恋姫†無双 八咫烏と恋姫 5話 雑賀人、化物を退治せんとするのこと
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恋姫†無双〜孫市伝〜

 

 

 

 

 

そこは何処にでもある、河東にある小さな町である。

それ程大きくもなく、住民の数も少なくもない。農業が盛んで、町の周辺には田畑が広がっている。空はこれでもかというほど晴れて澄み渡っており、自然が豊かで動物たちが住みやすい山も広がっている。が、その町の中で異風を身に纏って歩いている男がいた。

 

真赤な袖の無い羽織、真白になめした革の袴、腰には古びた長剣を携えている。手には二尺ほどの大鉄扇を持ち、とにかく巨漢の男がゆっくりと歩いているのである。その背には黒で塗られた八咫烏が羽ばたいていた。その男は孫市である。

 

なぜ幽州の遼西にいた孫市が司隷の河東の町にいるのかというと、趙雲をあしらった孫市は一度冀州に戻った。渤海に一度寄り、一日ほど休むと西に歩き始めた。河間を横切り、紆余曲折しつつ常山に入った。そこからは南西の方角に向かい楽平、太原を抜けて河東に至った。孫市は河東の町などに立ち寄らずに過ぎて南に向かおうと思ったのだが山の中で山賊に襲われている一団を発見することになった。孫市は助けたお礼を期待してその一団を助けることにした。大したことのない山賊たちであり、落ち葉を払うように軽く追い返すことに成功、助けた一団に感謝されることになった。話によるとこの一団はこの山の近くにある町の庄屋の一団であり、用を済ませた帰りに襲われたとのこと、孫市は酷く感謝されることになった。その庄屋のとても心優しい初老の男性であり、孫市はほぼ強引に屋敷に連れていかれて酒宴が開かれた。そのまま孫市は庄屋の客として町に居着いてしまう。

 

最初は孫市の変わった風体を見て村人から怪訝な目で見られることになるのだが、孫市の底抜けた愛嬌と、子どものように人懐っこい無邪気な笑み、そして時折見せる老人のように落ち着いたさま、何よりもよく見れば非常に男前であった。孫市は町の女を中心に人気が高まっていった。

 

孫市の眼はぎろっとしてはいるが口元には愛嬌があり、顔は涼風が吹いている清々しい感じの男であったので庄屋も孫市を手元に置いておきたくなっていた。

 

孫市は町で何か特別な事をする訳でもなく、町をゆっくりと歩き回り、若い娘などに声をかけては遊び、子どもたちを集めては山に遊びに出かけたりしていた。自然の内に町に溶け込み、最初から住んでいたのではと勘違いするほど町に馴染み始めていた。これも孫市の一種の才能というやつなのだろう、庄屋の屋敷に住みその家族とも、本当の家族の様に和気藹々と接する。もう孫市は町の一風景と化していた。

孫市の生き方は風来坊のようではあるが、気に入った土地には木の根を張るように動かなくなる、今はその手前であったが八咫烏として生きることを決めた孫市は根を張るまでに至ってなかった。すぐにでも旅に出て、世を知りたいと思っている。もし孫市が根を張るならもっと南だ、ここの辺りは冬にでもなれば寒すぎる、紀州人は寒さに弱い、本州最南端であるために雪など積もっても支障をきたさない厚さである。それでも身体が悴んでいう事をきかなくなる。巨躯を折り畳んで縮まる孫市は滑稽であるので見物であった。

 

 

この町にいつまでも滞在している訳にはいかない、自分は天下の英傑を見定める為に旅をしているのだ。それが、天がこの孫市に望んだことなのだ、と孫市は強く思い始めていた。時折、孫市が町を歩くとき、いつもとは違う雰囲気を帯びている時がある。歩くだけで風が巻くように堂々と歩くのだ、その孫市はいつもは無い凄味があり気軽に近づけない空気がある。

 

今日は朝から町を散歩するだけである、いつものように愛嬌を帯びた口元をしており、その頭の中は次はどこに行こうかと考えている最中であった。この河東の町は漢の都、洛陽とは比較的近くにある。都というのだから随分賑わっている事だろう、一度は行っておかないと気が済まないのがこの男である。今にでも、何もかもをほっぽり出してしまいそうであるがそうは問屋が卸さない。

 

「孫市!」

 

若い女が孫市の背に声をかけた。孫市は大鉄扇を開きながら振り向いた。

 

「おぉ、なんじゃい」

 

この娘、もう夫が居ても不思議でない歳だが何処か垢抜けておらずまだ少女のような印象がある女で、庄屋の娘である。孫市、と親しい笑みを浮かべて呼び、孫市も彼女のことをぼちぼちな女と見ている。

 

屋敷に呼ばれた孫市の酌をしたのが出会いであった。最初は良い印象を持っておらず野蛮な男だと思っていたのだが、孫市の男伊達にすっかりやられてしまい夢中になってしまっていた。それを表には出してはいなかったが、親の庄屋には簡単に見抜かれており孫市ならば娘を託していいと考えている。しかし、孫市にはその気は無かった。

 

「お父さんが呼んでるよ。でも、急ぎの用じゃないからゆっくりしてていいって」

 

「何かあったか」

 

「ん〜、知らないけど忙しいのなら来なくてもいいって言ってたよ」

 

「なんじゃ、庄屋殿がそう言ったのか?」

 

この庄屋は町人全員に愛されている。人徳に溢れており、こういう男が嫌いな者はいないと孫市は思っているが、最近この町に縛り付けようとしているの気がしており、少々いけ好かないと孫市は感じてきている。

 

「確かにそう言ってたし、他の人達も呼ばれてたから会合でもするんじゃないかな?」

 

そう言って庄屋の娘は少女のような笑みを浮かべる、孫市はあざとい奴だなと意図を見抜いておりそっぽを向いた。それがまた彼女を引き付けるのだがこうもガツガツと噛り付いて来るような女は孫市は苦手であった。そう言われたならばと庄屋の屋敷に直接には向かわず、ゆっくりとした足取りで町を回ってから屋敷に戻ることにした。

 

歩いていると喉が渇いてきたので孫市は茶屋に入った。茶屋の店主は新顔であるが、既に馴染み深い孫市を笑顔で迎えて席に案内した。

 

「孫市殿」

 

茶屋の店主も孫市と呼ぶ、鈴木殿や雑賀殿とは誰も呼ばない。

これは孫市が、みなに孫市と名乗っているからである。この国で孫市は異国人という感じも無い、人相を見る達人が見れば違和感を感じるほどではあるが普通の人にはそう見えないのである。名も孫市と統一すれば、読みが変だなと思われるだけで何ら支障は無かった。だが、ただ単に面倒だから孫市とだけ名乗っていた。

 

「茶じゃ」

 

そう言うと、店主は茶を用意するため孫市の視界から消えた。少しして茶を運んできて、孫市の眼の前に置いた。孫市はそれを喉を鳴らして飲む。

 

「孫市殿、茶はよく飲みますかな?」

 

店主が豪快に茶を飲む孫市に些細なことを訊いた。

 

「喉が渇けば」

 

「それならば水を飲めばよいではないですか」

 

「はっはっ、まことその通り」

 

「そういえば庄屋様の屋敷に色々な方が集まっていきましたが孫市殿は行かないですか?」

 

「そうじゃな」

 

孫市は曖昧に返事し、茶を飲み干した。

何やら重大な事が起きているようだが孫市は庄屋の食客であり、庄屋に助言することはできるが町にあれこれと言える立場ではない、面倒事を押し付けられるのも嫌なので、ゆったりと茶屋で時間を潰し続けた。事を伝えられてから半時ほど経ったころ、気が変わったのか急に席を立ち、庄屋の屋敷に向かった。門を潜り、屋敷内に入るとその娘と鉢合わせた。

 

「来たの」

 

「お主がわしを呼んだのではないか。で、どこじゃ」

 

「お父さんの仕事場に皆集まってるよ。もう話も煮詰まってると思うけど」

 

彼女に軽く礼を述べると孫市は言われた部屋に向かった。

 

庄屋が政務に使う部屋に入ってみると町の有力者たちが集まっており、少し重い雰囲気になっていたが孫市は事情を察し、静かに隅の席に座った。庄屋が孫市が座ったのを確認すると孫市に説明を始めた。

 

「孫市殿、それをご覧ください」

 

そう言って庄屋の使用人が孫市の前に紙を置いた。それを、なになに、と覗きこみながら見るが孫市はこの国の言葉が読めない、暫くじっと並べられている文字を睨んでいたが、読めんと吠えると紙を机に放り投げた。庄屋や有力者たちはずっこけそうになるが彼らにとって孫市の無知はどこか愛すべき所があり、誰もが笑い、隣に座っていた商人の男が代わりに読み始めた。

 

「孫市殿これにはですな。今宵町の外れのお堂に食べ物を添えよ、でなければ町に災いが降りかかるであろう。と書いているのですよ」

 

「ほほぉ、ではこれは脅迫文か」

 

「その通りです。門に矢が刺さっており、その文が結び付けられていました。孫市殿が来る前に我々で話し合ってどうしたものかと思っていたのですが、孫市殿はどう思われますか?」

 

庄屋は孫市のことを心底信用していた。孫市は文に書かれている文字をもう一度見て、一文字一文字良く眺める。

 

「これはおなごの字じゃな」

 

手元の文に視線を落としながら言った。この男の伏せた眼、意外にまつ毛が長い。ときどきがらりと顔の変わる不思議な男だが、別人のように思慮深げであった。

 

「おもしろい字じゃ」

 

孫市が言うに味のある面白い文字とのこと、何かの字を真似てくねくねと書いたのだろうと説明して皆は、そうか、と不思議がりながら文を覗いてみるがよく分からなかった。しかし庄屋はその言葉を信じた。

 

「孫市殿がそう申すなら、これは悪戯と取っても良いですかな?」

 

話し合いはすでに悪戯と決まっていたが、孫市の後押しで庄屋はそう決めることにした。

 

「いや、用心しておいた方がよい。この文字の持ち主、何をするか分からん」

 

「・・・分かりました。では暫くは様子を見ましょう。皆さんもそれで宜しいかな?」

 

庄屋の言葉に全員頷いた。何人かは内心びびっているが、これが悪戯であると願った。それでこの集まりはお開きになった。孫市は暫く庄屋の屋敷の中におり、何をする訳でなく、無用に時間を潰していた。そこに庄屋の娘が来る、時間は昼を過ぎ、そろそろ夕食の準備をする時間だろうが、暇を見つけて孫市に遊んでもらおうと来たのだ。

 

「何してたの?」

 

孫市は彼女を一瞥すると肘を杖に寝転がった。その顔はどこか退屈そうである。

 

「何もない、ただの悪戯じゃ」

 

「そうなの?」

 

「そうじゃ、お前が考えることじゃない。茶でも入れてくれ」

 

「はいはい」

 

孫市もこの件については楽天的に考えていた。

文に書かれていた文字が女の字であるのは確実であると、孫市は睨んでいる。町の娘がしたとは考えられない、孫市はならば誰が書いたのであろうと思ったが答えが出るはずが無かった。

 

翌日、町外れのお堂に食べ物を添えていないが災いは起きなかった。庄屋も悪戯と安心して胸を撫で下ろしていた。

 

「やはり悪戯でしたな」

 

庄屋は孫市と対面に座して朝食を食べていた。孫市は既に食を終えており、彼の様子を静かに見ている。

 

「いやいや、一時はどうなるかと思いましたが町人一同安心しております」

 

「それは良かった。じゃが」

 

「はい?」

 

「明日じゃな、もし何かあるとしたら明日じゃ」

 

「・・・そう、ですか」

 

そう言われて庄屋の顔に陰が出た。孫市の言う事ももっともだが、こう朝早くに言われると気分が落ち込むものだ。庄屋の手が明らかに遅くなる、孫市も町を思ってのことなので今日一日は眼を光らせておくから安心しろと言うと、庄屋は安心したように微笑み朝食を完食した。

 

「ならばお頼み申す、孫市殿」

 

孫市は任せておけと言うように胸を張った。この男は町への滞在期間が延びることを危惧しているのである、最初は枝に羽休みする鳥のように直ぐにでも出て行こうとしていたのだがずるずると引き伸ばされている。庄屋が孫市を手放すのを惜しい思い、何かに理由を付けて留まらせているからだ。今回も面倒事が起きてしまえば最終的には孫市が解決することになるのが彼自身分かっていた。

孫市は傍らに置いていた、襲ってきた山賊が逃げる時に残していった古びた長剣を握り、怪しい者がいれば問答無用で叩き斬ってやることにした。それほどの意気込みを胸に長剣を腰に結ぶと屋敷を出た。まだ朝も早い、左右を見ても数人しか外を歩いていない。明るい内に町外れのお堂に行こうと孫市は考えており、町の外に向かう。お堂は少し山を登った所に建っている、無人で町人の誰も近づかない。誰が何のために建てたのかさえ知る者はいないが、念の為にあそこには近づくなと町中に触れさせている。

 

軽い傾斜の山道を登り、お堂に辿り着いた。

見た感じ古く、何十年も以前に建てられたことが分かる、屋根には穴が開いており、風通りが良さそうだ。戸の隙間から中を覗きこむ、誰も居ないことを確認して中に覗いていた顔から順に入って行く。中は少し埃っぽく、軽く咳払いして中を見渡した。

 

「誰もおらぬか」

 

当然と言えば当然だ。孫市は独り言を続けながらお堂の中を散策する、放置された用途不明な道具などが乱雑に置かれていたり、孫市には価値の見出せない物ばかりだった。当然収穫は無し、怪しい人物は一人もいなかった。

 

その次の朝である。

孫市の危惧していた通りになった。庄屋の屋敷の門前に岩が置かれていたのである、岩が置かれたならそれこそただの悪戯と思うかもしれないが問題なのはその大きさである。横も縦も孫市の背の倍以上はあり、とても人間が運んでこれるような大きさではない、庄屋も町の者全員が驚き、身体を震わせた。しかし孫市はその時でも楽天的であった。

 

「何とも大きな岩じゃ、これを一夜にして運ぶとはまさに化物じゃな」

 

この男は何を呑気な事を言っているんだと皆思った。孫市はその岩を持ち上げれないか、押して転がせないかと、色々するがどれも上手くいっていない。本当に化物が置いたのだろうと、孫市は笑って言い続けた。

こうなってしまっては事を治めるしかないので庄屋は役人に頼んで何とかしてもらおうとした。化物が巨岩を運んできたと報告すると逆に叱りを受けることになった。御上の手を煩わせるなとのことである、こうなれば自分たちでどうにかするしかない。

 

「孫市殿」

 

庄屋は孫市の為に用意した部屋でくつろいでいる孫市を訪ねた。孫市は庭が一望できる縁側に腰かけており、入ってきた庄屋の方を振り向いた。

 

「上はなんと?」

 

上とは役人たちのことであろう、庄屋は包み隠さず言うと孫市は腹を抱えて笑った。化物が出たなどを信じる者がいるか、自分だってそうするだろうと孫市は庄屋に語る。

 

「ならば自分らで退治するしかないと思うのですが」

 

「化物をか」

 

庄屋の言葉に孫市は耳を傾けた。あの巨岩を運んできた化け物を倒せる者がこの村にいるか、孫市は考えるが自分以外にいないだろうと考えた。ならば自分に退治して欲しいと頼みに来たのだろうと孫市は思った。孫市の思った通り、町の力自慢と一緒に化物を退治してきてほしいと言われた。

 

しかし、孫市は生来のへそ曲がりであり、化物を退治するなら自分一人で行きたいと伝えた。だが、孫市一人と町の力自慢たちならば後者の方が勝率はあるだろうと庄屋は考えてそれを伝える。

 

「わかった。ならばわしは行かん」

 

孫市はそれを言うともう二度と庄屋の方は向かなくなった。庭を先にいる駄馬を見詰めていた、何か雑草をむしゃむしゃと食べている。腹を壊さないか心配だなと考えながら孫市は、そそくさと出て行った庄屋の報告を待つことにした。その夜、町の力自慢たち十人ほどが、町外れのお堂に向かったが這う這うの体で町に逃げてきた。朝になると庄屋の屋敷に男たちが報告に来た。

 

(ほれ見たことか)

 

孫市は彼らを内心嘲笑い、最初から自分だけに任せておればこうはならなかっただろうと思った。

男たちは数人怪我しており怪我の具合も比較的軽そうである、その他の男は化物の強さに怖気づいて戦わずに逃げてきたのだろう、力自慢が聞いて呆れるがそれを非難する声は無い、怪物がそれほど強いのだろうか村人たちが男たちにどんな奴だったのかを聞くと孫市は破顔するのを懸命に堪えた。男たちの語るその姿はまさに化物のそれであったからだ、身の丈三丈で赤く光った眼を持ち、鋭い牙と角で全身毛むくじゃらと豪語するのだ。嘘もここまで来れば真実かもしれないなと孫市はまだ見ぬ化物を想像して遂に堪え切れず、涙を浮かべて笑った。

化物といえば日本の妖怪たちもそうなのかもしれないが、こうも意志表現をする妖怪など聞いたことがない。ならば想像してみようか、と孫市は自分だけの世界に入り込んだ。

 

身の丈三丈で毛むくじゃらの女が、鋭い牙と角を振り回し、食料を持ってこないと災いが起きるぞと赤い眼を凝らして文を認めるているのだ、これは傑作である。これで物語でも作れば百姓に大受けであろう。

 

「あっはっはっはっはっ!」

 

「孫市殿、笑いすぎですぞ」

 

転げ回って笑っている孫市を庄屋が止めようとするがこうなった孫市は簡単には止まらない、自然に治まるのを待つしかないのだ。

 

「では、貴様が行けばよいだろう」

 

男たちの一人が顔を赤く染まらせながら口調荒げに言う、それに続いて他の者たちが、そうだ、とその意見に賛同した。ここまで笑われて馬鹿にされ彼らも黙って居られるものではない、意気揚々とお堂に向かっていったことなど頭の片隅に追いやり次々に喚き散らす。

 

「おう、わしがその化物を見事退治してやるわい」

 

「言ったな」

 

「わしに二言はないぞ」

 

孫市は既に勝った気でいる、なんとも余裕の表情で男たちの朱に染まった顔を見渡した。

 

「ならば今夜」

 

「うむ」

 

孫市は力強く言い切った。その場はそれで男たちの怒りとやるせなさは何とか収まり、大見得を切った孫市が夜にお堂に行き化物を一人で討ち取ることに決まった。これには庄屋も不安気である、十人で倒せなかったのにたった一人で倒せるのか。孫市は庄屋の不安気などまったく気にも留めず、今夜に向けての準備を始める。といっても何か特別なことをする訳でもなく、ただ剣を振って酒を飲むだけである。その様子を見て庄屋の娘も不安気に聞いた。

 

「大丈夫なの?」

 

「なんじゃ、化物のことか」

 

それ以外に何があるのだ、という顔で彼女は孫市を見る。その顔を見て軽く微笑みを浮かべた。その表情には何の不安も無い、まるで死ぬことなぞ怖くないと思っているようだ。その微笑みを見ると、彼女は自然と安心していた。

 

その日の夕方、おかしげな男たちが町を訪れた。

格好からすると旅の剣客なのだろう、三人の男が一人の男を囲むような形になっている。囲まれた男は全身が真黒で統一しており、八咫烏と書かれた旗を背に背負っていた。

 

「八咫烏」

 

それを見た町人から自然に声が漏れた。町に八咫烏が来た、それはあっという間に広がった。町に化物が現れ、まるで狙ったように現れたことにより町人は疑うことなく予言の八咫烏が自分たちの町を助けに来たのだと喜んだ。これに気分を心底悪くしたのは孫市である、隠す余地もないだろう。町人たちに囲まれた彼らを遠巻きに孫市は眺めていた。

 

「なんじゃ、あやつら」

 

「八咫烏だって」

 

隣に立っている庄屋の娘が教える。

 

「言われなくとも分かるわ」

 

黒々と大きな字で八咫烏と書かれていれば嫌でも分かる、孫市は見世物でも見るように八咫烏の男を見ていた。格好は八咫烏を意識しているのだろう、真黒だ。腰に携えている剣の鞘まで黒く、柄は黒革が巻かれている。

八咫烏を気取るなら脚をもう一本増やせばよかろう、あれではただの鴉ではないか。孫市はその様に思い、いつか痛い目に会わせてやると考えた。

 

庄屋は既に八咫烏の男に話しかけていた。

 

「八咫烏様ですか」

 

「そうよ。この方こそ、予言の八咫烏様よ」

 

供の男が称えるように紹介した。孫市は何かの芝居を見ているような気分になるが、そんなこと知る由もなく庄屋は化物の件を離し始めていた。

 

「実は我々、現在困ったことになっておりまして、町外れのお堂に化物が出るようになったのです、八咫烏様。突然のことで失礼とはお思いですが我らの願いを聞いていただけないでしょうか?」

 

その言葉に彼らは露骨に困った顔をした。それを見られない様に顔を一度伏せると、八咫烏の男が顔を上げて言う。

 

「私に任せて頂こう。しかし庄屋さま、私たち遠い道程を終えたばかりで少々疲れております。出来れば少し休みたいのですが・・・」

 

「それならば私の館に是非」

 

その言葉に孫市は露骨に嫌な顔をした。

夜、孫市は庄屋の屋敷の自室に引きこもっていた。向かい部屋から八咫烏たちと庄屋の声が聞こえる、酒でも飲んでいるのだろう。孫市は庄屋の娘と二人で飲んでいた。八咫烏の男に酌をするのを断り、代わりを庄屋の妻が務めている。

 

「あの人たち本当に八咫烏かな?」

 

孫市の杯に酒を注ぎながら彼女は訊いてみた。孫市はそう言う彼女を見下ろしている、彼があぐらをかいても背が高すぎるため彼女を見下ろす形になってしまうのである。そして言う。

 

「なぜそう思う」

 

「だっていかにもって感じで」

 

「わしも若い頃はそうじゃった」

 

「若い頃って孫市何歳よ?」

 

「四十」

 

「嘘だぁ」

 

「ああ、嘘じゃ」

 

この地に来る前は四十の肉体であったが今の孫市は水も弾くほど若々しい男である、そう言われても誰も信じない事は自分でも分かっていた。

余談だが、孫市の背の八咫烏はただの定紋であって別に見せびらかしている訳では無い――目立ちたがりではあるが――村人たちも最初は不審に思ったが孫市の言動や行動を見て、それは無いなと思っている。孫市も若い頃は日本一と書いた旗を持って旅をしたことがあった。しかし、それは孫市だったから名乗れたことで半端者が名乗れば死んでいたのではないかと思う。

 

「わしもあやつらが八咫烏ではないと思う」

 

「本当に?」

 

「そうじゃ、まあ楽しみにしておれ」

 

「何を?」

 

「八咫烏の化物退治をじゃ」

 

孫市は含みのある笑みを見せて酒を呷った。八咫烏たちは休息を取って万全の状態で化物に挑むということになり、その日は終わった。

 

翌朝、孫市は庭で剣を振っていた。

しかし、真面目にしているのかふざけているのか分からない。へらへらと笑みを浮かべながら強い踏み込みで振り落としている。まるで何かを楽しみにしているようだ、その後ろで孫市の馬が死んだように眠っている。いや、本当に死んでいるのではないだろうか。

 

「ごぶっ」

 

小さく寝言のようなことを駄馬が漏らした。孫市は手を止めて後ろを振り向いて駄馬を見下ろして言った。

 

「生きておったか」

 

それは皮肉のようにも取れて愛が籠っているようにも聞こえる。

 

一方で、八咫烏の男とその供たちは町人からのおもてなしを受けていた。それほど豊かな町ではないため満足のいくものではなかったが、町人たちは精一杯のおもてなしをしていた。これも化物から町を救うためである。

 

準備運動を終えた孫市は庄屋の館の門前にいた。まだ巨岩はそこにある、八咫烏の男たちはこの岩を見て青ざめていたのを思い出して孫市は苦笑する。

 

「倒せるかよ」

 

孫市はもろ肌を脱ぐと岩に肩をどっとぶつけた。ごろ、と岩は傾いたが、ごろり、と元に戻った。

 

「わし以外に無い」

 

袴に付いた土埃を払った。やはり岩を動かすのは無理であった。

 

 

町人たちは今晩は、と八咫烏に期待したが彼らはこう言う。

 

「戦うための準備をしたいからもう少し待て」

 

と行かない理由をつけた。

準備運動でもするのか、孫市は人知れず笑った。その次は戦いの場を見て作戦を練る、と言って庄屋を連れて町外れのお堂に向かった夜、部屋に籠っていた。

孫市は庄屋の娘と共に笑った。その次も何かと理由を付けては怪物退治に出向こうとしなかった。それ何日も続けていてはさすがに町人たちも不信感を露わにしてきた。そろそろ引き伸ばすのも限界である、八咫烏は意を決して夜のお堂に向かった。

 

 

 

 

「八咫烏様は帰ってはおらんのか」

 

庄屋の屋敷に来た男はそう言った。もう昼である、とっくに帰って来ていてもいいはずだろう。しかし八咫烏たちは一向に帰ってこないのである、庄屋もこれには困った。ある者が山からボロボロになった八咫烏が下りてきたのを見たと言っていたがそれは本当か、と他の者が問い詰めるが遠くからだったのでそれは分からないと語った。

 

実はそれは本当である、そしてそれをやったのは孫市だ。

 

昨晩、孫市はお堂に続く山道で待ち伏せし、彼らを襲ったのだ。殺してはいない、半殺しである。

孫市は思う、なんとも歯応えのない連中だった、あれで八咫烏を名乗るなど許せることではない。孫市は八咫烏の神孫であると何度も語っている、それゆえに大きな誇りを持っていた。それを彼らは傷つけたのだ。当然の報いであると孫市は思う、今後も彼は同じことを繰り返すのだろう。

 

「次は誰か」

 

孫市は山中にいた。明るい内に化物でも見つけて倒してやろうと思っているが動物一匹見かけない。

 

「三丈の身体なぞ、何処に隠すか」

 

孫市は辺りを見上げる、それらしき巨体は見つからない。嘘であると分かってはいるが一度はそういう者と会って見たいという淡い夢があった。暫くすると孫市は小躍りしながら山を彷徨っていた、歩いている内に楽しくなってきて身体が勝手に動き出してたのである。

 

「ホタ、ホタ」

 

と、少し跳ねながら踊っていると甲高い声が聞こえた。それは女、子どもの声ではあったが女は顔を見なければ年齢など分からない。孫市は踊りを止めると声の聞こえた方向に一目散に走っていた。

 

「ここじゃ」

 

草葉の陰から頭だけ出すと少女が男三人組に囲まれていた。見た感じは山賊である、この山を新しく根城にしたのか、それはさて置き今は彼女を救わなければならないが孫市は様子を伺っている。

 

「町への近道を教えてくれると言っていたのに、こんな所に連れて来て」

 

「心配するなよ、ちゃんと連れて行ってやるからよ」

 

「ああ、天国へな」

 

孫市は思った。男たちはどう見ても山賊を体で表せた男たちである。そんな野郎共の言葉を信じるなど純粋な子なのだな、と孫市は少女を見た。小さな子だ、一人で何処から来たのであろうか、孫市は助けて直接訊いてみることにした。

 

「そこまでにせぬか?」

 

「な、なんだてめぇ!?」

 

草葉の陰から現れた孫市に食って掛かる男たち、あまりの巨躯に少し怯んだが数の利にしがみついて強気になっている。ここで説得することが面倒になったので軽く痛めつけてあしらうと彼らは走って逃げて行った。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「無事か?」

 

「はい。あんな怖い人たちを簡単に倒してしまうなんて」

 

孫市は少女の言葉を手で制した。

 

「なになに、それより一人で何をしておるのだお主は」

 

「あ、申し遅れました。私はとう、と、トントンと申します。この近くの町に用がありまして・・・」

 

何か別の事を言いかけた少女トントンを怪訝な眼で見たが、孫市は首を横に振ってトントンに詰め寄った。

 

「わしは孫市という。この近くの町と言うとわしが世話になっている町のことじゃろう、わしと共に来るか?」

 

「よろしいのですか?」

 

「そろそろ帰ろうと思っていた所じゃ」

 

トントンにとっては願ってもないことである、断ることなど最初から頭になかった。山賊に騙されて助けられるのが一歩遅ければ命――彼女は気づいていないが貞操の危機でもあった――は無かったかもしれない、彼女には孫市のことが一種の、いわばヒーローの様に見えていた。

孫市はトントンを憐れむべき少女と感じていた。この少女はとてもではないが一人で旅をしているようには見えない、旅の食料を持っている様子も無ければ懐刀を持っているようにも見えない。背は孫市の腰ほどだろうか、孫市の大きな手にかかれば簡単に潰れてしまいそうな儚さを感じる、このような子が一人で何をしているのだろうか、孫市は町までの道中で訊いてみる。するとどうだろう、この儚げな少女トントンは化物の噂を聞いて事態を確かめに来たのだと言う、孫市は呆気に取られた。

 

「お主一人でか?」

 

「は、はい」

 

深くは訊かない、何かしらの事情があることは知れていた。孫市は当たり障りの無いように、彼女も同じような態度で話している、素性があまり知られない様にしているつもりなのだろうが明らかである、孫市は鈍い男ではない。

 

町の入り口に着くと庄屋の屋敷の前に置かれている巨岩が見えた。

 

「あれが」

 

トントンは孫市の顔を見上げて訊いた。本当にあれが化物が運んできたというのか、人間が一人で運べる大きさではないのは彼女でも分かるだろう、だが孫市が一夜の内に運ばれてきたと言っていたのを思い出した。本当にそんな化物がいるのかと訊ねているようにも見えた。孫市は何ら嘘偽りのない笑顔で、そうだと言った。

 

「庄屋殿に詳しく訊いてみるとよい、わしが掛け合ってみよう」

 

「ありがとうございます、孫市さん」

 

「少し待っておれ」

 

そう言うと孫市は岩の傍を通って館に入って行った。暫くすると孫市が手招きする、トントンはその手に誘われて館に入って行った。

 

 

 

「では庄屋様。その化物というのは」

 

応接の間でトントンは庄屋と卓を挟んで向かい合っていた。トントンの右隣の席で孫市が踏ん反り返っている。

 

この少女トントンはとても礼儀正しい少女だ、その態度に庄屋も好感を感じてこれまでの経緯を包み隠さず語っている。

こうも礼儀作法を心得ているとさらに怪しく感じてきたのは孫市である、トントン自身は孫市にただの町娘である伝えていたが、この礼儀と佇まいは何処かの良家の娘ではないのかと薄々感じて来ていた。

 

孫市が何人の女と出会い、抱いてきたか、それで培ってきた女を見る眼は天下一であると自負している。もしトントンの礼儀の正しさが演技、偽りであれば簡単に分かるが彼女は自然体だ。これが普通とばかりに礼儀正しく、口調もただの町娘などとは違い気品正しさがある。

 

(あと五年すれば化けるな)

 

あくまでトントンを見る眼は女の子どもを見る眼である、女として姓の対象とは見れるはずがない。孫市にはそんな悪趣味は無かった。

 

「お役人様にも訴えてみたのですが化物が出たなどと言って御上の手を煩わせるなと、逆にお叱りを受ける始末」

 

「ッ!? そんな酷いことを」

 

トントンが卓に身を乗り出して言った。

孫市はその行動に少し怪訝な表情で彼女を見るとばつが悪そうに座った。それが、役人の娘かと孫市に思わせることになってしまった。

 

「それで町の力自慢や旅の剣客などに退治を依頼したのですが」

 

八咫烏のことをしれっと隠した庄屋、孫市は庄屋の顔をちらっと伺う。彼もあの男が八咫烏であるとはもう信じていないようであった。ならば別にいいか、孫市は再び踏ん反り返った。

 

「そんなに恐ろしいのですか」

 

「ええ、もう身の丈三丈や全身毛むくじゃらなど、逃げてきた者が言っています」

 

トントンは庄屋から目線を外し、軽く俯いた。その表情は困ったといった感じて、それからどうしようかという顔に変わった。するとトントンは何かを思いついたように孫市の方を見た。

 

「孫市さんも負けてしまったのですか?」

 

その言葉に孫市は踏ん反り返りながら、軽く笑みを浮かべて言う。

 

「わしはまだ戦っておらん」

 

「では、まだ希望はあるということですね」

 

その言葉に孫市はトントンの方を見る。彼女は可愛げな笑顔を浮かべて孫市の顔を見上げている。

 

「孫市さんは、私を襲おうとした山賊をあっという間に倒してしまうほどお強くて」

 

その言葉に孫市の眉がぴくっと上に動いた。

庄屋はトントンの身に何が起こったのかその言葉で理解して、改めて孫市の強さを思い出す。昼の内にでも頼もうとしていた所である、ここでこの少女の後押しもあって孫市に化物の依頼が円滑に進むのは喜ばしいことであった。

 

「ですから化物にも負けないほどお強いはずですよ、ですよね孫市さん」

 

孫市はいつの間にか姿勢を正し、トントンを見下ろしていた。トントンはその顔を見上げるが、どこか威圧的である。腰が引ける気分になった。

 

「おだてるな、トントン」

 

孫市、怖い顔である。

 

「おだてるやつは嫌いだ」

 

その言葉に庄屋は孫市のことを何とも難しい男だなと思った。

この孫市、何とも扱いにくい男であるのは今までの言動や行動で知れたことではあると思われる。基本、孫市の性格は常人から見れば捻くれているように見えるかもしれないが彼は傭兵のころ、雇われる時におだてられることが多かった。それ故自然の内におだてられることが嫌いになっており、そう言って近寄ってくる輩は蹴り倒し、決して雇われるかと追い返すほどであった。

 

だが、相手が悪い。トントンは頬を朱色に染めて瞳をうるうると潤わせていた。今にも泣き出しそうである。

 

「すみませんでした。ご気分を悪くしたのであれば謝ります」

 

これには庄屋も孫市を責める眼で見た。小さな子どもを相手に大人げない、孫市はどうしたものかと困ったようにぼさぼさ頭を撫でた。

 

「すまぬトントン。わしはどうかしとった」

 

「え、では行ってくださるのですか?」

 

潤んだ目で孫市の顔を見上げるトントン。

孫市は不思議な感覚に陥っていた。急に彼女のことが愛しく感じてきたのだ、しかし恋などではない、ただ単に可愛いものを愛でるような感情であった。

 

(この孫市がこの小娘に?)

 

いや違う、ただこの娘が可愛い過ぎるだけなのか。ならば将来の為に好感度を積んでおこう、と孫市はまだ見ぬトントンの将来性に賭けて頷きながら答えた。

 

「実は今晩にでも行こうと思っておったのじゃ」

 

「ありがとうございます」

 

トントンは孫市の手を握って嬉しそうに微笑んでいる。なぜ彼女がこうも嬉しそうにしているのだろうか、庄屋より嬉しそうに笑っている。孫市はこういう頼まれ方も悪くないと思いながら笑い返した。

 

 

 

時は少し経ち、太陽は沈んだ。空には月が輝いてる、何とも綺麗な満月だ。孫市はこんなに満月が綺麗な日に殺し合いをしなければならないことを悲しんだ。今彼は食料を運ぶ男たちと共にお堂に向かっている。孫市の両肩には鉄砲が三挺、腰には古びた長剣を携えている。例え化物といえど獣だ、鉄砲に勝てる生き物など天下にはいないと思っている。

 

孫市は何とも陽気な表情である、既に脚だけで踊りだしていた。

 

お堂に着くと食料を運び入れ、男たちを帰した。孫市はただ一人である、お堂の中の食料を守るように木戸の前に座り込んだ。

鉄砲に火薬と弾を込めて迎え撃つ準備をし始める。いつでも撃てるように火縄を付ける、辺りはその蛍の光ほどの明かりしかないが孫市は闇に対して何の恐怖も無かった。

 

月が雲に隠れたか、と孫市は空を見上げた。

 

どれほど経ったのだろうか、孫市は正面に眼を凝らしてる。彼は夜目がきく、本人は魚をよく食べるからだと言っている。その眼はこちらに近づいて来る者を確実に捉えていた。

 

「来おった」

 

傍らに掛け立てていた鉄砲を取った。そのまま腰を下ろした姿勢で構える、銃尾を下腹に当て銃口は確かにそれを捉えている。

ゆっくりとこちらに歩いて来るそれはとても身の丈三丈もない、しかし何か毛むくじゃらな形をしている。これは間違っていなかったようだ。雲の隙間から漏れた微かな月光がそれを照らした、色までは確認できなかった孫市はそれを見ると胆を冷やしてしまう。

 

(虎・・・?)

 

絵や話に聞く、中華の地にいると言われる虎そのものであった。しかし二足歩行なのは聞いていなかった。だがそんなのは関係ない、化物の正体が虎だろうとなんだろうと関係はないのだ。孫市は引金にかけた指を微かに動かす、そこには動揺の色はうかがえない。孫市が今にも撃とうとした時、それは突然駆けた。

向こう側も孫市の姿を捉えていたのだ。孫市から放たれた微かな殺気がその身体を動かしたのである、孫市の指はすでに動いており、絞るように撃たれた。

 

だぁぁぁん。

 

辺りに轟音が轟いた。孫市の自信満々に放たれた弾であったが標的に当たることなく闇に消えた。突然駆けたので狙いが外れたのだ、孫市は当たらなかったことに少し不満を持ったが、まだ距離があると余裕の表情で次の鉄砲を手に取る。

 

「次じゃ!」

 

構えるのと撃つのが同時である。

どがああん、詰められた火薬が爆発して弾を飛ばした。これは避けられんだろう、と孫市は確信した。孫市は二度も外すような腕の持ち主ではない、それほど鉄砲を扱かってきている。しかし、相手の方は常識から外れていた。ぐっとそれは加速すると弾を避けて、孫市の左側面まで瞬時に駆けてきていた。相手は孫市が何を飛ばしているか理解できていない、だが野生の勘というやつか、とてつもない本能が爆発していた。

 

もうそれは孫市の目と鼻の先にいた。次の鉄砲を構える間もなかった孫市は、ぽん、と持っていた鉄砲を棄てると腰の長剣を抜いた。そのまま自分の側面に持っていく、まだ刃先は鞘に収まったままだがこれは相手の攻撃を防ぐための動きだ。その直後、横の一閃が孫市の身体をふっ飛ばした。孫市の巨躯がいとも簡単に宙を舞う、孫市は自分に何が起こったのか一瞬理解できなかったが、飛んでいる最中、相手が長物を手に持っている事で理解した。

 

孫市の脳裏にかつての思い出が蘇る、それは熊野の森で会った猪であった。その突進力を思い出していた。しかし、それを超える重さと力。

 

(そうじゃ、相手は化物)

 

地面に叩きつけられた孫市の身体は勢いよく、そのまま後ろに転がっていくが跳ね上がる様に立ち上がった。孫市は剣を構えながらそこにいる相手を見ると、追撃をかける為か孫市の方に歩み寄っていた。もう一跳びで間合いに入れる距離だ。そして姿をちゃんと確認した。変わらず虎だったが、それは人が虎の毛皮を頭から被っているのだと分かった。ならば相手は人間かと聞かれれば、そうだ、とは答えられない孫市だ。あの膂力を味わえば分かるが余程に鍛え抜かれた武人である、いや武人と言ってよいのかさえ分からない。とにかく強い、半端な強いではない、とてつもなく強い。

 

(こりゃ、あやつらが言う事も分かるわ)

 

孫市は心を入れ替えた。死ぬ気で戦う、死など恐れない。孫市は相手を恨めしめに睨み付けると、それは跳び上がった。頭上から、変わった刃が付いた長物を振り落としてきた。孫市は斜めに受け止めて勢いを流して攻撃に移ろうとしたが、相手の判断力が凄まじい、もう次の攻撃に移っていた。上下、左右、縦横無尽に動き続けているそれは孫市を翻弄する、孫市はちゃんとした構えも取れずに一方的に攻められていた。

 

孫市は翠や星の動きなど比べ物にならないと二人の動きを思い返しながら、このままでは不味いと感じた。こんな古びた長剣では何度も耐えられる攻撃ではない、古びた長剣は形が変形し始めていた。味わったことのない重い一撃を避けることに集中して孫市は徐々にお堂の方へと近づいていた。まだ弾が入った鉄砲が一挺残っている、あの一撃に耐えられる生き物はいないのだ。今に見ておれ、と孫市は死の一撃をかわして曲がり始めている長剣を振るう、それは簡単に塞がれるがそのまま身体の位置をお堂の方に移動させると力任せに相手を押し飛ばした。

 

ここだ、それは一瞬の隙であった。孫市は曲がった長剣を捨て、お堂に向かって走り出した。数段の階段を跳び越えて鉄砲に向かって飛び込み、寝ころびながら相手に向かって構えた。だが、相手の動きは孫市の予想を超える。既に身体は銃口を通り過ぎ、刃先が孫市の鼻先を捉えている。だが、ここでくたばってしまう孫市ではない。彼は上体を一気に跳ね上げ、その顔に額を叩きこんだ。赤い鮮血が孫市の額を汚す、とっさの行動であったために次の行動など思いついていなかったが明らかに相手は怯んでいた。

 

「ちえぇぇぇーーーー!!」

 

孫市は怒号と共に銃口を向け、勝利を確信した。だが、相手のとっさに行った薙ぎ払いの一撃が鉄砲を叩き飛ばした。鉄砲は叩きつけられた衝撃で弾が轟音と共に飛び出し、夜の森に消えていった。それを驚きの眼で孫市は見ると、すぐさま視線を相手に向けた。もう次の攻撃に移ろうとしていた相手に孫市は決死の覚悟で飛びかかった、孫市はすでに死んだ気でいる。鉄砲を失った時点で孫市の勝機は無くなってしまっているのである、それは孫市自身分かっていた。歯の一本でも叩き折ってから死んでやると思って飛びかかったのだ。相手の突き出した刃が孫市の首元を掠めた、孫市は痛みなど感じず、押し倒すように相手を組み伏せる。孫市の力で押さえていられるのはほんの一瞬だけであるが、その内に一撃叩きこんでやろうとしたのだが、あることに気付いた。

 

孫市は確かに感じた。腕に当たる柔らかな感触、掴んだ腕の沈み込むような柔らかさ、股に入れ込んだ膝の当たり具合、虎の毛皮に守られているような細身の肉体、この身体の何処にあの力が、いやそれよりもである。

 

「おなご!?」

 

そうだ、孫市は忘れていたことを思い出していた。書かれていた字は確かに女の字であった、すっかりそれを忘れてしまっていた。孫市は四肢を駆使して素早く飛び上がって距離を取ると彼女にこう言った。

 

「おなごとは戦えぬ、さらばじゃ!」

 

持ってきた鉄砲も折れ曲がった長剣も放置して孫市は逃げるように帰った。その場に残された彼女は一体何が起こったのか暫く考えて寝転がっていたが、土埃を払いながら立ち上がるとお堂の中の食料と孫市が置いていった鉄砲を担いで森の中に消えて行った。

 

 

 

 

「あやつは確かにおなごであった」

 

帰ってきた孫市は朝まで休み、翌朝。館に泊まっていったトントンと庄屋に質問攻めを受けていた。初めは逃げ帰って来たのかと思ったが訊いてみると、相手は人間の女性であったために退治は諦めたと何処か開き直った姿勢であった。自分は女を殴ることもできない男である、それにとてつもなく強い女で逃げてきた、と包み隠さずに語った。

 

「では、化物ではなく人であると」

 

「そうじゃ、庄屋殿」

 

「それでは今後どうするのですか?」

 

トントンが大あぐらをかいて座る孫市を見上げながら言った。孫市はにっこりと笑う。

 

「なに、相手は人間じゃ。方法なぞ、幾らでもある」

 

「平和的に話し合いですね」

 

「うむ、それしかなかろう。わしはおなごを殴れんからのう」

 

庄屋は本当にそれで解決できるのかと不安に思ったが、トントンは誰も死ぬことなく解決できることが分かり喜んでいる。孫市はいつものように飄々としていた。

 

昼になると孫市はトントンを連れてお堂に来ていた。中には食料も無く、残してきた鉄砲も無い。折れ曲がっている長剣が残っているだけであった。辺りを探索し、何か手掛かりでも無いかと探しているとトントンが足跡を見つけた。獣道だろうか、そこに人の物と思われる足跡が続いている。孫市はトントンに離れないように注意して足跡を追っていく、少し歩くとそれは川に続いていた。そこから岩場になっており、足跡は消えていたが川の傍に焚火の跡と恐らく寝泊まりしていたのであろう岩壁に空いた洞窟がある。

 

「中を見る、ここで待っておれ」

 

孫市はトントンを残して洞窟の中に入って行った。

トントンは洞窟の外で孫市が帰ってくるのを待っていると孫市は慌てた表情で飛び出してきた。飛び出してきた孫市に続いて数え切れないほどの犬が出て来た。犬たちは孫市に飛びかかり顔を舐めたり、じゃれついているようだ。

 

「孫市さん!?」

 

大丈夫かと駆け寄ろうとしたトントンに一匹の犬がすがり寄って来た。小さな犬種で円らな瞳が彼女を見上げる、トントンはその可愛らしさにしゃがみ込んで頭を撫で始めた。暫くの間そうしていると例の女性が姿を現していた。虎の毛皮を深く被っており、彼女は二人の姿を見ると、

 

「何・・・してる・・・」

 

と呟くように言った。そして孫市に取り付いている犬たちを優しくどかしてあげて孫市を助けた。

 

「みんな楽しそう・・・お前ら悪いやつじゃない・・・」

 

孫市は涎で汚れた顔を拭うと自分を助けてくれた彼女を見た。とても昨日戦った者とは思えないほど落ち着いている、あれは別人だったのではないかと思い訊ねてみたが彼女はそれは自分だと言い切った。孫市はもう何が何やら、と困った様子で座り込んだ。

 

「わしのことを覚えておるか?」

 

あぐらをかいて眼の前に立っている女性を見上げてそう訊いた。

 

「昨日戦った・・・」

 

「そうじゃ、お主強いのう。わしは雑賀の孫市、お前は?」

 

「呂布・・・奉先・・・」

 

「呂布?」

 

孫市はその名を聞くと違和感を覚えた。

誰かから聞いたことがあるような無いような、孫市は呂布の顔を覗きこんで、んん、と唸った。そういえば昔の中華にそういった武将が居たと聞いたな、同じ名前とは珍しいものだ、と思った。孫市は何とも呑気であった、彼がこの地が遥か昔の中国とは気づくことはないのかもしれない。

呂布は孫市を見下ろしながら虎の毛皮を取って顔を見せる、毛皮に押さえられていたのか髪の毛の束が二本、びよんと跳ね上がった。それは虫の触角のように見えた、孫市は先ずその赤い髪に眼をやり、次に顔を見た。何とも無表情である、何を考えているのかまるで分からない。

 

「・・・」

 

孫市がその顔を見て首を傾げると、呂布も同じように首を傾げた。

 

「ところでこの犬たちはお主の飼犬か?」

 

呂布は静かに頷いた。

孫市は辺りの犬の見渡す、五十匹はいるだろうか洞窟の中にもまだいると考えると百はいるのではないかと考えた。これを全て飼っていたら食費がどれほどかかるのだろうか。

 

「ん?」

 

もしや呂布は犬たちを養うために町を脅したのか、そう考えると何とも妙な女だな、と孫市は考えた。よほどの動物好きか馬鹿だろう、孫市は訊いてみた。

 

「呂布よ、お前は犬のために町に脅迫文を送ったのか?」

 

「そう・・・」

 

呂布は途端に暗い顔になった。自分でも悪いことをしていたとちゃんと自覚しているのだろう、これだけ犬が居れば一人だけの稼ぎでは養えないからだろう、と孫市は考えた。その事を伝えてみると、どうやらその通りだ。呂布はその顔のまま頷いた。

 

「おい、トントン。話は聴いていたか?」

 

「え!? 何ですか?」

 

トントンは犬たちと遊んでいて話を聞いていなかったようだ、女の子らしいといえばらしい。孫市は後で話を聞かせればいいかと考えて、先ずは呂布を町まで連れて行って庄屋を交えて話をすることが優先と考えた。

 

「では呂布」

 

と、孫市が呂布にその事を伝えようとすると呂布の背後から騎馬の一団が迫ってきていることに気づいた。山賊かと思ったが服装は何処かの軍のようだ、先頭には緑の髪の少女であった。他の騎馬は彼女の護衛だろう、孫市は何事だろうと立ち上がった。傍らに呂布が来て長物を強く握っている、孫市は呂布に力を抜くようにと肩に手を置いた。

 

「呂布、落ち着くのじゃ」

 

そう言われた呂布は軽く頷いて、力を緩めた。孫市は恐らく敵ではないと考えていた。騎馬の一団は二人の前に止まった。先頭の緑髪の少女は眼鏡をかけている、下馬すると二人を無視してトントンに声をかけた。

 

「月、また一人でこんな所に来て、報告が来るまで心配したんだから」

 

「月?」

 

孫市はその名を頭の中で繰り返して、そう呼ばれたトントンの方を見た。彼女の真名なのだろうかと思った。そして騎馬の一団を眺めて彼女が何者なのだろうか大体の予想がついてきていた。

 

「詠ちゃーん」

 

月、トントンが犬から興味を彼女に変えた。二人は友人なのだろうか、親しげに呼ぶその顔には強い好感が見られる。

 

「何が詠ちゃーんよ! こんなことしたら駄目って何度も言ったでしょ!」

 

「でも詠ちゃん」

 

二人は軽い口論に発展しそうになっていた。孫市はその二人の間に入って騒ぎを止め、何がどうなっているのか問いただすと、トントンがこう言った。

 

「あ、そうでした。では、私たちのお城に来てください」

 

「城?」

 

予想外の単語に孫市は首を傾げたがその答えはすぐに分かった。

 

 

 

石畳の広い間に孫市たちは案内された。段になって盛り上がっている場所に玉座が置かれている、その隣に緑の髪の少女と護衛の兵たち、孫市は玉座を見上げながら立って黙った。その右に呂布、左に庄屋が同じように立っている。三人の後ろには犬が沢山いる、呂布が吠えないように言い聞かせておりとても静かだ。

するとトントンが現れた。町娘のような地味な格好ではなく、王の様に着飾った格好である、孫市はその姿を眼で追っていた。トントンは玉座に座ると小さな口を開いて言う。

 

「お待たせしました。皆さん、私はここの太守を務めている董卓、字は仲穎です。皆さんを騙していてごめんなさい」

 

そう言ってトントン改め、董卓は孫市と庄屋に謝った。孫市はまさかそこまで身分の高い少女だったとは思いもしなかった。董卓は変わらず儚げではあるが、何とも言い難い雰囲気に包まれている。何と言うのだろうか、簡単に言えば愛が溢れている、優しさもあり、守ってあげたいという衝動にも駆られた。

董卓は善政の意志が強いのである、だから見かけによらず民の情勢を知るために同じようなことを頻繁にしているのだとか、意外と行動派なのだろうが、今回のような事件は一人でどうこう出来るものではないと酷く痛感していた。

 

「そういうことじゃったのか」

 

孫市はしてやられた、と額を覆って言う。そして、こんな小さな子が太守などしているはずがないという先入観を未だに拭い切れていなかった自分の愚かさを責めた。

 

「庄屋殿。この国は何とも変わっておるな」

 

孫市は隣の庄屋に気持ちのよい笑みを浮かべながら言った。庄屋も笑って同意した。

 

「呂布さんが行ったことは確かに許されることではありません。ですが本人はとても反省しています」

 

呂布は申し訳なさそうに口角を下げている、ここに来る前にきちんと庄屋に謝り、門前の岩を退けることも約束していた。

 

「太守様。そのことはもうよいのです、彼女からはきちんと謝ってもらいましたし、岩を退ける約束もしてもらえました」

 

「ごめんなさい・・・」

 

そこから先は孫市が関与することもなく、ぽんぽんと上手いこと話が進んでいった。仕舞いには呂布は董卓に召し抱えられることになり、ちゃんと犬たちの面倒も見てくれるらしいので呂布はとても感謝していたのか、最終的に認めてくれた緑髪の少女、賈駆に無表情で抱き付いて頭を擦り付けていた。

 

「あの、孫市さん」

 

董卓が孫市に話しかけた。どうやら次は孫市の話になるのだろう、孫市はどうしたものかと顎を撫でた。

 

「無理にとは言いません、呂布さんと一緒に私に仕えて頂けませんか」

 

董卓から出たその言葉は一種の酔狂か、それとも単に孫市のことが気に入ってしまったのだろうか、いずれにしても孫市にとっては董卓に仕える理由は無いに等しかった。孫市はばつの悪そうな顔を撫でながら董卓の前に片膝を付いた。

 

「すまぬ、実はわしも嘘をついていた」

 

胸の前で拳と掌を合わせ、董卓を見上げながら孫市はそう言った。思い返せばこれが孫市の最初の礼儀だったのかもしれない、別にしなくても董卓という少女は指摘したりはしないだろう。孫市はこれを意識して行っており、董卓に一目は置いていた。董卓は孫市が何を言っているのか少し分からなかったが、ようやく気づくとまさかこの男が嘘をついているとは思えないと言った風に孫市の顔を見た。孫市はにこにこと笑っている、嘘をついて悪いと思っている顔ではない。

 

「なになに、小さな嘘よ」

 

「どのような嘘ですか」

 

「うむ、実はわしは本姓を鈴木、名を重秀と申す」

 

「鈴木? 重秀? それが、孫市さんの本当の名前ですか?」

 

おかしな名前だ、と董卓たちは思った。

 

「そうじゃ、今は訳あって孫市。雑賀孫市と名乗っておる、そこには深い訳があってじゃな」

 

「?」

 

董卓はよく理解できてないようだ。他の者たちも孫市が何を言っているのか分かっていない様子である。孫市は本題に関係あるのか無いのか、よく分からない事を口走り、そしてこう言った。

 

「あっはは。そしてわしは誉れ高き八咫烏の神孫でのう、今は」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

賈駆が孫市の言葉を遮った。孫市は訝しげに彼女の顔を見て、

 

「まだわしが話しておるじゃろ」

 

と言うが賈駆は少し驚きながらまた止める、他の者も少し驚いているが呂布だけは首を傾げていた。

 

「あんたが八咫烏?」

 

「そうそう、でじゃ」

 

「ちょっと話は済んでないわよ」

 

「ん、ああそうか」

 

孫市はくるりと董卓たちに尻を向けると背中の八咫烏を指す。

 

「これがわしのご先祖様でな、お主らも知っているのではないのか?」

 

「それ、八咫烏さんだったんですね」

 

董卓が少しずれたことを言っているのを無視して、その場の者たちは静まり返っていた。

 

口を開いたのは庄屋であった。

 

「孫市殿。やはり貴方は只者ではなかったのですね」

 

「おお、そう言ってくれるか」

 

「八咫烏・・・かっこいい・・・」

 

呂布も続いて言った。

孫市は二人にそう言われて素直を嬉しかった。今まで八咫烏の神孫などと言えば笑われるか馬鹿にされるしかなかったからである、それは孫市の日常の行いのせいであるが何にせよ、初めて信じられた。

 

孫市は気が付くと踊りだしていた。大鉄扇を開き辺りに風をまき散らしながら跳ねたり、回ったり、孫市は狂い始めていた。

 

「うわ、なにこの人」

 

賈駆の見る眼だけが、孫市を下品な者を見る眼になっていた。

皆が孫市を八咫烏と信じたかは別として、董卓はますます孫市を召し抱えたくなっていた。眼の前で兎のようにぴょんぴょんと跳ね、赤い羽織をはためかせ、時折裾が捲れて赤銅色の腿が見える。最後のは恥ずかしそうに見ていたが、ぴょんぴょん跳ねる孫市が董卓から見て兎に見えてしまい、愛嬌が出ていた。ケラケラと董卓は可愛らしく笑っている、孫市はさらに調子に乗って踊りは激しさを増していった。

 

「はいはい、止め止め! 呂布、この男を止めなさい。初めの仕事よ」

 

堪りかねた賈駆が踊っている孫市を呂布に止めるように命じた。

 

「・・・・やらないとクビ?」

 

しかし、呂布は楽しそうに孫市の踊りを見ていたので止めたくはなかった。

 

「クビよクビ」

 

呂布は渋々と、口をへの字に曲げながら踊り狂う孫市を止めにいく。だが孫市はそんな呂布の手を取ってしまい、彼女は踊りに巻き込まれてしまった。

 

「月、あの男なんなの。ボクはあんなのが八咫烏なんて認めないからね!」

 

「詠ちゃん・・・」

 

するとどうしたのだろう、孫市が躍りを止めて賈駆の眼の前まで来ている、呂布もそんな孫市を真似てか隣で一緒に見ていた。賈駆は一瞬ビクッと身を強張らせたが、孫市の眼がキラキラと光っていることに気づくと何の用だと訊いた。すると孫市はこう言う。

 

「お前今なんと申した?」

 

「え、あんたを八咫烏と認めない・・・?」

 

「違うわ、その前じゃ」

 

「ボク何か言った?」

 

「それじゃ、僕じゃ。お主男なのか?」

 

「何言ってるの、ボクは女だよ!」

 

孫市はそう言われると、賈駆の身体を上から下まで舐めるように見ると、最後に舌なめずりした。確かに女の身体である、董卓より少しは発育しているようだ。賈駆は寒気がした。

 

「おなごが自ら僕と言うとは、この国の文化はまだ慣れぬな」

 

孫市にとってはボクとは、男性の召使いをさす言葉である。それを女が使うというのは少し違和感を覚えてしまう。早くこの国の文化に慣れようと孫市は思った。

 

 

 

 

結局、孫市が董卓に仕えるかどうかは茶を濁す結果となり、孫市は庄屋と呂布と一緒に町に戻っていた。庄屋は町の皆に事に顛末を知らせに行っている間に呂布が門前の岩を退けるために庄屋の屋敷の前に立っていた。孫市はその傍でどうやって呂布が岩を運ぶのか観察していた。彼は呂布との戦いは完膚なきまでに負けたと思っている、自信満々の孫市が意気消沈するかといえばそうではなく単に呂布に興味を示す形となった。鉄砲の弾を避ける女、そんな者は見たことなど当然無かった。眼の前の無口な少女が人間と呼んでいいのか孫市が悩んでいると、呂布は孫市でさえ動かせなかった巨岩を楽々といった感じで持ち上げると町の外に歩き出した。孫市は未だに信じらず、眉間にしわを寄せながらその背を追った。

 

町外れの山の麓まで来ると、呂布は巨岩をゆっくりと下ろした。

 

「のう、呂布」

 

孫市が呂布の背に声をかけると彼女は振り向いて首を傾げた。孫市は呂布の腹部を指差しながらこう言う。

 

「その格好、腹は痛くならんか?」

 

「平気・・・」

 

呂布の服装は腹の部分に布が無く、綺麗にへそが見えている、孫市が会った時からチラチラと見ていたことに呂布は気づいていた。孫市は、この国の女性は肌を見せ過ぎているとつくづく思う。そういう風習なのだろうか、それとも流行りなのだろう。孫市は軽く覚えた性欲を抑えていた。

 

「こっち来て・・・」

 

呂布は孫市に手招きすると森の中に入っていった。孫市はなんだろうと思いながらその後を追った。呂布の後を追って辿り着いたのは彼女が根城にしていた川に面する洞窟であった。

 

「待って・・・」

 

孫市にそう言って呂布は洞窟の中に入っていった。少し待つと呂布は何かを抱えて出てくる、それは孫市が置いていった鉄砲たちであった。

 

「お主が持っていたのか」

 

「うん・・・」

 

「ありがたい、大事な物でな」

 

呂布は孫市に鉄砲を差し出すと孫市は礼を告げながら受け取った。昨日の戦いで何処か壊れた所がないか確認していると呂布が孫市の持っている鉄砲を指差して何か言いたげな顔をしていた。

 

「なんじゃ?」

 

手を止めて呂布に訊いた。

 

「それ・・・」

 

「鉄砲か?」

 

「怖い・・・」

 

「む?」

 

呂布は孫市との戦いでは一方的ではあったが、とても恐怖を感じていたのである。最初の弾を避けたさい、弾は彼女の耳元を弾が通り過ぎた。その時の風切音が彼女の恐怖を煽り立てた。その後は無我夢中で戦っていたのである、あれに当たると痛い、あれに当たると死んでしまうかもしれない、初めての恐怖という感情に襲われた呂布は戦闘能力は爆発的に上昇していたのである。

 

「鉄砲が怖いのは当然じゃ」

 

孫市は不安気に話した呂布に笑いかけた。言っている事と表情が合っていないことに呂布は首を傾げる。

 

「当たればまずは助からぬ。これは人が人を殺すために作られた道具じゃからな」

 

そう言いながら孫市は手元の鉄砲をくるっと手中で回し、呂布に向かって放り投げた。呂布は反射的に受け取ってしまうが、反射的に手放した。鉄砲が虚しく地面に落ちた。

 

「あっははは。心配するな呂布、弾は入っておらん」

 

孫市は落ちた鉄砲を拾い上げて呂布に差し出すが、呂布はやや俯きながら小さく首を横に振った。

 

「それうるさい・・・恋はうるさいのは嫌い・・・」

 

恋とは呂布の真名だ。彼女は自分を真名で言う。

 

「うるさいと言われれば何も言えぬが、一度自分で撃ってみれば面白いぞ。どうじゃ、わしが鉄砲の撃ち方を教えてやろう」

 

呂布は強い、まだその名は広まってはいないがいずれ、それも近い内に国中に轟くことになるだろう。孫市にとって彼女に鉄砲を教えるのは酔狂でのことであった。話してみれば餓鬼のような女である、そこに愛嬌を感じていたのだ。何かを好きになればとことん追求するのが孫市である。

 

「ほれ、薬も入っておらん。安心せい」

 

そう言う孫市の顔は優しげである、その笑みは人をどことなく人を安心させてしまう力があった。呂布は引き込まれるように鉄砲を受け取り、感触を確かめるようにその銃身を掌で撫でている。その顔は無表情ではあったが孫市は興味を示したと取った。

 

「まずは鉄砲を立てろ」

 

そう言われて呂布は銃口を下にして立てた。孫市はちゃんと説明しなかった自分が悪いのだなと思いながら笑みをこぼすと、逆だと指摘した。

 

「くっはは、逆じゃ呂布。こっちが頭でこっちが尻じゃ」

 

孫市は呂布に分かりやすい言葉と指で銃口と銃床を指差しながら説明した。呂布はそれで分かったのだろう、くるりと鉄砲を回して言われた通りにした。

 

「うむ、そうじゃ。ではこれを入れる」

 

孫市は素直に従ってくれた呂布に頷きながら、腰に付けている革袋を呂布に見せた。結び目を解き、中を見るように彼は呂布に促した。呂布はそれを覗き込むと、これは何だと言うように孫市の顔を見上げた。中には黒い粉が入っていた。

 

「これは火薬じゃ。見たことはあるか?」

 

孫市の質問に呂布は首を横に振った。

この袋に入っているのはその見た目通り、黒い火薬で黒色火薬という。火薬の中で最も歴史のある火薬だ。六世紀から七世紀ごろに発明され、十四世紀ごろには鉄砲の火薬として使われるようになった。性質的には燃えるというよりも爆発し、実は火器の火薬としては向いておらず、改良品として褐色火薬が作られた。黒色火薬はとても敏感で、摩擦、静電気、衝撃など簡単な事で発火するので扱う時は注意が必要であり、鉄砲を撃つ際にも事故死することが相次いだ。

 

孫市は袋を仕舞うと懐から木で作られた水筒のような容器を取り出した。

 

「さっきの粉がこの容器に入っておる、ほれ」

 

孫市は火薬入れを呂布に手渡した。蓋を取り、銃口から火薬をさらさらと入れていが少し危なっかしい。孫市は呂布の手に手を重ねて、火薬入れを手伝い、適量を入れると火薬入れを懐に戻した。

 

「多すぎても少なすぎてもいかん」

 

「うん・・・」

 

呂布は分かっているのかいないのか曖昧な返事をした。

次に孫市は火薬が入っていた者とは別の革袋を呂布の眼の前に持っていく、同じように結び目を解いて中を覗かせるとそこには丸い物が幾つも入っている、鉄砲に使う弾である。

 

「これは鉄砲の弾じゃ」

 

「弾・・・?」

 

「弓で言う所の矢じゃな」

 

後者の説明の方が呂布には合っていたらしく、分かった風に頷いていた。

孫市が扱う鉄砲の弾は二種類ある、鉄と鉛だ。鉄の玉は貫通しやすく、弾が大きくなれば相手の身体に大穴を空けることができる。一方で鉛玉は当たると体内で弾けるため惨たらしいことになる。これが顔にでも当たれば花が咲いたように破壊を受け、たとえちょっとの怪我でも鉛毒に冒され苦しめられる。孫市は主にこの二種類を使い分けていたが、他にも小石を削って丸めた玉を使ったこともあった。これは弾が無くなった時の苦肉の策であり、石が無くなると粘土で作った玉を撃ったこともあったがそれで人は死なない。

 

「この弾を頭へ」

 

孫市がそう言うと呂布は弾をまるで菓子でも摘まむかのように指先でひょいと銃口に入れた。

 

「なら、頭の下に木の棒あるじゃろ?」

 

そう言われて呂布は銃口の下部分を見ると木で出来た棒状のような物が付いていることに気づいた。それを試しに引っ張てみると簡単に抜けてしまった。呂布は壊してしまったと思い、おろおろとしてしまうのを見て孫市が笑いながら説明した。

 

「大丈夫じゃよ。それは槊杖、カルカとも言うてな。それで込めた火薬と弾を押し込むのじゃ、やってみよ」

 

呂布はカルカを銃口突っ込み、言われたように押し込んだ。少し力んでいるように見える、孫市は少し慌てながら止めに入った。

 

「軽くじゃ呂布。それに何度も押さなくてもよい、二三回じゃ」

 

「わかった・・・」

 

「なら、次は水平に持て」

 

孫市の指示で呂布は水平に鉄砲を持った。次に行うのは火皿に火薬を注入することである、孫市はこれを呂布に任せるのは少し危ないかもしれないと思い、自分がやってやろうと考えた。呂布が水平に持ち上げた鉄砲を取った。

 

「呂布は火を起こせ」

 

そう言われて直ぐに取り掛かる呂布、手慣れたものだったのかあっという間に火を起こしてしまった。孫市は呂布の手際に少し驚きながら戻ってきた彼女が早くしてくれとばかりに孫市を見上げていた。孫市は呂布が見やすいように少し下げながら火蓋を開けた。火蓋の中は穴が空いている。

 

「この蓋は火蓋と言う、ここの火皿に火薬を入れるのじゃ」

 

先ほどと同じように火薬入れを取り出して点火用の口薬を入れた。一旦、安全に行うように火薬がこぼれないように火蓋を閉じて呂布に手渡した。

 

「少し待て」

 

孫市は火縄を取り出し、呂布の起こした焚火で火縄の先端に火を点けると呂布の元に戻り、孫市は彼女の師匠のように威厳を交えて再開する。

 

「これをここに挟む」

 

孫市は火縄を火挟みに差し込んだ。

 

「よし、膝をつけ」

 

呂布は言われたように両膝を付いた。ちょっと違うと孫市が指摘して、正しい姿勢にさせる。左膝を立て右膝を折って地面に着けるようにと指示した。

 

孫市は呂布の背に回り込み、同じようにしゃがむと呂布の手を取る。

 

「左手はここじゃ」

 

呂布の左手を取り、台木の真中より後ろ側を持たせるように手を持っていき、肘を膝に乗せてあげた。次に右手を持ち、銃把を握らせる。

 

「う・・ん・・・」

 

孫市の手付きは妙にやらしい、ねっとり手に絡んでくる感覚に呂布は声を漏らした。

 

「まだ引金に指は掛けるな」

 

立ち上がった孫市は呂布の目線の先十五間、30mほど先で立ち止まるとそこに石の塔を建てた。的の積もりであろう、建て終えると呂布の隣に立つ。

 

「よし呂布よ、鉄砲の尻を頬につけろ」

 

「こう・・・?」

 

言われたように右頬に銃尾を頬に密着させた。この構えは膝台といい、基本の構えである。いつぞやの孫市の様に下腹に押し付けて撃つ物ではない、しかし自分がその気になれば足でも鉄砲が撃てると孫市は豪語している。そんな事をすれば怪我は必須であるが、あの孫市ならばと周辺の者は恐れた。

 

「そうじゃ、ではあの石を狙え。それは堺筒じゃから富士山型の照門がここについておる」

 

孫市はそう言って火皿の少し前にある照門を指差した。そしてそのまま指を銃口の方へ進めて行き、銃口に付いている突起物の上で指を止めた。

 

「照門の隙間を覗き、この照星で狙いを定めよ」

 

この堺筒はその名の通り、堺の職人が作りだした鉄砲である。伝来直後から生産が始められた境は金属や火薬の原料を調達しやすい貿易都市であったために生産しやすかった。銃口の外側が膨らんでいるのが特徴である。簡単な構造をしており、組み立てや分解するのが簡単であり雑賀衆は近くに住んでいたことも相まって、主にこの鉄砲を使用していた。

 

呂布は左目を瞑り、右目で照門を覗きこみ照星で石の塔を捉えている。ここまでなら素人でもできるが的に当てるとなると違ってくる、30m程ならほぼ確実に当たるのだが呂布は初めて撃つのだ。孫市はまずは当たらないだろうと見ていた。

 

「火蓋を開けろ」

 

呂布は指で火蓋を静かに開けた。

 

「ははは、どうじゃ呂布。あとはその引金を引くだけで撃てる。なかなか面白いであろう」

 

「まだ撃ってない・・・」

 

「そうじゃな、指をここに掛けろ」

 

孫市は呂布の人差し指を引金に持っていき、掛けさせる。そして耳元で囁いた。

 

「月夜に霜の落ちる如く落とせ・・・」

 

「・・・?」

 

「・・・ゆっくり引け」

 

「わかった・・・」

 

耳元で囁かれた声に誘われるように呂布は引金を引いた。無知だからだろうかそれには何の躊躇も無かった。火縄が火皿を叩き、盛られていた口薬が爆発し、続いて銃口内の火薬が爆発した。その直後、石の塔の先端が弾け飛んだ。カーンと砕けた音が耳に聞こえると呂布は当たったと確信して口元が緩んだ。

 

驚いたのは孫市であった、当たらないと高を括っていた孫市は驚きを露わにした。

 

「当ておった」

 

「気持ちいい・・・・・・」

 

呂布は銃尾を当てていた頬の感触を確かめる、発砲した際の衝撃が未だ残っており呂布はその余韻に浸った。

 

孫市は呂布の戦いの才能に感銘を受け、この女はつくづく化物だと実感していた。十五間という距離は鉄砲がほぼ確実に当たるぎりぎりの距離である、初心者ならまずは当たらない距離である。それを当てたとなるともう少し試したくなってきていた。そう思っていた孫市の視界の端を鳥が通る、彼はそれを指差しながら呂布に言った。

 

「なら今度は鳥を撃ってみるか」

 

動かない的なら偶然という可能性がある、しかし空を飛ぶ鳥を撃ち落とすのは難しいのでこれを落とせれば呂布は天才ということになる。孫市は期待を胸に呂布の顔色を見ていると彼女は横に首を振っていた。

 

「恋はお腹空いてない・・・空いてないのに殺すのよくない・・・・・」

 

「・・・優しいおなごじゃ」

 

孫市は呂布から鉄砲を取り上げ火縄を消す、呂布は名残惜しそうに鉄砲を見ている。気に入ってしまったのだろう、だが孫市はそれほど甘い男ではないのでほいほいと鉄砲を渡すことはしない。優しい女性ならば尚更である、孫市は鉄砲を担ぐと腰を下げて呂布と目線を合わせた。

 

「そろそろ庄屋殿の所に帰るぞ、撃ちたくなったらまた撃たせてやろう」

 

「わかった・・・・・」

 

「なかなかいい娘じゃ」

 

孫市は呂布の無垢な魅力、何かほおって置けないと感じさせる雰囲気と純粋な強さが好きになっていた。出来れるならば是非嫁にと言いたい所であったがそれは抑えた。

 

焚火を消し、呂布が今まで暮らしていた洞窟に別れを告げると二人は町に戻った。

 

 

「孫市殿、それに呂布殿。戻りましたか」

 

町に戻ると庄屋が二人を出迎えてくれた。戻ってくるのが遅かったので心配したらしい、孫市は軽く謝った。

 

「すまんすまん。呂布と遊んでいてな」

 

「そうでしたか。それはそうと今日は泊まっていきますかな?」

 

「いや、わしは呂布を董卓の所に連れて行く約束をしておってな。これで別れじゃ、娘にはよく言い聞かせておれ」

 

「はい、孫市殿をこのような町で腐らせるわけにはまいりません。娘には諦めるようによく言い聞かせておきますので」

 

「あっははは、じゃがわしより良い男なぞこの天下にはおらぬゆえ、あのおなごは一生嫁ぐことはできぬだろう。さらばじゃ」

 

冗談交じりに別れを告げた孫市は呂布を連れて董卓の城に向かおうと思い、踵を返すとその背後からとぼとぼと孫市の馬が近づいてきた。孫市は自分の馬の事をすっかり忘れていた。

 

「おお、お前もおったか。ほれ鉄砲を持て」

 

馬は怒っているのか、孫市の腕を甘噛みしてくる。それあしらいながら鉄砲を背中に載せていると呂布がその馬の頭を撫でた。

 

「この子は・・・」

 

馬を撫でながら孫市の方を振り向くと孫市も馬の頭を撫でると、呂布に撫でられるより馬は嬉しそうな顔をした。

 

「わしの馬じゃ、小さくて可愛いじゃろ」

 

「名前・・・何て言うの・・・・・?」

 

そう言われてみれば孫市はこの駄馬に名前など付けてはいなかった。付ける必要が無かった為であり、名馬でもない馬に名前を付けることは基本しない。それにペットではなく荷馬として買ったのだ。つまり駄馬である。

 

「名など無いわい、犬じゃないのだぞ」

 

「でも可愛いから・・・名前付けてあげないとかわいそう・・・・」

 

言霊の薄い言葉を履く呂布だが、その名の無い馬を見る呂布の顔は本当に哀れんでいる表情をしている。一方、馬はちゃんと呂布の顔を見ると頭を振って孫市の手を払いのけると呂布の足に頭を擦り付け始めた。ペットは飼い主に似るとはよく言うが、女好きに見境が無いのは良くない事だろう。

 

「動物が好きなのじゃな」

 

動物に好かれるというのも一種の才能である、戦いの才能と動物に好かれる才能を併せ持つこの呂布という女の深層はどういう物なのか孫市は覗いてみたくなった。孫市にとってそれは箱の中に何が入っているのかと同等の考えである、孫市は甘い言葉を囁いて寝屋にでも入り込もうかのと頭の中で物事が進んでいたが、呂布は男に一切興味が無さそうである。孫市が何かを言ったところでその言葉がどういう意味を持っているのか理解できないであろう。

 

「うん・・・好き・・・」

 

「ならお主にこの馬の名付け親になってもらうかのう」

 

「いいの・・・?」

 

「うむ」

 

呂布は途端に眼を煌めかせた。子どもが大好きなお菓子を買ってもらえたかのように呂布は興奮している、呂布にとって動物に名を付けるのはとても嬉しい事であるのだ。しかし、孫市にしてみれば駄々を捏ねられて買う予定が無かった物を買ってしまった気分である、別に悪い気はしないが名を付けてしまえば大切に扱っていかねば呂布に悪い。呂布は煌めかせた眼で馬を見る、鼻の先から尻尾の先まで見回り、雄か雌かも確認した上で名前を考え始めた。ちなみにこの馬は当然ながら雄である。

 

「・・・・・」

 

「決まったか?」

 

「孫市の服・・・赤い・・・」

 

「わしの服? 羽織のことか?」

 

八咫烏の絵が描かれた袖無し羽織のことである。どの様な場所に居ても一目惚れしてしまいそうなほど深い赤色をしている。呂布はそれを指差しており、孫市は自分の羽織を摘まんで見せた。

 

「恋・・・赤好き・・・」

 

「ほお、で?」

 

「この子小さい・・・」

 

「うむ」

 

確かに孫市の馬は小さい、乗馬には使えない体格である。乗れても子どもか女性だけであろう。

 

「セキト・・・」

 

「む?」

 

「赤兎馬・・・」

 

「赤兎馬?」

 

「うん、赤兎馬・・・すごくいい名前・・・」

 

「別に羽織の赤じゃなくとも袴の白でもよいではないか」

 

孫市の馬は赤毛ではなく栗毛である、そう言って孫市は真白な革袴を摘まんで見せるが呂布は首を振った。

 

「恋・・・赤好き・・・」

 

「そ、そうじゃな」

 

孫市にしてみれば滅茶苦茶な名の付け方である、どこかずれているというか馬に兎と付けるのは流石の孫市もどうかと思ったが孫市はあることを思い出した。昔そういう名前の名馬がいたな、と思い出しておりならばよいかと結論付けた。

 

「これを巻く・・・」

 

そう言って呂布がどこらかともなく取り出したのは赤い布であった。それを先ほど赤兎馬と名付けた馬の首に巻き付けた。小さい馬だったためか良く似合っている、赤兎馬も嬉しそうにくるくると回り始めた。

 

「あっははは。こやつ喜んでおるようじゃ、ならば今日よりこの駄馬は赤兎馬じゃ」

 

 

ようやく自分の名前が持てて喜んでいるのか、はたまた綺麗な女性からの贈り物で喜んでいるのかそれは赤兎馬にしか分からない事である。こうして二人と一頭は董卓が首を長くして待っている城に戻っていた。

 

それを町の庄屋は背が消えるまでずっと眺めていた。若い二人がまるで兄弟のように見え、和気藹々と楽しそうであった。兄の隣にいる妹が化物と呼ばれてしまうほど強くなど見えず、その兄も八咫烏と呼んでいいものかと迷ってしまう性格をしており、その馬は彼を乗せられないが赤兎馬と立派な名を持っている。何とも可笑しな一団である、庄屋はそう考えてしまうと思わず吹き出しそうになってしまい、口を押えた。彼らの背が消えると庄屋は溜息を付いて踵を返して屋敷に帰ろうとする、自分の娘にどの様に説明すれば気を害せずに済むだろうか、そう考えてしまうと溜息が止まらなくなってしまうが孫市の顔を思い出すと不思議と落ち着いた。八咫烏と出会えたのである、近い将来何かきっと良いことが自分の身に降りかかるだろうと思うと足が軽くなった。

 

後にこの町は観光地として一躍有名になる。

呂布の持ち上げた岩は[天下無双岩]と呼ばれるようになり、後の世の将たちが戦いの勝利を願って祈り来ることになる。孫市と呂布が戦ったお堂は[八咫烏堂]と呼ばれるようになり、八咫烏の化身と天下無双の豪傑の決闘を題材にした作中の決闘の舞台となった。

 

その話を読み、または聞き、訪れる者が後を絶たなくなり町は繁栄の一途を辿るが、それでも庄屋の娘に幸せは訪れなかった。

 

説明

天下一の色男にて戦国最大の鉄砲集団、紀州雑賀衆を率いる雑賀孫市は無類の女好きにして鉄砲の達人。彼は八咫烏の神孫と称して戦国の世を駆け抜けた末に鉄砲を置いたが、由緒正しき勝利の神を欲する世界が彼に第二の人生を歩ませた。

作者自身、自分の作品を良くしたいと思っておりますので厳しい感想お待ちしております。

Arcadia、小説家になろうでも投稿しています。

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コメント
月と恋の現れ方はアニメ版の展開に準じた感じですね。しかし庄屋の娘さんは不憫ですね…なまじ孫市のような男と知り合ってしまった故の悲劇でしょうか?(mokiti1976-2010)
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