真・恋姫†無双異聞〜皇龍剣風譚〜 第三十八話 我が佳き朋よ 中篇
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                                    真・恋姫†無双異聞〜皇龍剣風譚〜

 

                                    第三十八話 我が佳き朋よ 中篇

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、開いてるよ」

 北郷一刀は今日、何度目になるか分からない台詞を口にしてノックの音に応えると、脳内に広がる“記憶の宮殿”から現実世界へと帰還した。最も、彼の“記憶の宮殿”も、自分が主人として座する建物を移し取ったモノなので、目を閉じていようと開けていようと、ただ『場所を移動した』と言う程度の認識でしかないが。

 

 記憶の宮殿とは、中世より伝わる記憶術の一種である。頭の中に、自分が思い描ける中で最も巨大で鮮明な建造物を作り上げ、その各場所に記憶を呼び覚ますキーワードを置いて置く事で、自在にそれらを引き出す事が出来る様になると言うものだ。紙がまだ貴重だった時代の欧州の学者達は、これによって書物の知識を直接的に脳に蓄積していたのだそうである。

 

一刀は、書籍関係の記憶を殆ど全てを収めてある蔵書室で、今夜、曹操こと華琳に講釈を頼まれていた和歌の解説書を読み耽っていたのだった。現実世界の執務室の扉が開くのをぼんやりと眺めながら、一刀は執務室全体が窓から差し込む夕日の朱色に染まっている事に気付いた。

ふと胸元に手を遣れば、肌着もしっとりと汗で濡れている。どうやら、王平こと恭歌を送り出してから随分と長い間、記憶の中で読書に没頭していた様だった。

 

扉の奥から、今日最後になる筈の訪問者がゆっくりと姿を現す。両の袖を揃えて、深く垂れた頭の前に掲げたその訪問者は、扉の前から動かずに更に両腕を高く掲げた。

「臣、馬幼常。御拝謁の御温情を賜り、((罷|まか))り越しまして御座いまする」

「あぁ、よく来た。入ってくれ」

 

 一刀がそう言うと、訪問者――馬謖こと((智堯|ちぎょう))は、するすると部屋に進み出ながら半身を逸らして扉を閉め、執務机越しに一刀の前に平伏した。

「声変わりをしたんだな。それに、随分と背も伸びたみたいだ。前は、俺の鳩尾くらいまでしかなかったのになぁ」

 

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 一刀が、夕日に照らされてひれ伏す智堯にそう声を掛けると、智堯は短く「はっ」とだけ答えて、床に額を擦り付けんばかりに頭を下げる。一刀は僅かに苦笑を漏らして椅子から立ち上がり、執務机を回って智堯の前まで移動した。

 

「面を上げろ、智堯。立って、そこの長椅子に座ってくれ。まずはそれからだ」

「しかし……」

「智堯。俺は、お前にそんな態度を望んでいない」

「はっ」 

 

 智堯は一刀の穏やかな、しかし決然とした口調の言葉に短く返事をすると、しずしずと立ち上がって長椅子に腰を降ろした。一刀は満足そうにその様子を見届け、窓際まで行って細く開けていた窓を大きく開き直してから、智堯の向かいに座る。

「まずは、久し振りだな。中々、男前に育ったみたいで何よりだ」

 

「畏れ入りまする」

 少年は、膝の上に両手を揃えて置いたまま、そう言って深く頭を下げた。

「さて……昔のお前は、もっと砕けた感じで話してくれていたと思ったんだが。一体どうして、そんなに格式張ってるんだ?」

 

 一刀が、困った様に頭を掻いてそう言うと、智堯は頭を垂れたまま、その問いに応えた。

「我が身の愚かさと……我が君、北郷一刀様の偉大さが身に染みたからに御座いまする」

「……偉大さぁ!?」

 一刀は、少々間抜けな声を出して耳慣れない褒め言葉をオウム返しに口にしてしまってから、何やら背中がムズムズと痒くなるのを感じた。阿呆の種馬のと謗られるのには慣れているが、そもそも褒められる事自体、あまり慣れていない。

 

 それも、以前はどちらかと言えば挑戦的な態度を取っていた生意気盛りの印象が強い少年の口から出た言葉となれば、尚の事であった。

「然り。以前の私は、どうしようもない程の愚か者であったと、遅ればせながら気付きました次第。それにつれ、北郷様の私めに対する多大なご配慮を鑑みる事のなかった、己が度し難い不敬と暴言の数々をも思い起こし、唯々我が身の不明を恥じ入りましたので御座いまする」

 

「『多大なご配慮』って……俺、そんな大層な事はしてないと思うけどなぁ。そりゃ、お前に期待はしてたけどさ」

 一刀が、元々持ってもいなかった毒気を更に抜かれた様な気分でそう答えると、智堯は緩々と首を横に振った。

 

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「全て、雛里様からお聞かせ頂きました」

「あぁ、そうなのか……」

 一刀は、智堯の一言でその言わんとする所を察し、煙草に火を点けて逡巡した。以前の智堯ならば、その内容を――『智堯は一度、どこかで失敗させた方が良い』――そう一刀が雛里に言ったと知れば、烈火の如く怒り出しても不思議ではなかった。今、目の前に神妙な様子で座っている少年は((嘗|かつ))て、一刀に対して常にそんな態度で接していたのだから。

 

 趙雲こと星などは、その様子を見て「まるで、音々音が男になったようだ」と、苦笑交じりに表現した程であった。最も一刀からすれば、陳宮こと音々音の理不尽な罵詈雑言と((暴力|ちんきゅーきっく))に比べれば、一応は主従として最低限の礼儀は((弁|わきま))えてくれていたらしい智堯の皮肉の方が、遥かにマイルド((且|か))つソフトであったと断言出来る。

 

「私は、あの演習での大敗を招いた後、謹慎を命じられていた折りに……恥ずかしながら、自害すらをも考えておりました」

 一刀は、智堯のその言葉に僅かに視線を鋭くし――直ぐに緩めた。過去の過ちを叱るより、今、智堯が自分の前に居ると言う事実の方を大事としようと思ったからだった。

「誰にも会う気が起きず、この世の終わりの様な気持ちで漫然と時を過ごす毎日……そんな中、雛里様が御出でになられ、全てを話して下さったのです。北郷様が私にずっと目を掛けて下さっていた事、それ故に、負ける事の意味を教えて下さろうとしていた事……」

 

 智堯はそこで言葉を切り、初めて一刀を正面から見る。一刀は、智堯の凛々し気な瞳を見返しながら、嘗て若い侍女達が智堯の事を姦しく噂していた時の事を思い出し、成程、美丈夫と言うのはこう言う人物の事を言うのだろうと、妙に納得してしまった。

これならば、遠慮がちな性格の王平こと恭歌が、『自分では吊り合わぬ』と思い込んでしまうのも頷けると言うものだ。

 

「怖いもんだろう。戦に負けるってのは」

 一刀が僅かにおどけた口調でそう言うと、智堯は神妙な面持ちのまま頷いた。

「はい。謹慎中、何度も何度も考えておりました。もしあれが、乱世の世の出来事であったならばと」

「……聴かせてくれ」

 

「畏れ入ります。雛里様の策は一見、天衣無縫の鬼手とも見えますが、その実は計算し尽くされた乾坤一擲の一手であったろうと愚考致します。演習の特性上、参陣出来なかった諸将は戦死、或いは防衛戦略上身動きの取れぬ状態であると仮定し、尚且つ蜀の国力を鑑みますならば、ほぼ総力戦と申しても過言ではないでしょう。これ程の好条件で魏に侵攻出来る機会はまず無い。そんな中、国力差を覆して蜀が魏を破るには――」

 

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「大将首を上げるしかないやな」

「左様に御座います。故に、変幻自在の戦振りを誇る星様が敵を撹乱して押し留めている間に、突貫力のある焔耶様に精鋭一万をお与えにになっての電撃奇襲作戦で敵の戦線を潜り抜け、一息に曹操様の居る長安を落とす……そこに考えが至れば、何と合理的で無駄の無い事かと、感嘆の極みに御座いました。これが、戦術すらをも織り込んだ大軍師の戦略眼かと」

 

 一刀は二本目の煙草に火を移し、智堯の意見に同意して頷いた。

「雛里の凄まじい所は、“演習”でそれをやろうとした事にあるな。如何な覇王曹操とその知恵袋である秀才・郭嘉も、まさか、用兵を以って軍勢同士をぶつけ合うのが大目的の軍事演習で、速攻かけて大将首を狙って来ようとは思わなかったろうからな」

 

「はい。正しく、虚実を巧みに入り混ぜた神算鬼謀の極みで御座いましょう。しかし、それは実戦と考えても同じ事。まさか、目の前の軍勢も重要拠点も差し置いて、敵地のど真ん中に突撃を仕掛けようなどとは、尋常な物の考え方では及びも付かないでしょうから」

 一刀は再び同意して頷くと、吐き出した紫煙が形を変えながら消えゆく様を、しばし見詰めた。戦争とは、全ての装飾を剥ぎ取ってしまえば、詰まる所は陣取り合戦なのである。

 

 だから戦争をしていると、無自覚の内にオセロの様に盤面を全て自分の色で染めれば勝ちだと思い込んでしまう事はままある。だがしかし、実際は将棋でありチェスなのだ。どれほどの手駒を揃えていようが、傍目から見てどれほど優位に盤上を蹂躙していようが、王将・キングが取られてしまえば、問答無用で負けとなる。

 

正しく、これらの遊戯が“軍略に通ずる”として、世の東西を問わず武門の人々に親しまれてきた理由は、この一点にある。雛里は唯一人、この真理を正確に理解し、実践して見せたのだった。

「もしもこれが乱世であったら……蜀が、天下を統べる事を命題として戦い続けていたのだとすれば――」

 智堯は言葉を切って黙り込み、唇を噛んだ。一刀も、智堯の思い起こしているであろう架空の時間に想いを馳せて見る。

 

 今、蜀軍の中枢を担う主力の将達を投入出来るのならば、また話は変わってくるのだろうが、智堯の仮定通り――或いは史実の通りに、今回の演習に参戦した将が蜀の全戦力に等しい状況であるならば、一手で戦局を覆しうる決定的な好機など、十中八九、二度とありはすまい。

「――私は、蜀漢の未来を踏み潰すに等しい暴挙を犯したので御座いますね……」

 

「それが、戦争に負けるって事さ」

 一刀が、智堯の絞り出す様な言葉にそう答えると、智堯は素直に「はい」とだけ言い、深い溜息を吐いた。勝つ必要などはなく、ただ負けねば、敵を釘付けにしてさえいれば良かった。それだけの事が出来なかったばかりに、国の未来を閉ざしていたかも知れない。その溜息には、紛れもない慙愧の念が刻まれていた。

 

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「だが、お前は一つ大事な事を忘れてるぞ。智堯」

 一刀がそう言って灰皿に短くなった煙草を押し込むと、智堯は怪訝そうに一刀を見返した。

「大事な事……?」

「そうだ。蜀は、馬幼常と言う次代を担うべき将を、自らの手で切り捨てねばならなかったろう。それは、どんな敗戦にも増して、国としての損失となっていた筈だ」

 

 史実に於いて、漢晋春秋の著者としても知られる((習鑿歯|しゅうさくし))は、諸葛亮が馬謖を処断した事を『有能な将を一度の失敗で失った愚挙』と糾弾している。だがそれは所詮、他人事だから言えた事であろう。もしも当事者ならば、身勝手な功名心で多くの部下を死なせ、あまつさえ国の命運を左右する大戦の敗因とまでなった者を、しれっと再登用など出来よう筈がない。

 

 無謀な策で死ね死ねとせっつかれた挙句に戦友を失った生き残りの兵達は、一生馬謖を恨み続けたであろうし、負け戦を戦わされた他の将達は馬謖の言う事など訊かず、無駄な軋轢を生むだけで終わっていたに違いない。どの道、末は自害か暗殺かと言ったところであったろう。

 その歴史を知るが故に、一刀は万感の思いを込めて、目の前の少年に微笑んだ。

 

「智堯。よくぞ負け、そして敗北から学んでくれたな。俺は、心から嬉しく思うぞ」

「!!北郷様……貴方様はまだ、この私を“次代を担う将”と言って下さいますか……まだ……まだ私を……」

 智堯が、沸き上がって来る嗚咽を必死に堪えながらそう言うと、一刀は『何を今更』とでも言いたげな顔をして、再び微笑む。

「まだも何も、俺は今も昔も変わらず、お前は蜀の未来への希望と思っている。現にこうして、俺の期待に応えてくれたじゃないか?」

 

「畏れ……多い……御言葉……に……」

 智堯は、滲む視界を懸命に堪えながら、如何にか言葉を絞り出そうと必死だった。以前の智堯は、目の前に居る男を馬鹿にしていた。知恵もなく、武もなく、ただ床の上手さと愛嬌だけで劉玄徳の威光を得、神輿に収まっているだけの愚か者と。

 心底そう思っていた。まさか、それを本人に面と向かって言った事はないが、敢えて隠そうとしていなかったのも事実である。だがしかし、無礼を働かれても馬鹿にされても、それでも尚、期待を掛けて自分を見守ってくれていたのは、無礼な世間知らずの自分が暗愚と断じ、嘲笑を向けていたその人物であった。

 

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師に全てを聞かされる迄、その事に気付きもしなかった自分を殴りたくなった。自分がどんなに嫌みな態度を取っても、変わらず笑顔で話をしてくれていた主との器の違いを、これでもかと思い知らされた。

 真に暗愚であったのは己だったと思い至った時、自分の醜い虚栄心と浅ましさが、憎くて憎くて堪らなかった。だから、戦で負けて悔しいなどと思ってはいけないと思った。

 

昼間でも薄暗い屋敷の居間で鬱々とした気持ちを飲み下す事こそ、自分の醜さ浅ましさを自身の身体に刻み込む事こそが贖罪と、そう思い定めた。あぁ、だと言うのに。

「なぁ、智堯」

 この人の声は、どうしてこうも穏やかに、自分を包み込んでくれるのだろう。

 

「武門の男が泣いても許されるのは、たった一つの事でだけ……それが何だか、お前は分かるか?」

 どうして嘲笑われていると知りながら、自分を嘲笑った当の本人に手を差し伸べようとするのだろう?

「――親が死んだ時……でしょうか……」

 在り来たりだが、巷では知れ渡っている答えを口にしながら、智堯の心は千々に乱れる。一刀はそれを知ってか知らずか、緩々と首を振ってから立ち上がり、ゆったりとした足取りで窓際まで行くと、開け放たれていた窓を静かに閉めた。

 

「違う。((何時々々|いつなんどき))、野垂れ死ぬかも知れない武門の男が、親が死んだ程度の事で泣くなど笑止千万。そんなものは、民百姓の理屈と知れ。いいか、武門の男が泣いて良いのは、戦に負けた時だけだ。国を背負い、((矜|ほこ))りを賭けて挑んだ戦に敗れた時に流す悔し涙だけが、武門の男の涙と心得よ」

一刀は、茫然と自分を見詰める智堯に向かって一息にそう言い切ると、悪戯っぽく微笑んで頭を掻いた。

 

「――なんてな。俺の爺様の受け売りさ。でもな、智堯。俺は、これこそが武門に生まれた男の取っての尊き真実だと、本気で信じているんだ。だから……」

 一刀は、智堯の背中に回り、肩に手を置いてポンポンと軽く叩き、そのまま智堯の形の良い頭に乗せた。

 

「お前は、泣いても良いんだ。誰に((憚|はばか))る事もない。思い切り、声の限りに泣いて良いんだよ」

 智堯は、主の暖かな掌の体温を頭の上に感じながら、真っ白になっていく頭の隅で、一刀が何の為に窓を閉めてくれたのかを悟り――慟哭した。

 

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「折角、御拝謁の機会を賜りましたのに、御無礼を致しました。どうか、平に御容赦下さいませ」

 智堯が赤く腫れた両眼を拭い、すっかり枯れてしまった声でそう言うと、一刀は僅かに微笑んでそれに答えた。

「さて、な。何の事やら、俺にはさっぱり分からんね。最近疲れてるのか、どうも((偶|たま))に記憶が飛んだりするもんでさ。ま、何はともあれ俺の話は以上だ。復帰についての詳しい人事の話とかは、追って雛里から連絡が行くだろう。下がってくれて良いぞ」

 

「北郷様……はっ。臣、馬幼常、僭越ながらこれにてお暇させて頂きまする」

 智堯がそう暇乞いをして扉に手を掛けると、執務用の椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた一刀の声が、不意に背中に掛った。

「なぁ、智堯」

 

「はっ」

 再び向き直り、問いに答える智堯に対し、一刀は窓の外の暮れ往く日をぼんやりと眺めながら、再び口を開いた。

「お前、恭歌とはきちんと話をしたのか?」

 

「話……と申しますか……謹慎中、見舞いに来てくれました折りに、詫びを致しました。キョウ……王将軍には、多大な御迷惑をお掛けしました故――あの、それが何か?」

「ふむ……そりゃ、詫びではなく礼をするべきだったなぁ」

「はぁ?」

 

「まぁ、内々の事だから、ついこの前まで謹慎していたお前が知らんのも無理はないが。恭歌はな、見事に撤退戦の指揮をやり遂げた事への報償としての昇進を、断り続けているんだ。表向き、『副官として隊の敗走を防げなかったのだから、報償には値しない』と言ってな。しかし実のところは――お前なら、解るだろう?」

 

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 一刀の言葉を聞いた智堯は、即座に頷いた。

「はい。私に、遠慮をしているので御座いましょう……あれは、そう言う奴で御座います。遠慮などする必要はないのに……王将軍がいなければ、私の隊は全滅していました。その功績に感謝こそすれ、恨むも妬むも御座いませぬ」

「なら、やるべき事は分かっているな?」

 一刀は、恭歌の事を語る時、智堯の口調が親し気になるのに気付いて微笑み、智堯の方に顔を向けて言った。

 

「今度は詫びるのではなく、礼を言ってこい。このままでは俺と桃香の面目が立たんし――何より、共に次代を支えるべき将でもある幼馴染み同士がギクシャクしたままじゃ、見ているこちらの寝覚めが悪いんでな」

「はっ。思い至らず、お恥ずかしい限りに御座います。明日にでも、早速」

「別に、今夜でも良かろ?」

 

 一刀が、“カマ”を掛けるつもりでそう言うと、智堯は顔を紅潮させ、勢い良く首を振った。

「そ、その様な!日が暮れてから年頃の女性の家に出向くなど、有らぬ誤解を招きます!あちらにも、迷惑になりましょう!!」

「ふぅん……そうか。まぁ、お前がそう思うなら、明日でも良いだろうがな」

 

 一刀は、苦笑を隠す為に再び外の景色に顔を向けながら、ヒラヒラと手を振って話を切り上げた。

「呼び止めて悪かったな。今度こそ、下がっていいぞ――それから、西の東屋の近くの井戸に寄って行け」

「井戸……ですか?」

「あぁ。あそこなら、今の時間は誰も通らん。お前、酷い顔だぞ。顔を洗ってから帰らんと、何事かと思われるだろう?」

 

「これは……失礼を!!」

 智堯が一刀の言わんとしている事を察し、慌てて両眼を擦ろうとすると、一刀は呆れた様に笑った。

「おいおい。擦ったりしちゃ、余計に腫れちまうぞ。そっとしておけ――ま、その分、良い顔にはなった様だけどな」

 

 一刀は、智堯の退出した部屋で夕日を眺めながら物思いに耽り、くすりと笑った。

「“ちーちゃん”に“キョウ”……か。いやはや、見せつけてくれるよ、まったく。想い合ってるのに、知らぬは本人ばかりなり――とはね。一番タチの悪いパターンだよなぁ……さて、どうしたもんか……」

 

 一刀は、そう独りごちながら立ち上がってコート掛けに掛けてあった白い外套を羽織ると、襟を軽く整えて戸締りを確認し、執務室の扉を開けた。今夜は、怒らせると厄介な客人達が新しい館に訪ねて来る事になっている。早めに帰って、準備を手伝った方が良いだろう――。

 

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 日もすっかり暮れ、夜空に新円を描く銀月がぽっかりと浮かんでいる。一刀は、三国の王である曹操こと華琳、孫権こと蓮華、劉備こと桃香と、それぞれの軍師である鳳統こと雛里、程cこと風、周瑜こと冥琳に囲まれ、新しい屋敷の池に設えた月見台の上で、和歌の解説をしている所であった。

 この月見台は、一刀の屋敷の庭に造られた巨大な池の端に迫り出した、川床の様な観た目の物である。直に座れる様になっていて、安全の為、四方には40cm程の高さの手摺りが据え付けられていた。これは、座った状態の胸から下辺りの高さになる様に考えられており、景観を楽しむ邪魔をせぬ様にとの配慮である。

今宵は月明かりだけでも十分に明るいが、円座になっている面子の中心には、控え目な光を揺らす行燈が置かれていた。

 

 本来ならば、詩人としても天下に知られる曹孟徳に詩の講釈など臍で茶を沸かす様な話ではあるが、何分、様式も決まり事も違うものであるので、有り難い事にさほど気恥かしい思いもせずにいられる。華琳が((予|かね))てより天の国の詩に興味を持っていた事を覚えていた一刀が、正史からの土産にと何冊かの中国語訳の付いた和歌集を持ち帰ったのが始まりで、時たまこうして華琳に歌の意味や背景を説明していたのだが、今回はそれが新しい屋敷のお披露目と重なったと言う次第なのだった。

 

「俺が居た時代より、千年以上前の話さ。まぁ、それなりの身分の男がいてな。その男が、偶然に知り合ったやんごとない家柄の御姫様に懸想をしたんだ――」

 男は、如何にかして御姫様と良い仲になりたいと思っていたんだが、そうそう思い通りになんか行く訳がない。無為に何年かの時が過ぎ、とうとう我慢がならなくなった男は一念発起して、ある晩屋敷に忍び込み御姫様を攫ってしまった。

 

 御姫様を背中に背負い、暗い夜道を走り抜けて河を過ぎると、やがて野原に辿りついた。野原の((草叢|くさむら))には月の明かりを受けて輝く夜露が一面に広がり、正しく星の如く瞬いている。

 だが、産まれてこの方、屋敷の外になど出た事もない生粋の貴人である御姫様には、それが何と言う物なのか皆目見当も付かない。御姫様は闇夜が怖かった事も忘れて、思わず男に尋ねた。

 

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「ねぇ貴方。あの、地面に綺羅々々と光っている真珠の様なものは、一体何と言う物なのですか?」

 ところが男の方には、御姫様の純粋な質問に答えてやる余裕なんて小指の先ほどもない。何せ、何年も想い焦がれた女の温もりを初めて背中に感じる事が出来たのに、追手は直ぐそこまで迫ってるんだからな。

 兎に角、夢中で走って走って走りまくって、その内に、巷で化け物が出没すると噂になっている辺りに差しかかったんだが、男はそれには気付かない。で、雲行きが怪しくなり雨も降って来たんで、兼ねてから場所を聞き知っていたあばら家で雨宿りをする事にしたんだ。

 

男は御姫様を奥に押し込め、自分は用意しておいた矢筒と弓を構えて門の前に立ち、寝ずの番をして夜が明けるのを待つ事にした。それから長い時間が過ぎて、漸く空も白み始めた頃、緩み掛けた男の意識は、御姫様の悲鳴で再び張り詰める事になった。

 男が慌ててあばら家の中に入ると、そこに御姫様の姿は無く、御姫様が着ていた服の上に、愛しい人の首だけが、血に濡れて置かれていたんだそうだ。男は悲嘆に暮れ、声を出す事も出来ずに泣き続けたが、そうしたところで御姫様が生き返る訳でもない。

で、思いの丈を込めて詠んだ歌がこれと言う訳さ。

 

「白玉かなにぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを……」

 

華琳は、一刀の話の結びを引き継ぐようにして、自分が解説を頼んだ歌をもう一度しみじみと詠み上げた。

「ねぇねぇ、ご主人様。その歌、どう言う意味なの?」

 悲恋の顛末がツボに入ったらしい桃香が、垂れ目がちの大きな瞳を潤ませながら一刀にそう問い掛けると、杯を飲み干して喉を潤していた一刀は、暫く考えてから答えた。

「う〜ん、そうだなぁ。『愛しい人が“あの真珠の様に光る物は何なのですか?”と尋ねた時、どうして“あれは夜露と言うものなのですよ”と、一言教えてやれなかったのか。あの時、私も夜露と一緒に消え去ってしまっていれば、この様な哀しい想いはせずに済んだだろうに』と、こんな感じかな」

 

「成程、漸く歌の正しい背景が解ったわ。ありがとう、一刀」

 華琳は、桃香の切なげな溜息を受け、満足気にそう言って自分の杯を口に運び、上品に飲み干した。一刀が華琳に渡した本には、対訳の他に僅かな説明しか記されていない。

一つ一つの説明に沢山の文字を消費した物よりも、歌そのものが数多く載っている本の方が良かろうと思ってのチョイスだったのだが、それ故に歌の詠まれた詳しい内容などは色々と補足が必要になってしまったのだった。最も一刀としては、高尚な理由をつけて華琳に逢う時間が増えたので、返って恩の字だったのではあるが。

 

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「しかし、一刀がこんな事に精通する様になるとはな。正直、意外だった」

 こちらも物語に思う所があったのか、目を僅かに擦りながら蓮華がそう言うと、一刀は肩を竦めて桃香の注いでくれた杯を再び飲み干した。

「爺様の方針でね。『武に生きる者こそ、己の心を摩耗させぬ為に風雅を解さねばならぬ』とかでさ。まぁ、元から読書は嫌いじゃないしな」

 

「ふむふむ道理で〜。昔のお兄さんなら、こんな幻想的な仕掛けのお庭を作ろうなんて、絶対に思い付きそうにありませんものね〜」

 風は妙な納得の仕方をして、茫洋とした瞳を庭の池に向けた。夜の闇に包まれた池の水面には波一つなく、その中央には、中天に座する銀月の映し身が、美しく輝いている。天を仰いでも地を覗いても新円の月が光を放っているその光景は、確かにとても幻想的で、まるで夢物語に迷い込んだ様な錯覚すら覚える程であった。

 

「確かにな。こんな場所で口説かれたら、虎牢関が如き身持ちの固い女でも、容易に陥落させられると言うものだろう。なぁ、北郷?」

 冥琳は、凛々しい切れ長の瞳に悪戯っぽい光を浮かべながらそう言って、愉快そうに杯を傾けた。すると、まんまと冥琳の策略に嵌ったらしい桃香と蓮華が、カマボコの様な目で一刀を睨み付ける。

 

「ご主人様ぁ?」

「一刀ぉ?」

「う……二人共、何だよその目は!俺は別に、やましい目的でこの月見台を作った訳じゃないぞ!本当だぞ!!」

 

「ほらほら、二人共。その辺りにしておきなさいな。折角の情緒が台無しになってしまうじゃない」

 華琳がそう言って、珍しく仲裁に入ってくれたおかげで、桃香と蓮華は揃って頬を膨らませながらも、渋々と矛を収めて杯を傾けた。華琳は溜息を吐くと、呆れた様に冥琳に視線を投げる。

「冥琳。愛しいあの娘が居なくて寂しいのは解るけれど、あまり無粋な真似は関心しないわね。折角、一刀が招いてくれたのだし、良い機会だと思って素直に羽を伸ばしなさいな」

 

「はは。すまなかったな、華琳。確かに、美味い酒と肴があるのに余りに静かなもので、少し落ち着かなかったのかも知れん」

 冥琳が屈託なく笑ってそう答えると、巻き添えを喰った形の一刀はガックリと項垂れて手摺りに寄り掛り、煙草に火を点けて首を振った。

「冗談じゃねぇよ、ったく。賑やかしに冤罪おっ((被|かぶ))されたんじゃ、堪ったもんじゃない」

 

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「まぁ、流石にここまで大掛かりだと、疑われても仕方がないんじゃないですか〜?お兄さんがこんなに精力を傾けるなんて、助平な事以外には有りそうにないですし〜」

「風さ、さっきから何気に酷ぇよな」

「そう拗ねるな、北郷。お前にも詫びよう。華琳の言う通り、折角こうして風情のある酒宴を催してくれたのに、私が無粋だった。すまなかったな」

 

 冥琳が、茶目っ気たっぷりに微笑んで一刀にそう詫びて瓶子を差し出すと、一刀は照れ臭そうに頭を掻きながら、それを受けた。

「いや、まぁ……そんなに改まって謝ってもらう程の事じゃないけどさ」

「あわわ、ご主人様。逆に、早くも籠絡されちゃってます」

 

 桃香と蓮華の間に座って、甲斐甲斐しく世話を焼いていた雛里がボソッとそう言うと、再び若干二名の視線が一刀に突き刺さった。

「おいおい、雛里まで二人を煽るなよ……」

 流石に辟易とした一刀がそう言うと、隣に座る冥琳は困った様に笑い、親指と人差し指で形のよい顎を挟む様にして考え込んだ。

 

「そう言えば北郷。先程の話で、気になる事があるのだが」

「んむ、何だい?」

「いや。ケチを付けたい訳ではないのだが……何と言うか、背景が、あまりに物語として完成され過ぎている気がしてな。まぁ、実際に罵苦と言う脅威に直面している我等が言うのもなんだが、そもそも化け物が出て来ると言うのが何とも……。実際は、何か裏話があるのではないかと思うのだが、どうなのだ?」

 

「ははは。流石は美周郎だな。ま、その通りさ。この話の御姫様は、実は化け物に喰われたりはしてないんだ」

「え!?」

「そうなのか!?」

 

 一刀の言葉を聞いた桃香と蓮華が、揃って驚きの声を上げると、その様子を見ていた風は、「乙女ですえぇ……」と呟いて苦笑を浮かべた。

「いやまぁ……実は、その御姫様ってのは、生まれながらに時の帝の后になる事が運命付けられた人でね。この誘拐事件の後、実際に宮入りしてるんだよ。だから――」

「連れ戻されたのでしょう?帝と姻戚関係を結べるかどうかともなれば、家の趨勢に関わる一大事。警備とて((生半|なまなか))なものではなかった筈だもの」

 

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華琳が、一刀から話を引き継ぐ様にそう言うと、一刀は頷いて悪戯っぽく笑った。華琳も、若かりし頃に花嫁泥棒を働こうとした事があると言う話を思い出したのである。一刀の眼差しを受けた華琳は、その心中を察してか、僅かに照れ臭そうに頬を染め、手を振って続きを促した。

「話に出て来た男ってのは、遊び人としても有名な歌人でね。本当なら一大醜聞になるところなんだろうけど、自伝的物語の中で夜露の話を引き合いに出して歌まで詠み、美談にしてしまったと言う訳さ」

 

「いやはや。まるで、何処かの誰かさんのような御方ですね〜。その歌人さんは〜」

 風が呆れた様子でそう言うと、一刀は苦笑しながら首を振った。

「いやいや風さん。俺なんか足元にも及ばないよ。何せこの人、四千人近い女性を口説き落としたって話もある位だからな」

 

「よ、四千!!?それは最早、色狂いどころの騒ぎではないな……」

 蓮華が引き気味にそう呟くと、雛里と桃香も同意して頷いた。

「ご主人様が、もの凄くマトモに思えてきました……」

「ホントだよね〜。ご主人様がこの程度で済んでるのを、神様に感謝しなくちゃだね」

 

「お前等なぁ……」

「まぁ、良いではないか北郷。取り合えず、皆は現状で満足してくれるそうなのだからな」

 冥琳は、針の筵状態の一刀の肩を叩くと、諫める様な口調でそう言って、酒で一刀の杯を満たした。

「へいへい、ありがたいこって。でもまぁ、この歌人、その御姫様の事は相当に本気だったみたいだよ。御姫様が宮入りした後にも、彼女を想って歌を詠んでるし。確か――『月やあらぬ春は昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして』だったかな」

 

「ふむ、どう言った意味なのだ?」

 冥琳が尋ねると、一刀は眉間に皺を寄せ、難しい顔で考え込んだ。

「うん。この歌、解釈が色々と別れてるんだけど……まぁ、素直に読み解くなら、『この月は、あの人と見上げた月と同じ筈なのに、この春も、あの人と過ごした春と同じ筈なのに、まるで違うもののように感じる。私自身は、元と何一つ変わってはいないのに』って感じかな」

 

「お兄さん顔負けの女たらしの割りに、未練が溢れ出てますね〜。確かに、相当ご執心だった様で〜」

「まぁ、未練の歌かケジメの歌かって話もあるんだけどね。でも、貴族と皇后だから、宮中でも会う機会は結構あったらしいし、その分、綺麗さっぱりと言う訳には行かなかったのかもな―――ん?どうしたんだ、華琳。具合でも悪いのか?」

 

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 一刀は、ぼんやりと月を見上げながら風の言葉に応えている途中、自分の顔を魂の抜けた様な顔で見詰めていた華琳の視線に気付いて、水を向けた。華琳は一瞬、僅かに驚いた様な顔をしてから自嘲気味に唇を歪めて、緩々と首を振る。

「いえ、何でも。今夜は、風が吹かないからかしらね。少し、早く酔ってしまったみたい」

 華琳は、彼女には珍しく解り易い嘘を吐いて杯を((呷|あお))った。華琳が一瞬見せた尋常ならざる表情の真意を誰かが知りはせぬかと、皆が互いに目配せをし合う。

 

 そんな中、桃香が意を決した様に一刀の方を向いて、口を開いた。

「そ、そう言えば、ご主人様。雛里ちゃんから聞いたんだけど、昼間、恭歌ちゃんと智堯君に会ってくれたんだよね!どんな感じだった?」

 この瞬間、内心で桃香に礼を言ったのは、おそらく一刀だけではなかったろう。一刀は大きく頷いて桃香に答えた。

 

「あぁ。取り合えず、膿み出しは済んだと思う。まぁ、((禊|みそ))ぎに関しては、これからの本人の心掛け次第だろうけどな」

「そうですか。良かった……」

 一刀の言葉に、雛里が胸を撫で下ろしてそう呟くと、蓮華が腕を組んで考えるようにしながら一刀に尋ねた。

 

「智堯と言うのは、確か、先の大演習で失態を演じた馬謖の事だろ――」

「蓮華様……!!」

 蓮華は、冥琳に強い口調で名を呼ばれ、ハッとして頭を下げた。いくら私的な酒宴の席とは言え、軽々しく口にしていい事ではなかった。まして智堯は、同席している雛里の直弟子なのである。

「すまない。桃香、雛里……それに一刀も。酔いに任せて、僭越な事を言ってしまった」

 

「あはは。気にしてないよ、蓮華さん。あの時は、派手に負けたもんね〜」

 得意の鉄面皮か、はたまた本当に気にしていないのか、兎も角、桃香はそう言って、蓮華に朗らかな笑顔を向けた。蓮華は桃香に軽く頭を下げると、気を取り直して再び尋ねた。

「もう一人の恭歌と言うのは、その折りの撤退戦で見事な手腕を振るった王平と言う将だったな。噂は聞いている。で、その二人がどうしたと言うんだ?」

 

「あぁ。実はな――」

 一刀は皆に、事のあらましを掻い摘んで説明してから手酌で杯を満たし、ゆるりと呷った。それを聞いた蓮華は、同情する様に頷く。

「成程な。幼馴染み遠慮して、当然の報償を受け取らなかった、か。しかも、表面上は謙虚に辞退を乞うているとなると……厄介な話だったな。桃香も雛里も、さぞ腐心した事だろう」

 

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 同じ王として、蓮華には桃香の心中が痛い程に分かった。王の言葉は絶対である。((一度|ひとたび))王が、人前で声に出して臣下を褒めたのであれば、褒美を取らせねばならぬ。

何故ならば、臣下の功に報いるのは王の責務であるからだ。同様に、人前で声に出して臣下を叱責すれば、それは断罪と同意義となる。何故ならば、王は国の威信そのものであるからだ。

 

つまり、そのどちらにしても、王の言葉は発せられた瞬間に臣下に取っての絶対的な命令となり、臣下達はそれを実現する為に、あらゆる手間を惜しまず東奔西走せねばならなくなるのである。もしも王の言葉を実現する事が出来ないとなれば、今度はその臣下達が不敬の責を問われる事になるのだ。

 そう言った事を鑑みれば、一度褒美を与えると言ってしまった手前、受け取らせぬのは王の威信に関わるが、恭歌の辞退の主旨にも一理がある上、言葉の上では実に謙虚で実直な態度であるのだから、まさか非難も出来ない。桃香の大らかな性格上、蓮華ほど思い悩む事はないであろうが、それにしても事は王としての風評と威信に関わるものであるのだから、正に痛し痒しの心境であった事だろう。

 

「そこで、ふわっとした立場にいるお兄さんの出番と言う訳ですね〜。上首尾に運んで、何よりなのですよ〜」

「いや、まぁ……うん、その通りなのだけれどもね」

 一刀は苦笑を浮かべながらも、風の言葉に同意した。実際、一刀の立場は良くも悪くも曖昧な部分が多々ある。特に蜀に於いては、国主である桃香にすら((主|あるじ))として遇されており、政に関しても発言権と決定権を併せ持っているのに対して、別段もう一人の王を名乗っている訳ではない。なので、王である桃香では威信が邪魔をして入り込めない問題にでも、するりと入り込む事が出来る。

 

 民とも頻繁に接触しているので、権威としての畏怖を抱かれてもいないが、その分、どんな身分の者にも分け隔てなく接し、彼等の声を無碍にする事もないので、心から慕われている。つまるところ、北郷一刀は北郷一刀であり、それ以外の何者でもないとしか言いようがなかった。

便宜上、何らかの名のある立場が無くては困ると言う理由で、『天の御遣い』と言うポストが用意されているに過ぎないのである。だから、国に対する背信に近い行動を起こした上に大失態を犯した智堯が関わっている以上、恭歌の問題にも深くは切り込めない桃香に代わり、二人に腹を割った話が出来るのは、逆説的に一刀しかいなかったのだった。

 

「兎に角、恭歌には、別に家禄や昇進じゃなくてもいいから、何がしかは受け取って欲しいって言っておいたよ。まぁ、こちらが引き下がらざるを得ない様な理由をきちんと提示するんでも構わないとは、言外に伝えたけど、そっちはちゃんと分かったのかは微妙だな」

「恭歌ちゃんは根が正直な娘なので、言葉の裏を読むとかは苦手で……ありがとうございました、ご主人様」

 一刀の報告を聞いた雛里は、深々と頭を下げてそう言った。すると、黙って話を聞いていた華琳が、((徐|おもむろ))に口を開いた。

 

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「で、馬謖の方はどうなったの?私としては、恥を掻かされた貴方達が馬謖の首を斬らなかった事の方が、返って不思議なのだけれど。兄の馬良は、有能な文官だと言う評判をよく聞くわね。それ程に芽の有る人材なのかしら?」

「う〜ん。何て言うか……」

 桃香が、華琳の問いに小首を傾げながら、考え考えに答える。

 

「頭は、凄く良いと思います。ただ良過ぎて、自分以外の人の意見を軽んじる所があって……」

「て言うか、小馬鹿にしてたもんな」

 一刀が、杯を呷りながら桃香の言葉を引き継ぐ様にそう言うと、桃香は頬を僅かに膨らませ、非難じみた視線を一刀に投げた。

 

「もぉ、ご主人様ってば!!私が折角、上手い具合に説明しようと頑張ったのに……」

「はは、すまんすまん。しかし、事実だろ。まぁ、仕方が無いさ。虎に猫の苦労なぞ分からんのと同じだろ。逆に言えば、猫には虎の苦労が分からんって事でもあるだろうけどな。いずれにしても、随分と反省している様だし、上手く化けてくれれば、末は蜀を背負って立つ人材に成り得ると思ってるよ」

 

 華琳は、一刀の言葉を吟味するように暫く俯いていたが、鼻から僅かに息を吐いて、自分の杯を呷って言った。

「まぁ、貴方がそこまで言うのであれば、他国の内政の事でもあるし、私が((嘴|くちばし))を挟むべきでは無いわね。でも、これだけは注意しておきなさい。貴方が甘やかしていると他の将が感じれば、それは馬謖の身に、妬み嫉みになって跳ね返って来る――下手を打つと、潰してしまう事になるわ」

 

「それは、私も懸念していた事です。ご主人様、智堯君は復帰後、どの役職に就けるべきでしょうか?流石に、元の通り参軍(幕僚)扱いと言うのは、周囲の((顰蹙|ひんしゅく))を買ってしまうかと思うのですが……」

 雛里はそう言って、((縋|すが))る様な目で一刀を見た。他国の君主が軍師が居る場でこんな相談をする辺り、余程に頭を悩ませていたに違いなかった。一刀は、やはり男の扱い方は男の方がよく分かっているのかも知れない、などと益体も無い事を考えながら頭を掻く。

 

「まぁ、腹案が無い訳じゃないけどな……」

「お〜、流石はご主人様だね!で、どうするつもりなの?」

 桃香が、期待の籠った眼差しでそう尋ねると、一刀は紫煙を空に吐き出しながら口を開いた。

「いや、そんな大層なもんじゃないけど――焔耶に預けてみようかな、って」

 

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「へー、焔耶ちゃんにかぁ……って、焔耶ちゃんに!!?ほ、本気なの?ご主人様……」

 桃香が驚くのも無理からぬ話である。魏延こと焔耶は先の演習の折り、智堯の失策のせいで大舞台の見せ場を奪われたばかりか、殆ど何もしていない内に、敵の大将首を前にして撤退せざるを得ない状況に追い込まれた、当の本人なのだ。焔耶の激しい気性を鑑みれば、相性云々の話以前の問題であろう。

 

「本気だよ。頑固で直情、しかも恥を掻かされた当人である焔耶が智堯を認めれば、他の誰も文句なんか言えないだろ?」

「それはそうかも知れないけど……それなら、同じ様な立場の星ちゃんの方が向いてるんじゃないかな?ご主人様の意図も察してくれるだろうし……」

 

 桃香がそう提案すると、黙って二人の会話を聴いていた華琳が首を振りながら言った。

「それは違うわ。察してもらっては困るのよ、桃香。でしょう?一刀」

「まぁ、そうだな」

 一刀が華琳の言葉に同意すると、桃香は未だに困惑した表情を浮かべて、華琳に向けていた顔を、再び一刀に向ける。一方の雛里は、何事か得心した様に小さく頷いていた。

 

「いいか、桃香。確かに星なら、俺の意図を察して、私情を差し挟まず、純粋に智堯の能力と努力を評価してくれるだろう」

「星ちゃんは、人との距離の取り方が上手ですからね〜」

 風が、一刀の言葉に頷きながらそう言うと、一刀も肯定して頷き返し、話しを続ける。

 

「あぁ。そしてそれは、皆が知ってる事だ。だけどな、桃香。智堯が優秀なのも、仕事に努力を惜しまないのも、元からだろ?今更その辺りの再査定なんてしたって、結果は知れてるのさ。そしてこれもまた、皆が認めざるを得ない事な訳だ。だから――」

「今回の件に関しては、端から公正さではなく、私情を以って馬謖の改心を認めさせる事こそが肝要……と言う事ね」

 蓮華が感心した様子でそう言うと、一刀は頷いて手酌で杯を満たし、空になった瓶子を脇に寄せた。

 

「そう言う事だな。大体にして、智堯に向けられるであろう妬み嫉みってのも、智堯が優秀で、あれだけの失態を演じても尚、再登用が許されるって事実から来るもの――つまり、私情に根差す訳だろ?」

「毒を以って毒を制す――と言う訳か。成程、考えたな」

  冥琳が愉快そうな顔で呟く様に言うと、風も自分の杯をちびりと舐めながら、同意して頷いた。

 

「ですね〜。それに、馬謖君が復帰したあとに一番の問題となるのは、あの演習で馬謖君のとばっちりを受けた人達との軋轢でしょうし〜。人間関係の齟齬に関しては早めに手を打っておかないと、ろくな事になりませんからね〜。その点、ある意味で最も恥ずかしい思いをさせられた焔耶ちゃんを納得させる事が出来さえすれば、他の有象無象もとやかく言えなくなりますから〜。無論、星ちゃんは、馬謖君が焔耶ちゃんに預けられた段階で察してくれるでしょうしね〜」

 

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 各国の王と軍師達の話を聴いた桃香は、納得した顔で深く頷いた。

「そっかぁ。でもご主人様、焔耶ちゃん、相当ビシバシやっちゃうと思うけんだけど……智堯君、大丈夫なのかなぁ?」

「大丈夫なんじゃねぇの?今の御時勢、いくら厳しくするったって、敵陣のど真ん中に単騎で突っ込めとか言われる訳じゃなし。そもそも、汚名返上の唯一の機会に踏ん張れもしない様なら、どうしようもないわな。周りから延々とネチネチ言われ続けて針の筵にされるより、焔耶に一思いに引導渡して貰った方が、智堯に取っても良いだろうしさ」

 

「この程度を乗り越えられない様なら、政の中枢になど置けない……ですか」

 雛里は、昼間の一刀の言葉を噛み締める様に呟いた。

「ま、有体に言えばそう言う事だな。華琳じゃないが、世が世なら首と胴が離れてたっておかしくない話なんだ。これ以上、俺に出来る事は無いよ」

 

「そうだよね。結局は、智堯君の覚悟次第って事だよね……」

 桃香がそう言って、遣る瀬無さそうに溜息を吐くと、一刀は大きく伸びをして、月を見上げながら答えた。

「まぁ、俺はそんなに心配はしてないけどね」

「そうなの?」

「あぁ。智堯のやつ、中々良い面構えになったからな。今度は、上手くやるんじゃないかと思うよ」

 

「ふふっ。何だか、姉さまの様な事を言うのだな。一刀」

 蓮華が笑みを零しながらそう言うと、一刀はさも心外だと言う様な顔をして、杯を飲み干した。

「失礼な。俺も大概いい加減な方だとは思うが、お宅の長女様ほどじゃないぞ。仕事だって、ちゃんとしてるしな!」

 

「うぅ……それを言うのは反則よぉ、一刀……」

 蓮華ががっくりと項垂れる様子を愉快そうに見ていた冥琳は、眼鏡を押し上げてから優雅な仕草で立ち上がった。

「はは。蓮華様、これ以上は形勢不利の様です。丁度、瓶子も空いた事ですし、今宵はここで戦略的撤退をさせて頂くと致しましょう」

 

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「なんだ。もう遅いし、泊っていけばいいじゃないか。部屋ならたくさんあるんだし」

「そうさせてもらいたいのは山々なんだけど、思春が外で待ってるから……」

「え、思春のやつ来てたのか?それなら、一緒に呑めば良かったのに……」

 蓮華の言葉に驚いた一刀がそう言うと、冥琳が蓮華に代わって、苦笑交じりに答える。

 

「何でも、招待もされていないのに敷居を((跨|また))ぐ訳にはいかんのだそうだ。まぁ、あれにはあれなりの、線引きがあるのであろうさ」

「問答無用で背中から刃を突き付けたりは、もの凄くサラッとする癖に……」

「あれは、思春なりの照れ隠しなのよ。貴方に構って貰って嬉しい時のね」

 

 蓮華が、悪戯っぽくそう言って立ち上がると、一刀も立ち上がりながら溜息混じりに言い返す。

「一々、命が懸かる様な照れ隠しをされる方の身になってくれ。寿命が縮むっての」

「ははは。お前がそんなタマか、どうせその後に毎度、閨の中で仕返しをしているのだろう?いや、見送りはいい。このまま失礼させてもらうぞ。今日は馳走になったな、北郷。では皆、また明日会おう」

 

「みんな、おやすみなさい。一刀、ご馳走様。とても楽しかったわ」

 蓮華と冥琳は皆に暇乞いをすると、屋敷の中へと姿を消した。一刀は、中腰の姿勢から再び胡坐に戻ると、苦笑を浮かべて頭を掻く。

「まったく、冥琳があんな捨て台詞を言うなんてな。やっぱり華琳が言う通り、雪蓮が居なくて寂しかったんかね?」

 

「かもね〜。何だかんだ言って、雪蓮さんの事が大好きだもんね。冥琳さんは♪じゃ、私もお先に失礼しようかな。そうだ!久し振りにお母さんと一緒に寝るんだけど、雛里ちゃんも来る?」

「あわわ!?桃香様のお母様とですか!!?」

 桃香の突然の提案に、雛里が頬を染めてうろたえると、桃香はニコニコと微笑んで頷いて見せる。

 

「うん。お母さん、本当は子供たくさん欲しかったって何時も言ってたから、鈴々ちゃんとかと一緒に寝るのも好きなんだ。ね、一緒に行こうよ」

「あぅ……で、では、お言葉に甘えて……」

 雛里が、桃香に急かされる様にして手を取られながら立ち上がると、何故だかそれを見ていた風も一緒に立ち上がった。

 

「へ?どうしたの?風ちゃん」

「いえいえ〜。同盟国の君主の母君の御要望とあれば、愛らしい娘役を買って出るのも((吝|やぶさ))かではないと思いまして〜」

『要は、あのデッカイおっぱいに埋もれて寝てみてぇんだよ!皆まで言わすなや!』

 

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 風は、自分の頭ごと突き出した宝ャにそう喋らせてから、腕を器用に上げて宝ャの頭の部分をコツリと叩いた。

「これ、宝ャ。そんな身も蓋も無い事を言ってはいけません。どっちにしろ、あなたは布団には入れませんからね〜」

 桃香は、一瞬ポカンとした顔をした後、腹を抱えてくつくつと笑った。

 

「そうだよね〜。宝ャ君、男の子だもんね〜。じゃあ風ちゃん、一緒に行こうか。華琳さん、風ちゃんをお借りしていっても良いですか?」

「お願いするのはこちらの方でしょう。風から言い出したのだしね。申し訳ないけれど、風を宜しくね、桃香。風、あまり桃香のお母上に御迷惑を掛けては駄目よ?」

 

 風は、「は〜い」と気の抜けた声で返事をしながら立ち上がると、どこからか取り出した瓶子を、華琳の目の前に差し出した。華琳が一瞬、困惑の表情を浮かべると、風は、のほほんとした顔で瓶子を更に華琳の顔に近づけた。

「風はあまりお酒が強くないので、出して頂いた分が余ってしまいまして〜。残したままも失礼ですし、華琳さま、申し訳ないのですが、お兄さんとこれを消化しておいて頂けませんか〜?」

 

「風……貴女、謀ったわね?」

 華琳がそう言って、呆れた様な表情を風に向けると、風は茫洋とした表情を崩す事もなく、空とぼけた声でそれに答えて、華琳の手に瓶子を握らせた。

「さてさて、何の事やら〜。では、風は桃香様のお母上の豊満なお胸が恋しいので、これにて失礼させて頂くのです〜」

 

「あはは。風ちゃんてば、ご主人様みたいになってるよ♪じゃあ、ご主人様、華琳さん、おやすみなさ〜い」

「あわわ。風ちゃん、一人で行ったら迷っちゃうかも知れないよ。あ、あの、お二人共、おやすみなさい」

 桃香と雛里は、一刀と華琳に暇乞いをして、一人でさっさと先に行ってしまった風を小走りに追い掛けて行ってしまった。

 

「酷ぇなぁ、桃香のやつ。あの言い方じゃ、俺がまるで((義母上|ははうえ))まで狙ってるみたいに聞こえるじゃないか……」

 一刀は、苦笑を浮かべながらそう言って華琳の手から瓶子を取り、彼女の杯を満たす。華琳は、そのまま一刀から瓶子を受け取って返杯をすると、悪戯っぽく笑った。

 

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「あら、違ったの?」

「違うわ!義理とはいえ、母親だぞ!?」

「でも、桃香に似て、愛らしい方じゃないの……いえ、この場合は、桃香がお母上に似ていると言った方が正しいのでしょうけれど。それに、今の貴方からすれば、殆ど同年代なのではなくて?」

 

「まぁ、歳に関しちゃ、確かに二つか三つ位しか離れてないとは思うけど……」

「ほらね。今迄の貴方の所業を鑑れば、狙っていると思われても仕方がないと言うものよ」

「所業てなんやねん……」

 一刀は杯を飲み干してしみじみと溜息を吐き、中天から随分と傾いて来た月を((三度|みたび))見上げた。空気が澄んでいるこの時代では、月も星も鮮明で明るく、幾ら見ていても見飽きる事がない。

 

「義理の家族にも子持ちの未亡人にも、手を出しているじゃない。貴方の場合、“義理の母だから”と言う事が手を出さない理由にはならないと、皆は見ているのでしょうよ」

「ははは。いやはや、耳が痛い話だね、どうも」

「堪えないのね、まったくもう。まぁ、そのくらい図太くなければ、こんな生活やっていられないでしょうけれど」

 

「ま、図太さにかけちゃ、少しばかり自信があるからな。義母上の事だって、俺が態度で示していくしかないのは分かってるしさ」

 一刀は、そう言って杯を呷ると、空になった杯の底を眺めた。

「なぁ、華琳――」

 

「――『さっきは何を考えていたんだ』、と続くのかしら?」

「やっぱ、解る?」

「あからさま過ぎるのよ、皆。……ごめんなさいね。折角、貴方が催してくれた酒宴だったのに」

 一刀は驚いて、華琳の方に顔を向けた。華琳が謝罪の言葉を口にするなど、滅多にある事ではなかったからだ。対する華琳は、珍しく自信なさげに俯いたまま、手に持った杯を弄んでいる。

 

「何よ。そんな顔する事ないじゃない。私だって、悪い事をしたと思ったら謝る位はするわよ」

「いや……まぁ、そうだろうけどさ。で、結局どうしたんだ、さっきは?何て言うか、凄く――」

「変な顔をしていた、かしら?」

 華琳は、一刀の言葉の先回りをしてそう言うと、((漸|ようや))く顔を上げて、一刀を見返した。その紺碧の瞳には、自嘲とも後悔とも着かぬ複雑な感情が揺らめいている様に、一刀には感じられた。

 

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「変、て言うか、何だか具合が悪いみたいな感じだったな」

「そう」

「あぁ」

 その遣り取りを最後に、二人の間に沈黙の帳が降りた。一刀は、無理に話を続けようとはせず、風が残していった瓶子から手酌で酒を注ぐと、緩々と杯を回しながら、そこに映る月を揺らして華琳の言葉を待つ。

 別に、慌てる様な事でもない。

 

「貴方が、消えてしまうような気がして」

暫くの後、一刀がゆっくりと三杯目の酒を喉に流し込んだ頃、漸く口を開いた華琳は、呟く様な声でそう言った。

「消える?俺が?」

 面喰った一刀が、思わず間抜けな声を出して自分で自分を指差すと、華琳は小さく頷いて、杯を舐めた。

 

「月明かりの照らされた貴方の横顔を見ていたら、何故だか急に、そう思ってしまったの。そうしたら、自分の感情が上手く制御できなくなってしまって……変な話ね……莫迦みたい」

 一刀は、華琳の華琳の言葉を聴きながら、妙に納得して黙ったまま酒を注ぎ足した。此処とは違う、近くて遠い一つの外史が終端を迎えた“あの夜”、一刀がとうとう見る事の叶わなかった彼女の最後の顔は、今と同じであったのだろうか?

 

 分からない。華琳があの後、どの様に生きたのか、それどころか、自分があの夜の後どうなったのかすらも。何故なら、華琳と共に乱世を駆けた外史での北郷一刀の終端は、成都の小川に近い、あの月のよく見える場所であったからだ。例え“その後”と言うものが存在するにしても、物語である外史から退場した時点で、今ここに居る一刀に“統合された”記憶の範疇外であるから、知りようにも知る由がないのだが。

 

 この、“三国の少女達が一人も掛ける事なく共存している外史”を物語の舞台とする為、卑弥呼と貂蝉は、三つの外史を生きた少女達の記憶を、緩やかに無理なく統合したと言っていた。だがこの華琳ならば――群雄割拠の時代、中原に覇を唱えた奸雄の幻想を、その身に受け継ぐこの少女ならば、貂蝉と卑弥呼の((業|わざ))を覆してみせたとしても、一刀は驚かないだろう。

 

「良く考えたらさ――」

 一刀は、華琳の横顔から再び蒼く大きな月に視線を戻し、そう切り出した。

「華琳と二人でゆっくり月を見る事なんて、無かったよな」

 華琳は、夜も忙しい。時には遅くまで政務に勤しむ事もあるし、時には自分に好意を向ける臣下に寵愛を与える事もあるからだ。最も、それは一刀も似た者ではあったが。

 

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 どちらにせよ、二人で月を見上げて酒を呑むどころか夜に閨へ招かれる事も稀で、華琳との逢瀬と言えば、突発的に華琳の仕事に空きが出来た時などが殆どであった。逢瀬の内容にしても、忙しなく愛し合って直ぐにそれぞれの仕事に戻るとか、他の臣下達に見つからぬ様に別れて帰るとか、そんな事ばかりだった気がする。

 

 だから、“あの時”が最初で最後の筈だ。二人並んで、月を見たのは。もしかしたら、“あの時”と今の状況が重なり、((謂|い))わばそれがトリガーになってしまって、華琳の記憶の((楔|くさび))が弛んでしまったのかも知れない。

「そうね――もう、随分と長い付き合いになるのに、こうして指し向かいで呑んだ事も、殆ど無い気がするわ。何時も、誰かしら傍に居るしね」

 

「ごめんな――今度から、気をつけるよ」

 華琳は、唐突な謝罪の言葉に秀麗な眉を((顰|しか))めて、訝しそうに一刀を見た。

「どうして謝った筈の私が、逆に貴方に謝罪されなければならないのか、私にはよく解らないのだけれど?」

 一刀は、華琳の言葉に緩々と首を振って苦笑いを浮かべた。『欲した物は実力で手に入れろ』――それは自分が華琳から教わった、この世界を生き抜く上での金科玉条であった筈だ。

 

 それなのに、他の者に遠慮をして、いざどちらかが我慢ならなくなる迄、別の言い方をすれば、華琳がサインを送ってくれる迄、一刀は積極的に華琳を逢瀬に誘う事はしなかった様に思う。その距離感が心地良いと、勝手に思い込んでしまっていたからだろう。

 

 故に、二人並んで月を見上げるなどと言う何の事もない行為で、本来は揺らぐ筈のないモノが揺らいでしまう程の衝撃を、華琳に与えてしまったのだ。それは自分の罪だと、一刀には思えた。

 数多の女を愛した魏の覇王たる少女の、初めての男。その矜持を、もう一度きちんと持たなければならない。

 

「もっと、華琳を月見や酒に誘う様にする。どの道、桂花や春蘭にどやされるのは何時もの事だし、今更少しくらい罵詈雑言が増えても、大して違いは無いもんな」

「あ、あのね!私は別に――」

「“俺が”、そうしたいんだよ。迷惑でも、そうするからな」

 

 一刀は、華琳の言葉を遮りながらそう言って杯を空けて酒を注ぎ、次いで華琳に、瓶子の先を向ける。暫く怪訝な表情を崩さずに一刀の顔と瓶子を交互に見詰めていた華琳は、呆れとも諦めとも言えない様な吐息を一つ吐いて杯を空け、一刀の向けた瓶子に、自分の杯を突き出した。

「ふん、好きになさい。どうせ貴方は、言い出したら聞かないのだから。ただし、その誘いに乗って上げるかどうかは私の気分次第だと言う事を、((努々|ゆめゆめ))忘れて貰っては困るわよ」

 

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「勿論ですとも、覇王様」

 一刀は、頬を染めた華琳の形ばかりの皮肉に杯を上げて答えると、一息に中身を飲み干した。

「で――だ、華琳」

「何かしら?今夜はもう、下手くそな口説き文句は沢山なのだけれど?」

 

「まぁ、そう言わず、もう一つくらい付き合ってくれよ――ゆっくりしていけるんだろ、今日は?」

「別に、屋敷に帰っても構わないわ。最も、皆、寝静まってしまっている様だから、貴方に護衛として付き添って貰う事になるけれどね」

 一刀は、華琳の挑戦的な流し目を受けて、何時もの調子が戻って来た事を確信し、内心、嬉しくなりながらも、面倒そうに首を振った。

 

「冗談はよし子さん。折角ほろ酔いで良い気分なのに、夜道をおっかなびっくり歩いて行くのなんて、御免((被|こうむ))るね」

「ふふっ、この私の腹案を袖にするなんて、随分と偉くなったのね?まぁ、この酒宴の主催である貴方がそう言うのならば、客である私に是非は無いと言うものでしょう?」

 

「それは重畳。よっ、と――」

「ちょ、何をするのよ!?」

 華琳は、やおら立ち上がって自分を抱き上げた一刀に向かって、驚きの声を上げる。立っている時はいつも見上げている彼の顔が自分と同じ位置にあるのが、少し不思議だった。

 

「何って、風からの依頼も完遂したし――」

 一刀はそこでおどけた顔をして、空になって転がっている瓶子に視線を落とす。

「もう良い時間だから、そろそろ寝ようかと」

「だからって――べ、別に逃げたりはしないわよ!自分で歩くから降ろしなさい!」

 

「嫌だね」

「な――!?」

 華琳が、至極単純な一刀の拒絶に丸くすると、不意に一刀の瞳に、真剣な光が((過|よぎ))った。

「露と答へて――なんて、洒落た歌は似合わないしな、俺には」

 

「ふん、夜道を歩くのは面倒でも、女を閨に連れ込む手間は惜しまないのね」

 華琳が、一刀の言葉に込められた意味を察してそう言うと、一刀はしてやったりと笑って、軽く華琳を抱き直す。

「そりゃあもう。種馬だからな、俺」

 

「莫迦……」

 華琳は、そう呟いて抵抗を止めると、一刀の胸に顔を埋めて肩口を軽く((抓|つね))る。結局、部屋に着いた二人が眠りに落ちたのは、夜も白々と明け始めた頃の事であった――。

 

-25ページ-

 

                               あとがき

 

 はい、今回のお話、如何でしたでしょうか?

 前回に続き、静めな回になりました。バトルは次回、次々回くらいになるかと思います。

冒頭の“記憶の宮殿”は、ずっと以前から考えていた設定で、一刀が沢山の知識を持っている事への合理的な説明が出来るツールとして、登場させる機会を狙っていました。

 

 トマス・ハリスの小説に登場したハンニバル・レクター博士が、監獄の中で使用していた事で一躍その名を知られるようになった、実在の技術です。もっとも、レクター博士が使っていた様に使うのは、流石に相当難しいでしょうがw

 最近では、海外ドラマ『メンタリスト』の主人公、パトリック・ジェーンも用いています。こちらの方がより現実に近い形で使っていて、応用の仕方なども現実的なので、ぶっ飛んでいるレクター博士のものよりも、その応用力の凄さが分かり易いです。

 

 我が一刀さんには、まだ脳内設定の中にだけ存在している特技が一つ二つあるので、いずれそれらも公開して行きたいと思っています。さて、ここで重要なお知らせがあります。

 実は、諸般の事情で、兼ねてよりイラストをお願いしていた“はびゃ”様に、これ以上イラストを描いて頂く事が出来なくなってしまいました。しかし、大変ありがたい事に、半年程前からTINAMIに素晴らしいイラストを投稿なさっているabaus様が私の依頼を快諾して下さり、これから当作品のイラストを担当して下さる事になりました!!

 

 それに伴い、abaus様のイラストが投稿可能になった段階で、はびゃ様に描いて頂いたイラストと従兄に描いて貰った鉛筆画のイラストを公開停止とさせて頂きます。

はびゃ様と従兄に描いて頂いたイラストにコメント頂いた方々、支援して頂いた方々には申し訳ないと思うのですが、これも私なりのケジメの付け方であり、私の不躾な申し出を快諾下さったabaus様に対しての誠意であると考えた末の事ですので、どうかご理解を賜りたく存じます。

 

今回も支援ボタンクリック、コメント、お気に入り登録など、お気軽にして頂けますと大変励みになりますので、宜しくお願い致します。また、誤字脱字を見つけた際も、お知らせ頂けると大変に助かります。

 

 それではまた次回、お会いしましょう!!

 

説明
 どうも皆さま、YTAで御座います。今回も日常パートですが、あとがきにて重要なお知らせもあります。

 では、どうぞ!
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コメント
アーバックスさん コメントありがとうございます! 完全に、『混ぜるな危険』の組み合わせなので…今回の華琳の話は、ずっと書いてみたかったテーマだったんです。(YTA)
“月明かりを浴びる一刀”を見たら“華琳”ならば仕方無いよねぇ…(アーバックス)
兄弟、コメントありがとう! 華琳ならば、こう言う話があって良いかなと思ってね。歌は、種馬設定込みで一番好きな人のをチョイスして見たw歳取ると、色々と見えて来るものも増えるしなぁ。(YTA)
また乙な歌を色々と……歌人としても知られる曹操らしい話で大変佳か。しかし、やっぱ年齢をそれなりに積み重ねないと出ない魅力ってのはあるよなぁ。(峠崎丈二)
殴って退場さん コメントありがとうございます!そりゃもう、三国一の種馬さんですからw(YTA)
流石一刀…覇王様も普通にお持ち帰りですかww。(殴って退場)
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