【小説】緋色の翼
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 彼は幹に背を預けて、瞼を下ろしていた。青々と萌える木の葉の隙間から、穏やかな日差しが、瞬きながらその頬を撫でている。

 優しい風が、芽吹きの香りを運ぶ。

 ──そして、悲泣の声を運ぶ。

 

 彼は嘆息して、瞼を上げた。

 背を幹から離し、音を立てないように、そっと、斜め後方を窺う。

 数歩ほどしか離れていない木の根元に、小さな頭が見えた。

 

 地面に膝をつき、体を丸めて泣いている子供。

 その右手は、同じ動きを繰り返している。

 内から外へ。幾度も、左の掌に乗せたものに触れている。

 

 それは、動かない、緋いもの。

 小さな掌から尾翼をはみ出させている、緋色の小鳥。

 喪主は、その羽に落ちた彼の涙ごと、繰り返し、繰り返し、それを撫で続けている。

 

 子供がその行為を始めて、すでに数分が経過している。その行為が無駄であることが証明されるには、十分な時間だ。

 おそらく、子供にも、もうわかっている。

 わかっていても、受け入れることができないのだろう。

 

 子供の前には、小さな穴があった。

 それは湿った土をさらして、ぽっかりと口をあけている。

 

 喪主はここへ来てすぐに、その穴を掘った。

 小さな躯を収めるに足る穴は、数分とかからずに穿たれた。

 だが、土の棺を用意したその手は、そこに小鳥を横たえはしなかった。

 

 理性はその死を認め、土に還そうと試みたのだろう。

 だが、感情がそれを拒否した。

 

 また、さえずるかもしれない。

 また、はばたくかもしれない。

 

 だから、溢れる涙を拭おうともせず、小さな躯を暖め続けているのだ。

 

 少年は柳眉を寄せ、下唇を噛んだ。

 先ほどまでのように、幹に背を預け、目を閉じる。

 すすり泣きは止まず、目裏に翻る木漏れ日を苦く暖めた。

 

 移動する気にはなれなかった。

 意図せず巻き込まれた形ではあるが、あの子供の、別離の儀式を中断したくない。

 少なくとも、ここまで来て、墓穴を掘ったのだ。

 ならば、あの子供に必要なのは、慰めや励ましではない。

 理性が感情を納得させる、時間。

 そして、それはもう、長く必要ではないはず──。

 

 ……ふと。

 

 彼の耳が、微かな音を捉えた。

 下草を踏みしめる足音。

 子供の泣き声を聞きつけてやってきたのだろう。

 それはだんだんと大きくなり──やがて、彼が背を預けた幹の、真裏で止まった。

 慰めようというのか、あるいは、共に嘆こうというのか──。

 

「死んでしまったのなら、それはただの肉塊です。」

 

 その言葉は、若い男性の声で紡がれた。

 驚いて、少年は目を開いた。

 再び子供を窺えば、その傍らに、背の高い青年が立っていた。幹や、周りの枝葉に邪魔されて、全身をしっかりと観ることはできない。確認できたのは、短い黒髪と、薄い背中。

 子供は、今の言葉が理解できないのか──したくないのか、泣くことも忘れ、呆然と青年を見上げている。

 

「泣いても還りません。」

 

 淡々と告げられた言葉を、嗚咽と共に呑み込んで──子供は、涙と鼻水に濡れた顔を、くしゃくしゃに歪めた。

 反論しようとしてか、唇が動く。しかし、痙攣する喉から漏れる音は、言葉にならない。

 大粒の涙が、ふっくらと丸い頬を伝い、落ちる。襟に、小鳥の躯に。

 容赦なく現実を切り取った、言葉の刃から身を護るように、小さな体はますます縮み──やがて、爆発した。

 躯を抱きしめて号泣する、その激しさは先ほどまでのすすり泣きの比ではない。

 拒絶の慟哭に震える小さな背中を見下ろしていた青年は、やがて何も言わずにその場を去った。

 

 穏やかな風は、彼方から此方へ、吹いている。

 一部始終を見ていた少年は、目を閉じ、優しく梢を撫でる風を、胸一杯に吸い込んだ。

 ──心を酔わせるような芳香が、彼の肺を満たす。

 

「……あの人だ。」

 彼は呟いた。

 

「あの人にしよう。」

 ──微笑を浮かべて。

 

 

 *****

 

 

 授業を終え、後始末をして帰路につくころ、辺りは夕日の朱に染まっていた。

 その色に触発されて、残像がよぎる。

 

 緋色の小鳥。

 少年の掌に横たわっていた、中身を失った肉塊。

(あの子は未だにあの場所で泣いているのだろうか)

 ……浮かんだ考えを、私は自ら否定した。

 思いを、留めておくのは難しい。

 全ての感情は、いずれ時に呑まれ、昇華されてしまう。

(どんなに忘れたくない──忘れてはいけないと、願っても)

 悲しみを継続させることができない自分を。

 幼い彼も、受け入れてゆくのだろう。

 

 私の住居は、街外れにある。

 昔は畑だったという空き地に囲まれて、取り残されたように在る一区画の畑と、隣接する建物がそれだ。農耕具などの置き場であり、休憩を取るための場所、また、収穫物を調整するための作業小屋だったらしい。

 切り出した板で四面を覆い、屋根を乗せた──風雨をしのぐためだけの、簡素な作り。その規格は当然、住居には向いていない。更に、耐用年数をとうに超えた木材は、歪み、ひび割れ、その隙間で雑草を囲っている。まるで、年を経た大木が、朽ちながら他の生命を育んでいるかのようだ。

 実際、雨漏りには苦しめられている。

 森が近いため、夏は口を開けていられないほど虫が飛び交い、冬は欠伸が自殺行為になるほど寒い。だが、そのおかげで破格に安く購入できた。

 何より、たとえ『何か』があったとしても、人的な被害が出る可能性がとても低い立地条件がありがたい。

(もっとも、そんなに危険な研究をしているつもりはないのだが……)

 そう認識しているのは私だけだろう。

 世間一般の常識に照らし合わせてみれば──少なくとも、街中には、研究の対象を知ってなお、部屋を貸してくれる物好きな大家は存在しないに違いない。

 

 夕日が、ゆっくりと大地に溶けてゆく。

 通いなれた道に降っていた光の残滓が消えるころ、ようやく民家は途切れた。遠方の森は黒々と、空き地に建つ小屋に影を落としている。

 我が家は、夜に呑まれゆく世界の、唯一の灯火のように──

 

(……灯り?)

 

 私は足を止めた。

 紙を多く使う。だから、火の扱いには気をつけている。

 今朝、慌てて家を出た覚えはない。そして、灯りを消した記憶が──ある。

(考えられる可能性は……)

 私は再び動き出した。そっと──できる限り、足音を殺して。

 導き出される答えはひとつしかない。

 誰かが居た──もしくは、居る、のだ。

(だが、いったい誰が、何故──?)

 親しい付き合いの友人は居ない。親も、兄弟もない。

 幾許かの空き地を挟んで、家の裏手に広がる森には、魔物と呼ばれる生き物が生息する。

 森からはみ出した魔物は時に、住居のすぐ近くまでやってくる。今までのところ、小型で、比較的殺傷能力の低い魔物しか現れたことはないが、それでも、街中よりずっと、大型の魔物が出現する可能性は高い。

 そんな危険な場所に、理由もなく誰かがやってくるとは考え難い。

 盗まれるような持ち合わせはない。

 家には──いや、残念ながら、この懐にも。

 価値があるものを強いてあげるならば、何冊かの本と、今までに採取した研究材料──(ああ、そうだ、先月は大物を捕獲できたから……)協会に持ち込めば、それなりの額で買い取ってもらえるかもしれない。

 ──ということは、侵入者には研究内容が露見していたということになるが──。

 

 ……やはり、腑に落ちない。

 

 わざわざ、こんな街外れまで、あんなものを盗みにくるだろうか?

 仮にそうだったとして──私が協会に問い合わせれば、犯人の目星はついてしまう。

(社会的地位の損失、免許停止──懲罰)

 多額の現金を手に入れようというならばともかく、採算が合わない。

(では、研究内容そのものを盗むとしたら……?)

 

 ありえない。

 

 即座に否定できるほど、私の取り組みは一般に受け入れられていない。どの機関に持ち込んでも、一笑に附されるだろう。もしも実際にそれを盗まれていたら、同士がいたと喜ぶべきかもしれない。

 何者かが侵入したのは間違いない。

 だが、その意図がわからない。

(なんだって、こんな街外れの、金も、実も無いことがはっきりとわかる、こんな掘っ立て小屋に──?)

 窓から零れる灯りに照らされぬよう、影の中を進み、家の壁に寄り添った。

 生活するにあたり、多少手を加えたとはいえ、もともとひとが暮らすことを目的に建てられたわけではない小屋の窓に、ガラスははめられていない。何枚もの庇を重ねた通気孔が、日中、農耕具を探すには困らない程度の明りを取り込むようになっている。

 ぐらつき、半ば外れかけている庇を一枚押し上げて、室内を覗いた。

 細い長方形に切り取られた部屋の中は、ぼんやりと明るい。限られた視界には入らないが、部屋の中央、天井から吊るされたランプに、灯が入っているのは間違いない。

 研究用であり、食事用であり、雨漏りを直す台座である机。机上の本と、走り書きだらけの紙束は、今朝と変わらずそこに在る。

 研究材料が詰まった棚、申し訳程度の食器。

 干した植物や、服。

 

 見慣れた部屋だった。

 いつも窓から覗いているわけではないし、視界が限られているから、細かい配置などは多少違っていてもわからない。だが、ここから見る限り、何も盗られていないし、誰もいない。

(いったい……)

 誰が、何のために。

 

 ──不意に、風が、それを運んだ。

 熟れる前の果実のような、爽やかな芳香。

 そして──

「何をしているの?」

 ──透き通るような、声を。

 

 驚いて振り返ると、そこには、少年が一人、立っていた。

(──知らない)

 一度でも耳にしたら、忘れられない声だった。

 一度でも目にしていたら、忘れられないだろう、存在だった。

 

 さらさらと流れる、栗色の髪。

 弧を描く睫に縁取られた、大きな瞳。

 柔らかそうな白い頬と、紅を刷いたような唇。

 完成する前の、しなやかな手足。

 

 弱い光の中にあってなお、その少年は輝かんばかりに美しかった。

「……せんせい?」

 小首を傾げ、彼は私をそう呼んだ。

 私は彼を知らないが──彼は私を知っている。

 彼に見とれて声を失っていた私は、その呼びかけでようやく、問うべき言葉を思い出した。

「あなたは、何ですか?」

「『なに』?」

 私の言葉に、彼は一瞬、大きな目を丸くしてから──

「的確な質問だね。」

 なぞなぞを出題された子供のように、楽しげに細めた。

 灯りを点けたのは彼──もしくは、彼の同行者と考えて間違いないだろう。私の家に入り込むことが目的でなければ、こんな時間、こんな場所に子供が居るわけがない。

(……私?)

 唐突に、先ほどは考慮しなかった可能性が浮かんだ。

 目当ては金でも研究でもなく──私、なのだろうか。

 

 整った顔に、美しい微笑みを浮かべて、少年は問いに答えた。

「僕は空《カラ》。大陸人《あなたたち》の言う『魔人』で──『魔王』。」

 耳障りのよい声で紡がれた言葉に、再び言葉を失った。

 

 魔人も魔王も、その存在を伝え聞いたことはある。

 彼らはヒトに近い姿をした生き物で、ある物は翼を持って空を翔け、ある者は獣の半身で大地を駆けるという。

 不意に現れ、その異能でヒトに干渉し、また不意に去る。

 彼らは『神の牙《かみのきば》』という魔人の国を築いており、その国を統べるものを魔王と呼ぶのだと。

 魔物ならば、目にすることができる。ひとの手の入りづらい森の奥、山の中。それらは野生の生き物とともに、そこに在る。

 だが、魔人と呼ばれる存在に出逢える機会など、一生に一度でも、あるかどうか。

 

 ──胸が躍った。

 

 この少年──空が、嘘をついていないとは言い切れない。

 けれどその言葉に迷いはなく、その存在は異質だ。

 

 もし彼の言葉が真実なら。

 彼が本当に魔人であるのなら。

(彼の目的がなんであれ)

 

 魔物を研究する学者として、歓迎すべき出会いである。

 

 

 *****

 

 

 鍵はかかっていなかった。

 それほど丈夫な鍵でも、扉でもない。

 その気になれば、開けることは容易いだろうが、それなりの痕跡は残るはずだ。だが、軋みながら開いた扉は常と変わらず、無理にこじ開けた様子もない。

「外で待っていようかと思ったんだけどね、覗いたら本が見えたから、読んでみたくなって、入っちゃった。」

 自らを魔人と称する少年が、悪びれもせずに言う。彼は、扉を開けたまま立ち尽くす私の脇を抜け、室内に入り込んだ。人影はない。ここに来たのは彼ひとりのようだ。

 釈然としないまま、私も我が家に入り、蝶番を軋ませながら扉を閉めた。

 玄関と呼ばれる空間はない。入ればすぐそこが、生活空間だ。

 先ほど庇から覗いたままの、見慣れたその部屋。壁に、家具に染み込んだ金臭い匂いも、いつもと変わらない。唯一非日常なのは、我が家唯一の椅子を、我が物顔で使用している少年の存在。

「鍵をかけておいたはずですが……。」

「うん、だからね、鍵を創ったんだ。」

「『創った』?」

 少年は余裕のある微笑みを浮かべ、右の掌を私に差し出した。何も無い──はずのそこに、鍵が存在していた。

「……。」

 瞬く間の出来事だった。

 見せ場のない手妻を披露されたような気分だ。あまりに唐突で、驚くことすらできない。

 白い掌に現れたのは、黒い鍵だった。

 その噛み合わせは(記憶にある形との比較ではあるが)、私が持っている、この小屋の鍵とよく似ている。

 見慣れた形の見慣れぬそれを、彼の掌からつまみ上げた。

 滑らかな表面。熱も、重量も感じない。金属のように硬質ではなく、かといって、陶器のように手に馴染むこともない。

 その物質を識っていた。

「……核……。」

 魔物の体内に形成される物質。主に機械の動力として重宝されるそれ。こんな形のものは見たことがないが、この鍵は、おそらく、それと同じ物質でできている。

「こうすることもできるよ。」

 視線を転じれば、彼の掌には再び鍵が出現していた。

 鈍色の──金属の鍵だ。

 手にとって、角度を変えて眺めてみる。

 不自然な点は見つからない。曇りのない新品で、つまみの部分が、私の持っている本物と違うだけだ。鍵屋に合鍵を注文したら、おそらく、このようなものが納品されるのだろう。

 黒い鍵と鈍色の鍵。ふたつの鍵をしげしげと見比べた。

 形は同じ──だが、素材はまるで違う。

「……これも、核から創ったのですか?」

「『核』?」

 合鍵の製作者は、首を傾げてから──ああ、と呟いた。

「魔物の核か。うん、そうだよ。僕たちは、『混沌』って呼んでるけど。」

「……混沌……?」

「そう。全てに成りうる──故に、『何でもない存在』。だから、混沌。」

(全てに成りうる──故に、何でもない……)

 混沌と呼ばれたそれらを眺めつつ、頭の中で言葉を反芻した。

 少年の掌に忽然と現れたモノ。同じ手段で創られた、異なる素材の鍵。

 彼の言葉をそのまま受け入れるとしたら、それは、成りうる『全て』の一端なのだ。この鍵を創る素材──混沌は、鍵という形にこだわることなく、木にも、水にも成る。いや、『全てに成りうる』のだったら、形にこだわることもない。そして『何』にでも成りうるということは、同時に『何』でもない、ということ──。

「……。」

 不意に、黒の鍵の存在が揺らぎ、消えた。追いかけるように、鈍色の鍵も──消えた。

 それらを摘んでいた指の形以外、何も残らない。

 はじめから何もなかった。幻を見せたのだ──そう言われてしまえば、不承不承頷くしかない。それほどあっさりと、それらは空気にほどけてしまった。

 鍵を掴んだ形のまま、両手も姿勢も崩さず立ち尽くす私に、彼が言った。

「長持ちするように創らなかったからね。──でも、これで信じたでしょう?」

 私は緩慢な動きで、両手から少年へ視線を転じた。

「あなたが、魔人であること──?」

「そう。魔王であること。」

 形のよい唇が、柔らかく口角を上げた。

 現実離れしたその美しささえ覗けば、教え子たち──人間の子供とまるで変わらない。だが、彼の異能──。天才奇術師であるか、私の目が節穴でなければ、『混沌による想像』は、実際に行われたことだ。

 私はそれを現実だと認識した。

「……その魔人が、何の御用ですか?」

「まあ、立ち話もなんだから、座れば?」

 我が家で唯一の椅子を占拠している魔人は、机の脇にある寝台を指差した。

「……。」

 彼は(招かざる)客人。

 私はこの小屋の主。

 一般常識に自らの置かれている状況を照らし合わせると、どうにも理不尽だ。──いや、相手は主不在の侵入を悪事と認識しない倫理観の持ち主なのだ。この程度は彼にとって横柄でも厚かましくもない──当然のことなのだろう。

 彼の言葉に従い足を動かそうとして、思い至った。

寝台と表現しても、それは木箱を台座として組み合わせ、拾い物の薄い布団を掛けた間に合わせの代物だ。市場で貰った木箱は丈夫だが、人の体重を支えるようにはできておらず、年数を重ねる毎に、身動きに併せて軋むようになってきている。

 だが、動くたびに鳴くことへの煩わしさを除けば、椅子よりはまだましな座具だ。

「長話になるのでしたら、あなたがこちらにお座りになっては如何ですか?その椅子は足も悪いし──痛いでしょう?」

 我が家に唯一の椅子は、寝台よりも古い拾い物だ。修繕に修繕を重ねた足は、長さが合っていない。剥き出しの天板は固く、やや前傾するように歪んでいる。加えて小屋の床は波打っており、その座り心地の悪さは他の追随を許さない。

 何か緩衝材を乗せることができれば多少はましになるのだろうが、生憎よい拾い物がなく──当然、それを購入する余裕もない。

 魔人は、理解できない言葉を耳にしたように、柳眉をひそめた。

「……おかしなことを言いましたか?」

 あるいは、魔人の国では使われていない単語があったのだろうか。

 私の問いかけに何を思ったのか、彼は眉根を寄せたまま、唇を笑みの形に結んだ。

「……先生は──、」間があった。続くべき言葉を、候補の中から選別していたのだろう。「──怖がらないね。」

 やがて選ばれたその言葉の意味を、正確に解することができなかった。

(怖がる?どうして?何を?──誰を?)

「──あなたが、魔人だからですか?」

 そうだとしたら、彼との出会いを歓迎していた私には、想像もつかない指摘だ。

(怖がるべきなのだろうか)

 だが、彼の容姿や態度は警戒感を抱かせるものではなかったし、害意や敵意も感じられない。加えて、彼は人にあらざる異能の持ち主だ。そんな相手を恐れ、警戒するとして──……一体、どうすればいいのだろう。

 彼は、質問には答えなかった。ただ苦笑したまま、小さく肩をすくめ──白い掌を寝台に向ける。

「僕はこの椅子でいいよ。先生はそっちにどうぞ。」

 椅子を取り合う理由はない。二度の進めに応じて、寝台に腰を下ろした。

 木箱が、小さく悲鳴を上げる。

 それに一呼吸おいて、少年が口を開いた。

「さっき、あなたの書付も読んだんだ。」

「良い趣味ではありませんね。」

 窘めてから、自分の言葉に違和感を覚えた。今更だ。

 窓から見えた本が読みたくて、主不在の家に侵入した。本を読むついでに、書付を見た。私の常識で倫理を問うことができないこの魔人にとっては、それだけのことなのだろう。 怒りや戸惑いはない。見られて困るものだったら、相応の場所を探して隠す。

 それに、遅かれ早かれ、私は魔人にそれらを──研究を読んでもらおうとしたはずだ。無論、彼が書付を読んだ状況は歓迎できることではないが。

「どう思われましたか。」

 ──魔人を見つめた。

 その言葉に対する、一瞬の反応も見逃すまいと、凝視する。

 彼はその視線を避けるように、一度視線を落とした。

 ──やがて、私を見返した瞳は、冷たささえ感じるほど、ひどく凪いでいた。

「『魔物という種族は存在しない。』。」

 その言葉には覚えがあった。

「『彼らに生殖能力はない。ゆえに種族も存在しない。』

『犬型・鳥型等の形を持つものは居るが、これは宿主となった生物の形である。』

『生物が、何らかの原因によって、そのかくあるべき姿から異形化し、魔物と呼ばれる存在になるのである。』。」

 一言・一句。

 記憶と照会しても、間違いひとつない、書付への走り書きだった。

「……覚えたのですか?」

 唖然と問うと、魔人の雰囲気が和らいだ。

「うん。この部屋にあった文章は大体。」

 冊数から算すれば、ここに置かれた文章はそれほど多くない。読むのが早ければ、数時間あれば事足りるだろうが──まさか、それを記憶してしまうとは。

 穿った考えをすれば、今の発言は嘘であっても成り立つ。今、彼が読み上げた部分、数行を暗記して、全てを覚えたと言えばいいのだ。

 だが、私は疑わなかった。残りの文章を引き出して、その能力を試そうとも思わない。強い意志に輝く瞳。それは実力に裏打ちされたものと感じて取れる。

(これも、魔人の能力なのだろうか?)

 だとしたら、彼らにとって、ヒトはずいぶん愚鈍な存在だろう。

(──それとも、魔王の能力なのか。)

 少年は、自らを『王』と称した。彼が魔人であることを疑ってはいないが、名乗る地位には違和感があった。だが、『混沌による創造』を行い、桁外れの記憶力を有する彼が、魔人の国において重要な役職にあってもおかしくはない。

 人型の魔物──魔人──その頂に立つ、王──。

(だとしたら、彼の、魔物に対する知識は──)

 審査を待つ私の瞳には、隠しようもなく、期待と不安が映りこんでいただろう。しかし、そのまなざしを受ける審査官は、私の胸中に反比例するように、静かに告げた。

「あなたの考えは正解に近い。」

 下された査定に、心は痛みを伴うほどの熱に沸いた。

 手放しの肯定ではない。だが、少なくとも考え方は間違っていないのだと──。

 

 魔人は椅子から腰を上げ、私の前に立った。

 座っている私より、頭ひとつと少し、目線が高い。

(また、あの香り……。)

 先ほど、外で彼に声をかけられた際に嗅いだ芳香が、鼻腔をくすぐった。私は香水に詳しくないが、彼はその類のものを使用しているのだろう。爽やかな甘い香りは、彼によく合っている。

 魔人は身を屈め、その柔らかな白い手を、骨を皮で覆っただけの貧相な手にそっと重ねた。

 同じ目の高さに、凛と煌く双眸がある。

 

「だけど、正解でも、ない。」

 その言葉の意味するところは──。

 底知れぬ深さの翡翠を覗き込んだ。

 

 何故、魔物が居るのか。

 何故、魔物は魔物であるのか。

 魔人。

 魔王。

 ──そもそも、『魔』とは何であるのか──。

 

 長年研究し、求めて止まない、その答えを。

 

(彼は、識っている)

 

 

 *****

 

 

 咽が渇いていた。

「私に──教えると?」

 水を求めるように問うと、魔人は首を横に振った。

 答えは、否。

「あなたは学者だ。一方的に教えられることに満足はしないでしょう?──だから、これは……取引。」

「取引?」

「僕は、あなたの問いに、僕が識っていることを答える。」

 ──裏を返せば、『疑問を抱かないことには答えない。』

 彼からどれだけの情報を引き出せるかは、私次第だということだ。方向は、自分で決めなければならない。下手をすれば、道を誤る。だが、質問さえ間違えなければ、私は階段を昇ることができる。

 魔人──魔王が見下ろす、世界の姿を見ることができる。

 

 提示された条件は、今すぐ飛びつきたいほど魅力的だった。

 だが、取引だと持ち出した以上、それは彼の厚意によるものではない。

「その代償に、あなたは何を望むのですか?」

 異能の魔人に、愚鈍なヒトが、一体、何を返せると言うのだろう。まして、力も金も身分もなく、僅かに持ち合わせた知識さえ彼に適わない、痩せっぽっちの男が──。

 

「あなた自身を。」

 

「……は……?」

 

 意味を問う前に、魔人の頭が動いた。

 柔らかいものが、肉の薄い唇に押し当てられる。

 

 心を酔わせる芳香が、肌に触れていた。

 

(甘い……。)

 

 乾いた咽が、それを欲した。

 欲求に逆らえず、唇を割って、柔らかな肉を受け入れた。

 口腔を抜けて薫る──まるで上質の酒に浸したような熱い舌。

 

(美味い。)

 

 その味に溺れるように、少年の腕を引いた。

 彼は逆らわず、寝台に傾ぐように──……。

 

 ──みしっ。

 

 二人分の体重を支えきれず、木箱が大きな悲鳴を上げた。

「──ッ!。」

 私は咄嗟に、限界まで伸ばした両腕で、少年の身体を押し返していた。

(今、の、は、私が……。)

 貪っていた。

 彼の舌を引き入れ、吸い上げていた。

 自分のしたことが信じられない。

 謝罪の言葉すら浮かばず、呆然と、彼を見上げた。

 少年の唇は充血し、視線を誘うように濡れている。

 私が蹂躙した痕跡だった。

 現実を直視できず──文字通り、頭を抱えた。

(何だったんだ、今のは──。こんな、子供に、一体何を──!)

 魔人である彼が、その異能で何かを仕掛けたとは思えない。あの時、私は自分の意思で、欲求に従って動いたのだ。それは確かに私の内部から生まれた衝動で、誰かから押し付けられたような違和感はない。

(もし、これが鳴かなかったら──)

 煩わしさしか覚えなかったその仕様に初めて感謝し、それを尻に敷いたまま、更に縮こまった。後悔に唇を噛み締めて──口内、舌先に残る甘さに眩暈を覚えた。

 罪悪感と羞恥心が、津波のように私を飲み込む。ここに在ることがいたたまれず、かといって逃げ出すこともできない。波に揉まれて前後もわからなくなった頭を、掻き毟りたい衝動に駆られた。

 頭皮に立てた爪を止めたのは、細い指の感触だった。

「先生。」

 非難の響きはない。だが──彼を見上げる度胸はなかった。

 仕掛けたのは彼だが──(誘いに乗った挙句あんな……)──言い訳すらできない。

「怒ってる?」

 許しを請うような声音に、疑問を覚えた。

 あの感情は確かに自分のものなのだが──まさか、その感覚すら、魔人が創り出したとでも言うのだろうか。

(いや、だったら……。)

 感情を繰ることができるのだったら、交換条件など必要ない。心を奪い、人形のように、自分の都合に合わせて行動させればいい。

 為すことができないのか、禁じているのかはわからない。

 だが、取引を持ちかけた以上、少なくともこの件に関しては、魔人が私の感情を操ることなどないはずだ。

(けれど彼は私に謝罪を求めていない。)

 むしろ、彼が自身を、非難される立場であると認識している雰囲気すらある。それは、何に起因するのだろう。

「……怒るのは、あなたではないのですか。」

 針の筵に座すような空気から、逃げようと思ったわけではない。ただ、彼の言動の理由が気になった。自分の膝に視線を落としたままの問いかけに、被害者は嘆息した。──笑みを含んで甘い、安堵したような吐息で。

「僕は嬉しかったよ。先生の反応があんまりいいから驚いたけど。」

「……反応?」

「ユウシャの、混沌に対する反応。──先生、もしかしてお腹空いてる?」

 

 『ユウシャ』?

 混沌に対する反応?

 

(……空腹?)

 

 言葉は説明の役を果たしていなかった。当然、それと根を同じくする(らしい)問いかけの真意も汲み取れない。

 聡い少年が、そのことに気付いていないとは思えない。その上で、敢えて問いを発したのならば、それは先の質問に連なる問いだ。まずは答えておくべきなのだろう。

「夕食を摂る経済的な余裕はありません。」

「だから、こんなに痩せているんだね。」

 しなやかな指が、骨の浮いた手をひと撫でした。ざわめきが、腰から耳朶へと這い上がる。その感覚が耳の裏から抜けていくようで、引きずられるように顔を上げた。

 翠の双眸が、罠のように私を捕らえた。

「やっとこっち見た。」

 少年は微笑んだ。唇はまだ赤いが、潤んではいない。私と向き合う瞳に、声音と同じく、譴責は窺えない。問題のある行為ではなかったと、態度が言っている。

 それは、私の罪悪感と羞恥心を(消滅させることはなかったが)幾許か軽減させた。

(起こしてしまったことはどうにもならない。)──逃避が、開き直りに変わった、その程度ではあるが。

 深呼吸をひとつして、木箱に座り直す。少年は私の前に立ったまま、再び椅子に座ろうとはしなかった。

「そこの棚には、沢山混沌……『核』があったよ。ずいぶん大きいものもあった。あれを換金すれば、しばらく、三食食べられそうだけど……。」

「あれは研究材料ですから、換金することはできません。」

 

 正式名称は『魔物退治人協会』。一般には略称で、『狩人協会』または『協会』と呼ばれる機関がある。名の通り、魔物を退治する者──『魔物退治人』、略称『狩人』の協会である。

 協会では、資格の与奪、等級の査定など、狩人に関する一切を取り仕切っている。その業務の中心となっているのは、狩人たちによって持ち込まれる核の換金だ。

 核は大きいほど対価が高い。そして、核の大きさは魔物の体格に比例する。大きい魔物ほど狩るのが難しい傾向にあるので、金が命を賭するに値すると考えるならば、その算出方法は理に適っている。

 協会は表向き、狩人の組合によって運営されている。だが、狩った魔物の核を金に換えるというその機構は、魔物を減らしたいという人々からの献金だけでは到底支えきれない。

 核は、特殊な加工を施せば、機械の動力源として活用できる。その技術を開発、独占している企業が、協会を通して核を買い取っている──事実上の運営を行っているのである。

 一般の人間にとって必要なのは精製された動力源であり、核それ自体は価値を持たない。それ自体が無価値であるという点は、狩人にとっても同様だ。彼らは身体を張って魔物から核を取り出すが、必要なのはそれではなく、協会から与えられる対価である。

 だが、私は、魔物の存在を識るためにそれらを捕獲し、狩る。

 私にとっては、換金して得られる金よりも、核それ自体に価値があるのだ。

「……じゃあ、袋の中にあった小さな核は?」

「換金しますが、罠を作るための資金にします。」

 さすがにそれでは食べることすらままならないと教職についたのだが、けして多くはないその給料も、必要最低限を除いて、研究に費やしている。

 驚いた、というよりはむしろ呆れた様子で、少年が目を丸くした。

「魔物の研究をするためだけに、こんな町外れに住んで、ぼろぼろの家具に囲まれて、夕食抜き……?」

「そうです。」

 頷いた振動で、木箱が逼迫した家計を肯定した。

「どうして、そこまで?」

 彼の問いは当然だろう。

「……私にもよく、わかりません。」

 そして、魔物を研究するのもまた、私にとっては当然のことだった。これと言って、その衝動に結びつく理由は思い当たらない。

 ──ただ、無性に、識りたいのだ。

 

 この、世界を。

 

「……。」

 私の衝動を理解しようと試みているのだろうか。

 少年が腕を組み、僅かに首を傾げた。

 自身の内部に答えを探す、遠いまなざしを呼ぶように、彼に問いかけた。

「『ユウシャ』とはなんです?『混沌に対する反応』とは──?」

 

 狩人の等級は、五段階に分けられている。

 最下から順に、黄釿《おうきん》、赤釶《せきし》、青ソ《せいさん》、白?《びゃくや》までは、過去三年間の換金の総額で振り分けられる。 上位の狩人、白?になりたければ──実際行うには難しいが──規定上、細かい核を山のように換金し、総額を稼いでもなれる。

 だが、最上位の狩人には、一年間で、規定された対価以上の核を、規定数以上持ち込まなければならない。魔物を倒す技術に、頭抜けて長けていなければ、その等級は与えられないのだ。

 彼らが大型の魔物を狩ったことによって守られた土地も少なくなく、持ち帰る核によって企業が得る利益も相当だ。そのため最上位の等級、黒鋭《こくえい》を与えられた狩人は『勇者』という尊称で呼ばれる。

 

 先ほど、彼の口から『ユウシャ』という単語が出たとき、それを指しているのかとも考えた。だが、狩人としての私が協会から与えられている等級は、最下の黄釿である。

 仮に、狩人の勇者を指すとして単語を当てはめても、言葉は難解さを増すばかりだ。魔人の言う『ユウシャ』は一般に使用される『勇者』ではない。

 

「答えてもいいけど──。」

 魔人は一呼吸置いて続けた。

「それを質問だと思ってもいいの?あなたは僕と取引をするの?」

 

 強く見据える瞳に、息を呑んだ。

 ──肯定の言葉は返せない。

 言葉なく見返す、その状態は口より雄弁だ。おそらく、最初からそれに気付いていて、私を睨んでいた魔人は、大仰にため息をついた。

 

(……忘れていた。)

 あろうことか、忘れていた。

 気付けば、あんなに重くのしかかっていた罪悪感と羞恥心も、どこかへ消えている。

 謎の言葉を解読しようと意識を集中させたせいだ。

 彼が唇を押し当ててきた、その意味を考えようとさえ、しなかった。ひとつのことに集中すると、それ以外のなにもかもを忘れてしまう。……悪い癖だ。

 だが、物心ついてから今日まで付き合ってきた癖を、今更認識し直したところで、治るわけではない。私の意識は反省を知らず、彼の確認を反芻することに向けられた。

 

『それを質問だと思っていいの?』

(私が問い、彼が答えるということは──。)

 魔人に、自分を差し出す──それを容認することに他ならない。

 

『あなた自身を。』

 

 その言葉と共に、唇が押し付けられた。

 ──彼は性的な行為の対象として、自分を欲している。

 

(ああ、そうか、だから彼は──)

『怖がらないね。』

 ──まるで警戒しない私に苦笑したのだ。

 

(しかし、そんなこと──想像も及ばない……。)

 

 この取引は、金を知識に置き換えた売春のようなものだろう。

 だが、いい歳をした男が、こんな子ども──しかも同性に、春を販ぐよう求められるなどということが、果たして本当に起こり得るのだろうか。

 

(いや、既に起こっている……)

 

 人生最大の難関だった。

 しかも、厄介なことに、これまでぶち当たったどの壁とも、類を異にしている。過去の経験は足がかりにならない。当然、解決に役立ちそうな知識も持っていない。

 進むべき方向を見つけられない思考は、脳内を闇雲に駆け回る。迷走は他の思考を妨げ、頭の中を粉塵で埋め尽くした。──ここから抜け出せなければ、まともな答えなど出せはしない。

 

 私はいつもどうしていただろう。

 わからないことを考えるとき、対処すべき方法を思索するとき──。

 

「──お茶を淹れてもよいですか?」

「お茶?」

 彼は目を丸くして反芻した。

「落ち着いて考えたいのです。」

 その習慣は、行き詰まった思考を解きほぐす、儀式のようなものだ。茶を淹れている間も、飲んでいる間も、その行為に集中できる。そうして一度頭を空にして、再び問題と向き合う。情報は空の引き出しに整理されて収まり、多くの場合、解決策が見えるようになるのだ。

 実行しようと腰を浮かせかけた──が、正面に立つ少年が、両手で私の肩に触れ、やんわりと動きを阻んだ。

「先生って──変わり者だよね?」

 彼は、眉と唇の端に困惑を漂わせ、それを繕うように微笑んでいた。言葉は疑問系だったが、声音の強さは断定を表している。

「あなたは、お茶を飲むと落ち着きませんか?」

「そうじゃなくて、」頬が、微かに苦味を含む。「研究と貞操を秤にかけるんだもの。」

(貞操……。)

 十は年下であろう少年が使った単語に目眩を覚えた。なるほど、指摘されてみれば確かに、それらは天秤にかける類のものではない。

「──ねぇ、先生?」

 目の前で煌めく翠の宝石は、木立を移す湖面のように美しい。

 私の肩に手をかけて──覗き込む、姿勢のまま。

 母親が幼子に語りかけるようなまろい口調で、彼は囁いた。

 

「研究が、あなたにとって本当にそこまで価値があるのなら──。この機会を反故にして、自分を守ったところで、何が残るの?」

 透き通る優しい声は、眠気を誘う春風のように、心地よく耳朶を絡めた。

 紡がれる言葉が、甘く、香る。

 まるで魅了の魔法のように心を絡めておいて──魔人は、切り札を出した。

「時間と場所は用意するよ。『神の牙』に。」

「──神の、」

 神の牙──魔人の国。

 ひとの身ではけして漕ぎつくことができない『果ての海』に、超然と浮かぶという、伝説の島。

 そこには一体、何があるのだろう。

 

(識りたい。)

 

 魔物のことが識りたい。魔物を生み出した、この世界を識りたい。──それは、生涯抱き続けるであろう欲求。

 今、この手を払ったとしても、研究は続けられる。だが、彼の言葉以上に有力な手がかりを得ることができるだろうか。

 答えは、わかりきっている。──否、だ。

 魔人は、私の内心を見透かすように、余裕のある笑みを浮かべた。

「あなたは、何を恐れているの?」

 そうだ、私は何に戸惑っているのだろう。

 時間と場所を用意すると、魔人は言った。そしてそれは、命の保証でもある。彼に身を委ねたとしても、研究はできる。しかも、現在よりも好条件で。

「僕が怖い?」

 押しつけられた唇に、怖気は走らなかった。

 今、肩に触れる手の重さも、不快ではない。

 その先を想像するのは容易くはないが──恐怖よりは戸惑いを覚える。

(だから──むしろ、恐れるのは……。)

「……あなたは、それでよいのですか?」

「──何が?」

 唐突な問いに、彼は首を傾げた。

 私は改めて言葉を選び──吐き出した。

「私が、あなたを欲していなくても、よいのですか?」

「いいよ。」

 拍子抜けするほどあっさりと、彼は、心理的に自身が受容されないことを承認した。

「あなたは僕を好きにならなくていい。」

 『好きになろうと努力する必要すらない。』──静かな微笑みは、仮面のように美しく、その下の想いを窺わせない。だが、その口調や雰囲気は、穏やかに、私の言葉を受け入れていた。

 

(身体だけあれば)

 心は要らない──ということだろうか。

(それは、彼にも当てはまるのだろうか。)

 知識を与えても、心までは与えないと。

(彼は心で、私を欲しているわけではない。)

 だとしたら、私の心を求めないことにも、納得できる。

 

 冷静に考えれば、それは至極当然のことだ。私の彼の間に面識はない。彼は私についての多少の情報を持っていたが、それを得たのは遠くとも、ここ数日のことだろう。(ひょっとしたら、数時間前かもしれない。)主不在の家に、罪悪感もなく侵入する彼が、私に悟られないよう、こそこそと身辺を嗅ぎ回るとは考え難い。

 

 見返りを求めない想いを寄せられていると考えられなくもないが──無理がある。面識がないということは、想いを寄せられる要素がないと言うことに等しい。

 面識がない故に起こり得る『一目惚れ』である可能性もまずない。──彼が特殊な美意識の持ち主でない限り──私の容姿は、平均的な基準にさえ遠く及ばない。ひょろりと縦に伸びた骨に質の悪い皮を張り付けただけの、冴えない──いっそ不気味な男に、誰が恋心を抱けるだろう。

(ちなみに教え子たちが私に与えた影名は『骨格標本《ホネ》』だ)

 

 しかし、彼はなぜ、取引をもちかけてまで──その条件に等価であるとも思えない、私の身体を欲しがるのだろう。

(──違う、彼にとっては価値がある。)

 自分の物差しでは測れない。魔人のそれは、私のものより遙かに長くて緻密だ。無知なヒトには、穴の開いた式を組み立て、そこを埋めるべき条件を認識することしかできない。

 『ユウシャの、混沌に対する反応』──押しつけられた唇への、自分でも思いがけない行動。彼が欲するのは、その反応を持つ身体だ。

(私は『ユウシャ』で、彼は……『混沌』?)

 それに、『空腹』という条件が加わると、先のような反応が生まれる──らしい。

 ──穴だらけの式は成り立たない。

 それを完成させたければ、取引を受け入れなければならない。

 

(……心を求められないのは、楽だ。)

 私は他者に対して鈍感だ。人間の動きや考えは、複雑で理解し難い。目を開いていても合図を見逃し、耳を澄ましていても、言葉を音としか捉えられないことがある。まして知覚できない心の機微を推し量ることなど、できようはずがない。

 自身の性格は認識している。だが、開き直るには至っていない。

 気遣いに長ける他人は尊敬に値する。それのできない自分は、ヒトとして何かが欠落しているのだろうとも思う。 だが、それを恥じ、省みたところで、生まれ持った欠陥は、埋められるものではない。

(心を──たとえ見返りなく与えられたとしても、私には、それを受け止めきることも、ましてや返すことも、できない。)

(だが、求められるのが、身体だけなら──。)

 返せない想いに、罪悪感を覚えることはない。

 

 この柳のような頼りない身体を差し出すだけで、私は魔人の知識を得られる。

 彼に、その行為における特異な趣味がなければ、悪い条件ではない。──いや、仮にそんなものがあったとしても、研究のための時間と場所を用意するという条件がある限り、そう無体なことはできないはずだ。

 魔人が条件を守りさえすれば、だが。

 信用するか、否か。──しかし、信用しなければ、何も得られない。

 

(答えはもう出ている。)

 私は瞼を下ろした。暗闇の中で、その想いは、額を熱くするように、一際輝いている。

 ──深い呼吸をひとつして、目を開けた。

「取引について、ふたつ、伺ってもよろしいですか。」

 魔人は、私の出した答えに気づいたのだろう。それでもまだ是と答えぬ私に苦笑し、私の隣に腰を下ろした。

 少年によって阻まれていた視界は開けた。扉までの障害はなく、この小屋の外へ走って逃げようと思えば──魔人に対して可能ではなくとも──できる。

 だが、私は動かなかった。

「どうぞ。」

「──その、条件を呑むとして──。」

「うん。」

「あなたが、もう少し大人になってからでは駄目なのですか?」

 唇の感触は甘い印象を残している。柔らかな手に触れられることを想像しても、不快ではない。その相手が彼だからなのか、それとも私の性的嗜好がそうなのか、同性であることも、気にならなかった。

 だが、年齢だけはどうしても気になった。

 正確な歳は見て取れるものではないが、外見は教え子たちとそう変わらない。

 その発言は利発で、大人びてはいるが──。

 魔人は、苦笑した。

「僕が何歳に見える?」

 含みのある問いかけだった。見た目よりずっと大人なのかもしれないが──とりあえず、見たままの年齢を答えた。

「十五歳前後……に見えますが。」

「はずれ。あなたたちの時間では、三歳だよ。」

 

 ……言葉が出なかった。

 彼は視線を落とした。

「魔王は成長が早いんだ。生まれて三年も経てば、成人の容姿になる。……でも、僕は例外。多分これ以上、成長しない。」

 彼の視線の先には、ランプの火にぼんやりと浮かび上がる、自らの足がある。ともすれば暗闇に沈みそうになるその輪郭は、妙に現実味を欠いていた。──まるで人形のように。

「成長、しない?」

 獣臭い明りにぼんやりと照らし出される、成長期の身体。だがそれは、そのまま時を止めている……。

「うん。」

 魔人は私と目を合わせてから、頷いた。嘘ではない。そう主張するように。

「一年くらい前から、この容姿だから。僕の成長は、もう終わり。あなたの言う『大人』の容姿には、何年経ってもならないよ。」

 どこか寂しげな──傷ついたような声音だった。

 『成長しない』──できない。

 『大人にならない』──なれない。

 ──そう、聞こえた。

 

「申し訳ありません。」

「何故?」

「あなたを、傷つけた気がします。」

 空は答えず、悔過の念を受け止めるように微笑んだ。

 その質問を受けることは予想していた。その為の答えも既にあったのだと──有意でないとはいえ、無遠慮な質問を、当然のこととして発した男を慰めるように。

「もうひとつは?」

 動揺を窺わせない抑揚で、彼は促した。

 魔人の答えはどこにつながるか予測ができない。しかし、一つ目の質問も含め、取引を受諾する前に確認をしなければならないことだ。それがまた、彼にとって無遠慮な質問になったとしても。

 彼もそれに納得している──わかっていても、彼を不快にさせる可能性のある問いを発しなければならない後ろめたさは消えない。

「……期間は、どのくらいですか?」

 自分の膝を見つめたまま問う。……短い沈黙のあと、彼は答えた。

「あなたが、終わらせたいと思うまで。」

 驚いて、視線を彼に移した。

 魔人は私の視線を──あの、仮面のような微笑みで受け止めた。

「何故……。」

 私に取引終了の決定権を与える。

 それがどれほど不利なことか、聡い少年が気づかぬわけがない。

 明日やめると言えば、それすら受け入れるというのか。

 

「僕はあなたが欲しい。ただ欲しい。それは回数でも未来でもない。──だから、あなたが僕を必要としなくなったら、仕方がない。あなたを縛ることは、僕の本意ではないもの。」

 返される想いを期待しない求愛にも似た言葉は、ひどく心を締め付けた。

 それは、何を想い、紡がれた言葉なのだろう。

 

 ──答えを、識っている気がした。

 

 いや、答えそのものではない。けれど答えに近いものを──。

 

「触れてもいい?」

 沈みかけた思考を、彼の手が掬い上げた。

 ひとつのことしか考えられない私の意識は、こけた頬に触れた温かい感触に集中した。右の指が、壊れ易いものに触れるようにそっと──無精髭の生えた輪郭をなぞり、首筋に降りる。

 抵抗はしなかった。

 私の出した答えを受け取って、少年は、これから為そうとする行いに反して、いっそ邪気のない笑顔を浮かべた。

 右手は私の首に触れたまま、左手で、私の右手を取る。

 肉の削げた手の甲に、形のよい唇が触れる。

 あつい、と感じた。

 実際肌に感じたのは体温で、炎の熱ではない。だが、その接吻けは、目には映らない部分を焦がし、消えない痕を──契約の烙印を刻んだ。

 

「──質問してもいいですか。」

 肌が、夜気に晒されていく。

 追いかけるように触れる指を感じながら、心は遠くにあった。

「うん?」

「何故──私なのですか。」

 美しい魔人は、駄々をこねる子どもに諭すように言った。

「終わってから、ね?」

説明
■小説家になろう!に投稿しているファンタジーびいえる小説(少年魔王×青年勇者)の一話目です。※年齢制限付きな内容の章もあります。■完結していませんが、お気に召しましたら続きも読んでやってください(^▽^) http://novel18.syosetu.com/n2579bh/
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年下攻 BL ボーイズラブ 少年魔王×青年勇者 ファンタジー 小説 

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