仕組まれぬ運命
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トントントントントン………

 ネルフ職員宿舎のある一室、その扉の向こうからかすかに包丁でまな板を叩く音が聞こえてくる。

「よし、後は弱火で煮込むだけ、っと……」

 輪切りにしたにんじんを鍋に入れ、ガスコンロの火を弱めて蓋をする。しばらくすると、蓋の底からグツグツと煮たぎる音が響いてきた。深呼吸をすると、炊飯器から立ちのぼる米が炊ける甘い香りと、鍋から漂う甘茶色の匂いに腹の虫が悲鳴を上げた。

「そういえばこっちに移ってから初めてだな。カレー作ったの」

 濡れ手をエプロンで拭ってから、シンジは部屋にカレーの匂いが染みつかないように、今日の夕飯のために買っておいた置き型の消臭剤の蓋をあけ、換気扇を回した。

 カレーを作らなくなった理由、そんなものは考えなくても分かった。カレーを自分で作ろうとすると、どうしても量を作ってしまう。ミサトのマンションで暮らしていたときは、ミサトとアスカ、そしてペンペンという同居人達に手軽に食べさせるために重宝したが、一人暮らしになるとそうはいかない。三人と一匹で食べていたモノを一人で食べようとするほどシンジはカレーに愛情をもっていないし、食べたくなったら自分で作るよりレトルトや食堂で食べる方が安いし、なにより楽で良い。シンジの料理のレパートリーの中から、カレーが疎遠になってしまうのは無理ないことだろう。

 だが、今日シンジは久しぶりにカレーを作った。テレビの前に置かれた丸卓の上には、二枚の皿とスプーンが用意されている。甘い煙をあげる炊飯器ではいつもの倍、二合の米が炊きあげられていた。

 ピンポーン

 グツグツとカレーが煮える音を聞きながら、シンジがベッドに横になりながら雑誌を読んでいると、何の前触れもなく部屋のインターフォンが鳴った。

 時計を見ると、19時30分。いつもより、三十分遅い。

 来訪者を出迎えるためにシンジが扉を開けると、肩にバッグを提げ、高校の小豆色のジャージに着替えた綾波レイが一人立っていた。走ってきたのか、肩で息をして、白く美しい横顔にうっすらと汗をかいている。

「遅くなってごめんなさい」

「いいよ。さ、入って」

 申し訳なさそうに眉尻を下げるレイに笑ってみせて、シンジはレイを招き入れた。

 レイが丸卓の真っ白なクッション――シンジがレイのために買った――に座ったとき、炊飯器から米が炊きあがったことを報せる汽笛が鳴らされた。

 

 第三新東京市内の某居酒屋。酒の種類が豊富でツマミや料理がうまいと評判になっている。店の中に入ってみると椅子やテーブルが全て木で作られており、端から見ると一見高級店のような雰囲気がある。だが、この店のコンセプトが『気安さ』であることを示すかのように、セカンドインパクト以前の古い歌謡曲が延々と流されて、店内の空気をトロンとまどろませていた。

 そんな居酒屋の敷居ワケされたテーブル席の一つに、一時間前に入店した三人の常連客の姿があった。三人とも女性で、タイプの違う美人でそして、会計を済ませるときネルフの名で領収書を切ることでこの店の店員から知られていた。

「ちょっと先輩、飲み過ぎじゃないですか」

「そう? まだ序の口よこれくらい」

 そう言いながら、リツコは四本目のとっくりを空けた。ぐい飲みに移さずに、冷や酒を一気にあおって全身にアルコールを染みこませていく。彼女が空けたとっくりには全て赤いルージュの跡が残っていた。

「ふぅー……すいませ〜ん、冷やもう一つ。あとアテにモモ、カワ、ズリ」

「先輩〜」

「も〜、さっきから辛気くさいわよマヤちゃーん。バーじゃないんだからバーじゃぁ。居酒屋ってのはね、ガーッと飲んでバーッと食べて胸のつっかえを身体の外に押し出す場所なんだからね、分かってる? ねぇ〜分かってるぅ〜? ほら笑顔笑顔、きゃわいいマヤや〜ん」

「ひ、ひはい! やめへふらはいはふらひはーん(い、痛い! やめてください葛城さーん)……!」 

 なじみの居酒屋で飲み始めてから一時間。乾杯からまったくペースを落とさないリツコを心配するマヤに、すっかりできあがったミサトが絡む。二十代の柔肌を羨むように柔らかいマヤの両頬を両手で掴み、ムニムニとこねくり回す。  

「う〜ん、くやしぃわぁこの肌の張り〜。スキンケア頑張ってもここまではならないのよねぇ〜」

「ああもう、ほらビール注ぎますから」

「むふ〜、マヤちゃん大好きよ〜」

 最初の乾杯に使った大ジョッキに、注文したばかりの瓶ビールの中身をなみなみと注いで渡すと、ミサトはマヤのほっぺからジョッキへと投げ餌を撒かれた雑魚のように殺到してやっと大人しくなった。マヤがミサトを引っぺがしている間にリツコの元に五本目のとっくりと串が届き、開いたジョッキと皿を片付けていく。

「ふぅ〜……」

 さすがに冷や酒も五本目となるとイッキが辛くなったのか、リツコは初めてぐい飲みに日本酒を移し、アテの焼き鳥と共にゆっくりとその辛みを味わい始めた。

「……ねぇマヤ」

「なんです?」

「レイはどうしてオペレーターになったのか知らない?」

「あ、それ私も聞きた〜い。前から気になってたのよね〜」

「え? えっと、それはその……えっとですね」

 目が潤み、頬が赤く染まり始めた先輩からの唐突な質問に、マヤは言葉を詰まらせた。目が天井を泳ぎ、両手の人差し指を胸の前でくっつくてクニクニとうねらせる。その分かりやすい態度に、リツコとマヤの隣に座るミサトの目に胸の奥をまさぐるような妖しい光が宿る。だが、マヤの表情を見ると、言い淀んでいるのは何か悪い企みを隠そうとするためではなく、むしろ他人の秘密を守ろうとする誠実さが見て取れた。

 だが、二十歳そこらの小娘の秘密を前に食い下がるほどこの三十路コンビは善人ではない。問い詰めるような二人の視線に、マヤはとうとう屈服した。

「はぁ……もう、分かりました。その……レイはですね、あの子はシンジ君専属のオペレーターになりたいんだそうです」

「シンジ君の」

「専属オペレーター?」

 マヤの口から出た耳慣れぬ単語にリツコとミサトは顔を見合わせた。

「ええ。二年前、先輩が提出したE2計画が国連に認められて新生ネルフが誕生したとき、レイが私の家に相談に来たんです。シンジ君をサポートする仕事がしたいって」

 焼酎のグラスを回しながら、マヤはゆっくりとレイが自分に弟子入りした日の事を思い出しながら話していく。リツコミサトは、自分のぐい飲みやジョッキから手を離してマヤの話に集中し始めた。マヤの手の中でチリンと鳴る氷だけが、マヤの話に合いの手を入れる。

「E2計画によってシンジ君がまたエヴァに乗らなければならないのに、それをただ見ているだけなんてできない。零号機を失ってパイロットとして彼をサポートできないならせめて、声だけでも彼に届ける事が出来るようになりたい、シンジ君が寂しくないように、彼が頑張ってる姿を誰よりも近くで見て、誉めて、支えられるように、帰りを待っていられるようにって」

 ポツポツと語りながら、マヤはその時のレイの表情を思い出していた。制服のシャツに汗染みを作りながら、シンジのために力になりたいという想いを、声をからしながらうったえる顔は、いつも無表情で、ゲンドウの人形と陰口をたたかれていた時のそれとは比べものにならない。

 あれこそまさに人間の表情、あるいは恋の色と言えた。

「私、レイとは全然接点無かったから初めは戸惑ったんですけど、話を聞いていくうちに段々とその……応援したくなっちゃったんです。だって、誰かのためにあんなに一生懸命な人の姿見たの、初めてでしたから」

 氷が溶けきって、合いの手を入れなくなった焼酎をマヤは一気にあおって流し込んだ。喉を焼く熱は、弟子との思い出を他人に語る事への罰のようだ。そしてそれは、これ以上は何も言わないという無言のアピールでもあった。

「そう……じゃあ、レイにとって私は思い人を拘束する悪人になるわけね」

「な! そ、そんな事ありません! E2計画のおかげで今もネルフが存続できて、私達の生活が保たれているんですよ。それにシンジ君だって納得してエヴァに乗ってくれています。滅多なこと言わないでください」

 らしくないことを言うリツコに、マヤが声を荒げる。だがそれは、リツコの耳には図星をつかれて動揺した声に聞こえた。

「考えすぎですよ先輩。みんな、先輩には感謝してます」

 リツコのとっくりを奪うように掴み、マヤは先輩のぐい飲みに酌をする。

「……そうね。考えすぎてるのね私。考えすぎ……か」 

 マヤの酌を一気にあおって、リツコはふっと熱い息を吐いた。そんな親友の様子を、ミサトはジョッキに口を付けたまま黙って見守っていた。

 

「どう? 肉の代わりに豆を入れてみたんだけど……美味しい?」

「ええ。とても美味しいわ」

 一緒に食事を始めてから三十分。空腹のせいで黙々と食べていたシンジは、食事が始まってから一言も会話していないことに気付いて、気まずさから逃れるようにレイに声をかけた。

「そ、そう。よかった。カレーなんて作るの久しぶりだったから、口に合わなかったらどうしようかと思ったよ」

「碇君の料理は何でも美味しい」

「本当? うれしいな」

 レイが怒っていない事と、彼女のために作ったカレーを誉められてシンジは安堵の息を吐きながら破顔した。その表情に不意を突かれ、レイは手を止めて思わずうつむいた。冷房は効いているはずなのに、頬が熱い。

「ど、どうしたの?」

「……何でもない。舌、噛んだだけ。カレーが熱かったから」

「大丈夫? ゴメン、食べてるときに話しかけたから……」

「ううん違うの。そうじゃないわ」

 嬉しそうな笑顔を崩してシュンと眉尻を下げるシンジに、レイは慌てた。自分の下手なウソが、彼を傷つけたのではないかと思うと、少女の胸の奥が激しく軋んだ。

 再びの沈黙。静まりかえった部屋。重苦しい空気。何か言わなければ、とレイは静かな表情を必死で保ちながら焦り、シンジがまた笑ってくれるような言葉を探す。

「……スパゲッティ」

「……え?」

「先週の金曜日食べた、キノコと水菜のスパゲッティ……ポン酢をかけて食べたやつ。すごく美味しかったまた、食べたいわ」

「え? ええっと……うん、じゃあ来週はまたそれを作って待ってるね」

「うん。ありがとう」

 一瞬、シンジはレイが何を言っているのか分からなかったが、それが彼女からの初めての料理のリクエストだと理解して、照れくさそうに笑った。それを見て、今度はレイが安堵の息を吐いた。

 毎週金曜日の夜。シンジはレイを宿舎に招いて一緒に食事をとるようにしている。レイが高校進学に合わせて、あの古いアパートからネルフの女性宿舎に引っ越した際、シンジがお祝いにと作った引っ越しソバがきっかけだった。慣れない場所での生活に彼女が苦労しないようにと、シンジはレイを積極的に彼の部屋に招き、料理を振る舞った。さすがに毎日というわけにはいかなかったが、次の日が休みになる金曜日は必ず二人で食事が出来た。それがいつしか二人の中で習慣となり、この金曜日の密会が誕生することとなった。

 密会と言ったのは、彼らのこの生活を周囲の大人達が誰も気付いていないからだ。シンジ達が金曜日に食事をするのと同様、大人達は金曜日の夜になると心の垢を落としに居酒屋へ出かけてしまうのが主な原因だったりする。

「ふぅ……ご馳走様でした」

「私も、ご馳走様」

 シンジが2杯目のカレーを食べ終えたのに合わせるように、レイも自分のカレーを食べきった。それを見て、シンジは何も言わずに立ち上がって自分とレイの皿を持って洗い場へ行く。

「あ、手伝う」

「いいよ。お腹いっぱいで苦しいでしょ? テレビでも見てて」

「……うん」

 立ち上がりかけたレイを、シンジは止めた。レイはそれでも、と逡巡したが、結局シンジの言葉にあ舞えることにした。確かに立ち上がるのが億劫に感じるほどいつもより満腹感があり頭がボーッとする。何から何までやってもらって悪いと思いながら、レイはそんな自分の状態を察してくれるシンジの優しさが嬉しかった。

 とはいえ、何もやることがないのは少し寂しい。そんな気分を紛らわせるように、レイはシンジに言われたようにテレビを付けた。

『やぁ、みなさんこんばんわ。司会の清川です。今夜の金曜ロードショーは皆様に日本映画、いや日本映像史に残る偉大な歴史の一ページをご覧いただこうと思います。2017年現在からさかのぼること63年、第二次大戦から9年しか経っていない日本のスクリーンに、彼は突如として現れ日本中のスクリーンに恐怖と驚きを与えました―――』

「なに? 映画やってるの?」

「ええ。古い映画、昔の白黒映画ね」

 洗い物を終えたシンジが、急須と湯飲みを持って戻ってきた。

 液晶テレビの中に映しだされた映画は、どうやら昔の特撮映画のようだ。司会の解説の後、あおりのPVが流れ始めた。

 原水爆実験によって巨大化した怪獣が町を襲い、怒りのままに暴れ回り、口から放射火炎を吐いてビルを溶かし、現在の旧東京が火の海と化していく。

 そしてCMに入り、映画が始まるまで、少しの間が出来た。

「なんか……すごいね」

「ええ。こういうの見るの、初めてかもしれない」

「僕も。怪獣映画なんて、子供の時やってなかったから」

 わずかなPVだったが、テレビの中の映像は16歳になった少年と少女の心をガッチリと掴む事に成功していた。

 それも無理ないことだ。セカンドインパクト以降の映画やドラマは、セカンドインパクトを彷彿とさせる表現を極端に嫌う傾向があった。そのため、ヒューマンドラマやメロドラマのようなモノが多く作られるようになり、爆発物を扱うアクションや特撮は自粛の傾向があった。特にここ最近の特撮作品に対する風当たりは強く、使徒を彷彿とさせるとして、ショップ・ネット販売はもちろん、レンタルショップの棚から撤去されるほどだった。

 つまり、今のシンジ達世代は特撮を見ずに育った世代である。要するに、特撮というものに対する免疫がないのだ。衝撃を受けるのも無理はない。

 シンジ達は知らないが、今回のこの映画も使徒の脅威が去り、世界的な平和訪れた事を感じ取った特撮マニアや関係者が多くの諸機関に掛け合ってやっと放送されることとなったのだ。その映画に、エヴァのパイロットだった二人が衝撃を受けるのはある種、運命的な何かが働いたと言えるだろう。

 すっかりカレーだった口の中を緑茶で洗いながら、シンジは壁に掛けられた時計を見た。20時58分、いつもの金曜日なら、これくらいの時間になると二人でお茶を飲みながら軽い話をして、それからレイを彼女の部屋に送っていく。

 だが、今日のレイは今から始まる映画に興味津々といった感じだ。昔よりも表情が分かりやすくなったとはいえ、シンジがここまでワクワクしているレイを見るのは初めてだった。もし今彼女を送って帰しても、彼女は一人でこの映画を見るだろう。

 その事を思うと、シンジの胸が少し苦しくなった。それを紛らわすようにレイに目をやると、その美しい横顔にハッとする。

 今日だけは、今日くらいはいつもと違っても良いのかも知れない。明日はどうせ休みだから、少しくらいの夜更かしをしても、もう少しくらい、彼女と一緒にいてもいい……はずだ。

「あ、あの……綾波」

「なに?」

「いつもなら、も、もうすぐ帰る時間だよ……ね」

「あ……うん」

 シンジの言葉に、レイは彼女にしては珍しく露骨なまでに残念、という表情を浮かべた。

「あ、ご、ごめん! 違うんだ、帰そうとしてるわけじゃないんだ。ただ、この映画が面白そうだから、今日だけ、今日くらいは……もう少し、ここに居ない? せめて映画が終わるまで……一緒に」

「え……いいの? 迷惑じゃない?」

「迷惑だなんて……その、僕は綾波といて……楽しいから」

「碇君……」

 言った方も言われた方も顔が真っ赤だ。どちらも、何も言えず、どうにも動けずにいた。

「…………!」

「あ、綾波?」

 頬がとろけるような沈黙を、最初に破ったのは女、レイだった。レイはおもむろに立ち上がると、丸卓をヒョイと抱えて、少し前の方にずらす。そして、シンジのベッドを背もたれにするようにクッションを置いてそこに座った。

「いつもの場所じゃ観にくいから……よければ、碇君も」

「え、えっと……うん、それじゃ」

 自分の部屋なのに、シンジはオズオズとレイの隣に自分の青いクッション座布団を置いて隣り合って座る。それだけで、レイの吐息が、体温が感じられてシンジの動悸が一気に加速した。

「CM……長いね」

「え!? あ、うん……そうだね」

 シンジが隣に座っても、レイは彼の方を向かずにテレビに目を釘づけていた。それに、シンジはわずかながらに残念な気持ちになった。だが、彼は自分が隣に座ったときから、彼女の頬を染める朱が一層濃くなったことに気付かなかっただけだ。

「あのね……碇君」

「なに?」

「今日本当は……碇君にお願いがあって来たの」

「お願い?」

 その時、シンジはレイの様子がさっきよりも少し変わっていることに気付いた。なんというか、可愛い。いや、元々非の打ち所の無い美人ではあるのだが、今の綾波は違った。頬を赤く染め、潤んだ瞳を隠すように目を伏せて、わずかに震えている。しっかりと自分を保たねば、思わず抱きしめたくなるような愛らしさだった。

「あ、綾波?」

「明日……明日お休みだから、今日は……今日こそは『良い』と思って」

「何を言って……はっぅ」

 動揺するシンジの手に、レイは自分の手を被せた。そこから伝わる優しく、温かい温もりにシンジは目眩に似た感覚、『このまま倒れ込んでしまいたい』という感覚に思わず流されそうになった。 何とかそれは堪えたが、その時、シンジの目に映ってはならないモノが映ってしまった。

 レイが丸卓に立てかけていたバッグが彼女が卓を動かした時に倒れてその中身をカーペットにこぼしていた。それを見て、いつもなら手ぶらで来るのに今日だけなぜか荷物を持っていた理由が分かった。

 レイのバッグからこぼれたモノ、タオル、旅行用のシャンプーセット、歯ブラシ、そして――純白のブラジャーのヒモ。それが何を意味しているのか分からない程、シンジは子供ではない。

「……碇君、今日泊まっても……良い?」

 彼女にもう少しこの部屋にいるように言ったとき、シンジは自分の事を世界で一番勇敢だと錯覚した。だが、綾波レイがいま口にした勇気はシンジの数段上を行く、覚悟と恐れに満ちていた。

 自分の口から出た言葉に怯えるように身体を震わせる綾波を見て、シンジは思わず口にたまった唾を飲み込んだ。

 それを区切りとしたかのように、テレビの中で怪獣の咆吼が上がり、映画が始まった。

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「ありがとうございました〜! またのお越しを〜」

「ほらリツコ、しっかりしなさいよまったく〜。30女の酔っぱらいなんて最悪よ〜」

「それを……言うならあんたも……でしょ」

 午前0時を周り、店員の挨拶を背に三人の独身女性達は居酒屋を後にした。酩酊具合は、ほろ酔いのマヤ、二日酔い確実のミサト、そして完全ノックアウトのリツコといったところだ。

「先輩、ほらしっかりしてください」

「……うぷ」

 一人で歩けない程酔っぱらったリツコにマヤが肩を貸す。リツコとはネルフに就職して以来の関係だが、ここまで正体不明になった彼女を見たのは初めてで、マヤは内心動揺していた。だがこうなったモノは仕方がない。広い道に出たら、タクシーを拾って帰す以外になさそうだ。

「葛城さんも手伝ってくださいよ〜」

「やーよ。一張羅にゲーッされたくないモノ。マヤちゃんはわっかいんだから、大丈夫大丈夫♪」

「何が大丈夫か分かりませんよ!」

 どうやらミサトもミサトでできあがっているらしい。自分の味方が一人もいないことに盛大にため息を吐きながら、マヤは敬愛する先輩をなるべく揺らさないようにしながら何とか歩かせる。

「あ、タクシー来た。葛城さん、止めて止めて」

「もー仕方ないわねぇ。へいタッキシー!」

 通りかかったタクシーにミサトは親指を立てて停める。明らかに酔っている客に運転手は険しい顔を浮かべているが、これも深夜ドライバーの宿命だとどこか達観して後部座席を空けてくれた。

「ほら先輩! しっかりしてくださいもう!」

「マヤぁ……怒ってるぉ?」

「怒ってませんからほら乗って、家に帰るんですよ!」

「やっぱり怒ってる……マヤ怖いぃ、怖いのやぁ……」

「ちょ、ちょっと先輩!? も、もう……」

 目に涙を浮かべて、マヤに抱きついてぐずつき出したリツコの姿にはもういつもの理知的で近寄りがたい雰囲気など微塵も残っていない。引きはがそうにも引きはがせず、マヤはリツコに抱きつかれたまま後部座席に座った。

「あ〜こりゃ家に帰してもダメね。マヤちゃん、リツコはうちに泊めるわ。よかったらマヤちゃんもどう?」

「え?……でも」

「いいのよ。アイツが帰ってくるの月曜だもん。遠慮すること無いわ」

「じゃ、じゃあお願いします」

「決まりね」

 深夜の第三新東京市を三人を載せたタクシーが駆け抜ける。深夜だけあって、人の姿はほとんどなく、車も走っていない。あっという間に、タクシーはミサトのマンションに到着した。

「ほぅら! たく、もちっとしっかりしなさいよ!」

「……ぷぇ」

「先輩……大丈夫ですか?」

 エレベーターを使って、何とかリツコをミサトの家まで運び込み、そのままミサトの部屋の布団に投げ込んだ。布団に顔から着地したリツコは一瞬ぶるっと身体を震わせたが、やがていつもの彼女からは想像できないほど下品なイビキをかき出した。マヤの心配など、届かないところへ行ってしまったらしい。

「ふぅ〜。とりあえず落ち着いたか」

「ええまぁ……って、葛城さんまた飲むんですか?!」

「え? ええ。二日酔い対策、迎え酒よ迎え酒」

 テーブルに腰掛け、エビスビールの缶を開けるミサトの姿にマヤは呆れを通り越して頼もしさに似た何かを感じてしまった。

「マヤちゃんも飲む?」

「……いいえ。水をもらいます」

 差し出された缶に手の平を見せて、水道水をコップに溜めてミサトの前に座った。一口飲むと、酒が回っているせいかただの水がとても爽やかなモノに感じられた。カルキの匂いもあまり気にならない。

「はぁ〜、やっぱ家で飲むビールが一番だわぁ〜」

「もう、そんなに飲んでばかりだと、加持さんに呆れられますよ」

「むぅ〜、いいのよあんな奴。私の事ほっておいて仕事ばっかり。出張先から電話の一本もないんだから」

 同棲中の恋人の名を聞いた途端、ミサトは子供のように頬を膨らませて唇をとがらせた。

 現在、ミサトのマンションは一年前から彼女と、彼女とヨリを戻すことになったネルフ監察官加持リョウジの二人が暮らしている。シンジがネルフの宿舎で暮らし始めたのは、ミサトと加持がこのマンションで同棲生活を始めたからだった。彼女のペット、温泉ペンギンのペンペンは、エヴァ弐号機と共にユーロに戻った式波・アスカ・ラングレーに付いて行き、初めてのヨーロッパ旅行を満喫している。

「そう言いますけど幸せ、何ですよね」

「……ぷい」

 探るようなマヤの視線から逃げるように、ミサトはプイと顔を背けた。その頬が赤いのはアルコールの性だけではない。

 本人は隠しているつもりらしいが、加持と同棲し始めたミサトは一年前とは明らかに変わっていた。なんというか、服や化粧に一層気を遣うようになり、以前よりも女らしくなった。その証拠に、以前は彼女のズボラの象徴だった汚れっぱなしの台所や寝室が、比較的美しいモノとなっていた。少なくとも、気の置けない顔見知りを呼べるレベル、という意味でだが。

「ん? なにこれ? リツコのかしら?」

 20代の小娘に、恋人との事をからかわれふてくされていたミサトの目に、見慣れないモノが映った。それはクシャクシャに丸められた紙で、リビングのかーっペットの上にぽつんと立ち尽くしている。それを拾って開いてみると、オペラのチケットだった。

「……なるほどね」

 そのチケットの枚数を見て、ミサトは親友のらしくない泥酔の理由を理解した。

「なんですそれ、オペラのチケット……まさか、私達と?」

「違うわよ。きっと……碇司令とリツコ、そしてシンジ君の分ね」

「ああ……それで」

 碇という名を聞いたとき、マヤの表情が一瞬曇った。碇ゲンドウとリツコの関係は前々から知っていたし、自分のうちに秘めた気持ちも、しっかりと整理することが出来ていたが、改めてリツコの気持ちを表す物を見るとやはり胸に痛みが奔る。

「そっか……あいつ、シンジ君を誘おうとして渡せなかったのね。はぁ〜、まったくコレだから当たって砕けろが出来ない奴は」

 そう言いながら、ミサトは寂しそうな微笑みを浮かべた。使徒がいなくなった世界で、新しい人生を歩もうともがく親友を心配しながらも、何も相談してくれなかったことを淋しく感じているようだった。

(それでも、あんたなら大丈夫よリツコ。だって、アンタが心底惚れている男の息子は、あのシンジ君なんだから。大丈夫、彼があんたを導いてくれるわ)

 心の中で呟いて、ミサトは三枚のチケットを同じようにクシャクシャに丸めてから、放り投げられたリツコのカバンにそっと戻した。

「さてと、そろそろシャワーでも…って、マヤちゃん?」

「ゴッゴッゴ………〜〜〜ッ、ぱぁ〜! あ、ビールいただいてます」

 振り返ったミサトの目に飛び込んできたのは、いつの間に冷蔵庫から取り出したのか、ミサトのビールを盛大にあおるマヤの姿だった。それを見て思わず目を白黒させてしまったが、それは一瞬の事で、勝手に家主の酒に手を出した小娘に、不敵な笑顔を見せた。

「私の酒を勝手に飲むなんて、良い度胸じゃないマヤちゃん? さっきいらないって言ったの誰だったかしら?」

「いいんです! 前言撤回です! 今日は朝まで飲みたい気分なんです〜」

 いつもの落ち着いて冷静な顔をどこに投げ捨てたのか、2本目のビールに手を伸ばすマヤの顔は癇癪を起こした子供のそれだ。

「しょーがない、朝まで付き合うか。でも……覚悟しなさいよ」

 

 

 海の底で、怪獣が骨となって消えていく、それを悲痛な面持ちで眺める人間達。そして、映画の幕が下りた。

「映画……面白かったね」

「う、うん」

 確かに素晴らしい映画だった。特撮映画など、過去の産物だと思われているが実際に見てみるとその認識が誤りだったことを思い知らされる。3DCGでは表現できない『実物』という質量が生み出す映像の迫力、何時間もかけて作られた精巧なミニチュアを一瞬で破壊する爽快感と儚さ、そして映像の隅々から伝わってくる制作者達の熱意と愛情。それは幼い子供だけでなく、大人でさえも魅了する『何か』を持っていた。

 だが、シンジは今それどころではなかった。映画を見ていたはずなのにその内容が全然思い出せない。楽しかった、という事実はあるのだがそれは感覚だけで理解していて、頭の中ではずっと別の事を考えていた。

 シンジは、レイの願いを聞き届け、彼女の宿泊にYESと答えた。

「碇君?」

「はっ!? え、な、なに?」

「その……お風呂、どっちが先に入る?」

「え?! えっと、えっと…それは」

 隣に座り手を握り合って映画を見ていたのだ。シンジを見つめるレイの顔がよく見える。その表情は、不安と恐怖、そして隠しきれない期待に溢れていた。

「え、えっと……その、ぼ、僕が先に入るよ。綾波が使う前に色々片付ける物あるから!」

「うん……待ってる」

 キュッとレイは重ねるシンジの手を握る。その甘い感触から逃れるようにシンジは勢いよく立ち上がって風呂場に向かった。あのまま握り続けられていたら、本当に一線を越えてしまう気がして、服を脱ぎながらシンジは震えた。

 シンジだって男である。しかも、そういったことを一番意識する思春期まっただなかだ。正直に言って、興味がないというと嘘になるし、ありすぎると言えば本当になる。

 だが、それがいけないことだという意識が、まだシンジの中に残っていた。それは青臭い理性と呼ぶべきものだが、まだ子供の分際でそういった行為をしてはいけない、早まってはいけないという自戒にも似た、理性の心がシンジの中で、彼の本能と戦っている。シンジとしては、どうにかしてその理性が勝ち続けてくれることを祈るばかりだ。

「だけど……このまま、何もしないのはダメ、じゃないかな?」

 風呂桶に飛び込んでも昂ぶる気持ちは収まらず、すぐにものぼせそうだ。だが、シンジはゆだる頭をフル回転させて複雑な感情、理性、本能でがんじがらめになった胸中を身を浸すお湯の中で少しずつ溶かしていくように整理していく。そして、自分の気持ちを知るための一つの質問を導き出し、自問自答した。

 曰く、綾波レイをどう思っているのか?

「嫌いじゃない……むしろ、いいや……好きだ」

 そう、真っ白になった自分の心に、綾波レイの事を訊ねてみると、温かい感情が胸の中に拡がっていく。彼女の声を聞くだけで側にいるだけで喜んでいる自分、彼女に触れるだけで見つめ合うだけで昂ぶる自分に気付く。もし、このまま彼女と一つになれたらどんなに幸せだろう? 彼女と共に未来を築くことができたらどんなに幸福だろう。正直な自分の気持ちなんて本当は最初から気付いていた。彼女に触れたい、指だけでなく、その腕に、その脚に、その胸に、その頬に、そしてその唇に触れ、自分だけの物にしたい。彼女を独占したい。自分の一生をかけて、彼女を護りたいと思っている。それが、碇シンジのまごう事なき本音だった。

 

だが、それでも……

 

「……私、はしたない事をしている」

 シンジの体温がかすかに残る浴室で身体を洗いながら、レイは今日の自分の行動がいかに異常で、破壊的な事かを再認識していた。

 今日本当はいつもの様に食事をして、帰るつもりだった。あの宿泊道具は、『いつか』使うために用意していた物で今日持ってくるつもりは全くなかった。だが、その『いつか』はいつ来るのか? そういうものは大抵、待っているだけではやってこない。その事に気付いたとき、レイはその肩に宿泊道具をかけていた。

 だがそれでも、持っていくだけで使うつもりは全くなかった。だがあの時、シンジが映画を見ようと誘ってくれたとき、レイの胸の中でたまらない何かが弾けた。シンジが、いつもより自分と一緒にいたいと言ってくれた。あの時のシンジのはにかんだ笑顔を見た時、レイは今日がその『いつか』だと理解した。

 浴室を出て、濡れた身体を拭く。そのとき、鏡に映る自分の真っ白な身体が目に入った。その時、二年前初めて彼があのボロアパートに訪れた事を想いだした。勝手に入ってきて大切な物に触れたサードチルドレン。そういえば、あの時彼が躓いて自分を押し倒した。

「……あの時より、大きくなっている?」

 胸の双丘にそっと触れながら、レイは懐かしがるような微笑みを浮かべた。あのとき、ただの無礼な人、でしかなかった少年が、いまではなによりも大きく、大切な存在になっている。その事を、幸福だと感じている自分に、レイは喜びを感じた。

 白いパンティとブラを身につけて、濡れた髪をタオルで拭いていく。この髪を拭き終わったとき、この下着はシンジの手でこの身体から剥がされるのだろうか? そう考えると、全身を貫くような羞恥心が走る。と同時に、静かに興奮していることが分かった。 綾波レイの全身全霊が、碇シンジという少年を求めている。もう後戻りは出来ない。

 ジャージを着るべきか? 迷ったが、レイは下着のまま風呂場を出た。すでに明かりが落ちていて、物音一つしない。だが、レイにはすでにベッドで横になっている少年の姿が見えていた。

 

(来た……・!)

 風呂場の戸が開く音がした後、優しい足音がシンジが横になるベッドに向かって真っ直ぐ迫って来る。その一歩一歩が近づいてくる事にシンジの心臓の位置がドンドンと耳の側まで上がってくる。やかましい鼓動に、鼓膜が破けそうだ。

 足音はベッドの側まで近づくとその場で止まった。ベッドに入るか迷っているようだ。その間に耐えきれず、シンジは思わずその足音の主に背を向けるような形に寝相をうった。それを見て、足音の主が微かに震えたのが空気の振動で分かる。ズシリと重い罪悪感が、シンジの胸にのし掛かった。

 だがそれでも、レイは迷わなかった。シンジの隣に空いたスペースに細い身体を滑り込ませ、ベッドに潜り込んだ。

 そして、その身をゆだねるように、シンジのシャツを両手で握りしめた。

(!!!!!ッッッ!)

 その瞬間、シンジは思わず悲鳴をあげかけた。だが、両手で口を塞いでなんとかそれを押しとどめる。だが、レイは止まらないシンジの身体の震えを感じると、今度はその背中にそっと頬を寄せ、身体をすり寄せる。その感触に、シンジはスクーターでの高校の行き帰りを思い出した。

 だが、背中に伝わるレイの吐息は二人乗りしているときに感じるそれとは比較にならないほど熱い。吐息だけでなく、シャツを握りしめる指先が、薄い布越しに触れる身体の全てがとろけるように柔らかく、そしてやさしい温もりに満ちていた。

 シンジもレイも心臓が口から飛び出しそうなほど、高鳴っていた。互いの鼓動の音が耳を澄ませずとも聞こえてくる。レイが自分を待っている。その現実に、シンジはこれ以上背を向けることは出来ないと感じた。これ以上背を向け続けると、これから先レイと背中越しでしかふれあえない気がした。

 満を持して、シンジはレイと顔を合わせるように寝返りを打った。

「……綾波」

「碇君……」

 振り返り、目に映るレイの姿をシンジは美しいと感じた。ミルクのように白い肌が、湯上がりの熱気と気の昂ぶりでうっすら桃色に染まり、青い髪は水を吸ってしっとりとして、赤い瞳が期待と不安で潤んでいる。

「碇君その……今日はありがとう」

「え、えっと……何が?」

 互いの呼気が顔にかかるほど密着しながら、二人は見つめ合う。まるで瞳が磁石にでもなったかのように、目をそらすことが出来ない。

「カレーと……泊めてくれて」

「え、あ、うん。僕も、その……綾波とこうしていられてすごく、嬉しいよ」

「本当?」

「うん」 

 シンジの返事を聞いて、レイは彼にしか見せた事が無い心からの笑顔を浮かべた。そして、シンジの言葉に最後の決心を決めて、少年の身体に腕を絡ませて、思い切り抱きついた。

「あ、綾波?!」

「ごめんなさい。だけど……こうしていたいの。ずっと、ずっと前からこうしていたかったから」

「で、でもその……ぼ、僕でいいの?」

「碇君だから…ううん、碇君がいいの。だから……」

 そういうと、レイはシンジの胸から顔を上げてそっと瞳を閉じた。それが何を意味するのか、考えるまでもない。シンジは思わず、レイの肩を掴んだ。両の手の平から彼女の熱と鼓動が伝わって、彼女が自分と同じように興奮していることを再認識させる。

 シンジは、少しずつ、レイを自分の方に引き寄せた。そのたびにシーツが乱れ、布団がはだけていくが気にしない。そしてついに二人の唇までの距離が10センチを切った。レイが、息を止める。

 だが、シンジの唇は10センチを切った地点から、電源が切れたかのように動かなくなった。

「………クッ」

「? 碇君?」

 苦渋の表情を浮かべながら、シンジはレイを引きはがした。

「……ゴメン、綾波。僕はその…まだ」

「私じゃ……嫌?」

「ち、違う! 嫌なんかじゃない。むしろ、その……僕も、綾波が……綾波がいい。綾波と…したい」

「じゃあ…どうして?」 

「……分からない。うまく、口に出来ないんだ。だけど、このままその……君と一緒になったら、全部、いまの僕が関係する全てが変わってしまう気がして、それが……たまらなく恐ろしくて。僕にはまだ、『それでも』の覚悟ができてない……」

 ここで一線を越えたら、レイとの関係はより深くそして強いものになるだろう。だがそのとき、それ以外のものを置き去りにしてしまうような気がした。ミサト、加持、マヤ、リツコ、ユーロに戻ったアスカ、ペンペン、そして…ゲンドウとの関係。レイを抱いてしまうとそれら全てとの関係を捨てて彼女に埋もれてしまいそうな感触をシンジは自分の心から感じ取った。それでもなお、という覚悟が出来るほど彼はまだ大人ではなかった。

「……そう」

「ゴメン……綾波にここまでさせておいて。情けないって思うよ」

「ううん。そんな風に思わないわ」

「え?」

 頭を下げるシンジに、レイはまた笑顔を見せた。それは、シンジとの関係を先に進められなかった事を残念に思う色が秘められた笑顔だったが、シンジのプライドを気遣う、母性さえ感じさせる微笑みだった。

「だって……今日初めて碇君の口から私を欲しいって言葉を聞いたんだもの。確かに、今日は私が待っていた『いつか』ではなかったけど、その『いつか』が必ず訪れるって分かっただけでも、私は嬉しい。だけど……」

 レイは肩を掴むシンジの腕をそっとどかすと、再び思い人の胸の中に飛び込む。そして、今度は逃がさないように、シンジの細い首に両手を回した。

「ちゃんと分からせて欲しい。碇君が『いつか』私の全てを受け入れてくれる日が来るのを、言葉じゃなく、身体で私に刻み込んで欲しい」

「綾波……わっ!」

 そう言うと、レイはシンジの右目の下あたりに軽く口づけを落とす。完全な不意打ちに、シンジは慌てたがレイはシンジに絡めた腕をはずそうとはしない。それにレイの真意を察して、シンジはやっと、期待の眼差しを向ける少女の瞳を見つめ帰す『程度』の覚悟を決めた。

「綾波……レイさん」

「はい」

「僕が、君を受け入れる覚悟がしっかりと出来たとき、今度は……僕が君の部屋に行く。君の部屋で、僕は君を抱く。それまで、待っててくれる?」   

「!……うん。待ってる」

 それから先の言葉は二人には無用だった。シンジはレイの頭をかき抱いて引き寄せ、その唇を奪った。シンジにとっては二度目の、レイにとっては初めてとなる口づけを深く交わす。そして、二人は抱き合って眠った。

 もう二人の運命を仕組む者達はいない。シンジとレイは、今日初めて自分の意志で新たな運命をこじ開け、二人で歩んでいく未来への第一歩を踏む事となった。

説明
 少し遅くなりました。量が多いですが、楽しんでってください。
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