海に還る
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「物理的質量は七グラム。内訳は銅が七十二パーセント、亜鉛二十パーセント、ニッケルが

 八パーセント。デザインと材質に変更があったのが今から十二年前のこと」

「あれはデザインって言うの?」

「視覚的な変更ならデザインでいいじゃない。ちなみに、その変更は高額硬貨たる五百円玉

 ゆえに変造事件があったからなんだってね」

「へえ」

 物騒だったんだね、なんて視線を傾けながら、僕は改めて空を見た。暗い。夜の風は頬に

冷たく、仕舞いかけていた真冬の防寒具がもう一度役に立っている。

「他のコインはよく変造されてたりするの?」

「さあ、それはちょっとわからないけど」

 彼女のこの付け焼き刃的知識、僕は結構好きだ。五百円玉には詳しくなるくせに他のコイ

ンには全く詳しくない危うさとか、きっと知識として残るのは変造事件についてだけであろ

うこととか、彼女がこの時のためにいろいろと準備をしているのが感じられてなんだか愛く

るしい。

 そもそも、今回のテーマである「旅費は五百円」はほとんど語感だけで決まったものであ

るため、五百円玉には関連が薄いのだが、五百円と言われて連想するものと言えばワンコイ

ンフードか五百円玉くらいのものなので、つける知識としては間違っていないと思う。そう

いうことにしておこう。きっとそうするべきである。

「崩してきた? 五百円玉二枚」

「抜かりはないよ」

 閑散とした駅の改札前で、僕はコインを振った。蛍光灯の光で大きなコインは何度かきら

めき、やがて僕の手の甲に落ちる。表だ。それを見せると、彼女はしっかりとこっちを見て

にっと笑った。変わらないいつもの笑顔である。

 僕が思うに、結局片道五百円以内で計画を練ったことはあまり重要ではないのだ。いきな

り五百円以内で小旅行をすることになった、という状況が面白いわけで、そこに彼女の思惑

があるかもしれないなどという推論にはあまり意味が無く、そして面白くもない。だから僕

は今まで彼女のアイデアに黙ってついていったし、彼女も努めて面白いことをしようとして

いたのかもしれなかった。

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 今回の目的地は海である。普段海にほとんど関係のない生活をしている僕にとっては、海

岸まで歩いて五分の駅に五百円以内で行けるという事実はなかなか驚異的なことだ。

「海は久しぶりだよね」

「そうだね、シーズンから半年以上経ってるわけだし」

「うん」

 彼女はコートのポケットに手を突っ込み、座席に浅く腰掛けている。今日は制服を着てい

くことに決めていたため、彼女のスカートが心なしかぱりっとして見えた。

「昆布食べる?」

「ありがとう」

 出かけるときは乾燥昆布だとか、決まりごとではないけれど大事にしているものはたくさ

んあって、それは僕らだけのものであり、僕らの仲を表しているものだと思う。凝り固まっ

ていると言ってしまえばそれまでだが、新しいことをしていくには土台はしっかりしていな

いと足元を掬われてしまう。信頼関係とは、そういうところから作っていくべきものではな

いだろうか。

 僕と彼女の間で不変だったものは確かにあった。では僕らの成長とは一体どこにあるのだ

ろうか。彼女はいつでも興味深い存在だったし、僕は彼女と一緒に楽しみ、それを記録して

きた。では僕らはその結果を自分たちに活かすことができていたのか。楽しんでいただけで

はなかったか。正直なところ、よくわからない。

「眠い?」

「いや、来る前に少し寝てきたから大丈夫」

「そっか」

 彼女が眠そうに見えたのは、いつもよりおとなしいせいだろうか。マフラーから覗く顔は

、不安と期待がない交ぜになったような表情に変わっていた。もうすぐ目的の駅である。

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「海だ」

 堤防が見えたあたりから潮の匂いと波の音がわずかにし始め、階段を上るとそれらが一気

に増した。暗くて分かり辛いが、水平線や波打ち際であろう線が見えている。否応無く気分

は高揚するが、もう真夜中と言っていい時間なので叫んだりはしないほうがいいだろう。そ

れでも彼女は、僕の肩に一旦手を置くと波打ち際まで一目散に走っていく。僕も負けじと後

を追うが、足元は砂なので思うように走れなかった。

「来ちゃったね」

「うん」

 波打ち際で立ち止まった彼女の隣。波の音、風の音は聞こえているけれど、それ以外は何

もなくて、とても静かだ。暗闇の海には様々なものを飲み込んでしまいそうな怖さと、そし

て包容力があり、僕は後者をひしと感じた。

 そして彼女が静寂を破る。

「靴脱いで、母なる海と足だけ融合しよう」

「効果は?」

「生命の歴史を吸収して少し大人になる」

 題目はとても意義あることに聞こえるが、結局は折角来たんだから足だけでも浸かってい

こうということである。こういうとき、彼女は結果よりもやること自体に意味があると言い、

結構無理やりに人を引き込んでいく。そもそも僕自身も満更ではないのだ。ただ、未知数で

ある海水の冷たさに腰が引けているだけである。

「ほら、行こう」

 彼女の声と共に海へと歩を進める。水は予想通り刺すように冷たかった。だが、すぐに波

が引くのでそこまで応えることもなかった。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもの

である。今回は冷たさだが。

「なんだか、気持ちいいね」

 彼女は決して冷たくて気持ちいいとやせ我慢をしているのではない。寄せては返す冷たさ

に慣れると、海に勝ったような気分になるからだ。実際僕もそんな気分になったからよくわ

かる。いつの間にか、彼女は腕組みをして、僕は腰に手を当てて仁王立ちしていて、冷たさ

が寒さに変わる直前までそのまま海と向き合っていた。

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「花火やろっか」

 足を拭いて堤防まで上がってくるなり、彼女が言う。

「花火なんてあったの?」

「この時期の海っていえば花火くらいでしょう」

 それはその通りだが、僕としてはこの時期にどこから花火を仕入れたのかを知りたいとこ

ろだ。後で教えてもらおう。

 花火はよくある薄くて大きいあのパッケージである。あれには同じススキが何本も入って

いるので一度にたくさん持って消費してしまいがちだが、一本ずつ大事にしていけば相当な

時間をかけて遊ぶことができるのである。値段も安いし、言うことなしだと評価したい。

「じゃあ、始めるよ」

「うん」

 ろうそくに火をともし、蝋を垂らして地面に固定する。これを火種とするわけである。潮

風ですぐ消えそうになったが、火を維持するのも楽しみの一つだ。あらかじめばらしたスス

キを二本取り、彼女に一本渡す。そしてなんとかろうそくが消える前に火を移す。花火の先

から噴き出した光は、ろうそくで慣れたとはいえ少しまぶしかった。

「きれいだね……」

 どちらともなく自然に感嘆の言葉が出た。ススキの火は、白、緑、赤、青と様々に色を変

えていく。そして、それが消える前に次に火を移す。ろうそくの火はあまりにも頼りなかっ

たので、花火同士で火を繋いでいった。二本持ちして踊ってみたり、色の違う火を混ぜてみ

たり、時々ろうそくにも火をつけてみたりして、花火をゆっくりと消費していった。

 炎に照らされて、夜の空に僕らの顔が浮かぶ。僕らは笑っていたけれど、少しだけ、本当

に少しだけ寂しさの混ざった、そんな笑顔だった。

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 ススキ花火も全て無くなり、残りは線香花火だけになった。去年も彼女と一緒に線香花火

をしたことはあったが、やはりと言うべきか、ここまで寂寥感に襲われることはなかった。

線香花火自体がもの悲しいイメージを持つものだからかもしれないが、終わりを強く意識さ

せられるとどうしても辛い。

「火、つけるよ」

 一本目。幸先良く落とさずにできるといい。しかし、それでもこよっていない部分を持つ

のは何かを試したいからだろうか。

 彼女がライターを持ち、僕のから先に火をつけていく。火薬部分がふわっと燃え上がり、

ゆっくりと丸まって火の玉を作る。しかし突然の風が邪魔をした。

「落ちたよ」

 彼女がふっと笑う。僕もつられて笑った。けれど、すぐに彼女は真剣な眼差しを取り戻す。

「私は、落とさない」

 僕は彼女に見えるように、しっかりうなずく。そして彼女が持つ花火の先端を見つめる。

ライターが近づけられ、火薬に火が移り、炎を上げた。彼女はライターを置き、姿勢を整え

る。

「落とさない」

 うわ言のように、独り言のように、彼女は繰り返した。火の玉が出来上がり、じゅくじゅ

くとうごめく。そして、大きな火花が一つ二つと散って――

「あ……」

 落ちてしまった。彼女はこよりのかなり下のほうを持っていたのに。火の玉が大きすぎた

のかもしれなかった。夜の海はそうやって暗闇を取り戻し、僕らを一人ずつにしてしまう。

とたんに風の音がうるさく聞こえ、耳を塞いでしまいたいのを強くこらえた。

 彼女は今、どんな表情をしているのだろう。

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「ねえ」

 不意に彼女がライターを点けた。辺りはぱっとオレンジ色に照らされる。風にあおられて

火が消えそうになったが、彼女のまるい手がそれを遮った。背筋は丸まり、その火が無くな

れば一緒にいなくなってしまいそうなくらい、僕の目には頼りなく映った。

「楽しかったかな」

 彼女の表情は怯えたようなものに変わっている。

「私、君をずっと振り回してきたけど、その、迷惑とかさ」

 おどおどと、言葉を選ぶように彼女は感情を搾り出した。

「嫌じゃなかった?」

 僕は、小さいがそれでいて確かな怒りを覚える。もしかしたら今回は失敗になるかもしれ

ない、でもこれだけは言っておかないと。そんな覚悟を決めた。

「そんなことない」

 まくし立てる。

「ずっと面白いって信じながらいろいろやってきたじゃないか。君が曲げなかっただろう信

念は本物だよ。それを今更曲げてどうするのさ」

 一呼吸入れて、さらに続ける。語気は荒げない。絶対に。

「僕らのこれまでを楽しくなかったなんて言えるのは、僕らだけだよ。それを君が楽しくな

かったなんて言ったら、他でもない僕らがかわいそうだ」

「僕は楽しかった。これ以上無いくらい」

 強く言い切ると同時に立ち上がった。格好良く見せたいわけじゃないけれど、彼女に正し

く伝えるにはこれが一番いいと思ったのだ。自分のタイミングで振り向くと、彼女はマフラ

ーに顔を埋め、目を閉じていた。

 少しして、不意に彼女が笑う。

「大丈夫?」

 僕が聞くのは彼女が不安そうだからではない。実は僕自身が不安だからなのだ。

 そして、彼女は目を開け、まっすぐ海を見た。

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「やっぱりまず謝らなくちゃね」

 落ち着いた声で、彼女は言う。

「これまで、私があれこれ振り回してきたこと、謝ります。ごめんなさい」

「そんなのいいのに」

「こうしないと、私の気が済まないの。自分勝手でごめんね」

 彼女は立ち上がって少し歩いた。そして振り向いて、僕を見る。

「きっとさ、私たちって、私たち以外が必要なんだよ」

 ゆっくりと喋ってはいるが、もう言いたいことは彼女の中で出来上がっているのだろう。

「私にはもっと知恵が必要だし、君には主体性がもう少し必要だと思うんだ。これまでの私

 たちは、とても面白かったけど、やっぱり私はもっと上を目指したい。これからも私たち

 自身に変化が出続けるから、それも無駄にしたくないしね」

 そこまで言って、彼女はもう一度こっちを向いた。

「私たちは、これから新しい出会いをたくさんしていくわけだけど、もし、それでもお互い

 がいいパートナーだと思えるようなら」

 確認するように、彼女は続けた。

「その時はまた、こうやってコンビ組もう」

 これはきっと、彼女の本心なのだろう。彼女はこれまでの経験から自分の至らない点を感

じ取っていたのだ。彼女はそこを自ら補おうとしている。そして、僕自身の成長も期待され

ているのかもしれなかった。

 僕らは、来る日のために、あえてそれぞれ一人で経験を積む。そして、一周りも二周りも

大きくなってもう一度出会えたらいい。そういうことなのだ。

「ねえ、この雰囲気が壊れないうちに、握手」

 おもむろに右手を差し出す彼女。僕はその手を取って程よく握り返した。彼女の手は暖か

くて、まるで手のひらの間で何かが燃えているかのように感じられた。

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 いつの間にか空は白んでいた。線香花火も最後の一本ずつである。僕らは花火の先端を寄

せ合い、同時に火をつける。

「落ちないといいね」

 まったくその通りだ。海からの風も凪いでいて、今ならできる気がした。

 火の玉が無事に出来上がり、火花が散り始め、僕は少し安心した。しかし気は抜かない。

最後の小さな火花まで、落とさず見るのだ。線香花火というのは、緩やかに終わるのが特徴

の花火だと思う。名残を惜しむには最適だ。

 僕の花火が、先に終わった。彼女のこよりの先はまだ明るい。小さな火が必死にがんばっ

ていて、きれいだった。

「うまくいったね」

 彼女か花火を見たまま言う。至極満足そうな声だった。

「じゃあ、今回はこれでおしまい。湿っぽいのは明日で」

 そういって彼女は立てておいたろうそくを取る。しっかりごみを持ち帰るためにまとめて

いるのも彼女らしいところだ。

 僕はもう一度海を見た。明け方の海は変わらず静まりかえっていたが、しかし夜の海には

無い、去る者を送るようなやさしさがあるように感じた。自然に笑顔になれる。

「また、来るよ」

 誰に言うでもなく呟く。彼女も海を見ていた。きっとまた二人でここに来ることができる

だろう。僕らならきっとできる。

 階段を下り、駅に向かって歩き始める。もう振り返る必要もなかったが、当然ながら振り

返っても堤防しか見えなかった。

 さあ、帰ろう。明日は卒業式だ。

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