アキオ・トライシクル−1
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 間もなく湘南の海に夜が明ける。彰夫はベッドに入ったものの、今夜も睡眠を完成できない。起きているのか、寝ているのか。浅くわずかな睡眠しか得られなかったが、これ以上ベッドにじっとしている事が出来ない。彼の生活の中ではこんなことはよくあることだった。頭に鈍痛を抱えながらも睡眠を諦めると、ジャンパーを羽織り片瀬西浜に出た。

 彰夫は砂の上に腰掛け、波の音と潮の香りを感じながら、徐々に白んでくる空を漠然と眺めていた。やがていつも通りの朝が来る。いつも通りの一日が始まる。彰夫のいつも通りは、決してポジティブな意味を持っていない。いつも通り、喜びも、悲しみも、興奮も、絶望もない一日がやってくる。感受性などと言う言葉をとうに忘れた彰夫にとってみれば、今この場で地球が消滅したとしても、そう、いつも通りなのだ。

 

「あんた、やめなさいよ!うわぁー、やだ!」

 徹夜で宴会に興じていたのか、酔ったグループの嬌声が聞こえる。見ると、男が海に向かって、チャックを降ろしているようだ。それを、仲間の女友達が面白がって騒いでいる。彰夫は、彼らの様子を漠然と眺めていた。興味もなく、恐れもなく、嫌悪もなく、もちろん歓迎もなく、ただ漠然と眺める。彼はいつからか物事をそんな風に眺めることが習慣になっていたのだ。やがてその中のひとりが、グループからはぐれて、自分の方に向ってきた。我に返った彰夫は、こんな一群に関わるとろくなことがないと考え、視線を外して白んでくる空を眺めることにした。

「あんた。」

 酔った女が彼を呼んだ。彰夫は無視した。

「あんた、呼んでるのに無視する気?」

 女は、足元の砂を蹴りあげた。座っている彰夫の顔に、砂がもろにかかった。

「うっ、ペッ!」

 彰夫は口に入った砂を吐きだすと、下から睨みあげた。女は彰夫の苛立つ視線を楽しむかのように薄笑いを浮かべ、ゆらゆら揺れながら立っている。荒くアップにまとめた髪元からのぞく左耳に、小さなホクロがあった。不思議なところにホクロがあるな…。彼女を見て最初に思った印象はそれだった。豊満とは言えないまでも形のいい乳房。引き締まったウエストと長い脚。そんな恵まれたボディラインの上に、胸元が大きく開いた派手なブラウスと、目のやり場に困るほどの短いミニスカート。それなりの美形な顔なのに、まったく不必要な厚い化粧を施し、それは自分の恵まれた容姿の魅力をわざと打ち消しているとしか思えなかった。

「ここで何してんの?」

「別に…。夜明けを待っているだけだ。」

 酔いのせいで乱れたイントネーションで喋る女の問いに、彰夫は追い払いたい一心でそっけなく返事を返した。

「地元のひと?」

「ああ…。」

「そう…折角お近づきになったんだから…あんたも飲みな。」

 女は、飲みかけの缶ビールを彰夫に差し出す。彰夫は、差し出された物を一瞥もせず、この申し出を無視した。

「そうか…飲めないなら、飲ましてやるよ。」

 女は、缶ビールを上にかざすと、ビールを彰夫の頭に注いだ。女の奇行に驚いたものの、なすすべもなく彰夫は、滝に打たれる修行僧のごとく、動かずビールの滝を身に受けた。

「ほら、上手いだろ。はは…。」

 女は、空になるまでビールを彰夫の頭に注ぎ続けた。やがて缶が空になると、空き缶を浜の上に投げ捨て、笑いながら元のグループに戻って行く。彰夫は、怒りで震えながらも、自分を押さえようと必死になって目をつぶりじっとしていた。当然受けた仕打ち許せないのだが、いつもと違った朝を迎えられることが少しだけ新鮮だったりもした。

 

 『江の島ハウジング』の専用駐車場に自転車を置くと、彰夫はオフィスへ急いだ。シャワーでビールの匂いを落とすのに手間取り、いつもの出勤時間より遅れ気味だ。デスクへ腰かけた早々、早速年の離れた姉の信子の説教が始まった。

「彰夫。また遅刻よ。寝坊もいい加減にしなさいよ。毎晩遅くまで起きてるんでしょ。」

「宅建の試験がもうすぐだから、準備してるんだよ。」

「そうよね。2回も落ちて、もうしくじるわけにはいかないわよね。」

 彰夫は返事をしなかった。

「難しい大学受験にはあっけなく受かった彰夫が、どうして宅建の試験はだめなのかしらね。不思議だわ…。ところで彰夫、なんか酒臭いわよ。飲んだの?」

 彰夫は、大量のボディソープとオーデコロンで匂いを消したつもりだったが、鼻の利く信子には無駄だったようだ。

「俺が、飲めないのは、姉貴が一番よく知っているだろ。」

 今朝の出来ごとについて、説明が面倒な彰夫は、話を打ち切りたくて、忙しそうに机の整理を始めた。

 『江の島ハウジング』は小さな有限会社であるが、信子と彰夫の父が江の島に創業して30年を超える。両親を亡くした後、信子夫婦が後を引き継ぎ、今では江の島の地元密着型不動産会社として、小さいながらも2階建のビルを構えるまでになった。そこまで継続成長させたのは、経理担当専務としての信子の功績が大きい。

「彰夫君もやっと飲めるようになったの?呼んでくれればいいのに…。」

 信子の夫である克彦が、彰夫と信子の会話に割って入ってきた。彼はこの会社の社長だが、主に外交的な業務を受け持ち、客や業界とのつき合いで酒とゴルフに明け暮れる毎日だ。経営に関する重要な決定は信子がおこなう。外から見れば髪結いの亭主のようではあるが、克彦はこの形が家庭と仕事を円満に維持できる最良の形であることがわかっていたのだ。

「彰夫さん、おはようございます。」

 唯一の社員である美穂が香ばしいコーヒーを持ってきた。

「ありがとう。」

 そう言いながら彰夫は、コーヒーを両手で受け取り、カップに口をつけた。コーヒーの湯気が、彰夫の頬に優しく触れながら立ち昇る。美穂は、高原の朝霧の中に王子を見いだしたかのごとくうっとり眺めていた。

「美穂ちゃん、順序がちがうでしょ。まず社長にコーヒーだすもんだよ。」

 笑って言う克彦の言葉に、美穂が現実に引き戻される。

「はーい。」

 美穂は名残惜しそうに、彰夫のそばから離れて行った。『江の島ハウジング』の朝は、いつも通り始まった。

 

 誰しもが大学のキャンパスの敷地に足を踏み込むと、街とは違った空気を感じるものだ。大勢の学生が知的エネルギーを発散させているせいなのであろうか。その中でも特に、女子美術大学の相模原キャンパスは、画材の匂いや学生が女性だけであることを差し引いても、他の大学とは違った空気が感じられる。大塚好美はその理由を、知性よりも感性エネルギーが勝っているのだと勝手に解釈していた。女子美術大学は、明治33年に設立された「私立女子美術学校」を前身とした、国内でも最も歴史がある私立美術大学だ。当時男子校で女学生の入学を認めていなかった東京美術学校に対峙し創設された。その長い歴史の中で、多くの女性美術家や女性デザイナーを輩出している。それだけに、その歴史的重厚さがまた、キャンパスの空気を特別なものとして際立たせているのかもしれない。

 好美はそんなキャンパスで、間もなく開催される作品展の準備に忙しい毎日を過ごしていた。作品展の準備とはいっても雑用ばかりで、それは好美の性格に起因する。ただでさえ出品する自分の作品を仕上げることに時間を使わなければならないのに、雑用に明け暮れる自分が情けなくもあった。ここに居られる日々も1年を切った。悔いのない毎日をと望んではいても、実際はなかなか思うようにはいかない。

「大塚さん。講義の後は暇でしょ。悪いけど案内看板を作っておいてくれない。」

 実行委員のひとりが好美を捕まえて言った。

「えっ、でも…まだ、自分の作品もまだ出来てなくて…。」

「別に順路とトイレがわかればいいんだからさ。凝らなくていいから。ちゃちゃって作っちゃってよ。良いでしょ。」

「ええ…まあ。」

「予備も入れて30枚ほど頼むわ。」

 実行委員が、好美に雑用を頼むのは、好美が絶対に断れないことがわかっているからだ。はたして今回も好美は、その雑用を断ることができなかった。

 

 『江の島ハウジング』の入口の自動ドアが開いた。皆が出払っていてひとりで店番をしていた彰夫は、手持無沙汰に読んでいた本を閉じる。開いた入口を見つめてしばらく待ったが、誰も入って来る気配もなく、やがてドアが静かに閉まった。彰夫は、首を傾げながら、また本を開く。1時間のうちにそれが3回繰り返されると、さすがに彰夫も自動ドアの不具合を疑った。ドアの調子を見に外へ出ると、賃貸マンションの案内が張ってあるショーウィンドの前で、ひとりの少女がうつむいて立ちすくんでいた。少女と言っても二十歳くらいの年齢なのだろうが、消え入りそうな全体の印象が、彼女を少女として起想させる。彰夫は、少女に話しかけることを控えた。無理に話しかけても、迷惑顔で立ち去る客がほとんどなのだ。彰夫はあちこちを叩きながらドアを点検した。不具合はなさそうだ。やがて、彰夫は自分が呼ばれている事に気付く。その声があまりにも小さいので、はたして何回目で自分が返事することできたのか、自信が無かった。

「えっ、なんでしょうか?」

 少女は、それから黙りこんで一言も話さない。困惑する彰夫だが、このまま少女を放置して席に戻ることもできなかった。

「賃貸物件をお探しですか?」

 少女は、わずかにうなずいた。

「そうですか…。もし、よろしければ中でご希望をお聞かせいただけますか?」

 彰夫は少女をオフィスに導いていった。いや、そのつもりで接客カウンターに座ったのだが、少女は入ってこない。不思議に思って、外へ出てみるとそこにいたはずの少女の姿は消えていた。

 

 午後になって近くのカフェでのランチを終えた彰夫が事務所に戻ると、ショーウィンドの前で立ちすくむ人影を認めた。またあの少女だった。彰夫はため息をつきながら少女のそばに進んだ。

「そこで立っているだけじゃ時間の無駄ですよ。どうか店の中でご希望をお聞かせください。今度は女性の店員も居ますから、安心していいですよ。」

 彰夫は、今度はそばから離れずに、少女を店内に導いた。少女はうつむいたまま彰夫に従った。

「美穂ちゃん。お客様のご希望をお伺いしてくれるかな。」

 彰夫は、そう指示を出すと自分のデスクに戻った。しばらくして、物件情報を整理している彰夫の前に、困り顔で美穂がやってきた。

「あのお客さんなんですが…、彰夫さんに対応してほしいそうですよ。」

 彰夫が接客カウンターの少女を見た。少女はうつむいて、陶器の置物のように黙って座っていた。

「私は、及川と言います。どうぞご希望をお聞かせください。」

 彰夫はそう言いながら、物件情報のファイルを持って接客カウンターに座った。

「あの…。」

 初めて聞く少女の声は、か細く、しかし透き通っていた。

「先程お伺いした時に、ずっと本を読んでいらしたでしょう。」

「ああ、すみません。仕事中に…。店番が暇だったもので…。」

「なんの本ですか?」

 彰夫は消え入りそうな声で質問する少女を改めて見つめた。キューティクルの効いた輝く長い髪。その髪に隠れて顔は部分的にしか見えないが、それでもその顔立ちの可憐なことは容易に想像できた。極端に露出を控えた肌は白く輝き、ほとんど化粧はしていないようだ。すべてに大きめの服は、彼女の女としての体型を見事に消し去っている。物件探しとは関係ない要望ではあるが、少女に関心を持った彰夫は、自分のデスクに戻り本を取ってきた。

「これです。」

 『夜と霧』心理学者ヴィクトール・フランクルによって、1946年に出版された名著だ。

「ずいぶん難しい本をお読みになるんですね。」

「ええ、まあ…。」

 もともと彰夫は、大学で心理学を専攻していた。消去法という非建設的な選択で専攻を決めたのだが、彼は何事も情熱を持って決めるとういうことができない。『なにをやりたい』というより、『やらなければならないとすればなにを』の感覚で決めるのだ。それでも大学ではそれなりの成績を納めたので、教授から大学院への進学を勧められていた。しかし今彼がここに居るのは、やはり彼が得意とする非建設的な選択がなされたからである。

 いつまでも本の表紙を見つめる少女に、彰夫も多少焦れていた。

「それで、ご希望は…。」

 少女が、視線を本から彰夫に移した。色素が足りないのか目の色がグレーを帯びていた。

「海が好きなんです。海が見える部屋は無いでしょうか?」

 

「彰夫くん。ちょっとこっちへお出でよ。」

 建売工事の現場から戻った彰夫に、克彦が小さく手招きした。その手に、タウン情報誌を持っている。

「藤沢にあたらしく出来たキャバクラが、えらく評判がいいんだ。」

 克彦が開いた情報誌を彰夫に指し示す。そこには、派手に着飾ったキャバクラ嬢が数人、扇情的なドレスを身につけて笑顔で並んでいた。

「今度行ってみないか?」

「また、姉貴に怒られますよ。」

「自分の楽しみで誘っているんじゃないよ。女に縁がない義弟のために、女性と触れ合うきっかけづくりに協力をするんだから、問題ないでしょう。」

「そこで遊んだ領収書を持ってきても、交際費では落とさないからね。」

 知らぬうちに、信子がふたりの背後に立っていた。

「かっちゃん、彰夫を変なところに連れて行かないでよ。」

「いや、女性と出会う機会を作るのは大切でしょう…。」

「それなら、キャバ嬢の写真じゃなくて、見合い写真でも持ってきなさいよ。」

 信子はあごで、克彦の手にする情報誌を指し示す。克彦は慌てて情報誌を閉じた。

「彰夫、あなたの留守中に、松風マンションの大塚好美さんって方から電話があったわよ。」

 あの時の少女か。変わった娘だった。彰夫は、松風マンションへ案内した時のことを思い出す。部屋に入ると、とにかく海の見えるベランダへ直行し、家賃も聞かず即決していたっけ。デスクに戻った彰夫は、会社の電話を使わずに、自分の携帯で好美に電話を入れた。そのことが、彼の『いつも通りの世界』から逸脱していくきっかけになるとは、その時は想像もできなかった。

「もしもし、江の島ハウジングの及川です。」

「ああ…。」

 彰夫の携帯に聞き覚えのある透きとおった声が応えてきた。

「お電話を頂いたみたいで…。お部屋の件で、何か不都合がありましたか?」

「いえ…、海も見えるし、部屋も気に入っているんですけど…。」

「どうしました?」

「この4階のフロアで、深夜に帰宅される方がいて…。その時騒がれるので目が覚めてしまって…。」

 彰夫は、好美が初めて店に来た時を思い出した。存在感が希薄で、対人恐怖症とも思える彼女の物腰を考えると、相手に直接文句を言うなど到底出来ないだろう。

「わかりました。その方に僕が注意しましょう。この手の注意は、騒いでいるその場でないと効果が無いので、だいたいの時間を教えてもらえますか?マンションの前で待機しますから。」

「でも…毎日ではないから…。」

「かまわないですよ。空振りの夜があったって…。」

 申し訳ないと何度も謝る好美からようやく時間を聞き出すと、彰夫は電話を切った。

「彰夫。そこまであんたがやる必要あるの?」

 電話に聞き耳を立てていた信子が心配そうに言った。

「当たり前の顧客サービスだろ…。」

 彰夫はそう言いながらも、別な顧客だったら同じように対応していたかどうかは自信が持てない。信子の心配そうな顔に、居心地が悪くなった彰夫は資料室へ逃げ込んだ。一応好美と同じフロアの住人をチェックしておこう。相手がやくざだったらおおごとだ。しかし、ひと通り賃貸契約書を見ても、そんなことをするような人物が見当たらない。改めて好美の借主ファイルを見なおした。大塚好美。22歳。実家は奈良県。女子美術大学 美術学科 美術教育専攻。相模原キャンパスに通う美大生だった。

 

 松風マンションに待機した最初の晩は、空振りだった。彰夫は車の中から月を見上げて過ごした。その夜の月は満月である。月は夜空に丸々とその存在を示していたが、目に見えない反対側は、闇と零下の世界のはずだ。日にちが経てばやがて、月はその裏にひそむ黒を、表の白く輝く円の中に受け入れて行く。月の満ち欠けは、同じ月が太陽に当たる位置と見る位置の加減でおきる現象だとは知りながらも、彰夫は毎夜、違った月が夜空を渡っているような気がしてならなかった。

 車の中でうたた寝をしていた彰夫が、けたたましい女性の声で起こされたのは、待機して3回目の夜だった。目を覚まして見ると、車で送ってきた男と送られた女がマンションの前でモメテいたのだ。

「ここまで来たんだから、お茶の一杯ぐらいいいだろうが。」

「なんであんたを部屋に入れなきゃなんないの?」

 女は大声で、呂律のまわらない口で相手を罵倒している。かなり酔っているようだ。彰夫は時計を見た。好美が言っていた時間に適合する。彼女が言っていた騒音は、彼ら達なのだろうか。彰夫は、車から出ると、意図的に音を立ててドアを閉めた。その音に驚いて、彰夫の存在を認めた男は、諦めたように車のエンジンをスタートさせて走り去っていく。

「このスケベ野郎め、さっさと帰れ!キャハハハハ!」

 走り去る車の背に投げつけるように、女は大声で悪態を吐き続けた。

「あのう、すみませんが今何時だかご存知ですか?」

「なによ、あんた時計持ってないの?」

 彰夫の問いかけで、振り返った女を見て、彰夫の血が逆流した。夜明けの片瀬西浜で、彰夫にビールをかけた女だった。彰夫の語気が自然と荒くなってくる。

「時間を聞いているのではありません。」

「あんた誰?」

「わたしは、このマンションの管理会社のものです。」

 彰夫は、女に名刺を渡した。

「彰夫?だっせぇ名前ね…。及川彰夫さんご丁寧にどうも、わたくしは高井テルミと申します。こんな深夜に何かご用でございますか?」

 テルミは、酔いで足元もおぼつかなくなり、彰夫の袖口をつかまないと満足に立っていられない状態だった。

「失礼ですが、このマンションの何階にお住まいですか?」

「4階よ、それがなにか?」

「ご近所の方が、高井さんが深夜お帰りになる際に出す騒音に、ご迷惑されています。」

「だから?」

「迷惑をかけないようにご注意ください。」

 この夜のテルミも初めて会った夜と同様に露出度が高い服で、相変わらずに不必要な化粧をしている。テルミは、眉をしかめてしばらく彰夫を見つめていた。見つめられる彰夫も、その視線に負けまいと頑張っていたが、テルミの大粒の黒い瞳に、徐々に押されていく。

「あの、隣の女でしょ。」

「えっ、何がですか?」

「そんなうるさいこと言ってるのは、隣の女でしょ。」

 『ご近所の((方|●))はまずかった。((方たち|●●●))にすべきだった。』彰夫は後悔したがもう遅い。好美への直接的なトラブルにつながらないよう、彰夫は慌てて打ち消す。

「違いますよ。」

「だいたい初めて見た時から、気に入らない奴だったのよ。」

「違いますって。」

「これからその女の部屋に乗り込んでやるわ…。」

「ちょっとやめてください。」

 彰夫は、テルミの腕を取って止めた。その拍子にテルミは酔った足にバランスを失い、彰夫の腕の中に倒れ込んだ。腕の中で抱きとめたテルミの髪が乱れ、左の耳のホクロが、また彰夫の目に飛び込んできた。

「あたしになにする気?彰夫。」

 いきなり自分の名前を呼ばれ、心臓がドキリと鳴った。腕の中で悪戯っぽく笑うテルミに、この鼓動を聞かれてしまうのではと不安になり、彰夫は慌ててテルミをわが身から離した。

「何もする気はありません。ただ高井さんに非常識なことはやめて欲しいだけです。」

「あの女の部屋に乗り込んで欲しくないの?」

「そうです。」

「夜騒ぐのをやめて欲しいの?」

「そうです。」

「だったら…。」

 テルミは持っていたビニール袋の中から、カップの日本酒をひとつ取りだすと、口を開けた。

「今夜こそ、飲んでもらうわよ。」

 テルミがあの夜のことを覚えていたのを、彰夫は意外に感じた。

「なんで、今、ここで、自分が飲まなければならないんですか?」

「あの女の部屋に行くわよ。」

「それに、今夜は車で来ていますし…。」

「毎晩、騒ぐわよ。」

 彰夫は、間近に顔を寄せて詰め寄るテルミの眼を見た。その漆黒の瞳は月光を受けて妖しく輝く。言う通りにしなければ本当にやるぞとその眼が言っていた

「お酒を飲むことはできません…。」  

 彰夫は、テルミの前にひざまずいた。

「だから、この前の夜のように、酒のシャワーで手を打ってください。」

 テルミは、自分の前にひざまずく彰夫を興味深く眺めていた。

「彰夫、あんたって面白いわね。」

 そう言うとテルミは躊躇なく、彰夫の頭に勢いよく日本酒を振りかけた。

 

 好美が新たに借りたマンションは、江ノ島電鉄線の湘南海岸公園駅の付近にある。江ノ電として親しまれるこの路線は、1902年9月1日に藤沢から片瀬、現在の江の島の間で産声をあげた。その8年後に小町、現在の鎌倉までの全線が開通することになる。鎌倉駅から藤沢駅まで、15駅で10キロの営業距離を12分間隔で往復する可愛い路線だ。開業時は、江ノ電の路線は路面電車であったが、1944年11月に当時の地方鉄道法により普通鉄道に変更された。舗装された一般道路の中央を堂々と走る普通鉄道としては、日本で唯一の路線である。

 好美はこの可愛い路線と味のある車両が気に入っている。だから湘南海岸公園駅から藤沢までの短い区間ではあるが、通学に江ノ電を利用することにしたのだが、大きなキャンバスを抱えて通学しなければならない時は、その小さな車両ゆえにたいへん片身の狭い思いを強いられる。今日がそういう日だった。

 キャンバスを抱えて江ノ電のフォームに立ち、来た電車に乗り込もうとしたが、朝のラッシュ時には、さすがにキャンバスを持って入る隙間もないような混み方だ。一本やり過ごし、そしてまた一本。やがてラッシュ時が過ぎて、やっと客席にも空間が見え始めた頃、好美はこれなら乗り込めると、キャンバスを小脇に抱え、客車のドアの前に立った。ドアが開き、いざ乗り込もうとした時ドアの付近に居るOLと眼があった。その眼が、『そんなものを持って乗る気なの。』と言っているような気がした。好美が躊躇していると、やがてドアが閉じてしまった。気を取り直して次の電車を待つ好美。次の電車では、開いたドアの先の中年のサラリーマンと眼があった。また躊躇する好美。そんなことを何度も繰り返して、彼女はついに電車に乗り込むことを諦め、駅を出ると路線に沿って歩きはじめた。

 歩きながら、好美は自分自身に、こんなことはいつものことだから、別にどうってことないと言い聞かせた。自己嫌悪は禁物だ。自己嫌悪になった夜は、必ず不吉なことが起きる。ただでさえ最近自分でも意味不明な行動が多いのに驚いているのだ。今まで行ったこともない江ノ島の街をさまよい歩いたり、急に海の見えるところに住みたくなったり…。クレームの電話なんかしたのも始めてのことだ。自分らしくない。好美はその内省的な性格ゆえに、数多くの不安を抱えていたが、今感じているこの不安は初めての味がした。不安ではあるが不快ではないのだ。

 

 片瀬西浜の砂辺に腰かけた彰夫は、打ち寄せる波のしぶきが朝日に光るのを眺めていた。今朝も浅い睡眠で早くから目が覚めて、ベッドに居られず海岸へ出ていたのだ。日の出に水平線を眺めるといつも感じるのだが、日が高い日中に比べて、日が低い日の入りとか、日の出とかの時間の方が水平線を高く感じる。不変とは言えないまでも、毎日同じ高さの水平線のはずなのに、それを眺める人間の感性なんていい加減なものだ。

「あのう…。」

 彰夫の瞑想が、女性の声で中断された。もっとも、瞑想と言えるほど美しく哲学的な想いにひたっていたわけではないが。

「はい?」

「江の島ハウジングの方ですよね?」

 彰夫が声の主を見上げた。好美だった。彼女が紙のコーヒーカップを両手で持って、立っていた。

「はい、そうです。あなたはたしか…、松風マンションの大塚さん。」

 憶えていてくれたのが嬉しかったのか、好美の口元にわずかな笑みが浮かんだ。しかし、そのまま黙ってしまって立ったままだ。彰夫はこの気まずい間にもしばらく辛抱をしていたが、いよいよ焦れて沈黙に終止符を打つために好美を誘った。

「よかったら、お座りになりますか。」

 もちろん、好美が謝して断り、立ち去っていくことを予想しての誘いだったが、彰夫の意に反して彼女が近づいてきた。仕方なく彰夫は、自分が椅子がわりにしていた流木を彼女に譲り、砂の上に直に座り込む。流木に腰掛けた好美は、手に持っていたコーヒーを彰夫に差し出した。

「あっ、どうもすみません。」

 彰夫はその醒めかかったコーヒーを手に取り、好美はいつからここに立っていたのだろうかと考えた。

「その後、夜の騒ぎはどうですか?」

「ご相談したあとはずっと静かです。」

「なにか、お宅にご迷惑をおかけするようなことは無かったですか?」

「別に…。」

 テルミは、約束を守ったのか。酒のシャワーを浴びても、底意地の悪い彼女のことだから、約束を守ることには懐疑的だったのだが…。とにかく、好美に何も危害が無くてよかった。

「相手に注意して下さったんですか?」

「ええ、まあ…。」

「ありがとうございました。」

「いえ、仕事ですから…。」

 朝の海を眺めているふたりにまた沈黙が訪れた。長い沈黙の後、今度は好美が口を開いた。

「部屋のベランダから、この浜が見えるんです。」

「そうですか。」

 彰夫は振り返って、目の上に手をかざして遠くを見つめた。たしかに、松風マンションのベランダが、民家の屋根を越えて小さく見える。

「朝、ベランダから浜を眺めたら、お姿が見えたんで…。」

 彰夫は意外な言葉に驚き、思わず好美を見た。それでわざわざコーヒーを入れて、持ってきてくれたのか?好美も自分の口から出てきた言葉に驚いているかのように、スッピンの顔を赤らめて、うつむいていてしまった。彰夫は、素顔がこれほど可憐で美しいのはもしかしたら反則じゃないかと思った。今朝も大きめの服でからだのラインを消していたが、朝日にわずかに透ける素材なので、その均整のとれたボディラインをかすかに感じることができた。

 しばらく言葉を失っていた彰夫だったが、今度は何か言葉を繋げるのが自分の義務の様な気がしてきた。

「大塚さんは、女子美で絵を勉強されているんですよね。」

 好美のグレーな瞳に、警戒の光が走った。しまった、話題を誤ったか…。

「いや、賃貸契約した時に、書いて頂いていたから…。」

「はい、来年卒業です。」

 警戒を解いて応えてくれた好美に、彰夫はほっとした。

「卒業された後は、どんな職に就かれるんですか?やっぱり画家かデザイナーですか?」

「いえ、たぶん美術の先生か、うまくいってどこかの美術館のキューレターです。」

「そうですか。僕らの仕事に比べれば、とても繊細で難しそうなお仕事ですよね。」

「彰夫さんも…。」

 いきなり自分の名前を呼ばれて、心臓がドキリと鳴った。なぜ自分の名を知っている?

「この前、難しいご本を読んでいらしたでしょ。『夜と霧』。確か著者のヴィクトール・フランクルは、オーストリアの精神科医ですよね。」

「ええ、ところでなんでご存じなんですか?」

「わたしも少し心理学に興味があって…。」

 彰夫の質問の意味は違っていた。なぜ自分の名前を知っているのかを聞きたかったのだが。

「彰夫さんは心理学をご勉強されているのですか?」

 平然と話題を進める好美に、彰夫はこれ以上追及することを諦めた。

「ええ、大学で心理学を専攻していました。」

「不動産屋さんの心理学者ですか。」

「いや宅建資格もまだないから不動産屋でもないし、真面目に大学で講義を聞いていたわけでもないからたいした心理学の知識もない。ただのニートなオタクですよ。」

 好美が初めて満面の笑みを浮かべた。その笑みを見た瞬間、彰夫は自分の胸に何かが刺さったような気がした。

「飲み終わりました?カップを持って帰ります。浜のごみにしたくないから…。」

 好美はそう言いながら立ちあがった。彰夫は、肩にとまった可憐な小鳥を、逃がしたくはなかったが、しつこい男に見られたくもないので、しぶしぶ好美にカップを手渡す。

「ご馳走様でした。」

 好美はまだ顔を赤らめたまま、軽く会釈をして足早に立ち去っていった。いつまでも好美の後ろ姿を見送っていた彰夫だったが、やがてその姿が見えなくなると、諦めてまた流木に腰掛ける。ふと見ると、流木の上に折りたたんだチラシが置いてあった。それは、来月から女子美のアートミュージアムで開催される作品展の案内であった。彰夫は出品者の中に大塚好美の名前を発見した。コーヒーを持って彰夫に声をかけることに、自分の持つすべての勇気を使い果たした好美は、さらに彼を作品展に誘う勇気など残っていなかったのだろう。彰夫は目を細めて、あらためて松風マンションのベランダを眺めた。

 

 店舗のシャッターを下ろして、店を閉めようとしていた彰夫の携帯が鳴った。知らない番号が表示されている。

「もしもし…。」

「ああ、彰夫?わたしよ。テルミ。」

 えっ、あの酔っぱらい女。彰夫はあの女がなんで自分の携帯番号を知っているのかと愕然とした。警戒して黙っている彰夫に構わず、テルミは言葉を続けた。

「あたしさ、藤沢のゼロ・ガールっていうキャバクラで働いてんだけど、今夜来て指名してくんない。」

「なんで…。」

「今月ポイント稼げなくてさ。協力してよ。」

「だから、なんで俺が…。」

「いい、閉店1時間前ごろに必ず来るのよ。来なかったら、隣の女のところに乗り込むから。じゃあね。」

 彰夫の返事も聞かずテルミは一方的に電話を切った。彰夫は呆然として携帯を見つめた。

 

 好美は、家を出られずにずっと薄暗い部屋で布団を被り、浅い睡眠と覚醒の間を行き来していた。今日一日、まったく気分が落ち込んでいる。とりあえず大学へ行ったものの、講義も頭に入らなかったし、誰とも喋りたくなかったのですぐ帰ってきてしまった。今も身体がだるくて、心臓病になったように胸が苦しい。この不調の理由を好美はわかっていた。今朝、浜で見つけた彰夫へ、衝動的にコーヒーを持って行ってしまったせいだ。しかも図々しく横に座り、なんか変なことを口走りもした。彰夫に軽い女だと思われたかもしれない。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。とてつもない自己嫌悪が、好美を襲っていた。こんな日はとにかく布団を被って、時が自己嫌悪を薄めてくれるのを待つしかなかった。

 

「彰夫君よ。君から誘ってくれるとは意外だったよ。この義兄にやっと心を開いてくれるようになったのか…。」

 藤沢の居酒屋で時間をつぶしている間に、克彦はそこそこ出来あがっていた。

「いや、最近の彰夫君を見ていて、僕も信子も心配していたんだよ。酒が飲めないはずなのに、酒臭いままで出勤してきたり、この前なんか飲酒運転で捕まったし…。」

「だからあれは飲んでないって。警察もわかってくれたでしょう。」

「酒を浴びた服で運転すりゃ、誰だって捕まるっつうの…。」

「いいから…もう行きましょう。時間ですよ。」

 克彦を追いたてて、彰夫はテルミの働くキャバクラへ向かった。駅裏の雑居ビル。その地下に、『ゼロ・ガール』があった。

 彰夫は克彦とちがって、この手の店に入るのは初めてである。重いドアを開けると、安っぽいBGMと嬌声が、絡まって塊になり彰夫の体にぶつかってきた。彰夫は思わず顔をしかめる。

「いらっしゃいませ。おふたりですか?」

 入口のマネージャの問いに、克彦は指を二本立てると、その指を自分の鼻の穴に突っ込む。

「席にご案内いたしますが、只今からショーが始まりますので、女の子がつくのはショーの後からということで、ご容赦ください。」

「おお、いいよ。そのかわりスタート時間は、ショーが終わってからつけろよ。」

 克彦のやりとりに、さすが慣れたものだと、彰夫は感心した。

 彰夫達が案内された席は、部屋の隅の末席だった。やがて、ショーが始まる。小さなステージに店で働く女の子たちが入れ代わり現れて、AKB48よろしく踊りはじめる。テルミがいた。彼女はすぐ彰夫を認めたようだ。いつにもまして、広く胸元が開き、腰までスリットの入ったドレスを着て、思わせぶりに体をくねらせて踊っている。彼女が妖しく笑って彰夫にアイコンタクトをしてきた。彰夫は思わず視線をそらした。ショーのエンディングのラインアップでは、彼女はテルミとして紹介されていた。どうやら本名で働いているようだ。

 ショウが終わり、再びマネージャがやって来た。

「只今よりお時間を始めさせて頂きますが、ご指名はありますか?」

「いや、べつに…。」

 克彦を遮って彰夫が叫んだ。

「テルミさんをお願いします。」

「なんだ彰夫君。お目当ての女の子がいたのか?」

 驚く克彦に返事もせずに、彰夫はテーブルのタンブラーをじっと睨み続けていた。

 指名はしたものの、テルミはなかなかやってこなかった。他の席を盗み見すると、テルミは他の席でも指名されているようで、大声で騒いでいる。触ったり、触られたり。おもちゃにしたり、おもちゃにされたり。挙句の果てに、客と本気でケンカしていたり。生まれた時からこの店にいたように溶けこんでいた。嫌悪はない。しかし、軽蔑はあった。彰夫にとって女はああではいけなかった。やはり、女はベランダから男の姿を認めて、走ってコーヒーを持ってやってくる純真があるからこそ、敬愛すべきものなのだ。

 彰夫たちの席に、見知らぬ女の子がやってきては去る。それを何回か繰り返しているうちに、ようやくテルミがマネージャに導かれてやってきた。テルミは、挨拶もなく彰夫の横にどかっと座ると、マネージャに言い放つ。

「マネージャ。ボトル入れて、フル盛り持ってきて。おなかすいたからサンドイッチもね。それに、私にはいつも通り冷酒を持ってきて。」

 勝手に注文するテルミに困り顔のマネージャ。テルミは彰夫に振りかえって言った。

「ごめんなさいね。あたし日本酒が大好きなものだから…。」

 彰夫は首をふりながらも、マネージャを見て軽くうなずいた。テルミの傍若無人な指示はさらに続く。

「もう閉店までここを動かないから、他に指名入れないで。ヘルプもいらないわ。余計な女の子はよその席に付けちゃって。それから…。」

 テルミは、正体を無くして女の子の膝枕に崩れている克彦をあごで指し示した。

「お連れさんのために、タクシーを呼んであげてくれる。」

 テルミの一連の指示が完成するまで、彰夫とテルミはお互いそっぽを向きながら、一言もしゃべらなかった。グラスに氷を足すとか、客に対するフロアレディとしての当然の仕事もせずに、テルミはボトルの酒を手じゃくで飲み続けている。彰夫がレストルームから戻った時も、テルミはオシボリも渡さず、彼のグラスを指差して吐き捨てるように言った。

「さっきから何飲んでるの?」

「ウーロン茶」

「情けない…。」

 彰夫は気分を害して返事をしなかった。

「しかも、ひとりで来ないなんて、相当いくじなしなのね。」

「とにかく、言われた通り来たんだから、文句は言うな。」

「なにそれ…嫌なら、来なきゃいいじゃない。」

「お隣に迷惑がかかるようなことはできない。」

「その女がそんなに大切なの。」

「あくまでも店子の安全を守りたいだけだ。」

「あたしだって、店子よ。」

「だれが賃貸契約したか知らないが、俺は君を店子と思ったことは無い。」

「でも…あの女のことを持ち出せば、毎日来てくれるってわかったわ。」

「いや、今日だけだ。君にはっきりと警告するために来た。…いいか、またこんなことをしたら警察に訴えるぞ。」

 彰夫は精一杯の凄みを利かせてテルミを睨む。

「キャハハハハ…。そう力まないでよ…。わかったから今夜は楽しみましょう。最初で最後の貴重な一夜になりそうね。」

 テルミが、彰夫の腕を取って、身をすりよせて来た。柔らかい乳房と腰が彰夫の身体に触れた。付けている香水とは別なテルミの香りが、彰夫の脳下垂体に染み入る。彰夫は脈拍数が上がり、自分のある部分が固くなってくることを自覚した。なんでこんな女に?相手の息の湿気が感じられるくらい顔を寄せて来るテルミに、彰夫は体をのけぞらせる。

「やっ、やめろ。それ以上近づくな。」

「なぜ?」

「…やっぱり、もう帰る。」

「もしかして、彰夫。あたしに感じてる?」

「ばかな。」

 語気を荒めて立ち上がる彰夫を、テルミが無理やり引き戻した。

「わかったわよ。でもいくら飲めない彰夫でも、自分のグラスをあけずに席を立つのは、マナー違反だってことは知ってるわよね。」

 テルミがグラスを持って彰夫に差し出した。彰夫はテルミの顔を警戒して覗き込んだ。相変わらずの漆黒の瞳に、妖しい光を携えて微笑んでいる。彰夫はグラスを受け取るとウーロン茶を一気に飲み干した。

「やっと…飲んだわね。」

「満足したか?」

「ええ、今チェックをマネージャに言うから、座って待ってて。」

 しばらくソファーで待っていた彰夫ではあったが、テルミが一向にマネージャを呼ぼうとしない。焦れた彰夫が、勢いよく立ちあがった。足が変だ。急に立ち上がったから貧血でも起こしたのだろうか。膝から下の力が入らない。彰夫は再びソファーに座りこんで、足の感覚を呼び戻そうと、必死に拳で腿を叩いた。しかしその努力も虚しく、やがてしびれは全身に広がり、彰夫は隣に座るテルミの膝の上に崩れ落ちる。

「テルミ…俺に何を…飲ませた…。」

「可愛い小鳥ちゃん。鳥かごの中に、ようこそ…。」

 彰夫は薄れて行く意識の中で、心の底から恐怖を覚えていた。

 

 鼻先でカンフルが折れる音ともに、強烈な刺激臭が彰夫を襲った。思わず顔をそむけて、彰夫の意識が戻った。どこかの部屋のベッドに居るようだった。見ると一糸もまとっていない自分を発見して驚いた。意識はもどったものの、身体の芯にしびれが残っていて、体躯は動かすことができない。やがてからだの上に、肌の温かさを感じた。それはやはり一糸もまとっていないテルミだった。わずかな明かりに浮かぶテルミの身体は、この世のものと思えぬほどの美しいプロポーションで構成され、甘美で柔らかい肌につつまれていた。テルミの黒い瞳だけが、奇妙に光り輝いている。ゆっくりとテルミの顔が近づいてきてその甘い息が彰夫の首筋にかかる。今度は交じりっ気のないテルミの香りが、脳に全体に染み渡って来た。

「やめろ…、テルミ。」

「私は、欲しいものは絶対に手に入れる女なの…。」

 彰夫は必死に抵抗を試みた。しかし、抵抗しながらも、徐々にテルミの願いに応えていってしまう自分が許せなかった。情けなかった。やがて彰夫の身体が動くようになると、ふたりは身体を入れ替えて、今度は彰夫の願いにテルミが応えていくようになっていた。

 

 彰夫が目を覚ました。彼は床の上で毛布一枚にくるまって素っ裸で寝ていた。寝ている間にベッドから落ちたようだ。彼は半身を起こして見知らぬ部屋の周りを確認した。ベッドの上にも、部屋のどこにも人影がない。彰夫は、ゆうべの事をゆっくりと思いだそうと集中した。そしてその蘇ってきた記憶に愕然とする。俺は、テルミと寝たんだ。自分は被害者だと思おうとした。しかし、思えなかった。昨夜の一連のことに対する自分を正当化しようと試みた。しかし、その材料が見つからなかった。それほどゆうべの彼は燃え上がっていたのだ。

 彰夫は混乱した頭の中をなんとか鎮めようと深呼吸した。しかしやがて、テルミの部屋に居てはそんなことが不可能であることに気付く。こんなところに一秒だって長くいるべきではない。彰夫は、床に散らばる自分の服を急いで身につけながら、あらためて部屋の様子を眺めた。あのテルミにしては、小奇麗に整理された女性らしい部屋である。部屋の片隅に、キャンバスと画材が置いてあった。酔いがさめた時には、趣味で絵も描くのか。ちょっと意外な印象を持って、もっと部屋を観察したい気もしたが、こんなところに長居は無用だと考えなおす。靴をつっかけて、慌てて部屋を出た。エレベーターフロアの呼び出しボタンを何度も叩いて、エレベータを呼んだが、こんなにゆっくりとしか動けないものなのかと焦れた。

「あら…、おはようございます。」

 1階に到着した彰夫に挨拶した女性がいた。好美であった。今この瞬間でテルミの次に会いたくなかった女性だ。彼女は彰夫との思わぬ再会に、顔を赤らめている。

「彰夫さん、朝からお仕事ですか?」

 好美は、朝起きたての寝癖を隠すために、髪を後ろにまとめていた。その髪型も新鮮だった。あいかわらずの彼女の純朴で美しい素顔を見て、彰夫は昨夜の出来事への後悔で胸が焦げる思いがした。そのせいか、彼女の問いに答える声も、今にも消え入りそうである。

「ええ、まあ…。」

「私、ゆうべ遅かったものですから、寝坊しちゃって…。コンビニで朝食を買ってきたんです。」

 彰夫が聞いてもいないのに、明るい笑顔で話す好美の手には、確かにコンビニの袋があった。今の俺には、彼女の笑顔を受ける資格が無い。彰夫がそんなことに苦悩している事など知るよしもない好美は、気持ちいい朝にふさわしい、とびきりの笑顔と透きとおった声で彼に言った。

「それでは、頑張ってください。」

「ありがとうございます。好美さんも…。」

 すれ違う好美を見て彰夫は言葉を失った。その左耳に印象的なホクロがあったのだ。

 

 横浜市立大学の金沢八景キャンパス。彰夫がそこにやって来るのも何年振りだろう。大学時代は人間科学コースで心理学を専攻して毎日ここに通っていた。今彼は久しぶりに訪れた教授室で、学生時代教えを乞うていた人物を待っている。

 好美の耳にテルミと同じホクロを発見したあの日、こっそり好美の後をつけて、彼女が入って行った部屋を確認した。まぎれもなくさっき自分が出てきた部屋であった。急いで会社に戻って、借主情報を確認した。好美に姉妹はいなかった。好美とテルミ。自分が彼女たちと接した記憶を、改めてはじめから検証し直して得た結論を持って、彰夫はここにやってきたのだ。

 やがて、頭皮がてかてかに光った杉浦教授が、額に汗をうっすら浮かべて教授室に戻ってきた。彰夫の顔を見るなり、その表情を緩めて歓迎の意を表してくれた。

「いやー、久しぶりだね及川君。待たせてすまん。」

「いいえ、お忙しいところでお時間を頂戴してしまって…。」

「卒業後はどうだい?」

「亡くなった父が残してくれた会社で、姉夫婦とともに細々とやってます。」

「少し社会人らしくなったのかな?」

「杉浦先生は相変わらずで…。」

「そんなお愛想を、わしの頭を見ながら言うもんじゃない。」

 ふたりは久しぶりの再会に笑い合った。

「ところで、院への進学を進めるわしの推薦を蹴って大学を去った君が、突然やって来た理由はなんだい。」

「杉浦先生、実は解離性同一性障害についてお聞きしたくて…。」

 杉浦教授は、頭の中の図書館から関連書籍を検索するかのように目を閉じた。

「解離性同一性障害。いわゆる多重人格だな。本人にとって堪えられない状況を、自分のことではないと感じたり、あるいはその時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害を一般的に解離性障害と呼ぶが、解離性同一性障害は、その中でもっとも重い症状で、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものだね。」

「患者さんに会ったことがありますか?」

「この障害は決して珍しいものではないんだが、残念ながらお会いしたことはないよ。もっとも、長期にわたって『別人格』の存在や『人格の交代』に気づかずいる人も多いんだ。人によって深刻度は様々で、中には治療を受けることも、特別に問題をおこすこともなく、無事に大学を卒業し、就職していく人もいるくらいだから。」

「そうですか…。逆に重症の場合は?」

「やがて、統合失調症、つまり精神分裂病をおこし、様々な幻聴、幻覚、強迫観念、そして『うつ』に苦しめられ、到底日常生活を普通に送ることができなくなる。人格同志の衝突による自殺なんて言うのも最悪のケースだね。」

「原因ですが…。」

「解離性障害となる人のほとんどは、幼児期から児童期に強い精神的ストレスを受けているとされているね。 ストレス要因としては、学校や兄弟間のいじめ、親などが精神的に子供を支配していて自由な自己表現が出来ないなどの人間関係、ネグレクト、家族や周囲からの心理的、身体的、あるいは性的な虐待などだな。さらに、殺傷事件や交通事故などを間近に見たショックや家族の死なども要因にあげられているよ。」

「その障害の治療法ですが…。」

「ちょっと待って、及川君。まさか身近に患者さんがいて、君の手で何とかしようと思っているんじゃないだろうね。」

「そんな…杉浦先生…。」

 彰夫は、自らの心に冷水を浴びせられた思いがした。

「確かに、疑わしい人はいます。しかし、素人の自分が何とかしようなんて微塵も思っていません。ただ、良き理解者となって専門医につなげられる為の知識を得たいだけなんです。」

 杉浦教授はしばらく彰夫の眼を覗き込んで、その真意を探っていたが、やがてうなずきながら言葉を続けた。

「学生時代に私の講義をちゃんと聞いておれば、そんな質問はしなかったはずだよ。」

「面目ありません。」

「解離性障害の要因が、ほとんどの場合幼児期から児童期に強い精神的ストレスを受けたからだと言っても、いまさら起きてしまったことをなしにすることはできない。」

「なるほど、過去の問題があった時点まで記憶をさかのぼり、その問題に取り組んで解決をめざす睡眠療法とは異質な気がしますね。」

「そうだよ。重要なのは過去ではなくて、現在なんだ。やっと学生時代の優秀な及川君にもどったね。」

「恐れ入ります。」

「ジェフリー・スミスは『解離性同一性障害における治療の理解』の中でこう述べているよ。『解離性記憶喪失を感情的トラウマの為の一種の回路遮断機と見なすならば、記憶喪失の引き金となりうるほどの深刻なトラウマは何か、という疑問が生じる。第一の、そして最重要の要素は、私見では孤独感、すなわち安心してその事象を分かちあえる人間の欠如である』わかるかい?」

「わかったような、わからないような…。」

「おやまあ、君を大学院に推薦した私の眼力が狂っていたのかな。」

「杉浦先生、いじめないでくださいよ。」

「はは、つまりね。障害者に『安心していられる場所』を設けてあげることなんだよ。」

「いたって哲学的ですね。医学的じゃない気がします。」

「もっと混乱させてあげようか。『切り離した私』は『切り離されたわたし』を知らないが、『切り離されたわたし』は『切り離した私』のことを知っていることが多いんだ。 そして『切り離されたわたし』が一時的にでもその体を支配すると、表では人格の交代となる。『元々の私』『切り離した私』を主人格、または基本人格と呼ぶ。 それに対して『切り離されたわたし』が解離した別人格であり、交代人格という。それらの交代人格は表情も、話し言葉も、書く文字も異なり、嗜好についても全く異なる。 例えば喫煙の有無、喫煙者の人格どうしではタバコの銘柄の違いまである。また心理テストを行うとそれぞれの人格毎に全く異なった知能や性格をあらわす。顔も全く違う。 勿論同じ人間なのだから同じ顔ではあるが普通の表情の違いとは全く違う。そのほか演技では不可能な生理学的反応の差を示す。」

「先生、もうちょっとゆっくりお願いします。」

「つまりだね。及川君。多重人格といわれてもひとつの肉体に複数の人格が宿った訳ではないんだ。あたかも独立した人格のように見えても、それらはひとりの人格の『部分』なんだよ。いくつもの人格が実態として存在するのではなく、個人の主観的体験の一部だということをはっきりと認めてもらえる場所。それが『安心していられる場所』なんだ。」

「うーむ。」

 彰夫は教授の話を理解しようと懸命に考えた。

「及川君。今の講義をレポートにまとめて、来週までに提出するように。」

「えっ?」

「冗談だよ、ははは。」

 教授に礼を言って、彰夫は大学を出た。家に帰る道すがら、教授の話を聞いて、考えに考えた挙句、彰夫は一つの結論を得た。

『結局…、彼女に関わらない方がいい。』

 彼らしい非建設的な結論だった。

 

 大学に出向いてから1週間が経った。

 彰夫はカフェでランチを取りながらも、持っている書物から眼を離さない。あの夜以来、テルミからの呼び出しの電話もなく、朝の西浜の散歩に、好美も姿を現すことが無かった。『関わらない方がいい。』と結論を出したものの、彼の家の書棚にはいつの間にか『解離性同一性障害』に関する書籍で埋まっていた。家だけではなく、カフェでランチを食べる時も、それらの本を手放さなかったのだ。

 女としての好美とテルミは、彰夫にとっては依然恋愛と欲望の記憶であり続けた。関わりを絶つと頭では割り切っていても、心と身体がふたりを忘れてはいなかった。だからと言って、彼女たちにどう対応したらいいかがまったくわからない。自分のこの平穏な日々を維持することを考えれば、ふたりは自分にとって最も危険な存在であることは間違いない。したがって、彰夫からすすんで彼女たちに連絡するような勇気はなかった。

 一方、人間としての好美とテルミは、心理学を学んだ彰夫にとって興味がつきない対象だ。

『基本人格はどっちなんだ。好美?テルミ? 社会的実体があるのは好美だから、彼女が基本人格か…。そうだ、あの朝も好美は自分とテルミにあった出来事をまるで知らなかった。…ということは、交代人格であるテルミは、好美と自分との出来事は覚えているのか。交代人格に別の名前が存在するなんて症例、他にもあるのか…。』

 彰夫の携帯が鳴った。着信を見ると、『バッドガール(Bad Girl)』の表示が出ている。テルミに呼び出された時、身の安全のため登録した番号だった。彰夫は以前のような要求があったら、断固拒否してやろうと心を強くして、語気を荒めて電話に出た。

「もしもし…。」

 彰夫の勢いに押されたのか、電話をかけてきたはずのテルミはいっこうに返事をしない。

「返事をしないなら切るぞ。」

「あの…。」

 電話から聞こえてきた遠慮がちな声は、透き通っていた。

「えっ…大塚好美さんですか?」

「はい。仕事中でしたか?ご迷惑をかけてすみません…。また、掛け直します…。」

「いえっ、いいんです。大丈夫ですよ。切らないでください。」

 彰夫は慌てて好美を引き留めた。

「どうされました?またマンションで不都合でもありましたか。」

「いえ、実は…。」

 その後の言葉がなかなか出てこない。彰夫は、今度は辛抱強く好美の言葉を待った。

「女子美のアートミュージアムで、作品展があるんですが…。」

「ええ、知っていますよ。この前の朝コーヒーを頂いた時に、大塚さん、案内チラシを忘れて行かれたでしょ。」

「ああ、そうでしたっけ…。」

 またその後の言葉が出てこない。次の言葉を待つ沈黙の時が、彰夫のこころに固く閉じていた種のようなものを発芽させていった。過去に何があったか知らないが、好美は人格を切り離してまで忘れたいほどの深い傷を心に負った。そのストレスがますます彼女を内向的にし、テルミを攻撃的にしている。今にも消え入りそうな好美。電話の向こうで、何かを必死に伝えようとしているこの基本人格の力になりたい。彼女を精神科の病院などに通わせる苦痛を与えないで、普通の生活の中で彼女の人格の統合を手助けしたい。まさにそれは、杉浦教授がタブーとしていた事であったが、電話から聞こえる好美の息づかいを耳にして、それを思いとどまる冷静さをすっかり失ってしまったのだ。

「作品展にお伺いしてもいいですか?ご迷惑でしょうか?」

「えっ…いえ。ぜひお出でください。」

 こころなしか好美の声に明るさと張りが増したようだった。

「お出でになる日を知らせて頂ければ、ご案内します…。」

「ありがとうございます。大塚さんの作品が見られるのを楽しみにしていますよ。」

「そんな…たいした作品でもないので、恥ずかしいです…。それから、あの…。」

「なんですか?」

「今度お会いする時は、もう私には敬語を使わないでください。それに私のことも好美って呼んでいただけると嬉しいのですが…。」

 彰夫はそう言う彼女の真意をしばらく考えた。自分と、より親密になることを望んでいるのだろうか。

「そう言って下さるなら、喜んで…。」

 彰夫は、作品展に行く日時を約束して電話を切った。

 彼女の手助けをするためには、まず彼女を理解する必要がある。描かれた絵のなかに、その作者の心が現れるというから、作品を通じてまずは彼女を丁寧に観察しよう。どうするかはそれから考えたらいい。すると、彰夫の携帯がまた鳴った。先程と同じ着信表示だった。

「なんですか、好美さん。」

「好美って誰?」

 彰夫の心臓が飛び出すほど驚いた。今度の相手はテルミだった。

「好美って、彰夫が大切にしているあの女なの?」

「テルミには関係ないだろ。何の用だ。」

「彰夫、あんた全然店に顔出さないわね。」

「店に行く理由が見当たらない。」

「あなたが、あの夜あんなに求めた女がいるのに?」

「そんな言い方やめろ。切るぞ。」

 彰夫はテルミの返事も聞かず、携帯を閉じた。

 彰夫は、ふたりが同時に電話をかけてきた意味を深く考えずにカフェを出た。実は、そればふたりからのSOSだったのだ。彰夫が現れたことによって、好美とテルミの人格バランスが狂い始めていた。彰夫は、避けていたはずの危険な一歩を、ついに踏み出したのだ。

説明
江ノ島の海で出会った二人の女性 好美とテルミ。そのふたりに翻弄される彰夫は、不可解な人間の心に、深遠な海溝を覗くかのような恐怖を覚えながらも、ふたりの女性の心に深く関わっていく。
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女性 解離性同一性障害 多重人格 江ノ島 美術大学 

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