竜たちの夢9
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 春はどんな季節だ?―――そう聞かれた時、十中八九の者は命が生まれる季節だ、と言うだろう。

 

 しかし、甘寧興覇が考える春はそれとはまるで異なる。

彼女にとっての春は終点であり、竜が天に帰ってしまう別れの時だ。

竜は秋に天から降り立ち、春に天に帰る……だから、春は別れの季節なのだ。

竜と別れたくないならば、その逆鱗となって共に天に昇るしか手は無い。

 

 竜は漢王朝の象徴となっているが、これには理由がある。

漢王朝を建てた高祖たる劉邦を最後まで支えてくれた者こそが竜だったのだ。

甘家に残された記録には、竜の存在もその特性も何もかもが記してあった。

甘家はかつて竜と交流を持った人間の子孫であり、それ故に竜が何かを知りえた。

 

 十年前、その甘家に北郷一刀がやって来たのは、まさに行幸であったと言える。

何も知らない竜がこの世界で迷わぬように甘家は十二分な教育を施し、その逆鱗に甘寧を据えることに成功した。

思春という名は春を思う者を表し、竜と出会った時彼女がその逆鱗となることは定まっていたのだ。

 

 

「……卑怯だったな、私達は」

 

 甘寧―――思春は思う。

十歳の時既に北郷一刀に依存し、その逆鱗となるように自分を印象付けた己は、まさしく卑怯であった、と。

あまりにも美しく、強く、優しい彼に愛されたくて、彼女は必死だったのだ。

だから、十歳になった時教えられる竜の特徴を十二分に利用し、彼に己を逆鱗とさせた。

 

 思秋も思伴もそれを怒りはせず、寧ろ勧めてくれた。

漢王朝を生み出した影の英雄たる竜が再び現れた意味を二人は理解していたのだ。

彼らに与えられた時間はたったの二ヶ月余りだったが、それだけの時間で十二分に竜は成長した。

そんな彼をあの日失ってしまったのは、酷く辛かった。

 

 甘寧達は竜のことを多く知り、一刀もまた竜であることを知りながらも、それを教えなかった。

彼の為でもあったが、やはり三人が何も言わなかった一番の理由は、甘寧―――思春の為だった。

彼女の思いを成就させたいと思ったからこそ、思伴と思秋は黙っていたのだ。

それを知られてしまったら、軽蔑されるだろう。

 

 

「……嫌だ。嫌われるのは……嫌だ」

 

 一刀は優しいが、それでも限度というものがある。

思春達がしたことは、彼のその後を大きく変えてしまう程のことだったことは間違いない。

彼がもしも今竜であることに苦しんでいるのならば、その原因を作ったのは彼女達に違いないのだ。

最初に彼が竜であることを教えなかったことは、余計な混乱を与えてしまったかもしれない。

 

 もしも、彼女達以外に竜を良く知る者が居て、その者が彼を導いてくれているならば良いが、その可能性は非常に低い。

先ず竜のことを良く知る者が殆ど居ない上に、知っている者が一刀を導いてくれる保証は何処にも無いのだ。

 

 そもそも思春はその可能性はあまり好ましく思っていない。

彼女以外に竜を良く知る者が居るならば、彼女と同じように彼を求めることは必至だろう。

竜を良く知る者は竜に惹かれ、そのまま逆鱗となることを望むものだ。

思春がそうだったように、彼女達は竜に己を印象付け、その心の奥深くに忍び込もうとする。

 

 彼女は、一刀が彼女以外の誰かにそのようなことをされるのが我慢ならなかった。

 

 

「……いかんな。戦前にこのように心を乱しては」

 

 思春が現在属する孫呉はこれから黄巾党の本隊を叩きに行く。

袁術によって戦力を分断されてはいたが、それを集結させる許しを得たのだ。

黄巾党の本隊を叩かせるのだから当たり前の対応であろう。

袁術達が相手にするのは高々数千の分隊なのだから、これくらいの餞別はあって然るべきだ。

 

 袁術から黄巾党本隊を叩くように言われた直後に、曹操から伝令が来たのは行幸であった。

そうでなければ、あまりにもいい加減な袁術に怒った孫策は彼女達を殺していたかもしれない。

孫呉は一応袁術の客将扱いだが、実質的な戦力は孫呉の方が数段上である。

 

 これは、一度はもう駄目かと思われた孫堅文台の復帰が大きく関係している。

黄祖討伐の際に伏兵に矢を射られたのが重体となった原因だが、どうにか致命傷は避けたそうだ。

孫堅はかつて、堅の名を持つ者は黄祖に気をつけよ、と忠告されたことがあるらしく、それが彼女を助けたと言っていた。

 

 

「……今は、何と呼べば良いのだろうか?」

 

 何を隠そう、孫堅にそう忠告したのは北郷一刀だと知った時、思春は大層驚いたものだ。

実に十年近く前に彼はその忠告を、思春が渓流で涼んでいたあの日にしていたのだ。

竜は多くを知り、多くを齎す―――その言葉通り、彼は孫堅の死を予知し、彼女に命を齎した。

彼の忠告があっても重体に陥ったのだ……その忠告がなければ、彼女は死んでいただろう。

 

 孫堅が北郷一刀を十二分に気に入っていることは間違いない。

元々その頭の回転の良さに注目して軍師として迎え入れたいと思っていたそうなのだから、実に慧眼である。

孫呉では隠しているものの、思春もまた頭の回転は速く、既にある程度の未来予測はしている。

そんな彼女ですら彼の前では凡人であると言わざるを得ない。

 

 一刀はまず考え方が違う。この世界の既存の枠組みを完全に無視して、いくらでも良いものを生み出す。

彼はまさしく砂のように全てを吸収し、それを余すことなく生かすだろう。

北郷一刀は間違いなく天才だ。特に人材の利用に関しては、他の追随を許さない。

人心掌握に関しては、彼に双肩する者は居ないと見て良い。

 

 

「甘寧様、行軍の準備が整いました!」

 

「!……分かった。下がって良いぞ」

 

「はっ!」

 

 どうやらあまり一刀に思いを馳せている時間は無いようだ。

もう少しで思春達は黄巾党の本隊に辿り着く……十五万を超える戦力を一万程度で相手にしなければならないのだ。

曹操が同時に攻撃を開始する旨の伝令を寄越さなければ、かなり難しい状況だっただろう。

実際、周瑜達もこの状況を上手く打破するには他の軍を利用するしか策が無い状況だったのだ。

 

 曹操軍の精鋭五千余りに、袁紹の三万の軍勢を足せば、合計戦力は四万を超える。

これだけあれば、兵力差は四倍で収まり、練度を考慮すれば実質二倍の差と考えて良い。

孫呉には孫堅を除けば圧倒的な武を持つ武将は居ないものの、兵の練度に関しては大陸でも有数のものだ。

孫呉の兵ならば、一人で三人の黄巾党を殺すだろう。

 

 孫呉には一騎当千と呼べる程の武将は孫堅しか居ない。

しかし、その代わり孫呉には高い練度の兵達が居る。それのみが、孫呉の強みなのだ。

軍師は周瑜と陸遜が居る為、やはり孫呉に最も欠けているのは将だと言えるだろう。

北郷一刀がここに加われば、その穴すらも埋まるが……思春はそうさせるつもりはない。

 

 

「蓮華様。行軍の準備が整いました」

 

「分かったわ。それじゃあ、行きましょうか」

 

「孫策様達と共に行動しなくて良いのですか?」

 

「……あの二人と居たら、比べてしまいそうだから」

 

「御意。それでは今まで通り後ろの隊を率いる場所に居ましょう」

 

 蓮華は孫堅と孫策が王として立派であるだけに、その二人と未熟な自分を比べてしまう。

それは、あまりにも愚かなことであると思春は思う。

彼女の目指すべき王は慈しむ王であって、鼓舞する王ではないことに早く気付いて欲しいものだ。

彼女が参考にすべきなのは孫堅でも孫策でも無いのだ。

 

 思春が蓮華の立場であったならば、迷わず一刀を参考にしただろう。

彼のように冷静で、しかしその奥に優しさを隠した王を蓮華は目指すべきである。

孫堅文台が健在である今、孫呉は蓮華無しでも大丈夫だろう。

場合によっては、思春は蓮華も伴って一刀の下に向かうつもりだ。

 

 孫権仲謀は北郷一刀から多くを学べるに違いない。

孫堅、孫策、孫権の中で最も王としての器が大きいのは彼女なのだ。

ただ、今は閉鎖的な環境に居るが為に少々排他的なだけで、蓮華の方が二人よりも王に相応しい。

そのことに気付いていない孫呉は、少々蓮華をおざなりにし過ぎた。

 

 このままでは、凝り固まったままで新しいものを何一つ受け入れることのできない暗君が誕生するだけである。

 

 

「ごめんなさいね……私の我儘に付き合わせてしまって」

 

「良いのです。蓮華様は私の同志ですから」

 

「ふふ……ありがとう」

 

 思春と孫権は志を同じくする同志である。

王は自分でなくとも、それに相応しい者であるならばそれで良い……そう思える王佐の才の持ち主である。

思春が蓮華に真名を預けたのは、同志であるからだ。

 

孫堅文台の存在が孫権仲謀の孫呉での必要性を希薄にさせているのは分かり切ったことである。

思春は既に周瑜達が蓮華に多くを望まなくなっていることを知っている。

あまりにも強い孫堅文台の存在が、彼女達を過度に安心させてしまっているのだ。

孫堅文台は孫策よりも勇敢で、孫権よりも公平である……故に、現在既に王となっている孫策は必要であっても、そうでない孫権は必要ない。

 

 命の恩人である北郷一刀に拘る孫堅文台ではあるが、その娘への執着心は薄い。

言うなれば、蓮華は現在の孫呉にとっては居ても居なくても良い存在なのだ。

それがどれ程大きな間違いであるかに気付けない周瑜達を嘲笑いながらも、思春は少しずつ歩みを進めている。

既に蓮華は思春が話す一刀に大きな興味を持ち始めている……後は実際に会えば、引き込むのは難しいことではない。

 

 

「ああ、そうだ。いつも思春が話している北郷殿……だったかしら?」

 

「はい。異国の者であるが故、姓を北郷、名を一刀と言い、字も真名を持ちません」

 

「そう、その北郷殿なんだけど……私も一度会ってみたいわね」

 

「きっと会えます。あのひとはそう遠くない未来に、我々の前に現れる筈です」

 

「そうかしら?……いえ、思春がそう言うのならば、きっとそうなのでしょうね」

 

 思春と蓮華は同志であり、現在の孫呉には真の意味では必要無い存在だ。

今後の孫呉にとってはその限りではないことに気付かない者が多いのは、実に笑える。

周瑜公瑾も陸遜伯言も確かに素晴らしい軍師であり、その能力は本物だ。

しかし、思春のようにこの国の未来を十二分に予測することはできていない。

 

 せめて、もう一人孫呉に彼女達並みの軍師が居て、その者がここに居たならばまだ結果は違っただろう。

孫堅や孫策の扱いは程々にして、蓮華の成長を何よりも優先すれば孫呉は間違いなく一気に栄えただろう。

 

だが、そうはならなかった。

思春の予想通り、孫堅が健在な今……即ち余裕がある今の内に孫権をしっかりと育て上げなかったのは完全に判断ミスだ。

思春もまた蓮華を育てようとはせず、ただ現実のみを見せ続け、しかし北郷一刀という希望を教えた。

 

 

「それでは、行きましょう」

 

「ええ……苦しむ民の為に、この乱を鎮めなければ」

 

 孫権仲謀は北郷一刀が生み出した被害者である。

彼の忠告によって孫堅文台が生き残ってしまったことで、孫呉にとって彼女の存在は有象無象に近いものとなってしまった。

王としても将としても未熟な今の彼女にある利用価値は婚姻――即ちより強い力への生贄だけだ。

 

 思春はその行先を北郷一刀に固定してやるだけで良かった。

ゆっくりと時間をかけ、この数年で彼女の芯まで北郷一刀の心地良さを、その果実の甘さを教え続けた。

このままでは何処にも行けない蓮華は、近い内に彼の下へと向かうことになる。

完全に先を見越しての、思春の策である。

 

 この黄巾党の乱で静かに台頭する北郷一刀に、いずれ孫呉は繋がりを求め、それに蓮華がなる。

そして、それによって孫呉は安泰……という幻想を得るが、その実真の意味での未来の王を失った孫呉は―――崩れていく。

孫策達には無く、蓮華にはあるものが、今後必要になるのだ。

 

 

「これより行軍を開始する! 前の隊に後れを取るな!!」

 

「「「「「「「「「「応!!!」」」」」」」」」

 

 孫権仲謀は孫家の中で最も誰かを強く疑うことができ、信じることができる。

疑うべき時と信じるべき時を本能で感じ取り、その通りに行動することが彼女にはできるのだ。

それは、孫呉をより強大にしていくには必要不可欠な要素だ。

 

しかし、その力は孫呉で揮われることは無いだろう。

思春の予想通り、蓮華は北郷一刀への供物として捧げられた時、漸くその力を揮えるようになる。

今はまだその力を孫堅達に気付かせてはいけない……気付かれてしまえば、彼女達が孫呉から離れることは難しくなってしまう。

 

 思春は一刀の下に向かう為に邪魔なものは、何だって排除するつもりだ。

唯一、彼女を邪魔しないことを約束してくれた蓮華は例外だが、それ以外の者はいかに孫策、孫堅であろうとも関係ない。

彼女は確かめなければならない……北郷一刀がまだ彼女を必要としてくれているのかどうかを。

このまま、彼に会わずに生き続けることなど、彼女にはできなかった。

 

 

 もしも彼女が不必要ならば―――もはや生きている意味など無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「蓮華が?」

 

「はい。このまま後方の隊を指揮すると仰っていました」

 

「そう……分かったわ。下がって良いわよ、」

 

「はい」

 

 孫策伯符は妹である蓮華が前方の自分達と合流せずに、後方の隊に残った報告を周泰から聞き、その表情を曇らせた。

彼女の妹である蓮華――孫権仲謀は大きな可能性を秘めている。

しかし、今の孫呉には孫策伯符と孫堅文台が居る。

そんな孫呉にとって、まだ将としても王としても未熟な蓮華はあまり重要な存在ではない。

 

 言ってしまえば、現在の孫権仲謀の利用価値は、婚姻と言う名の生贄くらいしかないのだ。

孫策と、その母である孫堅が孫呉の力を高めることばかりに夢中になって、彼女を放置してしまったのは大きな打撃だ。

そのことに、孫策も孫堅もまだ気付いてはいない。

 

 

「離れ離れになっている間に何かあったのかしら?」

 

「大方雪蓮と文台様を己と比べてしまう為だろう。蓮華様は真面目過ぎるからな」

 

「冥琳……真面目過ぎるという言葉、そのままそっくり貴方にもあげるわ」

 

「何処かの誰かが突っ走ってばかりなものでな……」

 

「だ、誰のことかしら?」

 

 的確に蓮華の生真面目さ故の行動だと答えをくれた親友、周瑜公瑾の辛口に目を逸らしながらも、孫策は納得した。

蓮華は生真面目な性格であり、王としての責務を重く見過ぎる傾向がある。

そんな彼女が王として突然求められなくなってしまえば、ああなってしまっても仕方ないだろう。

 

 孫堅文台と孫策伯符だけで孫呉には十分過ぎる。

孫権仲謀はただ孫呉の血を残す為だけにあれば良い……それが今現在の認識だ。

孫策伯符が倒れても、まだ孫堅文台は健在であり、寧ろ重体になる前よりも強くなっている。

孫堅が倒れても、孫策は十分にその後継としての力を示しつつある。

 

この二人を両方共失いでもしない限りは孫権には出番など微塵も無いのだ。

そんな彼女に残された道は、孫呉の血を残す為に嫁ぐことであり、それ以外の道など無い。

この考えが間違っていることに気付いているのが思春だけなのは、実に皮肉なことである。

しかし、事実家族である孫策も孫堅も、軍師である周瑜も陸遜も、その考えには至らなかった。

 

 

「どう考えても貴方のことでしょう、孫策殿」

 

「子義ェ……」

 

「子義の言う通りだ」

 

「うう……二対一か」

 

 客将である太史慈子義の言葉によって誤魔化すことすら許されなくなった孫策はがっくりと肩を落とした。

生真面目な二人に挟まれてしまっては、誤魔化すことなど許されないようだ。

政務は基本的にあまり楽しくないので、彼女としては絶対に彼女の署名が必要なもの以外は他の者にやってもらいたい処である。

 

 それに、政務を放り出しているのは、ただ政務が嫌だからではない。

孫呉の者達は皆真面目過ぎる……少しは息抜きを与えてやらなければ、張り詰めた糸は簡単に切れてしまうものだ。

言葉で言っても無駄だと分かっている孫策は、それを行動で示しているに過ぎない。

 

 

「雪蓮、貴方もこの二人の前では形無しね」

 

「お母様……見ていないで助けてよ〜」

 

「私も昔は政務を放置して祭と飲んだこともあるし……助けにはなれないわね」

 

「文台様はまだその程度を弁えておられたではありませんか。雪蓮は結構な頻度ですから……祭殿も、相変わらずですし」

 

 江東の虎こと孫堅文台からも援護は無く、孫策は馬の上で頭を抱えた。

確かに彼女の母である孫堅は、彼女と違って決まった時しか政務を放置しないが、結局同じ穴のムジナである。

親友の扱いの違いに少し涙が出そうになったのは彼女だけの秘密だ。

 

 

「……呉の将はもう少し、政務をしっかりとなさった方が良いですよ」

 

「子義、お前のその言葉がどんなに有難いか……お前が客将のままなのが実に惜しいよ。本当に、頭が痛い」

 

「周瑜殿……私はお力になれませんが、どうかお体にお気を付けください。頭痛の種はすぐ傍ですが」

 

「〜♪」

 

「「こっちを見ろ」」

 

 周瑜を気遣う太史慈であったが、彼女は飽く迄北郷一刀の配下であり、彼女達の仲間ではない。

それこそ、北郷一刀が死にでもしない限りは、孫呉に加わるつもりは少しも無いのである。

まだ正式に受け入れて貰った訳ではないが、彼女は一度心に決めた主を変えるつもりは毛頭無い。

 

 口笛を吹きながら目を逸らす孫策は確かに魅力的な王であろう。

しかし、北郷一刀は十年前の時点でこの段階は過ぎ去っていた……今の彼は、それこそ太史慈の想像も及ばない大器となっているに違いない。

太史慈が仕えるのは国でも理想でもなく、王であり、最も相応しい王は北郷一刀なのだ。

 

 

「堅殿、曹の旗が数理先に上がっているのを確認してきましたぞ」

 

「お疲れ様、祭。それで、他の旗はあった?」

 

「後は、袁紹のものと思われる袁の旗だけですな」

 

「他の諸侯はまだ地方の黄巾党を警戒して来ない、か……そもそも曹操も私達にしか伝令は送っていないでしょうし」

 

「そうでしょうね。十五万を相手に怯まない者などそう居ません。これが後数ヶ月遅ければ、二十万に膨れ上がっていた可能性もありますし」

 

 偵察に言っていた黄蓋の報告に、孫堅は予想通りになってしまったことを確信した。

周瑜の言う通り、今叩かなければいずれここ冀州に集う黄巾党の本隊はその数を二十万にまで膨れ上がらせるだろう。

そうなってしまっては、いかに他の諸侯も来ても、そこまで変わらない。

 

 戦力差が同じ二倍であったとしても、千対二千と一万対二万では大きく異なるように、五万の違いは大きい。

今現在孫堅、曹操、袁紹の合計戦力は四万五千程であり、十五万を相手にするならば速攻で頭を潰しに行くしかない。

 

 他の諸侯も合わせて、せめて七万程度まであればほぼ確実に殲滅することもできたが、現実はそうではなかった。

四万五千でどうにかするしかない……十万までは削れるだろうが、残りの五万を倒す余力などその時残っては居ないだろう。

やはり、頭を早期に潰すしかあるまい。

 

 

「冥琳、何か策はあるかしら?」

 

「火計である程度燃やし尽くしてからの突撃、という策は如何ですか?」

 

「風向きなどが合えば、悪くないわね。雪蓮、貴方はどう思う?」

 

「私は冥琳の意見に賛成。先に火計で相手を弱気にさせれば、こちらの被害も少なくて済むし」

 

「では、火計で相手をある程度混乱させてからにしましょう……と言っても、既に準備はできているのでしょう?」

 

 孫堅の確認の言葉に、周瑜はニヤリと笑うと静かに頷いた。

周瑜は呉を代表する頭脳であり、この程度の展開を読めない筈も無い。

数は確かに力になるが、同時に一人一人が余計な安心を抱いてしまう欠点もある。

そこに火矢で持って恐怖を植え付ければ、容易にそれは集団に伝染し、瞬く間に崩壊していくだろう。

 

 十五万を相手に全てを恐慌状態にするのは難しいが、その一部……数万程度ならば不可能ではない。

数十、数百の火矢からそれは始まり、数千の混乱を生み出す筈だ。

その数千が慌てふためき、勝手に混乱を伝染させてくれる。

 

 後は、その脆くなった部分を突破して頭を叩きに行くだけである。

三つの軍が別々の場所から攻撃を仕掛けるのだから、成功する確率は格段に上がっている。

十五万も三方向に注意すれば五万ずつに分かれてしまう。

伏兵による横からの襲撃から戦を開始すれば、簡単に崩せるだろう。

 

 

「さて、後一つだけ問題があるんだけど……雪蓮、分かるかしら?」

 

「三つの内のどの軍が最初に攻撃を仕掛けるか、でしょう?」

 

「正解よ。冥琳はどこが仕掛けることになると思う?」

 

「袁紹でしょうね。少なくとも、我々は御免です」

 

 黄巾党十五万はもう逃げ場が無く、まさしく張り詰めた弦に等しい状態だ。

そこに最初に攻撃を加えた軍が集中的に狙われるのは目に見えている。

曹操は絶対に最初に仕掛けはしないだろう……高が五千でそんなことをするのは愚か者のすることだ。

 

 となれば、やはりそれを行うのは袁紹しか有り得ない。

三万の兵を持ち、孫堅、曹操よりも多少は自信がある筈の彼女は、全く動かない二人に痺れを切らして勝手に動いてくれるだろう。

練度の伴わない袁紹の兵達には気の毒だが、ここで囮になってもらう。

狙うは頭のみだ。

 

 もはや烏合の衆と成り果てた黄巾党は頭さえ潰せば、そこで終わりを告げる。

黄巾党を率いる将はその全てが既に討ち取られており、もはやここに居るであろう張角達を除けば誰一人としてこの烏合の衆の支えは居ない。

黄巾党はここで終わる……既に天は黄色に染まることを認めないと告げたのだ。

天命を知る、黄巾党最後の戦いである。

 

 

「もうすぐ夜になる……兵達の体力を考えても、このままぶつかって良さそうね」

 

「そうね……ぶつかるのは今夜でしょう。雪蓮、上手くやりなさいよ。今の私は飽く迄一介の将だから」

 

「分かっているわ、お母様。冥琳、すぐに火矢を使えるようにしておいて」

 

「分かった」

 

 今夜、黄巾党は滅びるだろう。

この冀州に集結した本隊が、それを象徴してくれる……既に理想を失った彼らからその頭すら奪い取る。

散々奪い、殺し、蹂躙してきたのだ……当然の報いであると言えるだろう。

 

 どんなに立派な理想も、手段を正当化する理由にはならない。

ただの賊でしかない黄巾の者達を未だに黄巾党と呼ぶのは、まさしく皮肉であろう。

力のある者達が生き残る時代であることはあちらも承知しているだろう。

力はより大きい力に支配されるか滅ぼされるしかない……だから、今日黄巾党は滅びるのだ。

 

 どこにも行けなかった、哀れな者達は今日ここでその居場所すらも失う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今まで曹と袁の旗だけであった戦場に、新たに孫の旗が加わったのを確認すると、曹操は笑みを浮かべた。

これで戦力は十分に揃った……兵力差はざっと三倍超だが、練度などを考慮すれば十分勝てる戦と言える。

何も殲滅する必要は無く、ただ頭を取れさえすればこの戦は勝利だ。

 

 

「春蘭、秋蘭……準備は良いかしら?」

 

「はい。真桜、沙和、凪の準備も整っています」

 

「いつでも出られます、華琳様!」

 

「そう……麗羽が仕掛け次第、こちらも仕掛けるわよ」

 

「「御意」」

 

 今回の戦の先頭は麗羽――袁紹に任せれば良い。

勝手に突っ込んで勝手に被害を増やしてくれている内に、頭を潰させて貰うだけだ。

正確には、張三姉妹を確保し、その人心掌握能力を利用させて貰うつもりだが、張角達の名は捨てさせればよい。

 

 真名のみを残し、姓も名も捨てたならば、確かに張三姉妹は死んだことになる。

後は適当にそこらの死体から首を取って、それが張角達であると言えば、本人達の人相を知らない者達には文句は言えないのだ。

この戦において、曹操は一躍その名を上げることになるだろう。

 

 その上、この圧倒的な人心掌握が可能な三姉妹も手中に収めることができれば、もう名も実も揃ったも同然だ。

超三姉妹を利用して青洲に居る三十万以上の黄巾党も従えることが可能になる。

今はまだそれだけの器を用意できていないが、しっかりと下地を整えた後は青洲も飲み込んでしまえるのだ。

 

 

「桂花、策は予定通り麗羽と孫堅が仕掛けた後、こちらも攻める、で良いわね?」

 

「はい。孫呉は火計で以て混乱を齎す筈です。先に進んで混乱に巻き込まれるよりも、混乱した所を後から突破する方が容易いものです」

 

「流石ね、桂花。後で褒美をあげるわ」

 

「華琳様……ありがとうございます」

 

 とろんとした目で一礼する桂花――荀ケ文若に笑いかけながら、曹操は彼女の姪――荀攸公達のことを思いだす。

会ったのは一度だけだが、あの時既に荀攸は頭角を現し始めていた。

つい先日誘いを断られた際に、既に心に決めた主が居るという報告を受け取ったが、北郷一刀という名には少しも聞き覚えが無い。

 

 荀攸の眼が節穴だったのか、それともこの時代に表立って行動しない慎重な者なのかは分からない。

しかし、辛口な荀ケが自分と同等だと認める程の荀攸が人間を見誤ることは無い筈だ。

だとすれば、北郷一刀という存在は曹操以上の王の器の持ち主だということになる。

 

 荀攸は、曹操孟徳では北郷一刀には絶対に勝てない、と使者に言ったそうだが……それが本当ならば、どの程度の実力なのか是非とも一度見てみたいものだ。

本当にその通りならば、彼女は孫堅や袁紹以外にも注意すべき相手が居たことに気付かなかったことになる。

 

 

「決戦は今夜になるわ……皆、気を引き締めなさい!」

 

「「「応!」」」

 

 この戦が終われば、黄巾の乱は終わりを告げる。

北郷一刀という人間がどのような者なのかは知らないが、この最後の戦場にすらも姿を現さないようならば、その器は高が知れている。

民達が苦しんでいる時に立ち上がれない者は、王にはなれない。

 

 しかし、もしも既に立ち上がっていて、この戦場に現れるならば――曹操はその姿を見極めようと思う。

誰よりも王に相応しいと自負している彼女よりも王に相応しいと荀攸が評した者ならば、是非ともこの目で拝みたい。

 

 欲しくなるのか、もしくは排除したくなるかはまだ分からない。

だが、人材というものを誰よりも大切にしていると自負している曹操にとって、あの荀攸がそこまで高く評価した人間は実に興味深い。

一度どれ程のものなのかを見極めたいという思いが彼女にはあった。

 

 

「さて……貴方はこの戦いに現れるのかしら?――北郷一刀」

 

 

 まだ見ぬ者のことを思いながら、曹操はその口元を歪ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹、袁、孫の三つの旗が集うのを遠目に見ながら、北郷一刀は蜃気楼の背を撫でた。

もうすぐ闇が訪れる……既に逢魔が時になり、誰が誰なのかを判別することは難しくなっている。

今夜の戦闘で、黄巾党は滅ぶ。

今日この場所で張角達は死に、黄巾の乱は終わりを迎えるのだ。

 

 

「関羽、張飛、準備は良いか?」

 

「はい。いつでも出られます」

 

「鈴々も大丈夫なのだ!」

 

「北郷さん……本当にあそこに突撃なさるんですか?」

 

 一刀は、不安そうに訪ねてくる孔明に思わず苦笑した。

彼女が心配しているのは飽く迄劉備率いる義勇軍の敗退であり、彼の安否ではない。

それが却って心地良い……孔明は彼が居なくなった後も十二分に劉備達の為に働いてくれるだろう。

軍師は非情であらねばならない……それをこの娘はしっかりと体現している。

 

 この一週間程度で幽州の黄巾党残党などを相手に孔明と士元にはある程度の経験を与えておいた。

双方共能力は一刀の予想通り非常に高く、自信さえつけばすぐに実戦で使える程だ。

その二人ならば良く分かるだろう……十五万を相手に一人で勝てる筈が無いことは。

 

 しかし、一刀は一人ではない……独りではあっても一人ではないのだ。

彼は竜であり、竜にとって人間十万余りなど恐れる必要は無い。

そもそも五胡百万超を相手取ろうと考えたこともある彼にとって十万など小さな数だ。

その気になれば、あそこに群がっている十五万を一人残らず屠ることすらできる。

 

 

「ああ、俺が囮になる。その間に別方向から関羽達は張角達を討ちに行く」

 

「あまりにも無謀です。そのような策を認められ筈がありません!」

 

「良いか、孔明。いかなる策も、圧倒的な暴力の前では無力だ」

 

「分かっています! だから私はこうして止めて――」

 

「だから、見ていろ。圧倒的な暴力がいかに策を破壊するのかを」

 

 義勇軍の中で北郷一刀の強さを理解しているのは愛紗ただ独りである。

その愛紗は今回もまた劉備の護衛として後方に残る為、完全に別行動となる。

劉備には既に今回彼女が負うべき痛みも、得るべきものも教えてある。

もう一度確認の為に言っておくが、彼女には必要ないものだろう。

 

 蜃気楼はすぐに一刀の願いを聞き届け、彼を劉備の前まで運ぶ。

浅葱色の眼が、彼の真紅の眼を寂しげに見遣るのが実に心苦しいが、彼は今回でいかに自分がこの義勇軍に有用なのかを見せつけておかねばならない。

圧倒的な力が策を完全に破壊する様を孔明と士元に教えておかねばならない。

 

 

「劉備……分かっているな?」

 

「はい。私は――あの黄巾党の終わりを見届けます」

 

「それで良い。愛紗、頼んだぞ」

 

「お任せください」

 

 劉備が今回知るべき痛みは理想を失った者達の末路だ。

劉備が理想を失ってしまえば、それについてきていた者達は今の黄巾党のような状態になってしまう。

いかに彼女の理想が危ういものを秘めているかを、また一つ教える。

 

 しかし、一刀は痛みだけを教えはしない。

この戦に勝つことで民達は喜び、黄巾党という恐怖から救われるのだ。

孫堅、曹操、袁紹、劉備……この四人の率いる総勢四万超の者達が勝利を叫ぶその様を彼女には見届けて貰う。

そして、その熱を感じて貰うのだ。

 

 確かに彼女の理想は危ういものを秘めている。

しかし、それが達成された時、皆がいかに喜ぶのかをここで彼女は知ることになる。

彼女の理想が大成した時、その喜びは脅威を排除した際の喜びの何倍にもなる筈だ。

この戦場で体験する最後の熱気の何倍もの熱気が、彼女の理想によって齎されるのだ。

その喜びを知れば、彼女は更に強くなる。

 

 

「程遠志」

 

「ここに」

 

「もしも鈴の隠密と出会った時は、戦わずに俺の名を出すように。恐らくそれで生き残れる筈だ」

 

「御意。戦闘は控えるように皆の者に言っておきます」

 

「頼んだぞ」

 

 この戦に孫呉は現在の戦力をほぼ全て投入していると聞く。

そこに思春が居る可能性は高く、程遠志達では相手にもならないことは分かり切っている。

もしも、この戦場に彼女が居るならば、この機会に接触をして彼をまだ必要としているかどうかを確認しておきたい。

一刀は必要とされていないならば、彼女の為にも逆鱗は劉備に変えてしまうつもりだ。

 

 一刀は二度目の死を迎えたあの日、思春との約束を破ってしまった。

彼女とずっと一緒に居ると約束した筈なのに、彼女の傍を離れてしまったのだ。

それに関しては仕方ない部分もあった……しかし、その後愛紗に救われた時、彼は二度目の裏切りをしてしまった。

 

 一刀は思春が迷った時は探すと約束したのだ。

それを、彼女が死んでいるかもしれないからという理由で、探しに行かなかった。

あの時、彼の心はあまりにも不安定で、彼女を探しに行ける程の強さは無かったのだ。

この二度の裏切りを彼女が許してくれるかは分からないし、彼は己を許すつもりはない。

 

 

「心得ました……場合によっては引き合わせますが?」

 

「ああ、できればそれが良い。ただし、無理そうならばすぐに退け」

 

「はい。それでは、行ってきます」

 

「ああ」

 

 場合によっては彼の名に逆上した思春が程遠志達を殺す可能性もあるが、そこまで憎まれているのならば彼は思春を諦める。

愛紗の進言通り、劉備を逆鱗として彼は完全な竜になるだけであり、嫌がる思春を巻き込むつもりはない。

彼女が彼を殺すことを望んでいるのならば、殺されても構わない。

 

 それ程に、一刀は思春との約束を守れなかったことを悔いていた。

彼があまりにも弱かったが故に招いた結果は、彼が自分自身で受け止めるしかない。

思春は彼を強いと言ってくれたが、あの頃の彼は少しも強くなかった。

ただただ、思春が死んだかどうかを確認するのが怖かったから逃げたのだ。

 

 だから、一刀は思春が彼を受け入れてくれるならば……彼をまだ必要としてくれているならば、誰よりも優先して彼女を守るつもりだ。

彼女が彼によって歪められたならば、彼はその責任を最後までとる。

仮にそれによって劉備達の下を離れることになっても、彼は思春の為にそうするだろう。

 

 

「さて……そろそろ時間だ」

 

「行ってらっしゃい、一刀さん」

 

「すぐに済ませてきますが故、無理をなさらないでください」

 

「お兄ちゃん、行ってらっしゃい!なのだ!!」

 

「ああ――行ってくる」

 

 一刀は、見送ってくれる皆に軽く片手を上げると、静かに蜃気楼に加速を促した。

それに絶大な加速で以て蜃気楼は応え、一刀を風に乗せていく。

孫堅、曹操、袁紹からは完全に死角となっていた義勇軍の野営地から、彼は黄巾党へと蜃気楼を走らせる。

黄昏から闇夜へと時間が移っていく刹那、彼と蜃気楼はその圧倒的な存在感を示し始める。

 

 

 

 

 太陽が完全に地平線の向こうに消えた時、蜃気楼は闇を走る業火となった。

あまりにも幻想的で、まるで地獄からの使者のようなその姿は、見る者全てを恐怖させる。

そんな蜃気楼の背中に乗る一刀は、蜃気楼とは一転、全身を真っ白な鎧で包んでいる。

彼の姿は蜃気楼も相まって、まさしく異界の者だ。

 

 

「ん?……あれは、何かしら?」

 

「どうしました、文台さ――あれはなんだ?」

 

「炎?……でも、動いてるわよね、あれ?」

 

 

 孫呉の百年の安泰を求める者達が、

 

 

「あれは……何なの?」

 

「火計?……いや、たった一頭でそれはあり得ない筈」

 

「なんだ、この感じは?……ゾクゾクする」

 

「あれはまさか……氣?」

 

 

 この大陸の百年の安寧を求める者達が、

 

 

「一刀さん……絶対に無事でいて」

 

「劉備様、ご安心を。一刀様は負けません」

 

「司馬懿さん……どうしてそんなに落ち着いていられるの?」

 

「だって――あの方は竜ですから」

 

 

 この大陸からできるだけ多くの悲しみを無くそうとする者達が、

 

 

 

「―――混沌の始まりだ」

 

 

 その両手から放たれた氣弾によって黄巾党達が蹂躙されていくのを目撃した。

 

 

 

 

 威力を少しも加減しなかったその氣弾は射線上に居た黄巾党全員を完全に消し飛ばし、数千の壁を一気に貫いていく。

その氣弾が生み出した血の雨が黄巾党に降り注ぎ、彼らに一気に恐怖を植え付ける。

一瞬で、しかもたった一撃で、一人が数千人をまさしく“この世から消す”という異常な光景が現実だと彼らが受け入れるまで、暫しの時間を要した。

 

 その間に一刀は蜃気楼から降り立ち、交差した両手に氣刃を形成する。

既に彼の命令で後方に走り始めた蜃気楼を余所に、彼はその氣刃を一里の長さに展開していく。

そして、そのまま―――少しの躊躇も無く水平に振りぬいた。

 

 その軌道上に居た黄巾党達は、そのまま三枚おろしになっていく。

その様は実にグロテスクで、心の弱い者は確実に心を病んでしまう程のものだ。

まだ皆遠目に見ているだけだから良いが、これを目の前で見れば一生記憶から拭えなくなってしまうのは間違いない。

 

 

「あ……あ……うわああああああ!?」

 

「化け物だああああああ!!!」

 

「逃げろ!! 逃げるんだ!!」

 

 

 漸く自分達の前に現れた者が化け物であったことを理解した黄巾党は、一気にその場から逃げ始めた。

まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図がここに完成したのである。

跡形も無く消し飛んだ者に、三枚に卸された者まで居る始末なのだ……もはや軍としての形を成すことなどできない。

 

 

「関羽殿、張飛殿、出番ですよ」

 

「――!! 敵はもはや軍としての形を成していない!! このまま、あの空白を突っ切って張角達の首を取るぞ!!」

 

「うにゃ!! 突撃!! 突撃!!なのだ!!」

 

「「「「「「応!!」」」」」」

 

 

 たった二回の一刀の攻撃で、実に十五万の内二万近くが消えた。

その光景に唖然とする曹操、孫堅、劉備達であったが、愛紗の言葉で正気を取り戻した関羽と張飛はすぐさま義勇軍を率いて進軍を開始した。

あまりにも悲惨な光景に吐いて進軍できない者も居たが、仕方がない。

それ程までに、北郷一刀が残した爪痕は残酷なものだったのだ。

 

 関羽達の行動に慌てて曹操や孫堅、袁紹は進軍を開始するが、それは余りにも遅過ぎた。

既に一刀の傍にまで来ている関羽達は間違いなくこのまま一番乗りを果たす。

彼を恐れた黄巾党達は曹操や孫堅達の方へと逃げ始めてしまい、思い通りに進めないのだ。

 

 この角度も一刀は計算しつくしていた。

彼が三軍とは正反対の位置に義勇軍を陣取らせたのはこの為であり、同時に関羽達を試す為でもある。

彼を恐れて予定通り他の角度から侵入しようとすれば、二人は一刀が満足する将にはなれない。

しかし、実際は彼が生み出した空白を進んでいる……まさに彼が望んだ最善の判断だ。

 

 

「北郷殿――後はお任せください」

 

「後は鈴々達に任せるのだ!!」

 

「!?……ああ、任せた」

 

 まさか声をかけられるとは、増してや微笑みを向けられるとは思わなかった一刀は、思わず涙が出そうになった。

関羽と張飛は彼を確かに恐れているかもしれないが、同時に信頼もしてくれているのだ。

たった数週間しか共に過ごしていない彼を、だ。

 

 一刀程彼女達は賢くは無いし、彼程その眼で多くを知ることはできない。

しかし、彼女達は多くを語る彼の眼をしっかりと見続けてくれた。そこから多くを学んでくれた。

彼が決してただ殺戮を巻き散らかす存在ではないことも、この殺戮に何も感じていない訳ではないことも、分かってくれたのだ。

 

 一刀はそのことが無性に嬉しく、ただその真紅の瞳で彼女達に信頼を示した。

そんな彼を見た彼女達は静かに頷きながら、その速度を上げて進んでいく。

たった数週間で彼女達がここまで成長したことに驚きと感謝を覚えながらも、一刀は一旦退くことにした。

 

 

「……後で礼を言わなければいけないな」

 

 関羽達が一刀を信頼できたのは、この彼の誠実さ故である。

彼はいつも彼女達の良き導き手であり、関羽と張飛の教育を愛紗と共に行い、劉備の教育もまた行っていた。

劉備は仕事や勉学の合間に彼が関羽達を訓練しているのを見て、関羽達はその逆であった。

 

彼女達が、いかに一刀が誠実であり、優しい者なのかをこの数週間で十二分に理解できるだけの下地は既にあったのだ。

真名を受け取らないことは実に印象が悪いし、その逆もまた然りだ。

だからこそ彼は常に誠実であろうとしたし、今もそうしている。

 

 そんな一刀の行動が関羽達に彼を信頼させたのだ。

彼はいつだって彼女達を気遣い、その傷を癒し、その歪みを指摘してくれる。

そんな彼が邪悪である筈が無いことを、彼女達は理解してくれていた。

この殺戮を行った彼を見てしまっても、それを疑わないでいてくれた。

 

 それが、一刀にはとても有難かった。

 

 

「化け物だって―――誰かの為に在れるんだ」

 

 何度も何度も心の中で繰り返し自分に言い聞かせてきた言葉をはっきりと口で告げると、彼は微笑んだ。

ただ、誰かの為に在りたかった。自分がこの世界に必要無い存在ではないと証明したかった。

そんな、昔に置いてきてしまった願いは確かに叶い始めている。

確かにここは彼にとっての居場所になりつつある。

 

 だから、彼は気付けなかったのかもしれない。

この殺戮を行った彼を見て、心を躍らせた者の存在にも、彼を見つけたことそのものを喜んだ者が居たことにも。

彼の鳴らす鈴の音と同じ音色が、劉備達の居る場所に鳴り響いていることにも。

 

 静かに彼の帰りを待つ鈴の片割れが既にそこに居ることにも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれは……いったい何だったのかしら?」

 

「それは私達を完全に出し抜いてくれた義勇軍に聞くべきでしょう」

 

「違いないわね。曹孟徳……貴方はあれをどう思う?」

 

「実に恐ろしい光景だったわ、孫文台」

 

 

 黄巾党の本隊を鎮圧して数刻後、その処理を粗方終えた曹操と孫堅は同じ天幕で今回の戦について語り合っていた。

あまりにも呆気なく終わってしまった戦いに拗ねてしまった袁紹は既に帰ってしまった為、ここには居ない。

 

 今回の戦は、結局義勇軍に属する関羽雲長と名乗る人物が張角達を討ち取ったことで終わりを告げた。

あまりにも無名な人物に頭を奪われてしまったことは孫堅や曹操にはショックなことである。

彼女達をあそこまで見事に出し抜いて一気に黄巾党を無力化した手際の良さはもはや人間業ではない。

 

 中でも、最初に十秒程度で二万近くを屠った謎の人物は格別だ。

結局名乗りの一つ上げずに義勇軍の本陣に戻ってしまった為、誰かは分からなかったのが実に惜しまれる。

孫堅はあの光景を見て思わず絶頂しそうになったし、曹操は心底あの暴力を欲しいと思った。

 

 

「あれは、まさしく化け物の仕業ね。涼州で黄巾党三万を単騎で全滅させた呂奉先と同じ領域だと思うわ」

 

「私も同意見よ。まさか、あの呂布と同等の存在が居るとは思いもしなかったわ」

 

「人中の呂布、馬中の赤兎馬、ね。こちらのあれは何と呼ぶのが良いと思う?」

 

「そうね……鈴の何とやら、で良いんじゃないの?」

 

 二つ名などに興味は無い曹操は、戦場に鳴り響いた鈴の音を思い出してそう名付けた。

あの音色は中々に良い物を使っている証拠だが、しかし聞き覚えが無い。

彼女があそこまで不思議な音を聞いて忘れる筈が無いので、恐らくは南方のものだろう。

曹操はそう判断すると、あの音色を聞いたことがあるか孫堅に聞こうとして、その驚いたような表情に眉を顰めた。

 

 

「鈴の……まさか、ね」

 

「何? 心当たりでもあるの?」

 

「ただ、私の部下でそういう呼び名のが一人居るだけよ」

 

「ああ、被っていたのね……分かったわ」

 

 孫堅が引っかかったのは、鈴の甘寧と呼ばれる甘寧の身に着けている鈴の音だ。

確か、彼女の持っている鈴の音と先程の戦いで鳴り響いていた鈴の音は同じ筈だ。

あまり良く聞こえなかったが、あの静寂を切り裂いた音なので、中々印象的だった。

その鈴の音と甘寧の持つ鈴の音が同じだった……この事実が齎す結果は、孫堅文台を混乱させる。

 

 彼女の予想が正しければ、あの殺戮を行った人物こそが、彼女が求めていた男であるということになる。

十年前に死んだと思われていたあの優しそうな男があれを行ったなど、彼女には考えられなかった。

しかし、事実ならば是非とも引き込みたいのが本音である。

 

 あの圧倒的な暴力を見た時、孫堅は全身に電気が走るようなショックを受けた。

彼女はあの光景に昂ぶってしまっていたのだ。

だからこそ、それを齎す程に彼が育ったならば、何としても引き込みたかった。

その為に甘寧を娘である蓮華の下につけたのだから、ここで逃がすつもりは彼女にはない。

 

 

「さて、そろそろ義勇軍の長が挨拶に来る頃かしら?」

 

「そうでしょうね。伝令の報告ではもうすぐ来る筈なのだけど……ほら、来たわ」

 

「失礼します」

 

 孫堅と曹操……本来ならば同じ場所に居る筈の無い二人がこうしてここに居るのは義勇軍の長に挨拶をさせる為だ。

あそこまで手際の良い進軍と後退を行った義勇軍は、いったい何処の誰が纏めているのかが気になったからである。

二人の予想はあの殺戮を行った者が長である、というものだ。

 

 しかし、そんな彼女達の予想に反して天幕の中に入ってきたのは女性一人だけであった。

筋肉の付き方などを見る限り、どう見ても武人としては半人前だ。

この女性があの殺戮を行えるとは、孫堅と曹操には到底思えなかった。

浅葱色の瞳も、緋色の髪も、あまりにも最前線を単騎で突っ切った者に似つかわしくない。

 

 だとすれば、あの殺戮を行った者はこの女性の部下ということになるが……それはあまいにもナンセンスだ。

確かに二人が相対している女性もまた、彼女達と同じ王の器の持ち主だろうが、あれを扱える程の器には見えない。

二人ですらも扱えるかどうかは定かではないのに、彼女に扱えるとは思えないのだ。

 

 

「義勇軍を率いている劉玄徳と申します。この度はお招き頂きありがとうございます」

 

「そう固くしないで良いのよ。本来ならそちらが踏ん反り返っても良いくらい、功績に差があるから」

 

「確かにそうね。あそこまで綺麗な戦は私達でも無理だわ」

 

「そうですか……では、少しだけ楽にさせて貰います」

 

 あまり緊張しないように言った孫権と曹操であったが、劉備の返答に思わず心の中で舌打ちした。

あまり自信が無さそうなタイプに見えたので『私なんかじゃくて、〜〜さんの御蔭で』といったように謙遜しだして、あの殺戮を行った者の名前を聞けると踏んでいたのだ。

しかし、この娘意外と強かなのか、名や字処か姓さえも出さない。

 

 二人は少しばかり劉備を見くびっていたことを認めると、ここからどうやってあの者の名を引き出せるか思考を始める。

名前を知っているだけで、大分情報は集まる……特に優秀な細作を持っている者ならば、猶更のことだ。

だからこそ、是非とも名前を二人は聞き出したい二人であった。

 

 

「劉備、と言ったわね。貴方の軍で先鋒を切った者の名を聞いても良いかしら?」

 

「先鋒、ですか? 私の所で先鋒を切ったのは関雲長と張益徳です」

 

「そうじゃないのよ……最初に単騎で突っ込んでいったでしょう?」

 

「?……失礼ながら、私の率いる義勇軍にはそのような無謀なことを行う者は居ません」

 

「……そう。分かったわ」

 

 どうやら劉備は何があってもその名を語ってはくれないようだ。

孫堅と曹操はそれを理解すると、短いため息と共にいくつかの事項を確認して、劉備に下がって良いと言った。

このままでは埒が明かない……甘そうな見た目で、中々どうして強かである。

二人は肩を落とし、今回は諦めることにした。

 

 この時、二人は劉備がいかにしてそこまで強かになったのかを想像するべきだった。

あの殺戮を遠目で見た二人でさえも大きく心を乱されたのだ。

それをもっと近い場所から見ていたであろう彼女がそこまで落ち着いていられた理由さえ分かっていれば、二人は気付けたであろう。

 

 もしもそれを考えていたならば、外で彼女を待っている者が何者であるかに、きっと気付けた筈だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「孫堅と曹操はどうだった?」

 

「う〜ん……曹操さんも孫堅さんも一刀さん狙いだったみたい」

 

 天幕の外で待っていた一刀は、劉備を蜃気楼に乗せると自分もその後ろに乗った。

彼以外の者を背に乗せることに少しばかり不満そうにする蜃気楼だが、主の命令には素直に従う。

静かに加速を始めると、そのまま蜃気楼は義勇軍の天幕へと向かって進んでいく。

 

 一刀は完全に脱力して彼にもたれかかってくる劉備に苦笑しながらも、その信頼に応えるべくしっかりと片手で彼女の腰を固定する。

その片手を強く抱きしめる彼女の手は少しだが、震えている……それが恐怖からなのか歓喜からなのかは、彼女の眼が見えない彼には分からない。

 

 しかし、こうして一刀の腕を抱きしめてくれているのならば、彼女は彼を拒絶していないのだろう。

一刀はそのことが嬉しく、しかし少しばかり恐ろしい。

あの殺戮を行った彼をここまで受け入れられる程彼女の器は大きかっただろうか?

彼女の理想を考えれば、寧ろ排除しようとしてもおかしくない。

 

 

「俺狙い?……ああ、排除しようとしているということか」

 

「もう、違うよ! 二人は一刀さんを欲しがっていたの。凄く目がギラギラしていたんだよ? 孫堅さんに至っては、今すぐにでも襲いかかろうとしているくらいだったし」

 

「そ、そうか……ちょっと想像したくないな」

 

「安心して? 一刀さんの名前は出さないようにしておいたから」

 

 劉備の思わぬ一言に、一刀は思わず感心した。

彼の名前を出してないならば、彼は不要な注目を浴びなくて済む。

今はまだそこまで注目されるべきではない……劉備が無駄に狙われるのは避けたい。

彼は無名のままで構わない……彼女の名を堅実に上げることさえできれば良いのだ。

 

 そういう意味では、劉備の取った行動は正しい。

反董卓連合では、流石に呂布などを相手取る必要もでてくる為、無名では居られなくなるが、今はまだ無名の方が動きやすいのだ。

まだしっかりとした土地を持たないこの状態で、味方と敵を増やすのは良策ではない。

 

 最低限の仲間を迎え入れる以外は、できるだけ数を増やさないようにするべきだ。

兵糧などを考えれば、無作為に増やすよりも一人一人の質を上げることを考慮した方が良い。

劉備の義勇軍の内、そのまま彼女の下に残るのは恐らく半分程度だ。

そこに今回の彼女の噂を聞いて集まってくるであろう者を含めれば、やはり現在と殆ど変らない戦力しか得られない。

 

 

「有難い。それで……今回の戦はどうだった?」

 

「……最初はとても苦しくて、胸が痛かったんです。でも、最後に黄巾党の終焉を宣言した時の皆の熱気は――嬉しかった」

 

「お前の理想が成されたならば、あの何倍もの熱気がお前を迎え入れるさ。確かにお前の理想は危うい。しかし、それは不可能でない。お前は理想をひたすらに強固なものにするのが仕事だ。俺達の仕事は、それを実現させることだ」

 

「はい」

 

 今回は、劉備は泣かなかった。

一刀が引き起こした黄巾党の多くの死を悲しみながらも、彼女は彼の生存を喜んだ。

話し合いでは解決できない線引きがあることも彼に教えられた彼女の理想は、もはや甘いだけの果実ではない。

誰もが力を得られる、確かな実のある果実だ。

 

 曹操は己の覇道の犠牲を無駄にしない為に、無理をして前に進む傾向がある。

孫堅はそもそも犠牲を払うことに躊躇いが無く、親しい者の為ならば何の感慨もなく誰かを犠牲にできる。

劉備は彼女の理想の為に払う犠牲に対して悲しみながらも、できる限りのことのみをする。

最も真面目なのが曹操であり、最も残酷なのが孫堅であり、最も現実的なのが劉備なのだ。

 

 劉備玄徳の理想を曹操も孫堅も叶わぬ夢だと笑うかもしれない。

しかし、彼女は実に現実的だ。できないことはしないし、ただの世迷言で誰かを縛りはしない。

彼女の下には、関羽が居る。張飛も、孔明も、士元も、それに――北郷一刀だって居る。

その者達ならば可能なのだ。彼女の理想に限りなく近い、平和な世界の構築が。

 

 

「一刀さん……私、少しは強くなったかな?」

 

「ああ、なったよ。たった一ヶ月程度で、まるで別人だ」

 

「そう……良かった。私が弱いままじゃ、一刀さんに愛想を尽かされちゃうもんね」

 

「?……劉備?」

 

「ねぇ、一刀さん。あの日してくれた約束――覚えている?」

 

 劉備の真意を測りかねる一刀に、彼女は問いかける。

彼女が初めてその手で直接誰かを殺したあの日、確かに彼は約束をした。

しかし、その約束を何故ここで劉備が確かめようとするのかが、彼には分からなかった。

 

 

「覚えているさ。俺は劉備の傍に居る。劉備を見捨てない。劉備を最後まで導く……そう確かに約束した」

 

「うん……なら良いの」

 

「しかし、約束は時として守れないものでもある。それを忘れないでくれ」

 

「うん、分かってるよ。だから……そんなに怖がらないで」

 

「っ……」

 

 不意に振り向いてきた劉備の浅葱色の瞳は、苦痛に歪む一刀の顔を映していた。

慈しむように微笑みかける劉備の姿は実に美しく、まさしく女神のようだ。

約束を守れない時のことを考えて苦しむ彼を優しく見守るようなその瞳に、一刀は思わず縋りたくなってしまう。

 

 しかし、一刀の逆鱗は思春である。

もしも彼女が既に死んでいるならば別だが、そうでなければ彼が彼女以外に縋ることはできない。

この甘い果実を貪るのは容易いことだが、それをする権利は彼には無い。

 

その桜色の唇も、透き通った白い肌も、確かに魅力的だ。

一刀がただの人間であったならば、劉備玄徳を愛するだけでなく、恋もしていたかもしれない。

しかし、彼は竜であって既に人間ではない。

もう、人間としての彼は死んだ―――それも二回も、だ。

 

 

「劉備、俺は―――」

 

「一刀さんは怖がらなくても良いよ。一刀さんがこの約束を守れなくても……例え離れ離れになっても、私が探しに行くから。私が迎えに行くから」

 

「……そう……か……」

 

「うん。一刀さんはただ待っていて。私が一刀さんを見つけられるように、目印をたてて、待っていて」

 

「……ありがとう」

 

 優しく、甘い声で囁く劉備の浅葱色の眼の奥に見える昂ぶりに、一刀は心臓が高鳴るのを感じる。

思春はあの時彼を探すと言い、彼に探して欲しいと言った……しかし、劉備は彼女が探しに行くからそこに居て、と言う。

この違いはあまりにも大きい。

 

 思春が、ただ一刀が探してくれるのを待ち望んでいた十年間を、劉備は否定したのだ。

思春は一刀を探しに行こうと決意するのに五年以上の時を要した。

しかし、劉備はたった数週間でそれを心に決めた。探されるよりも探すことを選んだ。

逆鱗としての格は、明らかに劉備の方が上だ。

 

 逆鱗は竜を支え、竜に支えられて生きていく人間だ。

思春は逆鱗となるにはあまりにも弱過ぎた……竜が動けぬならば、逆鱗が動くしかないのに、動けなかった。

その点、劉備は十二分に強く、弱さを共に支え合うことができている。

この違いは、一刀を更に困惑させる。

 

 

「一刀さんが人間じゃなくても、私は傍に居るよ。例え――竜だったとしても」

 

「―――!?」

 

「私は一刀さんを見捨てないから。私は離れ離れになっても一刀さんを絶対に見つけるから。だから―――私の竜で居てください」

 

「………」

 

 一刀は劉備がいったい何処まで気づいているのか測りかねていた。

彼が竜であることを知っている?誰が教えた?―――愛紗しか有り得ない。

しかし、愛紗がこのような実力行使に出るとは思えない……彼の意思を無視してまで逆鱗を上書きさせようとする筈が無い。

ならば、可能性は一つしか有り得ない――――劉備は自分で気付いたのだ。

 

 まるで思春のように、彼の根底に食い込む表情を、仕草を、言葉を彼に認知させるのは、竜を理解せねばできないことだ。

一刀は竜にそのような特徴があることは知らないし、愛紗も教えてはくれなかった。

 

竜が惹かれてしまう何かを劉備は確かに持っている。

だが、それはここまで圧倒的な……思春すらも霞ませようとする程のものでは無かった筈なのだ。

この場に愛紗が居たならば、きっと何がそこまで劉備を際立たせるのかを一刀に教えただろう。

その綺麗な顔に笑みを浮かべながら、こう言っただろう。

 

 

 劉備は、初めて竜の逆鱗となった劉邦の直系である―――と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふ……」

 

 首領である“張角”達を討ったことで黄巾党の本隊を鎮圧して、早数刻……関羽雲長は満面の笑みを浮かべていた。

理由は至って明快……一刀と劉備に十二分に労って貰えたからである。

一刀からは彼の望み通りに最良の判断をしたことを、劉備からは手筈通り“張角”達のみを討ったことを褒められた。

 

 そもそも今回の策は、程遠志が手に入れた張三姉妹の正体の情報を元に行われた。

程遠志の情報は実際正しく、三姉妹は黄巾党を先導していたのではなく、ただ偶発的にそうなってしまっていただけだ。

そこを一刀は利用し、三人を生け捕り……もとい保護したのである。

 

 彼曰く、あの三人は後に曹操との取引に利用するつもりだそうだ。

彼女達はただあいどる?なるものを目指していただけらしいが、その人心把握能力は目を見張るものがある。

それを利用して青洲の黄巾党の残党を曹操にくれてやるそうだ。

 

 

「北郷殿も人が悪い……あそこまで考えていらっしゃったとは」

 

 朱里と雛里は反対したものの、劉備――桃香や鈴々は賛成していた。

一刀が語る天下三分の計と名付けられた策は、朱里も考えていたものだそうだが、二人の間にはかなり考え方に隔たりがある。

朱里は理想的な論を述べたが、桃香が選んだのは一刀が述べた現実的な論だ。

関羽も、桃香の意見には賛成であった。

 

 曹操はこれから力を伸ばしていくに違いない……しかし、それにも限度がある。

彼女には兵の数が圧倒的に足りない。そこを青洲の黄巾党を引き込ませる事で補うとのことだ。

徐州以外は土地が貧相な北方は曹操に押し付ければ良い――桃香は豊かな南方を貰う。

南蛮の侵攻さえ押さえられたならば、益州、荊州を手に入れることは実に魅力的な案だ。

 

 最初は一刀に対して疑心暗鬼だったように見える朱里も、彼の語る策に途中から眼を輝かせていた。

彼女もまた、北郷一刀が描いている未来予測と、その上で構築した策がいかに素晴らしいものかを十二分に理解したのだ。

雛里に至っては、途中から尊敬の念を込めた眼で彼を見ていた。

 

 

「天下三分の計、か……素晴らしい」

 

「本当にそう思っているならば少しばかり教育を見直す必要がありますね、関羽殿」

 

「!……司馬懿殿、いったい何の用ですか?」

 

「少しばかり、貴方と話をしに」

 

 服装を除けば全く同じ姿をしている司馬懿の登場に、関羽は満面の笑みを消し去った。

彼女は一刀のことは武将としても軍師としても尊敬しているが、その腹心である司馬懿のことはどうにも好きになれなかった。

真名の一件もそうだが、関羽と司馬懿は相性が悪いようだ。

 

 確かに司馬懿は知も武も関羽よりも圧倒的に上であり、能力も人柄も尊敬できるものだ。

しかし、その要素を考慮しても、関羽は司馬懿を好きに離れなかった。

同じ真名を持ち、同じ声形を持ち、しかし北郷一刀に真名を呼ばれている司馬懿が、彼女は苦手だ。

 

 

「私と話をしに?……それは、何かの冗談ですか?」

 

「まさか。私は基本的に冗談はつきませんし、冗談を言える程貴方と親しくはありません」

 

「……それで、要件は?」

 

「天下三分の計について、補足をしておこうと思いまして」

 

「補足?……まだ何かあるのですか?」

 

 関羽は司馬懿の言葉に思わず首を傾げた。

一刀は確かに大まかな概要といくつかの具体的な案のみで、その全貌を示してはくれなかった。

しかし、それでも十二分のその堅実さは理解できる。

これ以上何かを足す必要など無い程に、素晴らしい説明であった。

 

 そこに司馬懿は補足を加えようとしている。

一刀の為でなければ動かない彼女が、あまり話そうとしない関羽に話をしようとしているのだ。

それは、即ち司馬懿が一刀の為にそうしていることを意味する。

関羽は、少しばかり緊張しながらも、先を促した。

 

 

「あの天下三分の計ですが、あれには大きな欠点があります」

 

「欠点?……あそこまで見事な策に?」

 

「はい。今のまま進めていけば―――この陣営から一刀様は去ってしまうでしょう」

 

「―――是非とも、詳しくお聞きしたい」

 

 

 司馬懿への嫌悪も、あらゆる疑問も捨て去り、関羽は彼女と向き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……取りあえず一段落ついたな」

 

 一刀は既に皆が静まりかえった深夜、彼の天幕へと戻っていた。

彼の帰りが遅くなったのは、劉備や孔明、更には士元と今後について様々なことを話し合っていた為だ。

特に孔明と士元の食いつきは凄まじいもので、一刀はこの時間になるまで解放されなかった。

 

もはや見張りの兵以外は皆寝てしまっている時間である。

明かりをつけるのも面倒だと思いながら、彼は野営地の端にある彼の天幕の前まで辿り着いた。

しかし、そこで違和感を抱いた彼は歩を止め、口を開く。

 

 

「程遠志」

 

「ここに」

 

「……明かりをつけたのはお前か?」

 

 一刀の天幕には、何故か明かりがついていた……しかも、中に誰かが居る。

程遠志が手を出していないということは、敵ではないということだろう。

彼は中に居る者の気配に妙な懐かしさを感じながらも、口を開いた。

 

 

「はい。暗い中でお待たせしては、機嫌を損ねてしまいそうですから」

 

「!……まさか」

 

「この程遠志、北郷様のお言葉通り――確かに、お連れしました」

 

「―――今夜は誰が訪ねてきても絶対に中には入れるな」

 

「御意」

 

 程遠志の言葉に、一刀は彼の天幕の中に居る者が誰かを理解する。

すぐさま彼女に誰も中に入れないように命令すると、彼は静かに天幕の中へと入った。

その瞬間に、天幕の中を満たしていた匂いが彼の鼻腔を刺激する。

懐かしく、あまりにも悲しい匂いに、彼は思わず目を閉じた。

 

 彼は、一度閉じたその真紅の眼を再び開けて、見る……天幕の中で彼を待っていた人物を。

後ろで纏めた紫色の髪と、澄んだ赤の瞳、健康的な褐色の肌……そのどれもが懐かしい。

一刀の腰についている鈴が静かに鳴り響くのに合わせて、もう一つの全く同じ音が鳴り響く。

彼は涙が出そうになるのを必死に堪えながら、口を開いた。

 

 一刀は泣いてしまう前に言わなければいけない言葉がある。

謝らなければいけないことがある。喜ばなければならないことがある。

だから、彼は溢れ出そうな涙を必死に抑えて、その名前を呼んだ。

 

 

 

 

「――思春」

 

 

 

 誰よりも愛する逆鱗の名前を。

 

 

 

 

説明
黄巾党本隊との戦いとその他諸々です。

もう一刀が完全にチートな上に、多くのキャラが大分原作と異なります。
そういうのが嫌いな方はそっとブラウザバックしてしまいましょう。



・取りあえずこの話は今後、一刀と桃香、愛紗、思春、恋のやり取りを中心に展開する予定です。結構ドロドロしていくと思います(
・誤字修正しました。ご指摘ありがとうございます。
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コメント
これは愛紗も予想外か?このまま行くと一刀の陣営に王が2人揃うことになるしどうなるんだ〜。(tububu12)
もうね、どうなっちゃうか分からない展開ですね?。蓮華は劉備陣営に来るのか?気になる! 続きプリーズ!!(スーシャン)
思春との再会は吉とでるか凶とでるのか・・・・・・次回も楽しみにしています。(本郷 刃)
ついに訪れる再会・・・・・・次回の更新を心待ちにしております。(アルヤ)
セリフの所で本郷一刀って言ってる場所が二ヶ所ぐらいあったよ(フルー2)
おおおおお、ついに出会えましたねぇ。この後に愛紗が補足したことによりどんな運命が待っていようともこの時間だけは幸せであってほしい。(shirou)
果たしてこの再開が良いことにつながるのか、悪いことにつながるのか・・・・(黄昏☆ハリマエ)
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真・恋姫†無双 北郷一刀 桃香 愛紗 鈴々 思春 蓮華 

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