ハーフソウル 第十一話・それぞれの運命
[全5ページ]
-1ページ-

一 ・ 大輪の花

 

 ガイザックは貧しい村の生まれだった。

 

 日がな一日農作業をしたところで、得られる収入はわずかであり、とても家族六人で食べていける状態ではない。

 十四の少年には、この先にある一生は過酷なものにしか見えなかった。家畜のようにただ労働をこなし、食って寝て死んでいく。

 

 ある夜、彼は家にあった金目のものを全て持ち出し、帝都へと逃げた。

 

「軍人になって、のし上がってやる」

 

 それが彼の口癖だった。

 

 二十一歳の時、彼の上官となったのは、二十三歳の女性将軍だった。女性でありながら、指揮官として立派に部隊を率いるその姿は、部隊では羨望と嫉妬の的であった。

 

 上官の侯爵家出身という身分に対して、ガイザックは激しい劣等感を憶えた。だが将軍は誰にでも分け隔てなく接し、彼の内にある凍えた魂は、少しずつゆるんでいった。

 

 将軍の婚約を耳にしたのは、ガイザックが彼女に対して、ほのかな恋心を抱いた頃だった。聞けば相手は皇帝の一族であり、家柄も血統も申し分が無い。

 

 正式な婚姻は一年後との事だったが、太陽に向かって咲き誇る花のように、彼女は日々美しくなっていく。

 そんな彼女の様子に、ガイザックは怒り狂った。

 

 自分が先に見つけた五分咲きの花を、大輪になった頃に他の男に手折られるなど、どうしても我慢が出来なかったのだ。

 

 嫉妬に狂った彼の前に宰相が現れたのは、運命としか言いようが無かった。

 

 

 

 

 ダルダン将軍とアーシェラを差し向けたものの、ガイザック将軍が送り込んだ間者と連絡が取れず、宰相クルゴスは怒りをつのらせた。

 

 銀盤の王器を覗き込んでも何も映さず、理由すら分からない状況に苛立つ。そうしているうちに、彼の許へ事務官が参上した。

 

「宰相殿にご報告申し上げます。先程レニレウス公爵より、領内において、ダルダン将軍の戦死を確認したとの一報が入りました。また巡回部隊より、くだんの者が帝都に潜入した可能性ありとの事。ご指示を」

 

 待ちかねた報告に、宰相は満足そうに笑う。

 

「レニレウス公爵に早馬を出せ。ダルダン将軍のご遺体を帝都に移送し、国葬として執り行う。セトラ将軍に関して、報告は無いのか」

 

「それがダルダン将軍のご遺体はすでに、ご遺族の許へと戻されたようです。セトラ将軍は行方不明とあります」

 

 レニレウス公爵に先手を打たれ、宰相は執務卓に肘をつきながら、思考を巡らせる。

 

 ダルダン領まで移送したというなら、公爵も付き添っているだろう。今から帝都へ呼び戻しても数日はかかる。

 

 キツネめが、と宰相は歯軋りをした。宰相がラストールを迎撃する様を、高みの見物としゃれ込むつもりなのだ。

 

「ガイザック将軍とアレリア将軍を呼べ。侵入者を包囲する」

 

 宰相の双眸は、怒りに爛々と輝いた。

-2ページ-

二 ・ 混水摸魚

 

 突然の呼び出しにもかかわらず、ガイザック将軍とアレリア将軍はすぐさま応じた。

 

「奴らが帝都に侵入した。手勢を配置して臨戦態勢に入れ」

 

「了解致しました。侵入経路はどのようになっておりますか」

 

「恐らく十年前に使った地下水路を利用してくるだろう。万が一に備え、各門にも部隊を配備せよ」

 

 神妙な面持ちの宰相とガイザック将軍に、アレリア将軍が声を上げる。

 

「宰相殿。どうか私に一騎打ちの許可をお与え下さい。どうしても奴をこの手で仕留めたいのです」

 

 二十歳そこそこの若い将軍は、血気にはやったまなざしで、宰相に願い出た。

 

「人をして天才と言わしめたアレリア将軍が、そこまで申されるとは。何か策がおありとみえる」

 

 宰相の冷淡な微笑を気にも留めず、アレリア将軍は自らの発案を熱心に説く。

 一通り聴き終わると、宰相はそれを承認した。

 

「ならばその策で参ろう。ガイザック将軍は、好きなだけ手勢を連れてゆくがよい」

 

 年若い将軍の策に、宰相とガイザックは顔を見合わせ、ほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 セアルたちが帝都ガレリオンに到着したのは、レニレウス領を発って四日後の夕刻前だった。

 

 到着の直前に、ラストは大切にしまっておいた自分の軍服を引っ張り出した。袖だけを通し、外套のように羽織る。

 

「帰る時は、胸を張って帝都に入ろうと思ってさ」

 

 自分には何もやましいところは無いという、彼なりの意思表示なのかも知れない。

 

 帝都は近付くにつれ、その偉容を誇った。小さな街しか見たことの無い者には、城壁の堅牢さに気後れする程だ。

 見上げれば天を衝く高い石門、各々が城砦に囲まれた五つの区画。都市そのものが、ひとつの国であると錯覚できる荘厳さに、セアルとレンは圧倒された。

 

「これ、どうやって侵入するんだ」

 

 考えていたよりも堅固な帝都の造りに、セアルは城壁を見上げ呟く。

 

「お前の兄貴が侵入出来たんだから、何とかなるんじゃねえの?」

 

「兄さんだったら素直に門を叩くか、ぶち破るかしてそうだけどな。さすがにそれは無理だろ」

 

 実際各門はぴたりと締め切られ、向こう側からは鎧の鳴る、金属音だけが聞こえてくる。

 

「仕様が無いなあ。抜け道があるから、ついて来いよ」

 

 ラストの先導で、三人は東側の区画へと回った。枯れた小枝を踏みしめ、潅木に覆われた獣道を進むと、石壁に黒く大きな洞穴が開いている場所へと出た。

 

 穴は人工的に造られたもので、内部は敷石され、ほのかな灯りが点々と順路を照らしている。穴の高さも幅も、数人で移動するのに十分な余裕があった。

 

 人の気配も無く、見つからずに移動するには最適の通路と言える。

 

「よさそうな道だな。こんな良い通路があるなら、最初から言えよ」

 

「十年前に使った事があるからさ。多分宰相にはバレてると思うんだよな。入口と出口に布陣されたら終わりだぜ? 行きは良い良い帰りは怖いって奴だ」

 

 ひんやりとした通路は湿気も少なく、彼らの乾いた足音だけが木霊する。壁に埋め込まれた光鉱石の灯りだけが、行き先を照らし出した。

 

 ふいにセアルの足が止まった。

 

 ラストとレンにも立ち止まるよう促し、三人は様子を窺って沈黙する。

 

 彼らとは異なる足音が、前方から響いて来るのが分かる。比較的軽い靴音に、相手は軽装と判断できた。

 

 光鉱石の淡い白色光が、徐々にその姿を映し出した。闇の中から現れたのは、白髪を短く刈り込み、口髭を生やした六十近い大柄の男だ。鎖帷子の上に白い軍服を纏い、長斧を手にしている。

 

「ガイザック……」

 

 ラストの脳裏に、十年前の光景が浮かび上がる。彼を逃すために、養父はガイザックの手にかかったのだ。

 

「許さねえ、お前だけは」

 

 怒りに身を任せ、ラストはガイザックへと飛び掛った。長柄を抜き放ち、勢いよく振り下ろす。 

 ガイザックは長斧で軽く受け流しながら、セアルへと目をやった。

 

 その時ガイザックが薄気味悪い笑みを浮かべながら、何かを呟いたのがセアルの耳に届いた。だがそれも武器の鳴る音にかき消され、聞き取ることは出来ない。

 

 ガイザックの様子にセアルは警戒し、自らも両手剣を抜いて構えた。レンを後方へ下げ、ガイザックを包囲するように前へ出る。

 

 レンが離れたのを見るや否や、ガイザックはラストの長柄を弾き上げ、セアルへと突進した。

 予期せぬ動作に、セアルはガイザックへと剣を薙ぐ。

 

 それを易々と躱し、ガイザックはレンへと手を伸ばした。

 

 瞬く間にレンは担ぎ上げられた。ガイザックは踵を返し、壮齢とは思えぬ脚力で通路の奥へと走り去る。

 

「待て!」

 

 通路にはレンの叫び声だけが木霊した。二人が追おうとしたその時。陰になっていた暗がりから、男がふらりと歩み出た。

 白い軍服に槍を構え、セアルとラストを足止めする。

 

「あなた方の相手は、僕が務めます。我が名は帝国五将軍の一人、レオン・ソシエール・アレリア。どうぞお見知りおきを」

 

 虚無的な薄笑いを浮かべ、若い将軍は二人の行く手を遮った。

-3ページ-

三 ・ それぞれの運命

 

 セアルはレンが攫われた事に焦り、男を無視してガイザックの後を追おうとした。

 

「あなた方の相手は、僕がすると言ったでしょう?」

 

 アレリア将軍は槍を突き出し、セアルの行く手を遮る。柳葉形の穂先が喉元をかすめ、真横の壁へと突き刺さる。

 

「どけ!」

 

 槍を払おうと、セアルは剣で打ち上げる。鈍い金属音と共に槍は跳ね上がるが、切っ先はすぐに彼を捉え直す。

 

「無駄な抵抗はやめて下さい。少数で忍び込んだ度胸は買いますが、所詮は勝者が正義。先程の少女にはかわいそうですが、我々が帝都を支配する礎になってもらいます」

 

 アレリア将軍は不気味に微笑んだ。

 

「支配だ? アレリア公爵家といえば、旧ネリア領を割譲されて、今では他の公爵家よりも格上じゃねえか。それのどこが不満だって言うんだよ」

 

 アレリア将軍の言い分が気に食わなかったのか、ラストが口を挟む。

 

「あなたは何も分かってないようですね。人間の欲望など、際限の無いものですよ。ひとつ満たせばもっと欲しくなり、さらに満たせばもっともっと欲しくなる」

 

 セアルへ向けていた槍を戻し、石突で床を叩きつけてアレリア将軍は続ける。

 

「だから僕は、この国をもらう事にした。ネリアの一族は、長い事この国を治めて来たのだから、もう十分でしょう? 僕が皇子の後見。宰相殿は官民を従え、ガイザック将軍は筆頭将軍となる。利害が一致すると、信頼よりも強固な関係が結べるものだと知りましたよ」

 

 この言葉に、ラストの怒りが頂点に達した。

 

「てめえふざけるなよ……。そんな事のために、どれだけの人間を利用し苦しめたか、分かってるのか?」

 

「利用し苦しめたと言うなら、ネリアの一族もそうでしょう? 我がアレリアの祖先は、王器を奪われた事を腹を割って相談したというのに、ネリアはそれを利用した」

 

 徐々に冷静さを失いつつあるアレリア将軍を煽りながら、ラストはセアルに目で合図を送る。

 

 一瞬の隙をつき、セアルはガイザックが走り去った方向へと駆け出した。

 

 だがアレリア将軍は、それを阻止せずに見送る。

 

「全く面白い人たちですね、あなた方は。こうも易々と策に乗ってもらえるとは思っていませんでした」

 

「初めから、オレたちを分断するつもりだったとでも言いたげだな」

 

「僕の役目は、時間稼ぎとあなたの相手ですから。向こうでは、ガイザック将軍が兵を布陣してお待ちかねだ。人質を取った上に中隊を用意するなど、なかなか出来る事ではありません」

 

 アレリア将軍は笑いをかみ殺しながら、槍を構える。

 

「回りくどいマネしやがって。さっさとかかって来いよ下衆野郎」

 

「勿論です。僕はずっとこの時を待っていた。天才と称された男を、この手で倒す日を」

 

 アレリア将軍を見据え、ラストは手にしていた王器を脇へと放り投げた。代わりにベルトから下げていた短剣と小剣を引き抜く。小剣を傷の治りきっていない左手に、紐状にした布で括りつける。右手には櫛刃の短剣を握り締めた。

 

 いつかセアルに折られたはずの短剣は、鋼鉄と隕鉄で補強され、鈍い波状の輝きを放っている。

 

「何だそれは。何故長柄で戦わない! 槍に対し短剣などと、僕をバカにしているのか!」

 

「バカになんかしてねえよ。前にこの状態で戦った奴がいてな。ド素人のクセに、オレに負けを認めさせやがった。お前がそいつより強いって言うんなら、これで勝てねえ訳ねえよな?」

 

 短剣を突きつけながら、ラストは新しくなった櫛刃を見やる。

 

「あのバカが折るから、賭場荒らすほど金かかったけどな。レニレウスには目ェ付けられるし、散々だったぜ。付け焼刃に近いけど、まあそれなりにやれるだろ」

 

 その様子に、アレリア将軍は怒りを隠せなかった。

 

「こんな……こんなふざけた奴が天才として扱われ、この僕がその陰に隠れるなど。そんな事はあってはならない! お前を倒して、真の天才が誰なのか、皆に思い知らせてやる!」

 

 二刀短剣のラストに、アレリア将軍は槍で襲い掛かった。

-4ページ-

四 ・ 二人の天才

 

 初代皇帝フラスニエルが、帝都全域に造り上げた上下水道は、それまで井戸用水路しか無かった都市を衛生面から革新した。

 全てを埋設するには、五十年以上の歳月をかけたが、公共事業によって人々の生活は潤った。

 

 上下水道が備わった事で、旧地下水道は廃棄される事となった。水は抜かれ、不要な井戸は埋め立てられた。だがこれは表向きなものであって、実際には廃棄された訳では無い。

 

 必要とされた井戸は残され、旧地下水道の床には秘かに敷石された。暗渠を抜けるために、壁には暗闇でも光を発する、光鉱石のランプを備え付けていた。

 

 こうして、皇帝の一族が秘密裏に利用する抜け道は完成したのだった。

 

 

 

 

 二人の天才による戦いは熾烈を極めた。

 

 ラストの十八歳に次ぐ、弱冠十九歳で将軍職を拝命したアレリア将軍には、常に彼の影が付きまとった。

 

 どれだけ努力しようが、すでに伝説となった男を越えた証など、どこにも無い。将軍職の拝命も、ラストールがいなくなった補欠としか捉えられてないと、彼は思っていた。

 

 だがアレリア将軍には、天性の才というべき動体視力があった。

 わずかな隙も、寸分違わぬ的も見逃さず、執拗にラストを追い立てていく。

 

 そもそも槍のリーチであれば、短剣など懐に入れなければ警戒の必要すら無い。そして短剣が槍に勝てる道理も無い。

 

 アレリア将軍の鋭い突きを櫛刃で捕らえながら、ラストは流れを読んだ。

 

 彼の左手はもうあまり使い物にはならない。今は右手でようやくいなしているが、短剣と槍、片手と両手の絶対的不利だけは覆すのが難しい。

 

 だが、どうあってもこの勝負にだけは勝たなくてはならない。ラストの敗北は、引いてはセアルの敗北に繋がるのだ。

 

 出口に布陣されていては、セアルに勝ち目は無い。人質がいるなら尚更だ。

 

「先程までの威勢はどうしたんですか? やりにくいのなら、長柄を使ってもいいんですよ」

 

 アレリア将軍は嘲るように笑った。

 

「うるせえな。てめえみたいな奴は、完全に叩きのめさないと納得しねえだろ? 面倒くさいんだよそういうの」

 

「格の違いを見せ付けたいとでも? 統一王の再来とまで呼ばれた男も、所詮はつまらない人間なんですね」

 

 槍を器用に操り、アレリア将軍はラストを壁際へと追い詰めていく。槍の穂先が石壁を衝き、櫛刃で受け止められる音だけが地下道に木霊する。

 

「他人の価値観の中で生きたい奴には言われたくないぜ。てめえの方がよほどつまらねえ」

 

 図星だったのか、その言葉にアレリア将軍は色を変えた。

 

「お前なんかに何が分かる! 必死に努力しても、いつだってお前の陰に隠れて評価もされない。お前がいなければ。お前さえいなければ、こんな事にはならなかったんだ!」

 

「てめえの実力不足を、人のせいにしてるんじゃねえよ」

 

 冷静さを欠いた槍の軌道は、それまでの集中力を失い、切っ先はでたらめに空を切る。

 

 その虚をラストは見逃さなかった。

 

 壁を背に、真っ向から衝いて来たところを、屈んで身を躱す。彼が元いた位置には光鉱石のランプがあり、切っ先は寸分違わず光鉱石を貫いた。

 

 薄いガラス質の破砕音が響き、鉱石灯は粉々に飛び散る。

 

 周囲は一瞬にして暗転し、たちまちアレリア将軍はラストを見失った。灯りを失う直前に強い光を目にし、彼の網膜は混乱を脳に伝える。

 

 焦った将軍は闇雲に槍を振り回した。懐に入られては勝ち目が無い。だが灯りが無いのは五分の条件だ。近づけさせなければ、槍は最強なのだ。

 

 闇の中ラストの気配を捉える事が出来ず、次第にアレリア将軍は背後が不安になっていった。今まさに忍び寄られて、喉をかき斬られるのではないかと怯える。灯りのある方向へ寄れば問題は無い。だがそこまで行くにも暗闇が怖かった。

 

 恐怖を振り払うために、将軍は壁を背にし、灯りへ寄ろうとした。

 

 しかしそれこそが、ラストの狙いだった。

 

 すでに目が暗闇に慣れていた彼は、将軍が壁を背にした瞬間、懐へと忍び入った。壁へ寄ってしまえば、振り回せなくなった槍など、何の役にも立たない。

 

「王手だ」

 

 右手で槍を払い落とし、左手の小剣を喉へと突き立てる。

 

 喉元にひやりとした切っ先を当てられ、アレリア将軍は降参せざるを得なかった。

-5ページ-

五 ・ 亡霊

 

 ラストがアレリア将軍を相手にしている頃。セアルはガイザックの痕跡を辿りながら、比較的大きな井戸の真下へと来ていた。

 見上げると、井戸には縄梯子がかかっており、その下にレンの履物が片方落ちている。

 

 明らかに罠だ。それは分かっている。聞き耳を立てても何も聞こえず、外の様子は窺い知れない。

 

 だがここで行かなければ、一生後悔する事になるだろう。

 

 心を決め、セアルは片手剣を抜いた。ありあわせの紐で剣を結わえて、口にくわえる。魔銀の剣は、見た目ほど重量は無いものの、ずっしりと垂れ下がった。

 

 縄梯子を昇るには両手が塞がるために、いつ頭上から襲撃されてもおかしくは無かった。すぐ応戦出来るように抜剣状態にしておいたが、井戸を出る間際になっても敵の気配もしない。

 

 警戒しながら、セアルは剣を手に井戸から躍り出る。

 

 予想に反して、その場に敵の姿は無かった。落ち着いて辺りを見回すと、寂れた古屋敷に枯れ果てた中庭、それらを朽ちた石塀が囲んでいる。出てきた井戸をよく見ると、いつのものか分からない赤黒い血糊が、べったりとこびりついていた。

 

「待ちかねたぞ。亡霊よ」

 

 低い声がして、セアルは剣を構えた。昏い闇の中から、白い装束の男が現れる。軍服の下にある鎖帷子は、白い月の光に照らされて、きらきらと反射した。

 

 ガイザックの背後には、縛り上げられたレンが見える。失神しているのか、ぴくりとも動く気配が無い。

 

「ガイザック! レンを返せ!」

 

「それは出来ぬ相談だ」

 

 気味悪い薄笑いを浮かべ、ガイザックはセアルをじろじろと眺めた。

 

「それにしても、恐ろしいまでに似ておる。まさにあの女の亡霊と言えるな」

 

「あの女とは誰の事だ」

 

「お前の母親であるデルミナの事よ。気に食わぬから、代行者にくれてやった。それがまさか子まで成しておるとは、夢にも思わなんだ」

 

「……どういう意味だそれは」

 

 怒りを必死に抑えながら、セアルは訊いた。ガイザックはそれをさらに、問いで返す。

 

「もし、欲しいものが手に届かぬ位置にあったら、お前ならどうする? 諦めるか? それとも大切にしまっておくか?」

 

 喉の奥で嗤いながら、ガイザックは続けた。

 

「私は、手に届かない事が気に食わなかった。他の者に盗られるくらいならいっそ、誰の手も届かない場所にやってしまおうと思ったのさ。その願いを、宰相様は聞き届けて下さった。デルミナが式を挙げる直前に、ボリスから取り上げてやったのよ」

 

 ガイザックの狂った思考に、セアルは呆然とした。

 

「宰相様は、デルミナを交渉材料にするとおっしゃられた。宝冠の王器を譲り受けるために、他の代行者へ献上したのさ」

 

 ダルダン将軍の言っていた話はこれだったのかと、セアルは思った。同時に憎しみと怒り、悲しみと苦悶が彼を苛む。

 

「お前が女だったら、また別の使い道があっただろうな。実に惜しい。だが亡霊は亡霊らしく、消えてもらわなければならん」

 

 ガイザックは右手を挙げ、振り下ろした。それを合図に、おびただしい数の兵士が一斉に姿を現す。

 

「さすがに一人では、この数を突破できまい。潔く死ね」

 

 夜空を震わす哄笑に、セアルは片手剣を鞘へ納め、黒曜石の剣を抜いた。

 

 激しい怒りに我を忘れ、剣を手に兵士の波へと斬りかかる。

 

 その時。頭上の月が、自らの白い衣を剥ぎ取り、辺りが真っ赤に染まり始めた。どろりとした血の色に、黒い影たち。

 赤と黒の入り混じる狂気の世界に、その場の全てが塗り込められる。

 

「血月……」

 

 セアルは自らの内にある、闇の領域に気がついた。感情の波に揺り起こされるように深淵が蠢き始め、彼の肉体を乗っ取ろうとその食指を動かす。

 必死の抵抗にも関わらず、セアルの意識は闇へと引きずり降ろされていく。望むと、望まざると関係なしに。

説明
創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。獣耳少女と男二人で旅をします。今回は二刀短剣vs槍。8465字。

あらすじ・神の箱庭・西アドナ大陸。古の神をその身に内包した少年セアルは、自らが箱庭を破壊するために作られた存在と知り、神の代行者と対立する道を選ぶ。
宰相の罠を退け、公爵の助力を受けた三人。だがセアルの体に、変異の兆候が見られ始める……。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
404 404 0
タグ
ファンタジー バトル 創作 オリジナル ダークファンタジー 異世界 ハーフソウル 

松下あきらさんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。


携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com