そして彼女は灰になった 下
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土曜日。からだからニンニク成分が完全に排出された日であり、

幸の誕生日でもある。

 

この間借りた借金はなかなか返せないでいるけれど、

あの時約束したケーキを作ってやることにした。

 

英里香との逢瀬の邪魔をしたやつの誕生日など祝ってやるものか!

と、思っていたはずなのにだ。

 

これはもう何年も前からやっている慣例だ。

いつの頃からか、幸の誕生日には俺がケーキを焼いてプレゼントしてやることになっていた。

それをあいつは楽しみにしてくれているわけだし、

俺がやらなきゃあいつはケーキのない誕生日を過ごすことになってしまう。

それはいくらなんでも可哀想じゃないか、

ということで止められずに続けている。

 

休みだというのにわざわざ朝早くから作ってやったわけだ。

 

「今日は幸ちゃん家に一人なんだって。

だから翔がご飯作りに行ってあげてくれる?

本当はお母さんが頼まれていたんだけど、用事ができちゃって」

 

冗談じゃない、俺の大切な休日をそんなことのために潰せるか!?

と言いたいところだった。

 

「お小遣いあげるから」

 

その言葉を聞くまではね。

 

娘の誕生日よりも大切な用事ってなんなんだよ!?

と、聞きたいところだったけれど、聞く相手がいなかった。

 

まさか本人に聞くわけにはいくまい。

 

家の親がこそこそ話していたのを盗み聞いたところによると、

昔から俺を苛めまくってくれた憎々しい幸の兄貴が、

一人暮しをして女を部屋に連れ込んだ挙げ句、

妊娠させてしまったとかでその詫びを入れにいくことになったらしい。

 

そうか。向こうはさぞかし修羅場だろうに。

俺を苛めてくれた酬いだ。せいぜい苦しむが良い!

 

そんなわけで幸は家に一人だった。

 

「約束通りケーキ作ってきてやったぞ」

 

誕生日おめでとう、なんて照れ臭くて素直に言えやしない。

 

とりあえずケーキは置いておいて、まずは幸に飯を作ってやらなければならない。

 

「お前も自分の飯くらい自分で作れるようになれよな?」

 

などと呟きながら台所に立った。

 

幸もインスタント食品にお湯を注ぐとか、

冷凍食品を解凍するとか、

ウィンナーを生焼けにするとか、

買ってきたものを弁当箱に詰め込んで自分の手作りのように見せる演出だけは得意なのだが。

 

自分の家の台所でないのに勝手がわかるのは、

それだけここで料理をする機会が多いからに他ならない。

 

「彼氏ができたら手料理でも作ってやろうとか思わないのか?」

 

「べつに彼氏なんていらないわよ。翔がご飯作りに来てくれたらそれで十分でしょ?」

 

「言っておくけど、俺は好きで飯作りにきてやってるんじゃないからな!」

 

「わかってるわよ。積もりに積もった私からの借金の利子さえも払えないって言うから、

心やさし私が手料理ごときで許してあげているからでしょ?」

 

それは幸なりの脅し文句ってやつだ。

逆らったら借金の一括返済を迫られるに違いない。

支払えない場合は、俺のマンガにゲームにフィギュアの差し押さえを行うという

強行手段さえも辞さないつもりでいやがる。

 

だから、俺はそれ以上口答えができなかった。

 

「私も手伝う」

 

滅多に使われることがないと思われるエプロンを着け、

俺の隣に立った。

邪魔になっているとも知らず、手伝っている気になりやがるんだから困ったものだ。

 

今日は二人だけだと言うことをすっかり忘れて、

例年通りの大きめのケーキを作ってしまった。

二人で食べきるにはやっぱり多い。

 

とりあえず昼食後に半分食べることにした。

我ながらうまくできたものだ。

 

「おいしい」

 

そう呟きながら、嬉しそうにケーキを頬張る幸を見ていると、

料理を作ってやるのもまんざらではないと思えてくる。

 

後片付けくらいは幸がやると言い出した。

 

俺はそんな面倒な事は好きじゃないから、

望み通り幸にやらせてやることにした。

 

夕飯までの間、俺は幸の部屋で時間を潰すことにした。

夕飯だって俺が作ってやらなきゃならないからだ。

 

何か時間を潰せるものはないかと本棚を眺めてみた。

 

適当に数冊手に取ってみる。

少女趣味なマンガ、

ファンタチックな小説、

あと、少女向けファッション雑誌。

どれも俺が楽しめそうなものじゃあない。

 

けれど、表紙の絵的に俺が許容できたものは小説しかなかった。

他のものは表紙を見ただけでページをめくろうという気にさえならなかった。

 

てきとうな小説を手に取って床に転がった。

 

なるほど。

こんなのばかり読んでいやがるから、吸血鬼とか寝ぼけたことを口走りやがるんだな。

 

それは、自分はごく平凡な女の子だと思っていた少女が、実は吸血鬼だったという話。

ある日突然目覚めてから無性に生き血をすすりたくなり、

人間の理性と吸血鬼の本能の狭間で苦悩する話だったような気がする。

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休日だというのに珍しく早起きしてしまったせいでとても眠かった。

どこまでが本の中身でどこからが俺の夢なのだかわからなくなった。

そのまま眠ってしまったらしい。

 

目が覚めたのは、空が茜色に染まる頃。

幸の部屋に差し込む西陽が眩しかったから。

 

渋々開けた目に飛び込んできたのは幸の寝顔。

一瞬、俺は驚いた。

 

確か俺は幸の部屋で本を読んでいたはず…

と、意識を失う前までの記憶を辿ってみる。

 

それがどうして俺のすぐ目の前に幸の寝顔があるのか。

 

体を起こしてみればその理由もすぐにわかった。

 

俺の隣で、寄り添うようにして寝ていやがっただけだ。

 

けれどどうしてこんなところで寝ていやがるんだ?

と疑問に思わなかったわけではない。

自分のベッドだってあるというのに、

床で寝ていた俺の隣を選んだのはなぜ?

 

まるで子供を寝かしつけ、そのまま一緒に眠ってしまった母親のように、

すぐ目の前で寝ていやがったものだからびっくりした。

 

夏だというのに布団までかぶせてくれていたせいで、

俺はすっかり寝汗をかいてしまっていた。

 

それにしても、こんな風にじっくりと幸の顔を見つめるのは初めてかもしれない。

 

物心がついか頃から一緒にいたけれど、

今までこいつの顔を意識して見たことがなかった。

 

それは見る価値がないと思い込んでいたのかもしれない。

 

じっと見つめるなんて気恥ずかしくてなかなかできることではないけれど、

眠っているなら話は別だ。

 

ずいぶんと可愛い寝顔をしていやがるものだ。

けれど、無防備すぎやしないか。

 

「そろそろ晩飯の買いものにでも行くかな」

 

一人呟きながら立ち上がり、幸の部屋を出た。

 

近所のスーパーに向かってのんびりと道を歩いていた。

何を作ってやろうかな、などと考えながら。

 

「翔、待ってー」

 

背後で叫ぶ声がした。

 

振り返ってみると幸が走って追いかけてきていた。

 

「私も一緒に行く」

 

息を切らせながら言った。

 

「買いものくらい一人で行けるよ」

 

今回は、無駄な買いものは一切許されないのだ。

だって余ったお金はまるまる俺のお小遣いになるのだから。

幸のせいで余計な出費が増えることなどあってはならないことだ。

 

「嫌いなもの入れられたら嫌でしょ。荷物くらいもってあげるから」

 

「嫌いなもの?何だ、言ってみろ。食わせてやるから!」

 

幸はあからさまに嫌そうな表情を作って抗議した。

 

「どうしてわざわざ私の嫌いなものを食べさせようとするのよ!」

 

「好き嫌いなんかしてるから大きくならないんだぞ!」

 

「大きくならないって…私別に小さくなんてないよ?」

 

今度は不思議そうな表情を浮かべて言った。

どうやら身長の事だと思い込んだらしい。

 

「いや、十分小さいだろ?ペタン子なんだから。

でも嘆くことはない。まだ15才なんだからな。

知ってるか?夢と希望に栄養を与えてやると脂肪に変わるんだぞ」

 

「何言ってるのよバカ!!」

 

「それで、何が嫌いなんだ?」

 

う?ん、と少し考えてから答えた。

 

「コロッケかな」

 

「嘘を言うな、それはお前の好物だろ!

コロッケが嫌いなやつなんて聞いたことないよ!

普通、トマトとかピーマンとかコンニャクとかだろ嫌いなものの定番ってさ」

 

ちなみに、トマトもピーマンもコンニャクも幸の嫌いなものだ。

実は聞かなくても昔から知っていたのだ。

 

俺に嘘をついた罰として、今日の晩ご飯には三つとも入れてやろうと思う。

もっとも、正直に答えたところで俺の考えが変わったとは思えないけれど。

 

「翔って最低ね」

 

「何言ってるんだ?お前の好き嫌いを無くしてやろうという俺の優しさじゃあないか」

 

結局、幸はついてきただけで本当に役に立たなかった。

荷物をもってくれると言っていたけれど、

女に荷物をもたせて手ぶらで歩く男に向けられる世間のおばちゃんたちの視線は冷たいものだ。

 

幸のしたことといえば、俺をトマトとピーマンとコンニャクから遠ざけようと

邪魔していやがったくらいだ。

罰として泣くほど食わせてやろうと思う。

 

「いいか、俺が作ってやった飯を残すなんて絶対に許さないぞ!」

 

と念をおしておく。

 

「ねぇ、私たちってどんな風に見えるのかな?」

 

ぽつりと幸が言った。

 

「どうって、料理もできないダメな女のために、飯を作ってあげる優しい幼なじみじゃないか?」

 

そう答えてやったら、しばらく黙り込んでしまいやがった。

俺としては邪魔されなくてちょうどいいから、そのまま静かにしていてもらいたかったところだが。

 

「恋人同士に見えたりしないかな?」

 

それを聞いた瞬間、俺の体は激しい拒絶反応を示した。

 

なんておぞましいことを言いやがるんだ。

 

「それは困る、もっと離れて歩け」

 

そう言ったら、暗い顔をして本当に離れてしまいやがった。

不気味なくらいに沈んでとぼとぼと着いてきやがる。

 

だってしかたないじゃないか。

幸と恋人同士だなんて、考えただけで鳥肌がたつ。

 

幸の事は鬱陶しく思っていても決して嫌いではない。

でも男女の中になるなんて事は俺の本能が拒絶しているようだ。

言ってみれば兄弟のようなものだ。

 

そうそう、残ったケーキは夕食後にまた二人で食べることにした。

さすがに、ティーパックの紅茶くらいは幸でも入れることができるらしく、

俺はのんびりとテーブルでケーキが運ばれてくるのを待っていた。

 

その時、俺の携帯電話が鳴った。

 

英里香からだった。

 

「翔。会いたい。今から来て」

 

「えっ?今から?」

 

言いながら俺は時計に目を向けていた。

今、午後八時を過ぎたところだった。

 

「うん、お願い。来て」

 

「でも…」

 

今日は親に外泊するなんて言ってこなかった。

今さら急に言って許しが出るとも考えに難い。

寝静まった頃にならこっそり抜け出すこともできるのだけれど。

きっと、英里香と会ったら一晩は帰ってこられなくなるに違いない。

 

それに、これから幸とケーキを食べようとしていたところなんだから。

 

「嫌なの?」

 

それは少しきつい口調だった。

 

「わかった…」

 

俺に拒否することなんてできなかった。

あなたの代わりなんていくらでもいるのよ、

なんて言われてしまうんじゃないかと不安だった。

 

「じゃあ、待ってるわね」

 

電話を切ると、お盆にケーキと紅茶を二人分載せた幸が立っていた。

 

「あの人から電話?」

 

俺は声を出さずにこくりと頷いた。

 

「まさかこんな時間から会いに行ったりしないわよね?」

 

「ごめん…」

 

「断って!」

 

「なんで?」

 

「夜に未成年を呼びだすなんて、非常識でしょ!」

 

「まだ補導されるような時間じゃないし大丈夫だ」

 

「翔が断れないんだったら、私が代わりに電話してあげる!」

 

すっと差し出される幸の右手。

携帯電話を渡せと言っているのだろう。

 

「余計なお世話だ、お前には関係ない」

 

「じゃあ、ケーキ食べないの?せっかく紅茶入れてあげたんだよ?」

 

「俺の分も食べていいよ」

 

こいつと話していてもしかたのないこと。

どうせ何言ったって納得しないだろう。

 

俺は席を立って部屋を出ようと幸に背を向けた。

 

「待って!行かないで!」

 

声が震えていた。

 

「一人にしないでよ。今日は私の誕生日なんだよ」

 

泣いている。

そんなの顔を見なくったってわかる。

 

頬を伝った涙がぽたりと床に落ちた音が聞こえたような気がした。

 

「今日くらい、一緒にいてよ」

 

俺は振り向かなかった。

あいつの泣いている顔なんて見てしまったら

絶対に行けなくなってしまうから。

 

「なんだよ、それ。どういうつもりだ。彼女気取りか?」

 

「私、翔の事好きだよ…」

 

俺は冷静じゃなかった。

そんな言葉を聞いたら、普段の俺なら結構驚いたに違いない。

でも、今は冷静じゃなかった。

幸の、涙を堪える声を聞いてしまったら、冷静でいられなくなった。

 

どうして幸が泣いているのかさっぱりわからなかった。

でも、これじゃあ俺が泣かしているみたいだ。

 

「だから、あの女と会わないで。変だよ、あの人…」

 

どうして俺を行かせてくれないんだ。

なぜ引き止める?

早く幸の泣き声の聞こえないところへ逃げ去りたい、

そんな思いでいっぱいいっぱいだった。

 

「俺はお前の事なんて好きじゃない。だから付きまとうな、鬱陶しい」

 

そう言い残して、逃げてきた。

 

財布だけをもってとりあえず駅に向かった。

 

英里香と会える、なんて嬉しい気持ちは微塵も湧いてこなかった。

 

あのあと、声をあげて泣きだした幸の事が頭から離れない。

 

今日は英里香と会うのをやめた方が良かったのだろうかと迷っていた。

 

けれど、迷いながらも電車に乗っていた。

 

会うために抜け出してきたのだから、という思いが辛うじて勝っていたようだ。

 

そして英里香の家までたどり着いた。

 

俺の心の内を英里香が窺い知ることなどできるはずもなかった。

 

部屋に入るなり、抱きしめられた。

 

「今日はそんな気分じゃない」

 

そう言って英里香を拒む。

 

どうしてだろう。

今日に限って頭から幸の事が離れなかった。

なぜだろう。

英里香に抱きしめられたら、罪悪感のようなものを感じてしまった。

幸に後ろめたいことでもしているような錯覚に囚われた。

 

でも英里香は俺の言葉を聴き入れてくれなかった。

 

「どうして?私に気持ちよくしてほしくて、来たんでしょ?」

 

再び抱きつき、俺の耳許で囁いた。

 

「やめろって言ってるだろ!」

 

俺は英里香の腕を振りほどこうとした。

 

でも、無理だった。

驚いた。

英里香の力は思ったよりも強いらしい。

 

再び腕に力をいれて、英里香を引き離そうとした。

今度は手加減をしたつもりはなかった。

 

それでも英里香を引き離すことは愚か、

ぴくりとも動かすことができなかった。

 

それなのに、英里香は表情も変えずに平然としている。

まるで力なんて全くいれていないように見えるほど。

 

「暴れたって無駄だよ」

 

英里香が言った。

 

馬鹿な、男の俺が女に力で負けるわけないだろう!

 

そう信じたかったけれど、現実は違った。

 

英里香はあっさりと俺をベッドに押し倒し、馬乗りになる。

 

「やめろよ!」

 

これでも目一杯体中の力を振り絞って暴れたつもりだった。

 

それなのに英里香は軽々と俺を押さえつけている。

 

笑っていた。

必死にもがき抵抗する俺を見て楽しんでいるようだ。

 

英里香に捕まれた両の手首。

暴れるほどにぎりぎりと力を込められ締め付けられる。

とても女のものとは思えない力。

腕を骨ごと握りつぶされるんじゃないかと、

少しばかり恐怖を覚えるほどだった。

 

英里香は膝で俺の股を踏みつけた。

それほど重くなさそうに見えるスマートな体でも、

俺に悲鳴に近い叫び声をあげさせるには十分な重さだった。

 

「泣いちゃった?」

 

英里香は嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 

言われて気づいた。

目から涙が溢れていたことに。

 

そして抵抗するのをやめた。

 

別にそこまでかたくな英里香を拒む理由なんてない。

抗うほどに痛めつけられるだけだ。

従順になれば至高の喜びを味わわせてくれるのだから。

 

いつものように、英里香はそっと俺の首に唇を這わせた。

 

俺は選りにも選って一年に一度の誕生日に幸を泣かせてしまったことを後悔していた。

代わりに俺はのうのうと英里香と会っているわけだ。

そんな自分に嫌悪感を抱いていても、

快感は容赦なく与えられる。

俺が意識を失うまで。

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「翔を返して!」

 

俺はそんな声で眠りから引き戻された。

 

幸の声?

重い瞼を持ち上げ、ぼんやりと目に入ってくる周囲の景色。

動かない頭で精一杯考える。

ここは間違いなく英里香の部屋だ。

 

幸の声なんて聞こえるはずがない。気のせいだ。

そう結論づけて、再び瞼を閉じた。

 

「ふざけるな、淫行ばばぁ!」

 

その粗野な言葉はやっぱり幸の声だった。

夢かな?

うるさいな、早く静かにならないかな。

俺はそんなことしか考えられなかった。

だって、英里香の家で幸の声なんてするはずがないと思っていたから。

 

そして悲鳴が聞こえた。

幸の叫ぶ声。

助けを求めるような声ではなく、苦しそうな音。

 

さっきまで重かったはずの瞼がぱっと開いた。

気づけば立ち上がろうとしていた。

頭がふらふらするせいで平衡感覚が掴めず、

ベッドから転げ落ちた。

でも寝ている場合じゃない、なんて頭で考えるよりも早く、再び体が立ち上がった。

壁に手を付きながら辛うじて前に進む。

声の聞こえた玄関を目指して。

 

どうしたことか、そこには幸の姿があった。

左胸を鷲掴みにされ壁に押し付けられている。

幸の足が床から浮き上がっていた。

その体重が全て、左胸に突き立てられた英里香の細い指五本分にかかっている。

幸は苦痛に顔を歪めながらも英里香を睨みつけていた。

 

ただでさえ寝ぼけている俺の頭で

この事態を理解することなどできるはずもなかった。

なぜここに幸がいて、英里香とつかみ合いになっているのか。

 

幸は空いている手でポケットから何かを取り出し、

英里香の顔めがけて投げつけた。

ぶつかったそれは床を転がり俺の足元で止まった。

ニンニクだった。

 

「私の部屋をニンニク臭くしてくれて、無事に帰れるとは思っていないでしょうね」

 

その声は冷静でありながら、怒りに満ちていた。

 

英里香は暴れる幸をものともせず、軽々と引きずって浴室へと連れていった。

俺に気づいていなかったのだろうか。

英里香は見向きもしなかった。

 

二人がいなくなった玄関はものが散乱していた。

英里香の靴。

幸の片足だけ脱げた靴。

いくつかのニンニク。

どろどろにすり潰されたニンニクが入ったペットボトル、

それの口が開き廊下に転がっている。

溢れたニンニクが染みを作っていた。

それから、細長い木の杭。

 

「英里香!」

 

叫びながら俺も二人の後を追って浴室に飛び込んだ。

 

英里香は浴槽に栓をするとそこに幸を押し込んだ。

暴れる幸があっさりと収まるほど広い浴槽ではない。

けれど英里香はそれを例の怪力で、無理矢理に幸を押し込んだ。

幸はまるで人形のようになす術もなく、

ただ骨を間接を砕かれないように身を縮めることしかできなかった。

 

「やめろ、英里香!!」

 

思わず俺は英里香にとびかかった。

幸が殺されると思った。

一瞬、その浴槽に水を張りじわじわと溺れゆく幸の姿が頭に浮かんでしまったからだ。

 

俺が体重をかけてぶつかったというのに、

英里香の体はびくともしなかった。

 

「邪魔よ」

 

たった片手一本で俺を突きとばした。

後ろの壁に体を打ち付けてしまうほどの力だった。

女かどうかというよりも、人間であることさえ疑わしい程の怪力。

 

「この匂い…。いつも翔に付きまとっていたのはあなただったのね」

 

俺は恐怖した。

このままでは幸が殺される。

 

英里香はこの事態を楽しんでいるようにさえ見えてしまった。

 

「知っている?処女の心臓から絞り出した血を浴びるとね、肌に艶と張りが戻るのよ。

私、若返るのよ」

 

幸の左胸を締め付けていた手に、一段と力を加える英里香。

 

幸が叫んだ。

 

もはや俺には英里香が怪物の類にしか見えなかった。

とても人間とは思えない。

そして本当に幸の心臓を掴み出してしまいそうな迫力があった。

 

英里香は笑っていやがった。

苦痛に歪む幸の顔を見つめて、笑みを浮かべている。

もてる力を一度に出さず、

じわじわと苦しめながら幸の胸をえぐってやろうと考えているように見える。

 

俺は周囲に目を走らせた。

何か武器になるもの。

英里香には殺すつもりでかかっていかないと太刀打ちできない気がした。

 

と言うよりも、殺意が芽生えていたのかもしれない。

 

浴室を飛び出すと、床に転がっていた杭が目に入った。

きっと幸が持ってきやがったんだろう。

英里香の事を吸血鬼だと思い込んでいた英里香が。

確か幸の部屋で見た本に吸血鬼の殺し方が書いてあった。

杭を心臓に打ち込むと。

 

その記憶が呼び起こされた瞬間、

俺は杭を拾って風呂場にかけ戻っていた。

 

浴槽の底に幸を押し付けている英里香は、

背後に立った俺の事など気にもとめていない。

そうして前かがみになり、無防備になっていた英里香の背中。

 

俺は両手で杭をぎゅっと握り大きくふりあげた。

渾身の力を込めて、英里香の心臓めがけて振り降ろした。

 

英里香は苦痛に満ちた声で叫んだ。

そして後ろを振り向き俺を睨んだ。

 

一撃で心臓を貫くには太すぎる杭だった。

 

反撃される、そう思って身構えた。

きっとその怪力で殴られては即死することだろうと恐怖した。

けれど俺の予想に反して英里香は俺になにもしなかった。

ただ俺を睨み付けて動かなかった。

 

英里香は怒りで顔を染めながら、

幸を締め付ける手に力を加えたらしい。

幸の悲鳴の声が変わった。

 

俺は慌てた。

早く英里香を止めないと、幸が殺される。

 

もう一度大きく手を振りあげ、

手の平で英里香の背中に刺さった杭を叩き込んだ。

ただ英里香が幸を開放する事を祈りながら。

 

死ね、死ね、「死ね」

 

いつの間にかそんな言葉が漏れていた。

 

不意に杭を打ち付ける感触が軽くなった。

もう打ち込めないほど杭が埋まってしまったらしい。

 

杭は英里香の左胸を突き破り、赤く染めた先端を覗かせていた。

 

それでもなお幸を放さない英里香。

 

幸を浴槽から掴みあげ、風呂場から出ていった。

さすがにダメージが大きく、ふらついた足取りだった。

それは、じわじわと幸を苦しめる力の加減をする余裕すら、

もはや残っていないことを意味している。

 

壁に強く打ち付けられた幸が何度目かの悲鳴をあげた。

それは、無邪気な子供によって無惨に破壊されゆく人形のように見えた。

英里香の怪力の前では、人間の力などないに等しい。

 

けれど、ようやく英里香は力尽きた。

廊下に出たところで英里香は前のめりに倒れた。

 

幸は放り出されるようにしてようやく開放された。

 

けれど、俺は一瞬絶望した。

もうダメだと。

それでも微かな希望を信じて、

幸のもとにかけより、抱き起こした。

 

人間のからだというのも案外丈夫らしい。

幸の意識ははっきりとしていた。

どこかにぶつけられたのだろう。額に大きなあざを作ってはいたけれど。

 

「大丈夫か?」

 

いいながら、英里香にえぐられていた左胸に手を当てる。

服の上にまで血が滲んでいた。

けれどその量から察するに、致命傷ではないようだ。

 

「えっち」

 

そんな事を言う元気はあるらしい。

 

顔じゅうを濡らしていた涙を隠すように、

幸は俺の胸にしがみつき、顔をうずめた。

 

そっと包み込むように頭と背中に手を回してやると、

呻くようになく声が胸に伝わってきた。

 

泣いているのか。

と思いながらも、俺はほっとしていた。

 

同時に英里香の事を思いだし、

さっき倒れ込んでいたはずの場所に目を向けた。

 

けれど、そこにはもう英里香の姿はなかった。

代わりに、英里香の倒れていたはずのその場所に、

白い灰が人形に山のように積もっていた。

俺が突き立てた杭が、さらさらの灰に斜めに刺さったまま。

 

俺はぎゅっと両手に力をこめた。

幸を抱く両手に。

 

なんで、俺はこんな胸のない女を、抱いているんだ。

説明
偶然吸血鬼と出会ってしまった十五歳の高校生の出来事。
翔という名のその少年は、乗っていた車が壊れて途方に暮れていた女性と偶然であった。
きれいでスタイルがよくて優しい年上の女性に、一目で魅了された翔。
彼女にお礼と称して誘われた翔。
怖れも疑うことも知らない純粋な好奇心と若い下心で、
彼女の部屋にあっさりと連れ込まれた。
そして翔は死なない程度に血を奪われ、
代わりに途方もない悦びを与えられる。
病みつきになる快感。故に翔はたびたび彼女に血を捧げにいく。
そんな翔の異常に気づき心配する幼なじみの幸。
一回りも年が離れている女性とつき合っていることを快く思わなかった。
翔に密かに想いを寄せている幸の嫉妬、
その疑う心から相手が吸血鬼であることに気づく。
そして二人を別れさせようと奮闘する、
そんな話。
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翔君、最後に何てことを思ってんだか、こんないい子を大事にしなきゃ罰が当たるぞ。幸ちゃんこの先、離しちゃダメだよ。(華詩)
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