなかった…自分の全てを否定された気がしたのだ。

 無論そこに、葵を手に入れた時臣に対する嫉妬があった事も否定はしない。

 男とすら見られていない自分と時臣の差が、我慢できなかったのもあるだろう。

「でも…あの時…自分が死ぬと理解した時、間桐雁夜は自分の中に一つだけ心残りがあった事に気がつきました」

「心…残り?」

「はい、間桐雁夜はずっと葵さんに告白したかった。振られるのが怖くて言えなかったんですけど、最後に思いを伝えたかった。聞いてほしかった。受け入れてもらえないと分かっていて、それでも尚…」

 その思いが強かったから、成長した凛と桜の事もすぐに分かった。

 公園の事も覚えていた。

 そして、十年の月日が経とうとも葵を見間違える事はなかった。

「だから、これは間桐雁夜の我儘なんです。一方的に押し付けただけの自己満足ですよ」

 雁夜は最初から、葵が自分を受け入れる事はないと知っていた。

 知っていてこの場に現れた。

 最初から振られるために、雁夜は葵に会いにきたのだ。

「本当は、凛ちゃんと桜ちゃんに言付けを頼もうかと思っていたんですけど…直接言う事が出来て良かった」

「雁夜君」

「これで心残りはありません」

「え?」

 思わず葵が聞き返す。

 雁夜の言葉に含まれた不穏な物を聞き取ったのだ。

「あはは、間男にもなりそこねた三枚目は、妖怪爺を道連れにしてこの辺りで退場します」

「そんな!!」

「そのくらいの見せ場…ぐっ!!」

「雁夜君?」

 いきなり蹲った雁夜に葵が声をかけるが、駆け寄ろうとした所で雁夜が手を上げて止める。

「くっそ…やっぱ…役者が違うのかよ?」

 雁夜はよろよろと背後に下がりながら、苦しみのあまり着ているシャツを引き裂く。

「な!?」

 雁夜の肉体に浮き出ている物を見て、葵が悲鳴を上げた。

 露にされた雁夜の鳩尾を中心に、臓硯の人面疽が浮き出している。

「下らん!!下らんぞ貴様ら!!」

 臓現の人面疽が呪詛に似た禍々しい言葉を吐く。

 それを聞いただけで、耐性の無い葵は金縛りになった。

 目の前の光景から目を離せず、かと言って逃げる事も出来ない。

「そんな事で儂の邪魔をするなど!!」

 臓硯の目がギョロリと動き、身動きの取れない葵を目に留める。

「遠坂の嫁!!この際貴様でもいい!!貴様を蟲の苗床にしてくれる!!生贄となれ!!」

 今度は雁夜よりも臓硯の方が肉体の主導権を握っているのか、よろよろと足が前に踏み出す。

「爺…もう、諦めろ間桐の毒は…浄化されなくちゃならないんだ」

「黙れええええええ!!」

 臓硯は完全に見境いをなくしているようだ。

 血走った眼は葵だけを見ていて、“他の何も”目に入っていない。

「Intensive Einascherung ( 我が敵の火葬は苛烈なるべし)」

「む、がぁ!!」

 横合いから飛んで来た炎が、臓硯に命中した。

「はは…やっぱり、俺の出る幕はないじゃないか…」

 自分に向かって炎の魔術を浴びせかけた本人…愛用の杖を構える遠坂時臣と、炎に焼かれる臓硯を見て正気に戻り、夫に駆け寄って行く葵を雁夜は見送った。

 雁夜にとって最も重要なのは葵が幸せであること、自分が彼女の隣に立つのが理想だが、もはやそれは叶わぬ夢だ。

 自分が消える事で彼女が幸せになるならば、他の誰かの元で葵が幸せになれるのなら、喜んで身を引く…不器用でも、それが間桐雁夜なりの愛し方だ。

「でも、悔しいな…」

 悔しかったから…葵の肩越しに、目があった時臣を全力で睨んでおく。

 今の雁夜に出来る事は、葵の幸せを願う事、彼女を幸せにできる相手に託すことだけ…だから時臣を睨む。

 葵を不幸にしたら許さないという思いを込めて…伝わればいいと思いながら睨んだ。

「………何だ…そんな顔もできるんじゃないか…」

 雁夜の睨みを受け止めた時臣は、嘲るでも見下すでもなく…ただ睨み返してきた。

 あの魔術至上主義で、それ以外の事を下らないと見下していた男が…家訓の優雅さも知った事かとばかりに純粋に、格下のはずの雁夜を睨んで来たのだ。

 時臣の反撃に、雁夜は一瞬呆け、ついで湧き上がってきたわけが分からない愉快さに、口が笑みの形になる。

 怒鳴りつけたい事も、憎しみもあったはずだが、全てが穴の開いた風船のようにしぼんでいった。

「く、遠坂の子倅か!?」

「諦めろ爺、俺も付き合ってやる。一緒に逝こう…」

「ふざけるな偽物が!!消えるならお前だけで消えろ、ぐぎゃぁぁぁぁ!!」

 罵りの言葉は、途中から悲鳴に変わった。

 その理由は誰が見ても一目で知れる。

 胸に浮き出た臓硯の顔から、銀の角が生えていた…いや、角に見えたそれは剣の白銀だ。

 己の中心を貫かれた臓硯はこの世のものとは思えない悲鳴を上げ、雁夜は己の体から生えた刃を穏やかな瞳で見た。

「やっぱり、来てくれたんだな…ありがとう」

「…礼を言われるような事は…していない」

 雁夜の背後…背中から胸まで貫通している剣の柄を握っているのはシロウだ

 臓硯から生えている刃から光があふれ出し、浄化の炎が雁夜を包む。

「悪い…二回も…でも三回目はない。今度はちゃんと逝くから…」

「心残りは…ないな?」

「ああ…ない」

 炎の塊となった雁夜は、そのまましばらく燃え続け、炎が消えた先には何も残っていなかった。

「…終わったようだな」

「ええ…そのようですね」

 何時の間にか、シロウの両隣にはランサーとライダーが立っている。

 対臓硯用に連れてきたが、出る幕はなかった。

 二人共に、それぞれ思う所があるのか、言葉は少なめだ。

「すまなかったな、面倒をかけた」

「何もしてねえよ。…それより、本当に何も残さなかったな」

「ああ…」

 雁夜の最期の言葉…遺言に倣うかのように、炎が消えた後には雁夜の死体も…臓硯の死体も跡形なく、灰すら燃え尽きたかのように何一つとして残っていなかった。

 蟲故に燃え尽きたのかもしれないが…これが雁夜の望んだ死に様のような気がするのは考え過ぎだろうか?

 最後まで葵の事を思っていたあの男ならば、自分の死体ですら葵を縛る事を良しとしなかったのではあるまいかと…そんな風に思う。

「…所で何時まで隠れているつもりだ?」

 振り向いた先の茂みがガサリと動く。

 出てきたのは凛、桜、イリヤの三人だ。

 狙われている身分のくせに…魔力の残滓をたどって追いかけてきたのか?

「全く、いい度胸をしている」

「あ、あの…」

「む?」

 三人の様子が変…っと言うか戸惑っている?

「…見ていたのか?」

「はい…」

「そうか…」

死んでまで誰かを思う…比喩や物語の中でよく使われるが、実際に死ぬまで…そして死んでも葵の事を思い続けた間桐雁夜の生きざまは、やっと恋心を理解し始めたばかりの少女達にはショックが強かっただろうか?

ましてや、凛と桜にとって母親だ。

何と声を掛けてやればいいのか分からないので黙るしかない。

「あ、あれ?」

 シロウの見ている前で、イリヤの頬を透明な滴が流れた。

 それに気づいたイリヤがはっとしてうろたえる。

 自分に起こった変化に、本人が一番驚いているようだ。

 見れば、凛と桜の頬にも涙が伝っている。

「おいおい、お嬢ちゃん達にはちょっと刺激が強すぎたかもしれねえが、何も泣くこたあねえだろう?」

「違いますよランサー、桜達はそんな事で泣いているんじゃありません」

「そ、そうなのか?」

 唯一、彼女達の涙の理由が分かっているらしいライダーは、眼帯の下の口元が笑みの形になっている。

 やはり女同士で分かる事、男には理解できない何かがあるのだろうか?

 こうなってはシロウとランサーの出る幕では無い。

 自分達がいては話しづらいだろうと、二人揃って四人から離れた。

 

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「…間桐雁夜の献身と貴女達の恋心を比べて、後ろめたく思う事はないんですよ?」

 シロウとランサーが十分に距離を取ったのを確認して、ライダーが三人に話しかけたのだが、発された一言で三人がそろって身をすくめる。

 どうもいきなり図星を指されたようだ。

「そもそも、比べる類の物でもありませんし…羨ましがる物でもありません…自分のそれと比べて恥ずかしかったんでしょう?」

「「「うう…」」」

 これまた図星だったらしい。

 自分を捨ててまで葵の幸せを願った雁夜を見てしまって、好きだの嫌いだので簡単に騒ぐ自分の恋心があまりにも幼く、不純なものに思えてしまったのだろう。

「で、でも…」

 別に責められる物ではないはずだが、年頃の少女が持つ潔癖性が納得しない。

本来ならば、時間と経験を重ねて折り合いをつけ、納得するものであろうが、それが足りない事も含めて若さと言うのだろう。

「最初は誰でも恋から始まるものです。恋をし続け、相手が自分にとってかけがえのない人になった時初めて、それは愛と呼べるものに昇華します」

 はるかな昔、海の神と愛をかわした女神は経験者として語る。

 自分も彼女達くらいの時があったなと、懐かしく思いながら…。

「それに、あの朴念仁相手なら貴女達くらいの積極性があってちょうどいいかもしれませんしね」

「「「マジで!?」」」

 希望があると聞いた途端のこの反応の良さも若さだな?と、ゴルゴンの末娘は内心でこっそり大人目線な事を考えていた。

 

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「お、何か知らんが丸く収めたようだな」

 女性陣から離れて男二人、声は聞こえないので並んで成り行きを見ていたのだが、ライダーに何か言われたらしく、ぱっと表情が鮮やかになった三人を見れば結果は明らかだ。

「にしても何か、こっちをガン見しているように見えるんだが…シロウ?」

 返ってこない反応に、どうかしたかと隣を見れば伏し目がちにうつむいたシロウがいる。

「…悪い奴じゃなかったよな」

「ああ…」

 誰の事かと問い返すのは無粋だろう。

「人間、あそこまで一人の事を思えるもんなんだな…」

「君の時代は寝取るのが文化だったみたいだからな、純愛は理解できんか?」

「言ってろ」

 あそこまでの献身は、英雄とはいえ中々真似出来る物ではないし、ランサーの柄でもない。

 憎まれ口をたたきあいながらも、シロウはうつむいた顔を上げなかった。

「それで、何を気にしているんだ?」

「…ひょっとして…この件は全て、遠坂葵の憂いを晴らすために間桐雁夜が仕組んだことで…私達はそれに巻き込まれたわき役だったのではあるまいか…っとな」

 視線を上げた先には、夫に慰められ、その胸の中で泣いている葵の姿がある。

 十年分の涙だ。

 そう易々とは枯れまい。

 原因を作ったシロウに言えた義理ではないが、 この十年、葵にとって雁夜の事は楔のように心に引っ掛かっていた事のはずだ。

「…考えすぎだろ?」

「私もそう思うが、しかし…」

 最後まで彼女の幸せを望んでいたあの男にとって、葵の幸せに陰りを落としてしまうのは本意ではあるまい。

 自分の死に負い目を感じさせてしまうなど論外だ。

 今夜この場所で、雁夜の告白を受け、そしてそれを断った事で葵は呪縛から解き放たれた…それは事実だ。

 完全に忘れ去る事は出来なくても、囚われる事はあるまい。

「仮にだ。それを知り得たとしても、女の後ろめたさを消し去る為に?わざわざ地面の下にいた妖怪爺を起こして出て来たってのか?」

 事実、雁夜ならば不可能ではないだろう。

 可能性があるなら、後は実行するか否か…雁夜には実行する事が出来た。

 それだけが事実だ。

「そりゃあ、いくらなんでも出来過ぎだ」

「そうだな…しかし…」

 雁夜が臓硯ごと燃え尽きた以上、今さら知りようも調べようもない事だ。

 ならば各々で好きに解釈するのも悪くはあるまいとも思う。

 それを言えばまた笑われそうな気がするので口にはしないが…ふと、顔を上げて夜空を見上げれば真円の月がのぼっている。

 

 月がとても奇麗な真夜中の物語だった。

 

 

説明
第四次聖杯戦争が終わって数年後…死んだはずの男が地の底から戻って来た。そのおぞましきせいで求める物は…。 他のサイトにあったFateの逆行再構成物の外伝であり、時臣矢アイリスフィールなどが生きていて葵も健在です。他に第五次聖杯戦争のサーヴァントもいます。間桐雁夜と臓硯は死んでいます
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