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「う……ん……」

 

 ずきずきと痛む頭を抑えながら私は体を起こした。

 

 ――ここは……どこだろう?

 

 暗くてわからないけど変な臭いが鼻をつき、堪らず顔を顰める。どこかで嗅いだような覚えがあるけれど――駄目だ、思い出せない。でも、身近なものだ。

 

 匂いの正体を探る中、意識がだんだんとハッキリし、ここで初めて自分の状況を完全に理解した私の心に焦りが生まれた。

 

「まさか、ね……」

 

 嫌な想像が脳裏を過ぎる。それはここ最近巷を騒がせている奇妙な事件だ。被害者は女性だけだがおかしいのは被害者の全員は目をくり抜かれているのだ……そんな陰惨な事件に巻き込まれたのだろうか? 手の平に脂汗が滲み、呼吸が乱れる。帰りたい、帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい――――、

 

「ひっ――!」

 

 大声を上げそうになったところで、ガチャリと扉が開く音がし、暗闇の一角から光が差し込む。

 

「すまない、驚かせてしまったね」

 

 物腰の柔らかな男の声、逆行で顔はわからないけれど聞き覚えのあるその声は、私の記憶の中からすぐに一人の人物を示した。この街でそれなりに評判の良いその人の職業から、ずっと気になっていたこの臭いが何であるかようやくわかった。

 

 電気を点け、明らかになったこの場所は今までに縁がなく、テレビでしか見たことがなかった。小さな室内は白く、それは清潔を通り越して病的なまでに感じさせる。壁際のガラス棚にはいくつもの瓶があり、ラベルには英語や中国語などが書かれているけれど、勉学が足りない私にはそれがどういうものなのかわからない。部屋の中央にはベッドと、その横に小さなステンレスの台がある。

 

「あ、あの……私、どうしてここにいるんでしょうか?」

 

 見知った男性の姿に恐怖がやわらいではいても、状況が変だ。もし、自分に何かあって搬送されたというのなら、ベッドに横たわっていないとおかしい。

 

「先……生……?」

 

 私の声を無視しながら“先生”はガラス棚を開け、一個の瓶を取り出す。蓋を開けると手に持っているハンカチに液体を染み込ませる。染み込ませると“先生”はビンの蓋を閉め棚に戻す。普段と同じ柔らかな笑顔を浮かべながら私に近づく“先生”に、今さらながら得体の知れないものを私は感じてしまった。

 

「んぅ――っ!?」

 

 恐怖に怯える私の口に薬品を染み込ませたハンカチがあてられる。呼吸を塞がれ、酸素を求めて大きく息を吸い込んだ時、突然頭がくらくらとした。

 

「ふ……んっ……」

 

 考えが纏らない、自分が何を考えようとしているのかもわからない。体もびりびりと痺れて感覚が曖昧になる。

 弛緩した私の体を“先生”はそっと抱き上げてベッドへと運ぶ。頭上から降りかかる照明を眩しく思うも、瞼はわずかに震えるだけで閉じることができない。

 

「帰――し、て…………」

「すまない。だけど、俺にはこれしかないんだ……」

 

 ぐらぐらと揺れる意識の中で必死に紡いだ言葉、けれど“先生”は謝るだけでその願いを叶えてはくれることはなかった。

 左手に何か握っている、蛍光灯の光に反射するそれが私の左目に近づいてくる。目を閉じることができない叫ぶこともできない暴れることもできない逃げることもできない。私はただただそれを見続けることしかできなかった。

 

 そして――、

 

 ぶつん、と千切れる音を最後に視界は暗く、私の意識も暗闇に沈んでいった。

 

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「先生、ありがとうございます」

「いえいえ。それより毎回言ってますが、あまり無茶しないでくださいよ」

「うちの若いのがもう少し使えるようになれりゃゆっくりできるんですがねぇ……」

 

 戦後から数十年経ち、戦前よりも経済が発展しつつある日本。都会と比べると豊かではないが、人の温かさを感じることのできる町の一角に俺は小さな病院を開いている。

 初めの頃は町民たちとの間に壁があったが、今では診察しながら談笑するほどになり、病院中から笑い声が聞こえているほどだ。

 

「と、すっかり話し込んじまったな。それじゃあ先生、また何かあったらよろしく頼むわ」

「何もないほうが医者として喜ばしいことなんですけどね」

 

 ひらひらと手を振りながら診察室を出て行く鳶職の源さんに苦笑する。これで最後だな……よし、彼女に会いに行こう。

 受付に何かあったら館内放送で呼び出すように指示し、俺は病室へと足を運ぶ。途中すれ違う患者さんや家族の方々と軽く話したりしながら、目的の病室へと辿り着く。

 

「ふぅ……はぁ……」

 

 緊張で早鐘を打つ心臓を深呼吸で和らげる。他の患者さんでもこんなに緊張することはない、彼女と会うたびにいつもこんな風になってしまうのだ。

 呼吸が落ち着いたところでコンコンと扉をノックする。

 

「はい、どうぞ」

 

 控えめな女性の返事に心が浮つくのを感じながら静かに扉を開く。病院独特の人を拒絶するような静寂さとは違う、静かに包み込んでくれるような優しさに満ちた空間だ。視線の先、ベッドに腰掛ける少女は入ってきた俺に柔らかに微笑んでいた。初めて会ってから三年くらいこの病院に入院している彼女は、決して体が丈夫ではないが月日が経つにつれて大人の女性へと成長していく。

 

「調子はどうかな? 和葉ちゃん」

「はい、具合のほうは大丈夫です。先生、外はもう春なんですね。外から小鳥さんが楽しそうに鳴いていましたよ」

「そうだな。桜はまだ蕾だけどもうじき咲きそうだぞ」

「そうですか。あの、先生……もし咲いたら――」

「ああ、いいよ。連れてってやる」

「ありがとうございます」

 

 彼女に近づき、そっと手を取る。ほっそりとした腕は成長期という時期にも関わらず、ほんの少し力を加えただけで簡単に折れるのではないかと思わせるほど酷く軽い。

 慎重に、その手を俺の頬に当てる。ほんの少し冷たい指先は、目尻から首筋、後頭部の髪の生え際から耳へとそっと動いていく。

 和葉ちゃんの口元は嬉しそうに笑んでいるが、その目はわからない。比喩的な意味ではなく、文字通りだ。包帯によって巻かれた彼女の視界は暗闇によって閉ざされているのだ。

 

 米国から流れてくる日本より一歩二歩どころか四十歩や五十歩進んだ医学の書物を漁るも原因も治療法もわからない。本当ならこんな町病院なんかじゃなく、対処がしやすいようにもっと都会の充実した設備のある病院に移すべきなのだが、何度頼み込んでも向こうは決して和葉を受け入れてはくれなかった。

 

 曖昧にはぐらかしているが理由は明白だ――治療法の見つからない患者を置き続け、万一の事態が起こってしまった時に評判が落ちるのを避けるためだ。

 評判や権威に固執する体制はどの時代、どの職業にもある。

 

 アメリカの病院へと移すべきか考えてみるも、金銭が一番の問題となって立ちはだかる。

 

 そうこうするうちに時間だけがただただ過ぎていく。幸いなのは和葉ちゃんの容態が悪化していないことだけだ。かといって、それがいつまで続くかもわからない。早く治療法を見つけなければ……。

 

「先生?」

「え、あぁ……何かな?」

「――また私のことで、悩んでましたね?」

 

 表情を曇らせる彼女に俺はまたやってしまったと自己嫌悪する。目が見えなくなった代わりに周りのことに敏感になり、人の仕草の変化も本人以上に気づいてしまう。

 

「すまない……患者である君を不安にさせるようなことをさせてしまうなんて、俺は本当に医者として失格だな」

「そんなことはないです。先生がそうなってしまうのは私に対して真剣に考えているからです」

「そういってくれると嬉しいんだけどな……だけど、医者という職業を続けるとつくづく人間の無力さを思い知らされ――失言だ、忘れてくれ」

「はい」

 

 弱音を吐いてしまった俺を叱咤することなく、微笑を返す和葉ちゃん。けれど、その優しさの奥には、再び光を取り戻すことができないと諦めているように感じられた……。

 

  ○

 

「くそっ! 何でだ……何で……」

 

 机を強く殴りながら俺は叫んだ。ツテを辿り国内国外の医者に聞いてみるも、和葉と同じような症例があったという話はなく、受け入れるというようなところも相変わらずなかった。

 

「和葉、ちゃん……」

 

 どうすることもできないのか? 彼女のこれからの人生、出会う人や季節の移ろいを見せてやることはできないのか?

 

 怒りを通り越して空虚になっていくのを感じながら何気なく本棚に視線を向けると、一冊の本に目が止まった。それは俺が医師免許を取得した時に今はもういない祖父から送られた本の一つだ。漢方に関する本であまり開いたことはなかったが、何となく手に取りページを捲る。日本やアメリカとは違う医療法を流し読みしていたが、あるところで止まる。肝臓が悪いなら肝臓を食べると良くなる――と人生のどこかで聞いたが、医食同源という思想が基だ。

 

「…………」

 

 現代医学に触れた俺から見ると疑わしい記述だが、そもそもその現代医学自体も発展途上のものだ。藁にも縋りたい気持ちである今の俺にとってはもうこれしかなかった。

 

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「あら? 先生、これって茶碗蒸しですか?」

「ああ、そうだよ。ちょっと君の目に効きそうな食材が手に入ったんだけど、普段食べないものだから食べやすいように茶碗蒸しにしてみたんだ。味のほうはどうかな?」

「美味しいですけど、凄く不思議な味ですね」

「そうだな。俺も味見して最初は抵抗あったけど、慣れれば問題なく食べれたよ」

「先生、本当に私のために尽くしてくださってありがとうございます」

「いや、まだまだだよ。俺は絶対に君の目が見えるようにする。時間が掛かるかもしれないけど側で頑張らせてくれ」

「はい」

 

 和葉の柔らかな笑みに救われた気分になりながら、俺は和葉ちゃんが食べている茶碗蒸しを見る。黄金色の生地の中に浮かぶ干し椎茸や小海老、それらに混じったゼラチン状の物体が和葉の口へと運ばれていく。咀嚼し、飲み込んでは次の一口に移る様子に内心安堵する。マグロのとはいえ、目玉を食べていると知られるわけにはいかない。

 

 あの日、触れた医学書から俺が思いついたのがそれだった。すぐには効果は出ないだろう。一ヶ月ほど可能な限り食べてもらい、効果があるのか確認しよう。

 

 何の効果もないなんてことは考えたくない。こんなおまじないのようなものでも他に方法がないのだから続けるしかないんだ。

 

 祈りながら過ごすある日、菌が目に入らないように覆っている包帯を取り替えている最中で『それ』は起こった。

 

「それじゃあ和葉ちゃん、包帯取り替えるからね」

「はい――――え……?」

「どうかしたのかい?」

「先生……目が……」

「!」

 

 まさか病状が悪化したのか!? いや、それなら和葉ちゃんの様子がおかしい。彼女の表情はまるで"今見ているもの"が信じられないかというような戸惑いのものだ。

 

「本当に……なんだね?」

「はい……」

 

 和葉ちゃんの話を聞くと、目はいまだに見えてはいないがそれまで闇色だった視界が微かに明るくなったとのことらしい。試しにペンライトを彼女の眼前で左右に揺らすと十回に一回は光を追う仕草を見せた。常に見えているのではないらしい。その後の検査ではこれといった数値の変化は見当たらず原因が何なのかわからない……本当にアレが効いたのか?

 

「先生……私、また目が見えるようになれます……よね?」

 

 淡い希望とまた暗闇に堕とされるんじゃないかという恐怖を含んだ問い掛けに躊躇したが、彼女の手をそっと握り、答える。

 

「和葉ちゃん、君だから正直に言うけど俺にも今回のことは何がどうなっているのかわからないんだ……だけど、これが良くなる兆候だとしたら絶対に身体のどこかに変化があるはずなんだ。それを絶対に見つけて、君の目を治してみせる」

「――先生、お願いします」

 

 深々と頭を下げる彼女の肩は小さく震えていた。俺はこれ以上は何も言わず、和葉ちゃんの細い身体を抱き締めた。

 

  ○

 

 けれど、それから一月ほど経過するも和葉ちゃんの目はそれ以上の回復は見せなかった。最初は喜んでいた俺たちだが、変化のない現状に次第に言葉を失っていった。

 

 その夜、書斎に篭った俺は再び医学書を開いて見逃していることがないか確認していた。良くなった切っ掛けはまだハッキリとはわからないが"眼"を食べさせたことじゃないかと思っていた。なら、和葉ちゃんにもっと食してもらわないといけないが果たして今と同じようなものでいいのだろうか? 同じ目とはいえ、魚の目玉では人間の目を完全に回復させるには至らないのだろうか……?

 

 悩み抜いた先に、俺はある考えに辿り着く。が、それは医者として、いや、人としてやってはいけないことだ。頭を振って考えを追い払おうとするが消えず、粘着いたタールのように絡みついて理性を麻痺させていく。

 

 ――お前は彼女を助けたいんだろ? なのに非道徳的だとかくだらないことで可能性を捨ててどうする?

 

 狂った俺の声が脳内に響き渡る。

 

 いやだ、それは駄目だしちゃいけないいけないんだするなやめろしろよいやだいやだ消えろ考えるないやだするんだ駄目だ!!

 

 視界がぐらぐらと歪む。体勢を維持できず椅子から転げ落ちた俺は床を這い蹲る。込み上げる吐き気はさらなる苦痛を与え、堪らずぶちまける。

 

「ひっ――! はっ、はっ……あぁぁ……」

 

 涙と涎、吐き戻した汚物に塗れながら誰かに助けを求めようと扉に向かおうとするが手足が上手く動かない。脳内を掻き回される痛みを伴った感覚に叫ぼうとするが、口から発せられるのはまるで喘息に掛かった時の様な言葉にならない声だった。

 

 堕ちてしまったら二度と元には戻れないとわかっているのに意識が溶けて自分の存在がわからなっていく。

 

「くっ……う……ぐ、うぅぅ……がはっ! ふ、あ、あぁぁっ――! ひぃ、ぎぃっ!! やめ、てくれぇ……っ!」

 

 そこで俺の意識は一気に暗闇に呑み込まれた……。

 

 …………

 

 ……………………

 

 ………………………………

 

「うっ……」

 

 酒に呑まれた以上の酩酊感に襲われながら俺は意識を取り戻した。

 

 どのくらい気を失っていたんだ……。

 

 思い浮かんだ疑問に違和感を感じた。何かが変だ……もっと大事なことを思い出さなくてはいけないはずなのに、靄が掛かったように出てこない。まあ、いいか。そのうち思い出すだろう。それよりも早く床を拭いて服も着替えないとな……。

 

 酸っぱい胃液の匂いに滅入りながら床を綺麗にする。消臭剤も撒いて一先ずはこれでいいだろう。服は……駄目だな。捨てるか。

 

 風呂に入りすっきりした俺は書斎に戻り、読みかけだった医学書にもう一度目を通す。和葉ちゃんの目を治すために試すべきことはもう考えは纏っている。後はそれをどうやるかだ。

 

 試行錯誤しながら何気なく見た鏡、そこには言い知れない奇妙な笑顔になっている俺自身が映っていた。

 

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 初めてに選んだのは、和葉ちゃんと同い年くらいの女の子だ。病院の窓から通学している姿を見かけ、若々しくて健康的だったから目をつけた。頃合を見計らい声を掛けると、町民から親しまれている相手だからか、無警戒に俺の言葉を信じ、簡単に人気のないところへと誘いこめた。そこにきてようやく不審に思った彼女に睡眠薬を染み込ませたハンカチで気絶させた。後は普段使われない手術室で目を取り出す作業に取り掛かる。細胞の損壊を極力避けるために摘出は生きている中で行った。瞼を切り、見開いた状態の目から眼球を道具を使い取り出す。麻酔が効いてはいたが、摘出の際に痛みと感覚はあるからか彼女の身体は小刻みに震え続けた。取り出した眼球を劣化を防ぐ薬品の入った瓶に浸す。ここまできたらもう彼女に用はなく、心臓を一突きに刺して殺した。初めて犯した殺人だったが、相手に対してすまないと思うだけで殺したことについての実感などはまるでなかった。死体を焼却炉で処分しようか迷ったが、臭いが発生すると怪しまれるだろうから適当な場所に遺棄することにした。

 

 思ったよりも発見は早く、翌日の新聞の一面で彼女のことが大きく取り上げられていた。それまで平和だった町だからか、町行く人々は不気味がっていた。その日過ごす中、俺のところに警察が来なかったところを見ると今は繋がりがないと判断されたんだろう。

 

 昨日摘出した“眼”を和葉ちゃんに夕食として食べさせた後、俺は新しい“眼”を求めて町の端まで車を走らせた。事件が起こったのが町の中心だからか、ここら辺はぽつりぽつりと人の通りがまだあった。適当に車を走らせるて色々な女性を見るが、タバコや酒を嗜んでいたりしていて規則正しい生活を送っていない人ばかりだ。嘆息し、他の場所に行くかと思った時、部活帰りだろうテニスラケット用のバッグを肩に下げた二人組の女子高生が歩道を歩いていた。

 

 速度を落として後をつけると途中のY字路で別れたため、とりあえず左を歩いていた娘を攫うことにした。速度を速めて女生徒に近づくも、車の接近に特に意に介したことなく歩き続けていた。注意深く辺りに気をつけて少女に追いついた時、一気に行動を起こす。勢いよくドアを開けたことで驚いた隙をつき、少女の腕を掴んで引き寄せる。事態のわからないまま悲鳴を上げようとする彼女の口を今回も睡眠薬を含ませたハンカチで塞ぐ。部活で体が鍛えられているからか、思いのほか抵抗が強く、もう少しで逃げられてしまうかもしれないと焦り始めた頃になってようやく少女の動きが止まる。糸の切れた人形のように弛緩した体を抱えて後部座席に乗せ、もう一度辺りを見回す――誰かに見られたとかはなさそうだな。安堵の息を吐いて病院へと戻る。その後の摘出は同じ流れで行う。

 

 二回目ということで幾分余裕が持てたのか、昨日よりは順調に進めることができた。術後、冷たくなりつつある少女の身体を何気なく見やると少女の目のあった部分に視線が止まる。ぽっかりと穴の開いた眼窩だが、光に当てられても中を窺い知ることができずただただ黒色だった。

 

 ――彼女の見る世界もこうなんだろう。

 

 彼女の見る世界を想像する。それは酷く恐ろしく、常に自分を強く認識し泣ければ暗闇に呑み込まれる世界だ。

 

 ――キミが見るはずだったこれからを彼女に見せてくれ。

 

 見るどころかもう何も感じることのない少女の冷たい身体を冷凍庫へと運ぶ。今日はもう時間が遅い。近くに遺棄してしまえば警察の捜査範囲を狭めてしまうことになる。それだけは避けなければならない。

 

 運転と摘出で疲れていたからか、自宅に帰りベッドに横たわるとすぐに睡魔に襲われてそのまま意識がなくなった。

 

  ○

 

「よし、和葉ちゃんだいぶ良くなってるよ」

「本当ですか!」

 

 検査の結果を伝えると、和葉ちゃんは興奮を抑え切れない様子で声を上げた。俺も同じくらい興奮しているのだが、和葉ちゃんの前で医者である俺が騒ぐわけにはいかない。

 

「ああ。前よりも目の回復が早くなっているよ」

「そうですか……良かったぁ……」

 

 喜びを噛み締める彼女の姿にようやくここまでこれたんだ、と一息漏らす。和葉ちゃんに女性の"目"を食べさせるようにしてから半月ほど経ち、定期検査を行って驚いた。彼女の視界に映るのはまだぼんやりとした状態ではあるのだが、それにうっすらと影が加わって物の認識が少しずつできているとのだった。

 

「それじゃあもっと和葉ちゃんの目がよくなるように特別料理をもっと用意しなくちゃいけないな」

「先生……あの料理、何を使っているんですか? いつも食べていると変な味がしまして……薬にしては何ていいますか……生もののような味のような気がするのですが……」

「あれか……大学病院に和葉ちゃんのことを伝えたら、使ってみてくれないかって送られたものなんだよ。毒になりそうな成分は入ってないから安全なんだけどな」

 

 いつか聞かれるのではないかと思い、用意していた答えをそれっぽく言ってみる。

 

「ふふ。先生、そこはもう少し隠して言うべきですよ。私を不安にさせるようなことを言って楽しんでませんか?」

「そんなわけないだろ。第一、和葉ちゃんとの付き合いも長いんだからここで隠すようなことはしないよ」

 

 我ながら白々しいことを言ってるな。でも、もう少しだ。和葉ちゃんの目が完全に見えるようになればこれ以上の嘘を重ねなくてもいいはずだ。

 

「さ、今日は暖かいから、少し外に出てみようか」

「はい」

 

 穏やかな日差しの下、俺は和葉ちゃんの手を取りながら隣を歩く。柔らかな風に流れる髪から零れ落ちる香りが鼻を擽る。甘いミルクの匂いに心臓の鼓動が高鳴る。繋いでいる手には緊張で汗が滲んでしまっている。けれど和葉ちゃんは特に気にした様子もなく楽しそうに笑顔を浮かべていた。

 

「先生? 先生、私の話聞いてます?」

「え? あ、ああ。聞いてるよ」

「先生……私、嘘を吐く人は嫌いです」

「すまん。聞いていなかった」

「ふふ、よろしい」

 

 摘出は正直に言って精神的に辛いものであったが、その成果は確かに現れているんだ。何としても最後までやりきってみせる。

 

 改めて決意を固めた俺は、気が付けば隣で微笑む少女の髪をそっと撫でていた。その行動に顔を真っ赤にしながら俯くも、触らせてくれる彼女の姿に俺も恥ずかしくなり彼女の頭から手を離す。

 

「……あ、あの……もう少し、続けていただけないでしょうかか?」

 

 それまでとは違うしどろもどろなお願いにより一層の恥ずかしさが増すが、ここで断るわけにはいかず、俺はしばらくの間和葉ちゃんの頭を撫で続けていた。嬉しそうに頭を寄せてくる和葉ちゃんには申し訳ないが、擦れ違う入院患者や看護婦が好奇の視線を向けるため物凄く居心地が悪かったことはいうまでもなかった。

 

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 和葉ちゃんと触れ合ってからの夜から、俺は再び健康そうな“眼”を持った女性を求めて町をさ迷う。流石に同じ地域で連続して女性を狙うわけにはいかず、最近は二つ隣の町などにも足を運んでいる。表通りは人はいないが、裏通りの風俗街には金のありそうな男を狙って派手な服に身を包んだ女性が道端に立っていた。

 

 ここのような場所で探すのは気が乗らないが、お金を見せれば簡単に攫えそうだ。

 

 あまりけばけばしい衣服に身を包んだ女性を狙いたくはなかったが仕方がないと声を掛けようとした時、通りの影に三人組の女性がしゃがんでいるのを見つけた。見た感じ十代に見えるが……小遣い稼ぎに身体を売ろうとしてるのか?

 

「ああ、君たちちょっといいかな?」

 

 見た感じ頭が弱そうに見えたから軽い調子で声を掛けてちらりとお金を見せると、少女たちは目の色を変え簡単に俺の言葉に乗ってきた。

 

 三人組は俺の車に乗って移動している最中にいろいろ話しかけてくるが内容は酷く下品なもので聞くに堪えない。用意していた睡眠薬を飲むと気持ちよくなれる薬と騙して与えると何の疑いもなく三人とも飲み、すぐに意識を失う。

 

 病室に運び、逃げられないように手足を縛る。意識を取り戻す前にさっさと事を終わらせようと適当に選んで摘出する。その娘は目を覚ますことはなく、自身の知らぬ間にその短い生涯を終える結果となった。

 

 それから二十分ほどして残った少女たちはようやく目を覚まし、自分たちに起こった事態を認識して暴れる。けれど縛られて身動きが取れず、ほどなくして見っともなく泣き始める。口もタオルで塞いでいるからくぐもった嗚咽が外に聞こえることはない。目鼻からだらしなく涙と鼻水を流す様は醜く、睡眠薬を嗅がせて再び意識を失わせる。

 

 とりあえず、明日と明後日の分は確保できたが攫えるうちに攫っておこう。ここなら点滴だったり栄養剤があるから簡単に死なせることはないだろう。

 

 世話をするのが面倒ではあるが和葉ちゃんのためだ。頑張ろう。

 

  ○

 

 それからまたしばらく経ち、女性を狙った連続殺人と誘拐がテレビの全国ニュースで取り上げられた。もちろん両方とも俺だ。待合室で患者たちが事件について色々話し合っているが、俺が犯人だとは全く思っていない様子で挨拶すると笑顔で返してくれる。

 

 現在、監禁している女性は十八名ほどだ。顔からは生気が失われ、頬が少しばかりこけてはいるが診たところ問題はない。毎日一人を選んで“眼”を摘出、警察の目を掻い潜って死体を捨てる作業になっている。連続して起きる事件に警察は焦って犯人を探してはいるがその動きは雑で、簡単に死体を処理できる。

 

 ただ、監禁によってのストレスからか、摘出した少女の“眼”を和葉ちゃんに食べさせてからの回復はそれまでより少しだけ遅れていた。だがこのぐらいの遅れなら監禁した女性たち全員の“眼”を食べ終える前に完治するかもしれないな。もし完治するようなことがあれば残った彼女らは生かしておく理由がないから処分するが。

 

 そうして誘拐した少女たちの“眼”を和葉ちゃんに食べさせてから二週間程経った時、ついに待ち望んでいたことが起こった。

 

 普段は全く姿を見せることのない和葉ちゃんの両親や親戚が数名、病室に訪れており、彼女に笑顔で話しかけているが、その笑顔は白々しいものだ。そんな彼らにも和葉ちゃんは普段通りに接している。

 

「さて、そろそろ包帯を外すけど大丈夫?」

「はい……先生、今までありがとうございました」

「それは俺のセリフだよ。それどころか君に謝らなくちゃいけないんだ。変に励ましてばかりで淡い希望を持たせるだけ持たせて、こんなに経ってしまって……」

「先生。私、凄く感謝しているんですよ。そういう風に悩んでいても諦めることなく私の病気を治そうと尽くしてくれて――本当に嬉しかったです」

 

 ――ありがとう、和葉ちゃん。

 

 周りに人がいる手前、その言葉は照れ臭くて言えなかった。代わりに何度もそうしてきたように彼女の頭に手の平を乗せそっと撫でる。

 

「それじゃあ外すよ――和葉ちゃん、目を閉じていてね」

「はい」

 

 俺の言葉に頷くのを確認し、ゆっくりと結び目を解く。するすると流れ落ちていく包帯を見つめていると抑えていた興奮がまた湧き上がってくる。

 

 室内は緊張で満たされているからか、誰も声を上げることはなく、陸に上げられた肴のように息遣いも苦しそうにしていた。

 

「さぁ、和葉ちゃん。ゆっくり目を開けてごらん」

「……」

 

 小さく息を整えた和葉ちゃんの閉じた目蓋が少しずつ開いていく。途中、窓から射し込む光が眩しいのか眉を顰める。けれど、それは彼女の目が正常になっているという証だ。瞬きを繰り返し、それで光に目を慣れさせたのか再び瞼が上がっていく。

 

「…………」

「先生……あ、あぁ……」

 

 その目は揺れることなく真っ直ぐに俺を見据えていた。伸ばされた腕は俺の頬に触れ、何かを確かめるようにそっと撫でてくる。

 

「やっと……やっと、先生の顔を見ることができ……た……」

「これが俺だよ、和葉ちゃん」

「あぁ、は……先生、私……ちゃんと見えます……みんな見えます……」

 

 溢れ出る涙を手の平で覆うが、隙間から止め処なく流れ落ち、みるみるうちにシーツに染みを拡げていく。

 

 成り行きを見守っていた和葉ちゃんの家族や親戚はここにきて緊張から解放されたのか、わっ、と声を上げ、手を叩いて喜びを表現する。

 

 ――終わった。これで、全部終わったんだ……。

 

「和葉ちゃん……」

 

 周りから掛けられる感謝の言葉に返事を返しながら安堵の息を吐く。視線を戻すと、今まで見れなかった分、病室内や窓の外から見える景色などあちらこちらを見回す和葉ちゃんと目が合う。

 

「――――」

「? 和葉ちゃん、どうかしたかい?」

 

 さっきまで笑顔でいたはずが、俺と視線が交わると無表情になる。

 

「和葉……ちゃん?」

 

 瞬きすることも忘れ俺を見つめ続ける和葉ちゃん――いや、何だ? これは……俺を見ているように見えるが、別のものを見ているような……。

 

「――――」

「え?」

「……や」

 

 彼女の視線が揺れる。それはだんだんと大きくなり、表情にも変化が現れる――どうしてなのかはわからないが、彼女は確かに俺に対して怯えている。

 

「和葉ちゃん」

「嫌っ!」

 

 伸ばした手が払われる。先程まで満ちていた浮かれた空気が一気に崩壊される。事態を把握できない周囲からの戸惑いの視線が向けられるが、俺もそれどころではない。

 

 ――何が起こってるんだ? 和葉ちゃん、どうして……。

 

 俺から逃げるようにベッドの端に寄り、シーツを手繰り寄せて身体を覆い隠す。

 

「和葉ちゃん、いったいどうしたんだい?」

 

 できるだけ穏やかに話し掛けるが彼女からの返事はない。

 

「あ……あぁ……ひ、いぃ……」

 

 徐々に怪しくなっていく和葉ちゃんの変異に動揺しすぎてしまい医者としての対応ができない。

 

「和葉ちゃん!」

「い――っ! いやああああぁぁああぁああああああぁああああぁぁ――っ!!」

 

 落ち着かせようと肩を掴んだ瞬間、今まで聞いたことのないほどの声量で叫ぶ和葉ちゃん。俺の手を振り払い、壊れたように呻き声を上げると、見えるものを拒絶するかのように目を覆い隠す。

 

「あ……あ、あぁ――う、ぐぅ……」

「――っ!! 何をしてるんだ!!」

「ぎっ、や……あぁぁああああ――っ!!」

 

 指の動きから彼女が次に起こす行動に気づき、止めようとしたが遅かった。ちゅぷ、と生々しい音と共に指を自分の眼窩に潜り込ませていく。

 

「ひぃっ……ぎ、いいぃっ!」

「和葉ちゃん!!」

 

 彼女の手を取って行動を止めるが、その手は真っ赤に染まり、赤いゼリー状の球体を摘んでいた。

 

「か……ずは、ちゃん……」

「あ、はっ、は……先生、い、嫌ぁ……何で、何で私の……“眼”を抉る、の……? ひっ、ひひ、は……あは……」

「何を……言ってるんだよ……和葉ちゃん、しっかりするんだ……」

 

 歪んだ嗤い声を上げる彼女に俺は情けない言葉しか発することしかできなかった。突然のこの行動は何なんだ……何が起こったんだよ。

 

「あはは、あはっ、ひっ、ひひひひひ――」

 

 自身の意識が失われるその時まで彼女はただただ嗤い続け、そんな彼女を俺たちはただただ見ていることだけしかできなかった。

 

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 彼女の目が見えるようになり、彼女の心が壊れてしまったあの日から一月ほどが過ぎた。事態の異常さに警察が介入してすぐに地下室に監禁されていた少女たちと手術室の様に俺は連続殺人事件の犯人として拘束され、今は留置場で放置されていた。

 

 その後のことは新聞や裁判で俺を弁護することになった弁護士からの情報だが、あの後、和葉ちゃんは意識不明となり、そのまま帰らぬ人となってしまったら……とのことだ。何故あの時、彼女はああなってしまったのか……医者としての視点から考察してもいまだに原因がわからない。

 

 和葉ちゃんのいない世界に虚無感しか感じなくなった俺は、弁護士の人から監禁されていた少女たちや和葉ちゃんの現状を聞かされても頭に入ってこなかった。

 

 その夜、他に誰もいない留置場で俺は身体を横たえていた。コンクリートの上に申し訳程度に敷かれている擦り切れた薄布では到底寒さを凌げるはずもなく、俺は寒さと眠たさで意識を朦朧とさせながら身体を縮こませていた。

 

 ――――、――。

 

 死刑にするなら早くしてくれと虚ろな頭でそう願う。裁判なんて回りくどいことをしないで遺族が求めているようにさっさと電気椅子でも絞首刑でもやってくれ。

 

 ――せ――――――……ぃ……。

 

 記憶を手繰り寄せ、蘇る記憶は陽だまりの下で彼女の手を握りゆっくりと歩いている時にふと鼻を擽った彼女の柔らかな香り。肌寒くなった夜、消灯前に温かなココアを持っていき、それを美味しそうに飲んで漏らす吐息。病気が治せず悲嘆していた俺の手を握り締めて励ました彼女の温もり。

 

 ――――んせい……せ――い……。

 

 戻らない過去を振り返っているからだろう、先程から聞こえてくる、彼女によく似た声はきっと、懐かしさのあまりに窓から入る隙間風の音を俺の脳が誤って彼女の声と認識しているんだろう。風の音は彼女の声になり、だんだんと俺に近づいてくる。

 

 ――せんせ、い、起、きて――く……さ、いぃ……。

 

 耳に吹きかかる“彼女”の声に、泥酔した時の感覚の状態で重い目蓋を開く。ぐにゃぐにゃと揺れる薄暗い視界に映りこむのは、病院服に身を包み、俺にゆっくりと手を差し伸べる"彼女"の姿だった。

 

 …………ああ……夢、なんだな。

 

 虚ろな思考は現実と空想の間をさ迷う。だけど、もう見ることはない“彼女”の姿をまた見ることができ、俺の空っぽな心はぎゅぅ、と切なく締めつける。

 

「あ……か、うは……ゃん」

 

 呂律の回らないまま彼女の名前を呼び、俺も手を伸ばす。触れた“彼女”の手は氷のように冷たく、俺自身の熱を奪うほどだった。どうせ夢なら温もりも再現してほしかったが贅沢はいうまい。

 

 先生、わ、私……せんせ、いに……言、いたいこと、が……――。

 

 途切れ途切れになりながら言葉を紡ぎながら“彼女”の手は俺の手から離れ、ぺたぺたと顔に触れてくる。

 

 ああ、いつの日かこんなことをしたこともあったな。

 

 思い出そうと目を瞑る俺の目蓋に“彼女”の指先が触れる。力強く押されて入るが、混濁した意識の中で痛みはなく、圧迫感しか感じられなかった。

 

 ――そういえば……今俺が見ている“彼女”はどんな表情をしていたっけ……?

 

 

 思い、目を開けたが、もう俺の目には何も映ることはなかった。

 

説明
好きになった患者を助けるために奮闘する医者が病んでいくお話。

高校の時に設定考えたけど、当時は断片的にしか話がかけなかったのを書き直して纏めました〜
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