有沙
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「え、なんて?」と有沙は言った。

 長い並木道を二人が並んで歩いていた。時折冷たい木枯らしがやってきて、足下の落ち葉を散らしていった。俺は「だから、なんで人は恋をするのかなって」と繰り返した。

 今となっては思い出すのも恥ずかしい。付き合いたてでヘリウムのように浮かれていた俺は、何か気の利いたことを言いたい一心で先のセリフを述べたのだった。激しく後悔した。

 有沙は「佐藤君って意外に哲学的な事言うんだねえ」「もしかしてロマンチスト?」などと俺をさんざんからかってから、さっと前へ進み出て、後ろで手を組み、それからゆっくりとターンして上目遣いにはにかんでみせた。揃えられた前髪が揺れた。

「頭でっかちな君に、私が教えてあげよう。どうして人が恋をするのか――」

 そのとき一陣の西風が吹いてきて、俺は目を閉じた。

 

 あれから一年近くが経つ。

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一日目【九月十二日(木)天気:晴れ】

 この日は抜けるような秋晴れだった。贔屓の作家が新刊を書き上げたというので、俺は松屋で遅めの夕食をすませてから書店へ向かった。すると既に売り切れていた。気を取り直し二軒目三軒目へと自転車を走らせたが、どこも同じだった。しょぼくれて帰路につこうとする背中に「おい」という声が投げられた。俺は振り向いた。鶴巻だった。

「よ。偶然。なにしてんの? 本? そっか。へえ」

 彼は軽薄な茶髪を風になびかせ、大して興味も無さそうにそう言った。それから「一杯飲みにいこう」と俺を誘った。俺は快諾した。秋風に吹かれ、急にアルコールが恋しくなった。俺と鶴巻は連れ立って新橋にあるスタンド・バーに入り、それぞれラムコークとウイスキーを注文した。

「お前ウイスキーばっかり飲むよな。そんなに好きか」

 俺が言うと、鶴巻はグラスを回しながら「そりゃ好きだから飲むんだろ。それ以外に理由があるの?」と返した。

「女にモテるため」と俺は言った。

「そんなんでモテたら苦労しないから」

 あきれたように首をすくめる鶴巻だったが、実際、こいつは女をつかまえる苦労などしていないのだから、少し可笑しかった。いわゆる色男なのだった。別に俺だって自分の見た目がそこまでひどいとは思わないが、しかし奴の整った目鼻立ちやスラリと伸びる長い手足、そんなものを見ていると、なんだか自分がいかにもつまらない、取るに足らない人間に思えてくることがあった。見る者にそう思わせてしまうだけの魅力があった。

 薄暗い店内に客はそれほど多くはなかった。時折水の流れるようなごぽごぽという音が微かに響いて、あとは緞帳を垂らしたような静けさが我々を包んでいた。鶴巻が片肘をついてグラスを回すと、からん、ころんという小気味よい音が鳴った。実に絵になる仕草だった。

 しばらくは無言で二杯目、三杯目とつづけてアルコールを摂取した我々だったが、ふと鶴巻が

「女ってさ。なんか、海みたいなにおいしない?」と言った。

「海?」

 ああ、海だ――。そう言って彼はにやりとした。

「海岸の近くに行くと、潮風に乗って海のにおいが来るだろ。あれだよ。磯のにおいっていうの? ……なんとなく生臭くて、塩辛くて、いろんなイキモノが入り交じってるみたいでさ。ほら、母なる海っていうだろ? 産めよ増やせよ孕ませよ、ってね。違うか。まあとにかくさ。香水とかシャンプーとかが混入する以前の女って、たいてい、そんなにおいがする気がするんだよ。海のにおい。その点男なんてイカ臭いだけなんだからどうしようもない。そらイカと海じゃあな。男が女に勝てないわけだ」

 俺はへえ、と相槌を打ってグラスを煽った。下品だ、と言ってやろうと思って、やめた。かわりにコースターを指でいじった。ためしに夏の砂浜をイメージしてみた。

 俺はまだ幼い妹の手を引き、ビーチサンダルを放り出して波打ち際まで進む。すると感じるのは、海水の意外なほどの冷たさ、熱を持った砂との対比。足の裏の砂が削られていく感覚がして、少しくすぐったく、あたりを見回し、そしてあの、むせ返るような潮のにおいが蘇ってきた。

 記憶の中の海ははっきり言って汚かった。ぐじゅぐじゅと泡が湧いていて、わけのわからない海藻が足にまとわりついた。

「よくわかんない」と俺は言った。

 鶴巻は「むむ」と言って宙を仰いだ。

 そのとろんとした目つきを見るかぎり、既にできあがっているようだった。しばらく話題を探すように視線を彷徨わせていた彼だったが、おおそういえばといったふうにこちらを向いて、少しためらい、

「今日、有沙のこと見たよ」と言った。

「道端にしゃがみこんでてさ。あれ、またわけわかんない虫でも採ってんのかね?」

「かもな。あいつわけわかんないとこあるし」

 俺がそう言うと、鶴巻は「だよなあ」と呟きながら何杯目だかのグラスをぐいぐい傾けた。

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二日目【九月十三日(金)天気:曇りのち雨】

 一限から講義があった。寝ぼけ眼を擦り擦り、やっとの思いで寝床から這い出すと、刺すような侘しさが胸を巻いた。俺は「さみい、さみい」と口に出しながら、熱いシャワーを浴びた。午前の講義は解析学の演習だった。俺は偏微分を解説する教授の禿頭を眺め、眠気をかみ殺してノートをとった。

 講義が終わり学食で秋刀魚の塩焼き定食をかきこんでいると、おぼんに定食をのせた美咲さんがやってきて、斜向かいの席を顎でしゃくり「ここ、いい?」と聞いた。俺は「勿論」と言った。コップを取り、水を注いで手渡した。美咲さんは「ありがとう」と言った。「何食べてるの?」

「秋刀魚の塩焼き定食です」と俺は答えた。

 おお、秋らしくていいねえと美咲さんは言って、すぐに自分のものにとりかかった。豚カルビ定食だった。

「こうして佐藤くんと向かい合うのも、微っ妙?に久しぶりな気がするんだけど。私の気のせいじゃないよね」

「そうですね、このところサークル行く余裕も無かったので」

「まあそれは仕方ないとして」と美咲さんは言った。「そろそろ打ち上げの日取り決めちゃいたいんだよね。学祭の。都合のいい日教えて下さいってメール、届いたでしょう」

「あ」

 完全に忘れていた。

「すみません。今、確認します」

「やあ、そこまで急いでるわけじゃないから大丈夫なんだけどさ。一応はっぱかけておこうかな?ってかんじで」

 急いで手帳をめくり始めた俺を制し、美咲さんは微笑んだ。

「じゃあ来週中にお願いね」

「はい」

「それと汐留サンの都合も聞いておいてくれる? あの子とキミだけなの。メールの返事もらってないの」

「あ、そのことですが」

 俺は茶碗に残った最後の一かけを口に放り込み、ひとつ咳払いをしてから「今回は美咲さんのほうからあいつに連絡してもらえませんか」と言った。

「どうして?」

「いろいろありまして」

 言葉を濁す俺に対し、様々な思いをのせた視線を送る美咲さんだったが、俺が黙っていると、やがて「了解」と言った。

「すみません」俺は頭を下げた。

「いやいや、もとはこっちの仕事だしね。……汐留サン、たしか理学部だったよね? 一回行ってみたほうがいいかな。なにせ、あの子にメール送っても五回に一回くらいしかかえってこないのよ。どっかの誰かさんと同じで」

「重ね重ね、すみません」

 俺が言うと美咲さんは「あはは」と言って笑った。「似た者同士、ってやつよね。お似合いよ。きっと」

 別れ際、美咲さんは目を細めてこんな事を言った。

「少し変わった子よね。あの子。汐留有沙サン。ほら、前にサークルで闇鍋したことあったじゃない。それぞれ具材持ち寄ってさ。あの時はまだキミも彼女もぴかぴかの一回生だったのよね。覚えてる? きみはまだ汐留サンの背中を追っかけてて、それはもう誰がどう見てもバレバレで、なのに頑張って隠した気になってるらしいところがもう可愛くて可愛くて……あー、ごほん。でさ。私、一応上級生だから具材チェックしてたのよ。賞味期限とかね。そしたらね、汐留サンが持ってきたの見てびっくりしちゃった。彼女、牛筋肉とイナゴの佃煮持ってきてたのよ。牛筋はわかるけど、イナゴよ。イナゴ。見たことある? 鍋にこれはないでしょ、って言ったらね、彼女、『これが意外とおいしいんです。だまされたと思ってひとつ』なんて言うの。味はともかく見た目が強烈だからって結局ボツになったんだけど。そしたらあの子、お終いまでずうっとひとりで佃煮かじってるの。体育座りで。カリカリカリって。おかしいでしょう? まあ、個性的で変わってるやら可愛いやらで上級生には人気だったみたいだけど。実際小さくて可愛いし。小動物みたい。私も好きよ。彼女」

 俺が立ち去ろうとすると、美咲さんは「またメールするねー」と言ってひらひら手を振った。俺は聞こえなかったふりをしてそのまま足を進めた。三限開始を告げるチャイムが鳴った。

 帰りに書店に寄ったところ、もう例の新刊を入荷しており平積みになっていた。海辺のカフカという表題だった。購入し店を出てしばらくすると、暗雲が低くたれ込めてきて、やがてまとわりつくような小糠雨になった。俺は思わず身震いした。傘は持っていなかった。せっかく買った本をだめにしてしまわぬよう、俺は全速力でペダルを踏み込んだ。

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三日目【九月十四日(土)天気:雨】

 鶴巻と酒を飲んだ。

「なんでそんなにモテたいわけ?」と鶴巻は言った。

「べつにそんなこと言ってないぞ」と俺は返した。

 鶴巻は「そうだっけ」と言ってウイスキーのグラスを煽った。都内にある鶴巻の自室でアルコールを飲み始めて数時間、彼の記憶は相当あやふやなものになっているようだった。どうやら我々がアルコールを酌み交わすときにはどうしたって浮ついた話題がついてまわるらしい。

 昨日から続く霧雨は尚も止む気配を見せず、窓の外の景色は皆一様にぬらぬらとした光沢を放っていた。湿気をたっぷり含んだ空気が体中にまとわりついて、俺は陰鬱な気分になった。息が吸いづらい。こめかみがきりきりと痛むようで不快である。溜め込んだ不安を晴らすように俺はハイペースで酒を飲んだ。

「そんなに一気に飲んで大丈夫か?」と鶴巻が聞いた。

「問題ない」俺は言った。

「酒は百薬の長、って言葉知ってるだろ。少しくらい多めに摂取したってかまわないだろうよ。何、仮に急性アル中で死んじまっても俺に後悔はないぜ。本当さ。嘘じゃねえ。今ここで死ねるなら本望だね。若い身体で死ねるなら本望だね。ツァラトゥストラだって言っている。『ちょうどいい時に死ね!』ってね。読んだことあるか? ああ、ちょうどいい時に死にてえ。お前も読め、飲め。そしてちょうどいい時に死ね」

 俺が差し出したワインボトルを受け取りながら、鶴巻は「吐くときはトイレで頼むよ。マジで」と肩をすくめた。

 座卓を囲み我々が交わした議論は多岐にわたった。お互いいっぱしの評論家気取りであった。将来の展望から始まり、今年芥川賞をとった小説の批評、世界情勢の分析、宇宙誕生の謎など。文学、科学、哲学、論理学、経済学。鶴巻がデカルトの方法的懐疑について語れば、俺はシンクロトロンの原理とその可能性について考察し、鶴巻が科学文明のもたらした環境破壊を指摘すれば、俺は近代作家の自殺について弁論を垂れた。空虚な妄想を垂れ流すのはいつだって楽しいものである。そこには何の保証も責任もない。実に愉快だ。痛快である。やがて酒も尽きた。

 しばらくは「空の杯、空の杯」と言ってはしゃいでいた我々だったが、丑三つ時を回る頃にはその元気もなくなっていた。とろとろした眠気がまぶたの裏に張り付いて剥がれなかった。

 話の接ぎ穂を失った俺は、ためしに「『万物はメタファー』ってどういう意味?」と聞いてみた。深い意味は無かった。

「メタファー……?」

「ああ」と俺は言った。

「この間読んだ小説で出てきたセリフなんだけど、なんか意味わかんなかったからさ。お前なら分かるかと思って」

 鶴巻はふむ、と言った。それから「『メタファー』の意味は?」と聞いた。俺は即座に「**」と答えた。

「それくらい辞書で調べられるさ」

「まあそうだな」

 鶴巻はしばらく宙を凝視してから、言葉を選ぶように言った。「万物には『解釈』があるってことじゃないのか?」

「なんじゃそりゃ」

 俺が「もう少し具体的に」という要請をすると、鶴巻は次のように言った。

「あるところに一匹の犬と猫がいる。二匹は一緒に散歩をしていたのだけれど、交差点に差し掛かったところで猫だけが飛び出し車に轢かれて死んでしまった。なぜかというと、犬は赤信号を識別できたが、猫には識別できなかったからだ。

 簡単に言えば、そういうこと」

 

「むずかしいなあ」と俺は言った。

「お前が言ったことだろ?」

 鶴巻はにやりとした。

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 こんな本を読んだのを思い出した。

 ある娼婦の幼少期を綴った物語だった。

 東京のとあるアパートに、女の子――エリとお母さんが暮らしているのだけれど、お母さんは実は継母で、エリは十歳になるまでその事実を知らされなかった。エリがそれを知ったのも友人の指摘によるものだった。お母さんはもちろんエリを愛していたし、エリにもそれはわかっていたのだけれど、突然突きつけられた真実に怯え、混乱し、エリは魔法のカガミに問うのだ。

 お母さんは本当に私のことを愛しているのだろうか、と。

 カガミは少し考えてから「わからない」と答える。

 エリは半ベソをかいて「なんでそんなこと言うの」と言う。

「だってママ、あんなに優しいのに」

「お母さんが君に優しいのは、君がいい子でいる時だけだろう? 悪いことをした時には叱るじゃないか。……俺にはお母さんの心はわからないから、俺が提示するのはあくまで一つの可能性だよ。お母さんは、確かに君が好きなのかもしれない。でもそれはきっと、いい子である君が好きなんだ。君の中にいるいい子が好きなんだ。そうでなければ、エリ。君という自分の夫の娘を愛しているにすぎないんじゃないかと、俺は思う」

「でも、でも、悪いことをしたときにお母さんやお父さんが怒るのは、それは私を愛してるからだって、先生が……」

「それは同じことだよ、エリ」

 エリがしゃくりあげるのを遮りカガミは続ける。

「悪いことをしたときに叱ることと、良いことをしたときに褒めるのは同じことさ。コインの裏表だ。お母さんはエリにいい子になって欲しくて叱るんだ。いい子になって欲しくて優しくするんだ。それか、単にエリがいい子でいることが嬉しくて優しくするんだ。それは例えば、好物を前にして人が微笑んでしまうのと同じことなんだ。果たしてそれは愛と呼べるのだろうか?

 或いはお母さんが、どんな我が子も愛していると仮定しよう。エリがどこにいても、何をしていても、お母さんはエリを愛している。叱ることはあれど、それは愛の鞭だ。お母さんはエリを愛している。エリの見た目がどう変わろうとも、内面がどう変わろうとも、――たとえエリがまったく別の誰かに変わってしまおうとも、その『エリ』を愛し続ける。……わかるかい? これはもはや君を愛しているのではなくて、君という概念を愛しているだけだということが。それは『我が子』という概念であり、『世間的に愛さなければならない対象』という概念でもある」

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四日目【九月十五日(日)天気:晴れ】

 前日は鶴巻の部屋に泊めてもらって、日曜は昼過ぎから鈍行を乗り継ぎ新橋へ出かけた。昨日とは打って変わってからりとした天気だった。現地で友人二人と落ち合い、計四人。とりあえずは昼食をとることにした。

 地下街にあるレストランに入る。昼時よりやや遅いせいか広い店内には空席が目立っていた。俺はきのこのオムライスを、鶴巻はポークカレーと生ビールを注文した。女子二人、志保美と加奈子はよくわからないパスタのセットを注文した。

「昼間からお酒? 鶴巻君ってそんなにお酒好きなわけ?」

「いや、昨日こいつと飲み過ぎてさ。迎え酒ってやつ」

 鶴巻が答えると二人は「うわーアル中だー」などと言ってきゃいきゃいはしゃいだ。俺が「煙草吸っていい?」と聞くと、鶴巻が「おう。べつにいいよね?」と言った。二人は首肯した。

 吸い始めて少しすると、料理が運ばれてきた。各々食事を開始した。オムライスは想像よりはるかに不味かった。

「けどさ」サラダをつついていた志保美が言った。「佐藤君ってタバコ吸うんだね。なんか意外っていうか……ねえ?」

「うん。なんか真面目なカンジのイメージだった」

「人が真面目じゃないみたいな言い方やめてよ」俺は卵をすくいながら言った。「煙草吸う奴にも真面目な人間はいるし、吸わなくても不真面目な奴はごまんといる。例えばこいつ」

 そう言って俺は鶴巻を指差した。

「えっ、そうなの」

「ああ。この色男が一体何人の女の子を泣かせてきたと思う? 十や二十じゃきかないぜ。こいつのために流された涙を全部集めたらちょっとしたプールができるって話」

「ええ? いくらなんでもそれは嘘でしょう」言いながら加奈子が鶴巻を見やった。「もちろん」と鶴巻は言った。「せいぜい湯船につかれるくらいだね」

 二人は声を上げて笑った。

「そうなんだ。今は彼女とかいないの?」

 興味津々といった様子で加奈子が聞いた。鶴巻が「いるよー」と返すと、がっかりしたみたいに「なんだ」と言った。実にわかりやすく落胆していた。次いで「佐藤君は……ええと、確か汐留さんとつき合ってるんだっけ。どう? 最近」と言った。

「あ、加奈子っ」

「ん?」

 慌てた様子の志保美が急いで何か耳打ちすると、加奈子ははっ、とした表情になって、それからすぐ「ゴメン」と謝ってきた。

「全然」俺は笑って手を振った。

 談笑しながらのろのろ箸を進め、全員が食べ終わる頃には午後三時をまわっていた。

 これから何をしようかという話になって、鶴巻が「秋物の服をひやかしてまわらないか」と言い出した。異論は出なかった。

 表へ出ると、さわやかな空気だった。

 ショップへ向かう途中、加奈子が「さっきはごめんね。私知らなかったからさ」と身を寄せてきた。シトラスの匂いがした。

 加奈子がでもね、と続けた。

「今さらこんなこと言うのもなんだけど。佐藤君、正直、別れて正解だったと思うな。汐留さんてあんまいい印象ないし」

「そうなの?」

 俺は相槌を打った。前を歩く鶴巻と志保美はまた別の話をしているようで、時々笑い合っていた。

「個人的にだけど」と加奈子は言った。

「八方美人、ていうの? 誰彼かまわずにこにこしちゃってさ。こっちがなんか言うと、ああわかります?とか言ってすぐ話し合わせてくるっていうか。なにあれ。全然そう思ってないの丸わかりなんだもん。こないだもね、少し真面目な話があって汐留さんのところに行ったのよ。一度きちんと話し合おうと思って。そしたらあの子、いつまでたってものらりくらり話の論点ずらすばかりでぜんぜん私と向き合おうとしないの。私のこと見てないの。涙が出そうになったわね。困ったみたいな表情でおどおどして、馬鹿みたいに下手に出て、それでどうにか波風立てないようにしてくるわけ。そういうときのあの子の目、見たことある? 鳥肌モノよ。全然笑ってないの。こっちが生身で話しかけてるのに、あの子はそれを別室でモニタリングしながらスピーカーで返事をしてくるの。私そういうの、ほんと・きらい」

 加奈子はそう言って顔をしかめた。

 そのあと表通りのショップをひととおり巡ってから近くの居酒屋に行って、夕飯をかねて飲み会をした。

 夕闇に沈み始めた街とは対照的に暖簾の向こうは明るい光に満たされ溌剌とした声が飛び交っていた。店側もてんてこまいの大忙しといった風で、両手に中ジョッキをかかえた店員と幾度もぶつかりそうになった。

 鶴巻がジョッキを片手に「酒が飲みたくなる欲求は性欲に似ている」という論を展開した。

「どちらも欲に駆られているうちはそれ以外考えられなくなる。満たされているうちは心地いいが、後に残るのは空しさだけだ。男なんて皆生まれながらのアル中みたいなもんさね」

「お酒すきだねえ」と半ばあきれ気味に志保美が笑った。

「ほんとにね」と言って加奈子も笑った。

 帰りの電車の中で有沙を見かけた。車両の一番前、ドアの近くでつり革をつかんでいた。

 緑のカーディガンに白いブラウス、下はワインのスカート。空いた手には太宰治の人間失格を持っていた。何が面白いのか、時折吹き出しながらそれを読み進めている。こちらには気づいていないようだった。あえて気づかせる必要もなかったので、俺は寝たふりをして過ごした。

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 キャンパス東のバス停に降り立ったとき、あたりは深夜の闇に包まれていた。目の前には何だかよくわからない畑が広々と横たわり、横には使われなくなって久しい用水路が走っている。水路は町中へと向かう。遥か向こうには黒々とした山嶺が見て取れた。雲間から丸い月が顔をのぞいて、流れる灰色の雲の影を映し出した。首筋をなでる大気は湿っていた。静かな夜だった。

 俺は真っすぐ帰る気にもなれず、用水路に沿って足を進めた。ときどき車が追い越していった。両側に立つ並木の葉がライトの光を浴びてくっきりと浮かび上がるのが見えた。

 時折、ふらりと横に伸びた路地へ入り込んだ。そこには左右を板塀に挟まれた路地があり、廃屋を迂回する小道があり、褐色のタイルが敷かれている路地があった。ずうっと先のタイルが途切れたところに、自動販売機が二、三台並んでいて、路地へ弾けるような光を放っていた。中華料理屋の裏通りにあたる。俺はホットの缶コーヒーを一つ購入した。手のひらで転がすうち丁度いい温度になった。吐息が白いもやになって宙に浮いた。

 路地の突き当たりは民家の玄関になっている。右手奥にある急な階段を下り石塀に沿って進んだ。真っすぐに行くと大学中央に抜ける並木道があり、北へ折れれば月の見える丘に上る。背の高い樹木が左右から多いかぶさるように広がっているせいで、枯れ葉の間からのぞく空は非常に狭かった。遠くで大学本棟の明かりが煌めいていた。頭上では、一定間隔で立てられた街灯が申し訳程度の光を振りまいている。俺の影も一定間隔で俺に追いつき、ゆっくり追い越していった。

 そのうち自分が無意識に歩幅を狭めていることに気がついて、さすがにセンチメンタルな気持ちになったりもした。俺はことさら落ち葉を踏みならすようにして歩いた。途中気配を感じて後ろを振りかえったが、誰もいなかった。

 有沙とつき合い始めの頃、こんな風によく二人で夜の町を徘徊したものだった。

 湿気を帯びた夜風が雑木の葉を揺らし、有沙のロングスカートを揺らし、最後に俺を通り抜けてゆく。集中すると、ふっと海のにおいがした。

「え、なんて?」と有沙が言った。

 長い並木道を二人が並んで歩いていた。時折冷たい木枯らしがやってきて、足下の落ち葉を散らしていった。俺は

「だから、なんで人は恋をするのかなって」と繰り返した。

「へえ。佐藤君ってそんなこと考えてるんだ」

 有沙が面白がるように言った。「案外ポエマーなの?」

「ちがうちがう。これはほら、もっと真面目な話」

 俺は一つ咳払いをしてから言った。

「たとえばさ、ほかの動物だったらパートナーを決めるのにわざわざ恋愛なんてしないわけじゃない。犬とか。猫とか。発情期とかがあって性欲にのみに依ってパートナーを選ぶ。シンプルだ。それにひきかえ、人間のそれは実にまわりくどいのだ。相手と出会って互いに引かれ合って、恋に落ちて、そして生涯一人だけのパートナーを決める。その間にいろいろな苦しみだって発生するだろ。愛した人を手に入れられない苦しみ、同性への嫉妬や羨望、心に決めたパートナーの裏切り……とても非生産的じゃないか。中にはそれで自殺する奴だっているんだぞ。自然界の頂点に立つ人類がこんな子孫繁栄システムを採用してるだなんて、これは不思議なことだと思わない?」

 黙って聞いていた有沙だったが、俺が喋り終わるか終らないかくらいで

「あは、きみ、面白すぎ。あははは」と笑い始めた。おかしくてたまらないといったふうに、げらげら笑い始めた。

 俺は二の句が告げず憮然とした。

 しばらくは「案外哲学的なんだねえ」「もしかしてロマンストさん?」と俺をからかっていた有沙だったが、不意にさっと前へ進み出て、後ろで手を組み、それからゆっくりとターンして上目遣いにはにかんでみせた。揃えられた前髪が揺れた。

「頭でっかちな君に、私が教えてあげよう。どうして人が恋をするのか――」

 そのとき一陣の西風が吹いてきて、俺は目を閉じた。唇に温かい感触が広がった。そして有沙が言った。

「人はね、人を愛するために恋をするんだ」

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まとめ【九月十六日(月)晴れ】

 有沙は酒が好き。特にラム酒が好き。「蛇口をひねればラムが出てくればいいのに」と言う。ラムをセピア色の宝石と言う。あと変な虫が好き。イナゴとか。

 俺にイナゴの佃煮を食べさせようとする。逃げると「佐藤君は見た目だけで判断を下すような人間じゃないって、私信じてるから」と俺を脅す。ニーチェ全集を愛読する。特にツァラトゥストラが好き。あと村上春樹が好き。太宰治が好き。人間失格が好き。科学が好き。酒がまわるとシンクロトロンの原理とその可能性について考察し始める。宇宙を創造したいと言う。嫌いなものは、きのこ。それにメール。雨。特に霧雨が嫌い。傘をさしても横から入ってくる、と言って口をとがらせる。何か質問をすると、はにかみながら視線を流して考える。寝起きに鼻を埋めると海のにおいがする。えへえへえへ、と妙な笑い方をする。それを指摘すると「もう佐藤君の前では笑わないから」と言ってすねる。大きなくしゃみをする。そのあとで鼻歌をうたう。リンゴをかじろうとして顎がはずれそうになる。傘をくるくるまわす。落ち葉と一緒に蝉の死骸を踏んで悲鳴を上げる。歩くのが速いと文句をつける。髪を切り過ぎたと言って落ち込む。周囲から「変わった子」だと言われるから、自分でも無意識のうちにそう見られるように振る舞っているところがあるのかもしれないと言う。大学の人間関係について悩む。

 他人から好かれるのが怖い、と言う。他人から期待されることも怖いと言う。でも嫌われるのはもっと怖くて、つい他人の機嫌を取ってしまうと言う。他人を笑わせるのが上手。けれどそれが終わってから、とても生きてはいられないほど惨めな気持ちになることがあると言う。人を試すようなことをすることがある。一見笑っていても、よく見ると泣きそうな表情をしていることがある。自分は最低な人間だ、と言う。「私みたいな女を好きになるなんて、佐藤君も人を見る目ないよねえ」と言って笑う。朝起きた時と夜寝る間際がたまらなく悲しいと言う。一回死んで男の子に生まれ変わりたいと言う。

 有沙は俺の半歩後ろを歩く。落ち葉を蹴飛ばしながら歩く。俺は振り返って話しかける。有沙は笑う。有沙は驚く。有沙は怒る。有沙は怯える。悲しそうに瞳を逸らす。秋空の下、泣きはらした目で俺を見据え、最後の言葉を口にする。

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 俺は日記帳の一日目からまとめまでをコピーしてホチキスでとじて、『万物=**についての考察』という表題をつけて鶴巻に提出した。鶴巻はざっと目を通してから、「おお。何だお前、結構分かってるんじゃん」と言って笑った。それからしばらく彼と話をした。それで、人が恋をする理由がわかった。

 そして人が酒を飲む理由も、男に性欲がある理由も、女が体を売る理由も――無数の雑菌がうごめくこの地表を人が何食わぬ顔で闊歩できる理由も、或いはテレビの向こうでどれほど惨たらしい事件が起きようと平然としていられる理由も、だいたい同じなのだとわかった。

 

説明
人がどうして恋をするのか考えました。
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