百合ものっ! 1 『図書委員の二人』
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「……お前って、ほんとに本が好きだな。ゆかり」

 高校の図書館、読んでいた本を閉じ燈は口を開いた。

 ――しかし、

「………………」

 声をかけた、同じ椅子に背中合わせに座る相手からの返事はなかなかない。気長に燈が待っていると、

「…………ほえ? ご、ごめんなさい、あかりさん。なんて言いましたか?」

 燈の言葉にようやく反応した紫が、本から顔を上げて振り向き、申し訳なさそうに訊き返す。おじおじとする紫に、燈は特に腹を立てた様子もなくもう一度言う。

「ゆかりは本好きだなって」

「あ、はい。大好きですよ」

 何がそんなに嬉しいのか燈には分からなかったが、また一枚ページを捲る紫は丸眼鏡の奥で目を細めていた。その予想通りの様子に、燈は紫に見えないようかすかに口元を綻ばす。

 燈と紫。この二人は高校入学してから出会ったクラスメイトである。

 薊紫(あざみ ゆかり)はくすんだ茶髪を三つ編みにしていて、目にかかるほど前髪が長く、地味な丸眼鏡をかけた地味な女の子である。自己主張が苦手おとなしい少女で、クラスでも読書していることが多い本の虫だ。この高校を選んだのも大きな図書館が附属していることが理由だったし、それが高じて図書委員にもなったほどだ。

 犬蓼燈(いぬたで あかり)は表情の乏しく、あまり愛想がいいとは言えない女の子。明るめな茶髪をショートカットにしており、ブラウスの第一ボタンを外すなど制服を少々着崩している。燈もまた紫と同じく図書委員である。

 今は放課後で、図書委員の仕事として二人はカウンターの中にいた。本の貸し出しや返却をする生徒が来たら、その手続きを行うのである。今はちょうど生徒の足が途絶えたため、休憩がてら読書をしていたのである。

 ちなみに一緒の椅子に座っているのは、司書が個人的に持ち込んだそのちょっと大きめのアンティーク調の椅子がふかふかとして心地いいからである。ちょっと手狭であるが、二人で座っていても問題ない。

 紫は真後ろの燈をちらりと見やる。

 燈は無口で、クラスメイトと喋っている所をあまり見かけたことがなく、同じ図書委員ということなのか紫といることは比較的多いが基本的に一人で行動していることが多い。一匹狼気質のある彼女をクラスメイトの一部の女子がかっこいいと噂しているのを耳にしたことがあるが、燈が人付き合いが苦手なのだろうことを紫は薄々感じていた。

 ――だからこそ紫には不思議だった。

「……あかりさんは。本、好きなんですか?」

「私にとっては睡眠薬と同義語だな」

 本に栞代わりに挟んでいた指の位置が、十数分前に見た時から数ページも進んでいないのを見つけた紫は思わず苦笑した。そして、もう一つ質問する。いつものように。

「どうして、図書委員になったのですか?」

「……気まぐれ」

 燈は端的に答える。それもまたいつものように。

 紫が疑問に思っているのはそのことであった。燈はどうして図書委員になったのだろうか? この高校は誰もが必ず何かしらの委員にならないといけないわけではない。委員会の数に対して生徒数が圧倒的に多いため、なりたくない人は避けようと思えば避けられるのである。それなのに燈は図書委員になった。それも紫と同じく自分で立候補してだった。

 ずっと不思議に思っているのだが、燈に適当にはぐらかされてばかりなので、紫も訊きはするもののそれほど気にしなくなった。もしかしたら本当に気まぐれなのかも知れない。

 そんな事を頭の中で紫が考えていると、

「――きゃっ!」

 突然に燈が紫の背中に体重を預けてきたので、驚いて小さく声を上げてしまった。燈は変わらぬ口調で呟く。

「驚きすぎだろ、ゆかり」

「うぅ、ちょっとびっくりしただけですっ……」

 顔を紅くしながら紫は言い返す。しかし燈はそれを気にした様子もなく、さらに体重を預けてくる。

「眠いんだから背中ぐらい貸せって」

 言いながら瞼を閉じる。紫はたじろいでいたが、やがて観念したのか、引き気味だった体を逆に燈の背中に預けた。

「ちょっとの間だけですからね」

「……さんきゅ」

 燈は小さく呟き、口の端を少し曲げる。

(……もう)

 素直にお礼を言われたものだから、それ以上紫は何も言えなくなってしまった。仕方ないので読書を再開するのだが、

「……スー、……スー」

(…………気になる)

 後ろから聞こえる控えめな寝息、背中から伝わる燈の体温が気になって、紫は読書に集中することができなかった。

(あかりさん、あったかいなぁ。心地いい。……なんか私も眠たくなってきました)

 自分も寝ようかと紫が考えていると、

「……ゆかり」

「わひゃあっ!」

 寝たのだと思っていた燈から声をかけられて、紫は口から心臓が飛び出るほど驚いた。図書館であることを思い出し、慌てて口を手で押さえ赤面した。館内に生徒がほとんどいなかったことに紫はほっと胸を撫で下ろす。

「いくらなんでも驚きすぎじゃないか?」

 むしろ燈の方が声に驚きの色があった。それに気づいたから、

「……ご、ごめんなさい」

 紫は縮こまる。そのことにまた燈も気づいたからこそ、普段の調子で話題を変える。

「まあ、いいや。それで明後日なんだけどさ」

「明後日ですか?」

「ああ、明後日」

「……?」

「……」

 それ以上燈は語らないから、紫は考える。何かあったのだろうか? 明後日といえば金曜日なのだが――

「あっ、返却本」

「そゆこと」

 端的な言葉だが、それだけで二人の意思の疎通ははかれた。

 図書委員としての仕事は図書の貸し出し作業だけではなく、別にもう一つある。それが返却本の整理であり、早い話が返却された図書を元々あった位置に戻す作業である。これら二つの作業を、週替わりでどこか一つのクラスの図書委員が担当するのである。

 燈はちらりと奥の机に積まれた本の山を見ながら、

「この調子だと明後日は大変そうだな」

 と、溜め息を吐く。紫もまた、あははと苦笑い。本来この作業を金曜日にまとめてやる必要はなく、むしろ一週間かけてコツコツするべきことである。それなのに二人が今日まで放置していたのは、司書が出張でいないからである。カウンターに人がいない状態にはできないため、図書委員が返却本の整理をしている間は司書にカウンターについてもらう仕組みである。

 とはいえ、基本的にそうするものだとは言っても、別に司書がいなくても二人のうちどちらか片方がカウンターで待機していればもう一人が整理を行うことは可能である。可能ではあるのだが、

「今からやりますか?」

「ん、ゆかりやってくれるの?」

「い、いえ。わ、私はほら、読書中ですし。あかりさん、お願いできませんか?」

「私は見ての通り絶賛睡眠中だ」

 と、二人が二人ともやる気がないため叶わない。

「ふふっ」

「……ぷっ。あはは」

 燈が鼻で笑うと、紫も吹き出して笑う。見た目や性格と色々と正反対な二人だが、こういう所が意外にもよく似た二人である。とはいえ、めんどくさがり屋なのが、その理由の全てではない。もう一つ作業しない理由がある。それは、――

「ま、金曜日に頑張るとしようか」

「そうですね」

「なんとかなるだろ。二人なら」

「……はい」

 紫は小さく微笑み、燈は心地よさ気に瞼を閉じる。

 作業しないもう一つの理由、それは一人で作業するのが二人とも寂しいからである。

 

 ――翌日、昼休憩前の授業が終わり、図書館に一緒に行こうと紫の机まで燈はやって来たのだが、

「ゆかり」

「…………」

「……ゆかり」

「………………」

 全く反応がない。思案した燈は、紫の肩を優しく揺する。

「おい、ゆかり」

「…………え? あ、はい、何ですか、あかりさん?」

 自分の名を呼ばれていることにようやく気がついた紫が、とろんとした眼で燈を見やる。ほっぺたも赤みがさしている。昨日のように読書に没頭していたわけではない。風邪である。ちらりと見ればノートもほとんど取れていない様子である。

(今度見せないと)

 思えば、今日は朝から紫の様子がおかしかった。歩けばふらついているし、話しかけてもまともな返事が返って来ない始末である。さっきの授業中も燈は横目で様子を窺っていたが、大半は机に突っ伏している姿しか見ていない。原因を何とか訊き出した所、昨日の本の続きが気になって夜通し読んでいたそうだ。燈は呆れてものが言えなかった。

「大丈夫か?」

 訊くが、無駄な質問だというのは燈には分かっていた。体調が悪いのは明らかだし、紫がなんと答えるかも予想出来ていた。

「大丈夫ですよぉ。さあ図書館行きましょう、あかりさん」

 想像通りの言葉とともに紫は机に手をついて立ち上がる。けれど足元がおぼつかず体がゆらゆらしている。燈は溜め息を吐いた。

「ゆかり。お前今日はもう帰れ」

「えっ? でも……」

「でも、じゃない」

「あ、あかりさん!?」

 燈は紫の腕を取って引き寄せると、紫の額に自分の額を当てる。やっぱり、と燈は嘆息する。

「熱、あるじゃないか」

「今、別の理由で上がった気がしますけど……」

「ん?」

「あ、いえ、何でもないです」

 照れ隠しに頬を掻く紫。少しだけ意識がはっきりしちゃったな、と思った。

 燈は紫の内心には気づかず、腕組みをして紫に言い聞かせる。

「とにかく。今日はもう帰るんだ、ゆかり」

「うぅ……でも」

 こうまで言っても渋る紫に、燈は心底呆れる。責任感が強いのだろうけど、思っていた以上に頑固なようだ。そこで燈は説得の仕方を変えることにした。

「ゆかり。明日は返却本の片付けをする予定だったよな?」

「えっ? あ、はい、そうですね」

 話がいきなり別のことに変わって、紫は不思議そうに眼を瞬かせた。

「今日は特に用事があるわけでもないし。明日全部片付けなきゃいけないんだから、今日は休んで、ちゃんと風邪を治してから明日来い」

「…………」

 紫は逡巡し、少しだけ間を置いてから、

「……はい。じゃあ、あの、休ませてもらいます。すみません、あかりさん」

 ようやく肯定の返事をした。

 燈はほっとして胸を撫で下ろす。

「気にするな。保健室まで送るよ」

 そう言って燈は紫に肩を貸す。

「ありがとうございます、あかりさん」

 控え目に燈に体重を預ける紫は、弱々しくも嬉しげに微笑む。

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 紫を保健室に送り届けてから、燈は昼休憩と放課後、図書委員の仕事一人でこなした。

 今日の図書委員の仕事はつまらなかった。

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 紫が早退した翌日、件の金曜日。紫は普段と変わらぬ表情で登校して来た。しかし燈の目からすれば体調が芳しくないことは一目瞭然であった。――それどころか、

(もしかして昨日より風邪が酷いんじゃないのか?)

 燈には、そう思えて仕方なかった。

 授業中、燈の視線は大半の間紫に向いていた。そのため、ノートを取り損ねては焦り、問いを指名されても反応出来ずに先生に怒られて。そのたびに慎ましく微笑む紫と目が合うのだが、風邪で苦しげな様子が見てとれてしまって、燈は口の端を上手く上げることが出来なかった。

 合間の休憩時間に紫と話しても、不調を悟られないようにと普段よりよく笑う紫を見るのが燈には辛かった。

 もどかしい気持ちのまま、昼休憩になった。昨日とは違い、燈が教材の片付けに手間取っていたら、紫の方からやって来た。

「あかりさん、図書館に行きましょう」

 変わらぬ様子の紫。ただ抑えてはいるようだが、若干息が荒い。

「ゆかり。……お前まだ風邪治ってないだろ」

 燈が言及するが、

「大丈夫ですよ、あかりさん」

 紫は認めようとはしない。

「本当に?」

「ほんとにほんとうですって。あかりさんは疑り深いですね。そ、そんなことより、早く図書館に行きましょう」

 半ば強引に話を切り替え、紫は燈を急かす。

「昨日手伝えなかった分、今日は頑張りますよ!」

(――っ!)

 紫のその言葉で、燈は自分が犯したミスに気づく。昨日、紫を早く帰すために言ったこと。

『明日全部片付けなきゃいけないんだから、今日は休んで、ちゃんと風邪を治してから明日来い』

 その時の燈は、紫を一刻も早く帰そうと、そればかりを考えていた。

(ゆかりは優しくて責任感の強い子だ。あとちょっと頑固だし。そんなゆかりにあんな言い方したら、一日で風邪が治らなかった時にゆかりがどうするかなんて、少し考えれば分かる筈なのに――)

 紫なら無理を押してでも絶対に登校して来ると。つまり、まさにこの現状になると。

(私の阿呆っ!!)

 燈は後悔する。昨日の燈の行動は、ああでも言わないと紫が帰ろうとしない性格であることを考えれば、客観的に正しかったと言えるだろう。しかし、燈にとってはそんなことはどうでもよかった。とにかく今はどうでも紫を帰宅させることが肝要なのである。

「ゆかり」

 燈は紫の名前を呼ぶ。特に妙案があったわけではない。とにかく話し始めるきっかけが欲しかったのだ。声をかければきっと紫は応えてくれるから。

 燈のその考えは正しかった。

「えっ? なんですかぁ――」

 ――正しかったのだが、ふらつく紫の体が崩れ落ちそうになることまでを予想することは出来なかった。

「ゆかりっ!」

 叫び、燈は慌てて手を伸ばす。体で支えるようにして抱き止めた。燈はほっと胸を撫で下ろしたが、同時にはっと気づく。

「……無理しすぎだよ、ゆかり」

 最早紫の無茶を怒る気にもなれなかった。それほどまでに紫の体調が悪いことを実感したのだ。熱があるどころではない、抱き止めた紫の体は熱かった。三九度、下手すれば四〇度まであるかもしれない。

「え、えへへ。ごめんなさい、あかりさん。やっぱり、ちょっと無茶でした……」

 そのまま、紫は気を失うように眠りについた。

 

 日が沈み幾分か経った頃になって、紫はようやく目を覚ました。外は暗く、もう最終下校時刻も過ぎているだろう。

 上半身を起こして辺りを見渡すが、ぼやけていまいちはっきりとしない。

 目元を擦りながら片方の手で探って枕元に自分の眼鏡を見つけ、かけてから改めて室内を見ると予想した通り保健室だった。

「……あ」

 ふと、紫は窓際の机に座る白衣の女性を見つけた。いや、座っているというよりは、机に突っ伏して寝ていると言った方が的確である。

 彼女の名前は梍水希(さいかち みなき)。場所と服装から察せられる通り、水希はこの学校の養護教諭である。そんな彼女が、病気の生徒が寝ている傍らで自分も寝ていることに紫は呆れていた。

 ――とはいえ、

「……熱、大分引いてる」

 水希がとても心配性で優しい先生だってことは、紫のみならず校内中で知られていることである。たぶん紫の容態が落ち着いてついウトウトしたのだろう。

「ん……」

 紫の呟きが届いていたのか、水希が目を覚ました。大きく伸びをして、勢いよく振り向いた所で、水希の動きが固まった。バツが悪そうな表情を微かに浮かべたが、特に気にしていない体を取り繕うと、「やっ、起きたのかい?」

 言いながら立ち上がる。見事な自然体だ。水希は棚に置かれた体温計を手に取り、それを紫に向かって放る。危なっかしくキャッチした紫は、体温計を脇に挟む。

「気分はどうかな?」

「はい。わりと、もう大丈夫みたいです」

「そっか。ま、顔色も大分良くなったみたいだし心配ないかな。でも、まだあんまり無理しないように」

「は、はい。気をつけます……」

 今回の風邪も無理のし過ぎで引き起こしたわけだから、水希の言葉に紫はバツが悪かった。そのことに気づいた様子もなく水希が言葉を続ける。

「そうそう、君を連れて来た子なんだけど」

「あか……犬蓼さん?」

 そういえば、と紫はキョロキョロする。保健室の中に燈の姿はなかった。まだ少しだけボーっとする頭で考える。

「そうそう、犬蓼さん。君を運んで来たときに、その犬蓼さんから頼まれ事されててね」

「頼まれ事?」

「ひとつは薊さん、君の看病を――って、おいおい何だいその疑いの眼差しは」

 ジト目を向けられ、不服そうに口を尖らせる水希。

「ええ、ええ、寝てましたよ寝てましたともさ。だって眠かったんだもん、もうこんな時間だしさ、でも寝息が落ち着くまではちゃんと看てたし」

 紫は苦笑いし、

「拗ねないで下さいよ、先生――って、え?」

 と、そこで紫はふと気づく。

「こんな時間って、今何時なんですか?」

 その質問に、水希は壁に吊るされた丸時計に目をやって、

「八時四〇分ってとこだね」

 返答に目を丸くする紫。

「もうそんな時間だったんですか!?」

 遅い時間だとは思っていたが予想以上だった。

 ――ピピピ、と小さな電子音が鳴る。発生したのは紫の胸元から。体温計である。紫から体温計を受け取り、画面の数字を確認する。

「三六・九度。ちょいと高めだけど、まあ大丈夫でしょ。ただし無理はしないこと」

 再度念押しする水希はやはり優しい先生だと紫は思った。

「で、頼まれ事の二つ目なんだけど」

「二つ目?」

 そういえば、『ひとつは』と水希は言っていたなぁ、と紫は考えた。

(他にも何か頼んだのでしょうか、あかりさん?)

 でも看病以外に何を? 紫は首を傾げた。

「そ。薊さんが目を覚ましたら、車で家まで送り届けて欲しいってさ。いや私に負けず劣らず心配性のいい子だね」

「そうですね」

 紫は笑みとともに言葉を零す。燈の優しさに胸が暖かくなる。

 そんな紫に、ふいに水希が言葉をかける。

「――で、どうする?」

「…………?」

 またしても紫は首を傾げる。どうしてわざわざ選択を迫るのかを。

 そこで紫は違和感に気づいた。

(あれ……? そういえば、何であかりさんいないんだろう)

 身勝手な考えだということは、紫も重々承知しているが、こんな時間でも燈なら傍についていてくれていると自信を持って言えた。途中で水希に帰らされた可能性もあるのだが、それなら水希が言う頼み事も昼休憩ではなく帰る時にしそうなものである。

(あかりさんのことですから、きっと休み時間の度に来てくれると思いますし)

 ――何か用事でもあったのでしょうか?

 次第に働きかけてきた頭で考えること、しばらく。心当たりをようやく思い出した紫は、その間微笑を浮かべて紫の様子を眺めていた水希に答えた。

 

 日が落ち、空に星が輝く頃に図書館は使用されるように設計されておらず、中心の吹き抜けの天井に吊るされた大きな照明が一つとあとはお情け程度にしつらえられた細々とした灯り、それからガラス張りの部分から僅かに差し込む月明かりぐらいしか光源がなく、中心辺りはまだ明るいが、隅のほとんどは暗々として寂しい。

 その一角、やや薄暗い中本棚の前で椅子に腰かけた燈は、横の台車に積まれた本を一つ一つ元あった場所に戻す作業を黙々と一人行っていた。

「――やっぱりここにいましたね、あかりさん」

「……ゆかり!?」

 いきなり声をかけられて、更にその声の主が紫だと気づき燈は目を丸くした。

「どうしてここに? ……というか風邪は?」

「体はもう、あかりさんのお陰で大分楽になりましたよ。それと、ここにいるのは私も図書委員だからに決まっているじゃないですか」

 紫はさも当然のように言う。燈は言葉の意図が伝わらなかったことに苛立ちながら、

「そうじゃなくて、なんでまだ学校にいるんだよ!?」

「――帰そうと思ったのに、ですか?」

「……!?」

「私、あかりさんのことなら大抵のことは分かるんですよ?」

(…………今日は、まあ、ボーっとしていたから先生にヒント貰わなかったら気づいたのが帰ったころになっていたかもしれませんけど)

 内心の冷や汗を隠しつつ、紫は不敵に微笑む。その珍しい表情に燈は豆鉄砲を喰らった鳩のようになった。

「……ぷっ。あはははは。負けたよ。そうだよな、図書委員だもんな」

「はい」

 燈は吹き出したように笑う。その様子に紫は楽しくなる。

(熱のせいなのかな。いつもなら言えないようなことが言えてる気がします)

 不思議な高揚感もあり、紫は微熱を感じた。

「……ああ、そうだ」

 ひとしきり笑ったところで、ふいに燈は立ち上がる。紫が不思議そうに目で追うと、燈はすぐ近くの机から椅子を持って戻って来た。

「ほら、座りな。まだ完全に治ったわけじゃないんでしょ」

 紫は自然と笑みが零れ、その椅子に腰かける。

「あ、ありがとうございます。で、でももう体調はよくなってきましたし、私も作業を手伝いますよ」

「だめだ」

 その提案は即座に却下される。

「そういう病み上がりこそ体を大事にしないと、また昼みたいにぶっ倒れるぞ」

「うぅ、……はい」

 そのあまりにも正論に、紫は素直に引き下がるしかない。燈はうんと頷くと作業に戻る。紫はその様子をボーっと眺めていた。

 特段喋ることもなく時間が流れていたが、どうにも手持ち無沙汰に耐え切れなくなった紫が口を開く。

「あの、あかりさん。やっぱり私も手伝います」

 その言葉に、燈はゆっくりと紫に視線を動かし言う。

「却下」

「あぅ」

 そうしてまた作業に戻る。しかしなかなか諦めのつかない紫は今度はあまり間を置かず食い下がる。

「いや、でも、少しくらいなら大丈夫ですから」

「駄目」

「ちょっとだけですから」

「断る」

「えっと、だけど……」

「拒否する」

「……あの」

「………………」

 それでも燈の意思は曲がることはなく、紫の提案はバッサリと切り捨てられ、最終的に声をかけた瞬間に無言でそっぽを向かれてしまい、紫は完全に諦めた。

 紫が沈黙し、手伝う気がなくなったのを認めた燈は改めて作業に戻った。

 それからどれくらい経ったのだろうか。

 静寂にいくらの気まずさもなく、燈は作業に没頭し、紫はずっとその様子を眺めていた。話すこともなくボーっとしていると頭だけはぐるぐる回るようで、燈と違い暇を持て余していた紫は考え事ばかりしていた。

 そうして、台車に積まれた本の山が残り僅かになった所で、紫はふと思ったことを口にする。

「……あかりさんは」

「…………」

 声をかけられた燈は、じろりと紫に目線を動かす。また懲りずに手伝うと言い出したのではないかと勘違いしたらしい。それに気づき紫は慌てて否定する。

「ち、違います。もう手伝うなんて言いませんから。ただの世間話をしたかっただけです」

「……なに?」

 訝しげな目も一瞬のことで誤解はすぐに解けた。燈は変わらず作業を続けていたが、聞く態勢に入っていることは紫にはなんとなくわかった。

「あかりさんは、…………どうして図書委員になったのですか?」

 燈は小さく息を吐く。

「またその話? それならいつも言ってるだろ。ただの、気ま――」

「――気まぐれ。は、なしですよ」

 先手を取られ、燈は目を見開いて振り向いた。紫は楽しげに微笑んでいた。

(……熱のせいかな?)

 いつもならその場の空気で流してしまう内容なのだが、不思議な高揚感が紫を積極的にさせていた。そのことに紫自身も驚いていたのだが、この疑問は入学後三回目のホームルームの時、紫が図書委員に立候補してすぐその相方にと燈が手を挙げた時からずっと抱き続けてきたものだったから。

 しばらくは目線を合わせていたが、燈は諦めたように溜め息を吐く。止まっていた手を再び動かしながら観念して呟く。

「わかったよ。私の負けだよ。……話す」

「ほ、ほんとですか!?」

 紫は身を乗り出す。いつもより攻めの姿勢ではあるものの、結局いつものように流されてしまうものだと紫は考えていたため語気が少し荒くなってしまった。

「うん。……ただ、――」

 ちらりと紫を見やる。紫はきょとんとした。

「なんですか?」

「そうだな。その前に。ゆかりはどうして図書委員になったんだ?」

「私、ですか?」

「そう。ゆかりが言ったら私も言う」

 紫はぽかんとする。

「……なんかずるくないですか?」

「訊くからにはまず自分から。礼儀でしょ?」

「屁理屈な気もしますけど……?」

 苦笑いして答える。わざわざ同じ質問を返す意図がいまいち分からなかったが、しかし答えないことには話が進みそうになかった。紫は首をひねって考えを巡らし、思いついたままを口にする。

「やっぱり、本が好きだから、なのだと思います」

 端的な答え。それに、燈は納得がいかなかったのか追及する。

「それだけなら委員にならなくても別にいいだろ。うちの高校、生徒数がバカみたいに多いから、誰もが必ずどれかの委員をしないといけない、ってわけではないのだから」

「そ、……それは確かに」

 言われて、逆に納得してしまう紫。そう言われてしまうと、自分でもなんでだろうと考え込む。そして、自分の中で一番ストンと腑に落ちた思いに至った。

「たぶん本が好きだから。……読むだけじゃなくて、色んな思いの詰まった本そのものが好きだから、大事にしたいって思うんです。だから、本のお世話も自分でしたいと思っちゃったのではないかと、今は思います」

「なんか、ゆかりらしいな」

 燈は口の端を少しだけ曲げた。

「あっ、でもそれだけじゃなくて、……」

「ん?」

「やっぱり、みんなにも本を好きになって欲しいって思うんです。私のわがままみたいなものですけど」

 照れたように頬を掻きながら、紫は苦笑する。

「――もちろん、あかりさんにもですよ?」

「…………」

「あかりさんは、本好きですか?」

「睡眠薬」

 即答だった。なぜか紫はいつもより少しだけ残念な気持ちになり、そしてまたそれを不思議に感じた。

「――でも。……最近はおかげで少しいい夢をみてるよ」

 その言葉に、紫はにやけてしまいそうになるのを必死に我慢した。落ち着くまで少し間を置いて小さく咳払いを一つ。改めて燈に尋ねる。

「それで、あかりさんが図書委員になった理由はなんですか?」

 燈は小さく息を吐いてから口を開いた。

「――ゆかり」

「……はい?」

 訳が分からず、間の抜けた返事をする。

 そこでちょうど台車の上の本は残り一冊となり、燈はそれを手に取ると話しながら続けていた作業を中断し、体の向きを変え、紫の正面を向いた。

「お前だよ、ゆかり。私が図書委員になった理由」

「……どういうことなのですか?」

 ちんぷんかんぷんだった。先を促すようにじっと燈を見つめると、一瞬考えるように宙を仰ぎ、そしてまた視線を紫にしっかりと合わせた。

「お前ってさ――」

「は、はい」

「ドジじゃん」

「うっ! ……い、いきなりなんなのですか!?」

 予想外に精神的ダメージを喰らってしまう紫。それを知ってか知らずか、気にせず淡々と思い出でも語るように燈は続ける。

「ボーっとしてるから何もないところでもこけそうになるし」

「うぅ」

「人にぶつかる、壁にはぶつかる、そしてこける。それもこれも本の事ばかり考えているから。……たまに歩きながら本読んでるし」

「はうっ」

「本の虫というか、本バカというか。休みの日に遊びに出ても、ゆかりの方から誘った上に、乗り気じゃない私をほとんど強引に連れ出したくせして、ふらーっと立ち寄った書店に二、三時間」

「あう……」

「あと五分。もうちょっとだけ。もう終わりますから。それから帰り際には、次は寄らないようにしますから。頑張って我慢しますから。とか、そんな台詞をいったい私は何回聞いたことか」

「…………」

(まあ、毎度毎度それに付き合う私も私だけど)

 心の中で苦笑する。

「もう、いったいなんなのですか!?」

 涙目で紫は訴える。その様子に燈は笑みを、優しい笑みを浮かべた。

「――でも、頑張り屋だ」

「え?」

 キョトンとする紫に燈は構わず続ける。

「いつもオドオドしてるけど、本が大好きだからいつも一生懸命に図書委員の仕事をしてる。……教室にさ」

 少しだけ遠い目をしながら、ゆっくりと語る。

「本に触れる機会を増やそうってことで、図書館の本が月替わりで十数冊か置かれているじゃないか。入学当初から。お前はまだ委員を決める前からその棚の整理をしてた。適当に置かれても文句一つも言わずにさ。そういった所、私よりも強いって、私は思う」

 燈がそんな風に思っていたことに、紫は驚いていた。――でも、

(でも、あれは。あかりさんが、普段あまり口を開かないあかりさんが、急に皆の前に立って呼びかけてくれたから。だから皆が気をつけてくれるようになったんです。本当に強いのは、あかりさんです)

 思い出し、胸の辺りがあったかくなったのを感じた。微笑む紫に気づいて、燈は少し口調を速めた。

「でも、ゆかりはそういう所自信持てないでしょ。だからお前が図書委員に立候補した時、つい私も手を挙げたんだ。ゆかりの力になりたいって」

「…………そうだったんですか」

 嬉しくて仕方がない。本当に燈は優しいなと心底思う。

「――ん、いや」

 これまでの事を改めて思い出しながら、燈は呟く。

「?」

「ちょっと違う、かな」

 膝の上の最後の一冊を指で弄りながら、

「私は、……」

 いつもの調子で、しかし声の中に確かな決心を感じさせながら、

「ゆかりのことが……」

 ――はっきりとその言葉を口にする。

「ゆかりのことが好きなんだ」

「……え? ええ!?」

 唐突な言葉に、予想外の言葉に紫は呆然とし、しばらくして言葉の意味を噛み砕くと、顔をボッと真っ赤に染めた。

(……え? えっと、どういうこと? あかりさんが私のことを好き? 友達として? で、でもこの雰囲気は違いますよね? そ、そっちの意味ですよね?)

 両手で頬をおさえて、思考をぐるぐると巡らす。

 そんな紫から視線を外し、燈は手に持っていた本を棚に収めると、気持ちいつもより大きな声で、

「ほら、終わったからもう帰るよ」

「……え? えと?」

「もう遅いから、早く帰ろう」

「え、あ、はい」

 立ち上がり台車や椅子を手早く片付ける燈の勢いに押され、思考が追いつかないまま紫も立ち上がる。

 それからは完全に流れまかせの紫だった。

 図書館を出て、鍵を事務室に返し、学校を出て月明かりの夜道を歩く。中学校の学区は違うが、そこまで互いの家が遠くないため燈は紫を家まで送る。その時交わした「さよなら」の言葉以外、二人は口を開くことはなかった。二人とも何を話せばいいか分からなかった。

 ――ただ。

 ただ、燈の頬にも微かに赤みが差していることに紫は気づいていた。

 

「……ふぅ」

 読みかけの本に栞を挟み、机の上に置く。

 帰宅した紫は、夕ご飯を食べてお風呂に入った後、すっかり熱を引いたのをいいことに、昨日途中まで読んで止めてしまっていた小説の続きを読んでいたのだが、

「…………集中できない」

 文字が、言葉が全くといって頭に入って来ず、十分経っても二、三ページと進んでいないことに気づいた紫はとうとう読むのを諦めた。閉じた本を机の端に追いやり、両腕を枕代わりに突っ伏した。

 原因は分かり切っていた。燈だ。

(……あかりさん)

 三つ編みを弄りながら、ぼーっと燈の顔を思い浮かべる。

 一瞬で頭に血が上り、カァーと顔が真っ赤に染まる。

「――わっ、わっ!?」

 慌ててぶんぶんと勢いよく頭を横に振り、少しの冷静さを取り戻す。

 過剰に反応した自分に驚きながら、それも当然のことだと改めて納得した。

「だって、まさかあかりさんがあんな事を言うなんて……」

 数時間前の出来事、未だ鮮明に残る燈の告白。その時の声、表情、言葉、そして思い。紫には忘れられそうもない。

 思い出しながらまた顔を赤くし、冷まそうと頭を振る。それでも頬を紅潮させたまま、紫は考える。

「…………私は、あかりさんのことをどう思っているのかな?」

 好きか嫌いかと問われれば、

(当然好きです。大切なお友達です)

 即答できる自信が紫にはあった。

 ――問題は、

「その、度合ですよね」

 ふうっ、と紫は溜め息を吐く。

「……恋愛の好きって、どういう気持ちなんでしょう?」

 紫は恋愛小説が好きだ。今まで沢山の本を読んできたが、その何割かはそれが占めているほどだ。読む度に紫は恋愛に対する憧れを強くし、いつか自分も素敵な恋愛をしたいと思っていた。そしてその都度、紫は好きという気持ちについて想像し思考するのだが、やはり具体的な答えには遠かった。

 好きという気持ちを考えれば考えるほど分からなくなってしまう。

 考えれば考えれば遠のいてしまう感覚に陥ってしまう。

 ――今も、そんな状態だった。

「……ふう」

 数分間の思考ののち、またも紫は溜め息を吐く。思考はそこで途切れた。どうしても分からないと、とりあえず考えるのを諦めてしまった。……と、そこに。

 ――プルルルルルルルルル。

「わぁっ!?」

 突然鳴り響く携帯電話の着信音。完全に気が抜けていた紫は大変驚いてしまった。

「……誰でしょうか?」

 何となく予想しながら画面を覗くと、その通りの名前。燈だった。

「…………」

 紫は思わず息を飲んだ。

(わっ、わっ、あかりさん? なんでしょう。なんか今すごく出づらい。なんか、すごく恥ずかしい。どうしたらいいのかな? というか、いったい何の用なのでしょうか? ……って、もしかして告白の返事の催促とか? うぅ、それはまだ心の準備が出来ていないというかなんというか。どうしましょ、本当にどうしたらいいんでしょう? あぁ、でも、もうだいぶ待たせてしまってますし、と、とにかく電話にで、出ましょう!)

 意を決して通話ボタンを押す。実はこの間、三コールだったりする。

「……も、もしもし?」

 動揺が伝わらないよう意識して、恐る恐るゆっくり話す。

『もしもし、ゆかり。……はぁ、やっぱりまだ起きてたか』

「……?」

 紫の内心に気づいていないことは良しとしても、電話に出るなり溜め息を吐かれ、声音にも呆れの色が強く出ていて、紫は逆に混乱してしまう。

『なあ、ゆかり……』

「あ、はい」

『お前また本読んでただろ?』

「えっ、えっとぉ……」

 読んでいた、と言えるのだろうか? 確かに読もうとして本は開いていたけども、結局は集中出来なくて読めなかったというか。でも読もうとしていたのも事実だから何とも否定しがたく、紫は曖昧に言葉を濁す。

 それを燈は肯定ととったようだ。

『やっぱりか。あのな、ゆかり。まだまだ病み上がりなんだから遅くまで起きてたらいけないだろ。お風呂はもう入ったの?』

「あ、はい。入りました」

『そうか。だったら尚更、湯冷めしないうちに布団に入って暖かくして寝ること。それじゃあね』

「はい、……って、ちょっ、あかりさ……。あ、切れちゃいました」

 言いたいことを言うだけ言って、燈はさっさと電話を切ってしまった。唐突な出来事に紫は呆然と携帯電話を見つめ、ふと微笑んだ。

「…………やっぱり。あかりさん、優しい」

 深く。――深く息を吐く。

 少しだけぼーっとしてから、紫は机の隣のベッドに移動する。横になり天井を見上げ、紫は呟いた。

「私……あかりさんのことが好きです」

 ただ、それだけ。それだけのことに行き着くのに何故こんなに時間がかかってしまったのだろうかと、紫は自嘲気味に小さく笑う。

「小難しく、いったい何を考えていたのでしょう?」

 恋愛の答えが本の中にあるわけないのに。仮にあったとしても、それは他人の答えであって私の答えではないのに。

 難しいことなんかではない。――ただ、

「私はずっと、あかりさんと一緒にいたい」

 ただ、この気持ちだけを大事にすれば良かったのだ。

 もう一度深く。ゆっくりと息を吐く。

 胸の辺りがあったかくなる。

「……あかりさんのことが、大好きです」

 独りごち、一拍置いて照れたように笑う。誰かに聞かれたわけでもないのに、口に出したらものすごく恥ずかしかった。

「……さて」

 しばらくして、落ち着いた所で、

「寝ましょうか」

 燈の言いつけを守らないと。これでもしまた風邪がぶり返しでもしたら目も当てられない。燈に合わす顔もない。

 ――せっかく両想いなのに。

 ベッドから身を起こし、部屋の電気を消す。改めてベッドに入り、今度はしっかりと布団をかけて目を閉じる。

「……りょ、両想い」

 それを思い出すたびににやついてしまう。何度も寝返りを打ってしまう。そして、ふと気づく。

「そ、そういえば明日は土曜日、明後日は日曜日」

 つまり、学校は休み。

「も、もしかしたらデ、デートとか。デデ、デートとかに誘われちゃうのかも」

 そしてまた、何度も何度も寝返りを打つ。心が昂って落ち着きそうもない。

「わー、わー。どうしましょう。どうしたらいいんでしょう!」

 枕を抱きかかえ、足をバタバタ動かす。

「うー、これでは寝られませんよー」

 だが、それもしばらく。風邪で失われた体力が、あっさりと紫を夢の世界へと誘った。

-4ページ-

 週明けの月曜日、その早朝。紫と燈は風邪のせいで取れなかった授業のノートを写すため、人気のない図書館に訪れていた。すっかり体調も元通りの様子でシャーペンを走らせている紫。手元の本と交互にその様子を眺める燈は何度目かの首を傾げ、痺れを切らせて声をかける。

「なあ。どうしてそんなに不機嫌なんだ?」

「……」

 紫のノートを書く手がぴたりと止まった。顔を上げて、威圧感の全くない瞳で燈を睨みつける。全く恐くなかった。

「……分かんないですか?」

 問われて一応は考えてみる燈だったが、まるっきり見当がつかなかった。金曜日の夜に電話したのが最後だったが、その時も別段様子に変わりはなかったはずである。

 燈が不思議そうに首を傾げると、紫は睨むのを(まあ元々そんなに力強くもなかったのだが)止め、申し訳なさそうに言う。

「すみません。分かってはいるんです。私のわがままなのは」

「何のこと?」

「そ、その。金曜日にあかりさんに、あ、あんなこと言われた後だったので、な、なんていうか期待しちゃったんです。えっと、……デ、……」

「……デ?」

 燈が促すと、顔を真っ赤に染めた紫が口をまごまごさせながら、

「……デデデデートのお誘いがあるかもって思っちゃったんです!」

「あー」

これには燈も頬を染めた。その様子に紫はますます恥ずかしくなりながら、その勢いに乗せて捲し立てる。

「わ、私。え、えと、なんていうか。……あかりさんは優しいんです。あかりさんはあったかいんです。あかりさんと一緒にいると、ちょ、ちょっと緊張するんですけど、とても落ち着くんですけど、とても落ち着くんです。だから、……だからえっとなんていうか、私、あかりさんと一緒に居たいんです。だから……」

 そこで言葉を区切って、ひとつ小さく呼吸する。胸に手を当てて、か細い声で、でも確かな思いを口にする。

「――だから私、あかりさんのことが大好きなんです」

「…………」

 頬を染めながら微笑む紫。

 頬を人差し指で掻きながら照れる燈。

「……じゃあ、さ」

 恥ずかしそうに燈は口を開く。

「デート、しようか」

「え?」

「次の土曜日にでもさ。……私も、したいし。デート」

 最後の方は燈にしては珍しく小さな声だった。

「は、はい! しましょう、行きましょう、デート。ど、どこに行きましょう!?」

 その素晴らしすぎる名案に、紫は思わず身を乗り出す。が、

「……ストップ」

 燈はすぐさまいつもの調子を取り戻し、手で制し待ったをかける。

「え、えと?」

「その話は、ノート写し終わってから。ホームルームまでもうあんまり時間がないんだから」

 ちらりと、燈は壁時計を見やる。予鈴までは後二〇分ほどだが、教室までの移動も考えると、そんなに時間がない。

「うぅ、残念です」

 項垂れる紫に、燈は小さく呟く。

「まあ、土曜日までなら時間はあるわけだし、ゆっくり考えよう」

「……はい!」

 微笑む紫。嬉しくてしょうがない、といった笑顔に再び照れた燈は視線を逸らそうと、手元の本を開いた。

「ほら、早くノートを写す」

「は〜い」

 ほんのちょっと速くなった口調に紫は気づいていた。だからこそ紫も素直に返事をする。

 再び、

 ノートを書き写す作業に戻った紫。

 本のページをゆっくりと捲る燈。

 二人とも口を閉じたまま、図書館は静寂に満ちている。

 ただ、それが。

 ――それが、心地よかった。

 

 ふと、燈が口を開く。

「……あ、ゆかり」

「ほえ、なんですか?」

「私が眠っちゃう前に終わらしてね」

「あー。はい、頑張ります」

「……というか、もうだいぶ眠い」

「い、急ぎますっ」

「んー。……おやすみ」

「ちょっ。あかりさーん。頑張ってくださいー」

「ぐー」

「あかりさーん!」

 

 本当に心地よい、時間。

説明
単発の百合小説です。一話完結なのでお気軽にどうぞ。『百合ものっ!』というタイトルで繋げたいと思います。  ――あなたは、誰か好きですか?
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