泣いた赤鬼 |
冬を迎えようとしていた街の歩道には色褪せた落葉が無造作に散らされていた。事務所の前で少し大きめの箒に手こずりながら枯葉を掻き集めていたやよいは、自分の後ろで佇む高木社長に暫く気がつかなかった。
「感心だねえ」
「あっ、お帰りなさい」
「茶菓子を貰ってきたから、早く片付けて上がってきなさい」
「はーい」
やよいはちりとりに集めた落葉をゴミ袋に詰め込み、口を結んでゴミ置き場の鉄箱に押し込んだ。掃除は終わっていなかったが、やよいはおやつを食べてからまた頑張ればいいやと横着することにした。階段を駆け上がり事務所に戻ると、社長が大仕事を終えた千早を褒め称えているところだった。
「君達も如月くんのように立派なステージを遣り遂げるようになって欲しい」
まだステージ経験の少ない事務所の女の子達から尊敬の眼差しが千早に集まっていた。
「いえ、これも社長や皆さんのお陰ですから」と、千早は模範的に応えた。まだこれといった仕事を貰えていなかったやよいは、いつになったら自分も千早さんのようになれるのだろうかと、配られた水羊羹をスプーンですくいながら考えていた。高級なお店の菓子らしく慎ましい容積で、やよいには少し物足りなく感じられた。それを見計らったように、隣から新しい水羊羹が回ってきた。先輩の春香だった。
「私、ダイエットしてるから、食べてよ」
「いいんですか?」
ダイエットのせいであろうか、春香は元気がないように見受けられた。千早を中心としてソファーで談笑する輪から外れて、春香は事務所を留守にしているプロデューサーの椅子に座り、一人窓の外を眺めていた。二つ目を平らげたやよいが話しかけると、春香ははっとした表情をしてみせた。
「あの、何見てるんですか?」
「えっ。ううん、なんでもないよ」
少し様子がおかしい春香をやよいはじっと見つめていたが、掃除が途中だった事を思い出しまた外に出て行った。春香は、いつまでたっても現れないプロデューサーを待つのを諦め、日が落ちて暗くなった窓に映る、自分のもの悲しげな顔と向き合っていた。
「天海君、帰らなくていいのかい?」
事務所は春香と社長だけになっていた。他の娘達がいないのを確認してから、春香は社長に尋ねてみた。
「あの、今日はプロデューサーさん事務所に戻らないんですか?」
「ああ、彼なら今日は如月君と食事だよ。ステージのご褒美だそうだ。何か用があったのかね?」
「……そうだったんですね」
「私でよかったら相談に乗るよ」
半ば自棄になっていた春香は、ひと思いに自分の考えを社長にぶつけることにした。遅かれ早かれ、伝えなくてはならない事だ。
「社長。私、辞めようと思います」
その後の長い沈黙が、事務所での春香の立場を物語っていた。
汐留の高層階にあるレストランで、千早は慣れないイタリアンと格闘していた。プロデューサーからのご褒美であったが、男性と二人で食事をするという状況に、まだ未成年だった千早は少し舞い上がっていた。プロデューサーは彼女の業績を讃える言葉を続けていたが、千早には話の半分も頭に入ってこなかった。
「まぁ、春香なんかと比べるとね……」
聞き流すつもりであったが、その一言が、浮いた気分になっていた千早の心に水を打った。
「社長ね、もうあいつの契約更新しないかもしれない。あ、これは内緒な」
千早と春香は事務所の同期であった。歌の才能がある千早は早々と舞台やテレビ仕事を獲得し、アイドルとして順調な滑り出しを遂げていた。生真面目な性格が国営放送で重宝がられ、教育番組でのレギュラーも獲得していた。その歌唱力が買われて、出荷枚数はさほど多くはなかったものの、クライアントのコネでCDを出す事ができた。これに対して春香は鳴かず飛ばず。仕事は無難にこなすものの、クライアントから見初められるような才覚がなかった。仕事が繋がらない上に何かにつけて甘えてくる春香を、プロデューサーは最近疎ましく思っていた。
「アイドルとしてはお前の方がずっと格上だし――」
「あの!」
周りの客の食具が止まった。
「……ごめんなさい」
「どうしたんだ急に」
「あの、プロデューサー。前から相談したいことがあったんです」
「ああ、なんでも言ってくれ」
「プロデューサーのこと信じているから言うんですけど、私を歌手として売り出して貰えないかって思っていたんです。その、今のようなアイドルとしてではなくて……」
急激に曇るプロデューサーの表情に、千早は自分の意見を通すことを諦め始めていた。
「……ごめんなさい。生意気言って。それと――」
沈黙が降りたテーブルからウェイターによって空いた皿が下げられる様子を二人は黙って見守っていた。
「それと?」
「春香のこと、悪く言わないでください」
プロデューサーの男は年下の女性に咎められたばつの悪さから、小さく頷いて食後のコーヒーに手を伸ばした。彼はコーヒーカップの中を暫く眺めてから、黒い水面に映る自分の顔に言い訳するように言った。
「仕事だからね。私情は挟めないんだ」
「冷たいんですね」
「お前にいわれると辛いな。でも、もう暫く今のまま続けてくれないか。お前にはこれから事務所を引っ張っていって欲しいんだ。後輩たちもリードして欲しい。そうしたら次の道も開けやすくなるからさ」
「リードって、何を?」
「最近の事務所は弛んでる。誰かが引き締めないと」
「私にできるでしょうか……」
「心配するな。俺と二人でやろうよ」
「プロデューサーがついていてくれるんだったら、私やってみます」
「期待してるよ」
プロデューサーが千早を見つめる目には力が篭っていた。千早も彼に応えるよう見つめ返した。少し長く見詰め合っているのが恥ずかしくなって、先に視線を逸らしたのは千早だった。デザートのシャーベットは火照った舌先を冷やすだけで、あまり味が分からなかった。
数日後、事務所に立ち寄った千早は、春香が自分の持ち物を大きなバックに積めている姿を目撃した。
「春香」
「う、え?」と、不意をつかれた春香は端で掴んでいた雑誌を床に落としてしまった。彼女が初めて載った雑誌で記念として事務所に置いてあったものだ。千早は床に横たわる雑誌を拾いながら、春香にかけるべき言葉を考えた。
「どうしたの?」
数秒の間を置いて出てきたのは、慎重に考え抜かれた上での無難な言葉であった。
「なんでもないよ。ちょっとこれ持って帰ろうかなって」
春香の回答に、千早は距離を置かれたと感じた。春香の態度に千早は咎めるような視線を刺した。春香はもじもじとバックの中を眺め続けていた。
「まるで明日から事務所に来なくなるかのような荷造りね」
「知ってたんだ……」
「えっ?」
春香は意地で涙を押し止めていた。
「聞いたんでしょ? 社長から」
「社長から? 聞いたって何を? 私、何も知らないわよ」
プロデューサーの考えを知られたくなかった千早は、答えに窮してしまった。
「と、とにかく場所を変えましょうよ。私でよかったら相談に乗るから」
二人は駅とは反対側にある地味な喫茶店まで無言で歩いていった。
春香の悩みは仕事自体もそうであったが一番は事務所での人間関係だった。仕事で実績がない負い目から、事務所の皆の輪の中に入ってゆけなかったのだという。ついこの前事務所に所属したばかりの響という子にイベントの仕事を取られてしまったことも、彼女の少ない自信を失わせる要因となっていた。
「ええ、だって我那覇さん、ダンス凄く上手だもの」
「私、自信なくしちゃった」
「彼女、沖縄のスクールでトップレベルだったらしいわよ。相手が悪かったのよ。気にする事ないわ」
当初の予定では春香とやよいが出演する予定で、春香はやよいを誘って一緒に練習をしていた。先輩然として振舞っていた春香は、やよいに対して申し訳なく思っていた。
「やよいね、弟達にイベントに出るんだって言ってたらしくて……」
「高槻さんも残念だったけど、次のこと考えましょうよ」
千早は春香が必要以上に悩んでいる事をもどかしく感じ始めていた。
「私って皆から足手まといに思われてるのかな?」
「春香!」
プロデューサーが春香をはじめ事務所全体に抱いていた苛立ちを、千早は理解できたような気がした。春香達には申し訳ないが、皆は自信がない自信がないと言い訳をして甘えているのだと千早は感じた。やはり誰かが厳しく言わなくてはならないのだ。だが、涙目になっている春香を目前にして、千早の毅然たる決意は早くも揺らいでいた。
――どうしたらいいのかしら? ……そうだわ。これなら一石二鳥かも。
千早は、これからの事務所での振舞い方を春香に伝えた。春香は申し訳なさそうな顔をしていたが、その時の千早にはこれ以上の案は思い浮かばなかった。
「千早ちゃん、ごめんね」
帰り際に、春香は何度も何度も千早にそう言った。
「高槻さん、もっと丁寧に歌えないの?」
事務所のアイドルが集まった合同レッスンに緊張が走った。これまでの和気藹々とした雰囲気が、千早の一言によって凍りついた。
「ご、ごめんなさい」
「作詞された先生に申し訳ないと思わないの?」
これまで自分に辛くあたることなどなかった千早からの名指しの指導に、やよいは思わず涙ぐんでしまった。
言い過ぎではないか? 誰もがこう思い、賛同者を求めるよう互いに目を合わせたりした。それでも千早の生真面目な性格を知る皆は、たまたま千早の機嫌が悪かっただけではないかと、自分に言い聞かせていていた。
「や、やよいちゃん。もう一回やってみようよ」
こんな時に無理して場を明るくしようと空元気を出したのは、いつも控えめで自分の意見を言うことが少ない雪歩であった。それでもその後緊張のため何度か間違ってしてしまったやよいは、レスッンが終わる頃にはすっかり気落ちしていた。他のメンバーは早々に帰宅してしまった。今日の出来事に、皆が少しばかり嫌気が注していたからだ。
春香は一人、やよいの傍に行き、二人で自主トレーニングをしようと声を掛けた。やよいは帰宅が遅くなることを躊躇したものの、このまま一人で帰るのも辛いので春香に甘えることにした。
あ・え・い・う・え・お・あ、あ・え・い・う・え・お・あ。
ただ二人の声が響くトレーニングルーム一角を、安い白色電灯が照らし続けていた。
「ほら、やよい、もっとイーって、はっきりと」
「えっと。いー」
「イー」
二人のレッスンはその後も暫く続く事になった。
日を重ねるにつれて、千早の姿勢が一時的な気紛れではないことが分かってきた。ダンスに関して響や真に及ばない千早であったが、程々にレッスンを切り上げようとするメンバーが次の標的になった。
「もう一回合わせましょうよ」
「…………、もうイヤ」
度重なる復習に露骨な態度で拒否を表明したのは美希だった。タオルを床に投げ捨てスタスタと廊下に出て行った美希を春香が追いかけた。リピートの原因である失敗を繰り返していた雪歩に、気の効いた言葉を投げかける勇気はなかった。やがて更衣室のあたりから美希の怒鳴り声が聞こえてきた。皆が十分に呼吸を整えるため酸素を求めていたが、それを許さない緊張がトレーニングルームを覆っていた。
二人は戻ってこなかった。
美希と一緒にトレーニングを途中で抜け出した結果となった春香だが、帰り道の途中にある古めかしいカフェに美希を誘ってみた。
「千早ちゃん、最近怖いもんねー」
美希から千早の悪口を言葉にさせてはならないと春香が先手を打った。
「……そんなんじゃなくて」
「え?」
話を聞いてみると、美希は家庭や学校での不満が鬱積していて、ストレス発散のつもりでやっていたトレーニングまで息苦しくされるのはたまらないと考えていたようだった。
「……でもね、今のままじゃ駄目だってことも、わかってるんだ」
それから美希は堰を切ったように事務所への不満を語り始めた。そして春香は、美希が普段の態度からは想像もできないような野心を抱いている事も知った。
「千早さんに言われなくたって……。でも、やれって言われたヤル気なくしちゃうもん」
「だったら今から戻ろうよ」
「今日は今日。でも、明日から。明日から本気だよ」
不安になる言葉であったが、美希の瞳の輝きを見て、春香は今日のところは彼女を逃がす事にした。
「春香は戻らないの?」
「……私も明日から」
「共犯だ」
共犯の印ということで、店頭のガラスケースに置かれていたロンケーキを二人で分けることにした。ここは同盟の印にきちんと二つに分けなければならないと、美希は固いマロンを真っ二つに割くという難行にわざわざ挑む事にした。
スプーンの側面にマロンを当てがい、弾き飛ばないよう美希はゆっくり力を入れていった。
「そんなにこだわることないんじゃないかな?」
「だーめ。やると決めたの」
美希は器用にマロンケーキを等分してみせるとご満悦の様相だった。この不思議な儀式のご利益であろうか、約束どおり翌日から美希はレッスンに打ち込むようになった。
このようにして、リーダーの千早と補助役の春香という体制が徐々に構築され、事務所は変化の兆しを見せ始めていた。
「人を叱るのって辛いもの。相手も傷つくし自分も嫌な思いをするから」
律子は最近のトレーニングでの千早の様子を亜美と真美から聞きつけていた。
「でもね、それって他人に無関心であることより遥かにいいことよ」
「何でもお見通しなんですね。確かに昔は他の皆のことには気が回っていませんでした」
「人間的にも成長しているわね」
「やめてください。そんな、私なんて……。あっ、そろそろ行かなきゃ」
「売れっ子は大変ね」
「ですから……。あっ、そうだ。これを美希に」
「何?」
「昨日、美希が忘れていったんです」
「まったくもう……」
千早はいそいそと身支度をして出て行った。春香の勧めてくれた柔軟剤を使ってみたのだけれど、大丈夫かしら? そんなことを考えながら、千早は事務所の階段を駆け足で降りていった。
「プロデューサー! 待ちました?」
「ちょっとギリギリだな。乗って。話したいこともあるんだ」
千早はどきっとした表情でプロデューサーを見つめた。
「おい、早く。お前にとってチャンスかも知れないぞ」
はっとした千早は小走りして助手席のドアを開けた。
千早のリーダーシップによる成果であるのかは断言できないが、それから間もなくして彼女達の事務所は着実な成果を挙げ始めた。基礎的な実力を備えている事務所のアイドル達は数多くのリピート案件を獲得した。中でも春香の露出度の急上昇は千早を追い抜く勢いであった。一人で仕事に向うのを嫌がるアイドル達が春香に同行を求め、そのついでに春香も出演を獲得するような案件が増えていた。彼女の魅力を明確に説明してくれるクライアントは少なかったが、春香がいるだけで他のアイドルの個性が際立つというのが律子にとって最も腹に落ちる説明であった。名脇役なのである。そして業界関係者にとって有り難かったのは、春香が楽屋にいると揉め事が少なくなるということだった。そんな彼女に、クラスのマドンナには怖気づくけど気の弱そうな娘だったら恋人にしたいと考えるような、初心な男性達が注目し始めていた。千早の本格的な楽曲には遠く及ばない持ち歌であったが、春香は念願のCDデビューも果たした。
一方の千早はというと、ファン数はピークアウトしていたものの、コアなファン層を獲得し、実力派を好む彼等に合わせて先鋭化していった。好対照な春香と千早が同じ事務所の所属であることは、事情通のファンであれば必ずネタにする話題でもあった。しかし、さすがの彼等であっても、全く路線が違う春香と千早が実は盟友とも呼べる関係にあることなど想像もできなかっただろう。
春香は有頂天であった。それでも春香はこの人気が千早のとてつもない献身によって支えられているということを忘れまいと努めた。
『春香、私ね、事務所の為に嫌われ役を買って出ようと思うの』
『えっ、それってどういうこと?』
『それが私に期待されていることなの。それに応えたいの』
『それじゃあ千早ちゃんが……』
『あのね、それには春香の力が必要なの。厳しいだけじゃ、事務所の雰囲気が悪くなるから、それをフォローして欲しいの。そうしたら皆が春香のこと信用してくれると思うし』
『そんなことまでして好かれようだなんて思わないよ』
『よく聞いて春香。そういう立ち回りって、私にはできないこと、分かるでしょ? 私からお願いしたいの』
『それじゃあ千早ちゃんが辛すぎるよ』
『いいのよ、私には一人だけでも信頼してくれる人がいれば』
「あーっ、人のもの横取りしちゃいけませんよ、美希さん」
春香のショートケーキのイチゴを横取りした美希をやよいが咎めた。しかし、ご機嫌斜めの美希を春香はそれ以上追及しようとしなかった。
「もう分かり易すぎだよ、春香。同盟破棄なの」
「えへへ」
この頃の事務所では、春香とプロデューサーのただならぬ関係が噂されるようになっていた。実際どれほどの関係なのかは当人達しか分からないのであったが、今や事務所の看板娘である春香の恋敵に名乗りを上げる者はいなくなっていた。
「そうだねぇ。口を挟みそうな千早お姉ちゃんも地球の裏側だしねぇ」
「裏側はブラジルでしょ!」
律子が亜美の冗談に乗ってくるなんて珍しいなと春香は思った。
「西海岸だったらお兄様が大学にいるから色々と案内できたのに。まぁ、音楽の本場はやっぱりニューヨークだし」
――伊織まで?
分刻みの予定を入れられるトップアイドルの二人が十日も顔を合わせない事は珍しくなくなっていた。それが当然と思い始めていた春香は、今千早が何処で何をしているのかを、知らなかった。
「……あの、ニューヨークって?」
一同が呆気に取られた顔をして春香を見ていた。
「うーん、はるるんのボケはちょっとイマイチですなー」
真美の指摘にも春香は不思議顔を止めなかった。さすがの伊織も呆れ気味だった。
「ちょっと、知らないワケないでしょうね。千早が全米デビュー狙って渡米してること」
――えっ?
「あ、ああっ、そうだったよね」と春香はその場を取り繕ってしまった。
衝撃的な事実を前に、春香は混乱し始めていた。真偽を確かめる間もなく次の仕事が彼女を事務所から奪い去っていった。移動するタクシーの中で、春香は冷静に事情を飲み込もうとした。もしかすると皆で自分をからかっているだけなんじゃないだろうか。そう思って千早の携帯番号に電話してみたが、繋がらなかった。メールは送信できたようだがはたして本人が目にするかどうか。
――どうして? どうして私だけに黙ってアメリカに……。
春香はタクシーの窓に映る自分の顔を眺めてみた。その奥にゆったりと飛び立つ、千早の乗っているはずのない飛行機を目で追ってみた。私は何か機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか? 二人の友情は、上手くいっていたはずではないか。
そんな彼女の脳裏をぶちまけたような色彩溢れる繁華街にタクシーは突入していった。デパート一階の大手ブランドで輝く宝石、カフェで佇む利発そうな若者達、最近話題になっている映画の広告、プロデューサーが好みそうな細いスーツの並ぶショーウィンドウ、彼の手が私のブラウスのボタンを外し胸の膨らみに手を伸ばす、溢れるばかりの果物が載ったケーキが洋菓子店に並ぶ、唇が重なる直前でプロデューサーが私を突き飛ばした。どうして、拒むの? 私の他に誰が……、あっ!
「お客さん! お客さん!」
両手で頭を抱えてうわごとをつぶやいていた春香を、運転手がバックミラー越しに見守っていた。
「ご、ごめんなさい。な、なんでもないんです。……だ、大丈夫です」
「一旦降りますか?」
「大丈夫です。このままで」
平静を取り戻すべく、春香は窓に映る自分の顔ともう一度向かい合った。少しは悲しそうな表情をしろと自分に対して叱咤したいくらい、いつもと同じ天海春香の顔だった。
――でもおかしいじゃない。こんな時に人間て泣くものじゃないの? 泣かない私って何なの? 人間じゃないの? 千早ちゃんのプロデューサーさんへの気持に全く気付けなかった私って……、鬼? そうか、私は知らない間に鬼になってたんだ。親友の大切なものを自分の幸福のために奪って何一つ罪悪を感じる事がない鬼なんだ。
窓ガラスに映る赤鬼は、変わらず平常な顔をしていた。この後のグラビア撮影があることを意識して、泣いてはいけないという打算が自分の中で上回っていることを春香は自覚していた。その鈍った心の動きに、春香は不思議と納得していた。鬼が人を傷つけて泣くはずがないのだ。それから泣く事を忘れた赤鬼は、驚くほど無難に仕事を終えて、何事もなかったかのように事務所に戻った。
それから数ヶ月。正統派アイドル復権の時流に乗り春香は大ブレイクを果たした。高稼働が常態化しても春香は自ら進んで仕事に向った。業界の関係者は彼女の気丈さを褒め称えた。その前向きな姿に惹かれ男性だけではなく女性のファンも増えた。誰もが春香を慕ってくれているようだった。カリスマではなく、友達になりたいアイドル。人々がライブ会場に足を運び客席を埋め尽くしていった。観客に両手をめいっぱい振り満面の笑みで応える春香は、なんて自分は醜悪な存在なのだろうと思った。
春香の成功とは裏腹に、同業者の口からは単身渡米した千早の不遇が漏れ伝わってきていた。現地では千早の華奢な体型では歌手として限界があると考えられていた。千早のデビューを目的に組織されたチームも日本からの監視が行き届かなくなった途端に自然消滅していた。収入のなくなった千早は単身郊外に引っ越すが、これは事務所に相談のない千早の単独行動であった。それでも日系企業の現地法人が彼女に目をかけてくれレコーディング直前まで話が進んではいたものの、今度は自力デビューにこだわる千早がこれを拒否してしまう。あまりの迷走ぶりに律子は強制帰国を画策したが、これが裏目に出て千早と音信不通となる事態にまで発展していた。
――どうして私はこんな笑顔でいられるの?
ステージ裏でスタッフに囲まれアンコールの段取りを確認する春香は、この数ヶ月の間、一粒の涙も流さなかった。
――私は皆を騙している。人の心を持たない鬼に、どうして拍手が送られたりするの? 千早ちゃん、千早ちゃん、苦しいよ! 助けて!
「はい、それではアンコール二曲行きます。春香さんスタンバイお願いします」
「はい!」
単独ライブの最後、春香の心で渦巻く感情を乗せたバラードは、期せずして彼女のベストステージとして永らく記憶されることになる出来栄えであった。
『春香、私ね、昔から歌手になることが夢だったの。今でもそう。こんなの今時笑われるかしら?』
『そんなことないよ! 私もそう。いつか大勢の人の前で歌いたいって』
『叶うのかしら?』
『信じてれば叶うよ。ねぇ、いつか私達二人でステージに立てたらステキだと思わない?』
『そうね。いつの日か……』
春香がライブから戻ると、事務所は混乱に陥っていた。プロデューサーと連絡が取れなくなっているのだという。前日までライブを段取りしていた彼が当日舞台裏に来なかったことを春香は思い起こした。周囲のスタッフに、もう春香は大丈夫だと言っていたという。やがて郵便受けにプロデューサーの辞表を見つけた真が大慌てで事務所に飛び込んできた。
「今から追いかけよう!」
「いぬ美ならプロデューサーの匂いを覚えてるそ!」
仕事が入っていなかった真と響が捜索班を買って出た。
「私、プロデューサーのアパートに行ってみます!」
「私もついてゆきます」
春香の申し出にやよいが続いた。春香は真や響がプロデューサーを探しても徒労に終わる事を知っていた。行き先は、一つしか思いつかなかった。
「プロデューサーさん、どこにいっちゃったんですかね? 私達のこと嫌いになっちゃったんですかね?」春香が何も言葉を返してくれず、やよいは一層寂しそうな顔をした。
二人がプロデューサーの部屋の前に辿り着くと、そこには郵便受けからはみ出ている封筒があった。春香はその中に入っていた手紙を読んでみた。前半はこれまで世話になった事務所に迷惑をかけてしまうことの懺悔が記されていた。そして、春香に向けて、自分は千早の想いに気がついてやれなかった最低な男であったと、そして自分は彼女を追いかけてアメリカに渡る事にしたと、そう綴られていた。
「なんて書いてあるんですか?」
やよいの問いかけにも応えず、春香は何度も何度も読み直した。冷たくなったドアに額を擦り付けると、堰を切ったようにボタボタと大粒の涙がコンクリートに落ちていった。
「春香さん、どうして泣いてるんですか?」
――よかった。千早ちゃんとプロデューサーさんは、きっと向こうでやり直すんだ。これでよかったんだ。
やよいは涙でぐちゃぐちゃになった春香の笑顔をただただ見守り続けていた。
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