黄泉姫夢幻Y
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 ダブルクロス・リバース

 

 ……アイツと初めて出会ったのは、まだ小さかったアイツの妹が死んだとき、その葬儀のときだったな。あたしがまだ三つ編み眼鏡の清楚可憐な女子中学生だった頃だ(そこ、笑うんじゃねえ)。

 さんざん泣きはらした赤い目をしていながら、そのときのアイツは、もう泣いてはいなかった。何か、遠いところにある何かを怒りをこめた目で睨み据えるような、燃える岩のような意志を呑んだような顔をしてやがった。まだ精々小学生になるかならないか、っていう歳のガキんちょが、だ。

 アイツを引き取ることになったのは、アイツが中学生の頃だっただろうか。育てた……とは言えねえな。アイツは自分で自分を育てていったよ。あたしは、ときどき間違った方へ行かないよういくらか方向を示してやった程度だ。

 アイツがあたしと同じ道を進む意志を示したのは、高校に上がるのと同時だった。それ以前にも、そういうつもりなんだろう、っていう風には思っていたが、ああまではっきりと、それも、何を言っても小揺るぎもしねえ固い意志と覚悟を示されたら、否は言えねえよ。男が自分の全てで決めたことだ。

 アイツには、『仕事』に関すること、それに関係しそうなことは、細大漏らさずあたしに報告させるよう義務付けている。理由も納得いくよう話してあるから、アイツもそれを守って基本的にその晩には、依頼があって、それに取り組んでいるとき、依頼と関係なくとも、「そういった」類のことがあったときは、口頭で報告の時間を取るようにしている。

 それにしても、ここ最近のアイツの係わった事件の厄介さには驚かされることしきりだ。アイツと同い年くらいの頃のあたしだって、相当に手こずるような事件ばっかりだ。あたしは、件の『異次元校舎』の事件の報告を聞いたあと、一晩考えた末、アイツにアレを渡してやることにした。

「確実に、自分のモノにしとけ」

 と一言だけいい添えて。

 正直、それが良かったのかどうかは判らねえ。昔っから、そして今でも変わりなく、アイツの姿を見てると、一種の危うさを感じることが多い。だが、これからのアイツの仕事には、多分必要になる。そして、その危うさを乗り越えない限り、アイツは遠からず死ぬことになるだろう。アレを渡すことで、その危うさを乗り越えるための助けになるか、それともその危うさを増大させて危機を招くことになるか。

 願わくば、前者であってほしい。アイツの、今はもうたったひとりの肉親として。あたしはそう心から願う。

 

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 HIRASAKA

 

「香織!」

 俺は、意識を失い、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちる双葉香織に、俺のことを好きだと言ってくれた少女に駆け寄ろうとする。が。

「……面白いものだな。失敗作だと思われていた双葉香織がこの年齢で再成長をみせるとは」

 男とも女とも、大人とも子供とも老人ともつかない声。

「お前は……」

 頭までフード付きのマントで覆った長身の人物が、気付いたときには机の上に立っていた。

 こいつか、こいつが香織の胸に影の剣を突き立てたのか。そう思ったとき、俺は一瞬にして逆上し、ブチ切れ、自制を失った。

「……香織に、なにをした?」

 俺の声の質が変わったのに気付かず、奴は尊大な調子で言った。

「双葉香織か沙織、どちらかの魂を封じたのだよ。ふ、ふふ、次に目覚めたとき、どちらになるのかはお楽しみだがな。どちらにせよ、そこは我々の祭儀場だ。抵抗は出来ん」

 香織と沙織のことを知っている以上、こいつは〈彼女たち〉を造り出した、〈高天原〉かその〈上位結社〉とやらの魔術師か。だが、そんなことはどうでもいい。

「連れて行かせると思うかボケが」

 俺は、つま先に理科実験室特有の背もたれのない椅子を引っ掛け、そのまま蹴り上げるように奴の顔面に叩きつける。

「ぼがっ」

 格好をつけていた割には、あっけなく椅子を顔面に打ち付けられ、間抜けな声を上げて机から転がり落ちる魔術師。

 全く魔術師ってヤツは、往々にして自分たち以外を見下してやがるから、こういう直接的な暴力に弱いヤツが多い。コイツもご多分にもれず、ってトコだろう。まだ最初に俺たちの前に現れたときの沙織の方がマシなくらいだぜ。

 俺は、転倒し、痛みにのたうち回る奴の左腕を逆関節に取り、折れるかどうかのぎりぎりのところまでねじりあげる。

 さらに苦悶の声を上げる奴に、ことさら冷たい印象を与えるような声で訊く。

「香織をすぐ元に戻せ。さもなくば言え、香織を元に戻す方法を」

 だが、奴は苦痛にうめきながらも俺をあざ笑うように言葉を返す。

「く……くく、そう簡単に教えられるわけがなかろう」

 いまさら、この期に及んで格好付けようとする根性は大したものかもしれんがな。だが。

「そうか」

 それを聞くや。俺は少しばかり余分に力を加えた。そう。少々でいい。ぎりぎりまでねじり上げた奴の肘をへし折るには。

「がああっ!?」

 肘関節の折れる嫌な音と感触が伝わってくるが、俺は意に介さずさらに問い詰める。

「さあ、戻せ。さもなくば言え」

「う……あ」

 フードの中のスカした整った顔が、涙と涎にまみれてぐしょぐしょになっている。

「本当に折られるとは思わなかったか?」

 俺は、逆に奴をせせら笑いながら耳許で言い放つ。

「お兄ちゃん!」

 俺たちの様子をおびえた様子で見ていた夜見子が、俺の背中にしがみつくように制止してくる。

「だ、ダメだよ。そんなことしちゃ」

「夜見子?」

 夜見子は優しい子だから、俺の行為を見ていられないのかな。

 ……と、そう思ったのだが。

「だ、だって、あんまりひどいケガさせちゃ、香織さんのコト戻させることも出来なくなっちゃうわョ!」

 ……ああ、そっちね。

 なんだか、俺のやってることは、夜見子の情操教育上非常によろしくない気が多分にしてくるなあ。

 だが、その反省とは関係なく、俺は必要な手段を坦々と重ねてゆく。自分自身から一切の自制心を取り払い、良心の呵責無しに、ただ効果的に人体に苦痛を与え、相手に自白を強要する方法だけを。

「……ぐぅ」

 夜見子の言葉が自分を気遣ったものでないと知ったせいか、奴が短くうめく。

 とはいえ、まァ、確かに夜見子の言う通りではある。

「右腕にしとくべきだったかな。それとも足がよかったか」

「ふざけるな……私は……黒魔術師では……な……い」

 ちなみに黒魔術師の霊的な急所のひとつが左手である。人の心と身体弄んでおいて何言ってやがると思ったがとりあえず今重要なのはそこじゃない。つまり、左腕折っても術は使える、ってコトだな。

「ああ、じゃ次は足といくかね」

 俺は、奴の右足首をとり、軽くひねる。

「ぐあがああああ」

 ちょっと逆関節キめてやっただけでこれとは先が思いやられるが、とっとと気持ちの方をへし折ってやらんと埒があかない。

 ともかく、折るとなったら本当に折るってことは判っただろうから、あとはいかに効果的に苦痛と恐怖を与えてやるかだ。気分のいいもんじゃないが必要とあらば精々効果的にやるだけのことだ。

「さあ、今後も自分の足で歩ける幸せを手放したくないんなら、香織をすぐ元に戻せ。さもなくば言え、香織を元に戻す方法を」

「……ひ」

 答えを言わせるために、足首のひねりを一旦戻してやりながら、もう一度通告してやる。今度拒否したなら容赦なく右足首が破壊されることは理解できるだろう。まァあんまり考えなしにぽきぽきへし折っちまっても交渉にならん。適度に脅しを織り交ぜて痛めつけてやらんと、いざ方法を聞き出せたとき使い物にならなくても困るしな。

「う、うう」

 そのとき、意識を失ったままだった香織の口から、小さくうめき声が上がるのを聞いた。

「香織? それとも沙織か?」

 その姿は黒髪おかっぱの香織のままだったが、ゆっくりと目を開き、数度目を瞬かせた様子を見た俺は、それが香織ではないことを知った。

「沙織……だな?」

「え……あ、決まってるじゃない、見れば……え、あれ?」

 沙織も、入れ替わっているにもかかわらず、自分の髪が伸びていないこと、色が変わっていないことに気づき、動転しているようだった。

「な、なに、香織? どうしたの、香織?」

 懸命に自分の中にいるはずの香織に呼びかける沙織だが、見たところ香織からの答えが返ってくる様子はなかった。

「こいつの魔術で、香織の魂が封じられた……らしい」

 俺は、奴を逃げられないよう意識を集中されない程度に苦痛を与えながら沙織に説明する。

「っっ……この、香織を、香織のことを返しなさいよ!」

 沙織の口から発せられたのは、思いもかけない激しい感情。

「香織は……私のこと……私のこと、姉妹みたいだって言ってくれたのよ! 私の……わたしの、おねえちゃんを、返しなさいよ……!」

 沙織が、奴の襟首を両手で掴んで詰め寄る。俺に足首をキめられたまま首をがくがく揺らされるもんだから、まともな答えを返すどころじゃないようだが、その沙織の言葉に込められた真情は少しばかり俺を驚かせるものだったと言っていいだろう。

 それにしても、〈おねえちゃん〉か。非―人間というのは往々にして人間的な感情に乏しい傾向にあるのだが(リリスがそうであるように)、沙織は少々違うようだ。香織の魂と肉体を共有し、香織の影響を多分に受けたせいなのだろうか。立場上敵とはいえ、やっぱり、こいつのことは嫌いじゃないな、と俺は思った。

 

 AKANE

 

 めきっ、と関節をへし折られる嫌な音がウチの耳に伝わってくる。緊張で口の中が乾いてゆく。

 不肖、沢村明音。不本意ながら、たいへん不本意ながらではあるが、ウチは今お兄さんに締め上げられているマヌケのバックアップを、高天原の〈上位結社〉から指令され、こうして教室の入口の引き戸の陰に身を隠しているワケなんやけど。

 この状況下じゃもうバックアップもへったくれもあったもんやあらへん。

 この前の異次元校舎の件のとき、さおりんにお兄さんのコトでえらそーなこと言ったりしたけど、ウチがこれまで見てきたお兄さんの姿やなんて、ぜんぜん本当の姿でもなんでもなかった。

 これだ。これが彼の、お兄さんの本当の怖さやったんや。かつて高天原の幾人もの実力者たちが叩き潰され、さらにその中の数人は魔術師として再起不能にまで追いやられた本当の怖さや。

 戸の隙間から教室内をちらちらと覗き込むけど、正直見るんがこわい。もし見つかったらと思うと……ウチは、自分の腕やら足やらがあんな風に折られる感触を想像して、肌に粟を生じさせる。吐きそう。

 折った時、締め上げるとき、お兄さんの顔は自分の行為や人体を破壊するその感触に対して嫌悪を感じてるみたいにしかめられてるんが判る。それは、お兄さんのまともさ、っつーか、真っ当な感覚をちゃんと持った人なんや、ってことではある。せやけど。

 そう、けど、や。たとえそう思ってはいても、彼は相手の腕を折ったり、折る寸前まで最大限の苦痛を与えるように締め上げたりするその手に、力を込めることになんのためらいも持たない。あのとき、折ったとき。彼は本当になんのためらいもなくその手に力を込めていた。

 人を傷つけるのは嫌だとは、思う。

 けれども、やるとなれば、嫌だという気持ちとは全くかかわりなく、やる。

 それは、彼に対しては、下手に非情なだけのヤツに対するよりなお、情に訴えることが不可能だということ。

 情はある。けれども、恐ろしいほどそれに流されることがない。

 彼のその行為を止めようとするならば、力づくか、さもなくば、その行為以上にメリットのある代替手段を提示して認めさせる以外にない、ということや。

 それが、今ウチの目の当たりにした彼の怖さやった。

 

 それにしても、今あのマヌケの襟首掴んで頭がっくんがっくんさせてるんは、見た目はかおりんやけど、どうやらさおりんらしい。

 あの〈二人〉が入れ替わるとき、顔や体型に影響はないものの、髪の色と長さが変化する。そのせいで(あと、眼鏡をかけてなかったんと、中身の人格の違いによる顔つきの違いで)初めてさおりんがウチらの前に姿を現したとき、〈二人〉のつながりにかおりんの知人やったお兄さんでも気づけんかったわけやけど。

 多分、多分やけど、すでにウチがさおりんと裏から接触したこと、そしてその裏の目的も、〈上位結社〉には薄々感づかれているんやないか、って気もする。そうでなけりゃ、ウチにあのマヌケのバックアップ任務が回ってくるとも思えんからや。つまり、この任務はウチに対する〈試し〉っちゅーことや。

 そろそろ、ウチも進退ハッキリさせんとあかんかもな……って、なんかお兄さんと夜見ちゃんが目配せして……夜見ちゃんが、ウチの身を隠してる引き戸の方……へ?

 そんなことを思う間も勿体を付ける間もなく、夜見ちゃんが戸をがらり、と引き開ける。

「……何やってんのョあんた」

 夜見ちゃんの声がつめたい。ウチは、戸にぺったりと引っ付いたときのままの間抜けなポーズで、お兄さんや夜見ちゃんらの前に、あっけなくその姿を晒す羽目に陥ってしまったのだった。

 

 ……うぁヤバい。なにこの空気の重さ。夜見ちゃんだけやなく、お兄さんや、意識を取り戻したさおりんに、更にあのマヌケまでアンクルロックの苦痛も忘れてウチの方見てるんやけどー!

 

「……ぱ」

「ぱ?」

「ぱんぱかぱーん……なんつて」

 

「……」

「…………」

「………………」

「……………………」

 空気が重かった。

 ああ……この世界から消えさりたいってこーゆー気分なんやねー……。

 言うまでもない。スベった。ウチのわずか約十五、六年程度にすぎない人生においてもこれ以上を経験したこともないし、あと何十年生きるとしてもこれ以上を想定することさえ不可能な気がするくらいにスベった。それもこの一手間違えるだけで自分の人生オワタになりかねんこのクソ重い状況下で。ウチは今この瞬間ほど、自分のネタ体質を呪ったことはない。

 次の瞬間。ここにいるウチ以外の四人が、敵味方の垣根と置かれた状況のすべてを乗り越えて、ほぼ同時にウチから視線をそらし、目を伏せた。

「その優しさが痛い! いっそ罵るか嘲ってやー!」

 ウチは魂の奥底よりそう叫び、哭いた。

 

 そのとき。夜見ちゃんが、一歩踏み込んでくるや、ウチの襟首を引っつかみ、ぐいっと自分の顔の前まで引き下げてきた。勢い身長差もあってととっ、と転びそうになってまうが、どうにかこらえる。

「何しにきたの?」

 ウチがいままで聞いたこともないような冷たく、厳しい声で夜見ちゃんが訊く。

「何てー……」

 答えにつまるウチに、言葉をぶつけてくる夜見ちゃん。

「ハンパはやめなさいョ。アンタ一体何がしたいの? あっちフラフラこっちフラフラしやがって、迷うにしたって、迷い方がカッコ悪りーのョアンタは」

「うー……」

 夜見ちゃんの声が突き刺さってくる。

「アンタの事情、もうだいたい知ってるし、迷う気持ちもわかんねーでもない。でもね、そんな中途半端な気持ちでフラフラしてるヤツのこと、どっち側のヤツだって、誰が信用してくれると思うの?」

「夜見ちゃん……」

 その言葉は、とても深く突き刺さってきた。

「どんな力持ってるヤツだってね、そいつ自身が信じられるヤツじゃないならあたしはいらない。力なんかなくても、弱くても、ほんとうに信じられる人にくらべりゃ、そんなヤツは、肝心な時にそばにいてほしいなんて欠片も思えやしねーのよ」

「……う、ウチは……」

「アンタが決めなさい。たった今。一番正しいと思う方でも、一番得だと思う方でもなんでもいいわ。ただし、真剣に、今のアンタの全てで決めンのョ。そうしたら、どんな決断したとしても、たとえあたしらの敵になったとしても、少なくともそのことだけは、納得して恨まないでいてあげる」

 ごくり、とウチの喉がなる。まるで白刃を突きつけられたようなまなざしと言葉。

 ぐるぐると頭のなかでいろんな断片的な思考がまわる、まわる。けど。

 ウチのことを真っ直ぐに見据えながら、夜見ちゃんの瞳がわずかに潤んでいるような気がした。それを目にした次の瞬間、ウチの頭のなかから余計なものが全部ぬぐい去られていた。

 真っ直ぐな瞳。大事な、いつだっていちばん大事なものだけを過たず見据えるその瞳を見たとき、ウチはようやく気がついた。ウチも、余計なことなんて考えんでええから、大事な、いちばん大事なもののことだけを考えればよかったんや、ってことに。

「な、なにをしている、ソロール・ウンディーネ。私を救出にきたのではないのか?」

 マヌケが今さらなんか言ってやがるけど、もうそんな言葉は右から左やった。

「せやなー。うん、決めたでー。ウチは、今から、夜見ちゃんのために戦うと誓います」

 そう言って、ウチは、夜見ちゃんの前に跪き、目を閉じて彼女の右手をとり、〈誓言〉した。

 それは、魔術師として、ひとりの人間として、ウチの全てを捧げるという誓い。

 ウチは顔を上げ、夜見ちゃんの目を真っ直ぐに見て、微笑んだ。

「え、ちょ、あ、明音?」

「せやから、決めたんやないのー。ウチにとって、いちばん大事なんは夜見ちゃんやって気づいたんやもん。だから、ウチは何よりも、夜見ちゃんのために戦うって、そう決めたんやー」

「あ……明音、な、何言ってンのョぉ……」

 ウチの、生まれてからこの方こんなに真っ直ぐに本音を吐いたことはないっちゅーくらいの告白に、照れたようにうつむき、上目遣いにウチのことを見つめてくれる。普段やったら、ここで理性ブッ飛ばして抱きついちゃうトコやけど、流石にそーゆー場面やないので自重した。

「それは、俺たちの味方になったと思っていいんだな?」

 お兄さんがそう聞いてくる。

「もちろんやでー、お兄さんの為にも頑張らせてもらうやんなー。貴方のためになることは、夜見ちゃんのためになることと、髪一筋の違いもなく同じやと思いますから」

 前半はすこしおどけて、でも後半は真摯にそう答えた。

 お兄さんは、少しの間じっとウチの目を見てから言った。

「わかった。お前を、信じる」

 その言葉を聞いたときの、ウチの安堵感を言葉にするのは困難やと思う。その短い言葉だけで、ウチの全身から一瞬力が抜け、汗腺がどっと一気に開いたような気がしたほどやった。

 せやけど、次の瞬間に襲ってきたのは、それ以上の緊張やった。「信じる」て言われた?

 誰でもない、あの人に「信じる」て言われたんか今?

 そう自覚したとき、ウチが思ったのは、これで何があってもあの人を裏切ることができなくなったっちゅうコトやった。もし裏切ったりなんかしたら「どんな目に遭わされるか」ってことなんかじゃ全くない。むしろ、何もされたりなんてしないだろう。ただ、ウチは彼に『そういう人間だ』と思われる、というそれだけ。せやけど、そうなったが最後、ウチが自分自身を永遠に許せなくなる、ということだけが、恐ろしいほどの力をもって迫ってきたのだった。

 彼の眼差しと、短い言葉は、ウチにとってそういう意味を持つものだった。

 

「つーわけでー」

 ウチはマヌケに向き直る。

「アンタの逃げ場はこれで無くなったさかい、覚悟したってやー」

「う、裏切ったのかソロール・ウンディーネぇえええっ!」

 

「……つまり、アンタがかおりんの魂を封じた術は、アンタが預かってきた呪具を使っただけで、アンタじゃどーにもでけへんってことなんやな?」

 ウチは、完全に心の折れて腑抜け状態になったマヌケ野郎の魔術師に再度確認する。そうなると厄介やな……。

「解呪の方法は今ここにはないってことなのか?」

 お兄さんがそう訊ねてくる。

「残念やけど……そうみたいやー」

「明音にもどうにかできないの?」

 夜見ちゃんもそう言うてくれるけど、こればっかりは、少なくとも今はウチにもお手上げやった。ウチらの位階ではこの段階を学べるものやなかった。

 そりゃ、ウチは小達人の位階までは持ってるけど、あくまで高天原はスクール・ロッジやから、上位結社の同位階とさえ、そのまま比べられるものやない。

 さおりんは、うつむきながらじっと聞いている。握り締めた手が僅かに震えているのが判って、胸が痛む。ウチとしても、この前協力を申し入れておきながら、むざむざとこんな目に遭わせてしまった負い目もあるし、力になってやりたいと思うんやけど。

 しかし、さおりんも妙な子やな。そもそも敵であった、いや、本来なら今も敵であるはずやのに、なんだかほうっておけないっちゅーか、嫌いになり切れないっちゅーか。いや、最初は気に食わなかったとこもあるんやけど。どうも、ここにおるみんな、お兄さんや、恋敵のはずの夜見ちゃんでさえ、そんな気持ちを彼女に抱いているっぽい。

 このまま仲ようなれればええのになー、とつい思うてしまった。

 

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 SAORI

 

 なんていうか……仕方ないのは判るのよ。仕方ないのは。

 今すぐ香織の魂を取り戻す手段がない以上、香織の代わりに私が香織として生活しないといけないってのは。まあ……まがりなりにも二心同体、香織が基本的に家族の前や学校でどう過ごしてたのかは大体わかるから、油断さえしなければ、しばらくの間……数日程度で済んで欲しいものだけど……香織として過ごすことは不可能じゃないと思う。

 だけどねー……。

 写真部の部室で平坂のヤツとふたりっきりっていうこの状況は一体どういうことなの……。

「文句言うな。校内でこの話できるのはここくらいしか無いんだから」

「う、わぁーってるわよ。香織を取り戻したいってのは私もあんたも同じなんだし、この際協力するのに関しては文句なんてないし」

「そう言ってもらえると俺の方も助かる」

「まぁね。それにしても、あんたからあんな言葉聞くとは思わなかったわよね。香織にも目はあるとは思ってたけど、ホントに香織のこと好きだったとはねー」

 そう言ってやった途端、ヤツは口に含みかけてたペットボトルのお茶を吹く。

「ぶ! げほげほっ」

「あ……ゴメン」

「いや……それは……ウソなわけはないが、正直あそこで言うつもりはなかったっつーかだな……」

「じゃ、どう答えるつもりだったの? 好きだっての隠して香織のこと振るつもりだったってことかしら?」

 少しムッとして問い詰める。

「……」

 無言の答え。どうやらそのつもりだったのか。でもまあ、ヤツと敵対関係にある私の存在がある以上、ここでそれを責めるのも酷だってことくらいは私も判る。だけど、判ることと納得できることは一緒じゃない。

「はー、酷い男よねー。好きなら好きでいいじゃないの?」

「……酷いのは判ってるよ。結局のところ、最後に香織を傷つけるのが怖かったんだ。まぁ、ついぽろっと言っちまったんだけどな、結局。良かったのか悪かったのかはわかんねーけど」

「ついぽろっと、ねー。あんたらしくないじゃない」

 なんだかんだでこの男のどこまでも先の方まで考えられ、抑制された言動には良くも悪くも感心していたりする。つまり、『ついぽろっと』なんてのはこいつにはふさわしくない言動だと言える。

「……やっぱ、勝手が違うんだよ、その……恋愛とかそーゆーことは、だな」

 少し目を伏せるようにして言うこいつ。

「……意外ね」

 正直本音だった。

「人間のやることなんて、理屈じゃいかないことばかりだってのは、俺だって判ってるつもりだけどな。それでも、こと恋愛ごとでは、俺自身が理屈じゃいかなくなっちまう。自分が何言い出すのか何やりだすのか、ぎりぎりのところでわからなくなっちまうんだ」

「ふーん……」

 こいつでもそういうことあるんだ。

「ね」

 私はもう一つ気になることを聞いてみたくなる。

「どうして、香織のこと好きになったの?」

 がたっ。

 また動揺してるわあの男が。ホントにらしくないわ。でもちょっと面白いかも。

「言わなきゃ駄目なのか?」

 弱りきったような顔して聞き返してくる平坂。

「香織の〈妹〉としては、おねーちゃんのことを好きになった人のことはどーしても気になっちゃうのですョ。ふふふ」

 そう、ちょっとおどけて言ってみる。コイツが〈妹〉に弱いのはお見通しだもんネ。

 ヤツめは、少し宙を見つめながら考えをまとめている様子をしてから、口を開く。

「ハッキリ意識し始めたのは、やっぱり香織が髪型を変えてきたときだったよな」

「まあそうかもね」

 髪型変えた次の日の朝、鏡にむかってむん、って可愛く気合入れた香織、半分自分でもある私から見てもほんとうに魅力的に見えたもんね。ちょっとでも目のある相手だったら、これで落とせる可能性充分だと思ったもの。やっぱそうだったかー、うんうん、と思ったとき。

「だけど、思い返してみると、もっと前から気になってたんだと思うんだよな」

「へえ」

 それは興味深いですねえ。ここは是非聞かせてもらいたいものね。私は野次馬モードを全開にして重ねて訊く。

「俺と香織が、部活まで一緒だったってのはずっと知らなかったわけで、いきおい最初に彼女のことを知ったのは、やっぱ同じ図書委員になってからなわけだ」

「うんうん」

「呆れるなよ?」

「なによ」

「本当に自覚してなかったんだ。頼むから呆れるなよ?」

「……わかったからとっとと言いなさいよ」

「今からじっくり思い返すと、最初に香織に会ったとき、一目惚れしてたとしか思えん」

「……は?」

 えーと、今何を聞いたのかしら、私? 目が点になる、ってよく聞くけど、そうかこーゆーときに使うんだ。

「そのあとは、何となく他の子より、少しだけ香織のことを気にかける割合が多かったような気はする。もっとも、俺としては、図書委員を頑張ってくれる信頼できる仲間、って感じでそんなつもりで接していたと思う。自分でも、香織に好感を持ってるってのは判ってたが、そういう気持ちだとずっと思ってたわけだ」

「それが、香織が髪型変えてきたことで目覚めた、ってわけ?」

「そう……なんだろうな」

 喜びなさい香織、貴女の行動は正しかったわ。うんうん。しっかしまーよくいる自分の気持ちに疎い系主人公を前にしたヒロインってこーゆー気分なのかしらねー。ま、こいつはマシな方だけど。

「けど、あのころの香織って、飾りっけも全然なくて地味そのものだったじゃない。今だって充分地味だけど。それでよくあの子に目をつけたものよね」

「……はァ?」

 え、なにどうして今度は私の方が呆れられた声出されてるの?

「何言ってんだお前あんな気持ちの優しいとこが内側から滲み出てるみたいで柔らかい雰囲気をかもし出しててがんばり屋で地味でそれだからこそ一緒にいるとこっちも落ち着いた気持ちになれてその上眼鏡が似合ってるとかどう見ても魅力的だっただろうが!」

 そう句読点も入らないような勢いで一気にまくし立てられると私の方もそれを呑み込むのに少々の時間を要した。

 ま、まぁ、つまるところは。

「……あんたが地味な眼鏡っ娘萌えだってことだけは判ったわ」

「そういう要約をされるのもなんだか釈然とせんのだが。つーても否定もしがたいのがなんか腹立つな」

「ボヤかないボヤかない。ちゃんと判ってるってば」

 なんだ、ちゃんと貴女の素敵なとこ、コイツに伝わってたんじゃないの。香織。

「問題は、アンタが自分の気持ちに鈍すぎただけだったってことよね」

「……それに関しては一言もない」

 ぐうの音も出ない、って感じで小さくなる。

 でも、そっか。コイツってあのアピール度ゼロみたいな超地味っ娘時代の香織をちゃんと見てあげられるヤツだったんだ。今も充分地味だけど、でも、コイツはむしろ地味な子が好きなのね。香織が帰ってきたら教えてやろう。

 私は、両手で頬杖をつきながら、珍しいものを見るように平坂の顔を眺めながらヤツの言うコトを聞いていた。ふと気づくと、ヤツが私の方をチラ見しながら落ち着かなげな顔をしている。

「どーしたのよ」

「……いや……その。香織の顔でそうまじまじ見られると落ち着かないっていうか」

「ぷっ」

 私はそれを聞いてつい吹き出してしまった。

「結構カワイイとこあるんじゃないアンタも」

 くすくすと笑いながらそんなことをつい口走ってしまう。今度はヤツの方が私を目を丸くして眺め、みるみる顔を赤くしてゆく。

「な……」

「……って、今のナシ! な、なに言ってんだろなー私、ははははは」

 自爆した。どう考えても誤魔化せてないわよね。少なくとも、いまは香織を取り戻すっていう最優先の共通の目的があるから、それを果たすまでは対立(手段はともかく、目的では)しなくて済むっていう妙な安心感から油断をしてしまった。

 

「と、とにかく」

 私は強引に話題転換をはかる。

「昨夜も試してみたんだけどね。やっぱり私、魔術が使えなくなっちゃってる」

「香織の魂が封印されたせいか?」

 本来話すべき内容だけに、平坂もすぐ応えてくれる。

「多分……ね。霊的中枢に私か香織、どちらかの魂を封印することで一時的に魔力を奪い、抵抗力を削いで拉致するつもりだったんだと思うわ」

 ……あんたのおかげで連れ去られなくて済んだけど、という言葉は呑み込んだ。

「とは言っても、私たちにまた何かしらの利用価値が出てきたからこんなことをしたんだろうし、そうだとすれば、香織を元に戻す方法は必ずあるはずよ」

「……そうだな」

 

 ところで。とりあえず、件の魔術師は可能な限りの情報を聞き出した後、始末の方は明音に任せたわけだけど。

「まあ流石に殺しちゃいないだろ」

「そ、そーね」

 なんでそーゆー怖い言葉がさらっと出てくるかなー。心情的なコト以外でもコイツとコト構えたくないって思わされちゃってガクブルなんですけど。

 

「それにしても、あのときの〈黄泉姫〉、凄かったわね……ソロール・ウンディーネをあんなふうに心底から従わせちゃうんだもん」

 様子を伺っていた明音を引っ張り出してきて叱り飛ばしたときのあの真剣さときたら。

 なんて真っ直ぐな子なんだろうって思ったわ。

「ああ、俺の自慢の妹だからな。明音のことは、夜見子に任せておけば大丈夫だって信じてたから」

 まるで、自分が褒められたみたいに嬉しそうな顔になる平坂。なにこの妹バカ。

「まあ……泣かせちまったけど……な」

 あのときの黄泉姫の顔を思いだし、沈んだ顔をする平坂。コイツが香織に気持ちを告げた直後に飛び込んできたときの顔、そして、あの件があって、一旦解散するときの無理をしたような笑顔。どっちも、私でさえ立場を越えて胸が痛むような切なさをはらんでいた。

 それに、いわば失恋したばっかりだって言っていいくらいだってのに、その自分を失恋させた相手である香織のことを、「お兄ちゃんが助けたいと思うんだったら、あたしも香織さんのこと助けたい」なんて言ってくれて。

 ホント、いい子なのよね……あの子が〈黄泉姫〉でさえなかったら、仲良くだってなれたかも知れないのにね……。

 それでも……私は。

 

 YOMIKO

 

「根本、おい、根本ってば」

「……あ、どしたのョたくろー」

 お昼休み、なんとなくぼーっとしてたらたくろーのヤツが声かけてきた。

「どうしたのはこっちだってーの。気の抜けた顔しやがって」

「……あ、うん。なんでもないわョ」

「なんでもないってツラじゃねーだろ」

「なにョ、妙にからむじゃない」

「……っ、そ、そんだけほっとけねー顔してんだよ、今のお前」

「そう」

 あたしは、それだけを答えてまた意識を拡散させてゆく。なにやってんのかなあたし。

「そう……って、おい!」

 たくろーの声が慌ててるっていっていいくらいになってるけど、なんかどうでもいい。

「まぁまぁまー、ここはウチに任せてくれへん? 女の子同士やないとわからへんこともあるやんなー」

 そんな声が聞こえ、あたしの身体が立たされる。なんか手を引かれてるけど誰の手かな? ああ明音か。

「……おい、沢村! 根本のこと、頼んだぞ!」

「ああ、任せてなー」

 あたしは、そんな声を遠いことのように聞きながら、明音に手を引かれていった。

 

「……ちゃん、夜見ちゃん!」

 ……ん、ああ、明音か。

「うん、なに」

「夜見ちゃん、いくらなんでもおかしすぎや。そりゃ……ショックやったんは判るけど」

「ん、アンタいつもの間延びした喋り方はどーしたのョ」

 どうでもいい疑問。

「そんなん……今の夜見ちゃん見てたらそんな口のききかたしてる余裕なんてあらへんよ」

 くしゃっ、と明音の顔がゆがむ。

「昨日、ウチのこと叱ってくれた夜見ちゃんは一体どないしてん……」

「うん、そうね……」

「やっぱ……お兄さんやないとあかんのかな」

 お兄ちゃん。その言葉を聞いたときびくん、ってあたしの中のなにかが跳ねた。

「いやッ! 言わないで!」

 自分でも驚くような大声が出た。

 そして、胸の奥からこみ上げてくるものに突き動かされるように、あたしの喉から嗚咽と、瞳からは涙がぽろぽろと溢れ出てきた。

「うっ……うう……お兄ちゃん、おにいちゃん……」

 昼休みが過ぎても泣き続けていたあたしを、明音はずっと抱きとめて、背中をなでてくれていた。

 

「よっ」

 放課後。あたしに付き添ってくれている明音に手を引かれ、帰りの通学路を歩いていると、誰よりも逢いたいはずなのに、今だけは誰よりも逢いたくないひとがいた。

「お兄ちゃん……」

「今、いいか?」

「……うん」

 あたしは、小さくうなずく。たとえあたしがどんな状態でも、お兄ちゃんが言うなら否はない。

「そこの公園にいこうか。落ち着けるから」

「うん」

「……ウチも一緒でええか?」

「ああ、もちろん」

 あたしたちは、あたしを真ん中にして公園のベンチに並んで座る。

「お話、なあに?」

 あたしは、お兄ちゃんの優しい顔を見上げて尋ねる。

「夜見子が話したいことがあるなら、聞くよ」

「?」

「……せやったら、どないして?」

 明音も不思議そうに聞く。

「話すことがなくちゃ、ダメか?」

「……ううん」

「それじゃ、一緒にいよう」

「……うん」

 それは、とっても不思議な気持ちだった。

 お兄ちゃんは、いてくれる。

 たとえなにがあっても、あたしのそばに、いてくれる。

 そのことだけが、いまのあたしたちの真実として伝わってくる。

 それだけで、あたしは、ほかにはなにもいらなかった。

 いつのまにか、お兄ちゃんの手が、あたしの手を優しく握ってくれている。自然すぎて、しばらく気がつかなかった。

 もう一方の手も、明音が握っていてくれていた。

「一緒にいるよ、いつまでも」

 やがて眠りに落ちたあたしの耳に、そんな言葉が聞こえたような気がしたけど、それが現実の言葉なのか、夢の中の願望の言葉なのかは、曖昧でよくわからなかった。

 

-4ページ-

 MISA

 

「ね、双葉さん、ちょっといいかしら?」

 私は、隣のクラスに行って、双葉香織さんに声をかける。思えば、こうして彼女に校内で声をかけるのは初めてだったかしら?

 ここのところ、平坂も夜見子ちゃんたちもどうも様子がおかしい。何かを知っているとしたら、彼女じゃないか、と思って声をかけてみようと思ったわけだけど。

「わ、わ、隣のクラスの紅さんじゃない、どうしたのかしら」

「双葉さん、何かしたのかしら?」

「ほら、例の平坂くん。この前双葉さんが髪型変えてきたじゃない。あれ、彼となんか関係あるらしいよ」

「うわっ、まさかあの紅さんと奪い合い?」

 ……なにこの居心地の悪さ。ウチのクラスだとなんか視線浴びても生温かかったりして、あれはあれで微妙なんだけどこういう居心地の悪さは感じないんだけどなー。

 あー……なんか香織さん顔引きつってるし、悪いコトしちゃったかも。そう思ったとき。

「紅光紗、ちょっと場所変えるわよ」

 立ち上がるなり、ジト目になって私の耳許でそう囁いた彼女は、私の手を取って教室から出て行った。もちろん私も無理やり引きずられて。

「あ、ちょっと!」

 

「……ったく、あんな風に不用意に声かけてくるなんてどうかしてるわ。香織の立場悪くなったらどうしてくれんのよ」

 香織さんに連れられて屋上にやってきたが、なんか言ってることがおかしい。どっかズレてるような……?

「え、え?」

「だーかーら、もし香織のこと心配してくれてたならそれはありがたいんだけど、TPOってヤツをもーちょい考えてって……」

 ど、どうしちゃったの、香織さん? らしく……ない、というより、これはもしかして?

「なに、平坂から事情聞いてきたわけじゃないの?」

「……え? ひ、ひょっとして……沙織、さん?」

「なによ、今頃気がついたの?」

 そういって、香織さんの姿のままの沙織さんが、ため息をついた。

 

 SAORI

 

「……とまあ、そんなわけで、私が香織の代わりになってるの」

 そんなこんなで紅光紗にコトのあらましを説明したわけだが、流石に成り行きとはいえ香織と平坂が互いに告白し合ったことは伏せておいた。思えば紅光紗だって平坂のこと好きなわけで。そうなるとやっぱここで私の口からバラしてしまうのはよくないし。

 どうして夕方の部室で一緒に居たのかってのは、あの二人の場合委員会も部活も同じっていう共通点があるから、一緒にいても不自然じゃない。言葉は悪いが誤魔化しやすいっていうのはある。

「……それだけ?」

 だが、私の話を聞いた紅光紗は、私の顔をじっと見つめたあとでぽつり、とそう言った。

「な、なにがそれだけなの?」

 急所を突かれたような気分になって、ついうろたえてしまう。

「こんなことがあったってのに、平坂が話してくれなかったってのがおかしいのよ。だから、アイツが話したくないって思うようなことがあったんじゃないのかって」

「……」

 言い訳をしようかと思って口を開きかけたが、彼女の真剣な目に私はあっさりと観念した。

 これはもうどんな言い訳も効きそうにない。

「……もし言うんだったら、平坂自身の口から伝えるべきだって思ったから言わなかったの。だから、ここで私が言ってしまうのはよくないと思う」

 だから、まずあくまで私が真面目ににそう思うっていうスタンスを表明する。その上で聞きたいっていうなら真剣に話すって。

 紅光紗は、っていうか平坂の周りの女の子たちに不思議と共通する点なんだけど、こういう風に言うと、あの子達って大体同じように、真剣に向かい合ってくれるのよね。アイツって、表面的にはともかく、芯の部分がそういうタイプの子たちに好かれるのかな、ってそんなことをちらりと考えたりする。

 果たして、紅光紗は改めて少し目を閉じ、開けたときには気持ちを決めた、って顔になっていた。

「……うん、わかった。でも、貴女も当事者だと思うから、貴女の口から聞きたい」

「いいの? 香織ならともかく、私が当事者と言っていいとは思えないんだけど」

 そう言うと、彼女は不思議な笑みを浮かべて言った。

「そうかしら。私には、貴女も当事者だと思えるんだけど。沙織さん」

 その言葉に、何故か私はどきっとした。

 

「……そう。うん、なんとなく、そんな気、してた。だって……」

 香織が平坂に告白し、平坂もまた香織のことを好きだと言ったことを紅光紗に伝えた後、彼女は少し目を閉じてそれだけを言った。

「その……紅光紗、でも、平坂は、ね……」

「好きだけど、断るつもりだった、とでも言った?」

「……どうしてわかんのよ!?」

 少し寂しげな笑顔で、あっさりとそう言った紅光紗に反射的に叫んでしまう。

「まあ、ね。いかにもアイツが言いそうなことだと思っただけよ」

「で、どうするつもり? 私が伝えたせいであんたたちの関係にいやな影響あたえちゃったりするのは、こっちとしてもいい気分しないから」

 やっぱ寝覚め悪くなるわ、こういうのは。

「どうもしないわ」

「……え?」

「今までどおりよ、私は平坂のコトが好きだし、それに、香織さんと付き合うってわけじゃないなら、まったく望みがないわけでもないでしょ?」

「いや、そうかもしんないけど」

「それにね。私は平坂が誰のこと好きでも、私の気持ちをそのために変える気はないの」

「気はないって……」

「私のこれからの人生に、きっとアイツ以上の男なんて現れないわ。だから、私にとっての恋愛は、アイツをモノにするか、アイツにずっと片思いするかの二つに一つしかないの」

「ないのって……」

 我ながら馬鹿みたいなことしか言えやしない。

 なんなのよこの女。なんでこんなにあっさりと、『自分は一生に一人の男しか好きにならない』なんて、あんな確信を持って言い切るのよ。

 私は無意識にぎりっ、と奥歯を噛んでいたことに少しして気づいた。

 

「あれ、沙織さん」

 紅光紗と別れ、彼女に理由のよくわからない敗北感を感じながら廊下を歩いていると、今度は亀井三千代からそう声をかけら……れェーッ!?

 なんでいきなり沙織だって判られてるのよーっ!

 私は、慌てて三千代に駆け寄り、彼女の手を引いて再び人目につかないところへと駆け出した。今日はこんなんばっかりね……。

「あ、ちょっと、どうされたんですか?」

「い、いやいやいや、今私香織の姿のはずよね?」

 問い詰める前に念のため顔とか髪とか触ったり色見たりして改めてちゃんと(?)自分がまだ香織の姿だと確認したんで間違いない……はず。

「あ、私、昔っからあんまり目が良くないせいか、人の区別オーラの色ですることが多いんです」

 なんてあっさり言ってくれちゃったりなんかしてもう。霊能者かよ! 霊能者だよ! なにこの一人ツッコミ状態。

「目が良くないって……」

 ひょっとして、目の病気だったり……? 私はおそるおそる問いかけてみる。

「近眼なんです」

 ……あ、そ。ちょっとかくっときた。

「あ、実は自分ではあんまり意識してなかったんですけど、しばらく前にお兄さま……せんぱいに私って近眼なんじゃないかって言われて、お兄さ……せんぱいに選んでもらった眼鏡かけるようになったらよく見えるようになって驚いちゃったんですよ。えへへ。でも、昔からのくせで、ついオーラ見て判別しようとしちゃうんです」

 左様でございますか。惚気かよコンチクショウ! それにしても平坂に眼鏡選んでもらうとかうらやま……じゃねえ! 香織! たいへんよ香織! あああんたもこんどアイツに眼鏡選んでもらわないと……。

 とそこまで頭の中がぐるぐる回って妄想が暴走したところで我に返る。

「と、とにかくね、そんなわけで、少しの間……多分、少しだけ、私が香織の代わりに生活することになったの」

「わかりました。図書委員でも、できるだけサポートさせて頂きますね」

「……あ、ありがと」

「いえ、困ったときは助け合いませんと」

 うゎー素よこの子。いい子なのはいいんだけど、私……ていうか正確には香織は恋敵だって判ってんのかしらこの子。

「お兄さまがお好きな方ですもの、ちょっと寂しいですけど、助けて差し上げたいのも本当で

すから、遠慮なくおっしゃってくださいね」

「……え?」

 判ってた! それどころか! なんで! なんで知ってんのよ!

「あ、あの……みちよさん?」

「はい?」

「ど、どうして……平坂が香織のこと……って?」

 両手をわなわなと震わせながら動揺を隠せない声で私は尋ねる。

「……私、オーラが見えるって言いましたでしょう? もちろん、決していつも判るわけじゃないんですけど、ときどき、判るんです。香織さんが、お兄さまの方へ想いを寄せてたこと、それに、お兄さまも、香織さんに気持ちが向いてるって。きっと、私もいつもお兄さまのこと見てましたから、判ったんだと思います」

 彼女の笑顔は、少し寂しげで、でも、とっても綺麗で、愛らしくて。ここに平坂がいなくて本当に良かった、って思っちゃった。だって、今の三千代さんのこと見たら、恋しない男なんてこの世に存在するとはとても思えないくらいで……。

 オーラが見える能力があったって、それだけでそんな全てが判るわけがない。

 それだけ無私の気持ちでアイツのことを見つめていなくちゃ判るわけがない。

 ダメだ、私じゃ勝てそうにない。香織ならともかく、私じゃ。って、いや私が勝つ必要なんてないんだけど!

 なんでアイツの周りってこんな子たち……こんな、他のライバルたちがいなかったら、どんな男の心だってあっというまにひとり占めできるような子たちばかりが集まってるの!

 信じられない! もう!

 

 HIRASAKA

 

 俺は、大家さんからしばらく前に手渡されたモノを前に、ため息をつく。大家さんは「確実に自分のモノにしとけ」と言った。それはつまり、自分の手のようになるまで使いこなせるようになれ、と言ったわけだが、それが全てでもないだろう。

 ともかく、しばらくの間集中して勉んだ結果として、分解清掃からある程度の使用まで、少なくともシロウトの域をちょっとばかり出る程度にはなれただろう。

 しかし、それにしてもこんな代物を、まだ高校生である俺に渡すとか、流石にどうかと思うんだがなあ。正式な〈免許〉だってまだ取っていないってのに。

 実際、世間一般の常識からは隠されているこの〈仕事〉、一応は一般に非公開の形で免許が交付され、それを持つ者には、こういうものを所持する権利もある程度は与えられている。もっとも、俺の持ってるのはまだ見習い免許の段階だ。余程の例外でもなければ、高校在学中に正規の免許など取れるものじゃない。

 まァ、大家さんはかつてその〈余程の例外〉だったわけなんだが、それにしたって、見習い免許持ちにこんなもの渡したってバレたら、大家さんの方だって当然のごとく免許剥奪されかねんだろうに。恐らくは、件の異次元校舎事件の話を聞いて思いついたんだろう。

 だが、あの人も単なる酔狂でこんなことをするような人でもない。その辺はきっちり弁えている人だ。だから、あの人なりの考えはあるんだろうが。

 そんなことを思いながら、こいつを「自分のモノ」とするための次の段階として、自分なりの加工に取りかかっているわけだ。

 

 AKANE

 

「ソロール・ウンディーネ」

 深夜、自室で唐突にウチを呼ぶ声。

「なんやねん、こないな夜中に乙女の部屋に」

 振り返ると、見慣れた白いフード付きローブを被ったやや年配の男がいる。

 文句を言うが、そろそろ来る頃やと思うとった。そのため、まだ寝間着にも着替えず、戦闘準備さえ整えて待機しとったのやから。

「そうこわい顔をするものではない。君にとっても損になる話ではない」

「ふうん?」

 交渉かいな。下手すると、即始末にきてもおかしゅうないと思うとったから、少し意外やった。

「正直なところ、我々も君をこんなことで失うのは惜しいのだよ。高天原始まって以来の天才である君を、たかだかあのような任務すらまともにこなせぬ凡庸な者ひとりと引き換えにするなど愚の骨頂だろう」

「エラい高こう買ってくれはったんはええけど、それでええんかいな? またやらかしても知らんで?」

 精々性格悪そうにニヤリと嗤ってみせる。

「ここのところ、黄泉姫計画が興味深い、実に興味深い推移を見せているのは、君も知っていよう」

「そら、まあなー」

「現状唯一の成功例として、君を派遣して経過を見守っていた根本夜見子の急成長ぶりは言うに及ばず、失敗例として最低限の経過観察をしていた程度の双葉香織が、ここにきて新たな発達段階に入っている。これまでの常識では考えられぬことだ」

「ふむー」

 それは、ウチも思っていたことや。せやから、あえてさおりんに接触を図ったわけやし。

「現在の彼女らを、誰よりもっとも近くから見ていたのは君だ。そこで、新たに、とくに黄泉姫計画に特化した新たな小結社を立ち上げ、君をその首領に抜擢したいと思っている。位階は大達人に引き上げたい。無論、スクール基準ではない、我々と同等の内陣基準だ」

「な……」

 ウチは、思わずごくり、と喉を鳴らす。内陣の大達人……やて? 普通やったら一生かかっても到達不可能なレベルや。まあ……ウチなら、生きてるうちにいつかは、というくらいの自負はしとったが……。

 高天原や〈上位結社〉も属することになる『黄金の夜明け』系列の結社において、結社内の位階は通例このようになる。

 まず、魔術を志す者としての

 〈参入志願者〉(プロベイショナー)

 より、

 第一オーダー、この辺は一般団員ってトコやな。

 〈初参入者〉(ニオファイト)

 〈信心者〉(ジェレイター)

 〈教義者〉(セオリカス)

 〈実践者〉(プラクティカス)

 〈哲人〉(フィロソファス)

 

 第二オーダー、このクラスになると結社でも指導的立場ということになる。さっきから言うとる〈内陣〉ってのは、この中でもさらに指導的立場の者が結成する結社内結社のコトや。それに対し第一オーダークラスの一般団員は〈外陣〉となる。

 〈小達人〉(アデプタス・マイナー)

 〈大達人〉(アデプタス・メジャー)

 〈被免達人〉(アデプタス・イグゼンプタス)

 

 第三オーダー、これはもう、肉体を持っていては到達できない位階であり、言うなれば結社の〈指導霊団〉というべき存在や。

 〈神殿の首領〉(マジスター・テンプリ)

 〈魔術師〉(メイガス)

 〈イプシシマス〉

 

 といった風になり、位階に応じたカリキュラムがある。

 ぶっちゃけ、通常レベルでの実践、実質を重んじる結社なら、ほぼ結社の指導者クラスでも小達人までと言っていいやろう。そういう意味で、ウチらの高天原の〈上位結社〉のように、規模が大きく、しかも高度でかつ実質主義な結社クラスで、大達人というのがどのレベルなのか察してほしい。

 魔術師にとって、結社内における位階は極めて重要な意味を持つ。単に会社の課長だ部長だだの、あるいは武道の段位だのとかそういうものとは根底が違うのだ。

 単なる地位だけでなく、『その位階でないと触れることをも許されない秘儀や知識』といったものもある。

 魔術という高度にシステマチックなオカルティズム実践体系は、もはや結社という基盤なしに高位の段階に達することは極めて困難や。せやから、魔術師を志す者として、内陣の大達人という位階がどれほどまでに重要なものか。それを理解してもらうんは容易ではない。ともかく、『それほどのもの』やと思っておいてもらいたい。

「無論、若い君をいきなり首領に抜擢することには反対もあろう。しかし、君ならそのような反対もねじ伏せてくれるような実績を上げてくれると期待している」

「ちと……考えさせてもらってええか……」

 ウチは、震わせた右手で顔をつかむようにして、動揺した姿を見せると、それだけをぼそっと呟いた。

「いいだろう。色よい返事を期待している」

 そう言って、ヤツは消えた。

 

 翌日、すこし元気を取り戻した夜見ちゃんと、今日もお兄さんの帰りを待ち、公園で一緒の時間を過ごす。ただ、お兄さんにひしと寄り添って、今は眠っている夜見ちゃんの髪をなでていたお兄さんが、すこしばかり様子が変やと思ったのか、ウチの顔をまじまじと眺めている。

「な、なんやお兄さんー、照れてまうやないのー」

 冗談めかして言うけど、いつもの調子やないんは自分でもわかる。

 お兄さんが、ウチの顔を真っ直ぐ見つめながら言う。

「明音」

「な、なんやお兄さん」

「俺がこの前なんて言ったか、覚えてるな」

「あ、ああ、もちろんやで」

「なら、いい」

 それだけ言って、ふたたび夜見ちゃんの寝顔に視線を落とす。

 どっと冷や汗が出るんがわかる。おっかない。何が? そう、それはもちろん。

 

-5ページ-

 YOMIKO

 

 あれから何日かが過ぎ、あたしもだんだん元気を取り戻してきた。なんといっても、いつもの悪ふざけも抑えて支えてくれた明音と、たとえ恋愛とは違っても、あたしに混じりっけのない愛情を注いでくれてるって、なにがあってもあたしたちの絆は切れたりしない、って実感を与えてくれたお兄ちゃんのおかげ。

「やっほー夜見ちゃん」

「あ、うん」

「今日も行こっかー?」

「うん、行く」

 もちろん、お兄ちゃんのとこへ。

「よぉ根本」

「あ、たくろー」

「……ちったあ立ち直ってきたみたいだな。やっぱ、お前が元気じゃねーと張り合いがないっつーかだな」

 たくろーもあたしのコト心配してくれてたってのは明音にも聞いてる。

「うん、心配してくれてありがと、たくろー」

 そう言ってあたしは今の精一杯の笑顔を浮かべて、たくろーにお礼を言う。

「……っ!」

 と、何故か一瞬にして真っ赤になって押し黙るたくろー。どしたんかしらネ?

 あたしが首をかしげていると、明音が肩をぽんぽんと叩いてくる。

「はっははー、夜見ちゃんもツミなオンナやねー、たくろーくんにあんな可憐な微笑みでお礼やなんて、そら惚れ直むぐぐ」

「そ、そそそれ以上言うんじゃねー!」

 慌ててたくろーが明音の口を塞いでる。どったんかしら?

 

「……あ、黄泉姫……」

 お兄ちゃんの通学路沿いでもあるいつもの公園前で、お兄ちゃんの帰りを待っていると、沙織さんが先に通りかかった。今は香織さんの姿だけど。

「こ、こんにちは、沙織さん」

「うん、こんにちは、黄泉姫」

 少なくとも、今は休戦中だし、敵味方の関係抜きにして彼女のこと結構嫌いではない。

 そんなわけで、あたしたちはわりと素直にお互いに挨拶を交わす。もっとも、それ以上にお兄ちゃんとのことがあるだけに、少しぎこちないけど仕方ないわね。まァその〈黄泉姫〉って呼び方はちょい気になるけど。

「やほー、うちらはお兄さんを待ってるんやけど、せっかくやし一緒に待たへんー?」

「っ、一体何考えてるのよソロール・ウンディーネ」

 慌て気味に言う沙織さん。しばらく彼女と付き合ってきて、これがあたしのことを気遣ってくれてるから慌ててるんだってなんとなく判るようになってきた。ホント、悪い人じゃないのョね。

「うん、いいのョ。機会があったら、もうちょいちゃんと話しておきたいってあたしの方から言い出したの」

「……そ、そう……だったらいいのだけど」

 沙織さんは、戸惑いながらもお兄ちゃんを待つのに同意してくれる。

 

「待たせてごめんな、夜見子」

 そう言いながらお兄ちゃんがやってくる。けど、カメ子と紅さんも一緒。

「夜見子ちゃん、さいきん元気ないんだって?」

「私たちも、元気になってくださると嬉しいです、夜見子さん」

 あたしのこと案じてくれてるのが伝わってくるその二人の言葉を聞いて、ちょっと目頭が熱くなっちゃった。

「あ……ありがと、二人とも」

「まあそんなわけで、二人も一緒に来てもらったんだ。俺だけじゃなくてすまんが、カメちゃんも光紗も、どうしても会いたいって言ってくれて、な」

「ううん、あたしのために、みんなありがとう」

「せやなー……これで、みんな揃うた……な」

 明音が口の端を釣り上げながら、そんなことを言う。どうしたのかしら?

「明音?」

「ソロール・ウンディーネ?」

 あたしと沙織さんが彼女の名を呼ぶとともに、明音は両手を顔の横に持ってくると、ぱん、と甲高い音を立ててその手を鳴らす。

 次の刹那、あたしたちの視界は急激に暗転する。

 そして。

 

 数瞬の意識の断絶の後、我に返ると、そこは見知らぬ場所だった。

 どこ? 森? 山? 湖? それにあれは……ちょっと大きめの天幕みたいなものが。

「これは……この前の異次元みたいなところか?」

 お兄ちゃんが言う。

「せや。高天原の〈上位結社〉御用達の儀式用空間、物質世界とアストラル界の中間点にある〈根無し草〉の世界や」

「時間感覚の狂い、なにもかもが死んでいるような、俺たちを拒むような、よそよそしさに満ち溢れた空間……そうか、これか」

「そういうことや」

 お兄ちゃんにはなんか思い当たることがあるの?

 そのとき。

「ソロール・ウンディーネよ、標的は捕えたようだな」

 明音の背後から声をかけて出てきたのは、白いフード付きローブを頭からかぶった、男。

「ああ、言われた通り、連れてきたでー」

「あ、明音! アンタ一体なにしようとしてるの?」

「うーんとやね、悪いようにはせえへんよ、夜見ちゃん」

 そう言ってぺろり、と舌を出す明音。わかんないよ、明音の考えてることがわかんない。

「ソロール・ウンディーネ、あんた……」

 沙織さんが、ぎり、と奥歯を噛んでいる。

「いったい、何考えてるの、沢村さん!」

 紅さんがふるった拳が、近くの木の幹を粉砕する。この前みたいな異次元に入ったせいなのか、紅さんのパワーは深夜並かそれ以上に上がっているようだ。

 ……どうして?

「マイスター、いいえ、明音さん……!」

 彼女には珍しい、静かに燃える瞳をしたカメ子が、その髪をほどき、ノワを飛び出させる。ノワの身体にも、霊的パワーがみなぎっているかのよう。

 ……何故?

「明音」

 お兄ちゃんが、静かにその名前を呼ぶ。そのとき、明音がちょっとびくっとしたみたいだけど、すぐに立ち直ると、意外なほど真っ直ぐにお兄ちゃんの瞳を見返して言った。

「悪いけど、すぐ済むさかい、おとなしゅうしとってくれると助かるわー」

「……本気なんだな?」

「せや」

「……そうか」

 なんだろう。こんなに言葉が足りないのに、お互い言いたいことがわかっているみたいなこの会話。お兄ちゃんには明音のやりたいことが判るの?

 

「……お兄ちゃん?」

 明音と対峙している最中、お兄ちゃんが、あたしの手を握ってくれる。あたしは、その感触にハッとする。お兄ちゃんと明音が、元気をなくしていたあたしを、放課後何も言わずに一緒にいてくれることで慰めていてくれてたときの、あの感触。

 信じろって……いうの? 明音を?

 お兄ちゃんは何も言わなかったけど、この握った手が伝えてくれることは、疑いを差し挟む余地なんてないくらいハッキリしていて。

 でも、それが明音の意図だとすれば、あたしは、あえて明音のことを疑ったままのように見せるべきかも知れない。

 ……うん。あたしは、あのときの明音の目を思い出す。そして、決める。あたしは、明音のあの目を信じるって。

「……明音! どうしてこんなコトするの?」

「いやー、このおっちゃんがなー、ウチのこと内陣の新結社の首領に大抜擢してくれるゆーてやなー。でー、みんなをここに連れてきてくれたらこの前までの叛逆行為も許してくれるゆーてやなー」

 けらけらと笑う明音。どこか空虚に。嘲るように。なにを?

「我が黄泉姫計画唯一の成功例たる、そして今予想を上回る成長を見せる根本夜見子、そして失敗作であったにもかかわらず新たな成長の兆しを見せる双葉香織、この二人を回収し、調査及び新たな実験を行うことで、黄泉姫計画は新たなステップに達することが出来るはずだ。それに、高天原の離反者亀井三千代、ヴァンパイア・クォーター紅・エリサベタ・光紗、そしてこれまでも幾度となく我らの邪魔をしてくれた貴様、平坂。お前たちをここでまとめて捕獲、あるいは始末してしまえば私の結社での地位はさらに磐石なものとなるだろう」

 白フードの男が言う。うわ、くっっだらねー……そんなつまんない理由であたしらを始末できると思ってやがんのネあの男は。うん。判った。明音が、あたしたちの明音がこんなつまんねーヤツの言いなりになるわけがないって。今確信したわ。

「コトが済んだら、とりあえずさおりんの封印を解く必要があるんやないのー?」

「それはお前に任せよう。あの祭儀場(と天幕の方を顎で示す)に必要なものはある」

「任されたでー」

 沙織さんがハッとした顔になる。

「この世界に招き入れられた時点で、お前たちの力は封じられている。無駄な抵抗はせず大人しくするのなら、手荒なことはせん。さあ、投降するがいい」

 それを聞き、紅さんとカメ子もハッとする。それとともに、明音の口元がにい、と釣り上がる。

「……だそうやでー、三千代さんや、光紗さんや、どうれひとつ試してみてはいかがなもんやろかー?」

 その言葉とともに、カメ子がノワを跳ばし、紅さんが驚異的な脚力で跳躍する。

「な……」

 白フードが驚愕の声をあげる。あたしは紅さんとノワがヤツを襲うのに合わせ、ふたりを援護するため炎をダーツ状に小さく結晶化し、ヤツの足元に投擲する。

「それッ!」

 爆音と土煙が上がる。

「く……ッ」

 ふたりの攻撃とあたしのダーツをかろうじて躱すが、そこに明音がいた。

「実戦を離れた策士なんざーこんなもんやねー」

 そう言いながら、長い脚をさながら鞭のようにしならせ、綺麗なフォームのハイキックを喰らわせる。ぱんつみえてるぞこら。

「があっ、おのれ……ソロール・ウンディーネ」

 肩のあたりに強烈なキックを喰らい、思い切りフッ飛ばされたヤツが身を起こし、憎々しげに言う。

「言ったやろー、またやらかすかも知れへんってなー。それに、真に意志を固めた魔術師を、いや、人間を、位階だの何だので釣れると思うた方がマヌケなんや。まあ、ちょい前やったらヤバかったかも知れへんけどなー」

 明音が、歯噛みするヤツをせせら笑いながら言う。

「……うん、せやな。あんとき、夜見ちゃんに叱られてへんかったら、ウチはトンデモナイ間違った選択しとったかも知れへんな」

 そう言って明音は、あたしに微笑んでくれた。

「明音……明音!」

 あたしは、明音のもとに駆け寄り、あたしの頭よりかなり上にある彼女の顔を見上げる。

「ごめんなー、夜見ちゃん。敵を騙すには、ってヤツやってん、心配かけてもうて、どんだけ謝っても足りないけど、ウチは絶対、夜見ちゃんを裏切ったりなんてせえへんから」

 少し身をかがめて、あたしに視線を合わせた明音がそう言ってくれる。

「あたしも……ちょっと、明音のコト疑いそうになっちゃって、ゴメンね」

「そないなこと! 悪いんはウチなんやからー、夜見ちゃんは謝ったりなんかせえへんでな」

「……うん」

「ほななー!」

 いつもの無駄元気でその場でくるりんと回った明音が、ひとさし指を天に向けて言い放つ。

「ぜんいん揃うたとこで、いくでー女子ごにんそろってピュエラ・マギ・ホーrぶげらっ!?」

 あたしは、明音の後頭部に叩きつけたシューズを履き直しながら笑う。

「言ってるそばからヲタネタかましてんじゃないわョバカネ!」

「んもうー夜見ちゃんこの前ンときはスベっちゃってんからー、タマにゃー最後までやらしてーなー」

 身をくねらせていやいやポーズで言う明音。

「あは……あはは……」

 あたしは、笑いながら自分の顔が涙でびしょびしょでくしゃくしゃになっちゃってるのが判る。

「明音だァ……いつもの明音だよぉ」

 ヤダなァもう涙止まんない。

 そんな泣けるシーンを邪魔する無粋な奴ら。

「おのれ、もう許さんぞ貴様ら」

 いつの間にか、奴が呼び出した人狼どもが、あたしたちの周りを取り囲み、唸っている。

「……っと、ウチと夜見ちゃんの感動シーンを邪魔するやなんていけずやねー」

「まったくョね。とっとと蹴散らすわョ明音!」

 そう言って涙を拭ったあたしは、右手に念を凝らし、〈火〉のエレメントを結晶化させた短刀を現出させる。

「ほいきた夜見ちゃん、ウチと夜見ちゃんの愛の力、思い知ってもらうでー」

 そう言いながら、あたしと背中を合わせ、両手の指の間に氷のナイフを創りだす。

「誰が愛か誰が!」

 

 SAORI

 

「アンタ、判ってたの? 明音さんが本当は裏切ったりしてないって」

「いいや」

 急展開にまだ戸惑いを隠せない私が、平坂に聞くが、返ってきたのは思わぬ言葉。

「だったら、どうして……?」

「俺は、明音に『信じる』って言っただけだ」

「……それだけ?」

「そうだ。べつに、俺は明音を『信用できる』って『判断した』わけじゃない。あのときのあいつの目を見て、それを『信じた』それだけだ」

「でも……」

「当たり前だ、『信じる』なんて俺が一方的に信じただけで、それで実際にあいつがどうするかなんてのはあいつにしか判るわけがない。ただ俺が『信じた』ただそれだけだし、それしかしようもない」

「それで本当に裏切られたらどうするつもりだったの?」

「知るか。信じたからには、あいつが俺の寝首をかきにきたところで最後まで信じるだけだ。根拠があるから『信じる』なんてのは『信じてる』とは言わねえよ。根拠なんかなくたって、いや、それこそ、たとえ信じられない理由しかなくても、それでも『信じる』ってのが『信じる』ってことだろ」

「……っ、そんな風に他人を信じたりして、生きていけないわよそんなんじゃ」

「ばっか、一生のうちにだってそう滅多にあるかこんなの。でも、そういうもんだろ?」

 彼は苦笑してそう言った。

「……!」

 私は、思わず顔をこわばらせ、平坂の上着の胸のとこを両手でつかみ、ぱくぱく開く口から言葉を発することもできずにこの男の顔を見上げながらふるえていた。

 一体なんなのこの男は。自分がこうしていて、いったいこいつに何を言いたいのか、何を言ってほしいのか、頭の中がぐるぐるしてわけわかんない。

 でも、私がこんなふうにこの男に『信じられる』日はいつか来るのだろうか。そんなことが起きたら私はどうするのだろうか。

 だけど、近いうちかならず敵対することになる私に、そんな日は永遠に来るわけないと思い至ると、なんだかそれはとっても胸をかきむしられるような気持ちになったりもする。

「けどな」

「?」

「そりゃたしかに滅多にないけどさ、お前のことだって、結構信じてるんだぜ」

「……な、それって一体どういう意味よ」

「さあな、自分で考えてくれ」

 それだけ言い残し、私の頭にぽん、って掌で触れて、アイツは再び向かってくる敵に対するため向き直った。

 軽い言い方だったけど、そこに込められた心までが軽いわけじゃないってことくらいは、私にも判る。でも。

 私は、どうすればいいの?

 いつかそのときがきたら。

 私はその心を裏切れるの?

 でも、その答えはまだ私には遠すぎて。

 

 HIRASAKA

 

「ほな、さおりんの封印を解きにれっつらごーやでー」

「判った、行くぞ、沙織」

「うん」

 敵の襲撃をみんながくい止めてくれているうちに、俺たちは香織の魂を取り戻すための儀式を明音とともに決行するため、祭儀場へと向かう。

「ほな、いくでー、あっちや」

 明音が解呪のために設置された祭儀場……例の天幕の中に沙織を案内すると、祭壇に沙織を腰掛けさせる。

 だけど、少し周囲の設備を見渡し、また、沙織の身体を少しばかり触診するように手を当てたりした後。急いでいるはずなのに、ちょっと明音が言いづらそうに口ごもる。

 そして、トンデモナイ爆弾発言をかまして下さりやがった。

「でなー、さおりん、ちょい悪いんやけど、上、脱いでくれへん?」

「……へ?」

 

 SAORI

 

 突然のあまりといえばあんまりな言葉に平坂も目を丸くしてる。

「い、いやなー、なにぶんウチとしても未知の術式やし、それに、解呪のためには術式の打ち込まれた位置を正確に確認せえへんとあかんのやー。ホンマ、ホンマに言いにくいんやけど、そのやねー、ぶ、ブラも……外してもらいたいんや」

 本当に真剣で真面目な顔で、それも、ちゃんと理にかなったことを言ってるだけに怒るに怒れない。

 でも、そんな、男の子がいる前でそんな上半身裸になれだなんてちょっとそれを素直に受け入れろと言われてもにわかには。

「お、俺は外で見張ってるから」

 気を使ってくれた平坂が慌てて外に出ようとするが、ナニ考えてやがんのか明音が彼を引き止める。

「ゴメン! ほんまにゴメン! お兄さんにもここにいてもらいたい理由が……」

 本当にすまなさそうに言う明音。このシリアスなはずの場面でどうしてこんなことに。

 私はわなわなと震えることしか出来なかった。

 

「おそらくやけど、この術式は黄泉姫として魂を融合させるための魔術的システムに干渉して、一方の魂を休眠状態にしてるんやと思う。ウチはまずなによりそのシステムに逆干渉して操作を試みるわけやけど、その間、意識をシステムに集中させとるせいで、術式を打ち込まれた箇所を観察して、変化があったら教えてくれる人が必要……なんや」

「……それが俺?」

「せやねん」

「つまり……私の裸の胸をじっと観察……していろと?」

「……せやねん」

 すまなさそうに肯定する明音。

 マジか。どうして、どうしてこの状況下でこんなことに。

「う……わ、わかったわ、香織の……ためだもんね」

 みんな戦ってるのにこんなことで迷っているヒマがないのは確か。恥ずかしいのさえ我慢すればいいんだ。それに見てるのは平坂なんだし、こいつにだったら……だったら。

 

「あ、あんまり見ないで……ね」

 私は、仕方なく制服の胸元のリボンをほどき、ブラウスのボタンを一つ一つ外してゆく。

「あ、ああ」

「脱いでるときはともかく、始まったらちゃんと見とってな?」

「わかったよ!」

 私は、上半身を完全に外気にさらし、祭壇に仰向けに横たわる。うわーん、胸、見られてるよお。あ、あんまり大きい方じゃないから……っていやいや何考えてるの私。でも、見てるの平坂なんだし、必要なことなんだし、我慢……。

 視線が敏感な二つの突起に突き刺さるようだけど、し、視線なんて、見られてる方が勝手に感じてる気のせい……だもん。ううううう。

 

 HIRASAKA

 

 儀式を開始した明音が、カバラ十字を切り、次いで天使ミカエルの神名を振動させる。

「イーヴァ・アロアー・ヴァ・ダート」

「……う……ん」

 なるべく沙織の胸の……彼女のためにも、見てはいけない箇所からは視線を外すように努力はしつつ、しかし明音の言うように術式の打ち込まれた箇所からは目を逸らさず。(困ったことにこの二つ、いや三つの箇所は極めて接近しているので、見ないことは不可能なんだが)

 しかし、よりにもよってこのような状況下で可愛い、しかもさらに重ねてよりにもよって俺の好きな女の子(と身体を共有した、こちらもそれなりに友情というか好意を抱いている女の子)が服を脱いだり、さらに裸になった胸を凝視して、その上欲情することが許されないなどというわけのわからん羽目に陥ろうとは。これなんて拷問。

 ともかく、せめて今まさに見られてる沙織と、本人のあずかり知らないところで見られてる香織のためにも、少なくともいかがわしい感情だけは抱かないように……。

 たしかにそれほど大きくはないが、とても可愛らしい、形よく柔らかそうなふくらみと、その頂点にある二つのやや周囲より濃い色合いのピンク色の突起を、肩口からすっと通った鎖骨のラインを、わずかに浮かんだ肋骨の形を、おなかの真ん中をすっと通り愛らしいおへそに続く線を。そして色白だけど健康的な肌理の細かい肌を。

 ずっと同じ委員会で過ごしてきた、俺が好意を持っているというかもう実際恋愛的な意味で好きな女の子の何も身につけていない上半身をあくまで変な気持ちにならずそこに生じるかもしれない変化を捉えるために観察するという俺の生涯でも屈指の難関ミッションがどのくらい続いたのかはよくわからなかった。おそらくは精々数分ではあったんだろうと思うんだが。

「大天使ミカエルよ、この者の心臓を貫いた剣を消し去り、その創を癒し給え、スピリトゥム・マラキム・デ・ミカエル・オルディネ」

 明音の呪句が祭儀場内の空間を振動させてゆくのに従い、周囲の空間に黄色い光がぱっ、ぱっ、と閃く。

「今、心臓の上に印形が!」

 俺はそう明音に指示する。

「うっし! 砕けよ、封印!」

「あっ、ああーっ!」

 香織の姿をした沙織の裡から、なにかが迸るような感覚が俺にも伝わってくる。

 香織の黒髪がやや淡い色に変わってゆき、髪の一部がぱあっと拡がるように長さを増す。その勢いで、やや小ぶりでとても形のいい最高にかわいい胸がぷるん、と跳ねる。

 このくらい小さくてもこんなふうに揺れるんだな……。

 ……って何見てんだ俺! バカヤロ俺! あとで香織に土下座して謝れ俺!

「ひゃう……」

 沙織の口からかすかな声があがる。

「沙織……」

 そう、沙織の人格の状態でありながら、霊的中枢を封じられていたため、香織と同じ姿のままであった彼女の封印がついに開放されたのだ。沙織〈本来の〉姿となった彼女は、祭壇から半身を起こすと、自らの両肩をぎゅっと抱き、ぶるっ、と身震いをする。

「あ……香織の、声がする、香織が、私のなかにちゃんといる……!」

 そうして、ぽろっ、と涙を零すと、さらに強く肩を抱いて叫ぶ。

「香織、香織! わたしの……お姉ちゃん!」

 

 SAORI

 

『沙織……ごめんね、心配かけちゃって』

 私たちは、心と心で会話を交わす。

 わずかな間聞けなかっただけなのに、とっても懐かしい香織の声。

「そんなの、なんでもない。香織がちゃんと戻ってきてくれたことに比べれば!」

『沙織……ありがとう』

「……うん」

『……ところで、なんで私、裸になってる……の?』

 ここで香織より当然の疑問が。

 えーと。

「そ、その、ね、香織の魂を封印してた術式を破るのに必要だって……明音が」

『そ、そう。明音さんが、ね』

 微妙に香織の声に不穏な響きが。いや無理もないんですけど。

「……うん。ところで、か、香織、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」

『う、うん、どうした……の? ま、まさか誰かに見られちゃった……とか言わないよね?』

「……ゴメン、そのまさか。で、でも大丈夫! 平坂にだから!」

『……え?』

「そ、そう。平坂に。でも、解呪のために必要なことだからって! 明音のヤツが!」

『見られたの? 私の……その……平坂くんに?』

「イエスマム、おっぱいを見られました。平坂に」

『ええええええええっ!?』

「さらに言えば、今後ろにいます。平坂」

『なんでええええええっ!?』

「いやまあ……そりゃつい今しがたのことだし」

『か、代わって、沙織! 一旦私に代わって!』

「り、了解」

 無理もない香織の要求に、私は肉体の支配権を一旦香織に返す。髪の色が、さっきまでと同じ香織の黒髪へと変化する。

「ひ……平坂……くん?」

 香織が、ふるふる震えながら半泣きの顔で、胸をしっかり押さえて平坂の方へと振り返る。

「お、おう」

 なるべく見ないように明後日の方向いて耳まで真っ赤になってるけど、チラチラこっちを、とくに胸元のあたり見てるの気づいてるわよ。

 ……うん、べつに責めてるわけじゃないんだけどね。

「あの……ね、私、あんまり、胸大きくなくてゴメンね?」

 第一声がそれかよいきなり何言ってやがンだこのえっち女ァあああああッ!

「あ……っと、そうじゃなくて! そ、そう! 助けてくれて、ありがとう……」

 言うべきコトの優先順位違うだろ香織……。

「い、いや。何度だって、助けるよ。お前が危なくなったなら、何度でも」

 顔を真っ赤にしつつも真摯に言う平坂。

「平坂くん……うん、また助けてくれた。いつでも貴方は私を助けてくれるのね」

「……また?」

「うん、また」

 顔の筋肉が笑顔の形を作る感覚。きっと今香織は、いつか鏡の中に見た、誰もが恋せずにはいられないようなあの笑顔を浮かべてるんだろうな。目の前の平坂の顔がそれを証明しているもの。ふふ。

「俺は、以前にも……?」

「うん。そうだよ。きっと貴方は知らないけれど、私の方は知ってるの」

「もしかして、それで俺のことを?」

「ぶっぶー、違います。あのとき私、もう貴方のこと好きになってましたー」

 そうイタズラっぽく言って、香織はくすっと笑う。楽しそうに口元に手を持ってゆき……ってわーわーわー香織アンタ胸のガード!

「ひゃうん!」

 慌てて胸を隠しなおすけど、今のタイミング絶対失敗してたぞコラ。ほら平坂の顔が「また見えた」ってどう見ても言ってるわ。

 

「と、とにかく、香織が戻ってきてくれて、俺も嬉しい」

 まだ顔を赤くしながらも、平坂が香織の肩に脱いだブラウスをかけてくれる。ブラまで触ろうとしなかったのはデリカシー的に評価できるわね。香織も顔が熱くなってるけど、自分でブラを拾って付けている。

「そ、それに俺は小さくても気にしないっつーかむしろ小さい方うぉっほんげほん」

 なんか言いかけて慌てて誤魔化しやがったなコイツ。なんだおい小さい方がいいのかよ。うん、まあ何となく判る。黄泉姫とか亀井さんとかさらにちっちゃいしね。

「……あんなーお二人さん、そろそろ行ってやらんとみんなピンチやで?」

 そこに呆れた声で明音のツッコミが。明音に呆れられるとは不覚にも程があるわぐぬぬ。

「あ、ああ。俺は先に行く」

「ほな、ウチも。さおりんも服着たら頼むでー」

 そう言って二人は祭儀場の天幕を出て行った。

「わかりました。沙織、替わるよ」

『はいはい』

 交代の一瞬、香織の心が私の心に直接触れ合ったような感触。

『沙織、ありがとう。わたしの大好きな、大事な妹』

 あ……。

 その言葉に、私は思わずぽろっ、と涙をこぼしていたのだった。

『沙織、大丈夫?』

「うん……でももう大丈夫、さあ、いくわよ香織。あいつらにたっぷりお返ししてやりましょう!」

 私は、涙をぬぐうとすっくと立ち上がり、祭壇から飛び降りるや、急いで服を着て平坂や明音とともに、祭儀場を守ってくれたみんなのところへと駆けてゆく。そして、内側から溢れ出てくるような力を視線に込めて奴らを睨み据えた。

『うん、そうだね。私だって怒っちゃってるんだから』

「まったくよ、おかげであんな恥ずかしい羽目に……」

『……そうね。初めては、もっと素敵な場面で見てもらいたかったのに……』

「待ちなさい香織! アンタ実はえっちよね、えっちよね!?」

 今確信したぞこんにゃろー!

『ええ? そ、そそそんなことないもん!』

 

-6ページ-

 AKANE

 

 急いでみんなのトコへ駆けつけたウチは、まず夜見ちゃんの周りを囲む人狼どもの身体に、次々と生成した氷のナイフをハリネズミのように突き立てていく。

 周りじゅうの人狼どもが悉く身体に突きたった氷のナイフにのたうち回っている中、ウチはトリガーとなる呪句を発する。

「アイス・エクスプロージョン!」

「グギャアアアッ!」

 その呪句をキーとして、氷に封じ込めた魔力が、ナイフ状になった氷の水分子の全てを一瞬にして気化させる。そして、その爆発力をナイフの切っ先方向への超指向性に発揮させる。その膨大なエネルギーは、ヤツらの身体を情け容赦なく引き裂き、粉砕した。すなわち。

「氷を魔力で直接水蒸気爆発させたのか……?」

 追いついてきて、他の子らの方へ向かおうとするお兄さんがウチの攻撃を一目で理解する。流石やなー。

 そう。これがウチの切り札のひとつ、魔力を封じ込めた氷のナイフを、敵に喰い込ませた状態から、氷の状態より瞬時に気化することで爆発させる、必殺の魔氷爆裂弾、アイス・エクスプロージョンや!

「すっげぇー」

 夜見ちゃんが目を丸くしてる。うっはーもっと褒めてーと一瞬思うけど、まだ敵はわんさとおる。気を引き締めて次の敵に向き直る。

「みんな、遅れてごめんね」

 駆けつけたさおりんが右手を掲げると、そこに彼女の愛用のピンク色したデジタルカメラが物品引き寄せで出現する。

 

 SAORI

 

 私は、香織のカメラを物品引き寄せで手の中に出現させると、電源を入れて素早く設定を確認……してもらう。香織に。私の意識外のことを香織がサポートしてくれるのもだんだん慣れてきた。

 早速、私の周りを取り囲む人狼の群れ。だけど、この前二頭だけで襲ってきたやつらより相当に低級な奴らだ。数揃えるため質を落としたのかしら? だったら失敗よ!

「いただくわ!」

 私はその場で一回転ターンしながら、香織のカメラを高速連写モードにして連写する。みよ秒間十連写のこの威力。私の周囲にわらわらと群がってきた土人形の人狼どもが、その魔力を奪われて崩れ去る。

「なに……何をやった?」

 敵魔術師が驚愕する。私が失敗作だからって舐めたわね?

 私は、不敵ににやりと笑って返す。ま、教えてやる義理なんてあるわけないもんね。

「私が黄泉姫の実験体だったって忘れてたのかしら?」

 昔より言う。「写真は魂を奪う」って。もちろん迷信だけど、その似姿を写し取る機能は、魔術や民間呪術でもよく利用されているのは知られているとおりよね。

 私は、カメラを使って相手の霊的エネルギーを奪うことができる。奪取できる上限があんまり高くないのと、奪った分を自分で利用する場合の変換効率があんまり高くないのが弱点だけど。ま、そのあたりが〈黄泉姫〉として未完成な所以なんだろうけどね。

 基本的には、画像に写っている被写体の大きさ、鮮明度に大体比例する。広角だったり遠かったりして被写体が小さくしか写せないと、わずかしか奪えないけど、望遠や至近からかなりのアップで鮮明に撮れれば、こいつら土人形ごときなら全エネルギーを奪うことも可能ってこと。

 この前の狼はわりと大物だったから使えなかった手だけどね。でも、こんな、数揃えること重視で一体一体が粗悪な雑魚相手なら結構有効な手ってことよ。

 高速オートフォーカスと高速連写が得意なこのカメラと相性がいい能力ね。言うなれば、〈フォトグラフィックエナジードレイン〉略して〈フォトドレイン〉ってトコかしら?

 さて、亀井さんや紅光紗の方へと援護に向かった平坂の方から、銃声? が聞こえてくる。 それにちょっとびっくりしてそちらを向く。何事?

 

 HIRASAKA

 

 俺が大家さんから預かったモノ。それは、一丁の拳銃だった。ベレッタM9。米軍の現行の制式拳銃だ。実質主義な大家さんらしいセレクトだと言えるだろう。俺としてもその選択に文句はない。そもそもそれ以前の根本的にいまだ見習い免許の俺にこんなものを押し付けること以外は、だが。

 まったく、おそらく入手経路自体は正規だろうが俺に持たせた時点で違法なんだが。正直、こんなものは性に合わないんだけど、まあ、そのへんはあの人も承知の上であえて持たせたんだってくらいは判る。だったら、せめてその信頼は裏切らないようにしよう。

 この銃を実戦で使用することこそ初めてだが、それなりに最低限の扱いは出来るよう訓練は積んである。だが、こいつの主眼はそこではない。ある程度習熟した段階で、俺はさらに、銃把のパーツに加工を施し、俺の掌に当たる部分に、例によってサマエルのタリスマンを仕込んである。さらに、カートリッジも事前に聖別を施しており、タリスマンの霊的パワーを銃弾に充填した状態で発射することが可能となっている。

 俺は、やや無造作にカバンから取り出したM9を十五発の弾倉の半分ほど連射する。8発。うち7発が人狼たちに命中。霊的パワーが注入された弾丸は、単に物理的な威力を超えて、超常的存在にダメージを与える。命中した人狼は土となって崩れ去る。続いて残り6発を発射、今度は全弾命中。一発を薬室に残したまま弾倉を交換。さらに7発今度は5発命中。

 さて、おそらくは命中率が高すぎる、とお思いの方もおられるだろう。実際、俺が普通に撃ったなら、敵が密集していることを差し引いても、良くてこの三分の二ほど当たれば御の字だろう。

 あえて言おう。これは、『偶然に当たっている』のだ、と。

 べつに冗談ではない。だが、この銃は闘争の守護天使たるサマエルのタリスマンを仕込んである。そのパワーは、直接銃弾に込められたパワーだけではなく、この銃を使用した闘争全般に対しかかっている。

 即ち。この銃において、正しくその霊的パワーを発揮された状態で使用された場合、その弾丸は『偶然に高命中率を誇る』ことになる。無論、百発百中ではないし、俺の能力や意志力にも当然のように左右される。

 現在、俺の精神的テンションが高い状態であることも、この高命中率を引き出しているのだろう。様々な要因もあるだろうが、少なくとも、現状で数割程度は命中率が上がっているのではないかと思われる。

「さて、ある程度減らしたはいいが、弾にも限りがあるしな」

 俺は、銃を収めると、前回も使用したタリスマンロッドを両手分、二本取り出す。正直こっちの方が性にあっている。ぴりぴりとした緊張感に、口元がせせら笑いの形につり上がってゆくのを自覚する。

 そのとき、どかーんと轟音が響き、人狼どもが土砂とともに宙に舞い上がるのを俺は見る。

 

 MISA

 

 まったくもう、やってくれるわよね。

 私は、ヴァンパイアパワーを全開にして暴れまわる。人狼どもを腕のひとふりで三体ぶっ飛ばし、蹴りで五体をぶっ飛ばす。

 どうやらあの白フードは、私たちの力を封じる仕掛けをしてたつもりだったんだろうけど、明音さんは逆に、私たちの力を最大限に発揮できるような環境を整えていてくれてたってワケ。

 そもそも、ヤツが出てくる前に、私たちちょっとパワーを発揮しちゃってたんだから、よく見てれば気づいたはずなのにね。まったくマヌケなくせに野望だけはいっちょまえってヤツ?

 まあ、容赦はいらなさそうなヤツだし、思いっきりヤっちゃって、いいわよねっ!

「く……紅・エリサベタ・光紗、ヤツは危険すぎる、いまだおそらくは半覚醒に過ぎない状態でこれほどのパワーを発揮するとは」

「危険だのなんだの勝手なこと言ってんじゃないわよ、それはアンタらの都合でしょーが!」

 私は、近くの木を引っこ抜いてブン回し、周囲の人狼どもを一気に一掃する。

「さあ、かかってきなさい、私だって怒ってるんだからね!」

 夜見子ちゃんも、香織、沙織さんも、勝手な連中のせいで苦しめられてる。私は奴らに創られたわけじゃないけど、心ならずも異常な力を持って生まれてきたという点ではよく似ているかも知れない。たしかに二人(三人?)とも私にとっては恋敵だけど、大切な友達でもある。

「そのっ! 友達を! 好き勝手されて! たまるもんですか!」

 一言ごとに私は手にした木を振るい、さらに怒涛のごとくかかってきた人狼をひとふり十体以上は消し飛ばす。私の怒りが、ヴァンパイアパワーをさらに増幅しているようだ。そう、振り回された木は枝葉も消し飛び、ほとんど丸太になっている。それに打ち付けられた人狼も、当たった箇所を中心に半身が粉砕されるほどだ。

 さすがに私の周囲に群がってくる奴らが他の子たちに目標を変え始める。まず手近なとこにいるのは……。

 三千代ちゃん!

 

 MICHIYO

 

「ふゃああん」

 私の周りを取り囲む人狼たちが、次々と襲ってくる。ノワが護ってくれてるけど、いくら強くてもちっちゃなノワでは、人狼たちの爪や牙から私を完全に護るのは難しい。いきおい、ノワが離れた一瞬の隙に奴らの爪が私のそばをかすめることが多くなる。

「ひゃああん、きゃあっ!」

 制服のブラウスの背中が、爪で裂かれて背中が思い切り露出してしまう。

「カメ子!」

「カメちゃん!」

 夜見子さんやお兄さまがそれに気づいて叫ぶけれど、二人共自分の周りで手一杯だ。こんなことじゃダメよ、三千代! 助けてもらってるばかりじゃ、お兄さまについていけない!

「ノワ! 戻って!」

 そう叫び、ノワを私の髪の中へ戻す。

「なにするの、三千代ちゃん!?」

 どうにかかけつけてくれた光紗さんが驚きの声をあげる。でも、私も光紗さんに頼ってばかりじゃない!

「ノワ、ポゼッションモード!」

 にゃああああ、と私の喉から私じゃない鳴き声が上がる。

 ぴょこん、と私の頭から猫耳が飛び出し、お尻からは尻尾が飛び出す。まあ……ぶっちゃけ格好の方はいわゆるネコミミしっぽの女の子なんだけど。

 そして、私は。

「にゃああっ!」

 猫科の動物の動きで人狼たちの攻撃をするりと避け、ノワの力で生えた尖った爪で奴らを引き裂く。

「にゃあああん!」

 ……って、きゃああ、ノワ、ダメ、それダメ!

 動きづらいと思ったノワが、破れたブラウスを身をよじって爪で引っかいて脱ぎ捨ててしまったのだった。

「なななにしてるの三千代ちゃん!」

「みゃあああん(ちがうのちがうのわたしじゃないのー!)」

 ……そう、このポゼッションモード、私じゃなくてノワの意思を私の身体に憑依させるものなの。だから、自分の意思は、間接的にノワに伝えていうこと聞いてもらうしかない。基本的な行動指針ならノワはいい子だから聞いてくれるけど、こういうトコはなかば本能の部分だからなかなか聞いてもらえない。

 かくて制服のスカートに上半身ブラだけっていう酷い格好になってしまった私。せ、制服のときでよかったよう。私、私服のときはブラつけないこと多いから……わあん、お願いだからブラまでは取らないでね、ノワ……。

 

 YOMIKO

 

「ちょ、カメ子?」

 カメ子ってば、いきなり猫みたいになって邪魔そうに破れたブラウスを脱ぎ捨てちゃったわよ?

「あー、ノワを憑依させたんやねー。三千代は魔術師つーより霊媒やからなー、受け入れた霊的存在に身体を明け渡す形になってまうんよー」

「……ってことは、アレ、ノワ?」

 ともかく、カメ子の身体を操るノワは、ちっちゃいときほどではないが、かなりの強さで人狼どもをなぎ倒す。まァ、カメ子護りながら戦うよりァいいのかな?

 あたしと明音は、互いに背中を合わせて身構え、周りを取り囲む人狼どもをばったばったと薙ぎ倒してゆく。

「ウチのナイフは痛いでー? 凍らされたいか、吹っ飛ばされたいか、どっちがええ?」

「ほら、黄泉姫、私のカメラで吸い取ったエネルギーよ。受け取って」

「ひゃっ」

 そう言ってたたっと駈けて来た沙織さんが、カメラの背面モニターに画像を写したのをあたしのおでこに押し当てる。たしかに、短刀を生成したことで少し減り気味になってたあたしの体内のエネルギーが補充されてゆく。

「あ、ありがと、沙織さん!」

 これで思う存分暴れられるァよ!

 あたしは、猛然と人狼どもの密集した中へと駆け込んでゆき、短刀を目にも止まらない速さで振るう。人狼どもをすり抜けて、ざざっと土煙をあげてターンし奴らの方を振り返る。

「ギャアアアアッ」

 人狼どもは、そう叫びをあげ、斬られた箇所から炎を吹いてそのまま燃え尽きていった。

 

「三千代ちゃん!」

「にゃあっ!」

 カメ子と紅さんが、意外といいコンビネーションでばったばったとそっちの方の人狼を片付けている。バカみたいに湧いてきた人狼どもも、もう打ち止めが近そうだった。

 

 そんなこんなで混戦もようやく終息に向かおうかという中、いきなり地面が盛り上がるや、土砂を跳ね上げながら、巨大な怪物がその姿を現した。

「まだ終わりではないぞ! お前たちにこれが倒せるか!」

 おーおー典型的な悪役のセリフだァね。

 

 HIRASAKA

 

「それにしても……一体なによあれ!」

 光紗が叫ぶ。一言で言えば……丸い。直径はそれこそ5〜6メートルはあろうかと思われる、硬そうな皮膚に鎧われたややいびつな球体、という感じだ。

〈甲羅〉という感じではない。〈固い皮膚〉だ。その分、柔軟性がありそうで、砕いたりするのは難しそうだ。

 その怪物が、ごろり、と転がってこちらの方へと向かってくる。

「私に任せてっ!」

 光紗がそいつの転がってくる正面に立ちはだかる。

「こンのおっ!」

 真正面から、カウンターで光紗の渾身のパンチ。

 重く、鈍い衝撃音。だが、若干は効いたようではあるものの、効果的なダメージを与えられたとは言い難いようだ。

 深夜並の力を発揮している光紗が力の限り殴りつけた衝撃すら、ヤツの堅い防御装甲を打ち破ることができない。一体どうやったらいいのだろうか。

「あったあー……」

 殴った手をひらひらさせる光紗。つーか光紗の手の方もアレで済んじゃうってのもとんでもないんだけどな。

「ふみゃんっ」

 そんな声が背後から上がり、振り返るとカメちゃんとノワが分離していた。最後の人狼はつい今しがた明音が片付けていたのでもう合体していなくても大丈夫なんだろうが。

「はう……ひゃわう、お兄さま、こっち見ないで頂けると……」

 真っ赤になって胸を隠すカメちゃん。

「あ、ああ、悪い」

 俺も慌てて視線を逸らす。

「と、とにかく、あれは魔術で喚起された異次元の怪物です。並大抵のやり方では倒せないかも」

 俺の後ろに縮こまっているが、怪物を観察して、気づいたことを一生懸命伝えてくれる。

「オーラの色を見ると、どうやら〈土〉のエレメントに属しているみたい。皮膚の硬いとこの隙間はほとんどないです。他より柔らかい皮膚になってるだけで、柔軟性がありそう」

「毛のない土転びみたいなもんか。厄介だな……」

「ウチのアイス・エクスプロージョンでも、表面削るくらいしかできそうにないで、アレは」

「……って言ってる間に、来るわよ!」

 沙織の警告に、みんなで散らばるように避ける。カメちゃんは光紗が抱えて跳んでくれた。

「あれだけデカいと、逃げていてもいつかはジリ貧になって潰されるぞ」

「お兄ちゃん」

 俺の傍らに駆けつけてきた夜見子が、真剣な目で言う。

「硬い皮膚ってことは、傷くらいなら付けられるのよね?」

「ああ、だが、中まで通らないことには」

「あたしに考えがあるの、明音と紅さんと合流して」

「……わかった!」

 幾たびか怪物の突進を避けながら、どうにか夜見子の言うとおり二人と合流する。

「二人とも、あたしに力を貸してほしいの!」

「ウチの力は夜見ちゃんのためにあるんやで!」

「いくらでも力貸すわよ」

「ありがとう、そんじゃ、まず明音はアイツの動き止めて……」

 俺は、そんな力を合わせる三人の姿を見ていて、ほのかに胸の中が暖かくなっていた。

 

 YOMIKO

 

 さァ、いよいよ作戦開始ョ!

「明音!」

「ほいきた!」

 明音が、氷結魔術で、なるべく茂みや折れた木々の多い箇所に来たときを狙い、怪物の動きを凍結させてくれる。

「長いことは持たんでー!」

 充分ョ!

「紅さん!」

「せーの! はい!」

 あたしは、紅さんの組んだ両手に片足を乗せ、息を合わせて思いっきり上方へと投げあげてもらう。

「でやあああああっ!」

 そして、一人じゃ跳ぶのはとても無理な高さから急降下するや、その勢いを借りて、ヤツの頭(?)頂部に短刀を両手で思いっきり突き立てる。

「駄目や、落下の勢い借りても、切っ先が中まで届いてへん!」

 明音が叫ぶのが聞こえるけど、ンなことは先刻承知、ってネ!

「まわれェっ!」

 あたしの叫びとともに、短刀の刃部がらせん状に変形してゆき、がりがりっ、とヤツの硬い表皮を穿ってゆく。

「がぁあああっ!」

 そして、ついにヤツの装甲みたいな表皮の下の肉に食い込み、さらにえぐり込むように沈んでゆく。肉を切り裂く痛みで、凍結された箇所もはじけ飛ぶような勢いで暴れるヤツに振り落とされる前にあたしは〈飛び道具〉を使う。

「りだーつ!」

 その叫びとともに、短刀の握りから先がロケットみたいに切り離され、あたしはすごい勢いで宙にまう。まさに〈飛び道具〉ただし、道具を飛ばすんじゃなく、自分が飛んじゃう方でしたー。てへっ。くるくると縦に回転する視界の先にヤツの姿を捉えたあたしは、右手をピストルのかたちに構えると、人差し指をヤツに向ける。

「ばーん!」

 と同時に、ヤツに食い込んだ短刀の刃、〈火〉のエレメントの結晶である刃が、その全エネルギーを瞬間的に、それも切っ先側への超志向的に装甲内部へと開放、よーするに、殻の内側へ大爆発を起こしたのだった。硬い表皮の中で起きた爆発は、ヤツの中の肉をずたずたに引き裂き、熱はそれを焼き尽くす。そして、表皮は内側からの圧力で、びきびきっ、と引き裂かれていった。

「やったァ!」

「そ、そっか、ウチのアイス・エクスプロージョンの……!」

 ……あとは、着地をどーすっかョねー、と今更考えながら、あたしは放物線を描いて落下していった。

 

「……え?」

 そう思っていたとき、あたしの襟首が空中で乱暴な手につかみ取られる。

「……げっ」

「よくもやってくれたものだな」

 振り向くと、あろうことか、あたしは白フードのヤツに襟首を掴まれ、捕らえられてしまっていたのだった。

「アンタは……!」

 立ったままの姿勢で空中浮揚していたヤツが、あたしの首に背後から腕を回し、固める。

「うぐ……」

「夜見子!」

「動くなよ、不用意に動けば、黄泉姫の首がぽっきりだぞ」

「そんな、夜見ちゃんに危害加えようとするやなんて何考えてんねん!」

「それがどうした。たとえ首が折れようと、心臓さえ動いていれば実験は可能だ。それに、もし死んだとしても、私さえいれば、黄泉姫計画は終わらぬ」

「手前ェ……人をなんだと思ってやがる」

 お兄ちゃんが怖い顔で奥歯を噛み締めている。ぎりっという音がこっちにも聞こえてきそうなほどに。

 ゆっくりと地面に降り立って、白フードは言葉を続ける。

「私は黄泉姫計画の中枢の一人として携わってきた者だ。下手に抵抗すれば、黄泉姫だけでなく、失敗作とはいえ、日本中で日常生活を送っている、千人を超えるであろうすべての黄泉姫実験体の心臓と霊的中枢に、私の仕込んだコードを起動させる」

「何だそれは」

「くくく、そうすれば、彼女たちの肉体と魂との結合が異常を来たすことになる。すなわち、突然死、発狂、精神崩壊……考えられるあらゆる理由で、彼女たちは破滅するだろう」

「手前ェ……」

 お兄ちゃんの奥歯がいっそう大きく軋む。

「本当なのか、明音」

「……残念ながら、どうやら本当や。さっき、さおりんの封印を解いたとき、確認しとる。たしかに、それと思しき魔術的コードが仕込んであった。さおりんの分は、あんとき一緒に解呪したったけど……」

「抵抗はもちろん、お前たち同士が互いに会話することも、今からは禁じさせて頂こう。ソロール・ウンディーネの今の言葉は、私の言葉が嘘でないことを納得して頂くために大目に見よう」

 なんだこいつ。許せない。

 あたしの全てをかけても、絶対に、許せない。

 あたしや香織さん、沙織さん、ついでにリリスと、それだけじゃなく、そんなに多くの子たちのことを弄んできたのか。けれども、今のあたしは、抵抗することが出来ない。出来るのは、たった一人。あたしの、世界で一番大切な、大好きなあの人だけ。

「お兄ちゃん」

 あたしは、覚悟を決めてその人のことを呼んだ。あたしの気持ちは、伝わると信じて。

 

-7ページ-

 SAORI

 

「……夜見子」

 黄泉姫の呼びかけに、平坂が呼び返す。でも、この状況下にはそぐわない、不思議なくらい静かな声で。

「なに、お兄ちゃん」

「ごめんな、俺もすぐいくから」

「ううん、お兄ちゃんはこなくていいよ、ていうか、きちゃだめだかンね」

 そう言って、二人はにっこりと微笑みあった。こんな状況だっていうのに。

 なに? なにを言っているの、この二人は。

『駄目、ダメぇええええっ!』

「か、香織、どうしたの?」

『止めて! 平坂くんを止めて!』

「お兄さま! 夜見子さん! いけません!」

「ふ、ふざけないでよ平坂! そんなの……そんなことされたら、私たちはどうなっちゃうのよ!」

 香織だけじゃない、三千代さん、そして紅光紗が悲鳴のような声を上げている。

 白フードさえ訝しげな顔になっている。

 一体なんだっていうの、この三人にだけ判るなにかが今、平坂と黄泉姫との間にあったっていうの?

 

『沙織』

 香織が、私だけに聞こえてくる声で語りかけてくる。これまで香織から聞いたことがないような厳しい声で。

『沢村さんに接触して』

 一体なにをしようとしているのか判らないけど、香織の声の調子は有無を言わせないものだった。私は、幸いすぐ近くにいた沢村明音にじりじりと近づいてゆく。と、ヤツの視線から死角になる位置で、不意に私の意思と関係なく左手が上がり、明音の手の甲に重ねられる。明音も少し驚いた顔になるが、すぐに表情を引き締める。

 だが、本当の驚愕はそのあとだった。

『沢村さん、一瞬で構いませんから、あの付近(と私の視線を使って指示を出した)に、水を使ってこういう(ここではその詳細な形状がイメージで伝えられた)レンズを形成してください。できますか?』

 あ、明音への接触テレパシーを、香織が……?

「……わーった」

 明音が真剣な顔で返事を呟く。そして、私の手がまた私の意思を離れて、右手で持ったカメラの内蔵フラッシュをなるべくさりげなくポップアップさせる。わかったわ、香織。貴女の行動を全面的に支えてあげる。

 私は、肉体の支配権の優先度を香織側に委譲する。これで、私たちの身体は、基本的に香織の意思で動き、私がその反応速度や力をサポートする形になる。

『ありがとう、沙織』

「……でも、これだけでいいの? たしかに、今私たちが出来るのはこれくらいだけど」

 そう心の中で香織に語りかける。

『できることがこれしかなくても、できることをするわ。だってできることがあるんだから』

「そりゃそうね」

『それに、彼なら、絶対にこれを活かしてくれる』

 ゆるぎない信頼を込めた言葉。

『沢村さん、形成のタイミングを指示するから、その直後にできるように準備をお願い』

「うい」

 再度の接触テレパスで明音に指示を出す香織。平坂とヤツと黄泉姫との間の緊張感がピークに達しようとしていた。

 

 MICHIYO

 

「やらせませんから……」

 私は、誰にも聞こえないくらいに口の中だけで呟く。アイツに聞こえたりして刺激しないように。自分自身だけに宣言するように。

 ノワを動かすわけにも、少なくとも今この場ではいかない。幸いなのは、紅光紗さんがすぐ近くにいてくれていること。私は、アイツに気取られないよう慎重に動き、紅さんの手の甲に指先を触れさせる。高天原で学んだ基礎技術のひとつ、接触テレパシーで彼女に語りかけた。

『紅さん』

 彼女も少し驚いたようだけど、すぐ私の方へと意識を向けてくれる。

『な、なに』

『お兄さまのためにチャンスを作ります。協力をお願いします』

『……わかったわ、何をすればいいの?』

 沙織さんと明音さんが接触テレパスでなにか相談してるのを、近くにいるノワが感知してくれている。彼女たちが今相談するなら、その目的はたった一つしかない。

『最初のきっかけは、沙織さんと明音さんが動いてくれてるようです。私たちはその次の手をうちます。そうすれば、お兄さまはきっとやってくれます』

『そうね、だったら……』

『ええ、彼女たちが動くのに合わせて、私はノワを動かします。光紗さんは……』

『了解、きっと彼を助けてみせるわ』

『……はい!』

 

 SAORI

 

「この状況でどうするつもりだ、余計なことをすれば、いかに黄泉姫とて、命はないのだぞ。さあ、武器を捨てておとなしくすれば命までは取らぬ」

「ああ。夜見子」

「……?」

「ごめんな」

 そう言って、彼は銃を抜き、銃口をヤツと黄泉姫に向けた。

「……うん」

 そして、黄泉姫は、彼と自分に向けられた銃口に、穏やかに微笑んだ。

「き、貴様!」

 意外過ぎる事態に狼狽えるヤツに対して、平坂が異様なほど静かに口にしたさりげない言葉と、それに続いて、明らかに黄泉姫ごと巻き込む形で向けられた銃に、黄泉姫はむしろ、微笑み返す。なんなのよこいつら……それなのに、香織は少しも驚いた様子を見せず、いまだ、とばかりに明音に合図をする。

 いや、驚いていないのは香織だけじゃない。亀井三千代と紅光紗の二人もそれに驚くことなく、香織の合図と、こちらは驚き、戸惑いの表情を隠せないものの、香織の指示にはしっかり従ってくれた明音の行動を待っていたかのように動き出す。彼女たちは……判っていたの?

「き、貴様ら一体なにを!」

「いくでっ!」

 明音が隠し持っていたミネラルウォーターのペットボトルから、宙に水をまく。だが、それは散らばることなく塊のままくるくると回転し、レンズ状に一瞬だけ固定される。

「はいっ!」

 その一瞬を逃すことなく、香織の意志が私の手を動かし、カメラのフラッシュを光らせる。

そして、その光は、水のレンズで、まるで虫眼鏡で日光の焦点を当てて紙を焦がすように、ヤツの目を一点で直撃する。

 ついでにフォトドレインもかましてやるが、これは精々薄紙一枚程度の差を作れるかどうかだろう。でも、たったそれだけの差でも、作れるのなら、作っておくべきだ。

 やれることは、ぜんぶやる。

「ぐあっ!?」

「ノワ!」

 ヤツが目を押さえてひるんだ隙に、亀井さんがノワに指示を出す。

「にゃっ!」

 素早く黄泉姫のもとに跳躍したノワが、触れる寸前に一回転すると、そこには、なんと長い黒髪に黒ワンピースを着た小さな女の子がいた。

「……えっ?」

 黄泉姫が目を丸くするが、驚く間もなくその子、つり目なとこと小学校低学年くらいに見えること以外は、亀井さんにそっくりなその子、変身したノワは黄泉姫にタッチする。なんと、次の瞬間、ヤツに拘束されていたはずの黄泉姫は解放され、代わりにその子が拘束されていたのだった。

「せ、接触テレポート?」

「やったよっ!」

 女の子ノワが小さな手でVサインを出す。とともに、今度は再び仔猫の姿に戻り、ノワはヤツの手からするりと逃れていたのだった。

 だが、ノワの変身に驚いているヒマはない。すぐに体勢を立て直したヤツが、再び黄泉姫へと手を伸ばす。

「やらせないっ!」

 間髪を容れず、紅光紗が猛ダッシュをかけ、やや低空に、スピードの乗った飛び蹴りを放つ。

 狙いはヤツの腰のあたりだろう。身体のなかで動きにくく、的の大きい腰、腹部のあたりを狙うのは、命中率を高める意味で有効だ。そして、矢のように跳ぶ彼女の蹴りは、当たれば容易に腰骨を粉砕するだろう。

 そして、その蹴りこそヤツは間一髪で避けたものの、そのせいで崩れた体勢のままでは、さらなる波状攻撃の、拳銃を投げ捨てて突進してきた平坂の、獣のような咆哮とともに繰り出された顔面への掌底、さらにその顔をそのままわしづかみにして後頭部を地面にしたたかに叩きつけられることまでは、避けることも防ぐことも出来なかった。

「がああああっ!」

 そして、平坂は、凄まじい声とともに、それだけでもほとんど動かなくなったヤツの顔面に追い討ちの拳を、地面と垂直に叩き込む。

 ヤツの身体はびくん、と最後に大きく痙攣したきり、ついに動くのをやめた。

 

 はあ、はあ、はあ、と平坂が両手と膝を地面につき、今にも死にそうなくらい荒い息を吐いている。

「夜見子……」

 彼は、そのまま四つん這いで黄泉姫のところへとのそのそと歩いてゆき、彼女の前にたどり着くと、その名前を呼びながら、右手で黄泉姫の頬に触れる。

「……うん、お兄ちゃん」

「無事……か、無事、なんだな?」

「そうだよ」

「よみ……っ、う、うう」

 平坂が、黄泉姫の身体を、彼女がここに存在することを確かめるようにぺたぺたと、両手で触れて確かめる。そして、強く、つよく抱きしめる。やがて、彼の肩が震え、嗚咽が洩れ伝わってくる。

 黄泉姫は、そんな平坂のことを、まるで聖母のような笑顔で、慈しむように優しく抱き返している。

「あたしは……無事だよ、お兄ちゃん。でも、お兄ちゃんがちゃんと生きててくれる方が、あたしは嬉しいよ」

「うん……うん」

 

「……無事だったのが嬉しいのは判るけど、ちょっと大げさじゃない?」

 私は、香織だけに聞こえるよう呟く。だが。

『わからなかった? 平坂くんは、夜見子さんごとあいつを殺して、すぐに後を追うつもりだったんだよ』

 香織のその言葉に、私は唖然とする。

「ハッタリじゃ、なかったっての……? でも、みんなの援護のあと、あんなすぐに……」

『そりゃね、彼だって進んで見殺しにしようとしたわけじゃないもの。チャンスが出来れば、全力で助けようとするよ』

「香織と……亀井さんと紅さんも、わかってたの?」

『うん、二人もわかってたみたいね。だから、彼を死なせたくなかったから、全力を尽くしたの。みんな』

 なんだろう、このみんなに決定的に負けたような気分。私だけ、気づけなかった? 彼が、本気で死のうと覚悟を決めてたことを? こんな風に胸が締め付けられるような気持ちは、生まれて初めてのことだった。

 

「魔術師殺し……」

 明音がふと、そんな言葉を呟いた。どっかで聞いた覚えがある。魔術師たちの間で噂されている謎の人物。そいつを敵にした魔術師は、魔術師として再起不能なまでに叩き潰される、いわば魔術師として殺されるも同然だって。そんなふうに噂されてるヤツがいるって。でも、なんで今そんなことを?

「まさか?」

 私は、ハッと気づいてその人を見つめる。

 ……まさか?

 今まで、そんな噂はたいして本気にしていたわけじゃない。もし実在したとしても、とくに理由も根拠もないが、それが誰にせよ、経験豊富な大人なんだろう、とイメージしてた。

 でも、いた。私たちのすぐ身近に、その噂にぴったり合致する人物が。

 私は、その予感がおそらくは真実だと確信しつつ、〈根無し草の世界〉が崩壊してゆく中、その人の背中を見つめていた。

 

 気がつくと、そこは例の公園だった。

 戦いの結果、あの異空間に満ちていた魔力を充分に確保した私の身体には、魔力がこれまでになく満ちている。それに気づいたとき、ふと思い至った。これなら、これまでの仕掛けだけでもなんとかできるかもしれない。それに、香織も帰ってきたから安心できる。

 なにより今、私のすぐそばに黄泉姫がいる。私を信頼して、無防備に背を向けている。他のみんなも、戦いの終わった安心感からか、どことなく気を抜いている。そう、あの平坂ですら。

 これは、いまこのときが千載一遇のチャンスだ。もう二度と来ないかもしれないくらいの。

 でも。なんで私はこんなにことを起こすのをためらってるの。今この瞬間を失いたくないって思ってるの。

 でも。これは私が私としてこの世に造り出されてしまったことへの決着のために必要なこと。これをしなければ、私は前に進むことも、敗れて滅びることさえもできやしない。

 私は、そう自らを奮い立たせる。

『香織、ちょっと、ごめんね』

『え、沙織?』

 私は、香織に心の中で謝ると、これまで私のサポートをしてくれていた香織との意識連結を切る。これで、香織の意志がサポートしてくれることはない代わりに、香織の意志による引き下げもなくてすむ。

 本当にごめんね。事が済んだら、私はもう出てこなくても、滅んでもいい。この身体は完全に貴女に返すからね。

「沙織さん?」

 私が彼女の肩に手を置いたことに黄泉姫が気づき、私を振り返る。

「夜見子ちゃん」

 私は、初めて彼女を名前で呼んだ。きっと、これが短い間の、悪くなかった時間への訣別。

「ごめんなさい」

「え、なに?」

 私は、戸惑う彼女を背後から抱きすくめると、ぱちっと彼女の盆の窪に霊的エネルギーをスパークさせ、意識を眠らせる。そして、動かなくなった彼女を抱えて空間転移のために念を凝らす。琥珀色の光が私たちを包み、時間差で夜見子ちゃんが先に、私も続いて瞬間移動する。

「夜見子! 沙織!」

 それに気づいた平坂の叫び声がする。転移のその寸前に一瞬だけ私の目に焼き付いた厳しい目。私のことも信じてくれるって言ってくれた目。あの目をわたしは今、裏切った。

 そう思った時、私の中で、なにかが砕け散った音がした。

 それは、もう戻すことのできない時間の砕け散る音。

 それは、もう正面から見ることの叶わない彼の顔。

 それは、今になってようやく気が付いた私のほんとうの気持ち。

 ごめんなさい。

 やっと。私は、たった今、わかりました。

 

 平坂くん。私は、あなたのことが、好きでした。

 

-8ページ-

 エピローグ

 

「姉さん」

 リリスが不思議そうに私に尋ねる。

「どうして、泣いているの?」

「……うん」

「黄泉姫を手に入れたんでしょう? 私たちの悲願が叶うかもしれないんでしょう?」

「……うん」

「なら、どうして泣いているの?」

「……もう、とりかえしのつかないものをなくしちゃったから」

 でも、それでも私はやらなくちゃいけない。とりかえしのつかないものをなくしてまで、手に入れたかったもののために。

 でも、それでも私はやらなくちゃいけないんだろうか。それは、とりかえしのつかないものをなくしてまで、本当に欲しかったものなんだろうか。

 答えはいまだ出ず、私はずっと、泣いていた。

 

つづく

説明
黄泉姫夢幻Y〜ダブルクロス・リバース〜を公開します。
コミックマーケット86にて第1部完結の第7巻発行記念で早めの公開となります。
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血のつながらない実の妹 オリジナル 双葉香織 根本夜見子 夜見子 黄泉姫夢幻 伝奇 

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