協定世界放浪日記8〜14
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8日目

 

 明け方、外から聞こえてくる重い音に私は目を覚ました。始めは腐った木が倒れたのかと思ったけれど、音は断続的に聞こえてきた。音の正体を確かめようと戸口に近づいた私は、慌てて小屋の奥へ引き返した。

 小屋の周囲にキノコが集まっていたのだ。森の中で見かけたことがある、あの歩くキノコだ。一瞬見ただけでも数十体いると分かった。しかも、3メートルはあろうかという巨大なキノコも数体いた。

 枕元に置いてあった木の槍を手に取り、私は這いつくばるようにして戸口の壁に寄った。キノコたちの襲来で真っ先に思いついたのが、捕食行動だ。蟻やライオンのように集団で獲物を狩る生物は種を超えて存在する。小さなキノコを見つけた時、何かマーキングのような物をされた可能性がある。あるいは大樹に生えたキノコを切り倒した私に復讐しにきたのかもしれない。

 恐怖に走って逃げ出したくなったけれど、下手に刺激すると逆に危険かもしれない。私は震える手で槍を握り締め、そろりと外の様子を伺った。

 キノコたちは小屋の前で三重の輪を作っていた。サイズ関係なしに等間隔に並び、盆踊りのような円運動を行っている。重い音の正体は巨大なキノコたちの足音だった。

 社会性のある生き物なのか、何らかの理由で多くの個体が集まっているのか分からない。前者だとするとキノコの盆踊り行動は、ミツバチのダンスのように他の個体への意思伝達の可能性が考えられる。キノコたちは集団で移動中で、その行き先を確かめているのかもしれない。私という獲物を確認しているとなると最悪だ。

 後者だとすると、生殖関連の行動が考えられる。生存確率を上げるために、鮭やウミガメ、サンゴなど一斉に交尾や産卵を行う生き物は多い。そういった時の生き物は攻撃性が強まっていたり、興奮状態だったりと危険だ。

 どちらにせよ、私から行動を起こすことは得策ではない。もちろん怖いからという理由で十分だ!

 

 しばらく観察していると、回り続けるキノコたちの傘の裏から白いもやが湧いているのが見えた。朝日を受けて輝くそれは、胞子のように思えた。

 胞子だとすると、このキノコたちの踊りは生殖行為だと考えられる。同一個体の胞子で交配できない種類だから、こうして集まっているのだ。ダンスに見えているのは違う個体同士の胞子をより掛け合わせて、種を繁栄させるための本能か知恵だろう。

 キノコたちが危害を加えてくる様子は無いけれど、警戒を解くわけにはいかない。私はそのメルヘンな盆踊りを見張り続けた。

 

 太陽が高度を上げ、明確な朝を迎えた頃だ。森から黒い影が飛び出し、キノコたちの宴に乱入した。体長2メートル近くあろうかという大イノシシだ。鋭い四本の牙を持っていて、日本の野山にいるものより凶暴さが増して見えた。

 イノシシは逃げようとするキノコたちに突進すると、その鋭い牙で襲いかかった。1メートルほどの中型キノコが牙に胴体を串刺しにされてしまう。キノコは逃れようと手足をバタつかせたけれど、イノシシは首を突き上げさらに牙を押し込んだ。そのままイノシシは木に突進し、ついにキノコにとどめを刺した。他のキノコたちは散り散りは逃げ去り、イノシシの荒い鼻息が大きく聞こえた。

 イノシシは首を振って息絶えたキノコを牙から外した。食べるのかと思って見ていると、イノシシはひと鳴きしてキノコを鼻で突くだけだった。縄張りを荒らされて怒っているだけなのかと思ったけれど、すぐに違うと分かった。

 森の中からトコトコと5頭の仔イノシシが姿を表した。大イノシシは子供たちのために、キノコを狩っていたのだ。子供たちが揃ったところで、6頭のイノシシは巨大なキノコをむしゃむしゃと食べ始めた。

 ニホンイノシシは雑食性だが、エサにしているのはどんぐりや昆虫など小さな食物だ。トリュフ探しに豚を使うことからイノシシもキノコを食べるのだろう。

 目の前にいるイノシシは、私の知っているニホンイノシシとは生態がかなり違うようだ。成体の雌雄は分からないが、子育て中のニホンイノシシが狩りをするなんて聞いたことがない。

 しかも雑食性ということは私に襲いかかってくる可能性も十分にある。イノシシの親子が食事を終えて、早く去ってくれることを祈ることしか出来なかった。

 

 それから30分ほどかけてイノシシたちはキノコを食い尽くし、来た時と同じ森へと姿を消した。

 

 イノシシたちが去ってからも、私はしばらく小屋に身を潜めていた。太陽の温かい光が窓から差し込むようになって、ようやく外に出た。

 惨殺現場にはキノコの白い菌糸が散乱していた。このキノコが元のように動ける個体に戻るのかは分からない。私の代わりにイノシシの犠牲になってくれたと思い、軽く手を合わせた。

 イノシシたちはキノコを食べただけではなく、周囲の地面を掘った形跡がある。小屋の周囲に芋が生えている事に気づいたら、荒らされることは必至だ。

 この小屋に住んでいた猟師は、あのイノシシなどを狩っていたのだろう。猟師がいなくなり、キノコが戻ると、それを狙ったイノシシも森の奥からやってきたようだ。

 イノシシは脅威だけれど、私としても下流へ向かう準備が整うまでは、この小屋を離れるわけにはいかない。貴重な芋だって出来ることなら守りたい。危険だがイノシシに対処する必要があった。

 とはいえ、2メートル近くあるイノシシに正面から向かっていく勇気はない。

 罠か何かでイノシシを仕留め、その肉を手に入れられれば最高だ。落とし穴が浮かぶけれど、あの巨体を捕まえるための穴を何個も掘るのは現実的ではない。幸運にもイノシシを捕えられたとしても、木の槍でトドメを刺すのは危険だ。紐を引っ張ると槍衾が落ちてきたり、縄を使って捕らえるような仕掛けを私が作れるはずもない。

 追い払うことを考えるべきだ。野獣は炎を恐れるらしいので松明は有効だろう。しかし、接近された時点で私が不利なことに変わらない。

 奴らを近づけさせなければ良い。古典的だけれど、ほとんどの野獣に対して有効なのは音を立てることだ。ただ私がひとりで叫び続けたり、木を叩き続けたりするのは無理だ。

 解決法として思いついたのが鳴子だった。

 私は小屋の周囲で枝や石、骨、蔦を集め制作に取り掛かった。

 

 鳴子に決まった形があるわけではない。獣が触れて、とにかく音が出れば良い。というか目的上は音がでなくても、その動きや振動で獣が逃げれば良い。

 まずは20センチ程度に切った蔦の両端に、骨や石、硬い枝を結びつける。これが音を出す楽器部分だ。できるだけ色々な場所に鳴子を仕掛けたいので、頑張って40本ぐらい作った。

 イノシシが去っていった方向へ重点的に鳴子を仕掛けることにした。木々の低い場所に蔦のロープを渡し、そこに作っておいた楽器部分を括りつけていく。ロープや楽器部分に獣が触れると、音が鳴るという仕組みだ。試しに蔦のロープを揺すると、カラコロとそこそこ音が出た。

 何箇所かに鳴子を仕掛けていると蔦が足りなくなったので、枝から直接垂らしてみたりした。とりあえずイノシシがやってきた北側だけはカバーできた。

 

 作業が終わる頃には、もう昼を過ぎていた。私は水を汲みに行くついでに、昨日の仕掛けをもう一度確認することにした。

 驚いたことに、川辺に作った囲いの中に一匹の魚が閉じ込められていた。かなり荒い仕掛けだけれど、時間さえかければ魚を取れることが分かったのは嬉しい。

 さっそく魚を川から上げようとしたのだけれど、これがまた一苦労だった。魚は直径1メートルほどの囲いの中を逃げまわり、簡単には捕まってくれない。掴んだと思っても、するりと私の手の中から逃げていった。一度はそのまま、囲いから逃してしまいそうになったけれど、どうにか地面に上げることができた。昨日以上にビショビショになってしまった。

 魚のサイズは20センチほどとかなり大きい。背中は黒く、銀色の体表に大きめの斑点があった。全身がヌルヌルとしていて鱗の感触はない。エラに背びれ、胸びれ、尾びれと揃っていた。川に住む淡水魚であるからニジマスやヤマメと似ていた。川から上げてもまだ元気だったので、頭を石にぶつけて気絶させた。

 ちょうど石ナイフを持ったままだったので、このまま捌いてしまうことにした。小学校の理科でイワシを解剖して以来、魚を捌くのは人生で二度目だ。解剖と調理は目的が違うけれど、魚を解体するのだから結果は同じだ。なんとかなると思った。

 肛門に石ナイフを引っ掛け、そのまま頭の方に向かって切り開いていく。ヘビを捌いた時よりも、鮮やかな血が出た。切れ味が悪いので、皮や身が多少ぐちゃぐちゃになってしまうのは仕方ない。

 切れ込みが魚の顎の下まで達したところで、今度はエラの部分に石ナイフを入れる。さらにグチャグチャとしてきたけれど、どうせエラは食べられないのだから気にしない。

 魚の口の中に指を突っ込みエラを外しながら、そのまま内臓も一緒に引っこ抜く。魚の内臓類は寄生虫の宝庫だ。生はもちろん、焼いても食べないほうが良いだろう。途中で内蔵が切れたりしてしまったが、なんとか取り除けた。血まみれになった魚と手を川で洗う。非常に不格好だけれど、なんとか魚を捌くことができた。二回目にしては上々だろう。

 

 小屋に戻った私はすぐに火を起こした。たった一匹なので、干したりせず調理することにした。薪用に拾っておいた枝で魚を串刺しにして遠火で焼いていく。

 魚の表面の水分が蒸発し、皮にフツフツと焼き目がついてくると食欲をそそる焼き魚の匂いが小屋に漂い始めた。久しぶりのタンパク源だ、本能的に口の中によだれが溢れてきた。香ばしい匂いと灰に落ちる滴りから、ヘビ肉よりも油が乗っていることが容易に想像できた。

 途中で火に当たる面をひっくり返した。両面が焼きあがる頃には小屋中が焼き魚の匂いで満たされていた。熱くなった串に苦戦しながら、魚を口元まで持っていく。

 思わずこのままガブリとかぶりつきそうになった。しかし、食欲に抗いわずかに残っていた理性がストップをかけた。

 いくら見知った川魚に似ていても、この魚に毒が無いという保証はない。

 毒を持つ生物は二種類に分けられる。一つは自ら生成した毒を持つ種類だ。魚介ならオコゼやエイなどがそうだ。そしてもう一つが、生体濃縮によって取り込んだ毒を蓄積する種類だ。フグなどがこれに当てはまる。前者の場合は毒腺を取り除けば問題ないけれど、後者は単純ではない。生体濃縮の場合は毒素が蓄積される場所によって、毒の強さが変わったりもする。

 生体濃縮による毒素でもっとも一般的なものは、フグ毒であるテトロドトキシンだ。解毒剤は存在しない猛毒だ。毒のあるフグ肉の場合、10グラム以上が致死量だと言われている。

 逆に言えば、数グラム程度ならその肉を食べてもなんとかなるかもしれないということだ。

 私はまだ熱い魚の肉を少し摘み手にのせる。見た目からして、だいたい3グラムぐらいだろう。それを手にして川に向かった。

 

 川べりの岩に座った私は意を決して、その魚の肉を口にする。少量なので味はよく分からなかった。喉を鳴らして唾液とともにグッと飲み込んだ。

 フグ毒の症状が出るまで20分〜3時間だと言われている。私が川まで戻ってきたのは、その時間内に何か身体に異変が起き時に、胃の中身を吐き出し大量の水を摂取するためだ。テトロドトキシンの場合、水を摂取しても病状は改善されないけれど、他の毒素なら効果があるかも知れない。毒に侵されたのなら、多少の水の汚さや雑菌など気にしていられない。

 

 始めのうちは緊張していて、動悸が早くなったように感じた。しかし、最初の壁だと考えていた1時間を過ぎても何も体調に変化はない。やがて、川辺に座っているの飽きてきた。空腹感が強まり魚の続きを食べたくなったけれど、いつ体調が一変するか分からない。

 

 私は周囲が暗くなってからも川辺にとどまった。結局なにごともなく、3時間ほどボケーッと座っていただけだった。ラッキーなのだけれど、用心深すぎる自分の性格に多少呆れた。

 

 小屋に戻った私は囲炉裏で魚を温めなおし、安心してその身にかぶりついた。二度焼きしたにもかかわらず、身に脂がのっていた。ほろほろと口の中で崩れる白身は馴染みのある焼き魚の味で、涙が溢れるほど美味しかった。骨の間に詰まった身までしゃぶるようにして味わい尽くした。塩が欲しいなんて言ったら神様に怒られそうだけれど、どこかに岩塩でも落ちてないかと期待するぐらいは許してくれるはずだ。

 実際、塩分が不足している。ナトリウム不足は血液循環に致命的な支障をきたす。そういった意味でも、果実よりもナトリウムを多く含む魚やヘビなど肉が良い。というか、小さな芋や酸っぱいブドウよりもっと肉が食べたい!

 

 ステーキが食べたい!

 スパゲッティが食べたい!

 ラーメンが食べたい!

 おにぎりが食べたい!

 サンドイッチが食べたい!

 いちごのショートケーキが食べたい!

 

 勢いに任せて、殴り書いても何も変わらないことぐらい分かっている。

 まともな料理が食べたいのに、私にできることといえば、仕掛けに魚がかかっていることを期待するぐらいだ。

 

 日記に残したくない言葉が浮かび消えていく。

 もう寝よう。

 

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9日目

 

 今後の行動について私は悩んでいる。しばらく小屋での生活を続けるべきか、移動するべきか。頭のなかを整理するために、今日あった事を日記に書いていこう。

 

 まだ太陽が高くないうちは、芋掘りをしてすごした。

 鳴子を仕掛けたけれどイノシシを追い払えるかどうか分からない。なら、奴らに荒らされる前に、出来る限り採取してしまおうと考えたのだ。

 握力が無くなるまでに掘り出せたのは、20センチ程度の芋が3本と、10センチ以下の小さな芋が5本、種類は全て同じ、あのヤマイモに似た芋だ。

 芋の保存は以外と難しい。温度が低くすぎると腐ってしまい、逆に温度が高すぎると発芽してしまう。でんぷん質なのでカビも生えやすい。地面に穴を掘って保存するのが良いらしいけれど、それではイノシシに見つかるリスクが本質的に変わらない。

 そこで二つの保存方法を試してみることにした。一つは干し芋だ。皮を剥いて輪切りにしたものを天日干しにした。地面で直接干すわけにはいかないので、小屋にあった長机を外に出し、その上に並べた。

 もう一つは堅焼きだ。ペースト状に練ったものを、石に塗って遠火で焼く。一昨日は厚手のクレープ生地のように、まだ柔らかいまま食べてしまったけれど、今度はさらに時間をかけて焼いてみることにした。

 焼いている時間を利用して、水汲みと仕掛けのチェックに川へ向かった。

 

 川に到着してすぐに仕掛けを調べた。今日は囲いの中に魚はいなかった。少しがっかりした。でも、運次第の仕掛けなのだから、そう毎日都合よく魚が捕れるわけがないと、気を取り直すことができた。

 相変わらず水中には、悠々と泳ぐ魚の姿がいくつも見える。追い込み漁を試しても良いかもしれないと思った。前回はやたらと追い回してビショビショに濡れただけだけれど、今回は囲いの中に誘導できれば良いぶん成功率は上がっているはずだ。それぐらいなら私の運動神経でもいけそうな気がした。

 さっそく実行に移そうと、川に足を踏み入れた時だ。視界の端で何かが動くのを見た。まさか水を飲みに来たイノシシではと慌てて視線の向けた。

 

 そこで目にしたのは、サッと茂みに隠れる小さな人影だった。

 

 まさかと自分の目を疑いながらも、私はその影を見た下流の方へ近づいていった。緊張に興奮で口の中が乾き、川辺に敷き詰められた石を踏む足が震えた。

 茂みまで5メートルほどの距離まで近づいたところで、私は足を止めた。確実に葉っぱの後ろに誰かがいる。相手も私の方をジッと見つめているのが分かった。警戒しているようだ。

 その時の私は頭の中がいっぱいいっぱいで、どうすれば良いのか分からなくなっていた。それでも無言で接近するよりは、話しかけた方が良い気がした。

 「あの」と声をかけようとしたけれど、久しぶりの発声に「のっ」と息の詰まったような音が出てしまう。茂みがビクッと震えた。逃げようとしている気配が伝わってきた。

 私は思い切って「こんにちは」と挨拶してみた。気さくな挨拶がいけなかったのだろう、人影は身体の向きをくるっと変えて走りだした。私もとっさに後を追った。

 まだ探索していない森の中なので、私自身が迷子になる可能性もあった。それでもこのチャンスを逃したら一生後悔する。蔦を払い、樹の枝を踏み越え、転びそうになりながらも私は全力で走った。

 しかし相手の足の方が格段に速かった。最初はすぐ前にあった背中が遠ざかり、木々に隠れるようになり、ついには完全に見えなくなってしまった。

 

 私には情けなく助けを求めるしかなかった。せめて声だけでも届けと呼びかけ続けた。いま思い返せば完全に逆効果だろうけれど、この時の私にそんな余裕はなかった。

 興奮と大声で脳が酸欠になり、ふらふらになってしまう。さらに溢れた涙で視界も悪く、私は木の根っ子に足を引っ掛けて盛大に転んでしまった。無様な悲鳴が静かな森をかき乱した。

 地面に転がった私は、額に手を当て木々の天蓋を仰いでいた。足の痛みと疲れで、立ち上がる気力が完全になくなってしまう。もう二度と人間に会えないような恐怖に取り憑かれ、声に出して泣いてしまった。ああ、私はこのまま死んで、イノシシの餌になるのだと本気で想像した。

 

 しばらく弱音を喚いていると、頭上に影が差した。私の涙で濡れた汚い顔を、人影が恐る恐る覗きこんでいた。

 子供だった。遠くから見ても背が低いと思っていたけれど、実際の身長は120cmぐらいだ。腰に籠を括りつけていた。短い黒髪に黒い目であどけない顔をしている。子供だと考えた最大の理由は関節だ。半袖半ズボンから覗く手足の関節部から、成長期特有の皮と骨っぽさが分かる。筋肉より先に骨が成長するので、肘や膝の関節が浮き出て見えるのだ。

 そんな分析はともかく、私の悲鳴を聞きつけ、心配して戻ってきてくれたのだ。理解できる感情に触れ、また涙が零れた。と、同時に子供の前で醜態を晒した恥ずかしさに、顔が熱くなった。

 私はゆっくりと身を起こし、敵意が無いことを示そうと両手を開いて見せた。ジェスチャーの意味が分からなかったのか、子供は不思議そうに目をパチクリさせていた。

 とりあえず話しかけてみたけれど案の定、日本語は通じなかった。簡単な英語で話しかけてみるも、こちらもダメだった。

 逆に子供の方も私に話しかけて来てくれたけれど、何を言ってるのかさっぱりだった。状況と表情からして、私を気遣ってくれているようなので、とりあえず笑顔で応えた。

 私の無事を確認した子供は、見ず知らずどころか言葉の通じない相手に困惑し、この場を去りたそうにしていた。もちろん、このチャンスを逃がすことができない私は子供のその雰囲気に気づかないふりをして、コミュケーションを試み続けた。

 言葉や身振りで上手く意思疎通できないとなると、残された手段は絵だ。

 私は落ちていた枝を手にして、地面に人間の絵を描いた。それから絵と自分を交互に指さして、自分の名前を伝えた。次に自分だけをトントンと何度も指さして訴えた。子供は私の名前を呼んでくれた。私が何度も頷いて喜ぶと、子供も嬉しそうにしてくれた。

 次に私の絵のとなりに、もうひとり小さな人間を描いた。その小さな人間の絵と子供を交互に指差す。順番だと気づいた子供が、自分を指さして「ユエン」と名乗った。私が子供を指さして「ユエン」と呼ぶと、彼も笑顔で頷いた。

 順調に意思伝達ができている。私は急いで次のステップに進んだ。

 私とユエンの少し離れた左の横に魚を描いた。その魚を挟むように二本の縦線を少しくねらせながら、長く長く描く。私とユエンが遭遇した川のつもりだ。おまけでさらに魚を二匹ばかり川に追加する。そして、走ってきた大体の方向を指さし、次にこの川を指さす。念押しとばかりに、口でバチャバチャ言いながら水を被って頭を洗う真似をした。ユエンが笑顔で頷いたので通じているようだった。

 次に川の上流に小屋を描いた。そして、その小屋から川に線を引き、そのまま川伝いに進んで、棒人間の私に繋げた。

 ここでユエンに枝を渡した。ユエンは川の下流から少し離れた場所にいくつかの家を描いた。それから、私がしたのと同じようにこの場所までの線を引いた。

 

 私は心のなかでガッツポーズを取った。

 簡単なものだけれど、私は地図を手に入れたのだ! 闇雲に森の中を彷徨う必要はもうないのが嬉しかった。

 言葉は通じないけれど、私はユエンにお礼を言って深々と頭を下げた。それから、念の為に持ち歩いていたアメを一つ、包装を破いて渡した。ユエンは訝しんでいたけれど、私が別のアメを食べて見せると、安心して口に入れた。

 アメをガリガリと齧ったユエンは、目をおおきく見開いて驚いた。それから笑顔で何度も何度も頷いた。最後のアメだったけれど、ユエンが気に入ってくれたので良しだ。

 

 気づくと太陽が傾き始めていた。地図から判断するにそれほどユエンの家まで離れていない。私よりもよほど森に慣れているみたいだけれど、子供に暗い道を歩かせるのは危険だ。地図が分かったのだから、これ以上はユエンを引き止め続けるのはよくないだろう。

 私は自分を指さしてから小屋を指し、次にユエンを指してから彼の『家』を指さした。ユエンは地図から顔をあげると私の目を見て頷いた。それから、しっかりとした足取りで前だけを見て歩き出した。私には同じ森のように見えるけれど、ユエンにはこの場所がどこなのかはっきりと分かっていたようだ。

 ユエンが去ってから私は川に向かって歩き出した。挫いた足がまだ少し痛かったけれど、それが気にならないほどの大きな達成感が胸の中にあった。

 

 多少道に迷いながらも、夜になる前に私も無事に帰ることができた。小屋に戻った私はさっそくノートを開き、憶えた地図を記し、この日記を書いている。

 

 あらためて地図を見返した。地面に描いた地図に手を当て、親指と小指の間隔で各所の大雑把な距離の比はとってある。しかし、もともとが私の雑な絵なので正確さはまるで保証できない。それを加味しても、ユエンの『家』まで、小屋からそれほど距離はないだろう。

 見たところユエンは8〜10才ぐらいだった。腰に籠を携えていたので、森や川で食べ物か何か採取していたようだ。身につけていた服は、布を縫っただけの簡素なものだった。子供を常に労働力としているとしたら、ユエンの所属している集団は、日本のような社会福祉の整備された社会ではないのだろう。

 だからこそ私はあの時、ユエンについて行かなかった。文明度が低いとしたら、言葉が通じないという一点で何らかの危害を加えられる可能性がある。その上さらにだ、子供の後をついてきたとなったら不審者まるだしだ。

 最初に出会ったのがユエンという子供だったから良かったものの、大人と遭遇していたらどうなっていたことか。戦うことはもちろん、逃げ切ることもできなかっただろう。

 

 すぐにでも集落を目指すべきなのだろうか?

 人間との出会いを求めていたけれど、いざその時が来ると不安で胸が一杯になってしまった。

 

 分からないことだらけだ。

 

 不安を抱えたまま接触するのはお互いにとって良くないだろう。とりあえず、この小屋で生活基盤を整え、万全の準備(逃走も含めて)をしてからユエンの集落に向かおう。

 

 それはそうと、囲炉裏に放置しっぱなしだった堅焼きは完全に失敗し、カサカサボロボロの白い粉に錬成されてしまった。

 だから夕飯は中途半端な干し芋と芋の切れっ端だ。

 食べれるだけありがたいと思うことにした。

 

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10日目

 

 芋ばかり食べていては、いつまでたっても食料は貯まらない。どうにか魚を捕らえなければ私に明日はない。そう意気込んで朝から川に向かったけれど、仕掛けに魚はかかっていなかった。

 普段の私なら手法の見直しをするところだけれど、ユエンとの出会いに気が逸っていた。無理矢理にでも早く次の行動に移りたい。その気持が、私の足を川の中へ向かわせた。昨日は不発に終わった追い込み漁に挑むことにしたのだ。

 魚の姿が見えるのは、中央の深い所や、苔や藻がたゆたう岩陰だ。私は腰まで川に浸かり、魚の背後からゆっくりと接近する。手に持った木の槍をズボッと水中の魚に向かって突き出す。当たればラッキーだけれど、あいも変わらずかすりもしない。追い立てた魚は別の岩陰や上流に移動する。これを繰り返して、なんとか魚を囲いまで誘導しようとした。

 

 労多くして功少なしどころか、まるで上手くいかなかった。魚の行動を上手く制限できれば良いのだけれど、むしろこちらの方が川の流れや深みに足をとられてしまう。何度か魚を仕掛けの所まで追い詰めたのだけれど、そのたびに魚はくるりと反転して、股の下を抜けていった。まるで私をおちょくっている様な、魚どもの態度にさすがの私もイライラが限界に達した。

 私は手に持った木の槍で水面をバシバシ叩いて魚を追い回した。偶然にもそのうちの一匹が、仕掛けの返しを通りぬけ囲いの中に逃げこんだ。

 やった!と声を出して喜び、すぐさま駆け寄っていった。

 しかし、これがいけなかった。勢い込んで川底の苔まみれの石を踏んでしまい体勢を崩した。そのままヨタヨタと囲いに突っ込み、石垣を盛大に破壊してしまった。ピョンと飛び跳ねた魚は私の顔を擦るようにして、また川の流れに戻っていった。

 やるせない気持ちに天を仰ぐと、幾つもの笑い声が聞こえてきた。振り返ると5人の子供たちが立っていた。

 

 1人はユエンだ。ユエンと同じ年の頃だろう子供が2人に、ひと回り小さい子供が2人いた。ユエンだけでなく初顔の4人もクスクス笑っているのは、私が魚相手に独りプロレスをしていたのを見ていたからだろう。大人が、魚に翻弄されビショビショになっている姿はさぞ面白かったことだろう。

 今更、取り繕っても仕方ないけれど、私は背筋を正し子供たちの方を向くと、手を上げて挨拶をした。子供たちも私の真似をして手を上げると「ハール」と挨拶を返してくれた。「ハール」というのが彼らの挨拶の言葉のようだった。

 挨拶は済ませたけれど、言葉が通じないのでその先が続かない。子供たちも多少は警戒しているようで、私から一定の距離をとってそれ以上は近づこうとしなかった。

 膠着状態のまま待っていても時間の無駄なので、私は魚取りを再開した。コミュニケーションも重要だけれど、今日の食事も重要だ。

 仕掛けに使っていた囲いの石垣を直していると、そろそろと近づいてきたユエンが手伝ってくれた。それを見た他の4人も一緒になって石を運んでくれた。子供たちの優しさに、私の顔もほころんだ。

 さらにユエンの方から私に話しかけてきた。もちろん言葉は分からないけれど、両手で何かを挟む様なジェスチャーをした。私は頷き、同じジェスチャーを返す。魚を捕まえたいという意思が伝わったようだ。

 ユエンは同じ年ぐらいの2人に声をかけた。3人は何かを確認しあうと、川から飛び出た石を軽々と渡って、上流側と下流側に別れた。

 上流の1人がドボンと勢い良く川に飛び込んだ。その音と衝撃に隠れていた魚がピューッと岩陰から飛び出し逃げていく。それを下流で待ち構えていた2人が挟み込み、手づかみで!簡単に捕まえた。ユエンはこちらに声をかけると、その魚を放り投げてきた。慌てて受け取ろうとするけれど、間に合わない。あわや石にぶつかるかと思われた魚を、小さな子供2人が上手くキャッチした。体勢を崩してすっ転んだ私を見て、その小さな子供たちがキャッキャと笑っていた。

 5人はその方法に慣れているのか、あっという間に魚を5匹も捕まえてしまった。私が四苦八苦しているのを見て笑ったのも納得の手際だった。

 子供たちはその魚を私に向かって差し出してきた。どうやら私にくれるらしい。私は昨日あげたアメと交換したいのかと推測した。残念ながらアメはもうないので、私はポケットをひっくり返し、さらに両手をヒラヒラさせて何も持っていないジェスチャーをした。

 それでも子供たちは魚を引っ込めようとはしなかった。お近づきの印ということだろうか? 真意は分からなかったけれど、遠慮せずに受け取ることにした。好意を無碍にするのは心苦しいし、なにより断る余裕もない。

 私がその場で魚の処理を始めると、また子供たちに笑われてしまった。不器用さを見かねた子供たちは、自分のナイフを取り出すと、魚を手早く捌いた。道具の差があるにせよ、子供たちの処理は断面が綺麗だし、身をムダにするようなこともなかった。生物として私の完敗だった。

 

 魚を持って小屋に戻ろうとすると、子供たちも一緒についてきた。彼らの常識からしたら異常に不器用で、さらに身なりの怪しい私に興味を持ったのだろう。

 私としても子供たちにお礼がしたかった。せっかくなので、この魚を焼いて振る舞うことにした。魚を焼いて渡すジェスチャーをすると、子供たちは喜んでくれた。

 囲炉裏を前にして魚を串に挿していると、一人が細かい葉っぱの草を私に差し出した。どうやら、これを魚にまぶせということらしい。促されるままにその草を千切って揉みほぐすと、魚にパラパラとかけた。

 

 魚が焼けるまで時間がかかる。私は子供たちと『会話』を試みた。

 まずは私にとって既知の言語と一致、もしくは類似しないかを調べることにした。

 これまで薄い板と化していた電子辞書を起動させる時が来たのだ! そこそこイイお値段だったこいつには、日本語と英語はもちろん、中国語やドイツ語、フランス語など12ヶ国語が搭載されている!

 

 結論から言えば、何の役にも立たなかった。

 辞書を頼りに挨拶の言葉を様々に発音してみたり、子供たちに辞書の画面を見せたりした。子供たちも画面の切り替わる電子辞書自体には興味を持ってくれたのだけれど、言葉は何一つ通じなかった。そもそも子供たちが文字や数字を身につけているのか分からない。

 英語教育で文字からの学習に慣れている身としては、彼らの使う文字が知りたかった。それが叶わず、類似する言語も分からないとなると、私自身のヒヤリングだけから言語自体を調べ、それを体得しなければならない。

 非常に困難な作業だ。しかし、同時に好奇心も刺激される。まったく未知の言語に挑むチャンスなど、普通に生きている限りはまずない。

 ロゼッタストーンを解読したシャンポリオンを想う。彼はエジプトへ行き遺跡に描かれたヒエログリフを見て「古代の言葉が語りかけてくる」と言ったらしい。この逸話自体は創作かも知れないけれど、私にもそんな体験が出来る可能性がある。

 可能性があるだけで、実際は超ハードモードの語学留学だ。生死に直結しているとなれば、プラス思考で真剣味にならざるを得ない。

 

 魚が焼けたので私と子供たちは遅い昼食をとることにした。私と大きな子供たちが魚を一匹ずつで、小さい子供は2人で一匹だ。最近は夕食しか食べていなかったので、明るいうちの食事は新鮮だった。それに、まぶしたハーブのちょっとした風味が魚の白身とよく合って美味しかった。細かい葉っぱの見た目は憶えたので、見つけたら採取しておこうと思った。

 

 食事を取った後は、小屋の外に出て昨日と同じように絵を描いてコミュニケーションをとることにした。

 

 まず私が地面に描いたのはソーラーパネルを広げる人工衛星の絵だ。この絵を指さすと子供たちは「エティスソレル」と言った。

 次に私はゲーム機のコントローラーの絵を描いた。子供たちはこの絵を指して、また「エティスソレル」と言った。

 最後に念押しとばかりに、私はキノコの絵を描いて見せた。子供たちは嬉しそうに「タコタ」と言った。

 今度は私が地面に落ちている石を指さして「エティスソレル」と言ってみた。彼らは揃って「デイ」と言った。

 作戦通りの結果に、私は子供たちに笑顔を向ける。子供たちも、何かの遊びが上手くいったと思ってくれたのか喜んでいた。

 

 私は子供たちが知らないことを期待して人工衛星やゲーム機のコントローラーの絵を描いた。未知の物体の絵を前にして子供たちは「これ何?」と私に聞いたはずだ。その証拠に、まるで違う姿の人工衛星とゲーム機のコントローラーの絵を指して彼らは同じ言葉を使った。それに続く行動からも「エティスソレル」=「これ何?」だと分かる。

 

 違う言語を学ぶ上で、まず初めに知らなければいけない最重要フレーズは『これ何?』だ。英語の授業では自分の名前を名乗るところから始まるけれど、コミュニケーションを模索する上では『What is this?』が分からない方がはるかに困る。逆に言えば、『これ何?』というフレーズさえ分かれば、他の言葉や単語への橋頭堡となる。

 

 私は「エティスソレル」を連発して、子供たちに単語を聞きまくった。彼らの名前はもちろん、木や土、太陽など手当たり次第聞き取り、ノートに書きつけていった。子供たちからしたら、大人が赤子のように振る舞うのは面白いのだろう、おかしがりながら、あるいは遊び感覚で私に色々な事を教えてくれた。その多くは言語的に理解できなかったけれども、分かったこともある。

 

 その中でも重要なのが、「エティスソレル」自体の発音方法だ。どうにも区切りが悪かったようだ。ユエンがゆっくり喋って教えてくれた。

 「エティ ス ソレル」と区切るのが正解だった。ここからさらに「エティ」と「ス」と「ソレル」を別々に使って見て、彼らの反応を調べた。その結果、「エティ」が指示代名詞「これ」に、「ソレル」が疑問詞「何」に相当することが分かった。残る「ス」は動詞か助詞、あるいは接続詞のようだ。

 英語のようなSVO系か、日本語と同じSOVのどちらかの語順が期待できる。もちろん「エティスソレル」が例外的なフレーズという可能性もあるけれど、言語体系がまるで違うということはなさそうだ。

 例え少々ややこしいルールがあったとしても、私が発音できるのだからなんとかなる。カナリア諸島に存在する口笛言葉や、モンゴルのホーミーのような特殊な発声を求められるよりは、余程マシだった。

 

 始めは子供たちも私の『ことば探し遊び』を楽しんでくれたけれど、しばらくして飽きてしまった。無理に付き合わせるのも悪いので、その後は駆けっこしたり、石あてをしたり、お絵かきをしたりで過ごした。その遊びの中で、言葉を拾ったりフレーズを教えて貰ったりした。

 言葉で意思を伝達するには、時間がかかりそうだ。それでも私は学んでいかなければならない。

 

 夕方になり、子供たちが帰ろうとした時だ。不意にカラカラという乾いた音が聞こえてきた。先日仕掛けた鳴子の音だった。

 子供たちがまだいる。すぐに危険を確認しなくてはと、私は小屋の裏手へ回った。もしイノシシだったら、子供たちを小屋か森へと逃して自分が戦おう。もしくは、一緒に逃げてしまおうと強く覚悟していた。

 揺れる鳴子の先を見ると、茶色い傘をのせた白い円筒形が地面に倒れ込み、ジタバタともがいていた。鳴子に利用した蔦に絡まっていたのは、70センチほどの歩くキノコだった。イノシシほどの脅威ではないだろうけれど、それでも何があるか分からない。

 子供たちに逃げるよう促そうと振り向くと、当の彼らは何故か目をキラキラと輝かせキノコを見ていた。年長の3人は一番の笑顔を見せると、キノコに飛びかかった。

 止める間もなく彼らはキノコを組み伏せ、さらにその手足の部分をナイフで切り落とした。相手がキノコなのでスプラッタな血もなければ、悲鳴もない。加工という言葉がピッタリだった。

 子供たちは嬉しそうにキノコを私の所まで持ってきた。それから胴体を私に差し出し、自分たちは切り落としたキノコの手足を見せた。どうやらこれだけは持って帰って良いかと聞いているようだった。

 そんな手足ではなく、全て持って行って良いと私は胴体も渡そうとした。しかし、子供たちは難色を示した。子供たちはこの辺り一帯を私の狩場か何かと思っていたようだ。そこで採れたものは土地の持ち主に還元される文化か掟なのだろう。

 私も困っているとユエンがキノコを真っ二つに裂いて、その半分を突き出した。子供にここまでされては、さすがに受け取るしかなかった。

 子供たちはキノコを指さして「タゴタゴ」と言って、モグモグと口を動かした。どうやらこのキノコは食べられるようだ。

 子供たちは数人がかりでキノコを担ぐと、軽い足取りで帰っていった。

 

 一人に戻った私はキノコを食べるかどうか迷った。もちろん、子供たちを疑ったわけではない。同じ人間に見えるけれど、私と彼らでは身体の作りが違うかもしれない。例え構造が同じでも腸内細菌の問題もある。例えば人間が食物繊維をエネルギーに出来るのは、腸内細菌の発酵作用のおかげだ。例え毒がなくても、体質に合わなければ栄養にならないし、腹痛や下痢などの原因にもなる。

 しかし、これから先も常に食事で迷い続けるのも効率が悪い。そもそも集落に向かい他の人間と接触する目的の一つは食料と水だ。彼らが食べているのと同じ物を、私も食べていかなければならない。

 それに未知のヘビ肉や魚、芋、大樹の果実とわけの分からないものは十分に食べてきた。いまさらキノコぐらいで怖気づいていても仕方ない。

 

 慎重さを失わずに図太くなる!

 

 へ理屈をこねて私はキノコを食べてみることにした。

 裂いたキノコひと欠片を枝に刺して焼いてみる。白色の表面にじわりと水分が浮き出てきた。焦げてしまわないうちに火から離し、匂いをかぐ。ほのかにキノコっぽい木の匂いがした。

 厚い短冊状の端っこを齧ってみる。じゅわっと熱い汁がキノコの香りとともに流れこんでくる。思っていたよりもずっと力強い旨味だ。『タゴタゴ』の見た目からシメジを想像していたけれど食感はエリンギだ。旨味の強さと相まって、シイタケの肉詰めを食べているようでもある。子供たちが喜んでいたのも納得の旨さだ。昼に魚に使った香草と一緒に煮込んだり炒めたりしても美味そうだ。

 何度目か分からない醤油が欲しい病が発症しそうだ。つくづく醤油舌な日本人だ。

 

 結局30分ほど様子を見たけれど、腹の痛みも下痢の気配もなかった。安心した私はタゴタゴでお腹を満たした。

 

 子供たちと同じ食生活を送っても問題ないという自信がついた。本当に彼らには感謝の言葉しかない。

 肝心の彼らの名前を書くのをすっかり忘れていた。

 

年長の3人

 ユエン

  リーダー格でなかなか頭の良さそうな少年

  小さな子を常に気にかけている

 アルク

  快活そうな少年

  運動神経が良さそう

  真っ先にキノコを押さえ込んだ

 リーム

  おとなしそうな少年

  他の2人と較べて少し色白で髪の色も薄い

 

小さな2人

 ラミ

  可愛らしい女の子

  絵を描くのが好きなようだ

 エヒン

  元気な男の子

  ユエンによく懐いている

 

 子供たちは明日も来てくれるだろうか?

 彼らから少しでも多くの言葉や知識を学んで、それから人里に向かおう。

 

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11日目

 

 とても疲れている。

 目まぐるしい事態の変遷に身も心もへとへとだ。

 それこそ朝から劇的だった。

 

 夜更かしのせいで少し寝坊した私は、人間の大きな声で目を覚ました。はじめは子供たちが朝から押しかけてきたのかと思ったけれど、意識がはっきりすると、やたらと野太い声だと分かった。訝しんだ私は身を屈めたまま窓から外の様子を伺った。

 小屋の正面に6人もの大人の男性が立っていた。手には斧や棍棒を手にしている。剣呑な雰囲気は漂わせている彼らの背後にはユエンの姿もあった。

 私の存在を知った大人たちが、子供をかどわかす不審人物を成敗しに来たようにしか見えなかった。おそらく、あのタゴタゴとかいうキノコを持って帰ったことが切っ掛けだ。獲物をどこで捕えたのか聞かれて、私のことを伝えたといった所だろう。口止めしたくても、できなかったのだからしょうがない。

 私が答えないので、大人たちはジリジリと小屋に近寄ってきた。一瞬逃げようかと考えたけれど、子供のユエンの身体能力ですら私より上だ。見るからに逞しい男たち相手に、私が逃げ延びることはできないだろうと思った。

 木の槍なんて相手を刺激するだけで百害あって一利なしだ。私は荷物の入った鞄だけを手にし、小屋の外に出た。

 私の姿を見た男たちは、一様に不審そうな表情を浮かべた。彼らが身につけている服と、私の着ている服では見た目が違う。感覚的には明治や大正時代の人間が、現代人の服装を見るようなものだろう。不思議に思うのは仕方がない。

 とりあえず敵意がないことを示そうと私は両手をあげた。同時に助けを求めるようにユエンの方へ視線を送っていた。子供に助けを求めるなんて情けない、とか言っていられる状況ではない。

 そんな私の視線に気づいたユエンが、男たちに何やら話しかけていた。無実を訴えてくれているのだと私は信じていた。

 お世辞にも屈強と言えない私の姿と、ユエンの説得のおかげか、男たちも武器の構えを解く。まだ私の事を強く警戒しているのは分かったけれど、すぐさまぶん殴られる様な事はなさそうだ。

 豊かな髭を蓄えた男が一歩進み出た。四〇才ぐらいか、長身でガッチリとした体格をしている。手にした大振りの斧がよ似合っていた。ユエンが話しかけていたので、彼がリーダーなのだろう。

 思い切って私は自分から「ハール」と震える声で挨拶をした。男は低い声で「ハール」と返して来た。男たちが私とコミュニケーションをとる意思があることが分かり、少しだけ安心する。

 そこから男が何やら話しかけて来たけれど、私にはまるで理解することが出来なかった。分かったことと言えば小屋を指す「ディンス」という単語ぐらいだ。ただ、この言葉が何回か繰り返されたので、小屋を問題にしているのだと思った。最後に髭の男は何かを確認するように私の方を見た。

 私は言葉が通じない異邦人であることを分かってもらうために、日本語で話すことにした。ジェスチャーを混じえて名前を名乗り、さらに小屋を使わせて欲しいと訴えた。

 男たちは日本語を聞いてもそれほど慌てず、ただ怪訝そうな表情を浮かべていた。ユエンから私がどういう人間か聞いていたのだろう。

 お互いに言葉が通じないので、やはりシラーっとした沈黙が訪れる。しかし、この反応はすでに経験済みなので、私は積極的に話を繰り返すことにした。

 自分と小屋を交互に指し、寝たり食べたりのジェスチャーをする。私の必死の身振り手振りを、男たちは真剣な表情で解読しようとしていた。

 ニュアンスが通じたのは、私の行動に慣れているユエンだった。ユエンが男たちに話しかけると、男たちも理解できたと嬉しそうに表情を崩した。もし事情を知らない人間が傍目に見たとしたら、無声の喜劇かコントだろう。

 髭の男は私の方を向くと、渋い表情で首を横に振った。昨日の子供たちを観察して『頷く』が『YES』に対応し、『首を横に振る』が『NO』だと確信していた。つまり男はこの小屋を使うなと言っているのだ。

 誰かの所有物なのかもしれないと考えた私は、次に小屋と男たちを交互に指さした。男たちは首を横に振った。どうやら私が不法占拠していたわけではないらしい。

 となると何が問題なのか分からない。単純に不審者を排除したいだけとしか思えなかった。

 私が困惑していると、髭の男が手招きをした。どうやら一緒に来いと言っているようだ。私としては素性のはっきりしない彼らは怖い。私が迷っていると、髭の男は何かに焦るかのように、私の方に手を伸ばしてきた。

 私は反射的に身体を引いてしまった。やはり走って逃げてしまおうかと考えた時だ。

 

 大きな影が太陽を遮った。次の瞬間、立っていられないほどの地響きが私たちを襲った。巨大な何かが森に落下し、木々がなぎ倒していた。

 わけも分からず仰ぎ見ると、それは巨大なヘビだった。大蛇という言葉が陳腐になるほどの巨大さ、胴回りの太さだけで5メートル以上はある。それが空から降ってきたのだ。茶褐色の巨大ヘビは威嚇するように空へ向かって鎌首をもたげる。

 脅威はそれだけではなかった。今度は鷲のような巨鳥が翼を広げて襲来した。赤く美しい翼は、端から端まで30メートルはあるだろう。猛禽類の特徴である、鋭い爪と嘴で巨大ヘビに襲いかかった。

 まさに怪獣バトルだ。ヘビが巨鳥に噛み付こうとすれば、そのひとうねりで樹木が問答無用でへし折られる。巨鳥がヘビを爪で捕えようとすれば、その羽ばたきで地面が掘り返されそうな突風が巻き起こる。

 私は恐怖で動けなくなっていた。と、同時にどうして男たちがこの場所が駄目だと言っていたのか理解した。この森は巨大ヘビや巨鳥の狩場だった。非力な人間は樹木の陰に隠れて、草や木の実をとるのが精々という場所なのだ。この小屋で暮らしていた人間がどうなったのか? 考えたくもなかった。

 へたり込んだ私を地面から引き剥がしたのは、髭の男の太い腕だった。男は情けなく震える私を担ぎ上げ、さらに鞄を手に取ると猛然と走りだした。

 見る間に破壊の嵐が遠ざかっていった。木がなぎ倒される破砕音や地響きが伝わってくるけれど、男は力強い足取りで走り続けた。

 巨鳥の鳴き声が遠くなった頃に、私は地面に降ろされた。男は危険がないと判断したのだろうけれど、恐怖にとりつかれていた私は懸命に走った。死に物狂いとはこのことだろう、とにかく目の前に見える人間の背中を追い続けた。

 

 どんな道順を通ったのか分からない。例え冷静だったとしても、私には森の木々を見分けることは難しかっただろう。不安定な吊り橋を渡ったことだけは覚えている。

 気づいた時には酸欠状態で倒れた私を、大勢の人間が覗きこんでいた。あの髭の男やユエン、それに女性の顔もあった。視界の端に建物や柵も見える。どうにか無事、集落へ到着できたと分かった。

 しばらくゼーハーゼーハーして息を整えてから、私は身を起こした。私の事を初めて見た集落の人々は、好奇心丸出しの視線をバシバシと送ってきた。怪しい人間を捕らえに行くという話は伝わっていたのだろう。そして、やってきたのが珍妙な格好で地面に倒れ込む軟弱者なら、人々もそういう表情になることだろう。

 私は震える唇でどうにか愛想笑いを作り「ハール」と挨拶をした。集落の人々は困惑した表情で「ハール」と返して来た。

 私も途方に暮れていたけれど、集落の人たちも私の処遇に困っているようだった。胡散臭そうに見る人もいるし、集まってきた子供を遠ざけようとしている人もいた。数人が私の事で揉めているのだけれど、その内容がまったく分からないのが怖かった。怪獣特撮から逃れたら、今度は法廷ドラマが始まったようなものだ。息つく暇もないとはこのことだ。

 

 しばらくざわざわしていると、姿の見えなかった髭の男が白髪の老人を連れて戻ってきた。集まっていた人々の視線が老人に集まる。全員が敬意を払っている様子から、この老人が集落の権力者だと分かった。

 老人は無言で屈むと、地面に座り込んだままの私の肩に両手を乗せた。それからジッと私の目を覗きこんできた。その黒い瞳は穏やかだけれど、湖のように私の視線を吸い込んで離さなかった。まるで心の底まで見通されているような気分になる。

 老人が何かを呟くと、私はハッとしてまばたきを思い出した。一瞬の出来事のはずだけれど、とても長い時間に感じられた。通じるわけがないのに、私は「助けてください」と言葉を絞り出した。

 老人は深く頷き、私の頭をポンポンと優しく撫でた。老人の穏やかな表情に懇願が通じた気がした。老人は髭の男を手招きするとその耳元に何か喋りかけた。男が頷くと、老人は次に集まっていた集落の人々に向かって語りかけた。それを聞いた人々は納得したよう様子で、その場を離れ始めた。

 私は事態が飲み込めずキョロキョロしていた。すると、髭の男が私に向かって喋りかけ手招きをした。どうやらついて来いと言っているようだ。私は男の後について歩き出した。残っていたユエンと彼の仲間たちも一緒についてきた。

 

 案内されたのは集落の中に建つ一軒の家だった。家といっても、あの猟師小屋よりもひと回り小さいだろう。髭の男が扉を開けると、中には木材や農具が乱雑につめ込まれていた。空き家を倉庫に使っているような雰囲気だった。

 髭の男は持っていた私の鞄を家の中に置いて、私と小屋を順番に指さした。貸してくれるということらしい。なんて良い人達なんだろうと感謝で胸が一杯になった。

 同じ言語を持たない私は、爆発しそうな感謝の気持ちを100分の1でも伝えようと、何度も頭を下げて「ありがとう」を繰り返した。髭の男は少し困ったように眉を上げていたけれど、少しは伝わった気がした。

 髭の男は家の中から木材を取り出すと、家の脇に置いた。それからまだ中に大量にある木材を指さして、次に外に出した木材を指さした。片付けて使えということらしい。私が別の木材を運びだしてみせると、男は満足そうに頷いて去っていった。

 

 私が家の片付けを始めると、ユエンや彼の仲間の子供たちが手伝ってくれた。私は彼らと協力して、余計な木材を運び出し、農具を家の隅に片付けた。家には小さな暖炉がついていて、子供たちがどこからか薪と火を貰ってきてくれた。

 私一人では夜中まで掛っただろう作業が、なんとか夕暮れには完了した。私が「ありがとう」を何度も繰り返すと、子供たちは「ナークル」という言葉を教えてくれた。「ありがとう」という意味のようだ。

 

 片付けが終わり子供たちが解散していく中で、ユエンが私の手を引っ張りどこかへ案内し始めた。小屋の前の畑道を進み見えてきたのは、L字型の一軒家だった。Lの空いた部分には、家畜だろう牛によく似た動物が飼われていた。

 ユエンに促され家に入ると、料理が並ぶ長机と4人の大人の姿があった。権力者の老人と老婆、それに髭の男とユエンによく似た女性だ。夕食時に私が乱入しても4人は慌てていないので、ユエンの家の夕食に招待されたのだとすぐに分かった。

 老人の「ミグスム」という言葉で食事が始まった。祈りの言葉か「いただきます」なのだろう。

 ユエンの母親と祖母だろう2人が、私に次々と食事を勧めてくれた。ニョッキに似た粉物とキノコのソテー、鳥肉っぽい何かの塩焼き、数種類の根菜とベーコンらしき肉切れのスープ、さらにアルコールが入っていそうな果実の飲み物。

 塩分の効いた濃い味付けだけでもうれしいのに、どの料理もとても美味しかった。芋の切れっ端とは、比べものにならないほど豪勢なご馳走に舌鼓を打った。

 普段から食べている料理なのか、歓待のための料理なのか分からないけれど、もうお腹に入らないというほどの量を勧められた。

 

 食事が終わり私はユエンの案内で小屋に戻った。私としては言葉を学ぶために少しでも会話を試みたかった。しかし、ユエンの家族としては言葉の通じない相手と『談笑』なんて無意味だろう。

 ただ食事中に聞こえてきた言葉でユエンの家族の名前は把握した。

 ユーズカ ユエンの祖父

 ラナ   ユエンの祖母

 ジェルガ ユエンの父

 リテン  ユエンの母

 

 全員、黒髪に黒目。日本人よりも多少彫りが深い。ユエンの父ジェルガなどは精悍な顔立ちで、髭さえ剃れば日本でもモテそうだ。今は母親に似ているユエンも成長すれば父に似てくるのだろう。

 

 料理は美味しい以外にも、嬉しい事を私に教えてくれた。しっかりと塩味がついていたことだ。

 塩を手に入れる方法は3つある。

 1つは岩塩だ。造山運動や海進海退による岩塩鉱床の形成で山の中や内陸部でも塩が取れる。

 マイナーな方法として、地中の塩化ナトリウムを吸収して濃縮する植物だ。アイスプラントなどがある。

 そして最も一般的なのが、海水から塩を生成する方法だ。単純に海が近いという可能性もあるけれど、他地域との交易が成立していることが期待できる。

 

 この森から広い世界へと繋がっているなら、日本へ帰る方法がきっとどこかに存在している!

 

 それこそ雲をつかむような可能性だけれど、仕組みがわかれば雲だって作ることができる。

 

 疲れていても、絶望する必要なんてない!

 

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12日目

 

 農村の朝は早かった。

 夜明け前にユエンの父ジェルガに起こされた私は、畑へ案内された。寝床と食事を与える代価は、労働というわけだ。分かりやすいギブアンドテイクで、私としても正直ホッとした。理由もわからず歓待されるよりも、共同体への貢献を求められる方が気が楽だ。

 収穫の方法はジェルガが見本を示してくれた。まずは黄色く枯れた植物の並ぶ畝の両側を鍬で掘り起こす。脆くなった周囲の土ごと持ち上げるようにして、茎を握って植物をグッと引っこ抜く。すると地面の下からゴロゴロと子供の拳ぐらいの芋が3〜4個連なって姿を表す。芋はジャガイモに非常によく似ていた。表面が少し緑色のものもあるので同じく地下茎だろう。ジェルガが引っこ抜いた地中をさらに探ると、同じ芋がもう2〜3個見つかった。

 さっそく私も鍬を渡され、収穫の手伝いを始めた。実際の作業では、一箇所ずつ収穫するのでは効率が悪い。畝一本分を片側ずつ掘り返していった。

 初めて触る鍬はなかなか思うように扱えず、地面ではなく植物自体に刃を振り下ろしたりしてしまった。見かねたジェルガが、鍬を持ち上げすぎるなともう一度見本を見せてくれた。彼の真似をして鍬の振りを小さくすると、狙った場所に鍬を振り下ろせた。動き自体も格段に楽だった。

 私が15メートルほどの畝一本をどうにか掘り起こし終わる頃には、ジェルガはすでに畝の半分以上の芋を収穫していた。足を引っ張っているわけではないけれど、私はさらに奮起して芋掘りを続けた。

 

 ジェルガは簡単に芋を引き抜いているように見えたけれど、私が茎を引っ張ると地中から芋がついてこないことも多々あった。コツ以前の問題として、単純に引き抜く力不足だし、土の掘り返し自体も上手くいっていないのだろう。

 そして掘り起こした芋も、ジェルガの芋は土が払われているのに対して、私の芋は土だらけで傷ついているものも少なからずあった。大切な作物を損なってしまい怒られるかとビクビクしていたけれど、ジェルガは少し驚いて、それから呆れ気味に笑っただけだった。私が猟師小屋で生活していたから、作業に慣れているとジェルガに思われていたのかもしれない。大いなる勘違いだ。

 途中でユエンも加わり、4つの畝を掘り起こし終わると、地面には大量の芋が転がっていた。次は軽く土を払い、茎がついているものは外し、芋を荷車に積んでいった。立ったり屈んだりの繰り返しで腰と太ももが痛くなってくる。

 荷車には芋以外にも、ヘチマに似た緑の瓜や赤いカブのような作物、それに織物が載せられていた。芋を2000個ぐらい積んだところで、荷車がいっぱいになった。

 収穫が終わると、芋の枯れかけた茎や葉っぱ、食べられそうにない芋を一箇所に集め火をつけた。燃やすことで、芋の余計な部分を早く土の栄養分へ還元できる。さらに害虫や病原菌を退治する効果も期待できるはずだ。

 焼畑農法といった場合は、耕作地を新しく確保するために林や森などに火をつけることを指すので、少し意味合いが違ってくる。

 

 ジェルガは火力が程度弱まったところで、水で濡らした中〜小サイズの芋を30個ほど燻る焚き火の中に投げ込んだ。ちなみに水は村の中央にある井戸から、私とユエンが汲んできた。

 何度か芋を転がすこと、30分ぐらいだろうか。ジェルガが芋が焼けたと判断し、ユエンが他の家族を呼びに行った。

 全員が揃ったので昼食が始まる。私も芋パーティーの相伴に預かった。ジェルガが鍬で焚き火からかき出した芋を拾うのだけれど、これがとてつもなく熱かった。ユエンの家族は慣れた様子で皮を剥いていたけれど、私はしばらく冷めるのを待たなければならなかった。

 どうにか持てるようになったところで、灰を払って芋の皮を剥き始めた。想像していたほど芋は焦げていなかった。皮はつるんと剥がれ、その下からはホクホクと湯気を立てる白い炭水化物が現れた。熱さを我慢して齧る。採れたてらしい瑞々しい食感と土の力を感じる甘みが口の中で崩れる。

 ジャガイモにとても良く似ているけれど、私の知っているジャガイモより少し甘みが強い気がした。バターか塩が欲しいと思っていると、ユエンの母親が緑のソースが入った器を差し出した。ユエンやジェルガもそのソースをかけて芋を食べていた。私も匙一杯分を芋にかけて食べてみた。塩味と少し尖ったハーブの香りと味、スパイシーなバジルソースだった。芋との相性は抜群だ。大きくないとはいえ、私は芋を丸ごと4個もぺろりと食べてしまった。

 

 食事が終わり火の始末が済むと、ジェルガは家から連れてきた牛を荷車に繋げた。それからジェルガは家族たちに何か話しかけ、家と違う方向へ荷車を牛に引かせた。どこか別の場所に運んでいくようだ。

 残された私も仕事が終わりというわけではなかった。今度はユエンが監督官となり、他の子供たちと一緒に森へ採集に向かった。

 

 採集を行うのは、私が一昨日まで暮らしていたあの森だ。死に物狂いで巨大ヘビと巨鳥から逃げ出した場所だけにまだ怖かった。しかしユエンは森の奥までは行こうとしなかった。彼や子供たちなら大丈夫なのだろうけれど、おっかなびっくり歩く私を気遣ってくれたようだ。

 採取の対象としていたのは、キノコや木の実、それに野草だ。もちろん、私には何を採ったら良いのかさっぱり分からない。採集用の籠を担ぎながら、小さな子供の相手をするのが仕事だった。

 子供たちの身体能力には目を見張るものがあった。10メートル以上ある木をスルスルと上るぐらいあたりまえで、その高い枝から枝へと飛び移ったりしていた。まるで時代劇やアニメに出てくる忍者のような身のこなしだ。どことも知れない土地で『忍者』というのも変だけれど、それぐらい私の常識を超えていた。

 私としてもただ子守をしながら感心しているだけではない。積極的に子供たちに話しかけ言葉を学ぼうとしたり、有用な植物の種類を覚えようと努力した。

 

 その結果、語順について少し分かってきた。どうやら日本語と同じSOV型のようだ。

 話者の人口が多い英語や中国語がSVO型なので、SOV型は少数派に思われるけれど、実際は違う。

 世界に存在する言語では、SOV型の方が多い。日本語はもちろん、ヨーロッパ圏でも自由度の高いドイツ語やオランダ語はSOV型に分類される。もちろんユーラシア大陸だけでなく、世界中にSOV型の言語は存在している。

 

 また彼らの話す言葉が、意外と聞き取りやすいのだ。おそらく母音が近いためだ。「あ」「い」「う」「え」「お」はおそらく母音だ。言語学的に見ると、基本母音の数は5つが圧倒的に多く、次いで6つだ。彼らの使う言語も、母音は5つか6つ、多くて7つだろう。英語のように基本母音が10以上になる言語のほうが少数派だ。

 

 と、分類が分かったところで、私にできることは「エティスソレル」を連発して単語を聞いたり、ジェスチャーから「ぼく」や「あなた」という人称代名詞、「走る」や「食べる」など簡単な動詞を判別することぐらいだ。

 満足のゆく意思疎通には程遠い。しかし、千里の道も一歩からだろう。とりあえず、燃えるように赤いキノコが「ベルタタ」という猛毒キノコだという事は脳内に刻みつけた。

 

 日が傾き森から引き上げた私は、今日もユエンの家で食事をご馳走になった。メニューは根菜とハーブのスープとキノコパイだった。採れたての芋がたっぷり煮こまれたスープはポタージュのようにトロトロだけれど、何杯もたべられそうだった。パイには数種類のキノコが使われていて、プリッとした歯ざわりやジュワッと広がるキノコの滋味と食べ飽きない美味さだった。

 夕食の場にジェルガだけ居なかった。作物を運んでまだ戻ってきていないようだ。他の家族が誰も心配していないので、今日中には戻れない遠くへ向かったのだろう。

 食事が終わるとすでに暗くなっていたので、ユエンの母親が松明を持たせてくれた。今はその火を暖炉にくべて灯りとしている。

 

 貸家の中は、ほのかに土の匂いが漂っている。ジェルガが持って行かなかった芋が隅に積まれているからだ。もともとが倉庫なのだから、その芋が真の主人だろう。私はそこに間借りしているので、芋たちに土臭いとか文句は言えない。

 

 1日12時間ほど働いて、一泊二食付きの宿代と考えると、日給15000円といったところだろうか。食物の生産に余裕がある証拠だ。まあ、現代日本と賃金を較べてもあまり意味は無いだろうけれど、一応の基準だ。

 ジェルガが作物を売りに行ったのだとすると、それなりの経済圏が存在していることになる。あの量を物々交換するとなると牛や馬など家畜だろうか? あるいは金や宝石などの貴金属との取引、もしかすると貨幣が存在しているかもしれない。

 斧や農具に使われている鉄はこの集落ではない、どこか別の場所で採掘されたものだろう。農産物と鉱山など生産拠点の分散が行われていると考えられる。そうすると、中心か中継となる街や都市が存在しているはずだ。人と物が集まれる場所には同時に情報も集まる。そういった街に行けば、私の身に起こった異常事態に関する手がかりが得られるかもしれない。

 

 希望的な推測はできるけれど、まだ行動を起こすには足りないものが多すぎる。

 もっとこの集落で情報を手に入れ、少しでも言葉を話せるようになるべきだ。

 

 そのためにもだ、

 明日も農業がんばろう!

 

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13日目

 

 今朝、貸家まで私を呼びに来たのはユエンだった。ジェルガは出かけた先から、まだ戻っていなかった。

 私とユエンの2人で収穫を始めた。さすがにジェルガほどではないけれど、ユエンの作業スピードも速かった。森での採集だけでなく、普段から畑仕事を手伝っているのだろう。鍬を振り下ろす姿に、父であるジェルガの姿が時折重なった。成長が私の想像通りなら、あと5、6年もすれば、手足も伸びきり凛々しい青年となることだろう。そうなれば耕作面積を増やし、芋やその他の作物の収穫量がアップする。そうして、少しずつ集落は成長していく。もちろん、そんな未来まで私はここにいるつもりはない。

 

 私が掘り出した芋の表面についた土を払っていると、ユエンに注意された。この芋は保存するので、土はついていた方が良いのだという。そういえば、土つきのジャガイモは冷暗所で適切に保存すれば半年ほど保つと、どこかで読んだことがある。

 ユエンの注意に私は『ルラ』と言って頷いた。『ルラ』は「分かった」や「YES」に使われる言葉だ。少しずつであるけれど、現地の言葉を使うように心掛けていたので自然と声が出た。「いいえ」や「NO」にあたる『デェー』も分かってはいるのだけれど、使いどころがまだなかった。

 相手の言葉を否定する時は、その言葉の意味をきっちりと把握しなければ大惨事になる。慎重になるべきだ。

 

 収穫作業がノッてくるとユエンは歌を口ずさみ始めた。ゆっくりとしたテンポの伸びやかな歌だ。言葉の意味はもちろん、歌詞自体を上手く聞き取ることもできない。それでも私の中にイメージが湧いてくる。変声期前の澄んだソプラノボイスに翼が生えて、青い空に飛んでいくようなイメージだ。

 小さな頃からこの歌を聞いてユエンは育ったのだろうと思った。代々受け継がれているのかもしれない。身体に染み付いた歌というやつだ。

 ユエンの歌を聞いていると、不思議と身体が軽く感じあまり疲れを感じなかった。きっと作業のリズムと、歌のリズムが合っているのだろう。慣れた以上に作業のスピードも上がった。

 

 途中で休憩を挟みながら、昼まで芋掘りを続けた。大小合わせて1500個ほどの芋を収穫した。さすがにジェルガがいた時ほどではないけれど、私とユエンの2人でこれなら上出来だろう。残る芋畑は一面だけだ。明日には終わりそうだ。

 収穫した芋は木箱や麻袋に入れて、私の使っている貸家とユエンの家の食料庫に運んだ。午前中の作業は終了で、そのままユエンの家で昼食を頂いた。メニューは二種類のパンだった。1つは木の実がたっぷり入ったパンだ。コリコリとしたクルミのような実で、少し歯に挟まって苦労したけれど美味しかった。もう1つは果実の入ったパンだ。窯で焼かれトロけた果実は酸味と甘さが絶妙で、もちろん美味しかった。果実ではなくてジャムだったかもしれないけれど、空腹でそこまで観察しながら食べる余裕はなかった。

 

 ひと休みした午後、他の家の子供たちがやってきた。すでに顔を知っている4人だけでなく、さらに4人増えて8人もいた。ユエンと遊びにきたのかと思ったのだけれど、少し様子が違った。どうやら謎の居候である私を見物に来たようだ。

 子供たちは私に色々と質問?をぶつけて来た。まるで理解できない私は、ただ神妙な顔を浮かべ、彼らの言葉を聞き取ろうと努力だけはした。

 騒ぎが落ち着いたところで、ユエンが他の子供たちになにやら話しかけた。子供たちは頷くと私の手を取り、家の外へ引っ張っていった。

 広場にある井戸までやって来て、子供たちは何やら私に向かって一方的に話しかけてくる。私が聞き取ろうと難しい顔をしていると、水を一杯汲んで飲ませてくれた。

 次に女の子が先頭に立つと、広場に面した家の前へと連れて行かれた。ちょうど玄関から出てきた、母親なのだろう女性を捕まえると女の子は何か喋りだした。どうやら私に母親の事を説明しているようだった。母親も少し困った表情を浮かべていた。女の子が語り終わると、その母親は私に笑いかけてから家の中に戻っていった。

 次に別の男の子が前を歩き、別の家に近づいていく。ここでようやく、子供たちが私に集落の紹介をしてくれているのだと気づいた。

 右も左も分からない不審者の私には、集落の人々への顔見せもできて、とてもありがたいことだった。私は子供たちのされるがままに、集落中を連れまわされた。

 

 この集落がジルクという名前だと分かった。私が使っている貸家を抜きにして、ジルクには全部で14軒の家があった。その戸数が多いのか少ないのか分からないけれど、私は自分の中で『ジルク村』と呼ぶことにした。

 子供たちはその辺にいる人達を片っ端から紹介してくれたけれど、村人全員ではないだろう。ユエンの家族構成を参考にすると、住民は60〜80人程か。

 ユエンの家の前にある井戸と広場が村の中心になっているようだ。この井戸の水は非常に冷たく、そのままでも美味しく飲める。

 井戸を中心に東西方向に道となっていて、家々が立ち並んでいる。道といっても、家が建っていない場所ぐらいの意味合いだ。基本的に村の外側に向かって畑が存在しているけれど、家と家の間が畑だったりと無秩序だ。計画的に作られた村ではない。まず井戸を囲むように数軒の家が建ち、その後に新しい家が建てられ、村が拡張されていったのだろう。

 井戸に最も近いユエンの家が最初の入植者なのかもしれない。そう考えると、ユエンの祖父であるがユーズカが長老的なポジションにいることも自然だ。もちろん単純に年長者に従う文化という可能性もある。

 

 ジルク村には主な産業が2つあった。

 1つは私が従事している農業だ。村の畑で見ることができたのは、あの芋とヘチマに似た緑の瓜、それにカボチャっぽい作物だ。数種類を作付けしている家もあれば、どれか1種類という家もあった。牛を飼っている家もあるけれど、多くても2頭ほどだ。荷物を運んだり、自分の家で消費するだけなのだろう。ニワトリ(らしき鳥)も家の囲いの中で見かけたけれど、大量に飼育している気配はない。

 2つ目の産業は織物だ。軒先や窓から覗く室内で、棒に張った縦糸に横糸を潜らせている光景がよく見られた。菱型を繰り返したものやフラクタル樹型などの幾何学模様、動植物を図案化したものなど、精緻な技が光っていた。かなり高価なものだろうことは想像に難くない。ジェルガも荷車に積んでいたから、ジルク村の特産品として売っているようだ。綿花の栽培や養蚕を行っていないので、糸はどこからか仕入れているのだろうか? それとも森に綿花的な植物が生えているのかもしれない。

 森が近いけれど林業は行われていなかった。ただ、これについては時期でないという可能性がある。あの巨大ヘビや巨鳥がいない季節は森に入り、木材を切り出していたりするかもしれない。

 

 やはり農業は男性が多く、織物は女性が多い。しかし役割分担はそれほど厳密では無いようだ。畑で鍬を振るう女性の姿も、真剣な表情で織物をする男性の姿も見た。とりあえず、ジェルガが私を織物の仕事に回さなかったのははナイス判断だ。ボタン付けでデカすぎる糸玉を作るほど不器用な私では、あの美しい織物に悲惨な爪痕を残したことだろう。まあ、元手が高価そうな作業を、素性のしれない私のような不審者にやらせるはずもない。

 大人はそのように働いている一方で、ある程度の年齢に達した子供たちは、ひとまとめに行動させているようだ。村長?の孫という自覚があるのか、年長者であるユエンは、よく年下の面倒を見ていた。

 

 ジルクは時間がゆったり流れる牧歌的な村だった。

 長期休みに逗留するなら良いだろう。しかし、いつまでも住みたいかと聞かれたら、答えはノーだ。

 

 多少窮屈でも、忙しなく月日が流れる日本に帰りたい。

 村にとっても私はイレギュラーな存在だ。今は作物の収穫期で人手が必要だから良いけれど、それが終われば私はただのお荷物だ。この小さな村では、私のように役に立たない余剰人員をいつまでも養うことなんて出来ないだろう。

 

 とはいえ、今は精いっぱい働きます!

 だからいきなり放り出すのは勘弁してください!

 

 ひと通り村の紹介が終わると、今度は子供たちの遊び場を連れ回された。村外れの大岩や泳ぎやすい川原、登りやすい木、綺麗な団子が作れる粘土の場所などなど、全てを教えてくれた。子供たちが仲間と認めてくれたのは嬉しいけれど、さすがに歩き疲れてしまった。

 

 村の広場に戻ってくると、ちょうどジェルガが戻っきたところだった。ユエンや他の子供たちが荷車を取り囲む。満杯だった荷車の作物は無くなり、代わりに生活雑貨や肉などの食べ物が載っていた。

 ジェルガはひとりではなかった。厚手の外套を身につけた男と一緒だった。男は金髪で、村の人々とは格好も雰囲気も違う。ひと目で異邦人だと分かった。

 金髪の男は馬(のような生き物)に箱型の荷車を引かせていた。彼の荷物が入っているのか、箱には頑丈そうな鍵がついていた。

 日が落ち、あちこちの家から子供を呼ぶ声が聞こえてきた。新しい異邦人に興味津々の子供たちは、後ろ髪を引かれながら家に戻っていった。

 ジェルガは息子のユエン、私、そして金髪の男を従え家に向かった。男はジェルガの客人だった。

 

 家に戻ったジェルガは、家族にお土産を渡した。祖父のユーズカには小さな袋、中身は草を乾燥させたものだ。薬かタバコかもしれない。祖母のラナには鉄製らしき鍋だ。大きなもので20人前ぐらいは一度に煮込めそうだ。妻のリテンにはべっ甲のような透き通った飴色の髪飾りだった。柔らかい雰囲気のリテンによく合っていた。

 そしてユエンが受け取ったのは鉈だった。新しい物なのか、暖炉の光でも分かるほど輝いている。今までユエンが身につけていたナイフに較べて大きく、何倍も力強い。ユエンは満面の笑みで喜び、父に何度もお礼の言葉「ナークル」を繰り返した。

 

 ユエンの家族に、私と金髪の男を加え7人での夕食となった。新しい鍋がその力を存分に発揮し、ベーコンと大豆&トロトロ瓜の極上スープが大量に振る舞われた。肉厚に切ったベーコンからタップリと滲みでた出汁が、煮大豆に染み込みんでいた。そこに長時間煮込んだ大根のような食感の瓜が合わさり最高だ。スープだけでなく焼きたてのパンと、分厚い燻製肉のハーブソースがけも加わり、豪勢な夕食だった。

 食事中は珍しくジェルガが積極的に金髪の男と話していた。何かを相談しているような様子だった。金髪の男は少し困っているふうだったけれど、ジェルガの説得?に首を縦に振った。

 この時、2人の会話から金髪の男がガイスという名前だと分かった。

 他にもジェルガは私を指さして、なにやらガイスに尋ねていた。話の内容は分からないけれどなんとなくニュアンスは分かった。こんな人間を見たことが無いかと聞いているようだ。ガイスは知らないようだった。ただ、ガイスは私に興味を持っているように見えた。ジェルガやユエン、それにガイスとも明らかに人種が違い、言葉も通じないのだから当然だろう。

 

 食事が終わった後も、ジェルガとガイスはお酒を飲みながら何やら話していた。2人の会話を頑張って聞こうとしたけれど、その難解さから私は眠くなってしまい諦めて貸家に戻った。

 

 ガイスは持ち込んだ荷車からして、旅をしているようだ。村の外の世界を知っているなら、何か新しい情報が得られる可能性がある。日本語や英語を話したり、文字や携帯電話などの文明の利器を見せて反応を見たいところだ。

 もう夜遅いのでガイスは村に泊まるだろう。

 明日、チャンスがあるかもしれない。

 

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14日目

 

 今日は私とジェルガ、そしてユエンで収穫を行った。3日目となれば鍬の扱いに慣れ、肉体も力仕事に馴染んできた。もちろん、ユエン親子にかなうはずもないけれど、初日のおよそ1.3倍の作業速度があったと自負している。そのお陰のわけではないけれど、午前中にすべての畑の収穫が終わった。

 ユエンの家では他にも『カンマイ』というヘチマに似た瓜やカボチャに似た『ポッカ』という作物も栽培していた。この二種類は私が村にやってくる前にほとんど収穫を終えていたらしい。

 

 広場へ行くと村の人たちが集まっていた。遠目に井戸の水汲みを待っているのかと思ったけれど、誰も桶を持っていないので違うようだ。近づくと、ジェルガの客人ガイスがその中心にいた。

 ガイスは屋台を広げていた。馬車の箱型の荷車が開き、そこに色々な物品が陳列されている。村の人たちはその物品を見たり、手にとったりしながら、ガイスに話しかけていた。

 そのうち、一人の中年女性がコインらしきものを渡し、白い石をガイスから受け取った。

 ガイスは行商だった。ジェルガと親しげだったことや、村人の慣れた様子から、お得意様のようだ。品物が飛ぶように、とは言えないけれど、そこそこ売れているようだ。

 私はガイスと村の人が使っているコインに注目した。褐色や鈍色の金属製で百円玉ぐらいの大きさだ。

 貨幣には二通りの価値がある。1つは物質としての価値だ。例えば金や銀ならそれだけで、価値があるとみなされる。もう1つは保証された価値だ。1万円札は物質としては原価20円ほどの紙切れ1枚だけれど、日本銀行が1万円という価値を保証している。

 コインの材質が何なのか、どれほどの価値があるものなのか私には分からない。日本の小判が海外に大量に持ちだされた史実があるので完全には否定出来ないけれど、村人が金や銀ほどに価値ある物質をこんな気軽に取引するとは思えない。おそらく村の人達が使っているコインは、国などが価値を保証した貨幣だ。

 さらにコインの表裏には何か文字らしきものとシンボルが描かれていた。サイズや見た目が統一されていることからも、美術品ではなく貨幣として鋳造されたものだ。

 金属製のコインを大量生産する技術を持ち、さらに鋳造権という強い権力を持つ国が存在している。そして、このジルク村はその影響下にあるということになる。

 ジルク村が『国』の一部かどうかは分からない。ただ貨幣を利用しているだけかもしれないし、地政学上は国に組み込まれていても村の人達にその自覚はないかもしれない。とりあえず、大きな経済圏があることだけは推測できる。

 

 昼食時だからか、しばらくすると人垣が空いてきた。私とユエンは屋台に近づき、品物を見ることにした。

 まず目立っているのは宝飾品だ。透き通った碧色の宝石をはめ込んだブレスレットや、金属の光沢を持つ翡翠色のネックレス、竜を模した銀の指輪。村の女性たちもうっとりした表情で眺めていた。

 宝飾品の横には大きなトカゲらしき干物が吊るされていた。かなりのインパクトだけれど、村人たちは特に注目していない。一般的な食べ物か漢方薬的なモノなのだろう。

 一番の売れ筋商品は半円形のコバルトブルーの石がはめ込まれた板切れだ。10cm×5cmの長方形で木札のように見える。装飾品にしては地味だけれど、お守りとか宗教的な物かもしれない。何かの実用品だとしたら、使用方法は見当もつかない。

 他には、ただの木の棒にしか見えない棒、短刀、水晶球、薬だろうか液体の入った小瓶、台の上でピクピクと跳ねる小石なんて手品の道具らしきものもあった。

 そんな雑多な屋台の隅にポツンと置かれていたモノに、私は注目せずにはいられなかった。

 

 革張りの古びた表紙に赤い文字が書かれた『本』だ!

 手に取り「これは何か」と尋ねると、ガイスは少し意外そうな表情で「ヘル」と答えた。表紙に書かれているタイトルらしき文字は2文字より長いので、『ヘル』が『本』自体を指す言葉だろう。

 日焼けし変色した紙を慎重に捲ると、少し埃っぽい臭いがした。長いこと客の手に触れていないのだろう。ペラペラ捲ると、黒インクの文字が理路整然と並んでいた。均一な文字が僅かにへこんでいる。金属や木製の活字を紙に押し付けて印刷する活版印刷の特徴だ。

 文字自体は直線や曲線で構成されている。アルファベットやラテン文字、ルーン文字に似ているけれど、そのどれとも違う。ざっと見ただけでは、象形文字的な要素は見られない。同じ文字が頻出していることからも、1つの文字で1つの音を表す、表音文字だろうか。ただ日本語のように、1文字だけで1語表す表意文字が混在している可能性もある。

 肝心の本の内容だけれど、文字ばかりが書かれているのでさっぱり分からない。小説かもしれないし、何かの報告書かもしれない、どこかの地方料理のレシピ集だってありえる。

 この本が、文字から言語を類推する手立てにはなるかも知れないと思った。そこで、ユエンに中身を見せてみた。しかし、首を傾げられてしまった。内容が難しいと言うよりは、そもそも文字が読めないようだ。村の中で、文字を一切見かけなかったのだから納得だ。

 この本を手に入れても『読む』手段がないということになる。1文字1文字拾って、そこから暗号を解読するように言語を学習していては、それこそ一生かかっても終わらない。

 電子辞書か携帯電話との物々交換で手に入れられるかもと思った。しかし、それは賢い選択肢ではないだろう。少し名残惜しいけれど、ガイスの尋ねるような視線が気になって革張りの本を台に戻した。

 

 品物を買うだけでなく、村人たちはガイスと楽しそうにお喋りをしていた。娯楽の少ない村では、行商の話自体が一つの商品になっているようだ。きっとガイスも世間話から次に仕入れてくる商品を決めていたりするのだろう。

 

 そんな喧騒も昼食時になり一段落がついた。ちょうどその頃にユエンの母ラナが、焼きたてのパンを持ってきてくれた。ユエンとジェルガ、そしてガイスと一緒にそのパンを食べた。外側はサクッとしていて、生地はふわっふわ、さらに中にはキノコのソテーがたっぷり包まれているお惣菜パンだった。素朴な材料だけれどボリューム感があって美味しかった。ラナは本当に料理の腕が素晴らしいと再確認できた。

 

 食事が終わると、ジェルガはユエンに何か指示を出した。ユエンは頷くと見える家々を回って声をかけ始めた。家からは子供が出てきて、広場に集まってきた。

 村中の子供が集まったところで、ジェルガはガイスに声をかけてどこかへ行ってしまった。残されたガイスは小さくため息をついて子供たちを見渡すと、荷車から黒い版と白い石を取り出した。

 これから何が起こるのか子供たちは知っているようで、ガイスの一挙手一投足に注目していた。そんな子供たちの視線に耐えかねたのか、ガイスは愛想笑いを浮かべて子供たちに声をかけた。子供たちは元気よく返事をした。

 ガイスは黒い板に蝋石で絵を描き始めた。紙芝居的なことでもするのかと思っていたら、どうにも様子が違った。白い線の輪郭は絵ではなく地図だった。

 その地図を指してガイスは何か説明を始めた。子供たちはその説明を真剣な表情で聞いていた。ジルクという単語が聞こえたので、縮尺は分からないけれど村周辺の地図のようだ。

 授業をしているのだと私は合点がいった。行商のガイスは色々な物事を知っていて見聞も広いだろう。教師にはぴったりの人材だ。この黒板と蝋石も普段は値段などを書いて看板に使っているのだろう。

 昨晩、ジェルガが頼んでいたのはこの授業の事だったようだ。次期リーダーとして、村の将来のために子供たちに教育の機会を与えているわけだ。明らかに異質な私を村に受け入れたことからも、ジェルガは意外と先進的な考えの持ち主だと分かる。

 私にとっても授業は非常にありがたいことだった。急いでノートと筆記用具を持ってくると、意味は分からない絵も図もとにかく書き写していった。

 地図の説明が終わると、今度は文字の読み書きの授業が始まった。私にとっては願ってもない幸運だ。もしかしたら、ジェルガが私の事も考えて、頼んでくれたのかもしれない。

 子供たちは文字を発音しながら、枝で地面に文字を書く。私も文字を書き取りながら、ガイスや子供たちの発音を真似て声を出した。

 

 ガイスが授業で教えてくれた文字は42種類。これで全てか分からない。とりあえずどの文字も発音はできたので、ノートにカタカナ表記した。

 

 社会、国語、ときたら次の授業はもちろん算数だった。

 この社会には0〜9の数字がちゃんと存在していた。0と1はほぼ同じ形で、2がコ、3は∃、4が筆記体のφ、とアラビア数字と似ている。計算しやすさや筆記しやすさなどから、同じような収斂が起きたのだろうか。ちなみに、私は初め0と1を間違えていて、桁上りの時にようやく気づいた。

 

 地図の話や文字の書き取りはスラスラと行っていた村の子供たちだが、計算の授業になった途端、集中力を欠き始めた。算数というのは、どこの世界でも子供にとっては苦手に思いやすい科目なのだろう。逆に、私にとっては数字さえ分かってしまえば、小学生の算数ぐらいは何の問題もない。

 さらにガイスの教え方も悪かった。彼はいきなり数字を使って足し算や引き算の勉強を始めた。彼もそうなのか、正規の教育を受けた者からすれば、その方が分かりやすい。しかし子供たちにとっては、いきなり数字を使われてもピンとこないようだった。特に6〜8才ぐらいの小さな子供は、黒板と地面の枝を視線が行ったり来たりした後で、ついにはお絵かきを始めてしまった。

 ガイスは仕方がなさそうに、比較的理解しているようなユエンたち年長組に向けて説明を続けた。放置される形になった小さな子供たちはつまらそうにしていた。

 少し気の毒になった私は小さな子供たちに近づくと、地面に落ちている石を並べてみせた。まず初めに1個、次に間隔をあけてさらに2個並べ、その下に数字と計算結果を書いてみせた。

 次に石を3個と2個で並べ、その下に数字を書く。それから女の子のラミに枝を渡し、計算結果を書くように促した。ラミは迷っているようだったので、石を1つずつ数え上げていく。するとラミも分かったのか、答えの『5』を地面に書いた。

 私はラミを大げさなリアクションで褒めて上げた。言葉が上手く通じないので態度に出すしかない。すると少し照れたようにしながらラミも喜んだ。

 それを見たエヒンや他の小さな子供たちも興味を持ったようで、私に問題を出すように催促してきた。私は石を拾って幾つか簡単な計算問題を彼らに出してあげた。

 しばらく小さな子供たちだけで楽しんでいると、ユエンたち年長組もこちらにやって来て、ついにはガイスの話を誰も聞かなくなってしまった。

 役目を奪ってしまい申し訳なく思った私がガイスの方を見ると、彼はホッとした表情で、そのまま続けてくれとジェスチャーをしていた。

 日が落ちるまで私の算数教室は続いた。

 

 夕食の席でガイスの方から私に話しかけてきた。詳しい内容までは分からなかったけれど、算数教室の手助けでお礼を言っているようだった。

 良い機会だと思い、私もガイスと会話を試みることにした。今日までで身につけた少ない単語とジェスチャー、そしてノートに書いた絵を駆使し、身の上を話した。どうやら私が壮大な迷子だということは伝わったようだ。それから日本語や英語を使ってみたけれど、ガイスはまるで心当たりがないように首を横に振った。さらに電子辞書や携帯電話を見せた。ガイスは物品自体に強く興味を持っていたようだけれど、それらの品を見たことも聞いたこともないようだった。

 行商のガイスなら何か手がかりを得られるかもと期待していたので、私は少なからず落胆した。そんな私を見てしばらく何かを考えていたガイスは、思い出したように「ジクルス」という言葉を呟いた。それは何かと尋ねると、ガイスは私が広げていたノートに簡単な地図を描いた。この村から南の方角に「ジクルス」という、街か何かがあるようだ。

 「ジクルス」に手がかりがあるのかもしれない。ただ、ガイスの表情は迷っているようだったので、あまり確信はないのだろう。

 とりあえず、あまり気にしすぎて焦らないほう良いだろう。

 

 夕食の厚切りベーコンとホクホク蒸し芋のキノコソース掛けが美味しくて、多少のモヤモヤした気持ちは落ち着いた。

 食後の一休みを終え貸家に戻ろうとすると、ガイスと話していたジェルガが私を呼び止めた。ガイスもなぜか一緒に私の方を見ていた。なんだろうと思っていると、ジェルガは私に「計算」と「ユエン」、そして「子供」という言葉を繰り返し、書くジェスチャーをした。

 私は少し考えてから、自分、次にユエンの順番で指さし、さらに指先で虚空に数字を書いてみせた。

 父ジェルガの会話と、私のジェスチャーの両方の意味が最初に分かったのはユエンだった。彼がウンウンと頻りに頷き、それからジェルガに口添えをした。ジェルガは確認するように私の目を見る。私は分かったと答え頷いた。ジェルガはいかつい顔を綻ばせ頷き返してきた。

 

 どうやら私はユエンや子供たちに、算数を教えることになったらしい。

 言葉が通じないので不安あるけれど、ジェルガに恩を返すチャンスだ。それに世話になっている子供たちの将来の役に立てるなら望むところである。

 

 と、こうして意気込んではいるけれど、果たして上手くいくかどうか?

 とにかく出来る限りのことをしよう。

説明
異世界でサバイバルする日記風小説です。8日目から14日目までを収録しています。
PIXIV(http://www.pixiv.net/series.php?id=505142)と
小説家になろう(http://ncode.syosetu.com/n1696cn/)で時々更新しています。こちらではまとめて読めます。
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