Revolter's Blood Vol'02 第一章 〜Irresponsible Freedom & Rusty Chain〜
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 大陸の東側には、大きな河が流れている。

 流域には王都をはじめとした東方の主要都市が多く存在しており、古くは農耕に必要な貴重な水源として、そして現在は多くの物品を流通させる為の重要な水路として人々に様々な恩恵を与えていた。

 湿潤な気候をもつ環境の影響により、大河は一度たりとも涸れる事なく、時代に求めに応じて柔軟に姿と役割を変え、地域の発展に大きく寄与してきた。

 大河より派生した支流の一つ。その川沿いの僻地に、その街は存在していた。

 その閑静な田舎町の名はグリフォン・アイ。

 王都の遥か南方に位置するそこは、川沿いに王都へと向かう旅人達にとっては格好の中継点。故に古来より宿場街として栄え、この時代まで緩やかな発展を遂げていた。

 そして、この田舎町の事を人はこう称する。

『地獄から天国へ変じた街』。

 グリフォン・アイは、大河の支流をはじめとし、深い森林や山岳などといった多くの豊かな自然に囲まれている。だが、その多くは未開発の地であり、それゆえに街は時折、そこに隠れ住まう多くの魔物達による襲撃を受け続けていた。

 更に人々に多くの恩恵をもたらしている河川も自然の気紛れ如何によって、人間達に水害という牙を剥ける事も多々。

 街の人口は、このような災害のたびに年々激しく上下し、その様は安定という言葉を知らぬかのよう。

 そんなグリフォン・アイの街に変化が生じたのは五十年前。

 ──とある悲劇をきっかけに、王都より派遣される騎士隊の規模が大きく見直され、魔物に対する防衛力が拡充。更には国からの潤沢なる資金が注入された事によって、長年悩まされ続けてきた治水面においても大きな改革が成された。

 結果、グリフォン・アイを守衛する騎士隊の努力により、魔物の襲来も水害の被害も激減し、治安は大幅の改善が成された。

 その水準は東方の主要都市のうちでも屈指の高さと言われるようになるほど。

 この評価は、五十年経った今でも然程の変わりは見せぬ。

 そして現在、この平和な街を管轄しているのは一人の老領主。

 平和で閑静な田舎町の管理は楽な事この上なき仕事であり、年老い、晩年を迎えた貴人の有終を飾るに誂え向きなものであると言えよう。

 その老いた領主は今、自らの館に客人を招き入れていた。

 館内にある小さな会議室。円卓を挟み、下座の席に座する使者より提出された書簡を読み終えた老領主は天を仰いだ。

「王家からの使者の来訪であるにも関わらず『歓迎の式典は無用』という貴方の言葉に、私は当初、奇妙さを覚えていたのですが──なるほど。このような要件であるのならば、私も納得がいくというもの」

「──格別の御配慮、感謝いたします」

 そう言い、静かに頭を下げる男を値踏む。

 王家直筆の書簡を携える事ができるほどの人物。無論、只者ではない。恐らく王家所縁の者、或いはそれ相当の信用を勝ち得た貴族家の人物であるのは間違いないだろう。

 そう考えた翁は男が持参した国王直筆の書簡に再び視線を向ける。

 書簡の内容とは、このグリフォン・アイの街の守衛の為に駐留している騎士隊の規模を半減させよという命令であった。

 そして、驚くべきはその理由。

 それは周辺地域の住民らの度重なる非難の声──規模として然程大きくないこの田舎街に、小さな都市にも匹敵するほどの騎士や兵士を駐留させているのは不公平であるとして、見直しを強く要求されているとの事。

 王都議会はその声を受け、近年のグリフォン・アイにおける魔物の被害状況から、規模の縮小が妥当であると判断を下したという。

 街の主たる翁は、その愚かな決定に強い憤りを覚えていた。

 近年の被害が少ないのは、この街が騎士団との協力のもと、魔物に対する防衛力の強化に努め続けてきた結果に過ぎず、駐留する騎士隊の削減する事は即ち、魔物の被害を食い止めていた直接的原因を取り除く事と同義。

 この愚策と言うべき決定に領主は呆れ返り、まるで神に縋るかのような視線を、天井へと向けた。

「所詮は民衆の負担を体感した事のない、そして自らの保身しか考えぬ者達が下した決定と言わざるを得ぬ。この愚策によって穴の開いてしまった防衛力を補うための効果的な対策があっての決定なのであろうな?」

「──勘違い召されるな。今回の処置は言わば軍備の正常化。過去に騎士団が施した常軌を逸した優遇策を破棄し、それ以前の水準に戻すに過ぎぬ。貴殿は、その点を徹底して民に説明すれば良い」

「ふざけるな!」

 領主の翁が一喝する。

「五十年前に施された守衛の強化は十分に効果があったと記憶しておる。街の規模を基準とするのではなく、周辺に存在する魔物の勢力に応じた武力の配備をと方針転換した結果、民が安心して暮らす街を作る事が出来たのだ。その実りあった政策を否定し、逆行するかの如き決定には、たとえ勅命であろうとも、安易に従う訳にはいかぬ!」

 使者の男は、怒り猛る老人に向かい、冷淡な視線を投げかける。

「しかし、その長すぎる平和の日々は民衆に過度な余裕を与え、堕落させたとも言えよう。安全が当たり前のものとなると、民は、それを支える国家に対する感謝や忠誠心など次第に薄らいでいくもの。これでは我々とて、何のために彼らを守っているのかわからぬ」

「そのような曖昧な理由だけで、我々が納得すると思っておいでか!」

「グリフォン・アイに対する他地域の者達の批判が強いという動かぬ事実が存在している。──では問おう。貴殿ならば、その声に対し、如何様に対応すると言うのか?」

「私ならば」領主の翁は即答する。

「過去の歴史を説明し、理解を求めるがな」

「それでは民衆は納得するまい」

 使者の男は、すかさず反論する。

「彼らの願いは、このグリフォン・アイの街にへばりついている『優遇』という厚き皮を一刻も早くはぎ取る事のみであるのだからな」

「そのような卑しき被害妄想で、我が街の民を危険に晒せというのか! そんな愚か者がいるのならば、今すぐ私の前に連れてこい! 徹底的に論詰してくれるわ!」

 怒声が室内に響き渡る。しかし、使者の男はその怒りを冷静な表情をもって受け止め、しばしの間、黙した。

 そして、一度小さな溜息をつく。

「西の都市グリフォン・シン──そこで一部の民が暴動を起こした。この街に施された厚遇に対する不満が爆発してな」

「──なんだと!」

「ここから以西の集落に対する魔物の被害規模が、この数十年の間、増加の一途を辿っている事から、その原因はグリフォン・アイが軍備を強化した事により、魔物の標的より外された事にあると、そしてその標的が西に移ったものと考えるのが自然。連中はそれを何らかの経緯で知ったのだろうな」

「ならば、グリフォン・シンの者達も、その現状を陛下へと訴え出ればよいだけの話ではないか! 魔物より受けた被害を我々の所為にするなど、筋違いも甚だしい!」

「何故、彼らが軍備の強化を訴えず、暴動という手段に出たのかは知らぬ。だが、我々は執政の世界に身を置く者として、これらの声は深刻な問題として受け止めねばならぬ」

「暴徒の声に、耳を傾けると言うのか!」

「如何なる者であれども、民の声には変わらぬ──陛下は、そう仰せだ」

 幾度となく浴びせられる怒りの声を受けても尚、使者の男の声の調子は終始冷淡なものであった。

「ならば、やがてはこの街において王家や貴殿ら王都議会の者達に対する怒りが噴出するであろう」

 しかし、街の未来を憂う翁も引き下がらぬ。

「聞けばつい先日、西の聖地にて、かつての英雄の直系とされる者が『聖騎士』の地位に任じられ、その談話の場にて、議会に実質上支配されている王家に諌言なされたとか。それ故、現王家に不信感を抱く一部の国民や貴族らからの人気は随分と高く、支持者の中には、当の本人が否定なされている『騎士団による政権』の復活を、期待している者も少なくない。もし、貴殿がこの命令を実行に移すのであれば、このグリフォン・アイの民は一斉に聖騎士殿への支持へと傾くであろう」

 それを聞き、使者の男は「ほう」と唸った。

「再び、権力を騎士団へと移してでも現状を維持すべき──そう、領主殿は思われていると?」

「少なくとも、貴殿らのような貴族どもに任せるよりは」翁は即答した。「この国を良き方向に導いて頂けるのならば、誰が指導者でも私は構わぬと思っておる」

 その答えを聞いた使者の男は「馬鹿馬鹿しい」と言わんがばかりに、小さく鼻を鳴らす。

 そして、言った。

「我々がそのような愚を犯すと思うか?」

「──なに?」

「確かに貴殿が言う通り、そのまま民衆に負担を課すだけならば、我々は猛烈な批判に晒されるだろう。他の有力者に頼ろうとする者も出てくるのも当然。だが我々とて、その長年に亘る執政の歴史の中、そのような民衆の批判の逸らし方、民意の操作の方法など十分に心得ている。そうでなければ、然程の武力も有さず、そして神の信徒でもない我々が如何にして権力を維持できようか?」

「……」

 睨みつけながらも黙する街の主を見つめ、王家の代弁者は言った。

「ならば見せてくれよう。為政者の得意とする、世論の操作術とやらを」

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 女は眠れずにいた。

 宿場街の一角にある安宿の一室。

 寝台に横たわり、両腕を頭の後ろに組んで枕とし、その身に毛布すらかけることなく、ただ、ぼんやりと窓より夜空を眺めていた。

 宵の闇に支配された天空に輝くは満天の星の数々と黄金色の月。

 窓より降り注ぐ神秘的な光に照らされた端正な顔。それに刻まれし表情は暗く、ある種の悲壮感にも似た色彩を帯びていた。

 女の名はアリシア。この国に唯一存在する『聖騎士』の称号を持つ高位の騎士。

 アリシアは、ふと室内に供えられた卓上へと視線を向けた。

 そこにあるのは、質素な鞘に収められた一振りの剣。

 入念な手入れや、幾回にも亘る修理が施されているものの、古ぼけた印象が拭えぬ代物。だが、剣全体より放たれる覇気にも似た気配は紛れもなき業物の証。長年に亘り、高名な武人へと受け継がれ、そして彼らに様々な輝かしき功績をもたらした古猛者であった。

 その歴史は今の持ち主である女の人生よりも長く、かつては高名なる聖騎士であった彼女の祖母によって振るわれ、幾多の国難を救ったと伝えられている。

 半ば伝承上の代物と化した、由緒正しき『無銘の剣』であった。

 女は、まるでその不可視なる気配に魅入られたかのように、その剣をじっと見つめていた。

 窓より降り注ぐ月明かりが剣の柄に反し、彼女の灰色がかった瞳に映し出される。

 彼女はその光に向かい、問いかけた。

「本当に、これでよかったのか?」──と。

 これは、彼女が故郷の街より旅立ってから二月余の間、毎夜の如く繰り返し続けてきた問い。

 いや、『旅立って』からではない。

 正確には、彼女が故郷の街より『追放』されてからの──

『追放』の原因。それは、たった一人の少女を守ったがため。

 世に対する贖罪の為、周囲が求める『死』を拒み、敢えて生の道を望んだ少女──五十年前、この国を恐怖に陥れ、内乱にまで発展させた人物を祖母に持つ尼僧・セリアの意思を尊重したがため。

 しかし、そんな彼女の前に立ちはだかる現実の壁は残酷なまでに厚く、その壁に抗いし者達に向けられたのは凄惨なる仕打ちであった。

 国内有数の宗教都市である故郷を実質上支配している大聖堂との対立。そして、これら権力者に媚びる事しか知らぬ愚か者らからの執拗な脅嚇。

 権力者のうちセリアの素姓を知る者は、おのれの政治的地位の向上の為に、かつての国賊、その血族の『死』を求めた。

 アリシアとも縁の深い祖父母の親友、その養女であるだけに過ぎぬ、罪なき少女の『死』を。

 無論、アリシアはその要求を頑なに拒否。彼女は心なき権力者に刃を向ける決意をしたのだ。

 故郷である西方の宗教都市──聖都グリフォン・テイルを支配する大聖堂に属し、罪なき少女の『死』を餌にしてまで政争に明け暮れる高僧達に。

 だが、その決意の代償はあまりにも大きかった。

 二派に分かれて政争に明け暮れる大聖堂、そしてアリシアら騎士隊の三つ巴の戦いの末、政争の最前線にいた二人の高僧が死に至った。

 そして、アリシアは騎士隊の代表として、責任を問われる形で故郷を『追放』されたのだ。

 それが二ヶ月前。旅立ちの契機となった出来事である。

 その日より、アリシアの夜毎の自問が始まったのだ。

 彼女とて、セリアを守った事に関しては何の後悔もない。騎士として罪なき少女を守っただけに過ぎぬないのだから。

 騎士とは防人である。この世に存在する様々な悪意より、人々を守る貴人。それ故、騎士は何よりも人々の幸福を──公益に重きを置いた行動を求められる宿命を背負う義務がある。

 だが、今の自分はどうか?

 少女を守るために奔走した結果、大聖堂の中核を担う二人の高僧を死に追いやり、それによる混乱を聖職者らのみならず街に住まう一般の人々にまで波及させたてしまったのだ。

 そう、傍目から見れば、騎士の存在意義とは逆の結果を出しただけに過ぎぬ。

 自分に与えられし、高位の騎士に与えられる『聖騎士』の称号。

 それが今の自分にとって如何に重く、如何に不釣り合いか。

 アリシアにとって、この二ヶ月の旅路は、おのれの無力という現実への直面を余儀なくされた日々であると言えよう。

 まるで茨の中で眠っているかのような、そんな痛みを伴った事実との──

「祖母上様──もし貴女なら、どのような答えを導き出されていたのでしょうか?」

 聖騎士は夜空に問いかける。

 ありもしない、答えを求めて──

 

 少女は震えていた。

 悩める女聖騎士の隣の部屋。アリシアと同じ空と月を眺め、彼女もまた苦悩していた。

 ──どうすれば『贖罪』となるのかを。

 黒髪の尼僧セリアは、両の腕で震えるおのれの体を抱きしめていた。

 肉の下に流れる血、その源流たる人物の恐ろしさを実感して。

 彼女の祖母にして、その始祖の名は──ソレイア。

 類稀なる美貌の持ち主にして、人心の隙を嗅ぎわけ。付け入る嗅覚と弁舌、これを利用し、おのれの無限とも称すべき欲望を叶える為に最も効率のよい手段を瞬時に計算する知性と、そして常人が目を背けたくなるほどの悪事すら厭わぬ狂気──これら全てを兼ね備えた稀代の天才。

 かつて西の聖都に活動拠点を置く一介の議員にして聖職者に過ぎなかったソレイアはこれらの才能を生かし、甘言や詭計を用いて実権を握ると、かねてより手を組んでいた錬金術師と魔物の勢力を用いて自らに異を唱える者を全て排除し、そこに自分を君主とした新たな国を興した。

 その国の名は──神聖ソレイア公国。

 そして、配下として集めた多くの錬金術師たちの力を利用し、非合法な人体実験によって編み出された様々な秘術によって、瞬く間に巨万の富を得ると、たったの一年で大陸の半分をその影響下へ置くに至ったという。

 その影響は五十年経った今もなお、まさに遅行性の毒が体を蝕むが如く大陸全体を蝕み、姿形を変えて残存していた。

 この国の民衆は貧しくとも、概ね善良な心をもっていたという。

 しかし、人々は口を揃えて言う。

「あの戦いの日を境に、全てが変わってしまったのだ」と。

 平和となった今、先人の復興に対する努力によって、表面上はかつての生活が戻ったかのように見える。

 しかし、人々の『本質』はどうか?

 ──あの戦により、最も運命を狂わされた者達が存在する。

 それは、ソレイアを討った騎士団でも、それに追従した神の信徒でもない。

 当時、ソレイアの甘言に乗り、その悪事に加担してしまった貴族や豪族たち、そして、それらを支持していた一部の民衆らである。

 彼らはソレイアと共に様々な悪事を繰り返し、大陸中の敵意を一身に集めていたのである。戦後、囂々たる非難を浴び、協力者のうち貴族や豪族らはその身分を剥奪。そして、そんな者達を支持していた平民も厳罰に処されたという。

 無論、それは当然の処置である。

 しかし、人の心とは時に悪魔すらも恐れ慄くほど冷酷な面を晒す。

 そう。これだけで全てが終わらなかったのである。

 罰を受け、全てを失ってようやと放免となった彼らに対し、世間は寒冷地の家屋の屋根に垂れ下がる氷柱の如き冷たさと鋭さをもってこれらを出迎えた。

 全てを失った彼らを待ち受けていたのは、容赦なき迫害の日々。

 無慈悲な私刑は執拗の極みであった。それは非難の対象であった者達の死後、その矛先は、関係者や子孫にも容赦なく向けられる事となるほど。

 発端が彼らの祖先が犯した罪であるが故、非難することが即ち正義と信じて疑わぬ攻撃者には、加減や手心という概念など持ち合わせておらず、こうして人々の心を巣食った『正義』は、日を追うごとに限りなく歪み、肥大していった。

 無秩序に、そして無責任に──

 セリアが聖騎士アリシアと行動を共にして二ヶ月。

 旅路の中、立ち寄った集落や街の至るところで、その『無責任な正義』を象徴する出来事を嫌というほどに見せ付けられていた。

 殆どの街の貧民街。その最奥に『区画』と呼ばれる大きな壁によって隔たれた一角が存在している。

 昼間も陽の光すら差し込まぬ内部には、被差別階級の者達が隔離されており、そこに住まう者の惨めな暮らしを垣間見る事が出来た。

 そして、為政者も隔離をした理由に関しては「街の者同士が不必要な争いを起こさぬため」と説明するのが精々。最も根幹の問題である不当な迫害に対して言及する者は皆無。

 だが、それも元を辿れば、自分の祖母の手によって引き起こされた戦による人心の腐敗に起因しているのだ。

 末裔であるセリアにとって、この事実は耐えられる話ではなかった。心が張り裂けそうなほどの痛みの中、尼僧は堪らず涙を流す。

 しかし、絶望はしてはいなかった。

 彼女は近日、ある人物と会う事となっていたからである。

 ──錬金術師。

 かつてソレイアに囲われ、その悪事に加担し、戦後、罰に処され、民衆からの執拗な非難や迫害を受けた者達である。

 しかし、彼らは酷烈な迫害、冷徹な世論に真正面から向き合い、五十年経った今も、世代を超えて生き残り続けていた。

 その様は、大罪人を祖母に持つ彼女に重なる点が多く、その生き様より学ぶ事は多いはずである。

 セリアは、このグリフォン・アイの街に駐留する騎士隊の計らいにて、『区画』内にて私塾を開いている錬金術師に話を聞く約束を取り付けていたのである。

 彼女は期待に胸を膨らませていた。

 恐らく──いや、間違いなく、その人物との対話は、おのれの人生を照らしだす指標の役割を果たしてくれるはず。

 そう、心より信じていた。

「セティ様。どうかこの私に、幸ある道をお示し下さい──」

 満天の星空へ向かい、今は亡き大恩ある養母にして、かつて聖職者の頂点の座に君臨していた聖人の名を唱えていた。

 

 寝台に腰をかけ、窓に背を向けた青年は、ある一点をじっと見つめたまま、沈黙を続けていた。

 その視線の先にあるのは、壁際に無造作に置かれた彼の装束。

 騎士の甲冑。

 世に蔓延る様々な脅威より弱者を守る武人、騎士の象徴ともいえる品であり、同時に彼の身分を示す証である。

 幾つもの部品によって構成されているこれらのうち、彼が見つめているのは、胸当てにあたる部分。

 本来、所属を表す文様が刻まれているはずの箇所にあるのは、何かを荒々しく削り取った痕跡。

 青年ウェルトは従姉であるアリシアとともに、西方の果てにある聖都グリフォン・テイルを守衛する騎士隊に属する騎士であった。

 そして、彼もまたセリアに対する『死』を求めた聖都の権力者に抵抗するアリシアに同調し、そして、同様に故郷である宗教都市より追放された身。

 胸当ての痕跡は、旅立ちの際にウェルトが自ら削り落としたものであった。

 名誉を重んずる騎士にとって、この文様とは、おのれの身分を明かすものであり、名誉の象徴。それを自ら除くような事など、あってはならぬ事である。

 しかし、ウェルトは敢えて、その名誉の象徴を自らの手で削り落としたのだった。

 かつての英雄『双翼の聖騎士』の系譜。その傍系に属する彼の姓クラウザー家。その家に与えられた役割とは──『陰』。

 直系であるクラルラット家の嫡子アリシアを支える事である。

 だが、彼がアリシアに従い、同じく追放者となった理由はそれだけではない。

 呪われた出生ゆえに、繰り返された周囲の『死』の要求を撥ね退け、贖罪の道を選んだセリア。

 そして、そんな彼女を聖騎士として守る道を選んだアリシア。

 ウェルトは、その決意を固めた二人の内に真の正義を見出していたのである。

 騎士として。

 英雄の子孫として。

 そして人間として──

 だからこそ、彼は騎士隊という組織を離れ、おのれの信念に殉じる貴人に従う道を選んだのだ。

 胸当ての傷は、そんな組織との決別の証にして彼なりの決意の証。

 一見、不名誉にも見えるこれを、ウェルトは心より誇りに思っていた。

 聖騎士アリシアという『陽』を支える役目を宿命づけられた『陰』の人物にとって、これこそが最大の矜持。

 今、その彼女は自らの選択の末に待ち受ける運命に不安を感じ、怯え、震えている事だろう。

 ウェルトは両目を閉じる。

 自分の役目は、そんな彼女に今後襲いかかるであろう脅威より守り、そして、それを取り除く事。

 ──明日、アリシアとセリアは、とある錬金術師と面会を行う。

 贖罪の道を歩むセリアは無論の事、それを守る道を選んだアリシアにとっても、明日という日は極めて密度の濃い一日となることだろう。

 ウェルトは如何にすれば、その一日を無事に、そして有意義に過ごさせることが出来るのか──ただ、それだけを考えていた。

 

 故郷を追われた三人の若者の旅は、まだ始まったばかりであった。

 誰ひとりとして、中断も、脱落も許されぬ。

 それが、凄惨なる運命の幕開けであったとしても──

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 翌日。

 ウェルト、アリシア、セリアの三人の姿はグリフォン・アイの街にある貧民街の奥にある『区画』の中にあった。

『区画』を仕切る壁や、街のいたるところに聳える高き建造物に遮蔽され、昼間であれども陽光が差し込む事は極めて稀であり、そこはさながら宵の口のよう。

 道もまた複雑に入り込んでおり、ランプを手にして先導する案内役──グリフォン・アイ騎士隊の男がいなければ、たちまちのうちに迷っていたのかもしれない。

 アリシアは、ふと周囲を見遣る。

 先導役が持つランプに翳され、通りに佇む者や行き交う者の姿の詳細を照らし出されていた。

 誰もがみな、その顔には一切の覇気などなく、ただ、黙してその場に座り込むか、宛てもなく辺りを彷徨い歩く。

 定職はおろか、その日の食事にも満足に得られぬのだろう。

 ──しかし、奇妙だ。

 その時、アリシアは疑問を抱いた。

 今、通りを歩いているのは騎士と僧。

 剣や甲冑、盾。そしてセリアの持つ戦鎚、そして、各々が懐に持っている銭袋──

 その装いたるや、まさに金目の物の塊である。にも関わらず、『区画』内を歩いて小一時間。誰一人として、そんな自分たちに干渉するものがいなかったのである。

 物取りや物乞いの類ですら。

「──我々が最低限の仕事を斡旋しているのです。ですから、彼らも悪事に手を染めずに、なんとか持ち堪えているのです」

 先導する騎士がアリシアの疑問を察し、小さな声で答えた。

「ですが、騎士隊として彼らに世話をできるのは、街を巡回する番兵の仕事が精々。しかし、その仕事は一般の方々も従事しているがゆえ、彼らの素性が露見してしまわぬよう細心の注意を払わねばなりません。それでも時折、察しのいい者が事実を知り、不必要な揉め事を起こしているのが実情でありますが」

「騎士として、この現状を改善しようと考えてはいないのか?」

 このウェルトの問いに、先導する騎士は静かに首を横に振る。

 そして、心底悔しげな声で答えた。

「人道に従い、我々が表だってこの問題に介入すれば、おのずとこの『区画』の住民らに肩入れすることとなります。それは即ち、彼らを蔑視する多くの民を悪と見なすと同義。そうなれば、どのような反発が起こるか知れたものではありません」

 そして、彼は最後にこうも付け加えた。

 ──騎士隊は、過去に幾度とこの問題に取り組み、街はその度に暴動と鎮圧を繰り返しては、街のみならず『区画』内の者達に多くの被害を出してきたのだと。

「もはや『区画』内の民に、次の暴動に耐える余力は残されてはおりません。最早、我々にできる事は、彼らに最低限の生活が出来るよう、秘密裏に手を尽くす事──ただ、それだけなのです」

「どうして……」

 セリアは天を仰ぎ、天に祈りを捧げた。

「どうして、そこまでして人を蔑まなければいけないのですか──」

 嘆きの言葉を聞き、二人の騎士は目を伏せた。

 この国に存在している差別の現状──その真因は彼女の祖母にある。

 それを今、目の前に突きつけられている。その重圧たるや、二人の騎士には全く想像する事は出来ぬ。

 多くの言葉をもってすれば、正論をもってして説得を試みる事はできるだろう。だが、その心労を理解せぬ者の言葉は、ただ徒に相手を混乱させるだけの愚行。

 故に、ウェルトもアリシアも、言葉を弄して彼女を慰める事はしなかった。

「──彼らもまた、弱い人間だからですよ」

 その時、答えを発した者がいた。

 声の主は、ウェルトでもアリシアでもなく──三人を先導する男であった。

 その声には、このグリフォン・アイの街を蝕む現状に対する怒りや、蔑み、或いは自嘲めいた感情などは一切感じられぬ。

『区画』内の住民を迫害する『一部の民衆達』に対する同情心さえうかがえた。

 そんな一言に込められた感情の起伏を感じ取ったアリシアは、一種の違和感を覚えた。

 騎士とて武人である。血気盛んな者達が多く、このような迫害が横行する現状に対し、怒りや嘆きなどの感情が先行するのが自然。

 しかし、眼前の彼はどうか?

『迫害をする側』を責めるような事をせぬどころか、同情心までをも併せ持つほどに理知的に振舞う様は、たとえ高潔な精神を持つ騎士であると言えども稀な反応である。

「貴方──まさか?」

 同じ印象をウェルトも抱いたのだろうか。同行する騎士に問うた。

 それは、眼前の人物に対する、本当の素性を質すため──つまり、その騎士の装いは擬態。その鎧姿の下にこそ彼の本質を隠してある。

 そう察したが故の問いであった。

 この突然の質問に、先導する騎士は一瞬、その顔に驚きの色を浮かべた。まるで心の急所を触れられたかの如く、その肉体は戦慄し、彼はその場に立ち止まった。

 数瞬の後、騎士姿の男がその顔に浮かべたのは、笑みだった。

 まるで、何かを諦めたかのような、そんな笑みであった。

「──流石は聖騎士アリシア様。そして聖騎士様を支える従騎士ウェルト殿」

 そして、頬を掻く。

「騙すつもりはありませんでした。ですが、流石に貴方達をこの入り組んだ暗い道に案内するのは、たとえ土地勘のある騎士隊の方々にも少し荷が重いでしょうし。……かと言って、私も何らかの変装を施さねば表通りに出られぬ身でありますからね」

「随分と手の込んだ偽装をしたものだな。まさか騎士隊の詰所で『区画』への案内を依頼した人間が、まさか、今から訪問する相手であったとは」

「我々『区画』内の住民は外の者達と徒に衝突を起こさぬよう秘密裏にではありますが、騎士隊の方々に全面的な協力をして下さっております。聖騎士様らが私に会いたがっていることを、わざわざ伝えていただくだけではなく、その為に、こうして変装の為の武装を用意して頂くなど、段取りをつけて頂いた事も、その一環」

「──なるほど。では貴方が?」

 アリシアに促されると、男はこれ以上の言い訳をやめ、いまだこの事態を飲み込めぬセリアに向かい一礼する。

 そして、言った。

「お初にお目にかかります。セリア殿。──私の名はルーセル。『錬金術師』ルーセルと申します」

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『錬金術師』ルーセルの家は『区画』内の最奥にあった。

 そこは『区画』内の子供たちに読み書きや、簡単な計算を教えている私塾でもあり、子供たちやその親らの唯一の交流の場──集会所としての役割を兼ねているという。

 しかし今日、生徒たる子供たちの姿はなく、教室と思しき広い室内は静まり返っていた。

 室内の中央の席、古ぼけた木製の椅子にはセリアが座り、彼女より卓を一つ挟んだ向かい側にある椅子に存在しているのは、部屋の主であるルーセルの姿。

 ウェルトとアリシアは、少し離れた席に座し、そんな二人の姿をじっと見届けていた。

 沈黙は長く、そして重い。

 その重さこそが、セリアとルーセル、各々が背に負いしものの重さ。それを互いに知るが故、二人は相手の立場を尊重し、慎重に話を切り出す時機を見計らっているかのようにも見えた。

 だからこそ、ウェルトもアリシアも、誰かを促すような事や、冗談をもって場を和ませるような事もせず、ただ見守る事に徹した。

「どうして貴方は」その時、セリアの口が動いた。「迫害されるとわかっているにも関わらず、錬金術の道を志したのですか?」

「世の発展に必要な技術であると信じているがためです」

 質問者に向かい、ルーセルは真摯な眼差しをもって応じた。

「皆様も御存じでしょう。錬金術が昔日の日々よりどれほど益を世にもたらしたのか。そして、それを行使する錬金術師が道を誤り、この世に如何に大きな傷跡を残したのかを。錬金術が有する力の大きさは、これらの歴史が証明していると言えるでしょう」

 ウェルトは、その言葉に得心し、小さく頷いた。

 事実、錬金術がこの世にもたらした益は大きい。

 蒸留技術の発達による酒の精製技術や、液体内の成分の抽出を可能とした事によって、様々な化学的な知識やそれを基とした、新たな技術の開発に最も貢献したと言えよう。

 また、これらで培われた知識は、今も尚、主に病の研究や薬学の分野に大きく生かされ、その発展に寄与している。

 錬金術とは、化学的手段を用いて卑金属から貴金属に精錬することのみではなく、人間を含めた生物の構造にも特化した技術でもあるのだ。

 しかし、その技術は五十年前の戦の折、敵であるソレイア──セリアの祖母の下、大きな変革と進化を遂げた。

 事もあろうか、最も悪い形で。

 ある時は、少女の脳を弄り、自我を奪っては、それを周辺地域の豪族らに性の奴隷として売り捌くことによって、大きな収入源とし、またある時は、人間や魔物の脳に埋め込み、その精神を操作しては、死すら恐れぬ兵を作り出す事の出来る技術を開発し、軍事力を急速に強化させていったのだ。

 質問者であるセリアの顔を見据え、真剣な眼差しで語る錬金術師が言い示しているのは、この錬金術の歴史──その真実。

 しかし、それでも錬金術は世の発展に必要な学問であるという切なる訴えでもあった。

 それを聞いたセリアは、一度、二度と頷いて聞いた後、更に問いかけた。

「かつての錬金術師は、その豊富な知識や知恵、技術の恩恵に与らんとする者達──名だたる貴族や豪族らによって雇われ、何不自由なく暮らせたと言われておりました。そんな錬金術師たちが、あの戦の折、大半が敵であるソレイア側につき、そして敗れ、凋落していったと聞きます。どうして、彼らがソレイア側についたのでしょうか? そして、その理由をルーセル様はどのように考えておられますか?」

「それは簡単です」錬金術師は間髪いれずに答えた。

「当時の錬金術師には、『自由』しかなかったのです」

 意味深長な言い回しであった。

 その言葉に、セリアのみならず傍観に徹していた二人の騎士も興味に駆られ、その視線を壮年の錬金術師へと向ける。

 全視線が集中した事を察したルーセルは、新たに加わった視線の主たるアリシアやウェルトも顔を一瞥し、そして言った。

「錬金術のみならず、様々な分野において保障されている自由とは、本来、一定の制限の範囲内でのみ適用されるべきもの。ですが、当時の錬金術においては、その自由の範囲を決める『規制』やそれを遵守する『義務』の概念が一切なかったのです。そして権力者の庇護下に置かれていたが故、たとえ人道に反する実験を行ったとしても、他人がそれを咎める事は困難であり、万一、それが白日のもとに晒されたとしてもその罪は揉み消され、不問とされる事が殆どであったといいます。そういった環境に慣れ続けた結果、本来、自由というものに付随するはずである規制や義務の必要性を忘れ、常人なら備わっているであろう能力を失っていきました」

「能力──とは?」

 来訪者の声が同調する。

 錬金術師は一度小さく頷き、質問者たる三人の顔を見回した。

「世の中と折り合いをつけ、適応させていくため、様々の人の意見を聞いて折衷させる能力。──世の中に氾濫している様々な批判の声に自ら耳を傾け、取捨選択し、反省すべき点を見出しては自らをより良い方向に変革させる勇気と言い換えてもいいでしょう」

「勇気……ですか?」

 釈然としない様子のセリアは小さく首を傾げた。

「ええ。我々の先人らは、他人から意見される事を嫌いました。貴人の庇護のもと自らを世の中から隔絶し、長きに亘り、自分の殻に閉じこもり続けた末、殆どの者が思考を偏らせ、社会に適応できなくなっていたと言われております。もし、彼らがこの時、世の中の批判の声に耳を塞がず、真正面から受け止め、折り合いをつけんと努めてさえいれば、あの戦は起こらなかったでしょう」

「しかし、現実は」ウェルトが語を継いだ。

「錬金術師の意識が変わる前に、ソレイアが現れ、世の声に耳を塞いでいた彼らに、安易な逃げ道を示し──そして、彼らはそれに従った」

「その通りです。先ほど、私は『様々な声を聞き、取捨選択すべき』と申し上げたのは、つまりはその点にあるのです。無論、ソレイアが指し示す逃げ道を使うのも選択肢のうちの一つであったのかも知れません。ですが、それは自分に対する賛否の意見のうち『賛』に属するもの。ならば、同じだけの『否』の声も取り入れ、客観的な判断を下すべきだったのです」

「情報の『取捨選択』とは『自分にとって都合のいい意見のみを聞き入れる事』にあらず──か」

 アリシアがそう言うと、その場に居合わせた者全員が、一斉に頷いた。

 錬金術師の話は尚も続く。

「結局、この国は内乱と言う悲劇に陥り、各地に消える事のない大きな傷跡を幾つも作ってしまいました。結果、錬金術師はその責を問われ、その身分ごと剥奪されたのです。まさに自業自得と言えるでしょう」

「では──」

 その時、セリアが意を決したかのように、質問の言葉を紡いだ。

「貴方は錬金術師の一人として、過去の大罪に対して、どう取り組まんと考えておりますか?」

 錬金術師は質問の真意を悟った。眼前の椅子に座する少女を見据え、その純真な輝きを放つ両眼をじっと見つめる。

 そのまま沈黙すること数瞬。ルーセルもまた意を決したかのように、しかし、穏やかな口調で語りだした。

「この忌まわしき過去を、錬金術師全体の問題として認識しなければなりません。過去の過ちがあるがゆえに、今の境遇があるという事を認め、再び錬金術というものが世の中に受け入れてもらえるような方法を模索し続けなければならないと考えております」

「──具体的には?」

 そう、ウェルトが問いかけると、ルーセルはまるで事前に用意された文言を唱えるかのような──一切の淀みもない口調で答えた。

「まずは自律の精神を持たねばならないと思っております。根本的な原因として、かつての錬金術師達には規律や規範、規制の意識が一切育っていなかった事が挙げられます。そうである以上、今までのような無責任な自由を放棄しなければ、いずれは再び我々の中から悪事を働く者が出てくるのは明白です」

「そうなれば、迫害は一層深刻なものとなるのは自明の理だな」

 ふと発せられたアリシアの言葉に錬金術師は「その通りです」と言い、頷く。

 そして、続けた。

「──ですから、そうなる前に我々の間で規定を作り、それを世に示し、徹底していく姿勢を見せる事。それこそが世間の信頼を取り戻す為の第一歩。未来の錬金術と世とをつなぐ楔となるものと考えております」

「だけど……」

 ウェルトは言った。納得がいかぬとばかりの調子で。

「昔みたいに、錬金術師であれば誰もが権力者の保護下に置かれていたような時代ならいざ知らず、今の錬金術師にはそれほどの力は持っていないだろう? にも関わらず、見知らぬ何処かの誰かが悪事を犯し、それがたまたま錬金術師だったというだけで、あたかも錬金術全体の問題であるように評されるのは、いささか理不尽だと思うけどな」

「確かにウェルト殿の言う通り、一定の範疇に収まる人たちを全て一緒くたにして考えるのは、馬鹿げたことかもしれません。ですが、犬の群れに襲われた過去を持つ者が、犬という種族自体に恐怖を怯えるようになるのも、また道理ではあるのです」

「だけど──」

「では、少し意地悪な質問をいたします

 言い淀む従騎士に対して、ルーセルはやや強い調子で言い放った。

「魔物と呼ばれる数多く種族の中に、無害な種が一つたりとも存在せぬと、この場で証明が出来ますか?」

 この問いにウェルトは衝撃を覚え、言葉を失った。

 いや、ウェルトのみならずアリシアやセリアは無論の事、この世に住まう賢者や識者を集めたとしても、決して明確な答えなど導かれる事のない問いであった。

『存在しない』事を証明することは極めて困難な事であり、時には人間の手に負えぬほどの膨大な時間と手間を要するものなのだから。

 そして、そのような事に一生を捧げるような好事家など存在せぬ。

「私を含め──人間というものは、興味や理解の及ばぬ範疇の中に悪しき実例が幾つか存在しているだけで偏見をもってしまうのは当然のことなのです。そんな人間である私が──自分の抱く全ての偏見を払拭したわけでもない私が、他者に向かって『錬金術師に偏見を持つな』などと虫のいい事を語り、世間を非難する資格などありません。だからこそ非難を受けている我々が行動をもってして、錬金術に対する信頼を勝ち得ていかねばならないのです」

 そして彼は続けた。

 ──そのために、一切の労苦を惜しんではならぬと。

「内戦終結後のこの五十年。錬金術師にとっては冬の時代であり、そして同時に動乱の時代でもありました。他人からの圧力を嫌い、昔のように無規律な自由を謳歌せんと考える者達と、自律の道を選ぶ者達の二派に分かれ、水面下での争いは今も続いているのです」

「争いか……」

 アリシアの表情が苦々しいものへと変じた。

「やはり、かの内戦で大きく減少したとはいえ、各地に存在する錬金術師たちをまとめ上げる事は難しいのだな」

「もともと、権力者らの庇護のもとで暮らしてきた人達ですからね」

 ルーセルは自嘲めいた笑みを浮かべた。

「でも、今は時代が違います。内戦の敗北により権力者から見捨てられ、その庇護から外れた以上、我々錬金術師は過去の過ちを認め、自立した集団として変化を遂げなければ、世間は納得してもらえない──許しては頂けないのです」

「では、貴方は──」

 そうウェルトが問うと、ルーセルは真摯な眼差しを彼に向け、一度頷く。

 そして、答えた。

「はい。お察しの通り、私は錬金術師の二派のうち『自律派』に属する者であります。これは全て──かつての戦の折、錬金術師でありながらもソレイア側につかず、騎士団とともに内戦の終結に尽力し、戦後は錬金術師の地位回復に努めた偉大なる錬金術師クラウスの教えに従っての事であります」

「迫害を受けている身であるにも関わらず、人道に沿った教えに従い、実際に行動を起こす勇気は称賛に値する」

「それもこれも、グリフォン・アイ騎士隊の陰ながらの支援がなければ成し遂げられぬ事」

 聖騎士の賛辞の言葉に、錬金術師の男は恭しく頭を下げた。

 その姿は、謙虚そのものに他ならぬ。

 それを見たウェルトとセリアは、この『区画』内で物取りや物乞いの類が一切存在していなかった理由を察した。

 ──この男がいたからだ、と。

 迫害によって困窮したとしても、悪事に手を染める人間を一人も出さずにいたのは、何よりも彼が中心となって、この『区画』内の人間達をまとめていたからであろう。

 いや、そのような素養を持つ人物が先頭に立たなければ、騎士隊の者達も『区画』内の住民らに対して、ここまで手厚くするような事はなかったはずである。

 現状こそが証左であった。迫害をなくすため、このルーセルという男こそが必要な人物であると誰もが認めているという事の。

 彼の掲げる思想──錬金術師の自律。それを実現させる為の覚悟は本物と知れた。

 三人は彼の姿勢に強く感銘を受けていた。

 そう。彼の存在こそ、同じく贖罪者の道を辿らんとするセリアの道を指し示す指標となるであろう。

 故に三人は、暫くはこの街に留まり彼の動向を見守ろうと心に誓っていた。

 ──その時だった。

 誰も来る予定のなかったこの部屋に、不意なる来客があった。

 それは十を超えた頃であろう、幼き少女。

 決して美少女というほどの容貌ではない。しかし、肩のあたりまで伸ばされた金色の髪と、大きな碧眼にて彩られた無垢な笑顔が印象的な愛嬌溢れる幼子であった。

 着飾れば、その愛らしさは存分に発揮できるであろう。だが、この幼子がその身にまとうのは、あまりにもみすぼらしき装い。

 薄汚れたシャツとズボンより露出しているのは、傷だらけの腕と脚。泥に汚れ、洗浄すら儘ならぬのか、これらの傷の一つ、二つからは、じゅくじゅくとした膿汁が滲んでいた。

 その様を見れば、外様の三人とて瞭然。

 この幼子こそ、『区画』内に住まう子供であり、また、この私塾にてルーセルより教育を受けている生徒であった。

 アリシアは、この小さな来訪者に笑顔をもって出迎えた。小さく両腕を広げ、走り寄る少女を抱き寄せんとする。

 だが、少女は聖騎士の横を、まるで一陣の風の如く通り抜けた。

 風の終着点はルーセルの膝の上。少女はまるで、此処こそが自分の居場所であると言わんがばかりに陣取っては、その座り心地の良さに満悦していた。

 ウェルトは、肩すかしを食らい呆然とする従姉の姿を笑わんとした刹那、その頬に当のアリシアより鉄拳による制裁が下された。

 他愛もない喧嘩を始める従姉弟らに、セリアは呆れ返り、小さく溜息をつくと、錬金術師と少女へ向き合った。

「──ルーセルさん。この子は?」

「グレイス!」

 ルーセルの膝の上より、快活な声が発せられる。

「グレイス──『神の恩寵』ですか」セリアは目を細めた。「良い名です。御両親はさぞかし信仰に篤い、敬虔な方なのですね」

 錬金術師は少女の髪を撫でた。

「この子の御両親が託し、遺した名です」

「──え?」

 錬金術師の言葉に、セリアのみならずウェルトやアリシアの動きが止まる。

「先程、私は──過去にこの街は幾度となくこの問題に取り組み、その度に暴動と鎮圧を繰り返し、『区画』内の者達に多くの被害を出してきた──そう、申し上げました」

「──!」

 この言葉で三人は察した。

 錬金術師の膝の上を唯一の居場所とする少女の──その、あまりにも不幸なる境遇を。

 三人は口を噤んだ。それ以上の言葉を紡ぐ事は出来ずに。

 そして、その瞳は同じ色を帯びた。同情という名の色に。

 悲しみに暮れる室内に、ルーセルの声が静かに鳴り響いた。

「私がこの活動に人生を捧げる本当の理由こそが、この子達なのです。教鞭を握る者として、この子達が大人となり、私より教育を受けた事をいつか誇りに思ってもらえるような──そんな人間になりたいと考えております。その為には人道を遵守し、人生を賭して、子供達の模範として生き続けねばならないのですから」

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 <5>

 

 グリフォン・アイの街、表通り。

『区画』内にて、錬金術師ルーセルとの面会を終えた三人は、彼への取り次ぎの段取りをつけてくれた教団の神殿長と、グリフォン・アイ騎士隊へ礼の言葉を述べる為、各々へと至るこの道を歩いていた。

 道中、行き交う街の住人らしき者達の表情は柔和そのものであり、まるでこの街に迫害という後ろ暗い問題など、潜在していないかのように見えた。

 しかし、ウェルトは思う。

 その印象は、あながち間違ってはいない、と。

 恐らく殆どの者が、あの問題に対して無関心なのが実情。それ故に、然程の意識もなく毎日を送っているのだと。

 無論、ウェルトは平和な暮らしを送っているだけの彼らを責めるつもりなど毛頭ない。

 実際、『区画』内の住人に迫害を行っているのは、一般の民衆のうち一部の過激な思想を持つ者達に過ぎぬのだろう。将来、あの問題が解決したのならば、その際に罰せられるべきなのは、暴挙に出た者達のみであり、所詮、傍観者に過ぎぬ彼らには、事実を公表し、各々がこれらの問題について考え、教訓とさせる機会を与えるだけで良い。

 その時、通りを行き交う人々を眺め、何かに気付いたセリアが立ち止まる。

「みなさん、胸に白い羽をつけているのですね? この街の、流行なのでしょうか?」

「──?」

 友の声を聞き、従騎士たる青年は思考を中断した。そして、興味に駆られ、彼もまた通りを行き交う人々の服装に目を向ける。

 流石は王都に近い東方地域というべきか、一般の者達が纏う服装ですら華やかにして瀟洒。宗教都市に近く、素朴で質素な服装が好まれる西方とは全く異なる文化が根付いているように見えた。

 そんななか、確かにセリアの言う通り、胸元に純白の羽根を飾っている人が目についた。頻度にして二十人、或いは三十人に一人といったところであろうか。

 これらの装飾は主に若者が中心に広まっているようであった。傍目にはセリアの言う通り、若者の間で流行っている装飾品と推察する。

「──妙だね」

「──ああ」

 ウェルトとアリシアが不可解そうに首を捻る。

 これらの羽根を胸に付けている若者──その殆どは男によって占められていた。

 あの羽根が流行の装飾品という事ならば、最もこれを身につけるはずであろう対象は──自分を着飾る事に執着しがちな、若い女性であるのが常。

 そして本来、装飾品というものは身につける服の色との調和を考えて選択するのが常識。それに従って考えるのならば、彼らの纏う衣服の色合いはある程度は似偏るのが当然。

 にも関わらず、彼らの身につけている服の色はあまりにも多種多様過ぎており、それどころか、一見して明らかに服装に無頓着であろう者の胸にすら、その羽根飾りが見受けられた。

 御世辞にも、風姿としての考慮が成されているようには見受けられぬ。

 それゆえ、女であるセリアが、二人の騎士の抱く疑念を察するのは容易かった。

「……という事は、あの羽根飾りは装飾品ではなく、何らかの身分や所属を明かすものという事ですか?」

「そうなると比較的若い男が多く参加している組織という事になるけど……」と、ウェルト。

「だとすると、なかなかに大きな規模の組織になる」

 アリシアが不可解と言わんがばかりの様子で首をひねる。

「わが国では結社の自由を認めているが、治安維持の一環として、騎士団は実態を把握し、各地の騎士隊に通達が成されるのが原則。にも関わらず、騎士団の一員である私やウェルトが一切知らぬのは甚だ奇妙」

 歩みを止め、思案に耽ろうとする従姉の難しい顔を一瞥し、ウェルトは大げさに嘆息し──

「──そう言って眉間に皺寄せているけどさ、従姉さん」

 そして、軽く茶化した。

「ここから聖都までは馬を使っても一ヶ月。徒歩だと優にその倍はかかる旅路。何らかの理由で情報が伝わってこなかった事なんて、よくある事じゃないか。多分、この件もその類だったんじゃないかな?」

「……そう、かもな」

 不要な勘繰りを、従騎士である従弟に諌められたアリシアは、その顔に引き攣った笑みを浮かべる。

 恐らく、照れ隠しのつもりなのだろうが、何一つ隠し切れていないのは、この聖騎士の不器用なところなのだろう。

 ──従姉さん、全然納得していないな。

 ウェルトはそう、心の中で呟く。

 そして──『まぁ、それは僕も同じだけどね』とも。

 でも、それを解明するのは今ではない。暫く、この街に身を置くことを決めたのだから、あの白い羽飾りの男達の素性も、おのずと判明することだろう。

 従騎士は、そんな気がしてならなかった。

 

 各々が、自らの思想に耽り歩くその道中。三人は今まさに、領主の館の前に差しかからんとしていた。

「なんだ、あれは?」

 その時、アリシアが声を上げる。

 彼らの視界に飛び込んできたのは──人の群れ。

 集いし人の数は軽く百を超えていた。

「行ってみよう」

 ウェルトは好奇心に駆られ、人の群れに向かい駆け出す。

 見れば、その群衆は上方に掲げられている高札に視線を向けていた。

 その咄嗟の行動に驚いたセリアも慌てて、彼の後ろを追う。

「どうも、この街というものは不可解な出来事が頻繁に起きるようだな」

 そんななか、アリシアだけがゆっくりと続いた。

「『区画』の住民に対する迫害。そして、着用者に不似合いな純白の羽飾り。そして、領主が掲げたと思しき高札。──何か良くない事の前触れでなければいいのだが」

 

 領主の館の前に掲げられた高札。

 そこに記された文言を読み終えたウェルトは、思わず我が目を疑っていた。

「──正気なのか?」

 思わず、そう呟く。

「ウェルトさん、どうされたのですか?」

 その時、追いついたセリアが、ウェルトの背中にそう呼びかける。

 高札に掲げられた文言より受けた衝撃、その強さのあまり、ウェルトは追って来た彼女の接近に気付かず、ただそこへと向け、鋭くも批難めいた視線を向けていた。

「──?」

 セリアはその所作が示す意図を掴めずにいた。

 ただ、彼の視線の先にある高札──そこに記されている内容を読む。

「──!」

 そして、尼僧は騎士の真意を知る事となる。

 高札には、こう記されていた。

『西の都市グリフォン・シンでは魔物の被害が続出している。その原因として昔日より大規模な騎士隊の派遣による恩恵を受け続けていたこの街にあるとして批判が噴出。王都議会はこの批判を受け、今月中に駐留している騎士隊の規模を半減させることを決定した。しかし、これでは街を魔物より守りきる事は叶わぬ。私も領主として王都に幾度となく陳情したが却下され、既にこれ以上の手段なく途方に暮れている有様』

 これはまさに、魔物の被害からの民衆の保護という、国家の義務を半ば放棄するようなもの。

 それを、たった一つの集落──それも何の責任もない住民らの苦情一つで安易に議会は動かされ、決定が下されたという事である。

 この決定は騎士でも貴族でもない──即ち、防衛や政治の素人たるセリアでも、瞬時に『論外』と評すことができるほどの粗末さであった。

 ──そして、これらの文句の後にはこう続いていた。

『今日より、騎士隊撤退までの間、館の門扉を開放する。賢く、誇り高きグリフォン・アイの民よ。名案のある者は遠慮なく訪れ、どうかその知恵を貸してほしい。この問題を解決し賢者には、望むままの褒美をここに約束するものなり』

 

 アリシアは震えていた。

 このグリフォン・アイの周辺には、魔物の巣穴が多く存在していると言われている岩山や森林が彼方此方に存在しており、それゆえ、街はこれらの襲撃を受け続けてきたのだ。

 その過酷な環境に改善の兆しが現れたのは今から五十年前。この街を襲った、とある悲劇の教訓より、駐留させる騎士隊の規模を倍増。更には街の周辺に、魔物の侵入を防ぐための防護壁や見張り櫓の設置が施されて以降、被害は激減。不安が払拭された事により、街の治安も回復したという。

 その平和の基盤を支えていたのは紛れもなく、このグリフォン・アイに駐留する騎士隊の者達によるものであるのは明白。

 愚かにも王都議会は、そして──その決定を承認した王家は、その基盤を破壊せんとしているのだ。

 その粗忽さに、聖騎士は言葉を失っていた。

 しかし、彼女が震えているのは、これら貴人が下した愚かな決断に対する『怒り』ではない。

 ──『恐怖』であった。

 その感情の対象となったのは、眼前にて集う群集。

 グリフォン・アイの住民たちであった。

 高札の周囲に集い、騒然とする彼らの表情は、さながら未発掘の金鉱脈地に挑まんとする鉱夫の如し。

 今、天秤にかけられんとしているのは、今現在、神話の領域に達さんとしているこの街の『平和』であり『安全の基盤』であるのだ。

 だが、彼らの両眼は、高札に記されているや『褒美』の文字しか見えてはおらぬかのよう。

 彼らは皆、魔物の脅威を知らずに育った者達である。魔物が街を蹂躙する、その真の恐ろしさを──この世に住まう者ならば、人生の内に一度は経験するであろう惨憺たる様を知らぬがゆえ、事の重大さに気付かぬのだろう。

 アリシアは魔物と戦う事を生業とし、その残酷性を熟知する騎士の一人として、彼らの無知に底知れぬ恐怖を覚えていたのだった。

「──!」

 その時、彼女に更なる強烈な怖気が襲った。

 彼女の耳朶を打つ言葉があり、それが原因であった。不審を覚えたアリシアは、その声の主を探し、そして見つけた。

 それは、成人した男であった──既に、領主が求める名案とやらが思いついたのだろうか、その顔はしたりげな笑みを浮かべ、視線は、幻想上の産物──領主から与えられる身分や報酬による恩恵を妄想しているのか、現実へと向けられてはいない。

 彼女が怖気を覚えたのは、そんな間の抜けた姿ではない。

 彼の口から独り言として発せられた、その名案とやらであった。

『区画』の連中にやらせればいい。

 それは、あまりにも荒唐無稽であり、採用されるはずもない内容であった。

 話にならぬ──そう切り捨てるべき愚案。

 しかし、そんな無責任な意見を、悪意めいた表情一つせずに思いつくとい自分の愚かさに一切の疑問を持たぬ様に、アリシアは戦慄を覚えたのだった。

 そして、そんな愚者は、彼だけではなかった。

 その男の言葉を聞き、それが合図になったかの如く、騒ぎ立てる群集の声に隠れるかのように、一人、また一人と、まるで怨嗟の呪文の如き呟き声を発する者が現れた。

 彼らの口から発せられる内容も、先刻の男と同様、防衛規模の削減による不備を『区画』内の住民らに押し着せんとする内容。

 具体的な内容、その言葉の一字一句こそ若干の違いはあれども、彼らの意見は大同小異という言葉の範疇に収まる類のもの。

 この現象こそが、このグリフォン・アイの街に根付いている迫害行為が常日頃より横行している証左であったのだ。

 ──なんという事だ。

 聖騎士は、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 自分は毒されかけていたのだ。街を緩やかに包む、この穏やかな空気に。

 この街に陰湿にして凄惨な現実が潜んでいるにも関わらず、そういった意識すらをも瞬時にぼかしてしまうかのような気配。

 それはまさに、長い間、安寧に慣れ過ぎてしまったがゆえに生まれた『毒気』であるとも言えよう。

『毒気』に侵されているがゆえに、人々の殆どが『区画』内の現実に目を向けようともせず──

『毒気』に侵されているがゆえに、心なき迫害を受けている者達の辛苦の声に耳を傾けようともせず──

 そして、その『毒気』に侵されているがゆえに、安寧を脅かす状況に陥っても、真剣に向き合おうとすらせぬ。

 まさに、心を腐らせる毒──痛みすら感じる事のない、最も性質の悪い毒であると言えよう。

 アリシアは群集からも、高札からも目を離し、天を仰いだ。

 そこには雲ひとつない、穏やかなる午後の太陽が、下界に温かい光を注いでいる。

 しかし、銀髪の女聖騎士は、その空に、このグリフォン・アイの街を覆う暗雲を見たような、そんな気がしてならなかった。

 そして、同時にこうも思う。

 五十年前、この街が悲劇に陥った時も、このような穏やかな空の日だったのではないか──とも。

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 <6>

 

 領主の館、最上階にある一室。

 寝台や壁に掛けられている絵画をはじめとし、調度品一つに至るまで、室内に存在するあらゆるもの全てが、国内でも名高い職人の手で造られた室内。

 まるで貴人の部屋の様相。

 そこは賓客が一定期間滞在する為の部屋であり、そこは会議の折、国の要人や外部の有識者を招待するために利用される部屋であった。

 そんな貴人の部屋は今、二人の客を迎えていた。

 一人は窓際に立つ壮年の男。先日、王家の使者として、この館の主──グリフォン・アイ領主に書簡を届けに参じた男。

 そして、もう一人はその隣に立つ少女。

 歳の頃は十六、七。長衣を纏う赤髪の女。

 顔には不機嫌そうな感情を浮かべ、その非難めいた視線を、眼下に望む色めき立つ群集へと向けていた。

「──これは、どういう事よ?」少女は堪らず、声を発した。

「今月中に騎士隊の半数を撤退させるのが決まっているのだから、混乱が起きないよう、粛々と進めていればよかったのではないの?」

「そうはいくまい」

 非難の声の対象となった、壮年の男は答えた。

「今まで騎士隊は、防衛面において街を支えてきたのだ。それを知らせぬ訳にはいかないだろう。そして、彼らにはそれを知る権利がある」

「──ただ知らせるのなら兎も角、広く案を募るために館を開放するというのは如何なものかしら?」

「それが、領主殿のお望みならば仕方があるまい」

「素晴らしい領主様ですこと」

 馬鹿馬鹿しい──そう言いたげに、少女は鼻で笑った。

「どこまで愚かなのかしら? あんな屑にも劣る民衆の知恵とやらを信用するなんてさ」

「貴女らしい意見ですな──いや、彼らに迫害を受けている錬金術師らしい意見、と言った方が良いか?」

「そうね」

 少女は自嘲めいた笑みを浮かべ、頷いた。

「私にとって、この街がどうなろうと知った事ではない。私を錬金術師であるというだけで迫害してくる馬鹿な民衆を潰してくれるだけでいいのだからね。だからこそ、私は貴方達の活動に乗っただけの事」

 と、隣に立つ男へと視線を向ける。

 正確には──彼の胸元に飾られている、純白の羽根に。

 その羽根こそ、とある新興宗教教団に属する証であると、少女は聞いていた。

 その教えとは至極単純である。

 ──おのれを肯定せよ。自分の意思を抑制し、否定する事なかれ。

 その教えに従い、彼は今の国の現状を憂い、国威を回復させるために活動しているという。

 その為には、社会の構造そのものを作り替える必要性があるとして、それ故に、民衆に大きな犠牲を強いる事を厭わぬと。

 無論、一介の錬金術師である少女にとって、彼らの教義や理想には何の興味もなかった。

 しかし、彼とは幾つかの点において利害の一致があった為、今こうして手を組んでいる。

 それは彼女が胸中に抱く、民衆に対する反発的な感情に起因していた。

 錬金術師は、五十年前の大戦の折、隆盛であった敵ソレイアの尻馬に乗る者が多く、そしてソレイアが敗北を喫した結果、凋落し、迫害を受けるに至ったという経緯を持つ。

 それ故、民衆に対する怨恨の感情を持つ錬金術師も少なくはない。

 だが、彼女が彼と手を組んだ理由はそれだけではない。

 両者の間に交わされた『密約』にあった。

 彼が目的を達した暁には、自由な研究を可能とさせ、その資金援助や法的な保護を約束するというものであった。

 これこそが、少女が心より望んでいた事。迫害のない自由な日々──それがいつの日か復活するものと夢見る彼女にとって、彼の存在は、まさに僥倖。

 そして、それはこの王家の使者にとっても利点がある事でもあった。

 世の発展に欠かせぬ技術開発の基盤である錬金術師を自分のもとに抱えておく事は、今後の政権運営──主に資金面において、大きな力を握る事となるのだ。

「しかし、なかなかに強かな貴族様よ。自分の目的を達する為に、このような工作に出るとはね」

「言葉を選べ、シンシア。我々は近隣地域の惨状を調べ上げ、それを国王陛下に陳情し、議会での議論の末に出た結論を、伝えに来たに過ぎぬ」

「──ふん」

 シンシアと呼ばれた錬金術師の少女は、鼻を鳴らした。

「ならば、魔物の被害が顕著な近隣地域に出向き、グリフォン・アイにおける過剰防衛の情報を漏洩しては、住民の反発を誘発させたのは誰なのだろうな?」

「私が仕組んだことだと?」貴族の男は、少女の皮肉を一笑に付した。「これは心外」

「──なんだと?」

「私は事実を公開しただけに過ぎない。それに対して怒り、改善を求めたのは『彼ら』だ。私は貴人の義務として、その辛苦の声を集めたのみ。称賛されこそすれ、非難される筋合いはないな」

「貴人である貴様が下々の判断に対し、何の責任も取らぬとは、随分とお粗末ではないか?」

「『責任』──とは?」

 男は理解できぬといった様子で言った。

「無論、彼らの声を議会へと持ち込んだ私にも責任はあろう。だが、彼らとて同様の厚遇を求める事も出来たはず。しかし、彼らはそれをしなかったのだ。そして、その判断を下したのは他の誰でもない。近隣地域の住民である。それ故、彼らにこそ最も重き責任があるのだよ」

「もし、騎士隊の半数撤退によって、この街が壊滅的な被害を受けたとしても?」

「無論」貴人の男は即答した。

「彼らにこそ、その『責任』を問われるべきである」

 その純然たる眼差しに射抜かれ、シンシアは全身に怖気を感じた。

 しかし同時に、その言葉に錬金術師の少女は心強さをも感じていた。

 錬金術師に──自分に不当な迫害を行っているのは、彼らのような一般の者達である。自分が先人のように当時の権力者の庇護の下にて悪事を働き、そして、その権力者と同じく凋落していたのならば、今の境遇も自業自得と考え、諦める事も出来よう。

 だが、かつて権力の甘い蜜を啜っていたのは五十年前に生きた先人達である。現在その殆どはこの世を去っており、残された者達は、そのような蜜の味など知らぬ。

 にも関わらず、錬金術師に対する迫害は今も執拗。その手は緩む事を知らぬ。

 迫害の発端は、先人が犯した罪であるが故、民衆はこれを非難し、蔑み、糾弾する事こそ正義と信じて疑わず、そんな歪んだ正義だけが今に至るまで脈々と受け継がれていたのだ。

 私刑を受け、心身ともに傷を負った錬金術師は数多。

 伝聞では、その末に命を落とした者もいるという。

 そして、そのいずれの場合においても、誰かが明確な責任を負った例がない。

 時の権力者は、事実上の被差別者である錬金術師に味方するような事などしようとはせず、その悉くが有耶無耶のまま歴史の闇に葬られたのだ。

 そんな責任なき正義の行使者に鉄槌を下す事が出来る──

 長きに亘り、被差別者の身分に甘んじてきたシンシアにとって、これが如何に魅力的な事であろうか?

 そして今、その為に動きださんとする貴人に協力せぬ理由があろうか?

 だからこそ、錬金術師はこれ以上の言及も非難もしなかった。

 シンシアは再び窓の外へと視線を向ける。

 門の前に掲げられた高札の前には既に人の姿は殆どなく、そこは不気味な静寂に包まれていた。

「──?」

 その時、少女は気付いた。

 殆どの者が立ち去った高札の前に、じっと佇む三人の人物の存在に。

 甲冑に身を包んだ若者が二人、そして神官衣を纏いし少女が一人。

 二人の白銀に輝く甲冑は、まさに騎士が身に纏うそれに相応しき重厚さを誇っていた。

 ──騎士隊の者であろうか?

 しかし、その鎧は東方地方にある騎士隊の意匠ではない。

「あれは──西の聖都を守衛する騎士隊の鎧」

 甲冑の正体に気付いたのだろうか。隣に立つ貴人の男が驚き、声を発した。

「聖都の騎士?」

「ああ」男は頷いた。

「『双翼の聖騎士』の末裔を擁する騎士隊だ」

 男の視線は、眼下に立つ二人の騎士へと釘付けとなっていた。

 背格好や体格より、一人は女、そしてもう一人は青年のようであったが、遠方ゆえにその顔までは視認することはできなかった。

「その直系の娘が、かつての英雄と同じ『聖騎士』の地位に任じられ、その談話の中で、王都議会の傀儡と化している現王家を痛烈に批判したと伝えられている」

 無論、一介の騎士がそのような発言をすることは、本来、騎士にとって忠誠の対象である王家に対する反逆行為であると扱われてもおかしくはない。にも関わらず、何の沙汰があったとも伝わっていない。

 聖騎士という存在──いや、かつての英雄の血族という存在が、如何に民衆に強い影響力を有しているかの現れであると言えよう。

 そんな人物が、密かに東方地方に人を送り、何かを探らせているとしたら──

「聖騎士が、如何なる理由で人を送り込んだかは知らぬが──」

 貴人の男はほくそ笑んだ。

「だからこそ、あの高札の内容が生きてくるというもの。如何に聖騎士の手の者であっても、騎士である事には変わらぬ。民衆自ら下した決断であるのならば、彼らとて口出しできぬはず」

 事実、その通りであろう──そう、シンシアは思っていた。

 騎士隊の半減とは既に議会で可決しており、王家の認可も得ている事案である。

 更に、それによる防衛力の低下、その対策は既に民衆の手に委ねられているのだ。この時点で、外様の騎士隊が口を出し、覆すような事など出来ぬ。

 大勢は揺るがぬはずだろう。

 だが、少女は言い知れぬ不安を感じていた。

 ──何らかの手を講じねばならないようね。

 シンシアは、隣に立つ貴人の男へと視線を向けた。

 ──この男の力を使って。

 その時、貴人の男の胸に飾られた純白の羽根が、一度、ふわりと揺れた。

説明
C83発表の「Revolter's Blood Vol'02」のうち、
第一章を全文公開いたします。
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