いつか恋になる
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いつか恋になる - 思いがけない少女

 

 ガシャッ??。

 南野誠一はさきほど殴られた左腕に痛みを感じながらも、先輩の岩松警部補が地面に取り押さえた男の両手首に、ひとつずつ確実に手錠をかけた。暴れていた男の体からようやく力が抜ける。

「3月21日14時18分、公務執行妨害の現行犯で逮捕だ」

 岩松警部補が乱暴に男の細腕を掴んで立たせ、腕時計を見ながら言う。

「濡れ衣だ! 俺はやってねぇ!」

「話は取り調べのときにな」

 そっけなく受け流しつつも油断する様子は微塵もない。決して逃がさないとばかりにがっちりと腕を掴み、体を寄せて塀に押しつけ、いくつもあるブルゾンのポケットを探り始める。武器になるようなものがないか確認しているのだ。ただでさえ屈強な体躯の岩松警部補にそこまでされては、手錠をかけられた細身の男にもはや逃げるすべはないだろう。

 

 この男は、数年前の殺人事件で指名手配されていた容疑者である。

 別件で岩松警部補とともに聞き込みにまわっていた誠一が、通りかかったコンビニ店内にいたこの男に気付き、尾行して寂れた路地裏に入ったところで声をかけた。その途端に誠一を殴り飛ばして逃走しようとした男を、岩松警部補が取り押さえ、とりあえず公務執行妨害の現行犯で逮捕した??というのが事の次第だ。

 誠一は子供のころから映像や画像を記憶するのを得意としていた。文字や図形は駄目だが、顔や服装は一目で細かいところまで覚えられるのだ。警察官になってからは特別指名手配犯の顔をすべて頭に叩き込んだ。それが六年目にして初めて役に立ったのだから、自覚はなかったが浮かれていたのかもしれない。

 

 トゥルルルルル、トゥルルルルル??。

 ふいに岩松警部補の携帯電話が鳴った。まだブルゾンのポケットを探っている途中だったが、男を誠一に預けると、背を向けてその場から離れながら電話に出る。相手はどうやら捜査一課長のようだ。聞き込みの件に加え、指名手配の男を現行犯逮捕したことも報告している。

 誠一は岩松警部補の方に若干気を取られながらも、男の腕を押さえつけてポケットを探ろうとする。ブルゾンはほぼ岩松警部補が確認したはずなので、前屈みになってジーンズに手を伸ばした。自覚はなかったがあまりにも軽率に。そのとき??。

 ドゴッ!!

 突如下腹を蹴りつけられて後ろに吹っ飛び、とっさに受け身を取りながら地面に倒れ込んだ。アスファルトの上で下腹を押さえながら背中を丸め、くぐもった呻き声を上げる。

「南野?! おい待てコラッ!!!」

 岩松警部補はすぐさまこの事態に気付いてくれた。倒れた誠一には駆け寄らず、ためらうことなく逃走する男の方を追う。当然だ。刑事としてこんな危ない男を逃がすわけにはいかない。誠一も痛みに顔をゆがめつつあとを追って駆け出した。

 足は岩松警部補より誠一の方が速い。いつしか先行していた彼を追い越し、男との距離も徐々に縮まっていく。手錠をかけられたままでは走りづらいのだろう。再び取り押さえられるのも時間の問題と思われた。しかし??通りに出ると、男はジーンズのポケットからナイフを取り出して振りかざした。

「チキショーッ!!!」

 前方を歩いていた黒髪の少女に狙いを定めたように、両手でナイフを振り上げたまま突進していく。むきだしの刃がキラリと光った。

「逃げろーーーっ!!」

 誠一があらん限りの声で叫ぶと、ナイフに気付いた周囲の人々から悲鳴が上がり、振り向いた少女は声もなく目を見開いた。足が竦んだのか逃げる気配はない。男はすぐ目前まで迫っていた。もう間に合わない??視界が絶望に塗りつぶされるかと思った、その瞬間。

 ズドン!!

 男の体が宙を一回転して背中から地面に叩きつけられた。少女が腕を取って投げたのだ。すぐさま手首を叩いてナイフを落とし、それを素早く蹴り飛ばして男から遠ざける。瞬く間の出来事だった。そのあまりにも鮮やかな一連の行動に、誠一は唖然として思わず足を止めてしまう。

「え、何なの?」

 少女は男の喉元を押さえて組み敷いたまま、両手を繋ぐ手錠を見て困惑する。

 誠一はハッと我にかえり弾かれたように駆け出した。

「すみません! 大丈夫ですか?!」

 少女のまえに勢いよくひざまずいて顔を覗き込むと、彼女はすこし驚いた様子でこくりと頷いた。遅れて来た岩松警部補は息をきらせつつ警察手帳を見せ、少女に礼を言いながら男の身柄を引き受ける。男は意識こそ失っていないものの、ぐったりとして立つのが精一杯という感じだ。抵抗する力はもう残っていないだろう。

 

 しばらくして、応援に来た警察官たちに男を連行してもらった。静かに遠ざかるパトカーを見てほっと一息つく。まわりの野次馬もすぐに霧散するように消えていった。

「それじゃあ、私、もう行きますね」

「待ってください」

 誠一があわてて呼び止めると、帰ろうとしていた少女はきょとんと小首を傾げる。長い黒髪がさらりと揺れた。

「すみません、調書の作成にご協力いただきたいのですが」

「それって何をすればいいんですか?」

「警視庁の方で事件について話を聞かせていただければと」

「警視庁?! 今から行くんですか?」

「都合がつかないようでしたら後日でも構いませんが」

「今からで大丈夫です」

 彼女は笑顔でそう答えてくれた。

 こちらの失態で危険な目に遭わせたうえ、さらに時間を取らせるなど心苦しく思う。だが、それでも調書の作成には協力してもらわなければならないし、おそらく未成年であろう彼女の保護者にも連絡しなければならない。

「本当に申し訳ありません」

「そんなに気にしないでください」

 本来はこちらが気遣わなければならないのに、年若い少女に逆に気遣われるなど、大人としてどうなのかと情けなくなる。しかしながら、今の誠一には謝罪以外にできることは何もなかった。

 

 彼女には、誠一の運転する車で警視庁まで来てもらった。

 空いている会議室に通していちばん奥の席を勧め、その斜め向かいに岩松警部補と誠一が座る。数席離れたところには生活安全課の女性警察官もいる。対象が女性なので念のため同席してもらったのだ。調書のための聞き取りは誠一と岩松警部補が行うことになっている。

「じゃあ、まず名前を教えてくれるかい?」

「橘です」

 岩松警部補が尋ねると、彼女は凛とした声で名乗って学生証を差し出した。それは、誠一でも名前を知っている有名な学校のものだった。中等部とあるので中学生だろうか。今より若干あどけない顔写真の横には「橘 澪」と氏名が書いてある。

「タチバナ……ミオ、ちゃん?」

「レイって読みます」

 彼女は岩松警部補の読み方をそう訂正し、よく間違われますけど、と言いそえて軽く肩をすくめる。確かに「澪」はミオと読むのが一般的かもしれない。だがレイと読んでももちろん当て字ではない。岩松警部補もふむと頷く。

「なるほどレイちゃんか、いい名前だな」

「私も気に入ってます」

 彼女は嬉しそうにそう言い、エヘッと笑った。

 現場でも思ったが、あらためてじっくり観察してみてもやはりかわいい。まず顔が驚くほど小さい。肌は透けるように白くすべらかで、ぱっちりとした目は漆黒の瞳が印象的、鼻は小ぶりながらすっと筋が通っており、小さな薄紅色の唇はやわらかそうに見える。背中の中ほどまである黒髪は絹のように艶やかだ。身長は成人女性の平均よりやや高いくらいだろうか。頭は小さく、手足は長く、細身ですらりとしている。といってもファッションモデルのようなギスギスした痩せ方ではなく、全体的にしなやかで適度にやわらかそうな感じさえする。

 ひとことでいえば美少女だ。それもテレビや雑誌でさえめったにお目にかかれないレベルの。こんな子が、まさかナイフで襲いくる男を冷静に投げて取り押さえるなど、この目で見なければとても信じられなかっただろう。

「中等部ってことは中学生? 年はいくつ?」

「十五歳です。中学はこのまえ卒業しました」

「じゃあ、四月からは高校生になるんだ?」

「はい!」

 黙ってすました顔をしていればもっと年上に見えるかもしれないが、素直な表情や口調はやはり年相応の中学生といった感じだ。それまで黙って岩松警部補に任せていた誠一は、話が途切れたところを見計らい、用意していた紙と鉛筆を彼女の方へ差し出した。

「澪ちゃん、これに住所、氏名、電話番号を書いてくれる?」

「はい」

 岩松警部補につられて「澪ちゃん」と呼んでしまったが、彼女は特に気にする様子もなく鉛筆をとった。しばらく黙々と記入したあと紙と鉛筆をまとめて誠一に戻す。そこにはくせのない読みやすい字で、住所、氏名、電話番号がきちんと書かれていた。

「ありがとう、ご両親に連絡したいんだけど家にいるかな?」

「えっ、どうして?」

「澪ちゃんを巻き込んだことを説明する義務があるんだよ」

 彼女の顔が曇った。まるで両親に連絡されることに不都合があるかのように。しばらく逡巡すると、ふっと何かあきらめたような曖昧な微笑を浮かべて口をひらく。

「両親はほとんど家に帰ってきません」

「お仕事?」

「はい。でも家には執事の櫻井がいるので、電話して事情を話してもらえれば、両親か祖父に話がいくと思います。本当はこのくらいのことでお父さまやお母さまの仕事を邪魔したくないんですけど、義務なら仕方ないですもんね」

 ??執事?

 その非日常的な単語にそこはかとなく嫌な予感が湧き上がる。岩松警部補も同じ気持ちだったのだろう。ちらりと物言いたげな視線を誠一に向けると、すぐに住所の書かれた紙を手にとり立ち上がった。

「南野、おまえは澪ちゃんから事件の話を聞いといてくれ」

「はい」

 ちょっと待っててな、と彼女の頭にぽんと大きな手を置いてそう言い、岩松警部補は静まりかえった会議室をあとにする。何でもないふうをよそおっているが、おそらく内心は動揺していることだろう。誠一と同じように??。

 

 事件の話といっても、一瞬の出来事だったので彼女から聞けることはそう多くない。

 一通り聞き終わると、人なつこい彼女に誘導されて何となく雑談の流れになった。彼女は刑事や警察のことに興味があるらしく、刑事ドラマでの描写は本当なのか、どうやって捜査して逮捕するのか、事件のないときは何をしているのかなど、目を輝かせてあれやこれやと尋ねてきた。答えられる範囲のことは答えたが、離れたところに座っている女性警察官のあきれたような咎めるような視線が痛い。はしゃぐ女子中学生に笑顔で応じたのがいけなかったのだろうか。別に浮かれているわけでも下心があるわけでもないんだけどな、と胸の内で独りごちる。

 そのとき、カチャッと扉が開いて岩松警部補が顔を覗かせた。彼は会議室には入ってこず、無言のまま戸口で顎をしゃくって誠一を呼びつける。誠一は緊張しながらも顔には出さずに立ち上がり、すこし待っててねと彼女に言い置くと、女性警察官にあとを頼んで会議室を出た。

「あの子、どえらいところの御令嬢だったぞ」

 人通りのない会議室前の廊下で、岩松警部補は疲れたように小さく吐息を落とし、くしゃりと頭をかきながらそう前置きした。予想していたことなので驚きはしなかったが、やはり緊張は高まる。固唾をのむ誠一に、彼はちらりと視線を流して静かに口をひらいた。

「彼女の祖父は橘財閥会長の橘剛三氏、母親は天才科学者の橘美咲女史だ」

「…………」

 想像をはるかに超える名前に、声も出ない。

 橘剛三は、その方面に疎い誠一でも名前を知っている財界の大物である。警察庁の幹部と懇意にしているとも聞いている。そして、橘美咲は次期ノーベル賞候補と噂されているほどの人物だ。研究者としては異例の若さで成果を上げている。橘剛三の娘ということもあり大きな話題になっていた。

 もちろん逮捕した犯人に逃げられるなど大失態であり、そのせいで少女を危険にさらしたのも事実なので、相応の処分を受ける覚悟はしていた。しかし、もはや相応の処分ではすまない事態になってきた??誠一は顔をこわばらせてうつむく。その頬にはついと一筋の汗が伝った。

 

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いつか恋になる - 中学生なりの本気

 

 人の命が平等というのは建前だ。

 実際には、命の重さには厳然として違いが存在する。そうでなければ、殺された被害者がいかに皆から愛される人物だったかなど、あえて裁判の場で訴えたりはしないだろう。事件に至る経緯がまったく同じであっても、被害者がろくでもない人間か素晴らしい人間かで、裁判官の受ける印象が違ってくることは誰もが知っている。つまり、命の重さに違いがあるという暗黙の了解が存在するのだ。

 警察という組織にいると、それを現実のものとして感じる機会は少なくない。通常では事が起こらなければ積極的に動かないものだが、ある種の人々に対しては手厚く対応することがある。そして警護するにしても最優先で守る人物は存在する。やはりVIPとして扱われる人物の命は重いのだ。最初のうちは多少の反発を感じていたが、今はもうそんなものだと受け入れつつある。

 そして、あの少女は手厚く守られる側の人間だ??。

 

 誠一は待機を言い渡されて、緊張した面持ちで捜査一課の自席に座っていた。斜め向かいには岩松警部補もいる。ほかの同僚たちはほとんどが聞き込みなどで外に出ているが、残ったものたちも軽口をたたくことなくおとなしくしている。とてもそんな雰囲気でないことはわかっているのだろう。

 捜査一課長はけわしい顔をして出て行ったきり戻ってこない。上層部とともに、少女の保護者のところへ謝罪しに行ったと思われる。おそらく少女自身も丁重に自宅まで送り届けられたに違いない。

 誠一には保護者に直接謝罪することさえ許されない。ただここでじっと審判のときを待つしかないのだ。首を切られるか、他部署に飛ばされるか、先方の態度ひとつで処分が決まるのだろう。

 あのとき彼女がいなければこんなことにはならなかったのだろうか。いや、もっと取り返しのつかない事態になっていた可能性の方が高い。彼女がいてくれたおかげで誰ひとり怪我をせずにすんだのだ。そのことを思えば誠一の首くらい安いものである。

 

「南野、おまえ首が繋がったぞ」

 捜査一課長は入ってくるなりひどく疲れた面持ちでそう言った。そのまま奥の自席に直行し、革張りの椅子にどっかりと身を投げ出して大きく息をつく。誠一が弾かれたようにその机の前まで飛んでいくと、彼はゆっくりと顔を上げて話を継いだ。

「お嬢さんに感謝しろよ。刑事部長は刑事を辞めさせると言っていたが、お嬢さんがかばってくれてお咎めなしになったんだ。まあ始末書はきっちり書いてもらうけどな」

「ありがとうございます」

 誠一はほっとして深々と頭を下げた。しかし、捜査一課長は表情を厳しくする。

「刑事は一瞬の油断が命取りになる。今後は気をつけろよ」

「肝に銘じておきます」

「特別指名手配犯を逮捕したことに関しては、よくやった」

「ありがとうございます」

 まさか褒められるとは思わなかった。一礼すると、捜査一課長はふっと小さく微笑む。

 一瞬の油断が命取り??それは何度となく言われてきたことだが、今日ほど身をもって実感したことはない。仕事に慣れてきたことで気の緩みもあったのかもしれない。これからは決して初心を忘れないようにしなければ、とあらためて気を引きしめる。

 席に戻ると、よかったなと岩松警部補が後ろから肩を組んできた。彼も責任を感じていただけに安堵したのだろう。それがわかっていたので、わしゃわしゃと乱暴に頭をなでられて髪が乱れても、今回ばかりは文句を言うことなく素直に頷いた。

 そうだ、とふいに捜査一課長が顔を上げる。

「南野、あしたお嬢さんに感謝状を贈ることになったんだが、おまえは個人的にケーキのひとつでもおごってやれよ。先方はあまり大袈裟にしてほしくないようだから、そのくらいが適当だろう。くれぐれもお嬢さんの機嫌を損ねんようにな」

「あ、はい」

 ケーキくらいならと思って軽く返事をしたのだが、考えてみれば相手は財閥令嬢だ。そこらへんの喫茶店で適当にというわけにはいかないだろう。だからといってどういう店がいいのか見当もつかない。新たな難題に我知らず眉を寄せた。

 

「南野さん!」

 翌日、捜査一課の自席で書類を作成していると、お嬢さんが戸口からひょっこりと顔を覗かせた。今日は制服と思われる紺色のブレザーを着ている。感謝状贈呈式のために正装してきたのだろう。彼女の背後には捜査一課長がついていたが、式は終わったからあとは頼むな、とだけ言い置いてどこかに消えてしまった。

 ちょっと出てきます、と向かいの同僚に声をかけて席を立った。

 廊下に出ると、制服を着てニコニコしている彼女と、制服を着て無愛想にしている男子が並んで立っていた。二人の顔はまさに瓜二つというくらいそっくりで、身長も同じくらい、手足の長いすらりとした細身の体型もよく似ている。髪型だけが長短はっきりと違っていた。

「澪ちゃん……彼は?」

「双子の兄の遥です」

 彼女が紹介すると、彼は無表情のまま軽く会釈する。

 あらためてじっくり見ても、やはり彼女とそっくりのとても繊細できれいな顔をしている。制服を着ていなければ女子と間違えていたかもしれないし、彼女と同じ髪型にすれば見分けがつかないかもしれない。双子だということに甚だ納得させられる一方で、男女の双子でここまで似るものなのかと驚く。

「警視庁に行くって言ったら、ついて来たの」

「興味があったから」

 彼はぽつりとそう言い、瞬ぎもせずじいっとまっすぐに誠一の双眸を見つめてくる。気のせいか値踏みされているようで落ち着かない。興味があった、という言葉は自分に対するものではないかと錯覚しそうになる。そんなはずはないのだが。

「よかったら案内しようか?」

「見たいものはもう見たから」

「じゃあケーキ食べに行く?」

「僕はもう帰るよ」

 彼はにこりともせず淡々と受け答えをして、妹の方に振り向く。そのとき初めてかすかに笑顔が見えた。

「じゃあね、澪」

「うん、バイバイ」

 手を振り合うと、彼は背を向けてさっさとひとりで帰っていった。誠一は声をかけられないままその後ろ姿を見送り、傍らの彼女に振り向く。

「澪ちゃんはケーキ食べに行く? きのうのお詫びとお礼におごるけど」

「行きます!」

 彼女ははしゃいだ声で即答した。

 そのいかにも子供らしい無邪気さに思わずくすりと笑ってしまう。しかし、大財閥の御令嬢がケーキひとつでこんなに喜ぶものなのだろうか。すこし不思議に思いながらも、それを表情に出すことなく彼女をエレベーターホールへと促した。

 

「どこへ行くか決めてないんだけど、澪ちゃん行きたいお店とかある?」

「どこでもいいです。あ、落ち着いて話せるところがいいな」

 勝手に決めるよりは本人に尋ねた方がいいと思い、外に出たところで彼女に意見を求めてみたが、参考になりそうな答えは返ってこなかった。それどころかさらにハードルを上げられた気がする。どこへともなく漫然と足を進めながら腕を組み、思案をめぐらせる。

「やっぱりそこらへんの喫茶店とかじゃ駄目だよね」

「どうして?」

「いや、澪ちゃんには庶民的すぎるかなと思って」

「私、そんな贅沢ばかりしてるわけじゃないですよ」

 彼女はムッとしたように口をとがらせて言い返した。とはいえ、彼女の言う贅沢と自分の思う贅沢とでは雲泥の差があるのではないか。半信半疑のまま「そうなの?」と曖昧な相槌を打つと、彼女はこころなしか寂しそうな顔になりふっと微笑む。

「ケーキを食べに連れて行ってもらったこと自体、そんなにないです。両親はそもそもほとんど家に帰ってきませんし、師匠にときどき連れて行ってもらったくらいで。それもたいていそこらへんの喫茶店ですよ」

「へぇ……師匠って?」

「武術の師匠です」

「ああ、なるほど」

「親代わりでもあるの」

「え、そうなんだ」

 ケーキひとつくらいで彼女が嬉しそうにしていた理由がわかった気がした。甘やかされるどころか甘えることさえできなかったのだろう。仕事とはいえ、両親がほとんど家に帰ってこないというのはあまりにも寂しい。幼い子供のころからずっとそうだとすればあまりにも悲しい。

 そのとき、ふと何度か入ったことのある煉瓦造りの喫茶店が目についた。席がゆったりとしていて落ち着いた雰囲気なのでいいかもしれないと思う。スパゲティやオムライスなどの軽食はわりとおいしかった記憶がある。確かケーキも置いてあったはずだ。

「ね、そこの店でいいかな?」

「はい!」

 誠一が建物を指さして尋ねると、彼女は黒髪をさらりと揺らしながら元気よく頷いた。

 

「おいしいです、このケーキ」

 窓際の明るく広い席で、彼女はひとかけらのザッハトルテに生クリームをのせて口に運ぶと、幸せそうにほわりと頬をゆるめて感嘆の声を上げた。気に入ってもらえたようでとりあえず胸をなで下ろす。

「よかったらもうひとつ頼んでもいいよ」

「本当?! でも食べすぎかなぁ」

 そう言いながらもメニューを開いて真剣に悩んでいるのが可愛らしい。喫茶店にしてはケーキの種類が多く、彼女が好きだというチョコレート系だけでも三種類あるのだ。最初に注文するときもどれにしようかとずいぶん悩んでいた。

 誠一はコーヒーに口をつけ、いちごのショートケーキにフォークを入れる。

「澪ちゃん、きのうは本当にありがとう。助かった」

「警察に協力するのは民間人の義務ですもんね」

「えっ……ああ、そのことも感謝してるんだけど」

「違うの?」

「なんか俺のことかばってくれたって聞いたから」

「あれは警察の偉いおじさんがめちゃくちゃなことを言ってたから。おじいさまは今後気をつけてくれればいいって言ったのに、あの人はそれでも首にするとか辞めさせるとか言うんだもん」

 彼女は腹立たしげに口をとがらせる。

 警察の偉いおじさんというのは刑事部長だろうか、それともさらに上層部の幹部だろうか。いずれにせよ、橘財閥会長の機嫌を取るために人身御供にされかかっていたのを、何を言ったかはわからないが彼女が救ってくれたということだ。

「おかげで刑事を辞めずにすんだよ」

「お役に立ててよかったです」

 彼女はティーカップを両手で持って、エヘッと笑う。

 きのうも思ったが、話してみると財閥令嬢とは思えないほど親しみやすく、美少女なのに気取ったところもなく、ごく普通の女子中学生といった印象である。いや、普通というにはいささか純粋すぎる気もする。幼い子供のように表情がくるくると変わり、受け答えも率直で愛らしい。気付けば誠一もつられて笑顔になっていた。

 それからはケーキを食べながらとりとめのない話を楽しんだ。彼女からはやはり警察についてあれこれ訊かれ、逆に彼女には学校や兄のことなどを訊いた。本当はほとんど家に帰らないという両親のことが引っかかっていたが、なんとなく触れてはいけないような気がして話題にできなかった。

 

「あ……あのね、南野さん」

「何?」

 すこし会話の間が空いたあと、彼女が何か言いにくそうに下を向いてもじもじと切り出した。急にどうしたのかと不思議に思いながら様子を覗う。すると、彼女は意を決したように顔を上げてまっすぐ誠一を見つめた。

「私、南野さんのことが好きです。付き合ってください!」

「……えっ?!」

 一瞬、頭の中がまっしろになった。

 これはいわゆる愛の告白というものだろうか。付き合うというのは男女交際のことだろうか。いや、まさかそんな。あまりにも突然で、思いがけなくて、信じられなくて、何かの間違いだとしか思えなかった。しかし??。

「もしかして彼女がいるんですか?」

「いや、今はいないけど……」

「じゃあ、私を彼女にしてください」

 彼女はいっそう真剣な面持ちで誠一を見つめて、そう言いつのる。

 いったいどうして自分なのかが本当にわからない。彼女とはきのう初めて会ったばかりである。しかも、そのとき大変な失態で危険にさらしてしまった。出会いとしては最悪だ。そのあとは警視庁で小一時間ばかり話をしただけで、好きになってもらえる要素はどこにもない。見目麗しい男性なら一目惚れということもあるだろうが、残念ながら誠一の容姿は十人並みである。

「俺のどこがいいの?」

「いいひとだし、話していてすごく楽しかったから」

「じゃあ、ときどき会って話すだけでいいんじゃない?」

「ちゃんとデートとかしたいです。好きなんだもん」

「…………」

 異性を好きになるというのはこんなに軽いものだったろうか。中学生にしてもだ。誠一はこれまでそれほど簡単に誰かを好きになったことはないし、告白したこともなかった。若さゆえというより性格によるところが大きいのかもしれない。

「私じゃ、ダメですか?」

「いやいやいや、ダメとかじゃなくてね」

「私、本気で好きなんです」

「うん……気持ちはありがたいんだけどさ」

「付き合ってくれますか?」

「澪ちゃんわかってる? 俺、二十七歳だよ?」

「恋に年齢は関係ないです」

「でもね、俺からするとやっぱりちょっと」

「私、子供っぽいですか?」

「子供っぽいっていうか……子供だからね」

 そう告げると、彼女はぷくっと頬を膨らませて口をとがらせる。

「女の子は十六歳で結婚できるんですよ?」

「でも、澪ちゃんまだ十五だよね?」

 中学生なのだから普通に考えれば十六歳にはなっていない。その指摘に、彼女は顔を紅潮させてくやしそうに誠一を睨むが、何の迫力もなくむしろ可愛らしくさえある。悪いと思いながらついくすりと笑ってしまった。しかし、このままでは彼女の気持ちはおさまりそうにないし、年齢だけを理由に断るのもかわいそうな気がしてきた。

「じゃあさ、こうしようか」

 誠一が人差し指を立ててそう言うと、彼女はきょとんと小首を傾げる。

「とりあえず澪ちゃんが十六歳になるまでこの話は保留にしよう。もし十六歳になっても澪ちゃんの気持ちが変わらなかったら、またあらためて言ってくれる? そのときは俺もきちんと考えるから」

「……わかりました。それでいいです」

 彼女は不満げな顔を見せながらも了承してくれた。そして気持ちを落ち着けるように小さく息をつくと、すっと背筋を伸ばし、誠一の双眸を捉えてにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「覚悟してくださいね。私、あきらめませんから」

「え、ああ……」

 もしかしたら対応を誤ったのではないか??きらきらと目を輝かせる彼女に曖昧な笑みを返しつつ、誠一はさっそく後悔と不安にさいなまれることになった。だからといって何が正解だったのかはわからない。あまり面倒な事態にならないよう祈りながら、カップに少しだけ残っていたぬるいコーヒーを一気に飲み干した。

 

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いつか恋になる - こんなはずでは

 

「こんにちは!」

 カチャリと捜査一課の扉を開けて顔を覗かせたのは澪だった。おう、と自席にいた岩松警部補が手を上げて応じると、彼女は嬉しそうな笑顔を見せながら小走りで入ってくる。今日も学校帰りらしく、紺色ブレザーの制服を身につけ、肩にはスクールバッグを掛けている。

「澪ちゃん、いらっしゃい」

「今日も何かあるの?」

「マフィンを持ってきました」

 すぐに岩松警部補を含む刑事たちにわらわらと囲まれる。もっとも、ほとんどが外に出ているので四、五人くらいだ。彼女はにこやかに応じながら、スクールバッグから手作りと思しきマフィンの入った袋を取り出した。手作りといっても彼女ではなく執事が作ったものだろう。昔からお菓子作りが趣味でかなりの腕前だと聞いている。

 椅子に座ったままの誠一と目が合うと、彼女は花が咲くようにふわりと愛らしい笑顔を見せた。マフィンを袋ごと岩松警部補に手渡し、するりと人垣を抜けて誠一の前にやってくる。

「今日は会えましたね」

「二週間ぶりかな?」

「避けてませんでした?」

「まさか」

 誠一があわてて言い返すと、彼女はいたずらっぽく肩をすくめた。

 あの告白の日以来、彼女は週に二日ほど警視庁に通ってきては差し入れを置いていく。執事手作りのお菓子だったり、いただきものの銘菓だったり、市販のチョコレート菓子だったりとさまざまである。おそらく誠一に会うために理由をつけて来ているのだろうが、外に出ていることが多いため数えるほどしか会えていない。

「これ、南野さんだけ特別に」

「ありがとう」

 彼女がニコッと笑って差し出したチロルチョコを、礼を言って受け取る。

 今日だけでなくいつものことだが、彼女は捜査一課みんなへの差し入れとは別に、誠一にだけ小さなお菓子を用意している。そして、誠一がいないときはそのお菓子にメモをそえて机に残していくのだ。メモといっても、お仕事がんばってください、あまり無理しないでくださいね、など他人に読まれても差し支えのない程度のものである。

「相変わらず懐かれてるなぁ」

「南野だけうらやましいよ」

 同僚たちは軽い調子でからかうように言う。

 澪に好きだと告白されたことは自分ひとりの胸だけにおさめてある。誰にも言っていないし言うつもりもない。なので、本当にただ懐かれているだけとしか思われていないだろう。このとびきり可愛い財閥令嬢が、まさか誠一を男性として好きになるなど誰も思いもしないはずだ。まだ高校生ということを考えればなおさらである。誠一とはひとまわりも年が離れているのだから。

 覚悟してくださいね??彼女にそう言われたときはどうなることかと思ったが、こんな感じのちょっとしたコンタクトが続いているだけである。彼女にもそれなりの思慮分別はあるらしく、誠一が好きだとあからさまに周囲に悟られるような言動はとらない。せいぜいが小さなお菓子とメモくらいである。

 彼女の可愛らしいアプローチを微笑ましく思う一方で、困惑もしていた。十六歳になっても気持ちが変わらなかったら、と条件を出したのは、それまでに気持ちが変わるだろうと見越してのことである。あれほどささいなことで初対面の人を好きになれる彼女なら、高校生になって新しい出会いがあれば、また別の人を好きになるのではないかと思ったのだ。そうでなくても、充実した高校生活で誠一のことなど忘れてしまうのではないかと。なのに??めったに会えもしないのに一向にあきらめる気配はない。あれからもう三ヶ月が過ぎている。彼女の誕生日は九月の終わり頃だと聞いているので、十六歳になるまでは残り三ヶ月もない。

 そもそも十六歳というのが失敗だった。話の流れで深く考えずにそう言ってしまったが、当然ながら十六歳の子と付き合うのも大問題である。条件をつけるなら「高校を卒業しても」とするべきだったのだ。とはいえ、さすがにそれでは彼女が納得してくれなかっただろう。誠一でも三年は長いと思うのに、まだ年若い彼女にはあまりにも現実味のない話になる。

 どうせ断ることになるのなら、先延ばしせずに最初から断っておけばよかった。健気な姿を見せられると情が移ってよけいに断るのがつらくなる。こんなはずではなかったのに??。

「澪ちゃん、お茶いれようか?」

 背後から、マフィンの袋を持った同僚がふと思い立ったように声をかけた。

 彼女はすこし驚いたように振り返り、逡巡する。

「ん……いいです、もう帰りますね」

「そんなに遠慮しなくてもいいのに」

「いえ、宿題もありますから」

 明るく笑顔を見せながらそう答えると、誠一に向き直る。

「それじゃあね、南野さん」

「ああ、気をつけて」

 彼女は一礼し、みんなに手を振りながら出て行った。

 彼女が長居をせずに帰るのはいつものことだ。彼女なりに気を遣っているのだろう。大きな事件が起こって慌ただしかったときなどは、受付に差し入れを預けるだけで帰ったこともある。しかし??。

「財閥令嬢だかなんだか知らないですけど、いい気になりすぎじゃないですかね」

 あからさまな嫌悪をにじませた声。それが向かいに座る佐川のものだということは、すぐにわかった。ほかの同僚からちらりと聞いていたのだが、彼はこの状況をこころよく思っていないらしい。捜査一課の中ではいちばん年が若く、それゆえかいちばん頭が固く、どうにも融通の利かないところがあるのだ。

「そうかぁ? あのくらいかわいいもんだろう」

「邪魔にならないように気を遣ってますしね」

「高校生にしてはしっかりした子だよ」

 岩松警部補や同僚たちが口々に彼女のことを擁護するが、それがますます癪に障ったようだ。眉をしかめて苛ついたように語調を強める。

「そもそも来ること自体が邪魔なんですよ」

「別に俺は全然邪魔だなんて思ってないけどな」

「むしろ澪ちゃんが来てくれるとやる気が出るし」

「差し入れもありがたいですよ」

「なんだかんだ言って財閥令嬢だからでしょう」

 佐川が鋭い目つきで一刀両断すると、岩松警部補は軽く苦笑した。

「まあ、それもないとは言わんがな」

 実際、彼女が特に用もないのに来ることを許されているのは、橘財閥の令嬢だからだろう。捜査一課長からも機嫌を損ねないようにと念押しされている。

 しかし、それを抜きにしても捜査一課のほとんどが彼女の来訪を歓迎しているのだ。娘や妹のように可愛がるものもいれば、ファンを公言するもの、目の保養にしているもの、差し入れを楽しみにしているものなどさまざまである。もちろん特段歓迎していないものもいるが「まあいいんじゃないか」というスタンスで、露骨に反発しているのは佐川くらいである。

「そんなカリカリするなよ」

「お手洗い行ってきます」

 ダン、と机を叩きつけるようにして立ち上がり、佐川は肩をいからせつつ大股で部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、岩松警部補たちは肩をすくめたり苦笑したりしている。ただ、誠一だけは席に座ったまま終始無表情を保っていた。そして彼女からもらったチロルチョコに目を落とすと、そっと包みを開けて口に放り込んだ。

 

 それからしばらくは変わらない日々が続いていた。

 しかし、猛暑日が続くようになったあたりから、彼女がぱったりと姿を見せなくなった。最初のうちはどうしたんだろうと不思議に思うくらいだったが、二週間をすぎたあたりからさすがに気がかりになってきた。夏休みなので単に旅行に行っているだけかもしれない。あるいは進学校なので宿題や補習が大変なのかもしれない。しかし、誠一への興味がなくなったということも十分に考えられる。

 それならそれで構わない。もとよりそうなることを望んでいたのだから願ったり叶ったりだ。できればひとこと言ってほしかったという気持ちはあるが、好きじゃなくなった、などなかなか相手に告げられることではないだろう。これですべてが丸くおさまったのかもしれない??そう思う一方で、心にぽっかりと穴が空いたような物寂しさも感じていた。

 パソコンで書類を作成しながら無意識に溜息がこぼれる。屈託のない明るい笑顔、ぱっちりとした大きな目、すらりとしたきれいな手、凛として澄んだ声、ほのかに漂う甘い香りなど、彼女にまつわるさまざまなことが頭から離れない。

「澪ちゃん、どうしたんだろうな」

 まるで誠一の思考を見透かしたかのようなその言葉に、心臓がドクンと跳ねた。キーボードを打つ手を止めて隣に振り向くと、いつからなのかこちらに視線を流していた同僚と目が合った。

「南野、おまえもさみしいんじゃないか?」

「ええ、まあ……」

「おまえ懐かれてるわりにはそっけないよなぁ」

「そんなつもりはないですけど」

 そっけない、というのは今だけでなく普段のことも言っているのだろう。同僚たちが彼女についてあれこれ楽しそうに話していても、その輪には入らず遠巻きに聞いていた。彼女と話すときも親しげになりすぎないよう注意していた。彼女に告白されているなどと気付かれたくないからだ。

「夏休みだからバカンスじゃないですかね」

 目をそらしながら、ありうるひとつの推測を何気ない調子で返す。

「ああ、沖縄とか軽井沢とか?」

「海外の避暑地かもしれんぞ」

 斜め向かいに座っていた岩松警部補が、ニッと白い歯を見せて話に割り込んできた。すると、コーヒーを淹れて戻ってきた別の同僚も言葉を継ぐ。

「案外彼氏ができたのかもしれませんよ?」

「あー……」

 何人かが同時に溜息まじりの声を落とし、見るからに残念そうな顔になる。

「澪ちゃんくらい可愛ければ、男が放っておかないだろうな」

「高校生になって新しい出会いもあったでしょうしね」

 彼らの言葉を聞きながら、誠一は無表情をよそおって再びキーボードを叩き始めた。誠一に興味がなくなったというのを通り越して、彼氏ができたというのも十分にありうる話だ。むしろその方がしっくりくる。しかし、好きだと言ってくれた彼女が心変わりしたのだと思うと、すこし落胆もしていた。そんな資格がないことはわかっているのだが。

「まあ、そのうちひょっこりと姿を見せるんじゃないか?」

 岩松警部補は場を明るくするように軽く笑いながら言う。だが??。

「もう来ないと思いますよ」

 今まで沈黙していた佐川が、パソコンの画面に向かったままさらりと言った。

 その場にいた全員がいぶかしげに顔を曇らせて彼に振り向く。

「おまえ、何か知ってるのか?」

「あの子に言ったんですよ、邪魔だからもうここには来ないでくれって。そうしたら神妙な顔でこれで最後にしますって。やりたい放題のわがままお嬢様かと思いきや、意外と聞き分けは良かったですね」

 佐川は平然と答える。

 そういえば半月ほど前、佐川ひとりを残してみんな出払っていたときがあった。彼女が最後に来たのはそのときだ。信じたくはないが彼の言っていることには信憑性がある。岩松警部補は顔をしかめて頭をかき、ほかの同僚たちは苦々しく佐川を見たが、誠一だけは下を向いて奥歯を噛みしめた。

 ??ダン!!

 堪えきれず机を叩きつけるようにして立ち上がり、その手をぎゅっと握り込んだ。力を入れすぎて腕が震える。いつも温厚な誠一らしからぬその様子に、まわりは目を見開いて唖然とした。

「南野?」

「……お手洗いに行ってきます」

 首が折れそうなほどうつむいたままどうにかそう告げると、小さく一礼して部屋をあとにした。

 

 ガゴン??。

 誠一は自販機から缶コーヒーを取り出し、吐息を落とす。

 さよならのメモひとつ残さずに来なくなったということは、よほどショックを受けたのだろう。ひそかに泣いたかもしれない。あの屈託のない笑顔を曇らせてしまったかと思うと、胸がギリギリと締めつけられるように痛む。

 勝手なことを言った佐川にたいして腹立たしく思う気持ちもあるが、それより何より自分自身が許せなかった。最初からきっぱりと断ればこんなことにはならなかったのだ。彼女に納得してもらうために条件を出したつもりだったが、断りづらくて逃げていただけなのかもしれない。結局のところ自分のことしか考えていなかったのだろう。

 しかしながら今となってはどうすればいいのかわからない。彼女と連絡をとるすべさえないというのに。いや、高校の前で待ち伏せをすれば会えるかもしれないが、彼女の想いを受け入れられない以上、謝罪したところであらためて傷つけるだけのような気もする。それなら、いっそこのまま会わない方がいいのではないか。

 自販機の横の長椅子に腰を下ろすと、缶コーヒーのプルタブを静かに起こして口に運ぶ。気のせいか、いつものコーヒーがやけに苦く感じられて眉を寄せた。

 

-5ページ-

いつか恋になる - 十六歳の誕生日

 

 夏が終わり、幾分か過ごしやすい気候になっても、澪が警視庁を訪れることはなかった。

 そして誠一の方もまた何の行動も起こせずにいた。会って謝罪することが彼女のためになるのかと、ただの自己満足ではないのかと、悩み続けたまま身動きがとれなかったのだ。最後に会ってからすでに二ヶ月以上経過しているが、今でも気が付けば彼女のことを考えている。無邪気に誠一を振りまわし、かき乱し、いなくなってしまった少女??いろいろな意味でとても忘れられるものではない。

 もしかしたら、彼女の方はもうとっくに誠一への思いを断ち切り、前向きに高校生活を楽しんでいるのかもしれない。ほかに好きな人ができているかもしれない。それどころか彼氏がいても何の不思議もない。そんなふうに思いをめぐらせるだけで胸がもやもやとする。

 どのみち彼女と付き合うつもりはなかったのだから、彼女に好きな人ができようが彼氏ができようが気にするのはおかしい。頭ではわかっていても心がついていかない。今まで告白されたことなど数えるほどしかなかったので、好きだと言われて無自覚に舞い上がっていたのかもしれない。だからこんなに引きずってしまうのだ。

「南野、あんまぼうっとしてるなよ」

「あ、はい」

 岩松警部補に声をかけられて我にかえった。

 仕事をしている最中は気を引きしめているつもりだが、今は聞き込みを終えて警視庁に戻るところである。こういうときはつい気が緩んで、勤務時間中にもかかわらず彼女のことを考えてしまう。先ほどから何度かほかの通行人にぶつかりそうになっていた。

「最近、心ここにあらずって感じだな」

「…………」

「仕事には影響のないようにしろよ」

「はい、気をつけます」

 仕事中はいつも行動をともにしているのだから見抜かれても不思議ではない。しかし、口うるさくない彼があえて注意したということは余程ひどかったのだろう。このままではいずれ取り返しのつかないミスをしてしまうかもしれない。彼女と出会ったあのときのように。

 もういいかげん気持ちに区切りをつけるべきだとは思っているが、それができないから苦労しているのだ。自分の心なのに自分の思うようにならない。薄い筋雲のかかるどこかくすんだ青空を見上げながら、目を細めて溜息をついた。

 

 まさか??。

 警視庁の近くまで来ると、歩道の端に見覚えのある制服を着た少女が立っていることに気付く。一瞬、信じられなかったがまぎれもなく澪だ。ドクンと大きく心臓が脈打つ。彼女も誠一たちに気付いたらしくぺこりと頭を下げた。

「おう、澪ちゃん!」

「お久しぶりです」

「元気にしてたか?」

「はい」

 いったいどうして彼女がここに??誠一が混乱している隣で、岩松警部補がにこやかに澪と挨拶を交わした。彼女の頭にぽんと大きな手をのせる。

「高校生活は楽しんでるか?」

「はい、勉強は大変ですけど学校は楽しいです」

「さては彼氏でもできたな?」

「彼氏はいません……でも、好きな人はいます」

「いいね、青春だ」

 岩松警部補が笑い、彼女も笑う。

 だが、誠一はいっしょに笑うことができずに視線を落とす。彼女は好きな人がいると明言したが、話の流れからすると同じ高校にいるということではないか。誠一の方にすこしも目を向けないことが、それを裏付けているような気がした。

「で、今日はどうしたんだ? 誰か待ってるのか?」

「はい、南野さんにお話があって来たんですけど」

「南野?」

 急に自分の名前が出てきてはじかれたように顔を上げる。目が合うと、彼女はきまり悪そうにぎこちない笑みを浮かべた。これは告白のけじめをつけに来たということだろうか。思わず顔がこわばるが、これでようやく気持ちに一区切りつけられるかもしれないと思う。

「それならこんなところで待ってないで、捜査一課を訪ねてくれればよかったのに……って、ああそうか……すまなかったな、何か佐川が余計なことを言ったみたいで」

 岩松警部補は話しながら気付いたようで、顔をしかめて頭をかいた。

 彼女はこころなしか自嘲めいた笑みを浮かべて肩をすくめる。

「いえ、私もそうかなってちょっと思ってましたから」

「いやいや、佐川以外はみんな歓迎していたんだぞ?」

「そうだったらいいんですけど」

 あまり信じていない様子の彼女に、岩松警部補は優しい目を向ける。

「気が向いたらでいいがまた顔を見せてやってくれ、佐川のいないときにでも。みんな澪ちゃんのことを結構心配してたからな。南野なんか、澪ちゃんのことで頭がいっぱいで使いものにならなかったくらいだ」

「ちょっ……岩松さん……!」

 誠一は顔が熱くなるのを感じながらあたふたとする。そこまで察しがついていたのか、あてずっぽうなのかはわからないが、彼女の前でこんな誤解を招くような言い方をされては困る。これではまるで自分の方が恋をしているみたいだ。

「南野、おまえ澪ちゃんと喫茶店でも行ってこい」

「あ、はい……」

 そういえば彼女は誠一に話があって来たのだと言っていた。岩松警部補がどういうつもりなのかはわからないが、こんな往来でする話でもないような気がするし、まして捜査一課の同僚たちに聞かれても困るので、そうするのがいいだろうと思う。

「じゃあ、澪ちゃん行こうか?」

 そう声をかけると、彼女はあわてて両手をふるふると横に振った。

「いえ、お仕事が終わってからでいいです」

「俺がいいって言うんだから気にするな」

 誠一より先に岩松警部補が答えた。じゃあな、と手を上げて警視庁へ戻っていく。

 残された誠一がちらと隣に目を向けると、彼女も遠慮がちにこちらを窺っていた。互いにきまり悪そうにはにかむ。彼女にもう一度「行こうか」と声をかけて頷き合ったあと、二人並んで歩き出した。

 

 二人はこのまえと同じ喫茶店に入った。

 どういうわけか相変わらず客が少なくひっそりとしているが、これからする話のことを考えるとその方がありがたい。ただ、客が少ないぶん店員に注目されてしまうのは避けようがない。カウンターの中にいる男性店員は無関心な素振りを貫いているが、ウエイトレスはちょくちょく好奇の目を向けてきている。半年前も同じ店員だったので、おそらく澪が告白したときのことを覚えているのだろう。

「ケーキもおごるよ」

「いいんですか?」

「俺も食べたいから」

 そう言い、二人ともそれぞれケーキと飲み物を選んで注文する。本当は佐川の件に対するお詫びのつもりだったが、押しつけがましいような気がしてそう言えなかった。こんなことを蒸し返しても嫌な気持ちにさせるだけだ。それならいっそ何も言わずに喜んでもらった方がいいだろう。

 注文したものが来るまでのあいだ、肝心なことは避けつつ学校や夏休みのことを訊くと、彼女はくるくると表情を変えながら語ってくれた。夏休みといってもなぜか普通に授業があったりして、本当に休みになる日は少ないらしく、しかも結構な量の宿題があるので大変だったとか。それでも一週間ほど兄とともに長野の別荘へ行っていたとか。その別荘での出来事なんかもあれやこれやと聞かせてくれた。

 耳を傾けて相槌を打ちながら無意識のうちに心がはずんでいく。彼女と話をする、ただそれだけのことがどうしてこんなにも楽しいのだろう。話していて楽しいから好きになったと彼女は言っていたが、何となくわかるような気がしてきた。誠一も恋愛感情ではないにしろ好意を持っている自覚はある。あと三年早く生まれてくれていたら付き合えたのに、とどうにもならないことを考えて心がざらつくのを感じた。

 ケーキと飲み物が運ばれてきて、誠一はコーヒーに口をつけてショートケーキにフォークを入れる。彼女も嬉しそうにガトーショコラを口に運ぶと、おいしいです、とあのときと同じようにほわりと頬をゆるめた。その笑顔に、誠一は罪悪感を刺激されてそっとフォークを置く。

「ごめんな、澪ちゃん」

「えっ?」

 彼女はぱちくりと瞬きをして、顔を上げる。

「十六歳になっても気持ちが変わらなかったらなんて言ったから、俺に会うために警視庁に来るようになったんだろう? 学校帰りに面倒だったよな。澪ちゃんの時間をずいぶん無駄に使わせてしまったし、そのうえ嫌な目にも遭わせてしまって……本当に申し訳ない」

「そんな、むしろ私の方こそみなさんにご迷惑をおかけして申し訳ないなって」

「澪ちゃんのことは、みんな……佐川以外は迷惑だなんて思ってなかったよ」

 それは慰めではなく事実である。

 彼女は戸惑ったように顔を曇らせたが、岩松さんも言ってただろう? と畳みかけると曖昧に笑みを浮かべた。

「私、南野さんに会いに行ったことを面倒だとか無駄だとか、そんなふうに思ったことは一度だってありませんよ? ほんのすこしでも会えたらすごく嬉しかったし、会えなくてもメモを残すことがすごく楽しかった。たとえ報われなかったとしても、私にとってあの時間を過ごせたことはとても素敵な思い出です」

 やわらかく微笑みながら淡々とそう語った彼女を見て、誠一はわずかに視線を落とす。あの日々は彼女の中ではもう過去になっていた。わかっているつもりだったが、あらためて思い知らされると寂しい気持ちになる。

「私、今日で十六歳になりました」

「え……ああ、誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」

 一瞬ドキリとしたものの、どうにか平静をよそおい落ち着いて受け答えした。そういえば誕生日は九月の終わりごろだと聞いていた。けじめをつけに来たのだろうとは思っていたものの、なぜ今なのかすこし不思議だったが、十六歳になったからだとすればこのうえなく腑に落ちる。

 彼女は静かにフォークを置いて真顔になると、背筋を伸ばして誠一を見つめる。

「私、気持ちは変わりませんでしたよ」

「えっ?」

「会えないあいだもずっと好きでした」

 好きって……えっ……?

 予想とは真逆のことを言われてわけがわからず目を瞠った。どくどくと鼓動が激しくなっていく。もう心変わりしたものとばかり思い込んでいたが、その憶測はまったくの的外れだったということだろうか。だとすれば、彼女が誠一に会いに来た理由はただひとつ??。

「つきまとうのは今日で最後にします。だから、もう一度だけ考えてもらえますか?」

 そう前置きすると、彼女は一呼吸していっそう真剣な顔になる。

「南野さん、好きです。私と付き合ってください」

「…………」

 薄紅色の小さく愛らしいくちびるから紡がれたのは、半年前のあのときと同じ言葉だった。全身にじわりと汗がにじむ。あせりで頭はまともに働かない。しかしながら目の前で彼女が返事を待っているという重圧に、考えのまとまらないまま急き立てられるように口をひらく。

「澪ちゃん……澪ちゃんの気持ちは本当に嬉しく思ってる。俺なんかのことを好きだなんて言ってくれて。でも……自分から条件を出したのに申し訳ないんだけど、十六歳ってやっぱり問題で……」

「そんなの納得できません」

 彼女は怒りを抑えたような低い声で遮ると、眉をひそめて誠一を睨む。

「私のことが好きじゃないならあきらめますけど、年齢を理由に断られるなんて納得いかないです。十六歳まで待ったんですよ? 十六歳なら結婚だってできるのに恋するのはいけないんですか? 好きになったひとが大人だったらあきらめないといけないんですか? 意味がわからないです。だったらもういっそ結婚してください!」

「ちょっ……! 澪ちゃん落ち着いて」

 瞳を潤ませながら暴走する彼女に驚き、腰を浮かしてあたふたとなだめる。彼女はすぐ我にかえり、しゅんとうなだれてごめんなさいと口ごもると、いまにも泣きそうな顔で自嘲の笑みを浮かべた。

「断るなら嫌いだと言ってください。年齢を理由にされるのはもう嫌です」

「澪ちゃん……」

 彼女の切実な思いが胸を衝いた。

 しかしながら嫌いでもないのに嫌いとは言いたくない。嘘でも言ってあげるのが優しさかもしれないが、それでも言いたくない。もしもほかに何か解決策があるのなら??目を伏せて膝にのせたこぶしを握りしめながら、必死に考えをめぐらせる。

 息の詰まりそうな重い沈黙が続いた。

 踏ん切りをつけるように奥歯を食いしばってようやく腹を括ると、ゆるやかに頬を伝う汗を拭いもせず、ゆっくりと顔を上げて真正面に座する彼女を見つめる。少しも目をそらすことなく、真剣に、真摯に、まっすぐに。

「付き合おう」

「えっ?」

 彼女は意表を突かれたようにきょとんとした。誠一はふっと微笑んで言葉を継ぐ。

「仕事が不規則だから毎週は会えないと思うけど、それでもいいなら付き合おう。ただ、やっぱり世間的にはまずいから内緒にしてもらえると助かる」

「……はいっ!」

 涙を溜めたまま、彼女はこれ以上ないくらい顔を輝かせて頷いた。

 その嬉しそうな様子に誠一は目を細める。付き合おうと決めたのは、健気で一途な気持ちに絆されたからに他ならない。もちろん多少のリスクを負ってもいいと思うくらいには彼女を好きになっていたのだが、それはあくまでも恋愛感情とは別物である??そんなことを思いながらも、ほんのすこし浮かれる気持ちを自覚していないわけではなかった。

 

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いつか恋になる - 本当の恋人に

 

「誠一!」

 まだ若干の肌寒さが残る春先の陽気の中、待ち合わせ場所である駅の東口で壁に寄りかかっていると、澪が手を振りながら軽やかな足取りで駆けてきた。

 ただでさえ際立った美少女がはずむように黒髪をなびかせるので、まわりの注目を集めるが、気付いているのかいないのか彼女はまるで意に介していない。フリルのついた薄手の白ブラウスに茶色のリボンタイ、淡いシェルピンクのカーディガン、茶色っぽいチェック柄のふわりとしたミニスカート、後頭部にはやわらかいベレー帽という格好をしている。中でもスカートからすらりと伸びる健康的な脚がひときわ目をひく。

「待たせちゃった?」

「いま来たところだよ」

「本当?」

「本当」

 小首を傾げて覗き込んできた彼女に、にっこりと答える。

 今日は久しぶりのデートだ。澪と付き合うようになって半年ほどになるが、まだ数えるほどしかデートをしていない。高校生なので夜に会うわけにもいかず、休日もなかなか合わないので、普段は電話ですこし話をするだけである。月に二回会えればいい方だ。それでも彼女は不平不満を口にすることもなく、ただ次に会える日を心待ちにしてくれている。

 両親が仕事でめったに家に帰らないという家庭環境なので、仕事が理由で会えないことには理解があるのかもしれない。というより、彼女の中ではそれが当たりまえになっているのかもしれない。誠一からすればありがたいが、彼女の境遇を思うとやはり複雑な気持ちにはなる。

 ちなみに警視庁への差し入れはあのあと一度だけしか行っていない。もう行くつもりもないようだ。そもそも目的を達成した今となっては行く必要がないし、誠一とのことを内緒にするのも大変だからと言っていた。確かに彼女に嘘をつかせるのは難しそうだと感じていたので、誠一もその方がいいだろうと賛成した。

「行こうか」

「うん」

 澪は嬉しそうに頷き、誠一を見つめながら自然に手を繋いでくる。

 付き合い始めた当初から、彼女はためらいなく手を繋いだり腕を組んだりしてきた。誠一の方が驚いてしまったくらいだ。もちろん嫌な気はまったくしない。ただ、やけに慣れているのが気になって尋ねてみたが、今まで彼氏がいたことはないと言っていた。それどころか、好きになったのも誠一のほかには一人だけだと。

 自分が澪の初めての彼氏なのかと思うとこそばゆい気持ちになる。だが、手を繋いでも腕を組んでもあまり恋人だという実感はない。彼女が見た目よりも幼くて無邪気だからだろうか。たとえるなら可愛い姪のおでかけに付き合っているような感覚だ。

 そういうわけなので手を繋ぐ以上の進展はない。誠一も男なので期待する気持ちがまったくないわけではないが、手を出すべきでないことは承知している。いくら恋人であってもまだ十六歳なのだ。間違いを起こさないようにしなければならない。だが、今のところはそういう雰囲気になる気配さえない。すこし残念に思いながらもほっとしていた。

 今はこのままの関係を続けていけばいい。もし澪が高校卒業してもまだ続いていれば、そのときは??うっかりそんなことを考えてしまったが、あまりにも可能性の低い想像に自嘲する。彼女がいつまでも誠一を好きでいてくれるとはとても思えない。付き合っていれば、いずれ何の面白みもない人間であることはわかってしまう。住む世界が違いすぎるということも。彼女の目が覚めるのもそう遠い未来ではないだろう。せめて、それまではこうやって楽しい時間を過ごしたい。そのくらいのことを願ってもバチは当たらないはずだ。

 誠一は隣を歩く彼女に目を向けることなく、繋いだ手にそっと力をこめた。

 

 まずはシネコンで澪が観たいと言っていたSF映画を観て、そのあと近くの洋食店で昼食をとった。パスタ料理やピザといったイタリア料理をメインとした店である。外観も内装もそれなりにきれいで雰囲気のあるところを選んだつもりだ。料理の方はどうなのかわからないので不安だったが、なかなかおいしい。彼女も気に入ってくれたようでとりあえずは安堵する。

 その後の予定は何も考えていなかった。ウィンドウショッピングでもしてカフェに入るというのが定石だろうか。それともせっかく春めいてきたのだから外を歩く方がいいだろうか。洋食店を出て、何とはなしに目の前の雑踏を眺めたまま隣の彼女に尋ねる。

「どこか行きたいところある?」

「んー……じゃあ、誠一の家!」

「却下」

 えー、と澪は思いきり不満げな声をもらすが、断られることは最初からわかっていたはずだ。そう言うたびに誠一がにべもなく断ってきたのだから。

「部屋が汚いから?」

「そうだよ」

「私、気にしないよ?」

「俺が気にするの」

 澪はぷくっと頬を膨らませるが、折れるわけにはいかない。

 とても大財閥のお嬢さまを呼べる部屋ではない、というのも確かにあるが、それよりもっと重大で切実な理由がある。密室で澪と二人きりになって理性を保てる自信がないのだ。実際にはおそらく何も起こらないだろうと思っているが、絶対とは言い切れない。少しでも危険があるのなら避けた方がいいという判断である。

「せっかく春になったんだから、公園でも歩こうか」

「うん!」

 澪の機嫌は一瞬で直り、屈託のない笑顔ではしゃぎながら腕を絡ませてきた。誠一もつられてくすりと笑い、腕を組んだまま彼女とともに駅へと歩き出した。

 

 地下鉄で数駅移動してそこから十分ほど歩き、公園へとやってきた。

 彼女には言っていないが、実は誠一の住んでいるアパートのすぐ近くである。何度も前を通っているので存在は知っていたが、有料ということで一人で行く気にはなれず、入ったのは今日が初めてだった。

 穏やかな陽射しを浴びながら二人並んで歩く。特にこれといって何かがあるわけではないが、緑と水が豊かで、花もたくさん咲き、自然散策にはもってこいの場所である。色鮮やかな菜の花が一面に広がるさまは圧巻だった。澪もすごいと感嘆の声を上げてはしゃいでいた。桜の樹も植わっているが、花を咲かせる時季にはすこし早かったのが残念だ。

「こんなふうにのんびり自然を見るのもいいね」

「桜が咲いたらまたどこか行こうか」

「うん! 私は春休みだから誠一が休みのときに」

 散策路をひとまわりしたあと、二人で池を眺めながらそう言って笑い合った。そのとき、澪がふと手のひらを上に向けて、不思議そうな顔で上空を見つめる。

「あれ、雨かなぁ?」

「え、晴れてるみたいだけど……」

 そう言いながら、彼女につられて顔を上げたらぽつりと水滴が当たった。上空では鈍色の雨雲が急速に広がって太陽を覆い隠し、ぽつりぽつりと大粒の雨粒が落ちてきたかと思うと、一気にバケツをひっくり返したような土砂降りになった。

「きゃあ!」

「澪、こっちだ!」

 向こうの方に屋根つきの休憩所があったことを思い出し、彼女の手を引いて走り出す。しかし着いたときにはもうずぶ濡れになっていた。避難してきたほかの人たちも似た状況のようだ。晴れていたのに一瞬で土砂降りになるなど、誰も予想できない。

「もう、何なのこれ……びしょびしょ」

「俺も……」

 苦笑しながら澪に目を向ける。その瞬間、驚きのあまり彼女のカーディガンを引っ掴み、それを勢いよく胸元で掻き合わせた。彼女はわけがわからず困惑した目をしているが、誠一は黙ったままボタンをはめていき、ほかの人には聞こえないくらいの声でぼそりと告げる。

「透けてた」

「えっ?」

 カーディガンの下は薄いブラウスだけだったようで、雨に濡れて張りつき、下着がはっきりと透けて見えていたのだ。彼女はきょとんとして何のことだかわかっていない様子だったが、一拍してすぐに察したらしく、恥ずかしそうに赤面しながらうつむいて「ありがとう」と口ごもる。

 どうなることかと思ったが、通り雨だったようで五分ちょっとで上がり、再び雲の切れ間から太陽が姿を覗かせた。しかし、すでにずぶ濡れでだいぶ体が冷えている。誠一でもそう感じるのだから、薄着の澪はもっと寒いだろう。あちこちから雫が滴り落ちるほどのこの状態では、店に入るのもタクシーに乗るのも躊躇してしまうし、乾くまで待っていたら風邪をひいてしまいそうだ。

「澪」

「ん?」

 ぼんやりと空を眺めながらハンカチで顔を拭っていた澪が、手を止めて振り向いた。髪から顔に雫が滴り流れるさまがやけに艶っぽく見える。一瞬ドキリとしたが、表情には出すことなく努めて冷静な口調で尋ねる。

「うち、この近くなんだけど……来る?」

「えっ、いいの?」

 家には入れないと決めていたが、この状況でそれを貫けるほど非情ではない。

「このままじゃ寒いよね」

「……じゃあ」

 澪はえへっとすこしきまり悪そうに笑い、肩をすくめた。

 自分さえしっかりと理性を保っていれば何も問題はない。誠一は自らにそう言い聞かせながら、すっかり冷たくなった彼女の手を引いて自宅へと歩き出した。

 

「へぇ、結構きれい!」

 居間に入るなり、澪はパァッと顔をかがやかせて感嘆の声を上げた。

 彼女には部屋が汚いからと理由をつけていたのだが、実際はそうでもない。広くも新しくもないが普段から片付けるようにはしているし、それなりに掃除もしている。もともと物が少ないのですっきりしているのもあるだろう。ほぼ必要最低限のものだけだ。基本的に来客がないのでもてなすためのものも置いていない。

「体冷えたしシャワー使うよね?」

「うん」

 澪はきょろきょろと興味深げに部屋を見回しながら返事をする。この部屋には見られて困るようなものは置いてないはずだ。寝室には多少あるが、引き出しなどにきちんとしまってあるので大丈夫だろう。そう頭の中で確認してから寝室に向かうと、案の定、彼女がひょっこりと首を伸ばして覗き込んできた。遠慮がちながらも好奇心を隠せない様子で。誠一はカラーボックスの引き出しを開けながらくすりと笑う。

「タオルとかドライヤーとか洗面所に置いてあるものは使っていいよ。濡れた服はハンガーに掛けておいてくれる? 乾くまで着るものを貸すけど……俺のTシャツくらいしかないんだけどいいかな?」

「うん、ありがとう」

 その返事を聞き、畳んであった黒の長袖Tシャツを取って引き出しを閉めると、扉のところで待っていた彼女に手渡して風呂場へ案内した。

 

 Tシャツを貸したがそれだけでは寒いだろうと思い、エアコンを入れる。

 誠一もまだ濡れた服を着たままで体が冷えていたらしく、暖かい空気を感じるとほっとした。とりあえず先に服だけ着替えてクッションに座る。体を温めたいしさっぱりもしたいので、彼女のあとでシャワーを浴びてこようと思う。

 そう、澪がいまシャワーを浴びているのだ??風呂場から聞こえるかすかな音に耳を傾けながら、つい湯煙の中にいる彼女の姿を想像してしまう。我にかえると、煩悩を振り払うようにぶるぶると頭を横に振り、大きめの音量でテレビをつけて新聞を読み始めた。

 

「お風呂ありがとう」

「ん……」

 扉の方から澪の声が聞こえたので、新聞を置きながら曖昧な返事をして振り向いた。

 その瞬間、視界に飛び込んできた衝撃的な光景に息を飲む。

 澪がどういうわけかTシャツだけしか着ていなかったのだ。さすがにパンツははいているだろうが、スカートをはいていないしタオルも巻いていない。Tシャツから直にすらりとした生足をさらしている。誠一は日本人男性として平均的な体格なので、Tシャツもそう大きくなく、裾の長さは彼女の股下ギリギリである。座ったら間違いなくパンツが見える丈だ。

「エアコンつけてるんだ。あったかいね」

「ああ……俺もシャワー浴びてくるから」

「うん」

 彼女の格好について言うべきことや対処すべきことがいろいろとあったはずなのに、混乱のあまり言及すらできなかった。ただ頭がまっしろになったまま不自然なくらい冷静にそう告げて、立ち上がった。

 

 風呂場に入ると、澪の衣服に混じってブラジャーもハンガーに掛けてあった。むきだしのまま隠そうともしないで。いやまあ濡れていたからだというのはわかるが。思わず額を押さえてハァと吐息を落とし脱力する。

 濡れた服をハンガーに掛けろと言ったのは誠一だ。しかしこの件といいTシャツ姿といい、恥じらうでも戸惑うでもなく平然としているなど、何を考えているのかさっぱりわからない。あまりにも無防備すぎる。誰にでもではなく、心を許している相手にだけそうなのだと思いたい。

 ただ、誠一の方もいささか配慮が足りなかったかもしれない。スカートや下着まで濡れていることに思い至らなかったのだから。今からでもズボンか何か貸した方がいいのだろうか。ウェストを紐で調節できるジャージなら彼女にもはけるだろう。しかし、今さらというのもタイミング的におかしいのではないか。いや、この危機的状況でそんなことを言っている場合ではない。

 まずは落ち着こうと、さまざまな雑念を洗い流すように熱いシャワーを浴びた。そして濡れた服を少しでも早く乾かすべく除湿器をつける。夕方までには乾いてくれるだろうか、最終的にドライヤーで乾かせばいいか、などと現実的な問題を考えているうちに、次第に平常心が戻ってきた。

 

 君は、いったいどれだけ俺の理性を試す気なんだ??!

 居間に戻ると、澪がクッションに頭をのせて猫のように丸まって寝ていた。あどけない寝顔はとても可愛らしいが、パンツは当然のように丸見えだ。それどころか背中までちらりと覗いている。またしても額を押さえてうなだれ、そのまま何度かゆっくりと呼吸をしてどうにか気持ちを整える。

「澪、こんなところで寝ると体が痛くなるよ」

 誠一もここで寝てしまうことがあるが、フローリングの上に薄いラグを敷いてあるだけなので固くて体には良くない。膝をついて覗きこみながら声をかけると、彼女は小さく身じろぎして震えるまぶたを開いた。ぼんやりと誠一を眺めながら眠そうな目をこする。

「そんなに眠いならベッドですこし寝る?」

「ううん、せっかく誠一といるんだもん」

 そう答えて、寝転んだままえへっと可愛らしく笑う。

 誠一は思わず目をそらしてその場に腰を下ろしたが、彼女も起き上がりピタリと体を寄せて座ってきた。互いの肩と腕が触れているというか、寄りかかられていような気がする。衣服越しにほのかなぬくもりが伝わってきた。シャンプーなのかほんのりと甘い匂いも感じる。そして、目の前には神々しいまでに白い生足がすらりと伸びていた。鼓動が次第にどくどくと速くなっていくのがわかる。

「ねぇ、誠一」

「ん?」

「キスしたい」

 その唐突な爆弾発言に、心臓が口から飛び出しそうなくらい驚いた。錆びた機械のようにぎこちなく隣に目を向ける。

「な……なに、急に……」

「そんなにおかしい? 私たち付き合ってるんだし……好きなひととキスしたいって思うのは、別に変なことじゃないよね。十六歳だからまだ早いっていうの? そんなことないんじゃない? 誠一が十六歳のころはどうだったの?」

 澪は目を伏せたまま淡々と疑問を呈する。

 とっさに返す言葉が見つからなかった。高校生のときには付き合っていた彼女がいなかったので、願望というより妄想だが、確かにそういうようなことを考えていた気がする。大人になってからよりも、むしろ中高生のころの方が欲求が大きかっただろう。澪の気持ちは理解するが、それでもやはり大人として聞き入れることはできない。

「ごめん……えっと、気持ちはわかるんだけど……」

「誠一、本当は私のことあんまり好きじゃないのかな」

「えっ?」

「断り切れなかったから仕方なく付き合ってるだけで」

「いやいや、そんなことないから!」

 あわててそう答えるものの、断り切れなかったから付き合うことにしたのは事実だ。彼女もわかっていたのだろう。だからといって仕方なくなどとは決して思っていない。すくなくとも今は。

「不安だったの?」

 尋ねると、彼女はわずかにこくりと頷く。

 今の今まで何ひとつ気付けなかった自分の不甲斐なさに、誠一は奥歯を噛みしめる。これでも一応は彼氏のつもりだ。はっきりと訴えてくることはなかったし、そんな素振りさえ見せていなかったが、それでも自分だけは何か察するべきだった。できなかったのは、きちんと彼女と向き合っていなかったからだろうか。

「……キス、しようか?」

 必死に頭を悩ませ、手に汗がにじむのを感じながら言葉を落とす。

 彼女は驚いたように顔を上げ、期待と不安のないまぜになったまなざしで曖昧に頷いた。淡雪のような頬にはほんのりとかすかな赤みがさし、大きな漆黒の瞳は不安定に揺れ、薄紅色のくちびるは誘いかけるように薄く開いている。

 これまで一度も見たことのない彼女の色めいた表情に、誠一はごくりと唾を飲んだ。かすかに震える手を伸ばして頬に触れ、ゆっくり身を屈めると、呼吸を止めてそのくちびるに口づけを落とす。一秒、二秒、三秒……とろけるような柔らかさとぬくもりで、頭の芯が痺れていくのを感じながら。

 やがて名残惜しく思いつつくちびるを離すと、吐息のかかる距離で見つめ合う。

「澪と付き合ったこと、後悔してないよ」

「うん……」

 頬を上気させ、瞳を潤ませ、声を震わせ、彼女は感極まったように幸せそうな笑顔を見せた。腕を伸ばし、首にまわしてぎゅっとしがみつくように抱きついてくる。下着も着けていないやわらかな胸が押しつけられ、Tシャツの裾からはちらりと白いパンツが覗き、誠一はカッと体が熱くなるのを感じた。そして??。

「続きも、しよ?」

 恐ろしく破壊力のある言葉を熱い吐息とともに耳元で囁かれ、頭がまっしろになった。この状況で冷静に断れるひとがいたら教えてほしい。理性の壁は崩壊してすでに陥落寸前だったが、それでもどうにかギリギリのところで踏みとどまろうとする。

「……初めて、なんだろう?」

「後悔なんてしないから」

 落とされた??もとより本心では期待していたのだから、当然のなりゆきかもしれない。二人の鼓動は重なる。誠一は彼女の背中に手をまわし、やわらかい体を腕の中に閉じ込めた。

 

 厚手のカーテンを引いているが、だいぶ陽が傾いてきているのがわかる。

 そろそろ澪を帰さなければ??誠一は隣で無防備に眠る彼女をそっと見下ろし、相好を崩す。子供のように無邪気だと思っていたら予想外の色気を醸し出し、素直で聞き分けがいいけれど譲れない部分では強情で、基本的に常識をわきまえているがたまに怖いくらい大胆で。随分と振りまわされたが、おかげで初めてきちんと彼女と向き合えた気がする。

 今日、ようやく本当の恋人になれたのかもしれない。世間的には正しくない選択だったのかもしれないが、二人にとってはこれで良かったのだと信じている。今日のことを後悔したくないし、させたくもない。たとえこの先どんな未来が待ち受けていたとしても。

 

-7ページ-

いつか恋になる - 十七歳になる君へ

 

「何かお探しですか?」

「あ、はい……彼女の誕生日プレゼントを」

 誠一がガラスケースの中に並べられたアクセサリを眺めていると、営業スマイルを浮かべた完璧な立ち居振る舞いの女性店員に声をかけられた。そのとき、自分が店の雰囲気にそぐわないことをあらためて自覚し、素直に答えながらも萎縮する。

 もうすぐ澪の十七歳の誕生日だ。そして付き合って一年になる。

 十六歳の誕生日のときはプレゼントなど用意していなかったし、付き合ってからも何もプレゼントしていないことに気付き、せっかくなので何か形に残るものを贈ろうと思い立った。さすがに指輪は重い気がするのでネックレスにしようかと考えたが、宝石やアクセサリについては何もわからないため、とりあえず女性に人気のジュエリーショップに足を運んだのである。

 店員が内心どう思っているかはわからないが、表面的には申し分なく丁寧に接客してくれた。贈る相手の年齢や外見などを自然な流れで聞き出し、誠一の希望も取り入れつつ、的確にいくつかのネックレスを提示する。決して押しつけがましくなく、だからといって事務的でもない、寄り添うようなアドバイスを添えながら。

 誠一は見せてもらった中から、澪の好みそうなシンプルなデザインのネックレスを選んだ。プラチナの細いチェーンに小さなピンクダイヤがついたものだ。チェーンも宝石も繊細で品がある。澪の白い肌にはよく馴染むのではないかと思う。

 値段はそれなりに張ったが、財閥令嬢の彼女に安っぽいものを贈るわけにはいかない。いや、彼女ならどんな安っぽいものでも喜んでくれるだろうが、これは誠一なりのささやかな決意と自己満足なのだ。ほんのすこし意地もあったのかもしれない。

 店員に丁寧にお辞儀をされながら、誠一は小さな手提げ袋を持って店を出る。そのとき??。

 

「あれ、南野さん?」

「佐川?!」

 ジュエリーショップを出た直後にばったり顔を合わせたのは、捜査一課の後輩である佐川だった。澪が捜査一課に差し入れに来ていたころ、辛辣な言葉を吐いて退けた張本人である。いつもの堅く近寄りがたいイメージとは違い、カジュアルな服をセンス良く着こなしている。そういえば彼も非番だった。誠一の出てきた店を無言でしげしげと眺めると、ショップの手提げ袋に目を向ける。

「南野さん、彼女いたんですか」

「ん……まあ……」

 この状況でいないと言うのは無理があるだろう。ここは素直に認めることにした。しかし??。

「もしかしてあの財閥令嬢ですか?」

「えっ……?」

 いきなりズバリ言い当てられ、唖然とした。

 佐川はあきれたような目で溜息をつく。

「やっぱりね」

「いや、違うから!」

「あの子、差し入れとかなんとか言いながら下心丸出しでしたもんね。職場にまで押しかけて気を引こうなんてよくやりますよ。結局、それであの子に落とされてしまったってことですか。まあなんとなくそんな気はしてましたけど」

「だから違うって」

 いくら否定しても、はなから決めつけているらしく聞き入れてくれそうにない。しかも、その決めつけが基本的に間違っていないのがまた困る。誠一の方が嘘なのに強気に主張できるほど図太くはない。どうしようか悩んでいると、佐川がふいに皮肉めいた笑みを浮かべて口をひらく。

「財閥令嬢と付き合うのも大変ですね」

「……そんなんじゃない」

 澪を侮蔑するような物言いにムッとし、素で否定した。

 佐川は吐息をついて冷ややかな視線を送る。

「他人の恋愛に口出しするつもりはないですけど、気をつけてくださいよ。南野さんがボロ雑巾のように絞られて捨てられるのは見たくないんで。俺、南野さんのことはけっこう好きですし」

 一方的に忠告したあと、右手の腕時計を確認して顔を上げる。

「そろそろ待ち合わせの時間なので」

「佐川、その……ここでのこと……」

「言いませんよ」

 口ごもる誠一の言葉を引き取り、さらりと答える。

「見つかったのが俺でよかったんじゃないですか? もうすぐ二課に異動ですから。一課には特に親しくしている人もいないですし、うっかり口をすべらせることもないと思いますよ」

 彼はかねてより希望していた捜査二課に異動することになっている。確かに捜査一課との接点がなくなれば誠一の話題も出なくなり、口をすべらせる心配もなくなるだろう。ただ、それ以前に「言わない」という彼の選択が理解できなかった。

「意外だな……君なら問題視して騒ぎ立てるかと思ったのに」

「援助交際じゃないなら構わないでしょう。俺の彼女も高校生ですし」

「……えっ……ええっ?!」

「それじゃ、これで」

 佐川はいつもより若干砕けた口調でそう言い、軽く右手を上げて立ち去った。

 誠一は驚きのあまりただ呆然とその場に佇んでいた。佐川は誠一より二つ年下だったはずだ。そう考えれば別におかしくはないのかもしれない。いや、しかしあの堅物の佐川である。高校生の恋人にどんな顔を見せるのか想像もつかない。

 だが、そういう意味では誠一も似たようなものだろう。澪と付き合っているなど誰にも想像がつかないはずだ。高校生というだけでなく財閥令嬢というさらに不相応な要素もある。おまけにひいき目なしに美少女なのだ。なんでおまえが、おまえごときが、そう言われることは目に見えていた。

 佐川の言うとおり、見つかったのが彼でまだ良かったのかもしれない。嫌味を言われはしたものの、澪に興味がないからか厳しく追及されることはなかったし、彼自身も高校生と付き合っているなら告げ口の心配もないだろう。親しくない彼と秘密を共有することに抵抗はあるが、仕方がない。

 疲れたように嘆息すると、いつのまにか頬を伝っていた汗に気付いて手で拭った。

 

 それから数日が過ぎ、澪の誕生日がやってきた。

 できれば当日にプレゼントを渡したいと思っていたが、休暇は取れなかった。ただ、今日の聞き込みは彼女の家からほど近いところなので、大きな事件さえ起こらなければ渡しに行けるかもしれない。そんなかすかな期待を胸に、ジャケットの内ポケットにプレゼントの細長い箱を忍ばせた。

 夕方、一通りの聞き込みを終えて腕時計を見ると、澪が学校から帰宅しているはずの時間だった。彼女が家にいればすぐに渡せるはずだ。戻るか、と言いながら駅に向かおうとする岩松警部補に声をかける。

「すみません、私用ですこし抜けてもいいですか?」

「どのくらいだ?」

「十分、二十分ほど……」

「わかった、俺は先に戻ってる」

「ありがとうございます」

「遅くなりそうなら連絡しろよ」

 岩松警部補もたまに私用で抜けることがあるので言ってみたが、思いのほかあっさりと許可されて拍子抜けした。私用についてすこしは訊かれるかと構えていたのに。一礼して岩松警部補と別れると、正面に見える豪邸を目指して足早に歩きながら、懐から携帯電話を取り出して澪にかける。数コールして彼女が出た。

『もしもし、誠一?』

「ああ……澪、いま家にいるのか?」

『うん、いるけどどうしたの?』

「今から少しだけ会えないか?」

『いいよ、どこへ行けばいいの?』

「今、澪の家の前まで来てる」

『ホント? じゃあ今から行くね。待ってて』

 その声を聞くだけで、彼女の嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。

 誠一は通話を切ると、屋敷横の細道に回り込んで煉瓦塀にもたれかかった。ほんのり冷たくなった秋風がさらりと頬をかすめ、頭上ではさわさわと大木の葉のこすれる音がする。郷愁に誘われるように、澪とのこれまでにぼんやりと思いをめぐらせた。

 誠一の逃がした指名手配犯を取り押さえたのが澪で、それが二人の出会いである。当時の彼女はまだ中学生で、好きだと告白されたものの困惑の方が大きく、どうやって断ろうかとしか考えていなかった。なのに半年後、彼女の16歳の誕生日に付き合うことを了承してしまった。正直に言えば情にほだされただけである。けれど、それから電話をしたりデートを重ねたりするうちに、いつしか彼女への気持ちが大きくふくらんでいた。半年後、誠一の部屋で初めて体を重ねたときには、もう後戻りできないほど彼女が愛しくなっていた。

 それからさらに半年??。

 もしかしたら、澪よりも誠一の気持ちの方が大きくなっているかもしれない。そう思うくらいには溺れていることを自覚している。彼女のあるべき未来を奪ったかもしれないことに罪悪感を覚えながらも、ほかの誰にも彼女を渡したくはないし自ら身を引こうとも思わない。

 ただ、そうは思っていても彼女は財閥令嬢だ。現実的な問題を考えると絶望的な気持ちになる。この先に続く未来があるのかはわからないし、正直あまり考えたくもない。いずれ考えなければならないことは承知している。だが、今はまだ純粋に彼女のことだけを考えて、彼女と過ごす時間の一刻一秒を大切にしたい。

 

「誠一!」

 大通りの方から、軽やかにアスファルトを蹴る音とともに、彼女の瑞々しくはずんだ声が聞こえてくる。それだけで胸が高鳴り、煉瓦塀にもたれたまま弾かれるように振り向いた。十七歳になった彼女のいる方へ??。

 

説明
好きです、私とつきあってください??捜査一課の刑事である南野誠一は、事件で関わった少女にいきなりそう告白された。滅多にお目にかかれないほどの美少女で、素直でかわいらしい性格だと好感も持っているが、つきあうわけにはいかない。なぜなら彼女はひとまわりも年下の中学生で、そのうえ大財閥の御令嬢なのだから??。
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コメント
とても……いい雰囲気で……良いですねッ! 続きが読みたいような……このまま、後の事は想像に身を任した方が良いのか……。 複雑ですね。(いた)
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