弾-丸-翔-子 1
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 あまりにも輝く黒。ワックスで磨きあげられたそのステーションワゴンは、黒いボディーだというのに街路樹が写り込む。それは、車を大切にするというよりは、一点の汚れも許さない神経質なオーナーの象徴である。確かに、この車を運転するドライバーは、ハンドルを握っている時は常に腹を立てていた。特に、ゴキブリのように車両の間をすり抜けていくバイクには腹が立った。この日も、信号待ちの間にすり抜けてきた小型2輪が、サイドミラーに軽く接触すると、激怒のあまり持っていた小さな瓶をその場で投げつけたくなる衝動に強くかられた。ようやくの思いで、自分を押しとどめられたのも、それがこれから必要なものであったに他ならない。

「バイク野郎、GD吸って死んでしまえ…。」

 彼は残忍に口元をゆがめると、バイクのライダーの背に向って中指を立てた。

 

 自動車教習所のロビー。達也は自分の検定試験の結果を待ってベンチに腰かけていた。今日は普通2輪車の検定を受けたのだ。達也はすでに普通自動車免許は持っていたので、実技さえ合格すれば学科試験は受ける必要が無い。検定の結果を待ちながら、ここ迄の長い道のりが自然と思い返された。

 学科は1時間、技能は17時間。医師である達也は、病院での忙しい勤務と父親の厳しい監視の眼を盗んで、教習に時間を割くことに多難を極めた。加えて、父親に医学部を目指す勉強ばかりさせられて、学生時代での運動不足がたたり中途半端な運動神経と肉体しか持っていない。当然身体を動かす実技はかなり厳しいものとなった。『直進狭路』『坂道発進』『スラローム』『急制動』。たかがエンジンで動く自転車だろう。そう軽く考えていたのだが、実際100キロを超える車体をアクセルとブレーキで取りまわす段になってみると、自分の浅はかさを思い知った。

 10代とおぼしき若者に交じり30に近い達也が、よろよろしながらバイクを押している。自動車だったら押すなんて体力勝負の技能は求められない。しかも、自動車では脱輪や縁石に接触したら、エンストして止まるだけで済むのだが、バイクではそれにコケるという事態が加わる。それが殊の外彼を苦しめた。達也はこれが恥ずかしくて仕方が無いのだ。いくら恥ずかしくても、あちらでコケて、こちらでコケるのを止めることができない。当然のことながら、火が出るほど顔を赤くして戻ってくる達也に、教官はなかなか修了の判を押してはくれなかった。通常の2倍の時間をかけて、それでも検定にこぎつけられたのは、これ以上落としたら悪い噂が立つと、自動車教習所が判断したのに他ならない。

 しかし、事情がなんであろうと関係ない。とにかく今日の検定を合格さえすれば、晴れてバイクライダーだ。…ところで結果はまだなのだろうか。達也は少し焦りはじめた。あまり長く病院を空けるとまずいことになる。落ち着かなくなってベンチから立ち、達也はロビーから教習コースを眺めた。見ると教官が多くのライダーを引き連れ、技能教習が始まっている。ライダーのひよ子たちがコケる姿を眺めながら、達也はなぜこんな無謀なことを始めたのだろうと、その動機を新ためて想い返した。

 

 その日達也は、父が学会講演で使用する解説スライドの作成を言いつけられた。診療が終わった後の作業だから、一区切りついてパソコンから顔を上げると、いつの間にか夜が明けていた。考える作業を続けたので頭が興奮している。これでは寝付けないだろうと睡眠を諦め、愛犬のブルースを連れて早朝の散歩に出かけた。

 ブルースは、達也が大学に入った年に家にやってきたゴールデン・レトリバーである。親戚が飼っている犬に子犬が生まれ、手に余って母に泣きつき、仕方なく1匹引き取ったのだ。兄とふたり兄弟の達也だったが、苦手の父親に信頼の厚い兄とはどうも馴染めずにいた彼にとって、いつしかブルースはかけがえのない兄弟となった。最初は弟だったはずのブルースだが、成長するといつの間にか達也の兄になっていた。勉強の合間にフリスビーを投げ合い、愚痴を聞いてもらい、時には喧嘩もした。父親は、ブルースを決して家に上げることを許さなかったので、達也はブルースと庭で夜を明かしたこともある。ブルースが家に来てからはや11年が経ち、彼もだいぶ高齢になった。庭ではしゃぎまわることよりも、達也のそばでじっと日向ぼっこをしている方を好むようになっていた。しかし、達也が父親の病院に勤務するようになった最近では、忙しくてなかなかブルースと過ごす時間を持てなくなっていたのだ。

 達也がリードを手に散歩を持ちかけると、ブルースがのっそりと起きだしてきた。睡眠を妨げられ迷惑そうな顔ながら、本音は嬉しいのか達也にすり寄ってくる。

 ふたりは、暖かい朝日を浴びながら、久しぶりの散歩を楽しんだ。やがてブルースも、ほど良い運動で身体が覚醒してきたようだ。人通りのないいつもの空き地に着いて、達也は愛犬の首からリードを外す。

「あまり遠くへ行くなよ。」

 そう注意をしたものの、ブルースは暖かい日差しに誘われて出てきた蝶々とはしゃぐのに忙しく、その耳には届かなかったようだ。案の定、ブルースは楽しげに舞う蝶々に、空地から車道へと誘われて、快適に飛ばしてきたバイクの目の前に飛び出した。

「ブルース!」

 リードを離してしまってなす術もなく、ただ叫び声を上げる達也。しかし彼は、路上で信じられないパフォーマンスを目撃した。

 向ってきたバイクはカワサキKLE500である。ブルースを避けきれないと判断したライダーは、前輪に急制動をかけて前輪サスを深々と沈めると、今度は一気にブレーキを解放。その反動と同時にアクセルを開いた後輪のキックを利用して、車体を空中に跳ね上げた。そのまま後輪を左へスライドさせて空中で車体を横向きに倒すと、ハンドルを左に切って空中姿勢を保つ。そして見事に、バイクに驚いて身を硬くしていたブルースの頭上を越えていったのだ。

 こんな芸当をガソリン搭載時200キロの車重のあるオフロードモデルでするのだから、ライダーのコントロール能力は並大抵ではない。さすがに横向きになって両輪の浮いたバイクを無事に着地することはできず、転倒してバイクはガードレールに激突。しかし、ライダーはいち早くペダルを蹴って車体から身を離すと、低い姿勢で立ったままアスファルトの上を滑る。鉄を仕込んだ靴底とアスファルトがこすれて赤い火花が散った。まるで映画「マトリックス」のヒーローを目の当たりにしたように達也はただ唖然とライダーを見つめる。そしてライダーはその姿勢で無事静止すると、何事も無かったようにブルースに近寄りその頭をなぜた。

 ブルースは身体をライダーにすりよせて、嬉しそうにしている。達也はあらためてそのライダーの姿を眺めた。赤いヘルメットに赤いチーフ。肩幅の割にはウエストのしまった皮のライダースジャケットを身にまとい、引き締まったお尻と長い脚が強調されるピッタリのデニムのズボン。そして黒光りする長靴。立ち上がると思いのほか細身である。次第に達也の目の光が、驚愕から憧憬へと変わっていく。

 ライダーは、ブルースの首輪を持って達也に近づいてきた。ブルースの首輪を達也に握らせると、ライダーはグローブを外す。その指先は、細い上に爪が整えられ、いかつい出で立ちに反してとても繊細に感じた。

「自分の犬ぐらい、ちゃんと面倒見なさい。」

 そう言いながらヘルメットに手を掛けて持ち上げる。すると、日差しに透けると赤く輝く艶やかな長い髪がヘルメットから飛び出してきた。よく見ればライダースジャケットの胸も少し盛り上がっている。髪の間から覗く瞳が、少し怒気を含み、それがブラウンの瞳により赤みを増して情熱的に輝く。潤う唇とすこし鋭角的ではあるが柔らかい線で描かれた顎が、男性的な出で立ちに反発して、その女性としての美しさを際立てていた。ネオではなく、トリニティなのか…。達也は彼女を見てそう思った。

 赤いヘルメットを腕に掛けて、自分のバイクに戻るトリニティ。達也はブルースにリードをつけると、慌てて彼女の後を追う。信じられないことに、トリニティは、200キロもあるバイクを難なくひょいと立ちあがらせた。カウルの一部が割れ、片方のハンドルミラーがだらしなく垂れ下がる。しかし、セルボタンを押すとエンジンは問題なくかかった。

「あの、身体は大丈夫ですか…。」

 達也がトリニティに呼びかけるも、メットを被り、余計なガソリンを飛ばすためにエンジンを吹かす音にかき消されて相手に届かない。

「あのーっ、修理代を!」

 達也の必死の呼び掛けも虚しく、彼女はスタンドを上げてギヤを入れると、けたたましいエンジン音とともに走り去ってしまった。

 かっこ良過ぎる…。達也とブルースは、走り去るトリニティの後ろ姿をいつまでも眺めていた。

 

「お待たせいたしました。検定の結果を掲出します。」

 教官の声で達也は我に返った。やっと、検定試験の合格者の番号がボードに張り出されるのだ。群がる検定参加者の背中に飛びつくようにしてボードに見入った達也は、果たして自分の番号をそのボードに発見することができた。やったぞ。あのトリニティに一歩近づいた。すると、教官が合格に喜ぶ教習生たちに向かって笑顔で語りかける。

「今日は皆さんお疲れ様でした。検定に合格された方には、大型の教習用バイクで教習コースを周回できるお祝いを用意いたしました。ご希望の方はどうぞこちらへ。」

 えっ、大型に乗れるの…。早く病院に戻らなければならない事情も忘れて、達也はこのお祝いに飛びつく。ホンダCB1300SFに乗ってみて驚いた。直進の加速感、重厚感、そして安定感が、今までホンダCB400Fの教習バイクと次元が違う。中型がまるでおもちゃのように感じる。ただ周回するだけのドライビングで、バイクが上手くなったような錯覚に陥った達也は、バイクを降りた瞬間に大型自動2輪免許の教習を申し込んだ。

 そのお祝いが自動車教習所の巧みな罠だと気付いたところで後の祭り。大型バイクの検定試験まで、本来なら12時間ですむ実技教習。しかし達也は40時間もかけて、車両重量250キロを取りまわす地獄の教習をたっぷりと味わったのである。

 

 夜は妖しいネオンで華やかに飾られるが、昼間は薄汚れていて、あちこちに放置されたごみ袋が悪臭を放つ。昼の繁華街は人影もまばらだ。そんな繁華街にある事務所へバイク便で封筒が届けられた。

 バイク便のドライバーがその事務所のドアを開けると、中には派手な模様のシャツを纏った男たちがたむろしている。脂ぎったその顔からある種の険悪な体臭を香らせ、タバコをふかしながら、いかがわしい雑誌や競馬新聞に読みふけている。もちろん、仕事をしているものなど誰もいない。こんな男達から一斉に視線を浴びたドライバーは肩をすぼめた。エライ所に来てしまった。

「バイク便のセルートですが、お荷物のお届けです。」

 若干震える声でそう告げると、中でも一番若そうな男が出てきて、封筒を手に取った。少し膨らんではいるが思いのほか軽い。表裏を確かめながら、聞き知らぬ送り主からの荷物を受け取って良いものかその対処に迷い、奥の兄貴たちに聞いている。バイク便のドライバーは、次の仕事の為にこの荷物から早く解放されたいが、うかつに受け取りの判を催促したら、怒鳴りつけられそうで小さくなって待っていた。

 さんざん封筒を眺めまわした後で、若い衆は首を傾げながらも封を開けた。

「お荷物を開ける前にサインを頂きたいのですが…。」

 バイク便のライダーの懇願にも構わず、若い衆は封筒の中からジッパー付きのビニール袋を取り出した。中にガーゼのようなものが入っている。普通ならここで警戒してもいいのだが、この若者は学校で警戒という文字を教えられていた時に、居眠りをしていた輩だ。無防備にジッパーを開けて中を覗き込んだ。鼻を近づけたが、ことさら匂いがあるわけでもなく何のことやらさっぱりわからない。

 しかし若い衆の変化はすぐに起きた。まず花粉症の季節でもないのに急に鼻水が出て、胸を大きく波打たせて苦しそうに呼吸し始める。自分の変化に驚いて、すがるようにライダーを見つめる。その大きく見開いた眼の瞳孔が収縮しているのが、ライダーにもよくわかった。やがて大量の涎とともに嘔吐や失禁が始まる。そして、昏倒すると痙攣を起こし始めた。

「大丈夫ですかっ!」

 ライダーが駆け寄ると、彼も急に息苦しくなり同じ症状が出始める。そしてそばにいた男達にも同じ症状が出ると、さすがに事の重大さを悟った奥の男達は、パニックを起こしながら事務所の窓から外に飛び出していった。

 

 その白さが恐怖を増幅させることもある。『NASA』からやってきたような白い防護服の男達が、慎重に事務内の洗浄処理をしている。事務所からかなりの距離を置いて規制ラインが引かれた。その外側は、管轄のパトカーや消防車が集結し、それを取り囲むように野次馬達が立ち並んでいたから、付近は祭りのように騒然としている。規制ラインの内側にいる人々のほとんどが、防毒マスクと全身防護服を身につけていることが、ラインの外にいる人々の恐怖心を煽った。この危険な区域に一般の車が迷いこまないように、事件現場へ入る路地のすべての入り口では、白いヘルメットの隊員が白バイを傍らに置いて忙しく車両規制をしている。

「凄げぇ、ホンダ(VFR)の800から、スズキ(GSF)の1200に乗り換えたんですか?」

 通りかかったバイク便の若者が、白バイ隊員に話しかける。最初は威厳を保つためにしかめ面だった白バイ隊員も、話しかけられた相手が顔見知りだとわかると、相好を崩して応えた。

「わかるか次郎…。」

 待ちに待った新車両が支給され、誰かれ構わず自慢したい白バイ隊員ではあったが、今自分は制服を着ている事を想い出し思いとどまった。

「現場で話しかけるなって言っただろう。」

「副長、何があったんすか。」

「おい…。」

「なんスか?副長。」

「お互い、もういい大人なんだから、もうその副長ってのは…。」

「ガキの頃、さんざんそう呼ばせといて…今さら哲平さんなんて呼べませんよ。」

「過去は忘れろ。」

「だから、何があったスか?副長。」

「チッ…、官が民にべらべら話せると思うか。」

「官だ民だと訳分からないこと言わないでくださいよ。暴走族時代、哲平さんのケツを守って走っていたのは自分ですよ。」

 哲平は口をつぐんで黙ったままだ。

「だったら、副長の命令でナンパした女の数をここで言いましょうか。」

 次郎の口をふさがなければまずいことになる。さすがの哲平も口を開かざるを得なくなった。

「…バイク便の荷物に毒ガスが仕込まれていたらしい。事務所の若い衆が三人死んだ。荷物届けたお前らの仲間も巻き込まれて亡くなったそうだ。」

「そうすか…。どこの便のライダーだろう。」

 同業者の悲劇に次郎もしばし言葉を失った。

「ところで、今度の団長の命日ですけど…、墓参り行きます?」

「そうか、もうそんな時期か…。」

 哲平は手袋に縫い込んだ小さなワッペンを見つめた。そのワッペンに描かれた『交差する雷に小さな梅』は、彼らが過ごしたヤンチャな青春のシンボルなのだ。

「もちろん行くつもりだ。」

「それならご一緒させてください。」

「翔子には言っておいた方がいいな。」

 翔子とは亡くなった団長の妹である。哲平は誘導灯を振りながら、初めて団長が妹を連れてきた時のことを想い出す。当時女子高生だった彼女が団長のバイクから降りてヘルメットを取った時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。ヘルメットからが飛び出した長く輝いた髪が、埠頭のライトに反射して、眩しさのあまり哲平は眼を見張った。たった3秒で恋に落ちた。しかし、哲平は副団長である自分の立場を決して忘れることなく、団長の妹としての敬意と親愛でずっと接して来た。それは今でも変わらない。

「翔子さんとはライダールームでよく会うんで、言っときますよ。」

「ああ、次郎と同じ会社のライダーだったよな…。」

「ええ…それに、もしよかったら仕事が終わったら久しぶりに飲みません。話したいこともあるし…。」

「なんだよ…。」

「まあ、たいしたことじゃないスけどね。」

「そうか、今夜は夜勤だから、明日はどうだ。」

「わかりました、それじゃ明日の夕方でよろしく。」

 ヘルメットを被り直した次郎は、ベルトをあごで止めながら哲平に付け加えた。

「ところで副長…、未だにスケなしですか?」

 哲平は急に忙しく誘導灯を振りはじめ、次郎の問いが耳に入っていないふりをする。

「いくらまたがっていても、バイクじゃ子どもは産んではくれませんよ。」

「うるせえ。職務の邪魔だ。さっさと移動しろ。」

 哲平は語気を荒めてニヤつく次郎を追いやった。

 

「…結果、判決では病院側に責任が無いことが認められ、今回の医療事故については全面勝訴となりました。」

 早朝の連絡会議。大会議室では、達也を含む眠そうな15人のドクター達相手に、事務長が必死に議事を進行している。上座には達也の父である病院長。そしてその横に兄の副院長。病院長は、だるそうに議事を聞くドクター達に多少いらついているようだ。特に達也。頬杖をついて今にも閉じそうなまぶたで議事を聞いている彼の姿を見ると、身内だけにそのいらいらも一層つのる。

「次に、先日起きた毒ガス事件ですが、使用されたのは神経ガスの『ソマン』であると警察から発表がありました。その件につきまして、副院長よりご説明があります。副院長どうそ。」

 達也の兄が席を立ち、パワーポイントを使って説明し始めた。

「神経ガスは有機リンの一種で、神経伝達を阻害する作用を持つ化合物の総称です。そのひとつである『ソマン』は無色無臭の液体で、気化させるとあのサリンを上回る極めて強い毒性を示します。化学式はC7H16FO2P。」

 副院長はスライドで化学合成式を示した。

「機序としては、神経伝達物質であるアセチルコリンを分解する酵素アセチルコリンエステラーゼの働きを阻害します。つまり、筋肉を収縮する神経伝達物質の伝達を阻害し、筋肉の活動を停止させてしまう作用があるわけです。ですから、慣習的に『神経剤』と呼ばれていますが、脳内の中枢神経や感覚神経に対する作用はいたって弱く、実質的には筋肉の正常な動きをできなくするコリンエステラーゼ阻害剤として分類されます。」

 副院長が、会議出席者を見渡した。会議室の澱んだ空気を読みとったようだ。

「ソマンの致死量は、1立方メートルあたり 70ミリグラム。つまり、ヤクルトの容器にソマンを5分の1ほど入れてこの机に置き、気化させると…。」

 副院長が机を手のひらで、ダンと叩いた。その音でドクター達の目が覚めたようだ。そんなパフォーマンスを、院長は嬉しそうに眺めていた。

「この会議室にいる半数が死に、残りはなんとか命を取りとめたとしても、生涯後遺症に苦しむことになるわけです。」

 院長が達也に目を向けると、兄の大仰なパフォーマンスには慣れているのか、彼の眠そうな目に変化はない。院長は怒鳴りつけたくなる衝動に襲われたが、副院長のプレゼンテーションの邪魔は出来ないと、なんとか自分を抑えた。

「体内への主要な侵入経路は吸器系ですが、皮膚からも吸収されるため、安全に取り扱うには防毒マスクを含む全身防護服が必要となります。」

 副院長がパワポのスライドを変えた。そこには、神経ガスの犠牲となった人々の写真が生々しく映し出される。

「神経ガスに曝露した時の初期症状としては、鼻水が出て、呼吸が苦しくなり、瞳孔が収縮するといったものがあります。症状が重くなると呼吸困難となり、吐き気、唾液過多。さらに重くなると体全体が麻痺し、嘔吐や失禁などの全身症状が現れます。これらの症状は筋肉の収縮と痙攣が原因となっており、最終的には昏睡状態となり痙攣を起こして窒息死に至ります。また、死を免れた場合でも、一旦現れた障害は長期に渡って残存することでも知られています。」

 副院長は、会議室のドクター達に向き直った。

「皆さんもご存じの通り、戦時中にドイツで開発されたこれらの神経ガスは、化学兵器としても認知されており、国際連合から大量破壊兵器としての指定も受け、化学兵器禁止条約により、多くの国で製造と保有が禁止されています。しかしながら化合物ですので、高度な知識と設備があれば、どこででも作ることが可能であることは言うまでもありません。」

 スクリーンに周辺地図が映し出される。

「事件が起きた地点はここです。警察は現在、犯人逮捕に全力を傾注しておりますが、もし再度毒ガスが播かれた場合に備え、政府は事件が起きた基点から50キロ以内のすべての病院施設に、治療薬として有効な有機リン剤中毒解毒剤であるPAM(プラリドキシムヨウ化メチル)を緊急配備するよう通達を出しました。」

 続いてPAMの写真とデータ資料が映し出された

「当病院も一両日中にPAMが増量配置されるでしょう。ただし『ソマン』の場合、他の神経ガスと比べて、結びついたアセチルコリンエステラーゼを不可逆状態にエイジング(老化)してしまう時間が短いので、数分以内に投与しなければ効果がありません。各ドクターは万が一の事態に備えて、手元にお配りした資料と対応マニュアルを熟読いただけますようお願いいたします。」

 副院長の説明が終わった。長男の説明に満足した院長は、次男の達也に目を向ける。しかし彼の寝ぼけマナコは一向に変わっていない。院長は膝の上で拳を固く握って怒鳴り出す自分を必死にこらえた。

 しかし達也にしてみれば、ことの重大さを理解していて、事件が起きたその日に、兄が説明したことなどとっくに勉強済みなのだ。兄の努力と成果は父親が見えるところでおこなわれる。しかし達也は父が見ているところではしなかった。父親に対する反抗ではない。ただ自分がしていることを父親が気に入るかどうかわからないから見せられないのだ。自分が何をしたいのか、何をしているのかも言うことができないのは、彼が父親を恐れるが故であった。当然目に見え、耳に聞こえるものしか信じない父親は、達也の努力と成果に気付かないまま今日に至っている。

 最後に、院長の締めの言葉があり、会議は終了した。それぞれの診療室に向うドクター達。病院長が達也に声をかけた。

「達也、ちょっと来い。」

 達也は小さくため息をつくと、観念したように病院長の前に進んだ。

「先日の休日当直を替わってもらったそうだな。何処へ行ったんだ?」

「えっ、ああ…。」

 その日は大型自動2輪の実技検定だった。普通2輪の倍の苦労をして、やっと大型の免許検定も合格するができた。もちろんそんなことは父親には言えない。

「友達の家族の法事で…。」

「それに、母さんから聞いたが、この前ふくらはぎに、火傷して帰って来たそうだな。」

 軽い火傷だったが、達也が誤ってマフラーに足を付けてしまってできたものだ。これにはなかなか言い訳が思いつかず、返事のしようが無い。

「一体お前は何をやっているんだ?」

 相変わらず答えを言いよどむ達也に、父親がついにキレた。

「自分の好き勝手ばかりしていないで、少しは兄を見習って、地域医療に貢献できるよう努力したらどうだ。」

 院長はそう言って席を蹴って会議室から出ていってしまった。反論もせず、言い訳もせず、達也は黙って父親の言葉を受入れていた。

 

「だからさ、副長。あの時は俺も若かったわけで…。」

 酔いが回ったのか、次郎は排気ガスよけに使っているライムグリーンのバンダナで鉢巻をして盛んに言い訳をしていた。今日は、仕事終わりに待ち合わせた哲平と居酒屋で飲んでいるのだ。

「理由になるか。相手の団長の女に手を出しやがって。」

「…ですね。今考えると、よくうちの団長は、自分を庇ってくれましたよね。」

「ああ、…。俺も団長の命令とは言え、ケンカに付き合わされていい迷惑だ。」

「大変失礼いたしました。」

 次郎が深々と頭を下げて、哲平のグラスにビールを注いだ。

「そこまでして奪った女と暮らせて幸せか?」

「うーん…、なんとも答えようがないですね。今頃あいつは、でかい腹を突き出して、俺の稼ぎを取り上げようと、家で待ち構えていますよ。」

 ビールを飲みかけた哲平の手が止まった。

「出来たのか?」

「ええ、どうやら…。」

「なんだ、お前の話って…それか?」

「ええ、まあ…。」

「いつ生まれるんだ?」

「あと…3カ月で、ご対面です。」

「そうか、めでたいなぁ…お前が父親ねぇ。」

「申し訳ありません。」

「謝ることじゃないだろう。」

「でも、なんか自分でも変な気分ですよ。」

「父親になるんじゃ、お前の好きなライムグリーンのZRX(400 カワサキ)も、しばらくはお預けだな。」

「そんなもんでしょうか…。」

「当たり前だろ。父親になったらそう簡単には死ねないんだから…。」

「聞こえたぞ。次郎君は父親になるのか。」

 突然、哲平と次郎の席に初老の男が割り込んできた。

「先生!」

 哲平と次郎が声を合わせて叫ぶ。いきなり登場した男は、かつて彼らが悪さをしていた中学時代、彼らを厳しく叱り、そして優しく庇い続けてくれた恩師なのである。教師の類に洩れず酒好きだから、たまに飲む席で遭遇することがある。しかし、ここ最近は哲平も忙しくて顔を合わせていなかった。

「ご無沙汰しています。」

 ふたりが挨拶すると、先生は笑顔でまず次郎を眺めた。

「あの次郎君がおとうさんか…。」

 遠い目であのという先生の表現で、次郎がいかに手のかかった生徒だったのかが容易に想像できる。

「ええ、まあ…。」

 感謝の気持ちを言いだすのもの照れ臭い次郎は、ただ頭を掻きながら先生にグラスを渡しビールを注いだ。

「とりあえず乾杯だ。」

 3人は笑顔で祝杯をあげた。先生は自分のグラスを一気に飲み開けると、今度は哲平に向き直る。

「それで哲平君は父親になったのか?」

「えっ、ヤダな先生。結婚もしてないのに、子どもなんかまだまだですよ。」

「そうか…。」

「でも、仕事じゃ、やっと白バイに乗れるようになりましたよ。」

「ついに念願達成か…たいしたもんだ。」

「先生、知ってます。警察官になっても、誰もが白バイに乗れるわけじゃありませんよ。」

「ふんふん。」

「副長、また自慢話ですか…。」

「黙れ。」

 次郎は哲平の耳タコ話しにそっぽを向いて手酌で飲み始めた。

「警察官になって、まず交通取り締まりをやって成績を上げ、上司の推薦を取り付けないといけないんです。」

「そりゃぁ、検挙数はいくらでも伸ばせるよ。俺たちの集会の場所と時間を知ってるんだから…。」

 次郎のちゃちゃにも意を介せず、哲平は話しを進める。

「推薦されたら『養成所』で訓練を受けるんですが、訓練は1年に1度、限られた人数しか参加できません。訓練にたどり着くまでがすでにひとつの難関なんですよ。わかります?」

 先生はグラスを手にうなずく。

「訓練期間は4週間。地獄の特訓でした。ここで白バイ隊員に必要な技術と精神を徹底的に叩き込まれるんですが、各カリキュラムの終了ごとに試験があり、合格レベルに達していない者は、途中だろうがなんだろうが容赦なく元の部署に戻されちゃうんです。」

「そんな厳しい訓練をこなしてきたのか…。哲平くんもバイクとなると命がけの根性を発揮するね。そのガッツがほんの少しでも勉強に向けられていたら…。」

「いえ先生…。」

 昔の自分への説教が始まりそうになったので、哲平は慌てて言葉を続ける。

「無事に養成所出たからって、そう簡単には白バイに乗れないんですよ。それから白バイ隊の部署に配属されて、乗務以外の後方の仕事を経験した後に、やっとこさ乗務できるんです。先生、乗務できる迄、いったい何台のバイクを洗車したと思います?」

「たいしたもんだね。バイクの腕前もだいぶ上がったんだろう。」

「確かに、技術的要素は叩きこまれましたね。」

「それじゃ、お国から仕込まれたプロライダーにお願いがあるんだが…。」

「なんです?」

「うちの翔子の鼻をへし折って、バイクから引きずり降ろしてくれないか。」

「えっ?」

「翔子もいい年になったのに、未だに真っ赤なヘルメットを脱ごうとしない。兄が死んで余計バイクにのめり込んでいるようなんだ。あれじゃいつまでたっても嫁に行けないだろ。」

「しかし先生。翔子さんはバイク仲間になんて呼ばれてるか知ってます。」

 次郎が会話に割り込んできた。

「いや。」

「弾丸翔子ですよ。」

「物騒な名前だな。」

「普通に上手いぐらいのバイク乗りじゃ、翔子さんにはついて行けないですよ。」

「だから、こうして哲平君にお願いしているんじゃないか。」

 先生に肩をたたかれながらも哲平は、安請け合いはできないと考えた。確かに彼は養成所でライディング技術をスパルタ式に叩きこまれた。血の汗が出るような努力の結果、高速スラロームなどのタイムが削られると嬉しく楽しい反面、教官のタイムがいかに優れているかを強烈に気づかされる。練習しても出来ないレベルの技術や、持って生まれたものの壁があることも事実なのだ。弾丸翔子は、確かにその壁の向こう側に居た。

「ああ、生きている間に孫の顔を見てみたい…。次郎君の御両親が羨ましいよ。」

「お父さん!」

 突然の声に、先生と次郎が振り返る。見ると、長い髪を真っ赤なヘアバンドでまとめ、細身のライダージャケットを身に羽織った翔子が腕組みをして立っていた。

「次郎、お父さんと呼ばれて、お前が振り返るのは少し気が早いんじゃねえか…。」

 哲平が次郎の頭を小突くも、翔子はそんなふたりに構わず自分の父親を睨み続ける。

「今日は早く帰る約束でしょう。」

「翔子か…ここがよくわかったな。」

「父さんが道草するとしたら、ここしかない。」

「なにもそんな怖い顔して立ってないで…。今日は俺が父親になったお祝いなんです、翔子さん、一緒に飲みましょうよ。」

 次郎が席を空けたが、翔子は笑顔で首を横に振った。

「次郎ちゃん、おめでとう。折角のお誘いありがたいんだけど、残念ながら今日は家で叔母さんが待ってるから…。お祝いは改めてさせてもらうわ。」

 久しぶりに見ても、翔子の輝く長い髪も、引き締まった長い脚もため息がでるほどに綺麗だ。哲平は、しばらくぶりに見る翔子の姿にしばし見とれていた。

「折角楽しく飲んでいたのに、父さんが邪魔したみたいでごめんなさいね。」

「そんなことはない…。」

 翔子に会った嬉しさを悟られまいと、哲平がクールに話しかけた。

「あら哲平、お久しぶり。しばらく会わない間に男っぽくなったわね。」

「いや…。」

 赤くなって頭をかく哲平。翔子は哲平より一つ年下なのに、翔子のタメぐちを昔から許していた。団長の妹ということもあるが、惚れた弱みで、こころがずっと押され気味なのだ。

「あの…来週の団長の命日には、俺たちも墓参りに行くから。」

「ありがとう哲平。ふたりが来てくれたら、兄ちゃんも喜ぶと思うわ。」

 翔子のブラウンに輝く瞳の眩しさに目を細め、哲平はつくづく思った。彼女をバイクから降ろすような男なんて、本当に存在するのだろうか…。

「ほら、お父さん立って。帰るわよ。」

「ああ、それじゃ哲平君、次郎君。申し訳ないが、お先に失礼するよ。」

 先生は机に千円札を何枚か置くと、多少酔いが回って危なっかしい足取りに、翔子が肩を貸しながら店を出ていった。俺もああやって翔子の肩を抱いて歩けたら、どんなにか幸せだろう…。哲平は、盛んに話しかけてくる次郎に構いもせず、いつまでも先生と翔子の後ろ姿を見送っていた。

 

「遅かったじゃない。」

 家ではすでに、叔母が居間にあがりこみ、勝手にお茶を煎れて飲んでいた。この家では叔母のすることに、何人たりとも文句を言えない。なぜなら、翔子が小学校の時に母を亡くして以来、叔母が翔子の母代りとなり育ててくれた恩がある。その後、大好きな兄が亡くなるという大きな不幸を、なんとか乗り越えてこられたのも叔母のお陰だ。

「居酒屋で容疑者を確保し、連行してまいりました。」

 敬礼しておどける翔子を見ながら、叔母は優しく笑う。残念ながら子どもに恵まれなかった叔母にしてみれば、翔子は我が娘同然である。幼い頃から母親に代わり、銭湯に連れて行き、運動会、入学式や卒業式はもちろん参観して、翔子の成長をずっと見守ってきた。時には叱り、時には慈しみ、様々な喜びや悲しみもともに分かち合ってきた翔子だから、愛おしさもひとしおだ。

「馬鹿なこと言ってないで、ふたりともこっちに来て。」

「膝の具合いはどうだ?まだ痛むか?」

 翔子の父親が心配そうな顔で叔母の横に座った。翔子は父親の上着をハンガーに掛けながら叔母に問いかける。

「確か病院へ行くのは来週よね。」

「ええ、途中で痛み出すと困るから、また付添い頼むわね、翔子ちゃん。」

「任せといて…。ねえ、たまにはバイクで行かない?歩かなくてすむわよ。」

「冗談言わないで、こんな歳のばあさんが足を開く乗り物に乗るなんて…」

「想像するだけでゲロもんだ。」

 父親の軽口にいつもなら応戦する叔母だが、今夜の用事を想い出してとどまった。

「今日はそんな話しをしにきたんじゃないのよ。」

 叔母が机の上にアルバムを置いた。開くと、不自然な笑みを顔に浮かべ、椅子に斜に構えて座る青年が写っている。

「叔母ちゃん、何なのこれ?」

「翔子ちゃんにいいかなって思って…。」

「用事ってこれか…いいねぇ。」

 父親が笑顔で、叔母の茶碗に入っていたお茶をグイッと飲み干した。

「これって…いわゆる…お見合い写真ってやつ?」

 アルバムから異臭が放たれているかのごとく、翔子は顔をしかめた。

「この人、銀行員でね…まじめな人みたいよ。」

「ますますいいね。」

「翔子ちゃんももういい年だし…。」

「そうだ、そうだ。」

「30過ぎてから出産てのもねぇ…。そろそろ考えないといけないでしょ。」

「まったくだな…。どうだ翔子、見合いも面倒だ。もう決めて結婚しちまえ。」

「兄さんは黙ってて!」

 ほろ酔い加減の父を叔母が叱った。

「どう?一度会ってみない?」

「叔母ちゃん…。」

 うつむいた翔子の声と肩が小刻みに震えていた。

「叔母ちゃんに逆らうつもりはないけど…こればっかりは…。」

 翔子はもう半ベソになっている。弾丸翔子も叔母の前ではただの小娘でしかないのだ。

 

 達也がわざわざ自宅から遠い場所にある中古バイク屋を選んだのには理由がある。近所では自分を知る人の目が多く、買ったことが家族にバレそうで心配だということ。そしてもうひとつの理由は、処女航海となるバイク屋からバイクを隠す置き場までの初めてのライディングを、充分楽しみたかったからだ。もともと達也は目的地の無いドライビングは好きではない。4輪でも2輪でも、ゴールがあることで達也は安心できる。

 中古バイクの情報誌に掲載される大量の写真の中から、達也が選んだのは1996年初車検登録のヤマハXJR1200だ。とにかく安かった。店頭に並ぶ中古のバイクは、なぜか13000キロから18000キロ走行のバイクが多い。例にもれず、達也が選んだバイクも16000キロ走行。折角の大型2輪免許なんだから、リッターバイクにこだわり、しかも30万代で安価に楽しもうとしたらこの手のバイクしかない。別にお金に困っていたわけではないが、自分の初バイクにはこれぐらいが相応しいだろうと勝手に決めつけていた。

 納車の日。2輪の色に合わせて買ったシルバーのヘルメットを被り、太めのシートにまたがると、さすがの重量感に心が躍る。セルボタンを押すと、股間に野太い振動が伝わり、心臓の高鳴りも絶頂状態。

「お気をつけて。」

 バイク屋の店員に笑顔で見送られる中、サイドスタンドを上げてギヤを入れクラッチを繋いだ瞬間、バイクはエンスト。右に出ようとハンドルを切っていたので、バランスを崩した。全身の力を込めて必死にこらえたが、とにかくこの255キロの車体は重い。バイクはゆっくりとダウン。つまり達也は店から一歩も出ずに、早々と立ちゴケの人となった。本来熟練しているはずの大型免許保持者。それが免許取りたてのビギナーだと露見してしまえば、恥ずかしさのあまり、達也の顔から火が噴いたのも当然のことだ。

 ヤマハXJRのリッターバイクは、倒れる際に変にこらえると、ハンドルのアングルの関係か、結果倒れた時にあの丈夫なはずのハンドルレバーが、地面にひっかかり湾曲してしまう。とにかくスタッフの力も借りてなんとかバイクを立ちあげると、その場で湾曲したクラッチレバーの交換。30センチも進まぬ前に第1回目の修理となった。1時間ほど待たされて、再度出初め式。

「大丈夫ですか?」

 最初の笑顔はどこへやら。今度はバイク屋の心配そうな言葉と顔で見送られながら、なんとかバイクは進み始めた。

 ご存じのようにバイクの教習に路上はない。実際に路上を走ると、教習所のコースとはまったく異次元であることに驚く。技術ではない、ハートがまったく違ってくるのだ。とにかく緊張のあまりハンドルを握る肩に力が入り過ぎなのか、小石ひとつ踏んでも、ハンドルを取られて恐怖を感じる。もしここでコケて隣の車を傷つけてしまったら…。もしここでコケて交差点の中央にバイクを横たえてしまったら、自分は起こせるのか…。つまりその恐怖とは、他の車両との交通事故ではなく、自分自身の失態に対する恐怖なのだ。

 それでいてリッターバイクの加速は半端じゃない。少し右手のグリップを絞るだけで、バイクは弾丸のように飛び出ていく。考えてみればXJRのエンジンは、当時2輪用空冷4気筒エンジンで世界最大の排気量である。車体1キロあたりの最大出力はコンマ417(PS/kg)。それに比べて4輪は、ポルシェ911ターボでさえコンマ378(PS/kg)。アクセルの開け方によってはポルシェをしのぐ勢いで飛び出すことができる。もっとも、今の達也にとってはまったく無縁の話だが…。

 急加速と急ブレーキ。停車の度にふらつく車体。こんな走行で湾岸道路を走っていれば、目立たない訳が無い。

「はい、そこのバイクの運転手さん。左に寄って停車してください。」

 後方についていた白バイが、達也のバイクに停車を命じた。白バイは達也のバイクの目の前で、滑るように停止し、ハンドルを左に切ってエンジンを止める。そして、サイドスタンドを上げ、長い脚をはらってバイクから降り、手袋を外して、メットのバイザーを上げる。この一連の動作をダンスのように優雅に繋げる白バイ隊員を見て、達也は感心せざるを得なかった。しかし、白バイ隊員が、故意と思えるほどの大きな足音を長靴から出して近づいて来るに従い、それら一連の動作は、実は庶民に官の威圧感を与えるための所作なのだと、やがて達也も気付いた。

「お仕事ですか?」

 白バイ隊員が意味不明な笑顔を顔に浮かべて達也に話しかけてきた。達也は違反をしていないはずだと自分に言い聞かせたが、なぜか声が震える。

「いえ…。」

「ドライブですか…今日のような天気のいい日は、バイクでドライブは最高ですね…。」

 免許証を確認することが目的なのに、最初は親しそうにたわいもない話しを切りだす。官の常とう手段だ。

「ちょっと免許証を拝見できますか?」

 達也は白バイ隊員の求めに応じて、財布から自分の免許証を取り出した。

「2輪の免許交付が最近ですね…。」

 免許証と達也を交互に見ながら白バイ隊員がつぶやく。

「ええ、大型2輪の免許を先週取得しました。」

 今度は白バイ隊員が、達也のバイクを眺めはじめた。

「ペケジェー(XJ)ですか…。渋いバイク乗ってますねぇ。」

 達也は白バイ隊員が言っている意味がわからなかった。

「ペケジェー?」

「このバイクのことですよ。」

「そうですか…実はさっきバイク屋から納車されたばかりで…。」

「へぇー…。以前は普通2輪(400cc以下)を乗られていたんですか?」

「いえ、これが初めてのバイクです。」

「えっ、初バイクでペケジェーのリッターですか?」

 白バイ隊員が小さく吹き出したのを達也は見逃さなかった。

「何か問題でも…。」

「いえ別に…。しかしこれで、先程のあなたの走行の理由がわかりましたよ。」

 白バイ隊員は免許を達也に返した。

「あなたの意気込みは認めますが、周りの安全を考えたら、やはり小さいバイクから始めた方がよろしいんじゃないですか…。」

 親切なアドバイスであるはずのその言葉に、達也は強烈な侮辱を受けた気分になった。

「それでは、安全走行でお願いいたします。」

 白バイ隊員が軽い敬礼をする。白いヘルメットの額に指を添える彼のグローブに、『交差する雷に小さな梅』の小さなワッペンが縫い込まれていることに達也は気付いた。白バイ隊員は止まった時と同じように澱みの無い動作で白バイにまたがると、一陣の埃を舞わせて走り去っていった。

 しばらくの間、屈辱に耐えながら白バイ隊員の後ろ姿を見送っていた達也も、気を取り直してバイクにまたがった。バイクの隠し置き場まで、緊張のドライブが再開されると、さきほど受けた劣等感など味わっている余裕などない。その後なんとか転倒は避けられたものの、バイク置き場でセンタースタンドを苦労して上げた時には、もう達也は身も心もクタクタになっていた。バイクから解放されて、改めて自分を見ると、オイルが飛び散って、ズボン左裾が真黒だ。オイル漏れ?…。なんとみじめな初航海だ。こんなドライビングは全然面白くない。きっとこれは自分のせいだけではないはずだ。そうだ、この中古バイクに変な癖があるからなんだ。やはり新しいバイクじゃなければだめだ。しばらくズボンの汚れを眺めていた達也はそう結論付けた。字が汚いのを筆のせいにする。やはり、人間というものはどうしようもなく身勝手な生き物なのである。

 

 達也が夜間当直の日。のどが渇いたので外来ロビーにある自動販売機に飲みものを買いに出た。アイスコーヒーの紙パックにストローを差し込み、チュウチュウ吸い込みながら廊下を歩いていると、一枚のポスターが達也の目にとまった。

『国境なき医師団の医療援助活動にご協力を』

 特定非営利活動法人国境なき医師団が海外での活動支援を呼び掛けている。もともと国境なき医師団は、貧困や紛争などで命の危機に直面している人々に医療を届けるため、1971年に、フランスの医師とジャーナリストにより設立された。現在では世界28カ国(2012年現在)に事務局をもつ国際的な組織だ。日本からは89人の海外派遣スタッフが24カ国で計122回の援助活動に従事している(2011年実績)。

 こんな高尚な活動に従事する医師ってどんな人たちなんだろう。達也は思いを巡らせた。派遣の費用や現地での食住の手当てはあったとしても、月々14万7千円の給料で、劣悪な環境での激務に参加したいと思う人はそう多くないはずだ。医師になるための多大な金額と労力の投資の行きつく先がそこだとしたら到底見合わない。ならば、投資に見合う行きつく先はどこなのだろか。そう思うと、達也もはたと考え込んでしまった。

 そもそも自分はなんで医師になろうとしたのだろう。医師になれと、父から言われるがままに、必死に勉強した。しかし、めでたく医師になってみると、そこで何をしたいのかなどとまったく頭に浮かばない。きっと国境なき医師団の活動に参加する医師は、いのちに対して確固たる信念を持っているのだろう。自分には無理だ。だいたい参加を希望しても父が許すはずもない。

「あのぅ、すみません。」

 ポスターに見入る白衣の達也に問い掛ける声があった。

「薬剤部はどちらでしょうか?」

 達也が振り返ると。小さな箱を持ったバイク便のライダーが立っていた。

「夜間入口で守衛の方にお聞きしたんですが、迷ってしまって…。」

 バイク便のライダーは女性だ。そしてその顔を見て驚いた。赤いゴムで髪を後ろに束ねているが、見間違えるわけない。あの情熱的なブラウンの瞳、潤んだ唇、柔らかな顎の線。まぎれもなく目の前に立っていたのは、あの朝のトリニティだったのだ。達也の胸の鼓動がなぜか早くなった。

「こ、この通路をまっすぐ行って、突き当たりを…ああ、自分が案内します。」

「そんな…お忙しいところすみません。」

 実は薬剤部までは、そんな難しい順路ではなかったのだが、達也はトリニティと話をしてみたい衝動にかられ、あえて連れだって歩くことにしたのだ。

「あの…。」

「はい?」

「憶えていらっしゃいませんか?この前の朝、ブルースを、…あっ、自分の愛犬ですが…助けてもらって…。」

「えっ…ああ、あの時の…。」

「その節は本当にありがとうございました。」

「いえ…そんな…。」

「身体もバイクも大丈夫ですか?」

「見ての通り身体は何ともないです。バイクはガムテで応急処置していますから…。」

「あの…せめてもバイクの修理代を…。」

「そんなこと、もういいですから…。」

「でも、飛び出したブルースが悪いんで…。」

 実際のところ、彼女はあの時そばにいた男性の顔などまったく憶えていなかった。ましてや白衣を着るような人種とは馴染みのない彼女は、連れだっていろいろ話しかけてくるこの男が多少面倒になっていた。

「リードを離したあなたが悪いと思いますけど…。」

「うっ、まいったな…。とにかく、お詫びに自分で出来ることでしたら何でもやりますから…。」

「別に…ちょっと…、今通り過ぎたドアに薬剤部って書いてありませんでした?」

「ああ、そうですね。済みません…通り越しちゃった…。」

 この人本当にこの病院の人かしら。もしかしたら、病院の関係者でもないのに、白衣を着て医師のふりをしているのかも…。女性ライダーの胸で警戒警報が鳴りはじめた。

「どうもありがとうございました。」

 とりあえず礼を言うと、女性ライダーは達也から離れて薬剤部の窓口に首を突っ込む。

「バイク便のセルートです。アルフレッサ様から荷物のお届けです。」

 中から薬剤部の女性職員が出来てきて荷物の確認を始めた。やがて職員はバイク便のライダーの後ろにぽつんと立っている達也に気付き、笑顔で声をかけた。

「あら、上田先生。今夜は当直ですか?」

「ええ、まあ…。」

 うつむいて答える達也。ああ、一応この病院のお医者さんなんだ…。そう確認できたものの、女性ライダーは、案内も終わって用が済んだのに後ろで待つ達也に、今度は少し薄気味悪さを感じるようになっていた。

「荷物の内容がよろしければ、ここにサインをお願いいたします。」

 配送伝票を薬剤部の職員に差し出しながら、女性ドライバーは小声で職員に囁く。

「あの…つかぬことをお聞きしますが…。」

「何?」

「後ろで立っている人は誰ですか?」

「上田先生よ。この病院の院長先生の次男坊。」

「へぇー。」

「イケメンでしょ。あなたも興味持った?」

「いえ、そんなわけじゃ…。」

「お金持ちだし、まだ独身だし、それに見ての通りイケメンだし。年頃のあなたが興味持つのも無理ないわね。」

「だから、そう言うわけじゃ…。」

「でも残念ながら、この病院の全独身女性が狙っているから、競争率は相当なものよ。」

「そうですか…ご忠告ありがとうございます。」

 女性ライダーは職員の勘違いに抵抗することを諦めた。伝票のサインを確認すると、礼をして次の荷物のためにバイクに戻ろうと足早に歩く。すると、驚いたことに達也が後をついて来たのだ。

「なにかご用でしょうか?」

 振り返った女性ライダーに、強い口調で問いかけられ、達也は思わずうつむいてしまった。少し怒ったような彼女の瞳を、正視して喋れないのはなぜなのか、自分でも不思議に思った。

「あの…。」

 ひとこと発して、その後を言い出さない達也に、彼女も焦れてきたようだ。

「わたし次の配送が待っているから、急がないと…。」

「自分は、上田達也といいます。」

「だから、なんでしょうか?」

「自分に…バイクを教えてもらえませんか?」

 達也からの突然な申し出に、女性ライダーも驚いたようだった。頭一つ背の高い彼が、背を丸めてものを頼む謙虚な姿勢に、一瞬心が緩んだがすぐに思い直す。考えてみれば、相手は金持ちのモテモテ坊ちゃんだ。頼む相手はいくらでもいるのに、初対面の自分にいきなりバイクを教わりたいなんて、変な下心があるに決まっている。

「ナンパの手口としては古過ぎると思いますよ。」

「いえ、そんなんじゃ…。」

「大丈夫、今のあなたならバイクが下手でも、充分モテますから…。」

 女性ライダーは、唖然と立ちすくむ達也を残して自分のバイクに戻ってしまった。

 

 数日後。翔子は眩しい陽ざしを手で遮りながら、愛車の横で配送依頼のメールを待っていた。翔子のようなスポットライダー(個人事業ライダー)にとって、バイク便の仕事は、毎日自分の船を出す漁に似ている。あくまでも個人事業としてバイク便会社と契約するライダーは、一本の配送でいくらの日銭商売。バイクという釣り船を街に浮かべ、焼ける陽ざしの日も、凍える雨の日も、針に魚が掛るのを待つように、配送の依頼がくるのをひたすら路上で待つ。さすがにボウズの日はないが、大漁なのか不漁なのか、その日の配送の依頼数はまちまちだ。

 だいたい東京駅から新宿駅まで運んで一本1200円くらい。短いもので2キロ600円程度。長いものでは、都外50キロを超えて、一本6000円を上回るものもある。出発点、待ち時間、その日の獲得仕事量を加味して、コントロールセンターがライダーに均等に仕事を振るから、無理をせず1日10時間の稼働なら、せいぜい10本の配送がいいところであろう。その計算でいくと、一日の収益が約12000円。月20日稼働の月収は24万円となる。そこから、会社から配送連絡用に持たされる携帯通話料、様々な保険、ガソリン代、そしてバイクのメンテナンス代が差し引かれれば、残るお金は20万ちょっと。結局年収250万前後であるから、そこから成りあがろうとしても無理がある。それでもバイク便のライダーがいなくならないのは、やはりそれなりの理由があるのだ。

 まず、2輪免許さえ持っていれば、いつでも始められるし、いつでも辞められる。個人事業での契約だから、契約条件さえ満たしていれば、辞める1カ月前に会社に言えばいいし、会社は随時ライダー募集しているからまた始められる。

 次に、この仕事は、コントロールセンターに操られながらも、とてつもなく個人的な作業であることだ。配送依頼を受ける。伝票を作成して荷物を受取に行く。受け取って配送先へ移動する。そして、荷物を渡して受領印を貰う。その過程において同行する同僚も居ないし、上司の監視する目もない。ただ、指定された時間までに、荷物を無事に届けさえすれば誰からも文句を言われない。つまり、届けるという結果を出すためのプロセスについては、自分の自由に出来るのだ。時に、配送先でのトラブルを自身の手で解決しなければならい煩わしさはあるが、組織の中で管理された仕事を嫌う人種にはたまらない魅力だ。言いすぎかもしれないが、バイク便のライダーは、こと仕事に関しては社会性が乏しい人たちなのだ。

 そして最後で最大の理由が、バイクの発明以来、それに乗りながら仕事ができることを最大の喜びとする人種が絶えないということだ。ある人達にとっては、バイクはそれほど魅力ある乗りものなのである。1日10時間以上、しかも毎日バイクに乗り続けても飽きない。荷物を受け取って目的地までシフトアップしながらアクセルを開くことに無条件に喜びを感じるような人々。単に仕事と言い切れない部分を持って、ライダーたちは荷物を運んでいる。

 さて、会社から持たされたビジネス携帯を胸ポケットに入れ、道路の縁石に腰掛けながら配送依頼メールを待つ翔子はどうなのだろうか。兄の影響でバイクに乗りはじめた翔子は、乗ったその日から自分にフィットしていると感じていた。まず、自由性がいい。狭い道も大きな車体に妨げられず、どこへでも自分の意思通りに行ける。しかも、ふたり乗車が許可されているとはいえ、他人がとうてい同乗する気になれない車体構造が良い。どんな孤独感もその自由には替え難かった。やはり彼女もこよなくバイクを愛するバイク馬鹿なのだ。

 だからと言って今の仕事を長々と続けるつもりはない。仕事はお金を貯めるための手段だ。お金を貯めて彼女は、バイクでアメリカ大陸を走ることを夢見ている。この大冒険の動機は、父とそして亡き兄を想ってのことではあったが、今の自分にとっては、それが生きる理由のひとつにもなっていた。短大を卒業してから、バイク便を中心にいろいろなバイトをしながらお金を貯め、ようやく冒険資金としての目処が立ってきた。出発はそう遠くない日となろう。叔母が持ってくる見合い話に、『こればっかりは…』と半ベソをかく理由がここにある。

 今日は休日だが、翔子は進んで稼働を引き受けた。出発の日を目指して、出来るだけ資金を確保しておきたいのだ。やがて、待望の配送依頼メールが配信されてきた。メールを確認してすばやく配送伝票を作成すると、iPadで位置を確認。バイクを走らせた。

 ピックアップを終えて、届け先へ向けて走行している最中に、ヨロヨロ、もたもた走っているバイクが目に入った。シルバーが眩しいネイキッドのリッターバイクという外観の勇ましさの割には、その走行があまりにも不安定だ。ライダーは酔っぱらっているのだろうか。仕事中はあの手のバイクに関わらない方が良いと判断した翔子は、充分距離を取ってゆっくりと追い越しを図る。すると、今度は後方から甲高いエグゾーストノイズを発して、カワサキZZ-R250が、翔子とリッターバイクの間をすり抜けてきた。ただでさえ乱暴なドライビングに加え、あろうことか追い抜きざま、リッターバイクに幅寄せをしてチョッカイを出した。驚いたリッターバイクは、転倒を免れたものの、ハンドルを揺らし無様な蛇行を余儀なくされた。

 翔子はこの手の冗談は大嫌いだ。仕事を忘れて、粗暴運転の説教をしようとアクセルを開けた瞬間、交差点を乱暴に右折しようとしたZZ-Rが、前から来た軽トラックの直進車と接触した。もちろんZZ-Rの車体と粗暴ライダーは弾き飛ばされ車道のフェンスに激突する。

 こんな事態になると話しは変わる。翔子は説教も忘れバイク仲間の救命のために、事故を起こしたライダーのところへ駆けつけた。顎紐を充分にしてなかったのか、路上に横たわるライダーのヘルメットはどこかへ弾き飛ばされている。翔子はメットを被ったまましばらく様子を伺ったが、ライダーはピクリとも動かない。急いで救急車を呼ぶと、変に曲がった頭の位置を直そうと手を伸ばしたその時、翔子は肩に手を掛けられたのを感じた。いつのまにか彼女の背後に男が立っていたのだ。

「触らないで…。自分は医師ですから任せてもらえますか。」

 翔子は自分の位置をその医師に譲った。

 医師は、首筋の頸動脈に指をあて脈を取り、顔を横たわるライダーの口元に近づけて息の状態を調べた。ライダーはどうやら跳ね飛ばされたショックで心肺停止状態になっているようだ。医師はライダーの顎を優しく取るとゆっくりと引き上げ気道を確保する。そしてマウストゥマウスで2回ほど息をライダーの肺に吹き込み、胸手に手を添えて胸骨圧迫をすばやくおこない心肺蘇生をはかった。やがて翔子が呼んだ救急車が現場に到着すると、医師は救急隊員にAED(自動体外式除細動器)を持ってくるように指示。AED、人工呼吸、胸骨圧迫の組み合わせを2回繰り返したところでライダーが小さなうめき声を上げた。

 ヘルメットを取るのを忘れて、翔子はこの一連の対処を驚愕の思いで見守った。自分が立ち入れない世界だ。人の命を簡単に救う。だから医師は昔から尊敬の対象なのだ。医師は、ライダーの容態を確認すると、携帯電話でどこからかに連絡し、てきぱきと救急隊員に指示を出した。

「この方を上田総合病院へ搬入してください。今、急患の受入体制を指示しましたから…。」

 聞いたことのある病院名に、翔子が改めて医師の顔を見た。驚いたことにその医師は、自分をナンパしようとした金持ちのモテモテ坊ちゃんだったのだ。

 救急車を見送ると、達也は道路で何かを探し始めた。どうやら救命に急ぐあまり、自分のヘルメットを投げ出した場所を忘れてしまったようだ。ようやく野次馬も去っていった路側帯の縁石の間から、自分のヘルメットを見つけ出すと、埃を払って小脇にかかえる。真新しいシルバーのヘルメットが日差しに反射して輝いていた。

『そう言えば、あの坊ちゃんはバイク教わりたいって言っていたわね…。』

 翔子は、興味を持ってトボトボと自分のバイクに戻る達也を見守った。見ると、達也のバイクは堂々と路面に横たわっている。達也は何度か起こそうと試みたが、バイクはその身を起こしてくれない。やがて力も使い果たすと、その傍らに立って、どうしたものかと途方に暮れていた。

 以前ナンパしようとした女だと悟られたくなかった翔子は、ヘルメットのまま達也の傍に近寄ると、彼の肩に手をかけた。

『任せてもらえますか。』

 言葉は発しなくとも、その意味が伝わったようだ。相手が女性だと気付かない達也は、こんな華奢な人がこんな重いバイクを立てることが出来るのかと訝しく思ったが、とにかく自分の位置を譲った。

 翔子は、かるくハンドルとフレームに手を添えると、ハンドルを少し起こし接地する前輪のタイヤをロックする。そして半円を描くように身体を動かすと、彼女の体重に誘われてわずかにバイクが動いた。作りあげたその小さな動きを逃さずに、ロックされたタイヤをコテの支点にして、見事バイクを立ちあげたのだ。達也は、まるで神の奇跡を見たかのように手を合わせて立ちすくんでいる。

「ありがとうございます。」

 翔子はあらためて達也のバイクを見た。事故を起こしたライダーに意地悪されたバイクは、達也だったのだ。

 達也は、メットを付けるとバイクにまたがり、セルボタンを押す。エンジンはうんともすんとも言わない。慌てて何度もボタンを押す。セルが動く気配がまったく無かった。

「ええっ、どうやって帰ったらいいんだ…。」

 頭を抱える達也に、翔子は近づくと、右のグリップにあるキルスイッチをONにした。そして、セルボタンを押してやると、今度はセルも回って見事にエンジンが掛った。

「ああ、知らない間にキルスイッチがOFFになっていたんですね…。バイクのビギナーだってバレバレですね、へへへ…。」

 それがたとえ自分に意地悪をしたライダーであろうと、人命がかかれば自分のバイクが傷つくことも厭わず、駆けつけてきた坊ちゃん先生。そして冷静な判断のもとに、救命のための迅速な処置をおこなう。その時の彼は、坊ちゃんとは言ってはいけない、何か別な存在であるかのように感じた。ヨロヨロしながらも走りだした達也の後ろ姿を、今度は翔子がいつまでも見送っていた。

説明
バイクで出会った翔子と達也。弾丸翔子と異名を持つ彼女にバイクビギナーの達也が教えを請う。バイクを通したふたりの心のふれあいが、心の同化に深化していく中、毒ガスを使ったテロが発生。ふたりの命が危険にさらされる。真の勇気とはいったい何なのか…。恐れを退け、お互いの命を守りあうふたりは、本当に自分たちが求めている道先を見い出していく。女性には厳しいかもしれないけど、読んでいるうちにバイクが乗りたくなる恋愛小説です。
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