仮面の世界
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 その日、朝起きるとみんなが仮面を被っていた。

 これは比喩でも何でもない。本当に、仮面を被っているのだ。居間で朝食を食べている両親も、テレビに映っている人々も、家の近くを散歩している老人たちも、みんながみんな仮面を被っている。

 更におかしなことに、人によって被っている仮面が違うのだ。例えば、僕のお父さんは何処かの軍人の顔をデフォルメしたような仮面を被っているし、お母さんはキキョウの花模様が刺繍された上品な布製の仮面を被っている。それらには、顔を覆っていることくらいしか共通点がない。

 最初、この異様な光景を目の当りにしたとき、僕は妙な夢でも見ているのではと思った。そして、全身の至る所をしつこくつねってみたが、鋭い痛みが走るだけで、目の前の光景は悲しいほどに変化がない。よって、僕はこれが夢ではないと判断せざるを得なかった。悔しいが、つねって変化がないなら確実に現実世界だ。

 夢ではないならこの異様な光景は一体何か。

 ――空前絶後の仮面ブーム。不意にそんな言葉が僕の頭をよぎった。流行という物は、いつも人の心を惑わす。もしかしたら、僕が寝ている隙に、仮面の押し売りが各地に現れ、その勢いで爆発的に広まったのかもしれない。

 流行だとすれば大変だ。何故なら、僕だけ仮面を被っていない。つまり、流行に乗り遅れている。しかも、ここまで壮絶な流行だ。このままでは、嘲笑、侮蔑、陵辱、罵詈雑言と、あらゆる精神的ダメージを被ることになってしまうだろう。

 背筋に冷たい感覚を覚えた僕は、朝の食卓に着いたあと、さりげなくお母さんに仮面について聞いてみた。無論、僕用の仮面を手に入れるためにだ。

「ねぇ、お母さん。その仮面似合っているね」

 会話という物は、掴みが肝心だ。いきなり目的にがっついてはいけない。

「え……? 純一、貴方何を言ってるの?」

 当惑した声でお母さんは言った。仮面を被っているので、どんな表情をしているのかはわからない。

 ――おかしい。

 どういうことだろう。流行に乗っている人間は、その対象について褒められて悪い気はしないはずだ。なのにお母さんは、まるで仮面自体が存在しないかのような反応をしている。

 ――まさか、もういじめという名の攻撃は始まっている!?

 仮面は既に体の一部だと主張したいのか? だから、そんなものは存在しないように装っているのか? そして、僕を間接的に馬鹿にしているのか?

 しかし、それらの疑念は杞憂だったと、僕は三秒で思い知らされた。どうやら、お母さんには本当に仮面が見えていないようなのだ。いや、お母さんにとって存在していないというのが適切か。

 何故なら、お母さんは何の躊躇いもなく頬を爪で掻いたのだ。仮面の流行という僕の仮説が当たっているなら、そんな仮面を傷つけるような真似はしないだろうし、そもそも仮面にお母さんの指が当たっても皺の一つ付かない。布製なのにだ。

 それらの結果から、僕は一つの結論を出した。まず、仮面ブームなどは全く起こっていない。そして、お父さんが無反応な点や、テレビでも特に仮面について報道していない点から、仮面自体僕にしか見えていないのだと思って良いだろう。同様に、お父さんたちに仮面を触ることはできないようだ。

 ……何でこんなおかしな事になってしまったのだろう。全く訳がわからない。が、現実として目の前でそれは起こっているのだから抗いようがない。

 仕方なく、僕は以上の結論を大人しく受け入れ、しばらくこの不気味な世界を見守ることにした。

 そうしていると、何となくこの仮面が何を意味しているのかわかってくる。要するに、みんなが被っている仮面は、彼らの象徴なのだ。

 例えばお父さんは毎日毎日遅刻することなく会社へ出社し、滅私奉公の信念を貫いて働いている、ということを以前終電を逃して家に来たお父さんの友人から聞いた。休日出勤も厭わず、報酬が出ない仕事も進んで行う。それは正に愛国心ならぬ愛社心に満ちた軍人のようだ。だからこそ、お父さんが被っている仮面は屈強な軍人をイメージしたものなんだろう。

 次にお母さんはどうか。お母さんはいつも静かで礼儀正しく、お茶や生け花にも詳しい、正に大和撫子だ。だからこそ、キキョウの花模様が刺繍された仮面を被っているのだ。確か、キキョウの花言葉は清楚や気品だった。これほどお母さんにぴったりな花はない。

 ふと、僕はあることが気になった。お母さんたちに仮面が触れないのは、さっきのことからわかっている。だけど、僕ならどうだろうか? 見えるなら、触ることもできるんじゃないだろうか?

 別に触ったからと言って何かが起こるとも思えない。しかし、一度わき出した好奇心を抑えるのは、僕にとって凄まじく難題だ。

 世界中で、下手をすれば僕にしか触れない仮面……。これにときめかずに、一体何にときめけば良いというのか!?

 気付けば僕は席を立ち、お母さんの顔を至近距離でのぞき込んでいた。

「ど、どうかしたの純一? 貴方、さっきから少し変よ?」

 そんな戸惑いの声に構わず、僕は素早くお母さんの仮面の端に手を伸ばした。

 ぴとっと、指に布の感触が伝わる。……つまりこれは。

「やったぁあああ!」

 僕は嬉しさのあまり、そのままガッツボーズをした。当然、お母さんの顔から仮面が剥がれる。しかし、そんなことは気にしていられない。今この手に、僕にしか触れられない仮面が……!

「何するのよあんたっ!」

 そんな女性の叫び声が聞こえたと思ったら、僕は天を仰いで倒れていた。頬にジンジンと痛みが走っている。どうやら、ビンタをされてぶっ飛ばされたらしい。……しかし、一体誰に?

 恐る恐る視線をさっき僕がいた位置に動かすと、……そこには鬼のような形相をしたお母さんが、凄まじい威圧感を放ちながら立っていた。その様子は、清楚や気品という言葉からは百八十度かけ離れている。一瞬、別人なのではと本気で疑った。しかし、見直すとやはり紛れもなくそれはお母さんのようだった。

「仮面がどうのこうのと言ったかと思えば、ジロジロと人の顔を見てくるわ、挙げ句に顔を引っ掻いて奇声を上げるわ……。見なさいよ! ほっぺたに傷が付いちゃったじゃない! あんた昔から馬鹿だとは思っていたけど、ここまでとはねっ!」

 お母さんの顔をした鬼は、僕を指さしてがなり立ててくる。それを見て、僕がお母さんに持っている清楚というイメージは、豪快に崩れ落ちてしまった。

「い、いやその、ほっぺた引っ掻いたのは悪かったけど、そこまで言う事じゃ……」

「うるさいっ!」

 僕の抗議の声は一瞬でかき消された。

「あなたっ! 純一がこんな風になってしまった責任はあなたにもあるのよ!?」

 そして、お母さんの攻撃の矛先は何故か、さっきから大人しく新聞を読んでいるお父さんへ向けられた。

「あなたが家庭を大切にしないから……。純一の面倒見たの、私ばっかりじゃない! その間、あなたは何をしたの!? 方々に頭を下げて金をかき集めてきただけじゃない! そんな誰にでもできることに必死になって、家族を無視して……あなた恥ずかしくないのっ!? もっと家族を大切にしなさいよ! もっと私に良い思いさせなさいよ! この、甲斐性無しっ!」

 お母さんの言葉の弾丸が、マシンガンのようにお父さんに放たれる。僕はその様子を、ただ呆然と見つめるほかなかった。

 その時、テーブルを力強く誰かが叩いた。……お父さんのようだった。

 見れば、お父さんは全身をブルブル震わせながら、今にも獲物に食らいつきそうな形相でお母さんを睨み付けている。……ちなみに、仮面はいつの間にか取れていた。

「……お前は、何を言っているんだ? いつ、俺が家族を大切にしなかったって言うんだっ!? えぇっ!?」

 そして、お父さんもお母さんと同様に怒り狂いながら言葉の弾丸を発射し始めた。

「俺のやってる仕事が誰にでもできることぉ? ふざけるのもいい加減にしろっ! だったら、お前がやってみろよ!? できねぇよなぁ? 家事しかやってないお前に、普通の仕事が勤まる訳がない! それに俺は知ってるんだぜ? お前が毎日何処ぞのレストランへ近所の人とランチに行ってるって! な〜にが良い思いをさせろだっ! 旦那が必死に働いている間に、自分は極楽気分。これ以上の良い思いがあるってのかぁ!? えぇ!?」

 お父さんが激しくがなり立てる。それに対し、お母さんは絹も切れそうなほど甲高い奇声をきぃと上げた。

「べ、別に良いでしょそれくらい!? あなたと違ってねぇ、私は繊細なのよ! 自分へのご褒美として、ちょっとの贅沢をするくらい構わないでしょ! それにねぇ、私だって知ってるのよ! あなたがたまに風俗で散財してるってねぇ! 私という女がありながら信じらんないわっ!」

「あぁ、風俗でもキャバでも何でも行ってるさ! 悪いかよ!? えぇ!? 俺だってたまにはお前みたいな年増の体じゃなくて、若々しい肌の女を抱きたいんだよ!! こっちこそ、お前の家事とは比べものにならねぇくらい仕事のストレスが溜ってるんだからよ!」

「なんですってぇえっ!?」

 お父さんとお母さんの言葉の応酬は、際限なく続く。そこには、いつもの二人の仲睦まじい様子は、全くと言っていいほど存在しない。軍人もキキョウも、何もない。

 ……僕は何だか居たたまれなくなり、学校の鞄を取ると、そそくさと家から脱出した。いつもの登校時間までまだ余裕はあったが、いつまでもあの戦場にいられるほど、僕の心は強くできていない。

 

 僕が通っている高校への道を、いつも通りに歩く。しかし、周囲の光景は全然いつも通りではない。やはり、ここでもみんながみんな仮面を被っているのだ。このおかしな世界を受け入れたとはいえ、どうしても何だか落ち着かない。

 あるサラリーマンは、とても堅牢そうな鉄仮面を被っている。ある老婆は、般若の仮面を被っており、またある老婆は、にっこり笑ったえびす神の仮面を被っている。そんな人々をそれとなく見物しながら、僕は足を進めた。

 目の前を、小学生の一団が通り過ぎてゆく。彼らもまた、仮面を被っていたが、それはとても小さく、顔の一部しか隠れていなかった。

 中学生らしき集団とも途中ですれ違った。彼らは、小学生たちが被っていたものよりも、二回りくらい大きな仮面を被っていた。

 それらを見て、ようやく僕は仮面の真の意味を知った。要は、仮面を被るという比喩表現そのままなのだ。だからこそ、さっき仮面が取れてしまった僕の両親は、あそこまで激情して喧嘩を始めてしまった。……本音という物が、むき出しになったのだ。

 それらを踏まえて、道の途中で見た人々のことを思い起こすと、……何だか無性に悲しくなってしまった。

 どうして、みんなは仮面を被るんだろう。どうして、本音をひた隠しするのだろう。自分自身に嘘をついて、空しくないのだろうか。僕には、みんなが仮面を被る理由が、全然理解できなかった。

 ――でも、だからこそ僕は友達が少ないのかも。

 何だかモヤモヤとした気分を抱きながら、僕は"瀬ヶ原市立東高等学校"と書かれたプレートのある校門を通り抜けた。……そしてそこにもやはり、仮面を被った生徒たちがたくさんいたのだった。

 

 仮面だらけの異様な雰囲気に包まれた教室。その、自分の席に鞄を置くと、僕は日課をこなすべくある女子の元へと向かった。

 ある女子とは、僕のクラスの副委員長を務めている桐山さつきさんのことだ。そして、日課というのは彼女へ朝の挨拶をすることである。

 僕は普段、誰かに朝の挨拶をすることは滅多にない。誰かにされて、はじめてやるという程度だ。正直、あの行為に何の意味があるのかさっぱり理解できない。

 しかし、桐山さんに対しては別だ。僕は毎朝欠かさず、教室に来たらイの一番に彼女へ爽やかな挨拶をする。

 ……ここまで言えば、僕が彼女にどういう想いを持っているかわかるだろう。

「おはよう、桐山さん」

 朝の陽気に負けないほどさっぱりした笑顔で、僕はこちらに背を向けている桐山さんに挨拶をする。すると、彼女もこちらへ振り返り、

「あら、おはよう篠田くん!」

 と、よく透き通った声で挨拶をしてくれた。

 ……だが、僕はその場で思わずフリーズしてしまった。

 彼女の身体を下から上へ順々に見つめる。

 少し短めなスカートから、すらりと伸びた白い二本の脚。ここは別に問題なし。空色のリボンが付いた白い制服に包まれている、華奢な体と、平均より少し大きい胸。そして、その上にある肉感的な艶やかさを放っている鎖骨。ここも大丈夫。というより、いつもより美しくさえ思える。……問題は、そこから上だ。

 いつもなら、正に美少女としか形容のしようがない、整った顔があるはずの場所には、……聖母マリアの銅像の顔をそのままに切り取った仮面が、さも当然のように存在していた。彼女の綺麗な黒いロングヘアーが、仮面からはみ出て見えるのが、何とも滑稽で切ない。

 ――なんてこった!

 僕は奈落に突き落とされたような絶望感を覚えた。これでは、彼女の美しい顔だちを拝見するという、僕にとって朝の準備運動に等しい行為をすることが不可能だ。数少ない学校での楽しみを、こんな形で奪われてしまうとは。

「どうしたの、篠田くん? 私の顔に何かついてる?」

 桐山さんは、心底不思議そうな声で訪ねてくる。残念ながら、どんな表情をしているかは当然わからない。彼女なら、困った顔も宝石のように美しいというのに……!

 僕は、何だか全てがどうでも良い気分になり、桐山さんの問いに答えることなく、彼女の元を後にした。

 夢遊病患者のようにフラフラと千鳥足で自分の席に戻る途中、犬神家の誰かが被っていたような、無地の真っ白な布の仮面をぴったり顔面に張り付け、その上から眼鏡をかけている男子の姿が目に入った。彼は、ピンと背筋を伸ばして席に座り、黙々と文庫本を読んでいる。文庫本のタイトルは、斜陽だ。

 僕は即座に彼が誰だかわかった。このクラスで、朝っぱらから文学小説を読み漁っている男子なんて一人しかいない。

「……小野寺くんか」

 老人のように萎れた声で僕はつぶやく。

「ん、篠田か。おはよう」

 小野寺くんは、文庫本から目を離さずに挨拶をする。

「……あぁ、おはよう」

 一応、僕も挨拶をしておいた。そして、それっきり僕らの会話は途切れてしまった。

 彼は、いつもこんな感じだ。寡黙な性格で、必要なこと以外は滅多に喋らない。そんな性格だから、友達は僕くらいしかいない。まぁ、友達と言っても、時折彼が文学小説やクラシックの話を熱心に語りだすのを聞くくらいしか、繋がりがないんだけど。

 だから、僕は彼が普段、どういうことを考えているのかは全くわからない。唯一わかるのは、彼の趣味が読書と音楽鑑賞ということだけ。……こんなことは、普段の彼を少し観察すれば、別に友達じゃなくてもわかる。

 ふと、そこで僕はあることを思いついた。

 仮面を外すと本性がむき出しになることは、今朝の両親の件で完全に証明された。そしてそれは、目の前の小野寺くんも例外ではないはずだ。

 ――彼の本音を、一度見ておくのも面白いかもしれない。

 そんな、邪な好奇心が奥底からふつふつと湧き上がってくる。繰り返すが、僕にとって膨れ上がった好奇心を抑えつけるのは、どんな数学の問題よりも難題だ。

 気づけば、僕は小野寺くんの仮面を勢いよく剥がしていた。

「な……?」

 彼は、一瞬驚いた表情をすると、すくっと立ち上がり、険しい目でこちらを見つめてくる。いや、彼が見つめているのは僕じゃない。僕の背後だ。

 一体何があるのかと、僕は後ろを振り向く。そこには、椅子に座ってケータイの液晶画面を熱心に見つめている、一人の女子の姿があった。彼女は、女豹の仮面を被っているようだった。当然、僕にはそれが誰だかわからない。

 ――彼女が、どうしたんだろう?

 僕が不思議に思っていると、小野寺くんは早足で女豹仮面の元へと向かってゆく。……そして、なんと彼は彼女のケータイを強引に取り上げてしまった。

「な……!? 何すんだよお前っ!?」

 当然、女豹仮面から汚い抗議の声が上がる。しかし、小野寺くんはその声を、まるで初めから存在していないかのように無視し、相変わらずの険しい表情でケータイの画面を見つめていた。

 ……そして、彼の眼鏡が一瞬光を帯びる。

「……やっぱり、ケータイ小説か」

 小野寺くんは、吐き捨てるように呟いた。

「だ、だったら何なんだよ!」

 女豹仮面は喚いた。

 彼らの様子を見て、教室中がざわざわと騒がしくなる。……当然だろう。あの、喧嘩にはアメリカのギャングとアフリカの裸族の関係くらいに無縁な小野寺くんが、妙な悶着を起こしているのだから。

 しかし、僕はそんな状況が面白おかしくて仕方がなかった。

「くだらない……。こんな物を読んで、君は恥ずかしくないのかい?」

 小野寺くんは、まるで汚物を見るような眼差しを女豹仮面に向ける。

「あ、あぁっ!?」

 女豹仮面は、荒々しく立ち上がり、椅子を蹴飛ばした。

 一触即発。今にも取っ組み合いが始りそうな、火薬の匂いが辺りに充満する。

「あぁ、怖い怖い。やっぱり、子供の作文以下の駄文を読んでいると、君みたいに凶暴な性格になっちゃうんだね。こんな有害図書を焚書しない政府もどうかしているね」

 小野寺くんは、鼻で笑いながら眼鏡の中心を中指で触れた。……最初に喧嘩を売った人間が言う台詞じゃないなと、僕は思う。

「んだと、このオタクがぁっ! もういっぺん言ってみろやぁっ!」

 女豹仮面はついに小野寺くんの襟元を掴み上げ、教室の外まで響きそうな声で威嚇した。しかし、小野寺くんは薄く笑みをたたえて、余裕を保ったままだ。

「ふっ、何度でも言ってやるさ。ケータイ小説なんてただの駄文だよ。読んでも何の教養も得られない、ゴミ以下の存在さ。そして、そんな物を嬉しそうに読んでいる君も救い難いほど知能が低い。もはや、頭がおかしいと言ってもいいかもしれない。……それと、僕をオタク扱いしないでくれないかい? あんな精神年齢の低いガキたちと一緒にされては、さすがに傷つく。君はオタクを自分より格下の存在だと思っているようだが、僕からすれば五十歩百歩だね」

 そこまで彼が言ったところで、誰かが荒々しく机を叩く音が、教室内に響いた。びっくりして、僕は音がした方向へ目をやる。そこには、わなわなと肩を震わせている池田くんの姿があった。既に仮面はなく、眼鏡をかけた素顔がむき出しになっている。彼は、クラス一濃いオタクとして有名だ。

 池田くんは、勢いよく席を立つと、のしのしと小野寺くんへ詰め寄った。

 そして、二つの眼鏡が対峙する。両人とも、インドア派とは思えない威圧的なオーラを放っている。

 思いがけないリングへの乱入者に、教室内はシンと静まった。

「どうしたんだい?」

 小野寺くんは、女豹仮面の手をパシッと払いながら、池田くんの顔を見て言う。

 女豹仮面は、そのまま力なく膝を付いた。そして、彼女の被っている仮面に一つ二つと亀裂が走り、とうとう粉々に砕けてしまった。仮面の向こうの彼女は、シクシクと涙を零している。あそこまで人格否定されれば、無理もないのかもしれない。

「なんだい君は? 見たところ、僕の意見に文句があるみたいだが?」

 再び小野寺くんが言うが、池田くんは黙ったまま、ただ彼を睨み付けている。

「はっ。オタクはこれだから困る。不満があっても文句の一つも言えない臆病者ばかりだ。人間社会で生きるのに、会話の一つもできないでどうするんだい?」

 再び、小野寺くんは鼻で笑いながら眼鏡の中心に中指を当てる。普段全く喋らない彼が言う台詞ではないなと、僕は思った。

「……うるせぇよ、この俗物が」

 その時、ようやく池田くんは声を発した。

「……なんだって?」

 小野寺くんの顔が、少し歪む。

「お前は単なる俗物だって、俺は言ったんだよ」

 淡々と、低くドスの利いた声で池田くんは言った。一瞬、小野寺くんの顔が鬼の形相に変わるのを、僕は見逃さなかった。

「ほぉ……。君はどういう理由で僕が俗物だなんて決めつけているのかな? 言っておくけど、僕は素晴らしき過去の遺産である、文学とクラシックたちを心の底から愛している。決して、権威主義になんか陥ってはいないさ」

 そう言いながらも、小野寺くんの顔に一筋の汗が流れる。目線はさっきから明後日の方向を向いたままだ。

「人と話すときはちゃんと目を見て話せよ、小野寺。俺は知ってるんだぜ? お前が学校から帰る途中、小説をゴミ箱に捨てていたのをな。愛している物を捨てる。これはどういうことだ?」

「ちょ、ちょっと僕の書斎に入りきらなかったから捨てただけさ。何しろ、僕の書斎は古今東西の文学作品で一杯だからね」

 書斎という言葉を強調して小野寺くんは言う。学校帰りに小説を捨てたことは事実らしい。

「その書斎とやらはマンガで一杯なんだよな? だから、好きでもない文学小説を溜めておくことはできない。そういう事だろ?」

「は、はぁ? 僕がそんな俗悪な物、読む訳がないじゃないか!」

「自分に嘘をつくのは良くないぜ? 実は、お前の中学時代の友人とちょっとした縁があってな。証言を貰っているんだ。お前は中学生の頃かなりのマンガオタクだったって。更に、お前の家の本棚には、今も大量のマンガが保管されているって」

「で、でたらめな事を言わないで欲しいね!」

 完全に取り乱しながら小野寺くんは言った。さっきまでの余裕さが嘘のようだ。

「それからもう一つ。お前、しょっちゅう教室で文学小説を読んでるが、あれ完全なブラフだよな? ちょっと前、こっそり観察してみたが、お前本を開いているだけで全然ページを読み進めていないじゃねぇか」

 対して、池田くんは相変わらずの淡々とした声で小野寺くんを追い詰める。

「た、たまたまだろ。文学小説というのは難解だし、あまりに美しい文章もあるからね。時折感傷に浸ってページを捲るのも忘れてしまうんだ」

「はっ。嘘吐け。不定期に何度もお前を観察してみたが、いつもいつも本を開いているだけだ。感傷に浸るどころか、えらく眠そうな目をしていたときもあったぞ?」

 そこまで言って、池田くんは一呼吸をおく。

「つまりはこういう事だ。お前は文学小説を読んでいるフリをして、格好をつけているだけさ。みんなにすげぇって思われたい一心でな。典型的な中二病だよ。何冊も好きでもない小説を買い込むのは手が込んでいるが、詰めが甘かったな。ちゃんと、見ている奴は見ているんだよ」

 そして池田くんは、ビシッと小野寺くんに向けて指をさした。何だか、探偵が容疑者を追い詰めている場面のようだ。

「き、君はタチの悪いストーカーか何かかっ!? 気味が悪い! 気色が悪すぎる!」

 対して、小野寺くんは顔中をトマトのように真っ赤に染めて、全身をガタガタと振るわせながら叫んだ。否定しない辺り、どうやら池田くんの言っている事は真実だったのだろう。どおりで、彼が文学やクラシックについて語るとき、作品名や著者の名前の羅列ばっかりで、具体的な感想を言わなかった訳だ。

 しかし、今の小野寺くんの言葉には教室にいるほとんどの人間が同意しただろう。正直、池田くんの行為は到底褒められた物じゃない。ホモ扱いされてもおかしくない行為だ。実際、みんな池田くんへ奇異の目を向けている。

 一応の友達である僕ですら、小野寺くんが実は文学小説を読んでいなかっただなんて、気付かなかったのだ。というか、別に彼が何を読んでいようがどうでも良い。だからこそ、余計池田くんの執着心に尋常でないものを感じる。

「うるせぇ! 俺はお前みたいな奴が一番嫌いなんだ! いつもいつも人が楽しんでいるところに土足で上がり込みやがって! 文学を読むのがそこまで偉いのかよっ!? サブカル楽しむのがそこまで悪いのかよっ!? 俺からすれば、夏目漱石や太宰治の書いた訳のわからん小説より、茄子胞子の方が数段面白いねっ!」

 池田くんも、とうとう体を震わせながら咆哮する。彼は、文学に対して何かトラウマでも持っているのだろうか。

「き、君は頭がどうかしているとしか思えないな! 茄子胞子みたいな、うっとうしい文章の何処が良いって言うんだい!?」

「はっ! 完全に化けの皮が剥げたな! エロゲーライターの文章をどうして文学好きが知っているんだ!?」

「う、うるさい! 僕はオタク何かじゃないからなっ!!」

 互いに、そんな言い争いを何度となく繰り返す。教室のみんなは、二人のやりとりをただやかましそうに見ていた。訳のわからない闘争が始まり、みんなすっかり興味を失ってしまったようだ。それは僕も同じで、さっきまで感じていた面白みは、いつの間にか消えていた。

 別に、他人が何を楽しんでいようが、いちいち口を出さなくてもいいじゃないかと、僕は思ったが、どうやら彼らにとっては自身の矜持に関わる問題らしい。

 無趣味な人間で良かったと、僕は何となく思った。

「おい! これは一体何の騒ぎだ!?」

 そのとき、更なる乱入者が現れた。ようやく先生が止めに来たのかと、声がした方へ目を向けると、……そこには、首が痛くなるんじゃないかとつい心配してしまうほど、巨大な織田信長の仮面を被った、体格の良い男子生徒が立っていた。歴史の教科書に必ずと言っていいほど載っているあの信長の顔だ。その仮面はぱっと見、人間の顔の表面積の二、三倍はありそうだった。

「あ、渡部くん! 来てくれてよかった。実は、さっきからあの二人が変なことで言い争ってて……」

 聖母マリアの仮面を被った桐山さんが、織田信長の仮面に駆け寄る。それで、ようやく彼が誰なのか僕にもわかった。

 渡部くんとは、このクラスの委員長を務めている男子生徒だ。容姿端麗、頭脳明晰、更にスポーツ万能、更に更に高い行動力を持ち合わせているという、絵に描いたような完璧人間で、当然男子女子関わらず人気がある。もちろん、桐山さんにもだ。故に、彼は自動的に僕のライバルなわけである。

「やいのやいのやいのやいの!」

「やいのやいのやいのやいのやいのやいのやいの!!」

 もはや、僕には理解できない言葉で言い争い始めている小野寺くんと池田くんの元へ、渡部くんはのしのしと近寄ってゆく。巨大な織田信長の仮面を被っているせいか、その様子はやたらと迫力があった。

「こらお前ら! 何をやっているんだ!」

 渡部くんは、夢中で罵倒し合っている二人を強引に引き離し、一喝した。しかし、二人はそれでも言葉の機関銃を連射しまくっている。

「この、いい加減しろよ!」

 その様子に業を煮やしたのか、渡部くんは池田くんを床にはり倒し、そのまま腕を捻りあげた。さすが柔道部所属だけあって、動きに全く無駄がない。

 池田くんは、それでようやく小野寺くんへの罵倒をやめ、ひたすら自らに降りかかる痛みに苦悶の表情を浮かべた。小野寺くんはと言えば、その様子を見て一気に顔を青ざめさせ、ガタガタと全身で恐怖に震えている。

 そうして、二人のカルチャー戦争はあっけなく終焉を迎えてしまった。

 

「はぁ……」

 昼放課。僕は廊下をとぼとぼと歩きながら、大きなため息を一つついた。

 あの、今朝の一件のあと、渡部くんはスクールカーストの更なる上位へと君臨した。もはや、完全にバラモンになったと言ってもいいかもしれない。

 しかし、それも当然だと言える。あそこまで華麗にクラス内の厄介な揉め事を治めてしまったのだ。ほとんどの人間は尊敬せざるを得ないだろう。実際、僕もつい感心してしまった。

 ……問題は、あの桐山さんも彼に心を奪われていたことだ。

 彼女は、二人をあっという間に意気消沈させた渡部くんを見ながら、胸に両手を当てていた。その様子は、まるで乙女が王子様にときめいているようにしか見えなかった。幸か不幸か、仮面をしていたので彼女がどんな表情をしていたか僕にはわからなかったが。

 僕は、そんな彼女を見て危機感を覚え、仮面を二人に戻すことでこの場を解決し、渡部くんに対抗することを思いついたが、いつの間にか小野寺くんも池田くんも元通りに仮面を被っており、結局何をすることもできなかった。桐山さんの渡部くんに対する好感度が無暗に上昇するのを、指をくわえて見ていた訳である。

 最悪、あれは惚れてしまっていたのかもしれない。

 一応言っておくが、妙な仮面を被っていたとはいえ、僕の桐山さんへ対する想いは決して潰えてはいない。この不気味な世界が永遠に続くとは、とても思えないからだ。

 ――あぁ、今日は最悪の一日だ。

 朝っぱらから両親の醜い喧嘩を見せつけられるわ、桐山さんの美しい顔を拝見できないわ、友人の汚い一面を知ってしまうわ、渡部くんと桐山さんの距離を余計に縮ませてしまうわ……この仮面の世界に来てからロクなことがないように思える。しかも、そのほとんどが僕の行動によって招いてしまった出来事であるから、自分に腹が立ってしょうがない。

「ん? あれは……」

 苛立ちながらフラフラと視線を彷徨わせていると、僕の教室の前で一人の女子が、同じく女子生徒の集団に詰め寄られているのが目に入った。どう見ても友好的な雰囲気ではない。少し耳を澄ませば、陰湿でねちっこい嫌みの波が聞こえてくる。

 やはり仮面を被っているため顔は見えないが、平和な僕のクラスでいじめを受ける人間なんて一人しかいない。僕は、詰め寄られている女子生徒が藤原峰子であることを、すぐに理解した。

 藤原さんは、小野寺くんと同じく寡黙な性格で、なかなか整った顔立ち――桐山さんと比べれば天と地の差なのは言うまでもない――をしている。で、一部の嫉妬深い女子たちからは、それが生意気に見えるのか、よくああいう風に陰湿ないじめを受けているわけだ。

 無駄な諍いを好かない僕は、いじめを受けている藤原さんを見ても、いつもスルーしている。というより、彼女は堅牢な精神力を持っていて、見たところいくらいじめられても全く苦しんでいないため、わざわざ助けるまでもないのだ。まぁ、彼女のそういう態度が余計にいじめっ子の怒りに火を注ぐのだろうけど。

 しかし、今日の僕はいつもと違った。なぜなら、藤原さんを見て、ある妙案を思い付いたからである。

 桐山さんは、渡部くんの強いところを見て胸をときめかせていた。つまり、彼女は強い男に弱いのである。ならば、僕がすることはただひとつ。

 日常的にいじめを受けている藤原さんを華麗に救出し、桐山さんのハートを射止めてやるのだ――。

「おい、いい加減にしろよ。藤原さん、嫌がってるだろ?」

 さっそく、僕は藤原さんに詰め寄っている女子たちに、一ノ太刀を浴びせた。いつもは使わない乱暴な口調で、彼女らの出鼻をくじきにかかる。

「……何よ、あんた?」

 瞬間、凶悪なフォルムを持った多数の仮面がこちらを向いた。仮面の奥に、黒い眼差しが何となく透けて見える。思わず、僕はたじろいでしまった。

「だ、だからいじめは良くないと思うんだよ、僕は」

 なるべく動揺を隠しながら、僕は藤原さんに目をやった。しかし、彼女の顔が不気味な岩石に覆われていて、またしても僕はたじろいでしまう。どうやら、この岩の塊が藤原さんの仮面らしい。何とも、冷淡な彼女らしい仮面なのかもしれない。

「あんた、何びびってんの?」

 女子集団の一人がこちらを見て言った。その声には、微かに嘲笑が混じっていた。

 ――まずい。

 出鼻をくじくどころか、逆に勢いづかせてしまったようだ。

「あたしらが峰子をどうしようが、勝手でしょ?」

「男子には関係ないからどっか行ってよ」

 女子たちが、陰湿な言葉をどんどん放ってきた。完全になめられている。

 僕はどうすることもできず、ただ黙っていた。当初の士気はあまりにもあっという間に鎮火した。

 ……というのも、勢いよく彼女らに宣戦布告したは良いが、その先の戦略を僕は全く考えていなかったのだ。

 今朝の渡部くんのように、暴力で抑えつけるのはもちろん論外だ。女子を殴りつける男子に心を奪われる人間なんて、天然記念物より少ない。

 かといって、舌戦で挑もうにも、この人数じゃ逆に説き伏せられてしまうだろう。そんな情けない姿を晒せば、逆に桐山さんに嫌われるかもしれない。

 ――どうすればいい……?

 体中から嫌な汗を噴き出しながら、僕は必死に頭を回転させた。その間にも、女子集団は容赦なく納豆のようにねちっこい嫌みの言葉を放ってくる。……ある意味、罵声を浴びせられるよりもきついかもしれない。

 と、その時、ふと藤原さんの仮面が目に入った。そして、僕の頭に起死回生の一手が湧き上がる。

「藤原さん、ちょっとごめん」

 そう言いながら、僕は藤原さんの岩石仮面を外し、捨てた。途端、彼女の整った顔立ちが目に入り、それが徐々に歪んでゆく。

 ――よし!

 僕はにやりと頬を緩ませた。

 僕の起死回生の一手。……それは、藤原さんの仮面を外すことにより、両親や小野寺くんたちのように本音をぶちまけさせることだ。

 何せ藤原さんは、入学当初からずっといじめられている。いくら苦しんでいないとは言え、腹の底では相当苛立っているに違いない。蝿にたかられて平然としていられる人間なんて、ほとんどいないのと同じだ。

 普段は寡黙な藤原さんがキレて、今までの恨みつらみを吐き出せば、この女子集団もビビッて逃げ出してしまうに違いない。我ながら、完璧な一手である。

 ……何だか、当初の目的からかなりズレているような気もするが、仕方がない。この場を生き残らねば、僕に明日は無いのだから。

「……」

 しかし、藤原さんの様子がどうもおかしい。怒り狂うどころか、うつむいてじっと黙りこんでいる。心なしか、その表情は落ち込んでいるように見えた。

「あんた、さっきから峰子見つめて何やってんの?」

「あ、もしかしてあんた峰子の彼氏?」

 僕が戸惑っている間に、尚も女子集団のねちっこい言葉が飛んでくる。……ふざけるな。僕が好意を寄せているのは桐山さんただ一人だ。

「……!」

 その時、突然藤原さんが勢いよく駆けだす。そして、あろうことか彼女は廊下の窓から身を乗り出し始めた。

 あまりにも突発的な藤原さんの行動に、僕と女子集団は仲良く呆然とその様子を見つめた。というか、廊下を往来していた人々全員が藤原さんを注目している。普段は騒がしい昼放課時の廊下に、珍しく静寂が訪れた。

「……ぃんでやる」

 そんな中、ぽつりと藤原さんが何かを言った。言葉が妙に震えていて、上手く聞こえない。それは、他のみんなも同じのようだった。

 いったい、彼女は何を言ったのか。考えを巡らせていると、ふと藤原さんの肩が震えているのが目に入る。

「……死んでやる!」

 そして次の瞬間、そう叫んでこちらをカッと振り向いた藤原さんの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった……。

「ば、馬鹿っ!」

「な、何考えてんのよあんたはっ!」

 女子集団は一斉に藤原さんの元へ駆け出し、彼女を必死に引っ張る。しかし、藤原さんの力が物凄いのか、女子集団は逆に彼女に引っ張られ、このままでは全員落ちてしまいそうだった。

 そんな彼女らの様子を別世界の出来事のように見つめながら、僕は自分の一手が完全に空回りしてしまったことを悟った。

 ……仮面に覆われている物は、なにもその人の本音だけでなかったのだ。自分自身に対する誤魔化しや現実逃避。そういった役目も、仮面という物は担っていたのだ。

 だから、藤原さんの仮面は堅牢な岩石だった。あれは、藤原さんの本性が激情家であるとか、そんな意味では全くなかったのだ。いじめから自分の心を堅く守るための、現実逃避という名の防御壁。……あの仮面は、そういう意味だった。

 だから、僕が仮面を取ったことにより、本当は傷ついていた彼女の本心がむき出しになり、彼女はああいう行為に走ってしまったのだ。

「やめなさいよ、峰子……!」

「洒落になんないって!」

 女子集団は、自らが落ちそうになりながらも、必死に藤原さんを引っ張る。なかには泣き声を上げている生徒もいる。ぱっと見、それは美しい友情劇に見えるかもしれない。

 ――普段はいじめていたけれど、本当は大切に思っていた――。うん、全米が泣きそうな感動物語だ。

 しかし、彼女らの本心はきっと違う。何故なら、彼女らの被っている仮面は、涙を流すワニ。偽善の象徴として、この上なくぴったりな仮面だ。

 あの女子集団は、これまで幾度となく藤原さんをいじめてきた。ここで藤原さんが自殺すれば、何が原因かは誰にでもわかる。恐らく、彼女らは間違いなく退学処分を下されるだろうし、遺族から高額の慰謝料請求をされるかもしれない。高校生という若さで、人生が無茶苦茶になってしまうわけだ。そりゃ、必死にもなる。

 ここは四階。しかも、あの窓の下は木も何もない、一面アスファルトだったはずだ。落ちればタダでは済まない。

 ――放すも地獄、引っ張るも下手すりゃ死亡。

 僕は何だか楽しい気分になりながら、この場を速やかに去ることにした。さっきも言ったが、僕は何の意味もない諍いに巻き込まれるのは好まない。それに、藤原さんやあの女子集団を助ける義理もない。

 だから、仮面を被っていない僕にとって、この場にいる理由なんて何もないのだ。

 

 適当にほとぼりが冷めたあと、僕は教室の自分の席に戻った。まだ昼放課は続いている。

 ちなみに、藤原さんたちは教室の前からいなくなっていた。仲良く落ちたか、それとも何らかの理由で別の場所へ行ったか。騒ぎが起こっていないことから、恐らく前者はありえないだろう。

 教室内を見回す。まず、小野寺くんと池田くんが向かい合ってる姿が目に入った。両人とも、黙ったままだ。……また、喧嘩を始めるんだろうか。いや、二人とも仮面を被っているからそれはないか。

 次に、桐山さんと渡部くんが仲良さそうに話しているのが目に入り、嫌な気分になる。というか、渡部くんの巨大織田信長仮面の存在感が凄まじく、どうやっても目に入ってしまう。……どういう嫌がらせだろう、これは。

 ふと、あの信長の仮面を取ると渡部くんはどうなってしまうんだろうと気になった。藤原さんの例から考えるに、仮面が強そうであればあるほど、それは本人の弱さを隠しているように思える。

 織田信長から弱さをイメージすることは、なかなか難しい。とすれば、あの仮面を取ってしまえば、渡部くんは一気に弱くなってしまうんだろうか?

 ……いや、仮面はあくまで心を偽る物だ。肉体まで影響するとは考えにくい。

 しかし、取ってみる価値はあるかもしれない。これまでの例からいって、仮面を取られた人物は、その人にとって隠しておきたい部分を、表に出してしまう。ならば、上手くいけば桐山さんが彼に抱いているイメージをぶち壊せるのかもしれない。

 僕はにやりと笑みを浮かべながら席を立った。

 ……その時、教室の扉が乱暴に開かれる。そして、何人かの人間が教室に飛び込んできた。彼女らの顔を見て、僕は小さくため息をつく。

「死んでやるぅっ……!!」

 先頭を走るは、涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにした藤原さん。もはや、元の整った顔立ちは全くと言っていいほど面影がない。人間、僅かな時間でここまで変われるのかと、僕は思わず感心してしまった。

 彼女は、教室内の開いている窓を見つけると、一目散にそこへ向かう。

「はぁ、はぁ、いい加減にしなさいっての峰子……!」

「何度止めたら諦めるのよ〜」

 その後ろを追うは、さきほどのワニ仮面の女子集団。どうやら、ずっと藤原さんの自殺を止めるために奔走していたらしい。息は乱れ、仮面の端からは大粒の汗が流れている。

 彼女らの登場で、教室に流れていた平穏な空気は無惨に吹っ飛んだ。誰もが困惑した顔で藤原さんたちを見つめている。

 もう、勘弁して欲しい。これからが勝負というところで、どうしてこんな邪魔が入るんだろうか……。

 そう苛立ってると、巨大織田信長仮面が弾かれたように動き出したのが目に入った。彼は、窓に足をかけている藤原さんの元へと、目にも止まらぬ早さで向かう。

 ――しまった!

 僕がそう思った時、既に彼は藤原さんの体を引っ張っていた。……何なんだ渡部くんのこの行動力は。もはや人間じゃない。

 お手柄高校生、いじめられっ子を救う! そんなタイトルの新聞記事が、僕の頭の中を舞い踊る。……万一、そんなことになれば、桐山さんはほぼ永久的に渡部くんに惚れてしまうだろう。

 ――ふざけるな、その手柄のきっかけを作ったのはこの僕だ!

 僕は、全身の運動神経をフルに稼働させ、渡部くんの元へ駆けだした。彼は、力一杯藤原さんの体を引っ張りながらも、ギョッとこちらに顔を向けた。構わず、僕は彼の体に渾身のタックルを喰らわせる。

 ……しかし、さすがは柔道部員。僕みたいなもやしっ子の力ではビクともしない。だが、その程度引く僕じゃない。僕は、そのまま彼の体を押し倒しにかかる。

「な、何だ篠田っ!? ふざけている場合じゃないだろ、おい!」

 渡部くんのわめき声が聞こえるが、それを無視して彼の体を全力で押す。けれど、大木のように渡部くんの足は床に張り付き動かない。……くそ、どんな筋力をしているんだこの化け物はっ!?

 窓の外へ飛び降りようとする藤原さん。そんな彼女を引っ張る渡部くん。そして、その渡部くんを押し倒そうとする僕。三者三様の力が絡み合い、現場は混沌を極めた。このままでは全くラチがあかない。

 ――えぇい、ままよっ!

 僕は、巨大信長仮面を掴み、一気に剥がす。大きいだけあって掴みやすく、それはあっさりと渡部くんの顔を離れた。そして僕は、誤ってその仮面が再び渡部くんの顔に装着されないよう、適当な方向へそれを投げ飛ばす。

「……うぅっ!?」

 途端、渡部くんが両手で自分の顔を覆う。手を放された藤原さんが転落しそうになっているが、そんなことは気にしていられない。まさに今、あの渡部くんの弱い部分が露わになろうとしているのだ……!

「う、ぁあ……」

 尚も顔を隠しながら、渡部くんはうめき声を上げる。その様子は、何となく光に苦しむモンスターのように見える。……何処までも人間離れしているとは思っていたが、まさか本当に彼は人外なのだろうか。

 しかし、よく見るとそれは違うようだった。彼が怖がっているのは光ではない。視線だ。その証拠に、僕が顔をのぞき込もうとすると、彼は素早く後ろへ逃げ飛んだ。……何がなんだかさっぱりわからない。

「……委員長?」

 いつの間にか僕たちの周りには人垣が出来ていて、その中の一人が恐る恐る言った。すると、渡部くんはビクッと体を震わせる。

「や、やめろ、委員長って呼ばないでくれ……俺は、そんな器じゃない」

 そして、彼はそんな意味不明なことを言った。

「……器じゃないも何も、渡部くんは実際委員長でしょ」

 少し苛立ちながら僕は言う。

「違うっ……! もう、俺は嫌なんだ、こんな重荷を背負わされるのは……。クラスの指揮なんか執りたくないし、他人の期待の視線を浴びるのも嫌だ。もう、俺は限界なんだよっ……!」

 そう叫ぶと、渡部くんは弾かれたように走り出し、人垣を突き飛ばしながら教室を飛び出していった。

 その様子を、僕含め教室にいるみんなが呆然と見送る。

 ――勝った、のか。

 何だかよくわからないが、渡部くんの弱点を晒すことは成功したと言える。完璧超人から一気にヘタれたあの様子を見れば、誰もが失望を覚えてしまうだろう。無論、それは桐山さんだって例外じゃないはずだ。

 僕は満足げに教室内を見回し、桐山さんの姿を探す。すっかり呆れかえっているであろう彼女の姿を、早く確認しておきたかった。

 ――え?

 桐山さんは、確かに見つかった。しかし、僕の期待していた様子とは全く違う。

 ……何故なら、彼女は渡部くんが出て行った扉を目指して、駆けだしていた。それは……どう見ても渡部くんの後を追おうとしているようにしか見えない。

 ――どうして?

 さっきの渡部くんの様子も訳がわからなかったが、それと同じくらい僕には桐山さんの行動がわからなかった。……あんな醜態を晒した男を、どうして追いかける?

 ――そうか、仮面か。

 ようやく、僕は彼女の被っている仮面が、聖母マリアであることを思い出した。

 つまり彼女は、心優しい桐山さつきというクラス内評価を保つために、渡部くんを追いかけたのだ。今この教室には十五人ほどの生徒がいる。彼女のアピールの効果は、結構な物となるだろう。桐山さんは、それを狙うためにあの男を追ったに違いない。……そうに決まっている。

 ――だったら、そんな仮面……この僕が剥ぎ取ってやる。

 気付けば、僕は桐山さんの肩を掴み、彼女の仮面を強引に投げ飛ばしていた。そうして、ようやく彼女の美しい顔を、僕はこの目で見ることができた。自然と、笑みがこぼれる。

 丁度良い。そろそろ彼女が僕をどう思っているのか知りたかったのだ。いい加減、僕ばかりがアプローチするのも疲れた。ここは、勇気を出して告白してみようじゃないか。大勢の人間がいる中での、運命的な告白。何とも素晴らしい演出だ。……もっとも、仮面を被った人間ばかりで不気味なのがイマイチだけど。

 僕は、すーっと深呼吸をする。そして、覚悟を決めた。

「……桐山さん。僕は、君のことが好きだ」

 はっきり、一語一語に力を込めて僕は言った。……これで彼女が了承すれば、ようやく僕の奮闘はむくわれる。

「いい加減にしてっ!」

 そんな声が聞こえたと思ったら、僕は天を仰いで倒れていた。頬が熱を帯びて痛む。どうやら、ビンタをされてぶっ飛ばされたらしい。

 何だかデジャブを感じながら、一体誰がこんなことをしたんだと立ち上がる。……すると目の前に、これまで見たこともないような険しい表情でこちらを睨み付ける、桐山さんの姿があった。

 ――え? じゃあ、今ビンタをしたのは、彼女……?

 どうして彼女がそんなことをするのか、僕にはわからない。いったい僕が何をした?

「……気持ち悪いのよ、あなた」

 彼女は、僕を見据えて憎々しげにそう呟く。

「いつもいつも私をジロジロ見てっ! 気味が悪くて仕方がないのよ! しかも、何を勘違いしているのか、毎朝馴れ馴れしく挨拶してきてっ! 私が、そのせいでどれだけストレス溜めたと思ってるの!? 仲良くもない、大して会話もしない人間の奇行に毎朝付き合わされるのが、どれだけ気疲れすることだと思ってるの!?」

 彼女は、ありったけの罵詈雑言をこちらへぶつけてくる。

 ――これが、桐山さつき? そんなの、嘘だ……。

「挙げ句の果てには、こんな大人数がいる中で告白っ!? どれだけ私に恥を掻かせたいのよあなたはっ!? ふざけるのもいい加減にしてっ!! 迷惑よ! あなたなんて大嫌いっ!」

 "大嫌い"。その単語が、何度も頭の中で響き渡る。

 それだけ僕に言って気が済んだのか、彼女は教室から走り去っていった。もちろん、渡部くんが出て行った扉からだ。彼女は、彼を追いかけるつもりなのだろう。もう、仮面を被っていないのにだ。……それが意味することは、ただ一つ。

 ――結局僕は、聖母マリアの仮面に好意を寄せていただけだったのか。

 不思議なことに、涙は出なかった。何故だか、悲しみ自体あまり感じない。

 ……ひょっとしたら、僕は薄々感づいていたのかもしれない。彼女が僕を嫌っているということを。それでも彼女を想い続けたのは、……多分、彼女が好きであるという自分に、嘘をつきたくなかったからだ。自分自身を誤魔化すことが、どうしても我慢できなかったのだ。

 ――でも、その結果がこのザマだ。

 周囲の生徒から、ぼそぼそと僕に対する陰口が聞こえる。当然だろう。今まで僕は本能のままに暴走してきた。仮面なんて被りたくないという、自分勝手な願望を満たすために、随分周囲に迷惑をかけてきた。その代償を清算するときが、今訪れた。ただ、それだけのこと。

 ふと、窓際に藤原さんが立っているのが目に入った。……どうやら、自殺は諦めたらしい。彼女は、いつの間にか元通りに岩石の仮面を被っていた。調子の良い女子集団にさっそく詰問されているようだが、見たところビクともしていない。

 ――なぜなら彼女は、仮面を被ることによって心の強さを手に入れた。

 殺人鬼。その時、僕に対するそんな罵り声が聞こえた。居たたまれなくなり、僕は藤原さんたちから目を離す。

 そしてその先で、二人の男子生徒が握手を交わしているのが目に入った。……それは、互いに仮面を被った小野寺くんと池田くんだった。どうやら、仲直りをしたらしい。もちろん、あの喧嘩の様子だと、本音はどう思っているかわからない。

 ――でも、彼らは仮面を被ることによって和解することができた。

 ……じゃあ、仮面を被らなかった僕は何を手に入れた? 何ができた?

 何もない。好きな人には嫌われ、クラスのみんなにも嫌われた。……もう、何も残っていない。

 ふと、そのとき一つの仮面が目に入った。それは、僕が投げ飛ばしたあの巨大織田信長仮面のようだった。僕は、それに歩み寄り、両手に取ってみた。

 ――渡部くんに、これはもう必要ないだろうな。

 彼には、既に桐山さんという素晴らしい支え手がいる。……しかし、僕には何もない。

 僕は、段々この仮面を被らなければいけないような気がしてきた。……でも、この仮面は本当に大きくて、僕みたいな弱い人間に被り続けられるか、不安になる。

 ――いや、違う。

 弱いからこそ、これだけの大きな仮面が必要なんだ。……じゃないと、僕の弱い部分や、惨めな部分、そして何も無い部分を覆い隠すことができない。ちっぽけな仮面じゃ、あまりにも足りなすぎる。……僕は、これがないと生きていけない。

 深く深呼吸をし、僕は覚悟を決める。……この仮面を被ることで、かつてない重みを背負うことに。

 そうして僕はようやく、むき出しの素顔を仮面で覆い隠したのだった――。

 

説明
人々の本音を隠す仮面が、目に見えるようになった世界……。
そんな状況での主人公の奔走を描いた、ブラック気味のギャグ小説です。
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