奇形の夢
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 私は幼少のころ、日本アルプス沿いの小さな集落に住んでいた。老いさらばえた今となっては、その情緒ある風光を瞼の裏に映し見ることさえままならないが、ひとつの思い出ばかりがことさら強く印象に残っている。

 思い出と言っても、酸い甘いで筆舌するにかなわぬものだ。それはなんともわけがわからない混濁したもので、わけのわからなさに私が決着をつけられず、ゆえに今なお舌の上でほどけずに残っているのである。

 

 それは暑さの厳しい夏の日のことだった。

 私は小学校をようやく卒業するくらいの年齢で、弟はそれよりもずっと小さく、共同体の中で次第に得ていく分別さえ、私の半分も持ち合わせていなかった。現にこのころ、弟は判断の基準のほとんどが私に拠っており、「おいた」のしわよせは私ばかりが被っていた。

 この日私は弟を連れ、実家の背中に広がる低山地に入り込んでいた。シャワシャワとそこらじゅうの木々にくっついて啼いているセミをとらえて遊ぶのが目的だった。今となってはどうしてそんな遊びに夢中になったのか、懐かしさばかりがこみ上げてくるばかりで釈然としないが、とにかく当時の私は、夏になれば虫取りに夢中になっていたのである。

 例にたがわず、私はセミをとらえるのにすっかり夢中になった。途中からは弟を連れていたことさえ忘れていた。山をあっちこっちと走り回り、せっせと虫取り網をふるっていた。

 そうしているうちに、正午は過ぎたものと思う。ふと今までうっちゃっておいた弟のことを思い出して、私は振り返った。一瞬の間弟を見失ったのだと思って肝を冷やしたが、彼は少し離れた場所で、何やらじたんだを踏んでいた。

 不審に思って近づいて行ってみると、弟が必死になって踏んづけていたのは、おおきな蛇の抜け殻であった。私がすぐ隣に立っても、弟は一瞥もくれず、ひたすら足を暴れさせている。

 あまりのひたむきさに私も追従すべきではないのかだとか、馬鹿なことを一寸、考えた。しかしその抜け殻をつぶさに観察した結果、私は考えを中断して体を硬直させた。

 よく山に入って行く私は、両親から蛇の怖さについて散々説きつけられている。幸運なことにそれまで実際に遭遇したことはなかったが、「蛇は恐ろしいものだ」という先入観は、私をしっかりと蝕んでいた。

 抜け殻の大きさははかりしれないものがあり、年のころで言えば長身の部類にあてはまるであろう私の背丈よりも長く、みすぼらしくしぼんでいるにも関わらず、針を無理やり飲み込ませてくるかのような剣呑な存在感を放っている。

 私は弟の手を引き、「バチがあたるからやめろ」と言った。声は自覚せざるを得ないほどに震えている。

 弟は兄がその場に居たことを初めて認識したかのように、ポカリと口を開けて瞳を見返し、抜け殻に対する狼藉をやめた。

 私はほっとして弟を抜け殻のそばから引き剥がした。そして、「昼ご飯を食べに戻ろう」と促した。やはり、弟は逆らわなかった。

 来たときは弟の歩幅さえ考慮に入れなかったというのに、帰るときにはしっかと弟の手を握り締めて、歩いて帰った。なぜか私の心はささくれ立っていて、妙に落ち着かない。早く山を降りなければならないとは思っているのに、歩調は一向に速まらなかった。おそらく、山にとどまることよりも、弟をその場に置き去りに居てしまうかもしれない、という考えが恐ろしかったのだとは思う。

 半分ほど山を降りた時、不意に弟の足がとまった。私が引けど弟の足はややぬかるんだ地面に釘づけにされており、一向に動く気配がない。弟はある一点を見据えたまま視線を動かさず、私がそれに気付くと「あんちゃん、あれ」と抑揚のない声で指をさした。その先を追った私は、はからずも息を呑んで、肺が熱くなるのを感じた。

 木々の合間から私たちを覗く存在があった。白い蛇だ。頭の大きさは小さい弟の頭ほどもあり、泥土を浴びてぬめったような燐光を放っている胴体は、私の身長の二倍ほどもあるのではないかというほど。

 その琥珀色の瞳を覗きこんでしまった時、私は叫び声を出すことも叶わずに立ち尽くした。さながら蛇石になってしまったように、指の一本たりとも動かすことができない。ただ眼球だけが自由で、蛇の瞳と、それを無垢に見つめる弟とを見比べて、せわしなく動き回っていた。

 やがて、視界がだんだんと歪んでいく。明滅を繰り返し、私は立ったまま意識が「まったく別の何か」と混ざり合って、かき回されるのを感じた。

 それはなんと言うべきか、脳の中を何か矮小なものがはいずり回り、時折噛みついてくるような、気味の悪い感覚だった。見慣れた山の景色は荒涼とした異形の土地になり代わり、背の高い木々の枝から垣間見えた空は薄紫の毒々しい、雲のない空になった。とたんに私は、自分がどこに立っているのか、いったいどこのだれなのかわからなくなってしまった。

 耐えがたい頭痛と居づらさに苛まれた私は、何もかも投げはなってしまう前に、自分の硬直した手を見た。私の左手には、小指の外側に六本目の指が生えていた。六本目の指は生来私に備わっていたものではない。始めてみるものなのに、なぜか私はその未知の指の動かし方を知っているような気がした――

 

 

 次に目を覚ました時、私は両親によって手厚い看護を受けていた。

 曰く、山中にて倒れていたところを、近所の住民に発見されて助け出されたのだという。

 日付は私が山に入って行った日から、三日が過ぎていた。その間高熱に浮かされ、どこの言葉かもわからないようなことを延々とつぶやいていたのだと、母は私の額に水で冷やした手ぬぐいを乗せながら話してくれた。

 何が起こって、なぜ今この場で目が覚めたのか、私には皆目見当がつかなかった。ただ、白く大きな蛇と出会ったことと、弟と一緒だったことだけは覚えていた。

 

 あれから、これ以上に不思議な体験をしたことはない。私はこの年齢まで平穏無事に生き続け、とうとう伴侶には巡り合うことがなかったが、それなりに満ち足りた人生を送り続けている。

 気がかりなのは、私には最初から「弟などいなかった」ことだ。私は確かに弟の存在を認識しているが、親に聞いても実際に自分で調べ上げても、とうとう弟の存在を確認することはできなかった。

 私が弟だと思っていたものは、いったいなんであったのか。

 左手の指の数を数えながら考える。何度も。

 私の脳は時折、あるはずのない六本目の指を動かそうとするかのような命令を与えてくる。そのたびに私は、私の中に潜む某かの因子の一端を捕まえて、恐怖するのである。

 

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ホラーめいた何か。たぶんクトゥルフ
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クトゥルフ神話 ホラー 

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