信忠の首
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 この数日、晴天続きで乾ききった京の大路を、一団の騎馬が土埃を巻き上げ駆け抜けてゆく。起きだしてきた人々が、何ごとかという顔で端へ避ける。戦国の世で、みなこのようなことには馴れている。

 先頭を駆ける安西五兵衛は、織田信長の嫡子で現織田家当主・信忠付きの馬廻りである。短躯の中年だが、体中に筋肉を纏った堅太りであった。禿げあがった頭を低く馬の首につけるようにして、ひたすら鞭をふるっている。

 うしろには、五十人ほどの配下が続く。彼らはみな殺気立っていた。つい今しがた、明智光秀謀反の報に接して、主君である信忠を守るべく、宿所の寺から飛び出して来たのである。

 正面の彼方に黒煙があがっている。急を知らせに来た信忠の母衣衆(戦場での連絡係)の言によれば、信長はすでに果てたとみえるということだった。

 行く手の左右から一団の兵が飛び出してきた。数はほぼ互角。旗印を確かめるまでもなく明智光秀の兵である。そのほとんどがすでに本能寺を離れ、信忠の籠もった二条御所へ移ってきていたものの一部だった。

「そのままっ! かかれ!」

 五兵衛が叫ぶと、全員が繰り込んでいた槍を構え、馬の脚を緩めることなく、明智勢の中へ突入した。

 五兵衛は、先頭の数人がしゃにむに槍を突き出してくるのを、かまわず突っ込むと、数本の槍に突き通されて倒れた馬と一緒に転げた。が、その勢いをかって、雑兵の足もとを二間(約三・六メートル)ほども体で横滑りすると、抜刀しながらバネ仕掛けのように立ち上がり、目の前にあった足軽の首をはねた。

 ぽかんとした顔で飛ばされた首と同じような表情のまま、動きの止まった数人を、あとから突っ込んだ五兵衛の配下が突き倒すと、明智の小勢は総崩れとなって散っていった。

 五兵衛は、最後尾の配下が連れた替えの馬に飛び乗ると、ふたたび二条御所を目指して駆け出した。御所までは十五町(約千五百メートル強)も離れていない。いくらも行かぬうちに鬨の声が響き、彼らはさらに速度を上げた。

「急げ! 我らはこれ以上遅れをとるわけにはいかぬのじゃ」

 天正十年(一五八二)六月二日の朝であった。

 

 二条御所の庭には、千に近い軍勢が集まっていたが、広い御所内でまばらに散っているさまは、いかにも心許ない数にしかみえない。しかも完全装備の明智勢に対し、彼らの大半は、経帷子くらいしか纏っていない。予想もしなかった事態に、具足を用意できた者は少なかった。

 対する明智軍はおよそ一万三千。門外で体勢を整えている軍勢がひとたび寄せてくれば、押しつぶされるようにして全滅するのは、その場にいる誰の目にも明らかである。

 それでも兵たちの士気は高かった。みな一様にこの場を死に場所と定めて、華々しく一戦して散ろうと、充実した気力の波が御所内を行きつ戻りつし、今にも門外へ押し出して行こうかという勢いである。

 信忠付小姓である村瀬虎丸は、重臣たちが信忠を囲んで軍議をしている本殿奥の居室にも、そんな雑兵たちの熱気が伝わっていくようだと、室外に控えたまま胴震いをした。

「今さらなにを相談することがあろうか。さっさと打って出ればよいではないか。そう思わぬか、鎌田どの」

 虎丸と障子を挟んで、同じように控えている、馬廻の鎌田新介は、無言のまま、かすかに首をかしげただけだった。

「覇気のない男だな」

 十七歳になったばかりの虎丸には、少しばかり年かさである新介の落ち着きぶりが気に入らなかった。一刻も早く腰のものを抜きたくてたまらず、いまにも腰を浮かさんばかりであった。

 

 部屋のなかでは、ここに至って意見の食い違いがはなはだしく、ひといくさして果てるべきというものと、落ちのびる道を探すべきだというもので真っ二つに割れていた。

 この御所は、もとは、誠仁親王(皇太子)のために信長が献上したものである。どの居室も、当代の実力者たちによる絢爛とした内装が施されているが、いまは具足を着けたものたちに、あちこちと土足で踏み荒らされていた。

 流麗な柄の襖が、大音声に晒されてびりびりと震えた。

「余は雑兵などの手にかかってみっともなく死ぬのは後免である。出陣じゃ」

 ひとり床几に座る、当年とって二十六歳の織田家当主、信忠は、あくまでも戦って死ぬことを望んだ。ほとんど完全に鎧手甲など着け終えていた。さきの武田攻めでは、大将の器にあるまじき敵城への一番乗りを果たして、槍を振るった偉丈夫である。

 面前に控えて板の間に座る重臣たち数人の中から、ひとりが立ち上がり、感に堪えたように言った。

「さすがは織田家御当主、殊勝なお心がけでござる。さあ、殿がこう仰せられておるのだ、かかれの陣ぶれを出されよ!」

 そのまま信忠をうながして、部屋を出ていこうとした。

「待て、待て待て、お待ちなされ」

 慌てて立ち上がり、信忠と重臣を両側から挟むようにして止めたのは、信忠の叔父である織田長益と、京都所司代の村井貞勝である。

「殿、それからご同輩も落ち着かれよ。ここは落ち延びて、大殿のご無念を晴らすのが上策かと存ずる」

 そう言った長益を、信忠が睨みつけた。

「それは無理というものじゃ。他のものならばいざ知らず、惟任(光秀)がことに及んで、むざむざと余を見逃すような備えをするはずがないではないか」

「いや」

 村井貞勝が口を挟んだ。この重臣の屋敷は本能寺の真向かいにあった。しかし、明智勢の攻撃が始まった後から、息子二人を伴って、信忠の宿であった妙覚寺へ難なく逃れている。そこにいた手勢五百あまりを率いて飛び出した信忠が、明智勢に阻まれて戻ったあと、隣接する、この二条御所の方が守りが堅いと、移るのを勧めたのはこの男であった。

「それがしがここにおるのが、明智の手当が万全でない証じゃ。まだまだ落ちる目はありますぞ」

 信忠が生まれる前からの重臣である貞勝にそう言われると、いかに織田家当主といっても、頭から否定するのはためらわれた。

 貞勝に言わせれば、そこが父信長との差だが、いまはそこに付け入ってでも、この若い当主を生き延びさせようと必死だった。ほかの兄弟の器量や、織田家をとりまく状況を考え合わせれば、信忠がここで果てれば、織田家の天下が終わる可能性はかなり高い。

 老人は諭すように、ゆっくりと言った。

「明智の手勢のみで京を囲むことなど無理でござる。落ち延びることは無理とは言えぬはず。いかがでござる。この老いぼれ、我が身かわいさに申しておるのではありませぬぞ。そのためならば、喜んで老骨を差し出しまする」

 すかさず長益が、貞勝の言葉に乗っかっていく。

「貞勝の申すとおりじゃ、少ないとはいえ、我らの手勢は千は超えておる。これだけいれば、囲みを破って安土へ戻ることは、決してかなわぬことではござらぬ。手勢の半分は、あとから集まった者たちじゃ、つまり、入れるということは出られるということではありませぬか」

 妙覚寺にはすべての配下が入りきらず、京の町中に分散して宿していた。いま、庭にいる者たちの半分は、変を知った信忠が放った母衣衆に知らされて集まってきたのである。

 信忠の眉がかすかに上がった。

「ここに至ってはもう遅いわ」

 語尾を、喚声がかき消した。御所の四方八方から明智勢の鬨の声が響き、陣太鼓が打ち鳴らされるのが聞こえてきた。

「始まったわい。ひとまずはこれを押さえねば話にならぬ。ええいやむを得ん。殿、出陣されよ!」

「言われるまでもないわ! 出陣じゃ!」

 勢いよく歩み出しながら、信忠が触れを出した。

 その声に「おう」と応じて、部屋にいた者たちが、一斉に立ち上がった。

 

 障子が開かれ、貞勝が姿を現した。鎌田新介に声をかける。

「鎌田か。そこの小姓も、あと残っている者たちも全て集めて、殿をお守りせよ」

「はっ」

 平伏する鎌田新介とともに、虎丸もいよいよと目を血走らせながら、主を待った。

「出陣ぞ!」

 重臣たちが口々に喚き立てながら、居室を出てきた。信忠は軽装ながら具足を着け、重臣のひとりである前田玄以を伴って現れた。鎌田新介が前を行き、虎丸はほかの小姓たちとともに、しんがりに続いた。

 しばらくすると、廊下を踏みならしていた信忠の足が止まった。ほかの者たちが足並みを揃えて止まったのに、興奮していた虎丸は、ふいを突かれたてたたらを踏んだ。

「玄以」

 信忠が前田玄以を呼んだ。

「は」

 信忠は玄以に、三歳になる嫡子・三法師を連れて安土へ落ち延びるよう命じた。玄以と供の者が奥へ引き返すのを確かめると、信忠は再び歩き出し、本殿を出た。

 逃れられぬと言いながら、嫡子を落とそうとする主君に、一抹の疑念を覚えた虎丸だったが、それを打ち消すように頭を振ると、後に続いて歩き出した。若年とはいえ、信忠の敵城突入にも供をし、よく敵兵を防いで信忠を守り通した剛の者である。裏切りが日常茶飯事の世にあって、武門としての身の処し方を、何よりも重く見ている男でもあった。

 

 御所の庭では、それまで静かに待ちかまえていた信忠勢が、騒然とし始めていた。

「来おったぞ」

「待っておったわ」

「ただで殿が首取れると思うな! 万の軍勢、半分に減らすと思え」

 そこへ信忠が現れ、出陣の下知をくだした。

 兵たちは待ちかねたように思い切りよく表門を開いた。

 開けた途端に、織田勢の目の前は、明智の印である水色桔梗の旗印でいっぱいになった。

 すでに明け切って晴れわたった京の青空のもとに、門前の大通りを、見渡す限り左右に広がって、彼方では空の色と溶けあい霞んでいた。

 その水色の波が、たちまち織田勢に押し寄せた。だが織田勢はまったく怯まなかった。

「槍を振り上げるな、門に当たるぞ! 叩くな、突くのじゃ!」

 侍大将の下知に従って門の中から槍を突き出しながら、その大波の中へ次々と突入していった。

 その中で、虎丸は信忠近くで警護するのが小姓の任でありながら、庭に出た途端にしんがりから外れると、槍を手に寄せ手へ向かって飛び込んだ。この期に及んで、少々の軍律違反など気にする者はいない。

 まずは、多勢を頼んで呑んで掛かってきた足軽四人を、槍で横殴りになぎ倒した。

 隣では、そのたたずまいに似合わず、虎丸と同時に飛び出してきた無口な鎌田新介が、右腕一本で三人を串刺しにし、その槍を捨てると、左に抱えたもう一本の槍を素早く両手に持ち替え、今度は倍の六人を突き通し、中背ながら虎丸に劣らぬ膂力を見せつけた。それも捨てると長刀を抜き、切り返しに二人を倒した。

「やるのう」

 虎丸は感心しながら、自らは槍を横に構えると、さらに正面の足軽五人を押し戻して、そのまま仰向けに転ばせると、次々に突き殺していく。ひとりが下から刀を振り上げたが、ひらりとかわすと、その顔の上に降りて踏みつぶしながら、勢いよく槍を突き立て、腹を地面に縫いつけた。断末魔さえあげられず足軽が絶命する。

 間髪を入れず、力任せに槍を引き抜いた。足軽の内蔵の切れ端がからまって、たらたらと血の滴る槍を構えなおすと、五間(約九メートル)先にいる、馬上の侍大将へ突進した。槍の穂先からは、疾駆する虎丸が切る風に散った足軽の血が、衣服に転々と染みをつくった。

 侍大将を討たせまいと打ちかかる足軽を、造作もなく突くと、崩れ落ちる体を足がかりに飛んだ。

 目の前に突然現れた小姓に驚き、一瞬刀を出すのが遅れたのを悔やんだときには、侍大将は首もとを貫かれていた。

 虎丸は、血しぶきを上げながらもんどり打って転げ落ちた侍大将から奪った馬の上にまたがった。その右側から、明智の足軽たちが一斉に刀を突き出した。反転しながらこれをかわすと、味方の側に降りて馬を盾にした。回り込もうと焦った七、八人の足軽は、馬の下を走り抜けて現れた虎丸に、残らず突き通された。

 素早く刀を抜きながらそれを踏み越え、次の獲物にとりかかる。恐れをなした雑兵どもの腰が引けたところを、面白いように討ち取っていく。門を出てわずかの間に、虎丸に亡き者にされた者は十数名に及んだ。

 鎌田新介が虎丸と併走しながら、無言で敵を蹴散らしていく。刀が次々と刃こぼれをおこすが、その隙に打ちかかってくる者を、脇差しを片手に巧みに防ぎながら、討ち取った敵から新しいものを奪っては新手に対していた。

 時に長刀を使い、時に拾った槍を片手で操って背後の敵を突き通す。脇差しだけは自分のものを手にし続けている。虎丸と違い、一人一人を確実に仕留めて、こちらも同じほどの数を屠っていた。

 他の者たちも鬼の形相で奮戦して、十倍以上の明智勢を相手に、逆に押し返す勢いである。市街戦で、明智勢が数の力を最大限には発揮でなかったことも、織田勢には有利であった。虎丸や新介ほどではないにせよ、数の上でははるかに下回りながら、あたりでは明智の兵ひとりに織田勢数人が取り囲んで討ち取っている有様さえ見られた。

 彼らの足もとには、水色桔梗の旗指物が、次々と明智勢の手を離れ踏みしだかれていった。そのうえから敵味方問わず血がぶちまけられ、土埃と混じり合って黒々と染め抜かれていく。

 ついに明智勢が崩れ始めた。そこここで恐慌をきたした者さえ出て、いかに整備された京の大路とはいえ、万を超える軍勢が立ち動くには狭ことこの上ない場所で、押し込もうとする後詰めと、逃げようとする前線の兵がぶつかり合い、明智勢は大混乱に陥った。織田勢は、かさにかかって斬り放題に切り伏せ始めた。

 その様子を知らされた光秀は、やむを得ずいったん引くこととした。

「お、退き太鼓じゃ」

 おびただしい明智の死体の上を、退き太鼓が響き渡っていく。今しがたまで激しく組み合い、斬り合っていた双方は手を止めると、別れてぞろぞろと互いの陣に引き上げた。疲れ切って足を引きずるようにして帰って行く明智勢とは対照的に、織田勢の足取りは軽い。

 最後に、一番奥まで追って行っていた虎丸と新介が戻ると、織田勢からは歓声さえあがった。

 本殿前に陣取った信忠を囲む重臣たちのなかで、貞勝と長益が大きく息を吐いた。

「やれやれ、地の利に感謝じゃの」

 貞勝が、長益だけに聞こえるようにつぶやいた。長益が、前を向いたまま、小さく頷いた。

 ふたりの背後では、立ち上がった信忠が、自軍の戦いぶりに興奮気味で称賛の声をかけてやっていた。

 御所内へ引き上げた虎丸は、やたらと足軽や同輩の小姓たちに肩や頭を叩かれるのから逃れると、さすがに疲労を覚えて、庭石の一つに座り込んだ。だがその頭の中は興奮でかっかと煮えたぎったままだった。彼から三間(約五・四メートル)ほどのところでは、新介が涼しい顔をして立ったまま、血を吸って真っ黒になった手ぬぐいで、はたはたと顔を扇いでいた。

 

「しまった、遅かったか」

 二条御所を目指していた安西五兵衛たちの行く手に、明智勢が移動して行くのが見え、五兵衛は歯ぎしりした。明智の小勢と小競り合いをしてすぐに、御所の方角から鬨の声があがったので、すでに信忠が討たれたのではないかと危惧していたことが、本当となったのかと思ったのである。

 五兵衛たちが走る路と交わる通りを、明智勢は一団となって左から右へ横切っていた。五兵衛らの左手は、すでに御所の築地塀がそそり立って、明智勢のところまで続いている。真正直に正門を目指していた彼らは、明智勢の様子を訝しんだ。

「止まれ」

 五兵衛が馬を止めた。

 明智勢までは、およそ三町(約三百三十メートル)、当然五兵衛たちに気づいているが、なぜか動きは鈍い。

「何やら疲れ切っておるように見えまするな」

 配下の一人が声をかけた。

「もしや、惟任どのを討ち取ったとか」

 脇の小路へ隠れながら五兵衛が言った。

「それならば奴らは逃げ散るでありましょう。ひといくさして、信忠さまに押し返されたのではありますまいか」

「では」

「はい。まだ間に合うのでは」

 五兵衛が顔だけ出して明智勢の様子を窺いながらうなずくと、声がした。

「そこで何をごちゃごちゃと言うておるのじゃ。退き太鼓のあとじゃから追ってはこないと思うが、門外にいるのであれば、必ず襲ってこないとはいえんぞ、加勢ならば早うこい」

 声のする方を見ると、走ってきた路を挟んだ築地塀のうえから、中年の足軽がひとり、首を覗かせていた。

「おお、これはお味方か。我らは南の寺へ宿しておった信忠さま馬廻の安西が一党じゃ。取るものもとりあえず駆けつけたのじゃが、何が何だか分からん。どうなっておるのか教えてくだされ」

「退き太鼓と言ったじゃろう。いましがたひと揉みして押し返したところじゃ。それにしても、殿さまのお側近くに仕える御馬廻が、そのような遠方に宿しておったとは、ちと怪しいのう」

 五兵衛は痛いところを突かれて、顔を真っ赤にした。

「わ、我らは先年より仕官したばかりであるから、譜代の方々に遠慮して、手狭になる妙覚寺より分宿したまでじゃ。こちらが下手に出ておれば、足軽の分際でそのような物言い、ぶ、無礼であろう」

「ははあ、武田を裏切って仕官した諏訪の田舎ものがおると、我らのような者の間でも噂になっておったのは、お主らか。つまりはひとつ宿に泊めるほどには、信用されていない訳じゃな」

「おのれ」

 思わず出て行こうとするのを、五兵衛は配下の者に羽交い締めにされて止められた。

「南から来たのだな? ならばそのまま戻って、ひとつ目の角を右へ曲がれば、その先に御所の裏門があるわい」

 それだけ言うと、足軽はにやりと笑いながら首を引っ込めた。

「まったく小憎らしい奴じゃ」

「そんなことよりも」

「そうじゃな。よし! 裏門へ急ぐのじゃ」

 五兵衛たちが再び表通りへ出た途端、二度目の寄せ太鼓が明智勢から打ち鳴らされた。

 それまで遠巻きに様子を見ながら、少しずつ距離を詰めてきていた明智の兵から、少なくない人数が別れ、土煙を上げて五兵衛たちの方へ走り出した。

「まずい! 戻れ!」

 彼らは慌ててもとの小路へ引き返した。

「お頭!」

 小路の奥から配下が叫んだ。五兵衛が首を伸ばすと、細い路の向こうから水色の旗指物が無数に迫ってくる。

「くそ! やはり大路へ出るぞ。散るな!」

 叫びながらもう一度大路へ出たところで、五兵衛はさらに声を張り上げた。

「せめて家名を汚すなよ! 国に誉れが届くほどに働け!」

 自分たちはここで討たれ、この世での栄達は敵わぬだろうことは見て取れた。あとは一族のために、人の口に語りぐさになるほどの働きを見せるしかない。主家の武田を見限り寝返った者たちである。ここで逃げれば、いかに裏切りが習いの戦国の世とはいえ、浮かび上がる瀬は限りなく小さくなるであろう。

「路が狭いのだけが幸いじゃ」

 どれだけ相手が多くても、一度に掛かるのは十人がいいところである。ならば五兵衛たちにも戦いようはあった。

 先陣が五兵衛に迫る刹那、馬をいきなり横付けにした。繰り出された数本の槍が馬を貫く。国から連れてきた愛馬の断末魔を聞きながら飛び降りると、突き通した槍を抜こうとしている足軽目がけ、配下のものと共に突っ込んだ。脇差しを抜刀できた者はひとりもなく首が落ちた。

 間髪を入れず、敵の二列目から、さらに倍する槍が繰り出される。

 頭を低くして突進すると、背中へ回した手に持った長槍を横にして、相手の槍に絡め、十本まとめて跳ね上げた。残りを味方がはじき飛ばす。

 宙に舞った十数本の槍を見上げた足軽たちの首が、後を追うように舞い上がる。十数本の槍と、同じだけの首と血しぶきを浴びた敵の後列が怯んで、一歩引いた。

「我こそは織田信忠さまが家中御馬廻衆、安西五兵衛じゃあ! かかれ!」

 古式ゆかしく名乗りを上げて切り込んだ。人数の多寡は問題にならず、明智勢は完全に気圧されて浮き足立っていた。

「何をしておる! このような小勢、さっさと」

 侍大将はみなまで言えず、五兵衛の投げた槍に胸板を貫かれて落馬していった。それを見た足軽たちが、侍大将の死体を踏み越えて下がった。数人が足を取られ転んだところを、血祭りにあげられていく。

 接近戦で弓も鉄砲も使えず、下がろうとする前線と押し出そうとする後列がぶつかり合い、最前線は混乱に陥り、次々と討ち取られていった。

「塀へ上がれ、上からならば弓が使える」

 上がろうとした者は、逆に御所のうちから狙い撃ちに矢で射られ、上がるそばから落ちてくる。

「おお、味方の意気は軒昂じゃ」

 それを見た五兵衛たちがさらに勢いづいて押し込んでいき、圧倒的な数を誇る明智勢の前線は、恐怖に染め上げられて逃げ出しにかかった。

「よし、裏門へ急ぐのじゃ! 続け」

 五兵衛らは、逃げる者は深追いせずに、まずは信忠へ合流すべく、教えられた裏門へと急いだ。

 

 庭の本殿前では、自ら打って出ようとする信忠を、貞勝と長益が必死に押しとどめていた。

「どかぬか、儂も一太刀なりと浴びせてくれよう」

 長刀を掴んで仁王立ちの信忠に、長益が立ちはだかる。

「いけませぬいけませぬ。そのようなこと、まさに蛮勇じゃ。大将のなさることではない。何を見てる、押さえるのじゃ。殿を出してはならぬ」

 長益に言われた重臣たち数人が、慌てて押さえ込み、押し返し刀を取り上げた。

「なにをする。叔父うえといえど、許しませぬぞ。父の仇を討たせぬとはどういうことじゃ!」

 信忠が、四方八方から押さえつけられながら怒声を発した。押さえる方も、ここで離せば自分たちの運命が決まってしまうので必死である。

「こんな小勢で討てるわけありませぬ。しかし落ちることはできまする。仇を討つならば、万全を期して臨まれよ」

「落ちるなど無理じゃ。惟任がそのようなことを許すはずはない。ならばここで潔く一矢報いてくれるのが武門の処し方じゃ」

「ここで打って出れば、部将のひとりくらい打ち取るのが関の山で、仇は討てぬまま果てるのですぞ。それでよろしいのか」

「この期に及んで屁理屈を申すな! 武門としての矜持を言うておる!」

 長益が諭すほど、信忠は激高していくばかりであった。

 それまで、黙って成り行きを見守っていた貞勝が口を開いた。

「黙らっしゃい!」

 信忠も長益も突然の一喝に言葉を失い、表の乱戦の声が、広間を満たした。

 日ごろ温厚で、怒った顔などまず見せない貞勝が鬼の形相に変貌していた。そのまま一同をひと睨みすると、信忠へ視線を移した。表情が緩み、いつもの仏の顔になる。

「殿、落ちなされ」

「おのれ、まだ言うか」

 信忠の怒気が強まる。

「何度でも申すわい。おのれの申すことは子供の我が儘じゃ」

「そ、それが主君への申しようか。誰か、この者を討ち取れ!」

 だが、誰も動かなかった。重臣たちは、変わらず信忠を押さえつけたままである。

「聞こえぬか! この無礼者の首を刎ねよ」

 貞勝はゆっくりと腰を降ろした。

「ほお、またあの小姓と馬廻が奮戦しておるのう。あのふたりは、まったくたいしたものよ」

 そんなことを言いながら、信忠を睨んでいる。

「おお、またも明智の退き太鼓じゃ。今度も押し返したわい。やれやれ、羽柴もこのような弱兵に加勢されても迷惑なだけであったかも知れぬのう」

 ふたたび明智が引き、織田勢は門を閉めた。

「信忠どの」

「なんじゃ」

 信忠はつり込まれるように、思わず返事をしてしまい、舌打ちをした。

「もう大殿はおらぬのじゃ」

「分かり切ったことを申すな」

「だからの、もう影を追う必要はない。仇を討ちたければ、ご自分のされたいようになされればよい。誰も否やは言わぬ。じゃが、ここで果てるというのならば、それは末代までの物笑いじゃ」

「影とはなんじゃ。大殿のなさりようを手本にいたすは当然のこと。おのれにそのような申しようをされる謂われはないわ」

「ならば、何としても落ちなされ。大殿ならばそうされよう。一騎駆けででも一縷の望みがある限り生き残って再起を図るのが大殿じゃ。そうあってこそ、お心に適うというもの。ここで短慮のままにお命を落とし、取れる天下を取らなかったとあれば、あの世で大殿に打擲されましょうぞ」

「天下をか……。しかし、街道は押さえられておろう。何度も申すが、惟任に抜かりはあるまい」

 重臣たちの手が緩んだ。信忠は動かない。

「さて」

 突然、長益が口を開いた。

「儂は表を見てくるかの」

「なんじゃと?」

 信忠が怪訝な顔をした。落ち着きを取り戻したと見て、重臣たちが離れた。

「親王さまをお移ししなければ。それがしが使者にたちましょう」

「そうであった。行け」

 長益は、単身明智勢の陣へ赴き、親王と公家衆を避難させる間の停戦を取り付けた。

「では、よいですな」

 貞勝に念を押され、信忠は渋々と頷いた。

「とはいえ、さすがにまともには落ちられぬであろう。さて」

 しばらくののち、長益が戻った。

「おお、長益どの。囲みはどのようじゃ」

「大したことはないのう。惟任が切れ者などとは眉唾物じゃわい。裏などはかなり手薄じゃ。なんとかなるのではないか」

「ではどのように」

「うむ」

 長益が腕組みをして考え込んだ。

 

 御所の庭には、返り血を浴びた兵がそここに腰を降ろし、つかの間休息を取っていた。虎丸が鎌田新介を見つけて歩み寄った。

「先ほどのお働き、見事なものでしたな」

 鎌田新介は、ちらと虎丸を見やっただけで、「いや」とだけ言うと目を閉じてしまった。

「張り合いがないお方じゃ」

 辺りを見回しながら、本殿前に近づいた。小姓であるから、護衛の者も皆見知った顔である。見とがめられるようなこともなく、信忠の面前に控えた。先ほどの攻防に、信忠が督戦に顔を見せなかったのが、少し気がかりだったのである。

 気づいた長益が声をかけた。

「虎丸か。かなりの働きだったそうじゃな」

 そして、奥へ鎌田新介を呼ぶように言った。

 呼びに行く虎丸が気配を感じて振り返ると、信忠と重臣たちが本殿の奥へ引き返して行くのが見えた。

「お主は表でいくさがしたいのであろう。よいわ、許すゆえ存分に働いて参れ」

 新介を伴って本殿へ上がった虎丸は、信忠直々にそう言われて、感激しながら庭へ舞い戻った。

「さあ早よう参れよ明智ども、主命じゃ、目にもの見せてくれよう」

 まるでそれに応えるように、三たび寄せ太鼓が打ち鳴らされた。

 三度目も明智勢は正面から力攻めにし、小競り合いだけでさっさと引いた。だが、その間に御所の向かいに建つ、公家の近衛邸に入り込むと、屋敷の屋根にいくつも梯子をかけ、鉄砲撃ち手や弓隊が続々と上がっていった。

「まずいの。あそこから射かけられては、なかなか難しいことになるわ」

 足元の不安定な屋根の上で、徐々に陣形を作りつつあるのを見て、虎丸がつぶやいた。

「それにしても、殿はいったいいつになったらお出ましになるんじゃろうか」

 そのとき、表に信忠が現れ、庭に面した廊下に立つと、欄干に片足をかけ、采配を打ち振るいながら、大音声で信忠これにありと叫んで、明智を挑発し始めた。

「おお、殿じゃ」

 庭の中ほどにいて、遠目に信忠を見た虎丸は、信忠に負けぬ大声で門を開けよと言いながら、正門へ近づいていった。

「なりませぬ」

 足軽数人が、虎丸を押しとどめた。

「何故じゃ。今ならばまだ、奴らの陣形は整いきっておらぬ。切り込めば崩せる。なまじ数を上げておるから効き目は大きい。どけ! どかぬかっ」

 足軽を三人ほどはり倒すと、こじ開けた門の隙間から単身表へ出た。待ちかまえていた弓隊が射かけてくる。素早く彼らのいる近衛邸の門に近づき、門の庇を盾にして隠れた。そこで手にした槍で地面を突くと、長槍を昇って塀の上に出た。突き立てた槍を繰り込んだと思う間もなく、屋敷内に転げ込むと、今度は屋敷の軒に槍を立てかけて、それを手がかりに上り、軒に取り付いた。上がった先の目の前に、二階へ上がろうと梯子に取り付いたばかりの足軽の尻があった。

 屋根へ上がると同時に、足軽の尻を突き通し、それを振り払って、下へ投げ捨てた。そのまま梯子を上がる。目の前に驚愕した表情が貼りついた弓隊が五人。彼らは、虎丸が抜刀したと見たときには、ひとり残らず首をなくして倒れていた。

 虎丸が、横一列に並んでいた真ん中へ踊り込んだため、明智勢は彼を挟んで向き合う形になってしまい、同士討ちになるので弓がひけず鉄砲も撃てなくなった。回り込もうにも足場が悪く、もたついているところを、片端から仕留められていく。数人が弓を捨て刀を抜いた。しかし斬り合いでは虎丸の敵ではない。

 逃げようとする者と加勢に駆けつけようと上がってきた者とが屋根の上で入り乱れ、多くが転落し、明智勢は四度、混乱の極みに突き落とされた。その中を、虎丸が平地を走るように軽々と駆け抜けながら、次々と敵を刃にかけていく。

 これだけかき回せば、味方も押し出してくるのではないかと、目の端で御所のうちを捉えた虎丸の目は、信じられぬものを見て見開かれた。

「殿が、おらぬではないか」

 今も、本殿外の廊下には、信忠の具足をつけた大将が采配を振るっている。しかしそれが信忠でないことは、虎丸にははっきりと分かった。目が良いことも良いが、それ以上に、何年も側近くに仕えてきたのである。どれだけ離れても見間違えることはない。

「影か」

 正面の足軽を斬り伏せ、振り向きざま五人をまとめて突き落とす。さらに三人が巻き添えを食ってひと固まりに落下していく。

「つまり、殿は敵に背を見せて落ちるおつもりなのか。これだけの数じゃ、街道など押さえられておるわ。殿がご自身でそう仰ったものを。ええい、邪魔だていたすな!」

 虎丸ひとりに、いいようにかき回された明智勢の部将が業を煮やし、屋根の反対側から身の軽い者を加勢に差し向けた。さすがに身のこなしが互角に近いと、そうそう容易く討ち取れるものではない。虎丸は軒の端まで一気に駆けると、地面へ突き立ててあった槍を目がけ、間髪を入れずに二階の屋根から飛び降りた。

 斜めに突き立ててあった槍に身を当て、勢いを削ぐと、すぐさま立ち上がる。近衛邸の門は開け放たれていた。明智勢が攻め込むためである。数百人の弓手に射かけられながら御所まで走る。それを見た、最前殴り倒された足軽たちが、御所の正門を僅かに開け、虎丸を引き入れた。

 

 虎丸を引き込むために開けたわずかな隙間をこじ開けて、明智勢が御所内へ漏れ出している。ひとりを数人が押し包んで討ち取っているが、今にも門が破られるのは明らかである。

 側には、たいそうな具足を着けた貞勝と長益が並んで立っている。その脇に護衛として控える数人の中間のうちのひとりが、本物の信忠である。

 影武者の隣には、介錯役として鎌田新介が寄り添っている。

 近衛邸の屋根では、虎丸が引き上げてようやく陣を整えた弓隊と鉄砲隊が一斉に攻撃を始めた。庭の信忠勢が、隠れるところもなく、ばたばたと討たれていく。守る者がいなくなった表門が開いた。

 

「お頭、あれを」

 五兵衛たちは、御所の裏へ回って、中へ入る機を窺っていた。しかし、それより早く、明智の、これまでにない大攻勢が始まってしまった。裏手では、人数こそ少ないが、鉄砲隊が路の左右を警戒していて、迂闊に路地から出られなくなっていた。

「中へ入らねば、武名を上げることも敵わぬ。かといってみすみす鉄砲の的にもなりたくないしの。さて、どうしたものか」

 

「そろそろじゃな。よし、裏へ参るぞ」

 貞勝が身を翻した。

「長益どのっ! かなりの人数が裏から責め立ててきておるぞ。儂と共にそちらを固めるのじゃ」

 貞勝がわざとらしく叫んで、長益を列へ加えた。それ意外の中間、馬廻りは、影武者の回りを取り巻いてもっともらしく守りの姿勢を見せる。

 庭の人数は半分以上討たれ、明智勢もかなりの数が入り込んできている。その中を本殿目がけて虎丸が疾走していた。火矢が飛んだか誰かが放ったのか、床下から火の手が上がった。

 

 信忠が中間に化けて逃げることを承知したときから、裏には、僅かな手兵から、腕の立つ者ばかり百人ほどを割いていた。彼らは死にものぐるいの奮闘で、二千はくだらない明智勢の猛攻を、よく凌いでいた。

 裏での主戦場となっている裏門まわりから六間(約十・八メートル)ほどの角で、信忠たちの一団、およそ四十名は様子を窺った。

 貞勝が、機を見て飛び出した。

「明智が者ども、ようく聞け! これにあるが、織田家当主中将信忠さまじゃ!」

 貞勝の後ろから、立派な具足を纏った若者が前に出た。その手には采配まで持っている。

「たかが明智ずれに儂が首取れるなどと思い上がるでない! 者ども、丹羽が軍勢はすぐそこじゃ、蹴散らせっ!」

 二人目の影武者が吠える。一人目は、未だ本殿おもてで槍をふるっていた。

 丹羽のことなど、とんでもないはったりである。織田家譜代の重臣・丹羽長秀が救援に駆けつけたと言っているのだ。この時、長秀は実際には、信長の三男で、伊勢の豪族神部氏を継いだ信孝と共に、四国攻めに備えて大阪にいた。いかに何でも、早朝に発覚した謀反に駆けつけられる訳はない。

 しかし、そのはったりが一番効いたのは、門外にあった五兵衛であった。

「信忠さまじゃ、殿が裏へお出ましじゃ! 丹羽様も駆けつけなさる。勝てるぞ! かかれっ」

 突然現れた敵の大将である信忠へ、明智勢の鉄砲隊の銃口が向けられ、自分たちが火線から外れたのを逃さず、五兵衛らがしゃにむに突っ込んでいった

 

「とのーーっ。殿っ、ご無事でござるかあっ」

 敵を切り伏せながら塀の上にひとりの馬廻が昇って呼ばわった。五兵衛である。そのまま御所内へ転げ落ちながら、「手はず通りにな」と。門外の配下へ念を押した。

 五兵衛は素早く長益たちの前へ走り、立ったまま説明した。今から門を開く。門を出て左へ折れれば明智の陣形に穴が空いているので、そこを目がけてとにかく走れと。しかし、五兵衛がしきりに気にしているのは、第二の影武者の方である。

 使えてからまだ日が浅く、遠目にしか信忠の姿を拝んだことがなかった。背格好と具足の立派さで判断したに過ぎぬ。

 その時、門が開いた。

「門が開きましたぞ! 駆けられよ!」

 手の者が叫んだ。

 裏へ回された信忠勢のうち、半分近くが息絶えていたが、残りが狭い裏門へ殺到して道をこじあけた。中間の半数が長益と、本物の信忠を囲んで後へ続く。残りは少し離れて、采配を打ち振るう影武者を取り巻いた。

 裏手も、路の狭いのが彼らに幸いして、小勢でも何とか持ちこたえているが、いくらもせず全滅するのは明らかである。ひとり、ふたりと明智勢が中へこぼれ落ちては討ち取られているが、やがて形勢が逆転するのは必定である。

 織田方が数十人、門の中ほどで明智勢を押し返している。その背中と、門柱との僅かな隙間を通り抜けて中間姿の信忠が走り、あとに長益と貞勝が続いた。それだけの間に、明智勢に立ちふさがる味方はさらに討たれていき、信忠たちに同道した中間と五兵衛たちの生き残りを合わせても、五、六十人ほどにまで減っていた。

「とにかく走るしかござりませぬ」

 そう言った与助の前を先導しようとした五兵衛の手の者が、突然倒れた。土煙の向こうに立ちふさがったのは虎丸である。繰り込んだ長槍を右手で持ち、天を突いている。

「たとえ主君といえど、見苦しい真似をして、武名を貶めるのは許さん!」

 虎丸の目が、本物の信忠を捜す。

 さらに後ろでは、明智勢が押し寄せるのを、五兵衛たちがどうにか食い止めていた。しかし、目に見えて後退してくる。もはや味方は三十人ほどである。路の幅を塞ぐだけの人数がいなければ、あっという間に押し包まれて終わる。

 その時、御所のうちから、木の折れる音が無数に折り重なり、すぐに地響きに変わった。高々と舞い上がった、夥しい火の粉が降り注いだ。

 開いた門から、燃えさかる柱や梁が路へ滑り出た。数人が反対側の塀に押しつぶされる。

「駄目じゃ! 信忠さまはあの中じゃ。これではどうにもならぬ」

 中からの怒号で、明智勢が信忠が死んだと思ってくれたらしめたものである。が、虎丸の方はそれで見逃すはずもなく、本物の信忠へ向かって大股で近づいていく。炎に包まれた、一抱えもある柱が何本も、横倒しに路を塞いで、明智勢と分断してくれたのだけは幸いであった。

 虎丸は、炎の向こうにいる明智勢など、眼中になかった。間合いが五間(約九メートル)まで詰まった。

 五兵衛が、明智勢を押し返すと、反転して炎を飛び越えた。そのまま虎丸へ向かって飛び込んだ。虎丸の手っ甲が弾ける。五兵衛は左耳が飛んでいた。が、委細構わずそのままぶちかました。互いに相手を押し返し離れる。下がった拍子に五兵衛は足を取られ、よろけた。

「見つけたぞ」

 五兵衛の後ろにいる長益の、さらに背中に隠れるようにしている信忠は、虎丸にとってこの上なく醜悪なものに見えた。睨みつけながら、ふたたび飛んだ。五兵衛と長益が重なって倒れ、信忠の正面ががら空きとなっていた。

 信忠も脇差しを抜いているが、武技で虎丸に敵うものではない。まして、虎丸は槍である。

 後ろにいた貞勝が飛び出し、信忠を突き飛ばした、その首が、信忠の代わりにえぐられ貞勝は絶命した。仰向けの頭の上で戦いを始められてしまった五兵衛が、槍を無理矢理横に振ったが、虎丸は難なくかわして信忠を狙って槍を繰り込む。

 長益が脇差しを抜き、虎丸の背後を襲った。槍働きなど殆どしたことのないなまくらは、右腕一本で弾かれた。中間が信忠とは知らぬ五兵衛が立ち上がり、長益と虎丸の間に割って入った。

「どかぬか!」

 長益が叫ぶ。五兵衛は、なぜ長益にどやされるのか分からぬが、虎丸から目を逸らせば貫かれるので、振り返れなかった。

 そこへ、炎の向こうにいる明智勢から、矢が射ち込まれ始めた。

「いかん、見通しがきかぬのに構わず射ってきおる」

 長益が信忠の盾になろうと回り込んだ。それをさらに守ろうとつられて動いた五兵衛に、虎丸の長槍が伸びた。

「この役立たずが、逃げずに殿をお守りせい!」

 五兵衛が掴んだのは、中間姿をした信忠の襟首である。そのまま盾にするべく、虎丸へ向かって投げつけた。長益が、声にならない悲鳴をあげた。

「かたじけない」

 本来の獲物を眼前に送り込んでくれた五兵衛に礼を言いながら、虎丸は信忠の首を真っ直ぐに突き通した。信忠の盆の窪から抜けた槍が、夥しい血を降らせる中、信忠の脇から繰り出した五兵衛の槍が、まるで笑っているような虎丸の、首の真ん中をぶち抜いた。

「……しまいじゃ」

 呆然と呟く長益を追い立てるようにして、五兵衛は走り出した。

 

 五兵衛は、配下の全てを失いながら、長益と共に、かろうじて安土へ辿り着いた。

 だが、信忠を見殺しにして、ひとり落ち延びたと非難された長益のとばっちりをくらい、ろくろく恩賞にもありつけず、苦虫を噛み潰す日を数日送った後、もはや長益の元では立身は適わぬと見切りをつけ、出奔した。

 京では、光秀が必死に信長親子の首を探索したが、ついに見つからず、本能寺の報を知った秀吉が、驚異的な速さで軍を戻す間、生存説に苛まれ続けた。

 

 変のあと、信忠は他の者たちとともに、無名の中間として、葬られた。

 長益は、御所で信忠に腹を切らせたのはあの男だとまで言われたが、死ぬまで口をつぐみ続けた。

 

 (了)

 

説明
歴史小説。本能寺の変で、逃げようと思えば逃げられたはずの信長の息子、信忠。なぜ彼までが明智光秀に討たれたのか。
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信長 小説 本能寺 戦国武将 信忠 歴史 明智光秀 

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