超次元ゲイムネプテューヌmk2 Crimson Snow 第一話 邂逅
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「お姉ちゃん、遊ぼう!」

 ノックもせずにいきなりドアを開けるなり、ブランの部屋に入ってきた少女が大声で叫んだ。

 まだ歳の桁が二つを超える直前ぐらいと思われる、幼い少女である。

 少し暗い青色をした大きな瞳が、椅子に座ったブランをまっすぐ見つめている。

 はつらつとした笑顔が、少女の顔に溢れていた。その笑顔を見た者を、たちどころに同じように笑顔にしてしまうような、不思議な魅力が、その笑顔にはあった。

「ラム、仕事中は部屋に入ってこないで、って言っておいたはずだけど」

 ブランはそう言いながら、ほとんど表情を変えずに、少女――ブランの妹、ラムの方へと顔を向けた。

 ラムは頬をハムスターのように膨らませると、

「お姉ちゃん、帰ってきてから仕事ばっかりで、全然遊んでくれないんだもん。今日こそは遊んでもらうって決めてたの! ほら、早く遊びに行こう!」

 と言って、ブランの傍まで走り寄ると、袖を掴んで思い切り引っ張った。

 ペンを持ったブランの右手が、机の上から離れてラムの方へ引き寄せられる。

 だが、いくらブランが小柄な少女といえども、ラムとの体格の差はかなりある。引き寄せられるのは腕だけで、身体は依然として椅子に座ったまま動かない。

 無理に引き剥がすのは容易いが、それはあまりに可哀想だ。

 かと言って、このままでは仕事が進まない。今進めている仕事は、昨日の書類整理の続きである。結局昨日のペースでは全ての書類を片付けることはできず、今日まで持ち越しになっているという状況だ。

 未だにしつこく腕を引っ張り続ける妹を、どうしたものかと考えていると、

「お姉ちゃん、遊んでくれないの……?」

 ふいに、ドアの方から、か弱い声が聞こえた。

 声のする方を振り返ると、そこに立っていたのは、ラムと瓜二つの少女だった。

 少し暗い色の青い瞳、栗色の艶やかな髪、まだ十歳に満たないと思われる小柄な体格、果ては着ている衣服すら、ラムと色違いでこそあるが、同じデザインのものだった。

 あえて違いを挙げるとすれば、髪の長さと、ラムと比べるとおとなしそうな顔つきと雰囲気は、その少女独特のものだった。

 おそらくラムが場を明るくさせる才能の持ち主ならば、この少女は場を落ち着かせる才能の持ち主なのだろう。

 事実、この少女が持つ雰囲気が影響してか、ラムもいつの間にか袖を引っ張る動作を止めて、その少女の方を向いていた。

「ロム……」

 思わず、ブランはその少女――ロムの名前を呼んだ。

 ほとんど無意識に近い出来事だった。なぜ思わず名前を呼んでしまったのか、ブラン自身にもよくわからなかった。

「あっ、ロムちゃん。ほら、ロムちゃんも手伝って! 一緒にお姉ちゃんをこの椅子から引き剥がして、外に連れ出しちゃおう!」

 ラムはロムの方を向きながら、再びブランの袖を思い切り引っ張り始めた。

 ロムは黙ってその場で頷くと、すぐにラムの傍に駆け寄った。

 ラムが掴んでいる袖のすぐそばを持って、ラムが袖を引く勢いに合わせて、ロムも袖を引く。

 ふたりは綱引きでもするように、ブランの袖をしっかりと握り締めては、呼吸を合わせて同時に引いた。

 その時、初めてブランの身体が、椅子に座ったままの姿勢から崩れた。

 椅子の片側の脚がふわりと浮き上がり、ブランの身体が斜めに傾く。

「おっ、おい!」

 ブランは咄嗟に、左手でデスクの縁を掴み、なんとか体勢を保った。 

 危うくそのまま床に倒れるところだったのを、今は左手ひとつで支えている。あまり楽な姿勢ではないが、手を離してしまえば、すぐさまブランの身体は床に倒れこんでしまうだろう。

 ふたりは相変わらず、夢中になってブランの袖を引っ張っている。ブランを遊びに連れ出したい一心で、このまま引っ張り続ければ、ブランがどういうことになるのかまで頭が回っていないらしい。

 このままではいけないと、ブランが床に着いている片足を傾く方向へずらして、ひとまず椅子から降りようとしたとき、

「こらこらおふたりとも、ブラン様が困っていらっしゃいますよ。一度手を離しなさい」

 聞きなれた声に、ロムとラムは思わず声の方向を振り向いた。

 と同時に、ブランの袖を掴んでいたふたりの手が、そこから離れた。

 急に力を失った椅子が、慣性によって倒れそうになるのを、ブランは机を掴んでいた左手に力をこめて、何とか防いだ。

 ようやく落ち着ける姿勢になったところで、声のした方へ振り返った。

 そこには、慣れた赤を基調とした服装に、赤い縁の眼鏡をかけた女性が、追加分の書類を抱えたまま立っていた。

 ルウィーの教祖、ミナである。

「だって、お姉ちゃん帰ってきてから仕事ばっかりで、全然遊んでくれないんだもん」

 ミナの方を向きながら、ブランを指差してロムが言った。

「お姉ちゃん、私たちのこと、嫌いなの……?」

 ラムの隣で、ロムがブランの方に振り返って上目遣いで喋りかける。

「嫌い、と言うわけじゃない……ただ、今は仕事で忙しいだけ」

 ふたりに目を向けながら、ブランは静かな声で言った。

 ブランの言っている事の、半分は本当のことである。事実、ブランはふたりの事が嫌いなわけではなかった。

 否、むしろその逆。妹を思う気持ちなら、その辺の姉妹には決して負けることなどないと、自負している。

 三年間の内に溜まった仕事を片付けるのに、手を焼いているのも、決して嘘ではない。

 ただ、それだけでは、ブランがふたりの誘いに乗らない理由には、不十分である。

 口には出さないが、もうひとつの理由としては、ブランはただ歳の離れた妹たちと、どう接してよいのかわからないだけである。

 どう接してよいかわからないから、距離を置こうとする。まるで付き合い始めたばかりの男女が持っているようなそれが、ブランの中には由々しき問題として存在していた。

「ミナ、追加の書類ならそこに重ねておいて。今取り掛かっている分が終わったら、すぐに片付けるから」

 足元に積み重なっている書類を指差して、ブランが言った。 

 ブランの言葉を受けても、ミナはしばらく視線を手に抱えた書類に移して黙ったままだった。

 その様子は、何かを考えているようにも見えた。

 ふと、ミナの視線が足元の書類に向いた。

 そしてブランの方へ歩き出したかと思うと、何を思ったのか、足元に積み重なっている未処理のままの書類を拾い集め、両手に抱え込み、その場で反転して部屋を出て行こうとするではないか。

「……ミナ?」

 思わず部屋を出ようとするミナに声をかけた。

 基本的に大抵のことには無表情を貫くブランも、これには驚きの色を隠せなかった。

「おふたりとも、ブラン様の今日の分の仕事は、どうやら全て終わったみたいですよ?」

 ドアノブに手をかけたまま、ミナがロムとラムに向けて言った。

 その言葉を残して、ミナは両手に抱えきれないほどの書類を抱えて部屋を後にした。

 最初、ふたりはミナの言葉の意味が理解し切れなかったのか、きょとんとした表情でその場に立ち尽くしていた。

 ふたりがその言葉の意味を理解するのに、さほど時間はいらなかった。その証拠に、先ほどの表情の上から、みるみるうちに笑みが重なってゆく。

「じゃあ、お姉ちゃん、今度こそ遊ぼう!」

「いつもラムちゃんと一緒に遊んでる公園に行こう」

 ふたりはタイミングを計ったかのように、ほぼ同時にブランの方へ駆け寄ると、それぞれがブランの片方の袖を掴んで引っ張った。

 ブランはほとんど抵抗することなく椅子から下りると、ふたりに引かれて目の前のドアの方に歩き出した。

 ふたりがドアを開けて、ブランを廊下まで引っ張って行く。

 この時、もうブランはすっかり観念した様子だった。ふたりが引っ張る力に逆らうこともせず、一緒になって廊下を走って行く。

 そんな時、ブランの瞳が、前を歩く一人の女性の姿を捉えた。

 両手に書類を抱えたままのミナである。

 その横を、無邪気に廊下を一直線に駆けるロムとラムが通り過ぎ、ブランもそれに続く。

 急ぐふたりに足どりを合わせながらも、ブランはミナの方を振り返った。

 ミナに向けて何かを言おうと思ったが、急に何かを言おうとしても、気の利いた言葉が浮かんでこなかった。

 そうこうしている内に、ミナの方が、三人に向けて何かを言ってきた。

 前を行くふたりの笑い声で、言葉はよく聞き取れなかったが、その口は確かに、

「行ってらっしゃいませ、皆さん」

 と言っていた。

 言い終わった後のミナの顔には、思わず微笑み返したくなるような、温かな笑みがあった。

 ブランはミナを真っ直ぐ見つめ返すと、

「行ってきます」

 と、柔らかな笑顔でそう返した。

 

 

 

   ◆◆◆

 

 

 

 ロムとラムが連れてきた公園は、ルウィーの教会から歩いて十五分ほどのところにあった。

 ルウィーの中心地から少し外れた郊外にあるその公園は、ブランコやすべり台などの定番の遊具と、木製のベンチがふたつだけ設置されている、どこにでもありそうな公園だ。

 それほど広くはないが、親が子供を連れて遊ばせるにはちょうどよい大きさだった。

 公園は、辺り一面雪で覆われている。地面や遊具に降り積もった純白の粉雪が、昼下がりの日光を反射して白銀に輝いている光景は、どこにでもありそうなその公園を、どこか神聖な雰囲気に仕立て上げていた。

 その公園に、人影が点在している。

 公園にいるのは、まだ小学生にも満たない小さな子供たちと、その保護者と思わしき人々だ。

 人数は、それほど多くない。子供が五人と、保護者が三人いるだけだった。

 子供たちは、どうやら共同して雪だるまを作っているらしい。公園にある遊具には目もくれず、既に子供たちの身の丈の半分以上もある雪玉を、雪で覆われた地面の上で、せっせと転がしている。

 対してその保護者と思わしき大人たちは、子供たちから少し離れたところで固まって、世間話に花を咲かせている。

 その大人たちの視線が、先ほどから三人に注がれ始めていた。と言っても、その大人たちは三人を食い入るように見つめるのではなく、遠くから一瞬目を向けたと思うと、すぐさま視線を外してしまう。

 国の最高権力者である彼女たちが、お忍びで公園へ訪れたわりには、騒ぎが小さいようにも見える。

 だが、この光景は別段珍しいわけではなかった。

 この国――否、他の三国共に、無許可に女神のプライベートへ干渉することは基本的にタブーなのだ。その詳しい内容については、この国の法律にもきちんと記載されているし、他の三国も同様だ。

 理由はいくつか挙げられるが、この法の根底にある考えとして重要なのは、彼女たちは単に国の最高権力者であるだけではなく、神という存在であるということだ。

 人民が女神を称え、女神が人民を満たす。これが四国の設立以来、それぞれの国の基本方針であり、過去の数千年にわたる歴史が示してきた道である。 

 そのため、はるか昔は熱狂的女神崇拝者が掲げる、女神の神聖不可侵を前提とした法が、いくつも存在していた。もちろん、それを破れば厳しい罰を受けることになり、最悪極刑を下されることもあったらしい。

 だが、今はといえば、そんなことなどありはしない。時代の移り変わりと共に、法も人の心も変わってゆく。

最初に変わったのは人の心だ。そのような過激な考えは、逆に女神に対する冒涜行為だと言う意見が生まれ、それに従って法が変わった。神聖不可侵、絶対服従を基本原則として置かれていた法は、国の最高権力者としての女神の存在を維持しながらも、民衆の意見を政治に取り入れる、議会制民主主義と女神統治社会の融合を前提とした法へと姿を変えた。

 こうして、女神に絶対的に従い、不可侵を貫くという考えと法は徐々に消えていったが、その余波は今でも少し残っている。

 それがこの法律である。

 ただ、それはあくまで努力義務という形で執られているに過ぎず、実際に女神が三年ぶりに姿を現した直後は、プライベートの撮影の依頼が教会を通して女神に伝えられ、その内容が全国放送されるということもあった。

 だが、この法律のおかげで、ブランを含む女神たちは、かなり自由に外を出歩くことができた。

 街を歩いても、多少騒がれはするものの、マスコミや信仰者たちに取り囲まれて身動きが取れなくなることはない。

 そう思えば、この法律はブランたちにとってありがたいものであることは確かなのだが、ブランはこの事を思い出すたびに、どこか物寂しい思いを抱くことがあった。

 私は、ここにいる人々とは、かけ離れた存在であると。

 この法律を、今の自分の立場を、優越感として捉える人もいるのだろうが、ブランが抱く感情は決まって、疎外感と孤独感だけであった。

 街を歩けば、皆私の方を盗み見るように眺めては、ひそひそと声を抑えて会話をする。

 話の内容まではわからない。だがそんな事をされた日には、自分が女神ではなく、何か重大な事件の容疑者にでもなったような気分になってしまう。

 ブランが外出に対して、あまり積極的でないのは、これも理由のひとつだった。

 そんな気持ちにならないための対処法は、外を出歩かないこと以外には、ひとつだけ。気にしないことの一点に尽きる。が、そうは言っても、一度気にしだすと中々他のことに気を回す余裕を作れないのは、人間も女神も同じだ。あの保護者のことが気になりだすと、ついついあちらの方へ目を向けてしまう。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 隣にいたロムが、心配そうにブランの顔を覗き込んだ。

「私たちと遊ぶの、嫌?」

「そんなことないわよ……どうして?」

「今、お姉ちゃん、寂しそうな顔してたから……」

 ブランを見上げるロムの顔が、見る見るうちに悲しげなそれに変わっていく。

 妹に心配をかけるほど、自分は暗い顔をしていたのかと、ブランは自分の無意識を反省した。

「何でもないわ。少し、考え事をしていただけだから」

 そう言って、ブランはロムと繋いでいた手を放し、そっとロムの頭を撫でてみせた。

 ロムはまるで飼い猫のように、ブランの手の方に頭を預け、顔を上げたまま、気持ち良さそうにゆっくりと目を閉じた。

 そんな目の前のロムを見ているうちに、いつしかブランは、先ほどまで胸中に霧のように纏わりついていた冷たい靄がどこか彼方へ霧散し、代わりに心に陽の光が差してくるような、そんな暖かい感覚を味わっていた。

「あっ、ロムちゃんだけお姉ちゃんに頭撫でてもらって、ずるい! 私も私も!」

 反対側で手を繋いでいたラムが、頭をブランの方に突き出す。

 ブランは、はいはいと仕方なさそうに、しかし顔にはぬくもりのある微笑みを浮かべながら、もう片方の手でラムの頭をやさしく撫でた。

 ラムの反応は、ロムよりもはっきりしていた。ブランの方を見つめて満面の笑みを浮かべ、しばらくすると満足したのか、ブランの手からするりと抜けだし、二人の前に立った。

「ねえ、せっかく遊びに来たんだから、いつまでもそこに立ってないで遊ぼう! ね、ロムちゃん」

 ラムが公園の遊具を指さして、急かすように声を上げる。

 その声にロムが無言で頷き、撫でられるがままになっていたブランの手をつかんだ。

「お姉ちゃん、行こう」

ロムが前にいるラムを指さして、ブランの手を引っ張る。

 その手に連れられるようにして、ブランはふたりと一緒に公園の中央、遊具の置かれている方へと足を進めた。

「まずは何にしようかなー?」

 先に遊具にたどり着いていたラムが、買い物に来た主婦のような目で、遊具の見定めをしていた。

「あっちのブランコも、面白そうだよ」

 そこに後から追いついたロムが混ざり、一緒になって最初に遊ぶ遊具を決めるための、ふたりだけの会議が始まった。

 ふたりは遊具の前に立って、あれが良いこっちも良いと次々と公園の遊具を指さし、ふたりだけの会話に夢中になっていた。

 こうなってしまうと、もうブランのことは蚊帳の外だった。

 ブランは少し離れたところで、ふたりが遊具を選ぶのに夢中になっているのを、微笑ましく眺めていた。

 こんな何でもない光景も、妹たちと過ごすしばしのひと時も、今のブランにはただただ愛おしく思えた。

 それは、今でもブランの心に深く残っている、あるトラウマが原因であった。

 どうしてこんな楽しい時を過ごしているときに、あの時のことを思い出すのだろうと、ブランは自分の悪い癖を呪った。

 だがそんな気持ちをもまとめて呑み込むように、ブランの思考は三年前の記憶に包み込まれようとしていた。

 ――三年前、私は、否、私たち女神は、負けた。

 それも、完敗だった。私たちはあいつに、手も足も出なかった。

 今でも、あの時の屈辱と敗北感は、手に取るように思いだせる。そして思い出すたびに体が震え、あの時の光景が瞼の裏側にまで張り付いてくる。最近ふとした時に目を閉じてみれば、浮かんでくる光景は判を押したようにいつも、あの時の光景だった。

 遥か彼方まで広がる、血色の荒れた大地。その大地にまるで不法に投棄されたように点在する、薄汚れた廃材の数々。虚空で獣の喉の奥のように唸る、陰鬱な風。

 私たち四人の女神と、女神候補生のネプギアは、そんなこの世の地獄のような場所に、三年間も身を置いていた。当然、好きでそんなところに三年間もいたわけではない。私たちは、衰弱しきった体を触手のようなコードで絡めとられ、一切の自由を封じられていた。要するに、その場所に監禁されていたのだ。

そしてそこは私たちの敵、犯罪組織マジェコンヌの本拠地でもあった。

監禁される少し前に、私たちはその地獄に、自らの意志で乗り込んだ。私たち女神にとって最大の敵である犯罪組織マジェコンヌが勢力を高め、シェアが落ち込み始めていたからだ。

シェアとは、国民の女神に対する信仰率であり、このシェアという概念のおかげで、私たち女神は国民の信仰の度合いを、便宜上百分率形式で数値化された値から知ることができる。そして国民からの信頼と信仰の証であるシェアは、私たち女神の力の源であり、命の灯そのものなのだ。

 事態は、これ以上シェアが落ち込むようなことがあれば、最悪私たちの存在そのものが危ぶまれるというところまで発展していた。そこで、四国合同の教祖と女神による会議の結果、国民には内密にギョウカイ墓場への侵攻の作戦が持ち上がった。

 結局、他にこれといった打開案もなかったために、私たち女神と、女神候補生であるネプギアを含めた計五人で、ギョウカイ墓場への侵攻作戦を行うことが決定した。

 作戦当日、ギョウカイ墓場で私たちを迎えたのは、氷のように冷たい女だった。

 はち回りよりも少し上で二つに分けられた、膝まで届こうかというほど長く、それでいて恐ろしいほどに艶やかな、赤紫色の髪。雪のように透き通った、白い肌。その肌を包んでいたのは、私たち女神の最大の武器、プロセッサと極似した、奇怪な形の鎧。そして、その女が身にまとっていた最大の特徴、この世の全てのものを蔑むような、冷たい瞳と殺気。  

 ――マジェコンヌ四天王、マジック・ザ・ハード。それがその女の、私たち女神全員が為す術もなく敗れた敵の名前だった。

 

 

 そこまで思い返して、ブランはようやく自分の思考回路の制御を取り戻すと、自分の内側に向いていた意識を外に向けた。

 かなり長い時間物思いにふけっていたと思っていたのに、少し離れた位置にいるロムとラムのふたりは、まだ遊具を選ぶのに夢中になっている。

 これは、まだかなり時間がかかりそうだと、ブランがそう思った時だった。

 ふと、背後から視線を感じた。

 思わず、反射的に体ごと後ろを振り返った。視線から殺気や憎悪を感じたわけではなかったのに、ブランの体は驚くほど敏感に視線に反応していた。

 振り返ったその視線の先には、古い木製のベンチがあった。所々、白く塗られたペンキの塗装がはがれており、座る部分と背もたれの内側には、ささくれが立っている。

 そのベンチに、ひとりの少女が、無機質な表情を浮かべながら腰かけていた。

 ブランはその少女をひと目見るなり、直感した。さっき感じた視線は、この少女のものだと。

 ふと気が付くと、ブランはその少女から、目を離せなくなっていた。

 まだ幼さの際立った、不思議な少女だった。

 身に纏っているのは、黒い無地のコートである。

 それもぶかぶかの服だ。袖にはようやく半分くらいまで、腕が通っている。コートの裾が、地面に触れて薄汚れていた。

 そこから覗く肌が、恐ろしいほどに、白い。まるで、今までに一度も日光を浴びた事がないような肌をしていた。白色人種の肌をもってしても、この色が出せるとは、到底思えない。

 対してその少女の髪は、まるで黄金に輝く太陽を彷彿とさせるような、鮮やかな金色のロングヘアであった。

 少女が持つ深い青色の瞳は、じっとブランの方を見つめていた。

 それは、ブランを見つめているようでもあれば、その向こう側の何かを見つめているようにも取れる、焦点の定まらない瞳だった。

 しかし、彼女を不思議たらしめているのは、その容貌だけではない。

 それは、彼女が持つ雰囲気にあった。

 否、雰囲気というよりは、彼女の内側から滲み出ている((何か|・・))である。

 少なくとも、ブランにはそれが感じ取れていた。だが周りを見渡してみても、それに気付いている者はいないようであった。

 その何かを、彼女はブランに向けてわざと放っているわけではない。それは直立している彼女から、香水が香るように、自然に大気に溶け込んで、ブランの方へと流れてきていた。

 ブランはそこに異質な物を感じつつも、どこか親しみと懐かしささえ感じていた。

 自然と、足が前へ進んでいた。

 少女の目の前で、ブランの足が止まった。

「――あなたは、誰?」

 そっとブランは声をかけた。

 少しの間をおいて、少女の口が動いた。

「私は――」

 そこまで言って、少女は言葉を詰まらせた。

 さっきまでブランに注がれていた視線が、徐々に下を向き、遂には地面を見つめるようになった。

 少女は、何かを言おうとしていた。

 だがそれが、言葉にならなかった。否、((言葉に出来なかった|・・・・・・・・・))。

 少女の口が開いたまま、しばしの沈黙があった。

 が、しばらくして少女は再び口を動かした。

「―――エリス」

 俯いたまま、エリスはどこか悲しげに言った。

 エリス……ブランには聞き覚えのない名前だった。

 見た目からして、妹のロムやラムたちとそう変わらないぐらいの歳だろう。そうなると、妹たちの友人なのだろうかと、ブランがちょうどそう思っていた時だった。

「お姉ちゃーん! 何してるの? 最初に遊ぶの決まったよー!」

「その子……だれ?」

 さっきまで離れた場所でふたりだけの議論に専念していたロムとラムが、いつの間にか戻って来ていた。どうやら、うまく意見は一致したらしい。

「たった今会ったばかりの子よ。名前は――」

「エリス」

 言いかけたブランの言葉を、エリスはぼそりと呟くように奪い取った。

 ふたりがこちらに来たときも、話したときも、一度もふたりと目を合わせようとせず、俯いたままで。

「エリスちゃんね。じゃあエリスちゃんも一緒に遊ぼうよ!」

「遊ぼう……エリスちゃん」

 だが、そんな不愛想な態度をとるエリスに投げかけたラムとロムの言葉は、ずっと地面を眺めていたエリスの視線を上向けることに成功した。

 そんなことを言われるとは夢にも思っていなかっただろうエリスは、きょとんとした表情でふたりを見つめていた。いまだに、言われたことを幻聴ではないかと疑っているような目をしていた。

「遊ぶ……? 私と……一緒に?」

 いまだに信じられないといった様子で、エリスが言った。

 ブランも、ふたりの突然の行動には驚きを隠せないでいた。

 あのふたりも、自分たちが女神候補生であるということは自覚している。それはふたりにも、ブランが感じている周りの人々との違和感というものが、少なからず存在していることを意味している。だから今までも、公園に出かけても見知らぬ同年代の子供たちと一緒になって遊ぶということはほとんどなかった。

 そんなふたりが、会って数秒の、名前も知らなかった子と一緒になって遊ぼうとしているのだ。

「うん! 外で遊ぶときは、人がいっぱいいた方が、面白いもん!」

「一緒に遊ぼう……エリスちゃん」

 呆然としているエリスに向かって、ふたりが明るい声とともに手を差し伸べた。

 エリスが、恐る恐るふたりの手に向かって手を伸ばすと、ふたりはエリスの手が触れる前にその手をつかんで走り出した。

「え……? わ……っ」

 突然のことに、思考が追いつかないエリスを尻目に、ふたりはそのまま駆け出していく。

「じゃあお姉ちゃーん、向こうでちょっとエリスちゃんとお話してくるねー!」

「すぐ……戻ってくるから」

 振り返って言うふたりに、ブランははいはいと仕方ないといった風に答えた

 三人が向こうへ駆け出してから、ブランはなぜふたりがあんなにエリスをすんなり受け入れて遊びに誘ったのか、その理由の答えを何気なく考えてみていた。

 様々な空想が頭を飛び交った後に、あるひとつの答えがブランの頭に浮かび上がってきた。

――もしかしたら、ふたりは私がエリスに感じたものと同じようなものを、感じ取ったのでは?

 思い至った初めは、我ながらそんな馬鹿なと思った。いくら女神候補生とはいえ、ふたりはまだ幼い子供。気だとか気配だとか、そんな微妙なものの区別がつくとも思えなかった。

 でも、そこで思い直した。逆だ。その逆、まだ幼い子供だからこそ、ふたりはエリスの持つ独特の気配に、私よりも敏感に反応したのだろう。

 幼い子供は時に、私たちが思うよりもずっと勘が冴えることがよくある。そうなると、やはりそれが、ふたりがエリスを受け入れている理由なのかもしれない。

 ただ、ふたりがそんなものを意識している様子はない。もしかしたら、ふたりは無意識のうちに、エリスの中に自分たちと通じる何かを感じ取っているのかもしれない。

 そんな妙な考えがブランの頭に浮かんでいるうちに、三人はさっさと話し合いを終わらせて、ブランの近くに走り寄ってきた。

「お待たせー、お姉ちゃん!」

 一番先頭を走ってくるなり、開口一番大声を張り上げるラムを、後ろのふたりはやや遅れた足取りで追う形でついてきた。 

「三人での話は、もういいの?」

 先に走り寄ってきたラムに、ブランが聞く。

「うん! じゃ、ロムちゃん、エリスちゃん、さっき話したアレ、準備オッケー?」

 ラムが後ろを振り返って、ふたりに小さな声で囁くように話しかける。

「うん、大丈夫」

「でも、本当に、いいの……?」

 エリスが少し泳いだような目をしながら、ふたりにひそひそと問いかける。

「だーいじょうぶ! 私たちも一緒にやるんだし、相手はお姉ちゃんだし」

「お姉ちゃん、こういう事すると、すごく面白いんだよ……?」

 ふたりの言葉を受けて、エリスは困ったような顔をしながらも、ふたりに向かって頷く仕草を見せた。

 いったい何の話をしているのだろうと思っていると、ブランはここにきて初めて、三人の両手が揃って各々の背中側に回してあることに気が付いた。

 だが、その気が付きはいささか遅すぎた。

『そーれっ!』

 ロムとラムは互いに視線でタイミングを取り合うと、一緒になって声を張り上げた。

 その声を合図に、後ろに回されていた三人の両手が、一斉に同じ動きを取った。

 瞬間、三人とブランの間を、白く丸い塊が走り抜けた。三人はこの白い塊を両手に隠し持っていて、それをブラン目掛けて投げつけたのだ。

 突然のことに、ブランは身構える暇もなかった。その白く丸い塊は、寸分の狂いもなく見事ブランの顔に三発とも命中した。

 三人の手から投げられた白い塊は、ブランの顔に命中するなり、砕けて顔全体に飛び散り、ゆっくりと地面に向かって滑り落ちていく。

 なぜ、三人が両手を後ろに回しているのを見たときに、ロムとラムのやりそうなことを考えて、瞬間的にそれが雪玉であるということを想像できなかったのか。

 否、そんなことは今のブランにはどうでもよかった。

「あっはははは! だーいせいこう! お姉ちゃんの顔、真っ白―!」

「お姉ちゃん、雪だるまみたい……」

 どういう反応をすればいいのかわからないといった風に立ち尽くすエリスとは対称的に、興奮冷めやらぬといった風のロムとラムに、ブランの中にあった何かが千切れる音がした。

「て……てめえらぁっ!」

 顔にかかった雪を片手で拭いながら、顔を真っ赤にさせたブランが三人に吠えかかった。

「わーい、お姉ちゃんが怒ったー!」

「お姉ちゃん、ゆでだこみたい」

 それなのに、ロムとラムのふたりは驚くどころか、むしろ顔いっぱいに笑顔を浮かべて、ブランの怒りの反応を楽しんでいた。

「あ……う……」

 そんな中、エリスだけが、どうしていいかわからずに、ただその場で狼狽えるばかりであった。その表情には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 ロムとラムのふたりが、思い返したようにエリスの方を振り向いた。目が合うなりびくりと肩を動かして驚くエリスの手を、ふたりが片方ずつ握りしめて、いきなりブランのいる方の反対側へと走り出した。

「大丈夫よ。お姉ちゃん、怒ってる時が一番面白いから!」

「いつもお姉ちゃんと遊ぶときは、こんな感じなの……」

 両側から、ロムとラムがそれぞれ安心を促すようにエリスに語りかける。

 エリスはふたりの顔を順番に見回すと、少し困ったような顔をしながらも、頷いた。

「今から三人でお姉ちゃんを、雪だるまみたいにしちゃおうね!」

 ラムが満面の笑みを顔に出しながら、ロムとエリスの方を向いて言った。あの周囲の人を自然と笑顔にしてしまうような、生気に溢れた明るい笑顔で。

 そのはつらつとした笑顔に釣られてか、エリスの顔には初めて、子供らしい純粋な微笑みが浮かんでいた。

 いつの間にか、エリスが体に纏わりつかせていた、あの奇妙な雰囲気が、まるでふたりの雰囲気にのまれていったように薄らいでいた。

 三人は互いに顔を見合わせると、一緒になって笑顔を浮かべ、それぞれの意思を確認するように小さく一度だけ頷いた。

「じゃあお姉ちゃん、最初は雪合戦ね!」

 走るスピードを落とさずに、ラムがブランの方を振り向いて言った。

「くそ! 開始の合図もなしに私の顔に雪玉ぶつけやがって! 見てろよ三人とも!!」

 鬼のような形相を浮かべながら、走り去る三人に向けてブランが叫んだ。

 足元に降り積もった雪を乱暴に両手でかき集めて、それを素手でしっかりと握りしめて大きめの雪玉を作ると、それを右手で抱えて三人の後を追いかけるように走り出した。

「待ちやがれてめえらああぁぁああ!」

 雪玉を抱えて走るブランの怒号が、昼下がりのルウィーの公園に響いた。

 ルウィー郊外の小さな公園、その中を縦横無尽に走り回る四つの人影の姿は、日が暮れるまで消えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

   ◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルウィーの中央から大分南に離れた街、オープスボワーズは、静かな夜を迎えていた。

 時刻は、午前一時を回っている。昼間、通りに賑わいをみせる店のほとんどは、もうとっくの昔に店じまいをして、明日の昼に備えている。

 ルウィーから見て、ラステイションとリーンボックスに向かう途中に存在するこの街は、その二国との貿易において、重要な役割を果たす街として機能している。

 ラステイションとルウィーを繋ぐ運河とハイウェイ、リーンボックスとを繋ぐ交易港と空港、この街が中央から大分離れているにもかかわらず、かなりの建物が連なって賑わいをみせているのは、この貿易が関係しているのである。

 だがいくら大きめの街とはいえ、中央と違って深夜になっても明かりが消えないでいるのは、街灯のほかには直接貿易を取り扱う交易港やハイウェイといった施設ぐらいのものだ。中心街のように、眠ることを知らない娯楽施設というのは、ほとんどないといっていい。

 そんな中で、オープスボワーズの一番広い大通りに面しているホテル、“フィーヌ”のフロントの明かりは、まだ消えていなかった。

 フロントには、三十代ほどの黒いスーツ姿の受付の男がひとりと、同じくスーツに身を包んだ二十代ぐらいの女性がふたり、何かを手元のメモに書き込んだり、眠たそうにあくびをこぼしたりしていた。

 時刻が時刻なだけあって、フロントに足を運ぶような宿泊客は皆無だった。三人がシフトに入ってからここを訪れた者と言えば、一時間前に足を運び入れた団体客が最後である。以降はすでに宿泊中の客から何か声をかけられることもなかったし、目の前の防音加工の施された大きなガラス製の扉に手をかける者もいない。

 ふと、男が自分の背後の壁にかかっている時計を振り返って見上げた。仕事が終わるまで、あと三十分ほどだ。他のふたりも、もう仕事のことは頭にないだろう。今頭に思い描くことと言えば、早く帰路につき、家のドアを開け、ベッドに身を沈めるという、仕事が終わった後のお決まりの日常だけである。そんなことを考えるものだから、余計に眠くなってしまい、仕事中ということも忘れて大きなあくびをついてしまう。

 そんな時、不意に目の前の扉が、静かに開くのが目に入った。

 まさか今頃客がくるとは思っていなかった男は、慌ててあくびをしていた口に手を当てて、曲がっていたネクタイを直す。他のふたりも同じように、手元のメモから入ってきた客に目を移し、背筋を伸ばした。

 入ってきた客は、四人だった。内三人は、黒いシャツの上から黒いスーツに身を包み、装飾のない金色のネクタイを締めている男たちである。

 残りのひとり、一番後ろにいる客は、他の三人と違って黒いステンカラーコートの下に紺の七分袖の襟付きシャツを着こみ、赤いネクタイを締め、黒いミニスカートを履いた女である。身長も、他の三人より頭ひとつ分ほど低い。さらにこの女だけが、茶色のロングヘアの上から黒いハットを深くかぶっているために、顔がうかがい知れない。

 四人は、真っ直ぐフロントデスクの方へ歩いて行った。真ん中の一番背の高い強面の男が、両脇のふたりよりも一歩前に出て、フロントデスクを挟んだ受付の男の前に立った。

「いらっしゃいませ。四名様でしょうか?」

 受付の男が、眠気を押さえつけて笑顔で応対する。

 スーツ姿の強面の男は、受付の男を睨み付けるように一瞥すると、

「今日来た客の名簿を出せ」

 強面の顔の眉間に、しわを寄せながら吐き捨てた。

 受付の男は予想外の言葉に動揺して、思わずその場にいた同僚の女性ふたりに視線を向けたが、そのふたりも同じく驚いた表情で、顔を横に振るばかりであった。

「お客様、申し訳ございませんが、他のお客様の個人情報をお見せするわけには――」

 そこまで言って、受付の男は口を止めた。

 否、正確には、止めさせられた。

 目の前の強面の男が、胸ポケットに手を入れて何かを取り出すと同時に、それを受付の男の額に押し付けたのだ。

 一瞬、受付の男は何が何だか分からなかった。というよりは、脳がそれを理解したくなかったのかもしれない。

 だが、恐る恐る上に向けた視線に映ったのは、紛うことなき拳銃の銃身だった。

 男が悲鳴を上げるよりも先に、何か小さいものが何度か爆ぜるような音が、フロント内の空気を振動させた。

 それが、強面の男の両側にいたふたりが放った銃声だと気が付いたとき、受付の男はようやく、声にならない悲鳴を上げた。

 それに続くように、さっきまで受付の男の近くに立っていたふたりの女が、その場に不恰好に崩れ落ちた。

 声もあげずに崩れ落ち、動かなくなった。

 それぞれ、胸と頭に数ヶ所空いた風穴が、見る見るうちに床を朱色に染めていく。

 間を空けることなく、強面の男の左の拳が、真っ直ぐに受付の男の顎に吸い込まれた。重みを乗せた拳が、顎の肉を通して骨を揺らす。

 受付の男の上体が後ろに反り返り、そのまま仰向けにぶっ倒れた。

 それに続いて、強面の男がフロントデスクを乗り越え、仰向けになった受付の男に馬乗りになる。

 たまらず受付の男が二度目の悲鳴を上げようとしたその口に、馬乗りになった男が、右手に持っている((自動拳銃|オートマ))の銃口を無理やりねじ込んだ。

 ねじ込み、右手に自分の体重を乗せる。

 ごき、ごき、と歯が折れる振動が右手に伝わり、銃身がゆっくりと受付の男の喉奥に進んでいく。

「お……げ……」

 受付の男が、真っ赤になった口から嗚咽を漏らす。

「名簿はどこだ」

 低い声で強面の男が言う。

流石に喋れないと思ったのか、銃身を少しだけ受付の男の口から抜いた。

 口から抜きとった本来艶のない黒い銃身は、べったりと絡みついた血と涎で、てかてかと光っていた。

「デスク…………右の……引き出しの中に……」

 受付の男がそう言うなり、強面の男は振り向いてその場所の近くに立っていた方の男へ視線を向けた。

 視線を受けた男は無言でうなずくと、右手に握っていた拳銃を胸ポケットにしまい、受付の男が言った、フロントデスクの右側の引き出しをあさった。

「ありました」

 そう言って、引き出しをあさった男は、名簿をデスクの上に置いた。

「殺さ、ない、で……お願い、です…………私には、ご、五歳の…………娘が……」

 受付の男が、馬乗りになった強面の男に手を伸ばしながら、今にも消えそうな声で嘆願する。

 強面の男は受付の男の方に顔を戻すと、伸ばされた手を強引にはねのけ、再び銃身を受付の男の口の中に強引にねじ込んだ。

 ねじ込み、必死に暴れる受付の男を尻目に、躊躇なく引き金を引いた。

 銃身をねじ込んだ口から、真っ赤な血飛沫が舞った。喉の奥で、ごぼごぼと血の泡が音を立てる。

 さっきまで空を切って暴れていた受付の男の四肢が、突然糸の切れた操り人形のように、ぱったりと動かなくなり、床に落ちる。

 強面の男は、動かなくなった受付の男を冷めた目で見下ろすと、血まみれの銃身を口から引き抜いた。まだ銃口から、薄っすらと硝煙が上がっている

「410号室のスペシャルスイートルームです」

 名簿を取り出した男が、名簿に目を向けたまま言った。

「行くぞ」

 強面の男は、それだけ言うと、何事もなかったように立ち上がった。

 その言葉を受けて、今まで微動だにしなかった一番後ろにいた女が、ハットで隠された顔に、薄気味悪い笑みを浮かべた。

 

 

 

「約束通り、ブツは持ってきたんだろうな」

 ホテル“フィーヌ”の410号室に、男の声が響いた。少しハスキーな、重い声である。

 部屋の明かりは点いておらず、月明かりのみが部屋を照らしているため、中がどういった造りになっているのかは、いまひとつはっきりとしない。

 ただ、その部屋に複数の人影がいることは、部屋が薄暗くても判別がつく。

 部屋にある人影は合計九つ。男が六人で、女が三人である。

 六人の男たちは、それぞれが三人ずつ、部屋の真ん中に立って向かい合っている。いずれも、肉厚で身長の高い、屈強そうな男であることが、薄暗い部屋であってもわかる。

 六人の男たちは、体の周りに妙な緊張感と、野獣のような気を纏わりつかせていた。双方の男たちから漂う気が、彼らの中央でうねりを生じ、室内に立っているだけで冷や汗が止まらなくなりそうなほどの異様な緊張を作り出している。

「そっちこそ、金は持って来てるんだろうな。こっちがわざわざ破格の取引に応じてやってんだ。先にそっちが金見せんのが礼儀ってもんだろうが」

 最初に声を発した男と相対している、サングラスをかけた男が、煙草に火をつけながら言う。

 その態度と口調に機嫌を悪くしたのか、最初に声を発した男の隣にいた男が、あからさまにその顔の眉間に深いしわを寄せると、

「あ? んだとてめぇゴラ、こっちがそっちの急ぎの金作りに協力してやろうってのに、礼儀だぁ? 舐めてんのかオラ、あ? おう、舐めてんだろてめえ、あぁ!?」

 そう言って身を乗り出そうとした男を、最初に声を発した真ん中の男が腕を横に伸ばして制す。それを無理やりどかして突っ込もうとしないあたり、真ん中の男の方が身を乗り出そうとした男よりも格上らしい。

 身を乗り出そうとした男は、依然として眉間にしわを寄せながらも、渋々身を引くと、振り返って自身の後ろ側に置いてある銀色のジュラルミンケースに手を掛けた。そしてそのケースを六人の男たちの中央に引っ張っていき、おもむろにケースのふたを開けて反対側の男たちに中身を確認させる。

「そっちの申告通りの金、二千万クレジットだ。さ、そっちのブツも見せてもらおうか」

 目の前に大金を置かれてなお、サングラスの男は一切表情を変えない。その変わらない表情のまま、サングラスの男は隣に控えている男に目配せをして、その男の足元に置いてある向こうのジュラルミンケースよりも一回り小さいアタッシュケースを、ジュラルミンケースの隣に置かせた。

「開けろ」

 サングラスの男が、紫煙を吐きながら隣にいた男に低い声で言う。

 男は、はいと短く答えると、隣に置かれたジュラルミンケースと同様に、アタッシュケースのふたを開けた。

 中に入っていたのは、白水晶を粉々にしたような、白い粉だった。同じ白い粉でも、砂糖よりは粒子が荒く、色も少し透明に近い。そんな粉が、ビニール製の小さい袋に小分けされて、アタッシュケースに目いっぱい詰め込まれている。

「売人に売り渡す予定だった((覚せい剤|シャブ))四キロ、本来なら末端価格二億八千万はする代物だ。良かったな、こんな破格でシャブが買えるんだからよぉ」

 口に咥えていた煙草を指でつまみ、近くのテーブルの上に置いてあった灰皿に灰を落としながら、サングラスの男が不敵に笑う。 

 明らかに相手側を挑発するような態度と口調に、先ほど身を乗り出そうとした男は、サングラスの男に対して、今にも飛びかかってしまいそうな殺気を惜しげもなく放っている。

 もし仮に、この場に先ほどこの男を抑えつけた男がいなければ、この男は何の躊躇もなくサングラスの男を殺しにかかっていたことだろう。

「ああ、まったくいい儲けをさせてもらった。会長もこれだけの上物のシャブがこの価格で手に入るとなれば、文句あるまい。今後とも、そっちとは友好的な関係を築いていきたいもんだな」

 殺気を放つ男の隣で、先ほどその男を抑えつけた男は、アタッシュケースの前に膝を突いて、パケに入った覚せい剤を片手で持ってじっと見つめながら言った。

 男の目には、怪しい光が灯っている。見る者の背筋を、例外なく凍り付かせてしまうような、おぞましい目である。

 その目に同調するように、この男が身にまとっていた野獣のような気が、もっと禍々しく奇奇怪怪なものに、ゆっくりと塗りつぶされていく。

 先ほどサングラスの男に詰め寄ろうとしていた男は、背筋にうす寒いものを感じていた。そして、先ほどこの男の手を振り切ってあの男に飛びかかろうとしなかったことを、心の底から正しい判断だったと思い直していた。

「ところで、俺たちが用意したのは金だけじゃあねえぜ。あんたら、三人で来るって言ってたからな。人数分用意しておいたぜ」

 パケを片手に持ったまま、男は部屋の一方を指さした。

 月明かりが照らすその先には、大きなクイーンサイズのベッドが、少し間隔をあけてふたつ並んでいるのが、かろうじて視認できた。

 そのクイーンベッドの枕元に、三人の女が腰かけている。

 その全員が、肌に何も身に着けていない。全裸の状態のままで、じっと男たちの方を見つめていた。三人とも、モデルのようなプロポーションを誇る、美しい女性たちである。

 透き通った色の肌が、月明かりに照らされて淡く光って見える。その光景は何とも艶めかしく、官能的に見えた。

「うちが抱えてる女の中でも、特にいいのを連れてきた。朝まで好きに使っていいぜ」

 パケを持った男が、薄ら笑いを浮かべながら言った。

 それを聞いて、覚せい剤を持ってきた方の三人の男たちは、ベッドに腰掛けている三人の女を、じろじろと全身をくまなく舐めまわすように、顎に手を当てながら凝視した。

 男たちの瞳の中には、ぬらりと炎が揺らめいている。その炎が、男たちのまとう野獣の気に燃え移り、男たちの周りの熱気をいっそう強くしていく。

 急に、サングラスの男が、手に持っている煙草を灰皿に押し付けた。

そのままスーツのジャケットに手を掛け、豪快にそれを脱ぎ捨てる。もうすでにその足取りは、女たちの方へ向かっていた。

 そして、サングラスの男がネクタイに手を掛けたその瞬間、ふいに出入り口の扉が開け放たれる音がした。

 オートロックカードキーシステムの扉が、なぜ突然開いたりするのか。男たちは頭の片隅にそんな疑問を置きながら、音がした扉の方に一斉に振り向いた。

 部屋に面した廊下から、照明の光が飛び込んでくる。暗闇に目が慣れていた男たちの視界が、一瞬白い光の中に閉ざされた。

 その一瞬の間に、男たちの白い光が支配する視界の中に、三つの橙色の火花が散った。

 続いて耳に入ってくるのは、聞きなれた軽い破裂音。銃声である。

 開け放たれた扉から飛来した弾丸は、たちまち真ん中にいたふたりの男の胸と腹を貫いた。銃声と地面に倒れ込んでいくふたりの男を追いかけるように、ベッドに腰掛けていた三人の女たちの絶叫が、部屋全体まで響き渡る。

  ――なんだ、なにが起こった! 

 それを思考するよりも先に、部屋にいた男たちの右手が、スーツの胸ポケットに仕舞い込んである拳銃へと向かった。 

 だが、それも時すでに遅しだった。

 当然、スーツの胸ポケットに右手を走らせるよりも、人差し指が引き金を引く速度の方がはるかに速い。

 雨のように降り注ぐ銃弾が、部屋にいた男たちのスーツを貫き、肉を抉る。

 薄暗い闇に閉ざされた部屋に、血飛沫が舞った。男たちの内臓から絞り出した、熱い血潮が、部屋の壁を斑点上に濡らしていく。

 部屋にいた男たちは、スーツの胸ポケットに手を突っ込む間もなく、ひとり、またひとりと床に倒れこんでゆく。

 発砲音が二十四を数えたとき、ようやく銃声が止んだ。

 部屋にいた男たちは、そのスーツの下のシャツを朱に染めながら、ひとり残らず床に倒れている。胴体に空いた、いくつもの銃創が痛々しい。

 そんな中、床に倒れているうちのひとりの男が、銃弾を浴びながらようやく胸ポケットから取り出した拳銃を、天井に向けて構えている。

 先ほど覚せい剤の入ったパケを持っていた男である。その左手には、いまだにそのパケが握られていた。

 男は仰向けに倒れたまま、拳銃を握りしめた右手をまっすぐ上に伸ばし、天井に銃口を向けている。意識が朦朧としているのか、男にはその方向に銃を撃ってきた相手がいると思えたらしい。

 男はその姿勢のまま、引き金を引き絞った。発砲音に続いて、銃口から飛び出した弾丸が、何もない天井に突き刺さる。

 そんな男の目の前に、突然ひとりの男が現れた。先ほどの銃撃を放った連中が、部屋に踏み込んできたのだ。

 血に濡れた瞳が、目の前の強面の男を捉えた。ぬるぬると血で滑るグリップをしっかりと握りしめて、銃口を自分を見下ろす男の脳天に向けて移動させる。

――死ね!

 言おうとした男の言葉は、しかし言葉にならなかった。口からこぼれるのは、相手を威圧する言葉ではなく、相手に勝利の確信を覚えさせる赤黒い血のみである。

 肺に穴が開いているのだ。

 倒れ込んだ男が引き金を引くよりも先に、発砲音が部屋に響いた。

 意識が朦朧としていた男には、自分を見下ろす男が握っている拳銃の銃口が、同じように自分の脳天に向けられていることに気付かなかったのだろう。

 脳天を撃ちぬいてから、強面の男は立て続けに三度引き金を引いた。

 脳天に二発、両目に一発ずつ、計四発の銃弾が、倒れている男の顔をぐずぐずに壊した。

 引き金を引いている間も、引き終わった後も、強面の男の表情は、一切揺らぐことはなかった。

 血と硝煙の臭いが、思い出したように部屋に溢れだした。その臭いに惹かれるように、強面の男に続いて、三人の人影が部屋へと踏み込んだ。

 ホテルのフロントにいた、あの四人組である。

 強面の男を含め、三人の男たちの手には、拳銃が握られている。銃口から立ち上る硝煙は、既に大分薄くなり、大気の中に消えようとしている。

 部屋に踏み込んだ男たちの行動は迅速だった。

 最初から部屋にいた男たち六人の死亡を確認すると、その死体には目もくれず、床に置いてあるジュラルミンケースとアタッシュケースに手を掛けた。

 男たちの目的は、これを奪うことにあったらしい。三人の男たちのうち、強面の男を除いたふたりの男は、そのケースを手に持つと、さっさと部屋を後にしてしまった。

 惨劇の収まった部屋には、五人の人間が残った。

 ひとりは、強面の男。最初から部屋にいた、三人の女たち。そして、ハットを深くかぶった女の計五人である。

 三人の女たちは、身を寄せ合うようにして震え、怯えていた。瞳には涙が浮かび、その顔は完全に魂が抜け落ちてしまったかのように蒼白になっていた。彼女たちは、もう叫び声を上げる気力すら、根こそぎ奪われてしまったようだった。

「ねえ、こっちの女の子三人は、もらっていいんだよね? こっちの男連中は、みんな死んじゃったみたいだし」

 ハットをかぶっていた女が、自身の頭の上にあるハットのつばに手を伸ばし、二本の指でつばを掴んでそのままハットを床に落とした。

 ハットのつばの下から出てきたその女の顔は、意外にも少女のそれを思わせるような顔立ちであった。鼻筋や顔の輪郭はハッキリとしており、世間一般でいうところのかなりの美人と言ってよいだろうが、まだその顔には少女の面影が残っている。年齢でいえば、二十歳に届かない程度であろう。大人の女性と少女の境を行き来するような、そんな年頃の少女のように思えた。

 少女は、ベッドの上で震えている三人の女性に目を向けていた。じっと彼女たちを見つめるその目には、どこか妖しい色が浮かんでいる。

「好きにしな、ロセス。俺は外で見張っておく。お前の悪趣味に付き合う気はさらさらないんでな」

「悪趣味って、ひどいなぁ。まあ、このホテルの部屋って全部防音工事が施されてるらしいから、少しくらい大きな音立てても平気なんだよね?」

「今日はほとんど客もいないうえに、今はもう全員ぐっすり眠っているだろう。おそらく問題ないとは思うが、手早く済ませろ」

 そう言って強面の男は、四人を部屋に残したまま、振り返ることなく退室した。

 少女、ロセス・キャメロンは、答えるかわりに軽く頷くと、ベッドの上の女たちの方へと歩き出した。

 ベッドに腰掛けている女たちは、本能的にその場から後ずさった。背筋にうす寒いものが走り抜ける。恐怖で目が狂ってしまって、女たちには自分たちの方へ歩いてくる年下の少女が、野獣か化け物のように思えたのだろうか。

 だが、何度見なおしても、目の前まで迫ってきたそれは、自分たちよりも何歳か年下の少女であった。

 ロセスは、怯えたまま一糸まとわぬ身を寄せ合い、震えている三人の女の目の前に立つと、突然膝立ちの姿勢になって視線の高さを女たちよりも下にした。

「大丈夫、心配しないで」

 まるで我が子に話しかける母親のような優しい口調で、ロセスが年上の三人の女性たちに話しかける。その柔らかな物腰と、無邪気そうに自分たちを見つめる瞳に、三人の心からはさっきの不安が嘘のように溶けていき、助かるという安心感の中に浸り始めていた。

 だがそれも、次の瞬間に自らの太ももに走った激痛に、虚しくかき消された。

「三人とも、ちゃんと平等に、遊んであげるからね」

 先ほどと変わらず、無邪気そうに笑うロセスの右手には、コートから取り出したスタンガンが握られていた。市販品の、オーソドックスなハンディタイプのスタンガンだ。相手を気絶させるまでには至らないまでも、激しい動きを封じるぐらいの効果は十分に期待できる代物である。

 それを、この少女は三人の女の太ももに押し付けたのだ。あの柔らかい雰囲気で、三人がわずかに緊張と不安を解き、警戒心が薄れた、その一瞬を突いて。

 女たちは最初、何をされたのか分からなかった。ただ自分の太ももから、全身に染み渡っていく痛みと痺れに、一種の思考停止状態にあった。

 だが、それをもたらしたのが目の前の少女だと気が付いたその刹那、三人はほぼ同時に金切り声の悲鳴を上げていた。

「ねえ、ちょっと静かにしててくれる? そうじゃないと、扉の向こうの怖いお兄さんが、あなたたちを撃ち殺しちゃうと思うから」

 ロセスが、最初に女たちに話しかけたように、やさしい口調で言う。

 それを聞いた女たちは、涙を流して激しく息を突きながらも、必死に口から洩れそうになる絶叫を、口に手を当てて何とか抑え込む。

「うん、そうそう。じゃあ、ひとりずつ、順番に遊んであげるからね」

 そう言うと、ロセスはいきなり立ち上がって着ているものを脱ぎ始めた。

 コートに手を掛け、それをベッドの上に脱ぎ捨てると、次はシャツ、スカートと、一枚ずつ床の上に脱ぎ捨ててゆき、最後には下着すら脱いでしまった。

 一糸まとわぬ裸体となったロセスの体が、窓越しに届いてくる月明かりに照らされる。その肌は雪のように白く、月光に照らされて青白い燐光を放っているようにも見えた。

 三人の女たちのそれよりも小ぶりだが、形の良い乳房と、引き締まった腰が、裸体の状態だと余計に映えて見える。

 ロセスは一番右端にいた女の顎を二本の指で軽く持ち上げて、そのままその場に立たせると、自分が女に覆いかぶさるような形でベッドに押し倒した。

「え……? あ……」

 状況が理解できない女は、ただただ困惑していた。

 そうしている間に、ロセスは次の行動に身を移していた。ベッドの上に投げ捨てたコートを引き寄せ、胸ポケットの中を探る。

「少し、チクっとするよ。大丈夫、こんなの、どうってことないから」

 ロセスが、胸ポケットから取り出した何かを、女の二の腕に押し付けた。

 押し付けたのは、注射器である。合間入れずに、ピストンを指で強く押して、中に入っている液体を注射する。

 先ほどのスタンガンで身動きの取れない女は、それを受け入れるほかなかった。右の二の腕から痛みが広がり、それが血管の血液の流れを通して全身に広がっていくのがわかる。

 だがその痛みが、ある一点を境に急激に別のものに変化した。痛みがじんわりと広がっていく感覚が、急に何か甘美なものが広がっていく感覚へと置き換わる。それは腕から全身を駆け巡り、脳の思考回路にまで及ぶと、頭の中に白い靄を形成していくのだ。

 ロセスが女に覆いかぶさり、小さな左手で豊満な胸にそっと触れる。

 掌が動き、乳房の形がその動きに沿って変化する。実に手慣れた手つきだった。

 女が甘い呻き声を上げた瞬間、それまで黙り込んでいたロセスが、唐突に口を開いた。

「これから起こることに比べたら、ね?」

 不意に、ロセスの右手が、女の頬に触れた。

 否、触れたのは、右手ではない。新しくロセスの右手に握られた、何かである。

 頬に触れたそれは、硬くて冷たい何かだ。ゆっくりと女の頬の上を動き、ある場所でその動きを止めた。

 動きを止めた途端、その硬いものの温度が、とたんに上がった。先ほどまで冷たかったそれが、とてつもなく熱くなった。熱い。どうしようもないほど、熱い。それに、触れた部分から水がこぼれ、頬を濡らしている。

 止まっていたそれが、再び動き出す。なぜか、肌の上を動いている感触がない。なぜだろう。いっそうそれが熱を持ち、水がとめどなく溢れてくる。

――痛い

 先ほどの薬で麻痺していたその感覚がよみがえった瞬間、女はおもいきり悲鳴を上げた。

 ロセスが右手に握っている両刃の折り畳みナイフが、女の頬の肉と皮の間に侵入し、ゆっくりと皮を削ぐようにして動いているのである。

「おっと、こっちも忘れちゃだめだよね」

 思い出したように、ロセスの左手が、触れている女の乳房を押し潰した。

 ロセスの左手の中で、乳房は形を変える。女は快楽によって小さく痙攣しながら、同時に痛みによって声を絞り上げた。

「薬で底上げした極上の快楽と、頬のナイフの痛み。あなたはふたつの刺激の中で、どんな表情を見せてくれるのかな?」

 ロセスが女の顔を覗き込み、魔性の笑みを浮かべた。その瞳には、ぬらりと妖しい炎が揺らめいている。

 ロセスの左手が、女の股の間に伸びようとした。それに続くように、ナイフが女の頬の肌と肉の間をゆっくりと進んでいく。

 声にならない女の絶叫が、部屋中に響き渡る。それは快楽によるものか、それとも激痛が絞り出したものか。

 惨劇は終わらない。今、ようやく、始まったばかりである。

 

 

 

説明
ものすごく間の空いた投稿になってしまい、申し訳ありません……。
最近いろいろ忙しく、執筆に裂く時間がなかったもので。
今回、正直R-18ギリギリな表現が入っているので、もし不快に思うお方がいらっしゃるといけないので、あらかじめご了承ください。
コラボの学園は同時進行で進めていますので、しばしお待ちを。
正直、まだずいぶんかかりそうですが……。
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コメント
銀枠さん>感想ありがとうございます! そうですね、今のところはホラーではなくバイオレンスと言った感じですが、後からきちんとホラーになっていく(はず)なので、ぜひお楽しみに! ロセスはゲスいですよ、心の底からw(クリケット)
今のところはホラーというよりもバイオレンスですね。ここからどうホラーになるのかな? 前半と後半を比較してもかなり挑戦的な展開だけど、物怖じせずにやってくれたあたり流石。ロセスさんゲスいなぁ(褒め言葉 )おそらくクリケットさん的にこの展開はまだまだ序の口で、あとからもっとえげつないことしてくれるんだろうなぁ。それが恐ろしくもあり、楽しみ(銀枠)
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