垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】――  BOX―26 垂水百済は
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 ある者は神と呼んで敬い。

 

 ある者は悪魔と呼んで蔑んだ。

 

 人間の母から生まれながら。

 

 一度も人間として扱われたことはなかった。

 

 ――1回目の【私】―― 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 生徒会戦挙――会長戦。

 

 黒神めだか対球磨川禊。

 

 泣いても笑ってもこれが最後、学園の命運をかけた一戦が繰り広げられている最中。

 箱庭学園理事長室では、窓の外から聞こえてくる殴り合いの音などまるで意に介すことなく、二人の男が悠長に茶を啜りながら将棋に興じていた。

 一人は言うまでもなくこの部屋の主である和装姿の不知火袴。その対面に座り、盤面を注視しているのは、御年七十二歳の袴よりも五十以上も年下に見える、痩身長躯の若い男だった。

 男は指先で弄んでいた駒を盤面の片隅に配置すると、

 

「……老いた割に、腕の方は上達していないようだな、袴。動かし方のクセが全然抜けていないじゃないか。私個人としてはフラスコ計画よりもこっちを楽しみにしていたというのに、これでは拍子抜けもいいとこだ」

 

 目上の――学園最高の権力を持つ存在に対して、若い男の口調はぞんざいで無礼この上ないものであったが、言葉を投げ掛けられた袴は気にした様子もなく、どころか――

 

「生憎と、お前以外に指す相手がいなかったのでな。言い訳がましく聞こえるだろうが、お前が消えた後、こっちはそれなりに忙しかったんだ。将棋を指す暇もないくらいにな」

 

 老人らしからぬ、まるで長年会えなかった旧友と再会した時のような態度で、若者が置いたばかりの駒を取って自分の駒を置いた。

 若者は言う。

 

「ふん。教育理念だ何だと口喧く喚くだけだった貴様が、今では学園の全権を握る理事長様とは。不知火家の人間を長に選んだ理事会の馬鹿共にはほとほと呆れ果てるが、まあ、愚鈍極まりなかった先代の((理事長|あのバカ))に比べれば退屈せずに済みそうか」

 

「その先代の話なら耳にしている。十七年前にこっぴどく叩きのめしたそうじゃないか。それだけじゃない、日本屈指の名家だった先代の一族郎党全てを社会の最底辺に叩き落としたとも聞いている。先代の((為人|ひととなり))を俺はよく知らんが、((悪平等|ノットイコール))の――誰よりも他人に無関心だったお前が、一人の人間に対してそこまで怒ったと聞いたときは流石に耳を疑ったぞ」

 

「取るに足らん羽虫でも、目の前を五月蝿く飛び回られたら潰したくもなるというものさ。そもそも、あの男は人の上に立てるような噐ではなかった。計画に支障をきたす前に、早々にご退場願っただけのことだ」

 

 詰みだ、と。

 若者は袴の玉将を指で弾き、盤上に自分の持ち駒をばら撒いた。

 それに呼応するかのように、窓の外から一際大きな歓声が上がる。

 ちらりと外を一瞥し、すっかり冷めてしまった茶を飲み干した若者は、無言のまま席を立つ。

 かつての親友の背中に、袴は問うた。

 

「また、繰り返すのか? 十七年前のように、五十五年前のように」

 

「何度でも繰り返すさ。百年前のように、百五十年前のように、二百年前のように、役目を果たすまで何度でも何度でも。私が裏切った者達のために、私が傷つけた者達のために、怨嗟の声と呪詛の念でこの身が腐り果てるその日まで」

 

 理事長室の扉が静かに閉まり、残ったのは髭を撫でて思案する老人一人。

 

「……フラスコ計画に携わる者としては失格なのでしょうが、黒神さん達が彼を救ってくれることを祈らずにいられませんね」

 

 種を蒔き、我が子のように慈しみ、芽を出し花を咲かせて実をつけたところで、情け容赦なく根本から刈り取る。生まれ持った異能ゆえに、苦行と後悔に満ちた道を歩まねばならない親友が、袴は哀れに思えてならなかった。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 勝利と和解の余韻に浸る暇など与えることなく、その化け物はめだか達の前に姿を現した。

 『彼』の足元に倒れ伏しているのは、めだかのために駆けつけた各学年十三組の生徒達。皆一様に衣服を赤く染めて、呻き声こそ上げるが、起き上がることが出来る者は皆無だった。

 圧倒的戦力と言える十三組生を一瞬で壊滅させた男の姿に、めだか達は、時計塔で再会した時の球磨川の姿を重ねた。しかしその球磨川自身も、目を大きく見開いていて、この異様な状況に混乱しているようだった。

 

 いつ目が覚めたのか、とか。

 傷は大丈夫なのか、とか。

 

 掛ける言葉は他にもいくらでもあった。

 けれど、めだかの震える口から出た言葉は――

 

「……誰だ、貴様は?」

 

 現実を否定するような、夢であって欲しいと願っているような、悲痛に満ちた問い掛けだった。

 ここで『彼』が、めだか達が全く聞き覚えのない名を名乗ったのなら、他人の空似だと、まだ救いがあっただろう。

 

「誰だ――か。今更だが返答に困る問いだな、それは」

 

 だが非情にも。

 

「残念ながら本名はとうの昔に忘れてしまった。貴様達が聞き慣れた偽名でよければ名乗ってやろう」

 

 ぞろりと生えた牙を覗かせて、口を三日月型に歪ませて、『彼』は名乗るのだ。

 もう一度、今度こそ、正真正銘の敵として。

 

「安心院不和。今の私は安心院不和であって安心院不和ではないのだが、まあ、一番新しい偽名を名乗ると、そういうことになってしまう」

 

 百八十センチ以上ある痩身長躯。ところどころ跳ねたウルフヘア。鮫を思わせる、鋸のような乱杭歯。漆黒のシャツと同色のスラックスを身に纏い、緩めた白のネクタイの先には『≠』を象ったネクタイピン。

 十七歳の少年相応だった外見は、二十歳前後の青年の姿に変貌を遂げてこそいたが。

 

 その顔は。

 その姿は。

 

 紛れもなく安心院不和であった。

 『彼』は胸ポケットから煙草を取り出し、紫煙をくゆらせながら、その場から動けないめだか達を冷めた目で見据えて、失望したように――言う。

 

「どうしためだか、その呆けた面は何だ? いつもの泰然自若とした貴様は何処へいった? 私が此処に立ち、改めて敵になった程度で、貴様の在り方はそうも無残に変わり果てるものなのか?」

 

 だとするなら。

 

「私は貴様を買い被り過ぎていたようだ」

 

 タン、と『彼』は爪先で地面を軽く叩いた。

 ただ、それだけではあったが。

 ただそれだけで、めだかの身体は見えない『何か』によって弾き飛ばされ、数メートルの距離をバウンドし、壁に激突してようやく停止する。

 

「めだかちゃん!?」

 

 一瞬の、防御も感知も間に合わない不可避不可視の攻撃。何が起きたのかすらわからない。

 元より球磨川との戦闘でボロボロだっためだかは、駆け寄った善吉に支えられる形でどうにか立ち上がろうとする。

 しかし、その懸命な努力を嘲笑うように。

 

「見苦しいな、寝ていろ」

 

 言葉と共にダンッ、と先ほどよりも強く『彼』が地面を踏みつけると、まるで連動しているかのように、めだかは支えていた善吉もろとも地面に叩きつけられた。

 勿論、めだかが攻撃を受けているのを他の面々が黙って見ているわけもなく。

 

「……ああ、次は貴様達か。禊、高貴」

 

 両手に巨大螺子を携えた球磨川が、拳を握った阿久根が、『彼』目がけて飛び掛かる。

 負完全と破壊臣。一時とはいえ主従関係にあった二人の、左右からの挟撃コンビネーション。並大抵の人間ならば躱すことなど不可能な一撃必殺。

 けれど球磨川と阿久根にとって計算外だったのは、『彼』が並大抵の存在ではなく、また、人間ですらなかったことだ。

 球磨川の螺子が『彼』の右肩を抉るのと同時に。

 

「ぐあっ!?」

 

「高貴ちゃん!?」

 

 阿久根の右肩が大きく裂けた。

 螺子が刺さったはずの『彼』の肩には傷どころか汚れ一つなく、阿久根の肩には、位置も深さも寸分違わぬ傷が出来上がっていた。その光景を見て、無敵ゆえに攻撃手段を持たず、傍観するしかなかった蝶ヶ崎蛾々丸が驚きの声を上げる。

 

「あれは――私の『((不慮の事故|エンカウンター))』!? 馬鹿な! 何故不和さんが私の((過負荷|マイナス))を使うことが出来るのですか!?」

 

「そんな事考えてる場合かよ! 『((致死武器|スカーデッド))』ォ!!」

 

 蝶ヶ崎の動揺を掻き消すように志布志が叫び、過負荷を全開にする。

 近づくだけで相手を血塗れにする、対人戦闘ではほぼ最強無比と言える異能。

 けれど、そんな彼女の力を以ってしても、『彼』は血に染まるどころか身動ぎ一つせず、逆に――

 

「――――っ!?」

 

 志布志の全身の古傷が、真っ赤な鮮血の花を咲かせる。元より志布志の身体は、幼い頃から地道に作り上げてきた無数の古傷で覆い尽くされていた。それらの傷が一斉に開いたとなればひとたまりもない。人間に対して無類の強さを誇る志布志飛沫の((過負荷|マイナス))は、他ならぬ彼女自身にとっても効果絶大だった。

 

「『……蛾々丸ちゃんの「((不慮の事故|エンカウンター))」どころか飛沫ちゃんの「((致死武器|スカーデッド))」まで……』『まさかめだかちゃんみたいに見ただけで相手のスキルを十全に使いこなす――なんて無茶苦茶なスキルじゃないよね?』」

 

 崩れ落ちる志布志を見て冷や汗を浮かべた球磨川の質問に、『彼』は煙を吐きだしながら返す。

 

「当然だ。もし仮に、万が一にもそうなのだとしたら、袴がめだかをフラスコ計画に誘う理由も、貴様を((箱庭|ここ))に呼び寄せる必要もないだろう? 私が協力すれば事足りるのだから。私のスキルはめだかの『((完成|ジエンド))』とは比べ物にならないほど矮小で、貴様の『((却本作り|ブックメーカー))』以上にどうしようもない呪いさ。……((こんな風にな|・・・・・・))」

 

 そう言って指差した瞬間、球磨川の握る螺子が腐臭を漂わせながらドロドロに溶けた。

 江迎が呆然と呟く。

 

「私の……『((荒廃する腐花|ラフラフレシア))』……?」

 

「勿論違う。ただ単に『私が指差した』から『螺子が腐敗した』だけのことだ」

 

 誰も『彼』の台詞を理解できない。

 数多の((異常者|アブノーマル))を診察してきた人吉瞳も、『((解析|アナリシス))』の((異常性|アブノーマル))を持つ黒神真黒も、研究者の目と頭脳を持つ名瀬夭歌も。

 

「『私が地面を小突いた』から『めだかが弾き飛ばされた』。『私が地面を踏みしめた』から『めだかが叩きつけられた』。『禊が私の肩を刺した』から『高貴の肩が抉れた』。驚く価値も、悩み考える必要もない。ただそれだけの――起こるべくして起こった一つの事象に過ぎん」

 

 視線を球磨川達から足元の十三組生達に移した『彼』は、短くなった煙草を握り潰し、二本目の煙草に火を着けて嘆息する。

 

「しかし、試験管計画が始まったばかりの当時に比べればそれなりに粒揃いになったとは言え、この程度で使い物にならなくなるとは思いもしなかった。これならば二百年前の実験体達の方がまだ気骨があったな。合戦も戦災も経験していない餓鬼共を憂いたところで仕様がないことだが」

 

「試験管計画? 二百年前? 一体何の話をしているんだ!?」

 

「喚くなよ真黒。どのような場合でも相手を冷静に観察するのが貴様の利点だろう? 私はただ、見聞きし体験した上での見解を嘘偽りなく述べているだけだ。元研究者としての、貴様と夭歌の先達としての、試験管計画初代最高責任者兼統括としての、な」

 

 『彼』の言うことが真実ならば、少なくとも江戸時代から現在まで生き続けていることになる。

 有り得ない。

 常人として、医師として、そう言い返そうとした人吉瞳は、けれど言葉を発することは出来ない。閉口せざるを得ない、有無を言わさぬ気迫を『彼』は纏っていた。

 

「とある人外が持つ『((媚暴録|メモリーダスト))』というスキルがある。対象者に触れることで記憶を消去・封印できるスキルだ。まあ、その程度なら都城王土の((電磁波|アブノーマル))でも可能な芸当だ。このスキルが他の精神干渉系のスキルと一線を画す、人外の異能と呼べる最たる理由は――記憶に合わせて肉体も変化する点にある」

 

 皆が体勢を立て直す中、『彼』は悠長に続ける。

 

「『傷を負った』という記憶を抹消すると、肉体の傷も消え去る。((あいつ|・・・))は精神系――記憶を弄るスキルに分類しているようだが、実際には肉体改造系のスキルに近いように思える」

 

「……それがさっきの話とどう関係してるって言うの?」

 

 そこで『彼』はにやりと笑う。

 心底愉快そうに、煙草を噛み潰して。

 

「((老化も肉体の損傷として扱う|・・・・・・・・・・・・・))。ここまで言えば、結論は容易に導き出せるはずだ」

 

 まさか――と全員が戦慄する。

 辿り着いた答え。

 『年を取った』という記憶を『((媚暴録|メモリーダスト))』で削除すればどうなるか。

 結果は至極単純。

 

 若返るのだ。

 

 『彼』は年を取らないのではない。

 年を取るたびにその記憶を改竄して、老化を『なかったこと』にしているのだ。

 

「付け加えて言うなら、私に施されているのは記憶の削除ではなく封印だ。記憶を消してしまっては役目を果たせないからな」

 

「役目……?」

 

「そう、フラスコ計画における私の役割。それは――『((凡人|ノーマル))』という((記憶|データ))の収集だよ」

 

 フラスコ計画の最終目的。

 努力が実らず、頑張っても報われない、そんな凡人達を天才に変える実験。

 

「概要を聞く度に私は思うのだ。天才というものが説明困難な存在であるように、凡人もまた説明に難い存在であると。一体何を以って凡人と呼び、区別する? 容姿か? 思考か? 主義か? 知識か? 身体能力か? 生まれた環境か? 挙げていけばキリがない」

 

 一人として、同じ人間はいない。

 ならば一括りに凡人と言っても、そこに千人いれば千通りの、一億人いれば一億通りの『平凡さ』が存在することになる。

 

「ネズミにしろ蛙にしろ人間にしろ、実験を行う上で最低でも二種類の((実験体|サンプル))が必要になる。夭歌、研究者であるお前なら分かるな?」

 

「……最も優秀な個体と、最も平均的な個体――だろ? じゃねーと、優秀な個体が平均的な個体に比べてどれだけ異なる結果を出すのか分からねーからな」

 

 その通りだと『彼』は満足げに頷き、

 

「最も平均的な個体。これが意外に集め難い。六十億以上もいる人間の平均などそう簡単に求められるものではないからな。ならばいっそのこと、探すのではなく作ってしまおうと私は考えた。記憶を封印して若返り、様々な環境と立場で、赤子の状態から人生を何度も何度も――((百七十二回|・・・・))ほど繰り返して((記憶|データ))を集めた」

 

 集めた膨大な((記憶|データ))を統合し、分析すれば、完璧ではないが限りなく((平均的|ノーマル))な人間になれるはずだと『彼』は言う。

 

「狂ってるよ、あんた」

 

「その狂人の計画に賛同し、加担したのは貴様だろう、いたみ。私が狂っている? 今更貴様に言われるまでもない。だが私をこうして狂っているのは、他ならぬ人間が原因だ」

 

「……どういう、意味ですか」

 

 掠れた声。

 そちらを見やれば、めだかが善吉とともに、互いに身体を支えあって立ち上がるところだった。

 

「私には、貴方の全てが理解できない。何故フラスコ計画を推し進めようとするのですか? 貴方には不知火理事長のような理念も、都城三年生のような支配願望もないはず。その程度で満足するとは到底思えない。めだかに教えてください。天才を安価に――大量に生み出した果てに、貴女は一体何を得ると言うのですか!?」

 

 その問いに『彼』は言葉ではなく、行動で返した。

 指先に煙草を挟んだ右手を、軽く――まるで羽虫でも退けるような動作で横に振るい。

 それだけで、ただそれだけで、『彼』を起点として暴風が吹き荒れ、風の鉄槌が全員を薙ぎ払った。

 

「私が答えて、それで貴様はどうするつもりだ? 間違っていると頭ごなしに否定するのか? 非人道的だと聖人君子の如く諭すのか? 答える義務も意味も無い。そもそも私にとって重要なのはフラスコ計画の過程であって、計画が成功しようが頓挫しようが、そんな((結果|もの))はどうでもいいのだから」

 

 『彼』はめだか達の前に姿を現した時からずっと同じ場所に立ち続けている。

 その場から、一歩も動いていない。

 一歩も動くことなく、この場を支配していた。

 

「さて、それじゃあ当初の予定通り、貴様達をこの箱庭から叩き出すとしようか」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 理事長室。

 

 不知火袴は二人の人外と応対していた。

 つい先ほどまで『彼』が座っていた場所に、巫女装束に身を包んだ少女が腰掛けている。

 髪は純白。人を食ったような笑み。全身に、特に両腕を拘束する形で巨大な螺子が突き刺さっている彼女こそ――言うまでもなく、((悪平等|ノットイコール))・安心院なじみその人であった。

 彼女の背後には、同じく悪平等の一人である不知火半纏が背を向けて立っている。同じ不知火家の人間として半纏の存在は知っていたが、自分の倍の年月を生きてきたこの人外を、袴は推し量れずにいた。

 

「なかなか派手にやってるようだね。ま、僕からしてみればまだまだ生温いくらいだけど」

 

「ええ。しかし、本当によかったのですか? 黒神さんがいればフラスコ計画はより完璧なものになると思うのですが……」

 

「戦挙戦を通してめだかちゃんのデータは十分にとれたんだろ? だったら彼女がいなくても計画は滞りなく進めることが出来るさ。それに、珍しく『彼』が頭を下げてきたんだ、お願いを聞いてあげないわけにはいかないよ」

 

 『彼』のことを話すときだけ、なじみは薄ら笑いを止めて――姉のような、妹のような、母親のような、娘のような、親愛に満ちた表情を浮かべた。それほどまでに『彼』に特別な感情を抱いているのかと、袴は無粋だと思いつつも勘繰る。三人が一堂に会した場面に袴は立ち会ったことがない。なじみと半纏はつい今しがたまで封印されていて、『彼』はその役割上自分が((悪平等|ノットイコール))であることすら忘れていたのだから、当然と言えば当然だが。

 

「それにしても、『彼』の能力は相変わらず恐ろしいですな。他人の((過負荷|マイナス))を使い、どころか、風や重力まで支配下に置いている。会長戦直後で疲労しているとはいえ、黒神さんと球磨川くんを同時に相手取って傷一つ負わないとは、もはや奇跡を通り越して悪夢としか思えません」

 

「奇跡の具現、生きる災厄、敬称蔑称数知れず。千年ほど一緒に旅をしてきたけれど、僕が知る限り『彼』は一度たりとも人間として扱われたことはなかったよ。『彼』が所有する『((因果凶報|バッドエンドレス))』ほど、人外の異能と呼ぶに相応しいスキルはない」

 

『((因果凶報|バッドエンドレス))』

 

 それが『彼』の身の内に宿る異能の名であった。

 

「他人のスキルを使う? 風や重力を支配下に置く? そんなのは序の口だよ不知火くん。『彼』の周囲じゃ既存の摂理も法則も全く通用しない。あらゆる事象が捻れ、歪み、掻き乱される。因果を捻じ曲げる――それが『彼』の、『((因果凶報|バッドエンドレス))』の本質さ」

 

「因果を捻じ曲げる……ですか?」

 

 いまいち意味が掴めず、反復する袴。

 なじみは徐に立ち上がると、目の前にある湯呑みを思い切り、前置きも微塵の遠慮もなく蹴り飛ばした。湯呑みは老人の目でもギリギリ捉えられる速度で勢いよく飛んで行き――袴は壁にぶつかって砕け散る様を想像したが、予想とは裏腹に、ゴシャリ! と大きな音を立てて砕けたのは壁の方であった。湯呑みにはヒビ一つない。それどころか、壁にめり込み、上下逆になっているにも関わらず、中に入っている茶は一滴も零れていなかった。

 

「因果っていうのは読んで字の如く、森羅万象が発生する『要因』とそこから導き出される『結果』を結びつける繋がりのこと。ものっすごく簡単に言ってしまえば、物事が発生するための過程だね。『湯呑みが逆さまになった』から『入っていたお茶が零れる』という摂理、『壁にぶつかった』から『砕けて壊れる』という法則。今のはそれらの因果を一京分の一スキル『((冷や水で手を焼く|スタートプレイ))』でちょっとばかし混乱させてみせたのさ。だから湯呑みは壁に当たっても壊れず、お茶も零れることはなかった。もっともこのスキルは『((因果凶報|バッドエンドレス))』を参考にして半纏君に作ってもらった模造品。因果を捻じ曲げる『彼』のスキルはこんなもんじゃ済まない。何せ過程そのものを歪めているんだから、当然起こる現象も歪んだものになる」

 

「つまり……『彼』は他人のスキルを使用できるわけでも、風や重力を支配できるわけでもなく……」

 

「その通り。『彼』は((何もしていない|・・・・・・・))。ただ単に、地面を爪先で軽く小突いて、腕を振るっただけ。めだかちゃんが弾き飛ばされたのも阿久根くんの肩が抉れたのも志布志ちゃんの古傷が開いたのも螺子が腐ったのも暴風が吹き荒れたのも、ぜーんぶスキルによって因果を捻じ曲げられたがゆえに偶然発生した――歪んだ((結果|げんじつ))なんだよ」

 

 恐ろしい。

 真実を知った不知火袴は心底そう思う。

 法則に――摂理に従って起こる事象。即ち、運命。それを根元から捻じ曲げ、異なる結果に繋げると言うことは、神あるいは悪魔の所業に他ならない。

 信じられない奇跡、在り得ない悪夢。

 先ほど、自分で口にした言葉が蘇る。

 『彼』の前には、奇跡も悪夢もないのだ。奇跡すらも捻じ曲がり、悪夢すらも歪んでしまう。あるのはただ、狂いに狂った((運命|げんじつ))のみ。

 ちらりとなじみを見やれば、彼女は窓の外に目を向けていて。

 

「ま、どんなに荒唐無稽で支離滅裂なスキルを持っていても、めだかちゃんに勝てるってわけじゃあないんだけどね。それに……」

 

「それに――何です?」

 

「めだかちゃん以上に厄介な女がいるんだよねー」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「……まだ立つってか。諦め悪いねぇお前らも」

 

 黒神めだか。

 人吉善吉。

 名瀬夭歌。

 球磨川禊。

 

 倒れても倒れても立ち上がる((四人|・・))に対し、何本目とも分からない煙草に火を点けながら『彼』は呆れ顔でそう言った。

 口調と性格パターンは『安心院不和』のものに交換している。

 百七十二回繰り返してきた人生の記憶――人格データは『彼』の脳内に全て保存されていて、その気になれば何時でも自由に切り替えることが可能だ。肉体的に、精神的に、徹底的にめだか達を打ちのめすために、『彼』は敢えて『安心院不和』に戻ることを選択したのだった。

 

「お前らはフラスコ計画の実験台として相応しすぎるんだよ。完全無欠の完璧超人に、その隣に居ながら変わることがない((普通|ノーマル))、解析と改造の専門家の兄妹、人類最底辺の負完全。これだけの素材が一か所に集まってるとか、これはもう((実験|バラ))してくださいって言ってるようなもんだぜ? 細胞の一片から脳味噌の中まで余すことなくくまなく全部。だからさぁ、ホルマリン漬けとか標本とかになっちまう前に、大人しくこの学園から出てってくれねぇか?」

 

 『彼』はその場から一歩も動かない。

 何もしなくとも、声を発し、指先一つ振るだけで、『彼』はめだか達を圧倒できる。更に言うなら、能力が適用されるのは『彼』の行動だけではない。めだか達が立ち上がり、『彼』に駆け寄ろうとする行為すらも、因果を捻じ曲げる引き金となるのだ。

 相手が『何か』をするだけで、((現実|すべて))がどうにかなってしまうのだから、わざわざ動く必要などない。

 しかし、そんな理由以外にも、『彼』には動かない――動けない事情があった。

 実はこの『((因果凶報|バッドエンドレス))』、『彼』の意志で発動しているのではない。

 ((自動発動型|フルオート))と言えば聞こえは良いが、時と場所を選ばず、無意識無差別無作為に発動するため『彼』自身にも何時、何処で、何が起きるか推測すら出来ないのだ。

 だからこそ、『彼』は内心焦っていた。

 早く決着をつけなければ、めだかが、善吉が、夭歌が、球磨川が、皆が死んでしまうかもしれない。

 今はまだ、手足の単純骨折程度で済んでいるようだが、このまま((徒|いたずら))に時間が経過すれば『立ち上がった』から『皆の心臓が停止した』なんて結果になりかねない。

 諦める様子など微塵も窺うことが出来ない親友達に、仮面を保つことも忘れて『彼』は((堪|たま))らず声を荒げる。

 

「いい加減にしろ! お前達の身を案じる僕の――私の気持ちが何故分からない!!」

 

「分かっていないのは貴方だ!!」

 

 めだかが声を振り絞り。

 

「自分だけが助けられて、それで私達が喜ぶと思っているのですか!? 私達が犠牲にならないということは、代わりに他の誰かが犠牲になるということ! それは私達の顔見知りかもしれないし、見知らぬ誰かかもしれない! 貴方は私達に、そのような((罪悪感|じゅうじか))を背負って一生を過ごせというのですか!?」

 

 善吉が震える両膝に力を込めて。

 

「俺達だって実験体になんかなりたかねーよ。けど、俺達が逃げた所為で誰かが不幸になるってんなら、逃げずに立ち向かうしかねーだろ!」

 

 くじらが無用の長物となった包帯を脱ぎ捨てて。

 

「元統括として、やりかけの研究を誰かに押し付けるわけにもいかねーし。何より、このまま引き下がったら絶対に後悔する!」

 

 満身創痍であるにもかかわらず、球磨川は平然と立ち上がり。

 

「『それにさ』『僕達は別に知らない誰かのためだけにこうして戦ってるつもりじゃあないんだぜ?』」

 

「……ならば何のために立ち上がる。どうして貴様達は諦めない!?」

 

 そして言うのだ。

 愛する者を、親しき友を、兄のような、弟のような、父親のような――どうしようもなく優しく厳しい『彼』を見据えて。

 

「「「「『((貴方|きみ))を救うため』」」」」

 

 今度こそ、『彼』は押し黙るしかなかった。

 この((人外|わたし))を救う? 今まさに自分達を排除しようとしている者を救うために立ち上がる?

 何だそれは。何なのだそれは。

 

「理解できん! 貴様達にとって『((安心院不和|ぼく))』は何だと言うのだ!? たかだか二、三年にも満たないただの知人の――仮初の人格のために! 騙し、裏切ったこんな人でなしのために! 自分の身を犠牲にする必要など何処にある!!」

 

「……ただの知人なんかじゃない」

 

 こちらに歩み寄るくじらの言葉が、妙に心を蝕んでいく。

 聞くんじゃない、と頭の中で警鐘が鳴る。

 このまま聞き続けたら戻れなくなる。変わらなければならなくなる。前に――進まなければならなくなる。

 

「((垂水百済|あんた))は……ただの知人なんかじゃない」

 

「どうしてその名前を――」

 

 知らないはずだ。忘れてしまったはずだ。六年前に捨てたはずだ。

 不幸を得るために記憶を消すと、六年前にそう言っていた。仮にそれが嘘だったのだとしても、なじみが封印されたときに『垂水百済』という存在の全ても封印されたはずだ。球磨川の『((却本作り|ブックメーカー))』の効力が弱まった影響で記憶が呼び戻された可能性も否めないが、今このとき、こうも都合よく戻るものなのか?

 それこそ、記憶の蓋を強引にこじ開けたりでもしない限り――

 

(まさか……)

 

 と、そこでふと、唐突に閃く。

 

 古傷が開いて脱落した志布志飛沫。

 人吉瞳に応急処置を施され、蝶ヶ崎蛾々丸と江迎怒江に守られている彼女の((過負荷|マイナス))。

 肉体の古傷を――そして、心の傷を開くスキル。

 心の傷――トラウマを蘇らせる。つまり、忘れていた過去の記憶を呼び戻すと言う事。

 

(『((致死武器|スカーデッド))』を利用して、心の傷の洪水から『((垂水百済|ぼく))』に関する記憶を引き揚げたのか!? 下手をすれば精神が壊れかねん荒業だぞ!?)

 

 既に、互いの息遣いが分かる距離までくじらは近づいていて、彼女は右手を大きく振りかぶり。

 

 思い切り『彼』の頬を平手で打った。

 

 パァン! と、いっそ清々しいと言える快音。

 『((因果凶報|デッドエンドレス))』が牙を剥かなかったのは、誰にとっての奇跡なのか。

 皆が見守る中、じんじんと沁みる痛みに呆然とする『彼』を、くじらは優しく――けれども二度と手放すまいと力強く抱きしめる。

 

「『誰かを頼れ、一人で何でもかんでも背負い込むな』。黒神の屋敷で初めて会った時、百済くんはそう言って頭を撫でてくれたよな。その言葉、そっくりそのままお返しするぜ。俺を頼れ、一人で悩まないでくれ。何があっても俺は百済くんの味方だ、絶対に嫌いにならない、絶対に離れない、ずっとずっと信じてる。…………だから、だからお願いだから俺を――私を((不幸|ひとり))にしないで」

 

 それはかつて、電話越しに結んだ小さな誓い。

 ……ああ、もうダメだ。

 思い出してくれたことを、忘れないでいてくれたことを、自分の存在を認めてくれたことを。

 どうしようもなく喜んでいる((垂水百済|じぶん))がいる。

 気が付けば『彼』は――垂水百済は泣き震えるくじらを抱きしめて、彼女の小さな肩に顔を埋めて、静かに涙を流していた。

 この強くて弱い少女が、こんなにも愛おしい。

 

「今まで忘れていて、御免なさい」

 

「……いや……いや!」

 

 謝らなければならないのは――礼を言わなければならないのは自分の方だ。

 

「思い出してくれて、ありがとう」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 千五百年以上前にこの世に生を受けて。

 

 人間として扱われず、神代の化物と畏怖されて。

 

 とある人外と出会い、狂気に満ちた道を共に歩むことを選び。

 

 何度も何度も自分を偽り、有様を騙り、好意を寄せる人間達を欺いて。

 

 けれど決して諦めなかった仲間と、自分を好いてくれている少女の言葉によって。

 

 

 

 彼はようやく――人間になれた。

 

 

 

「おかえりなさい」

 

 

「……ただいま」

説明
第二十六話

遅くなってすみません。
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