アルドノア・ゼロ mico spei EPISODE.04
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アルドノア・ゼロ mico spei EPISODE.04

 

 

「マスタング0−0よりデューカリオンへ。敵機の反応なし。引き続き哨戒を続ける」

 界塚伊奈帆はロールアウトされたばかりのスレイプニールを駆りながら月面基地からほど近い隕石地帯の哨戒任務に就いている。

 隠れているヴァース軍機に無駄な戦闘を行わず降伏を促せるようにこの任務に志願した。

 ヴァース軍機が個々に、しかし数多く宇宙空間へと上がってくるようになったのは一昨日からのことだった。

 

 月面基地の総力を上げた大規模作戦でスレインを捕縛直前まで追い詰めた。だが、突然の全軍撤退命令に好機を逸してしまった。

 地球から百を超えるヴァース軍機が宇宙へと上がってきたためであった。停止していたはずの地球上のアルドノアドライブが突如再稼働。一斉に宇宙へと逃げてきたために起きた現象のようだった。

 アルドノアドライブが再起動したとはいえ、ヴァース軍はそのほとんどが輸送機。宇宙で戦えるカタフラクトは既に有していなかった。

 開戦時ならともかく、戦争開始から2年が経ち分析され尽くした輸送機が各自バラバラに動くのでは宇宙に展開する地球軍の精鋭部隊の敵ではなかった。その多くが撃墜され、残りは降伏、またはサテライトベルト地帯に逃げ込んで息を潜めている。

 だが現在も地球から脱出を図ろうとするヴァース軍は後を絶たず警戒網が敷かれていた。

 

「あまりにもタイミングの良すぎたアルドノアの再起動。スレインが逃そうとしていた艦艇にレムリナが乗っていたと見るのが妥当、かな」

 一昨日の戦闘に関して再度分析してみる。スレインは自らを囮にして艦隊を逃そうとしていた。しかしスレインはヴァースの最高権力者。考えてみると変な話ではあった。

 けれど臨時政府首班であるスレインよりも重要な人物が艦に乗っていたのだとしたら。皇帝レムリナが座乗していたのだと仮定するとスレインの行動は理に適うものになる。

 そしてレムリナはそんなスレインを援護するためにアルドノアを活性化してヴァース軍の残党を宇宙へと上げさせた。そう考えると色々と辻褄が合ってくる。その推理が真実なのか確かめようはなかったが。

 だが伊奈帆の脳裏を本当に占めているのは前回の会戦の不可解な推移の謎ではなかった。

「スレインとレムリナが同じ艦にいる。となると、もしかするとセラムさんも一緒に……」

 伊奈帆の分析ではこの2年間一度も姿を公に現していないアセイラム姫。その彼女がスレインの母艦にいるのではないかという推測だった。

 アセイラム姫が生きているのならスレインに囚われているというのが伊奈帆の分析だった。そして新皇帝を危険に晒してまでわざわざ自分の手元に置いているぐらいなのだからアセイラム姫も側にいるのではないかというのが伊奈帆の推測だった。

 伊奈帆の推論を彼の左目は支持していない。立証性に欠けている。けれど、スレインが月面までわざわざやって来たのは伊奈帆と決着をつけるためだった。この事例が指し示すように、勘の方が正解に辿り着くこともある。

 伊奈帆は紹介任務を終わらせる報告を戦艦に行う。そしてデューカリオンがアセイラム姫を乗せて航行していた頃に使われていた周波数に無線を合わせてマイクに向かって語り掛ける。

「セラムさん。伊奈帆です。界塚伊奈帆です。この放送を聞いていたら現在の場所を教えてください。必ず迎えにいきます。セラムさん。聞こえていたら返事をお願いします」

 返答はない。あるはずもない。けれど、伊奈帆は何度も繰り返して呼び掛ける。

 伊奈帆はカタフラクトに乗る度に定期的にアセイラム姫に無線で訴え掛ける時間を過ごしていた。

 

 

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「チッ、オルガめ。幾ら煽ろうとも尻尾はなかなか出さないか」

 ヴァース帝国旧オルガ伯爵領オルガ邸前。紅色のカタフラクト・ハーシェルに座乗したハークライトは遅々として一向に進まない交渉に苛立っていた。

 ハークライトは暴徒乱入で死亡したマリルシャン伯爵から接収し改造したハーシェルを駆り部下とともにオルガの屋敷を囲んでいる。

 だが、武力制圧を行おうとしているわけではない。1発の銃も放ってはいない。脅しは掛けているものの交渉という体裁を崩してはいない。何故ならオルガはかなり早い段階でスレインに恭順の意を示した稀有な貴族の1人だったのだから。

 では何故、ハークライトはオルガを攻め立てているのか。それはひとえにオルガが時局を読む力を持ち思慮深く政治家・実務家としても有能な人物であると認めているから。

 革命新政権が内政を始めた際に、政治経験不足のスレインに代わりオルガは政治の実権を握りかねない。それを阻止するには地球との戦争が終結する前にオルガとそれに賛同する貴族たちの力を少しでも抑えておくことが肝要だった。

 

「有能な貴族など、貴族制が終わった世では邪魔なだけなのだ」

 ハーシェルのコクピットが舌打ちの音で埋め尽くされる。

 ハークライトは貴族の9割は地位と権限さえ剥いでしまえば全く取るに足りない無力で無能な存在であるとみなしている。

 だが、残りの1割、ほんの数%の割合の貴族は違う。爵位がなくても国家の中枢にまでのし上がってこられる才覚を持っている。その代表格がオルガ伯爵だった。

 ハークライトは仕官できるのなら国家天下を動かせる才覚のある貴族の下で働きたかった。そして彼なりに調査した結果ザーツバルム伯爵かオルガ伯爵が最も望ましいという結論に至った。2人はずば抜けて有能な貴族だった。

 だが、2人の目指すものには大きな違いがあった。ザーツバルムはヴァースの変革を重視したのに対し、オルガは現状の充実を謳っていた。第三階層出身でヴァースの現状に大いに不満を抱いていたハークライトにとってはザーツバルム伯爵の方が魅力的だった。それが、ザーツバルムへの仕官を熱望する最も重要な動機となった。

 

「オリンポスの砂嵐には抗うなかれ。まさかそれを地でやるとはな……」

 ハークライトの口から弱音が漏れる。

 戦後のことを考えればオルガは今の内に弱体化させたかった。できれば先に弓を引かせそれを理由に殺してしまいたかった。だが、相手は政治巧者。ハークライトの思惑には乗らずスレインへの恭順を表向きは崩さない。

 しかし一方で、資産や伯爵領の引き渡しは理由を付けては先延ばしを続けている。また、本人は病気を理由に館から一向に出てこない。オルガは面従腹背な姿勢を貫きながら時間稼ぎに走っている。

「オルガの奴め。スレインさまの基盤が脆いと踏んでおるな」

 オルガが時間稼ぎを続ける理由。それは、スレインの政権基盤が盤石ではないと認識しているからに違いなかった。

 実際、スレインは幾つもの弱点を抱えている。例えば、アルドノアの起動権を独占しての力攻めは貴族たちの心を全く掌握できていない。他にもスレインは界塚伊奈帆に執着してもう何日もヴァースを空けている。レムリナもスレインに同行して行ってしまった。最高責任者2名の不在が続いており、政権内部からも不満が吹き上げかねない状況だった。

「もうこれ以上ヴァース平定に時間を掛けるわけにはいかない。だが……」

 目を瞑って思い悩む。オルガのように面従腹背な貴族をいつまでも相手にはしていられない。懐柔プランは既に準備はしている。だが、そのプランを実行すれば政権にとって長期的には禍根を残すことになりかねない。

 ハークライトの葛藤はもう数日間に渡って続いている。武力で単純に討ち滅ぼせばいい貴族はもはや全員倒した。後は政治的な駆け引きが主となる。だが、それに関してスレインやレムリナから具体的な策や方針はない。ハークライト自身も経験不足で采配を振るい切れない。もどかしい時間が流れていた。

 

「うん? スレインさまから……通信、か」

 悩み続けていると通信が入った。スレインからの専用通信だった。外部への情報漏れを入念に遮断してから通信を開く。リアルタイム通信ではなく、文字メッセージだった。

 

  早々にヴァース平定を完了させ地球との終戦協定締結に向けた交渉に着手せよ。多少の譲歩は構わない

  

 譲歩の幅、期間などで不明瞭な点はあるものの通達の趣旨自体は明白だった。

「問題は、何故スレインさまはお急ぎになっているのか説明がないところ、だな」

 副官であるハークライトに重大な方針転換の理由を説明しないのは変だった。言い換えれば説明できない、またはしたくない事情が介在している可能性が高かった。そしてスレインが現在陥っているのであろう危機や混乱については心当たりがあった。

 ハークライトはスレイン母艦の医療チームへ秘匿回線を繋げた。そして、如何にも全ての事情を知っているかのように振る舞いながら責任者に問い質した。

「レムリナ陛下の容態は?」

 50前後の髭をたくわえた中年男性医師は渋い表情を見せた。

「良くはない、と申し上げるべきかと存じます。アルドノアドライブ停止の恐れがあるために生命維持装置に入っていただくわけにもいかず応急処置を続けている状態です」

 ハークライトの嫌な予感は的中していた。動揺が声や表情に出ないように気を付けながら話を続ける。

「艦内のアルドノアの起動権を誰かに移しそれから装置に入っていただくことは?」

「陛下ご自身が拒否されておられるので難しいかと」

医師は困惑の表情を見せている。レムリナが意地を張っている姿は容易に想像できた。

「今後陛下のご容態が悪化の一途を辿るようであれば、秘密裏に麻酔で眠らせて装置に移せ。ドライブが仮に切れても予備電源でしばらくは装置も保つ。こちらからもすぐに救援の艦艇を差し伸べる」

「はい」

「後、私との会話は他言無用だ。陛下にもスレインさまにもだ」

「…………そうしていただけますと私も助かります」

 頭を下げる医師を見てから通信を切る。

 

「あの小娘……スレインさまを煽りおったなっ!!」

 ハークライトの口から飛び出たのは担ぎ上げた皇帝少女に対する愚痴と怒りだった。コクピットのソファーを力の限り殴ってしまう。

 医師には何ら具体的な話は聞いていない。何故レムリナが重傷を負ったのかわからない。けれど、これまでの経緯から想像してスレインがレムリナを撃ったことは間違いなさそうだった。レムリナはアセイラム姫を引き合いに出して挑発し、わざと撃たれたに違いなかった。レムリナがアセイラム姫を害するのではないかという危惧は以前からあった。

「これで我らはレムリナ中心に回ることになってしまったか……」

 大きく舌打ちを奏でる。

 レムリナが死ぬ。そのような事態に陥れば、スレインもまたアルドノアドライブを失うことになる。それは現在スレインが独占している軍事力や産業インフラの喪失を意味する。

 故にレムリナの死はスレイン陣営にとってはあってはならないこと。だが、その重要性故にレムリナは己の命を対価とすることでスレインを操ることができる。

 レムリナが己の命にタイムリミットを設けてしまえば、スレインは残された時間に従って動くことを余儀なくされる。レムリナが亡くなる前にヴァースの平定を完了し、その統治を合法的なものに変え、地球とも終戦協定を結んでおかなければならない。

 レムリナの容態がスレインの行動指針の中核を占めることになる。傀儡の皇帝に過ぎなかった少女が、己の生命を担保にすることでヴァースの最重要人物になる。その切り札とも言えるカードをレムリナは実際に切ってみせたのだった。

「自分の命とヴァース全てを危険に晒してまでスレインさまの気が惹きたいのか。結婚なら後でさせてやると言っておいたのに。クソッ!」

 ハークライトは再びシートを強く叩いた。

 レムリナがスレインを挑発したのはその恋心ゆえであることは予想がついている。そもそもレムリナが政権奪取に積極的に賛同したのはスレインの気を惹きたいから。乙女らしい動機が彼女の根底にはあった。

 だが、想い人のスレインはアセイラム姫に心を寄せ、地球人の一パイロットに激しい怒りを抱いている。レムリナに対しては好感と共感を抱いているものの、その想いが強いとは言えない。レムリナにとってそれは大きな不満に違いなかった。

 恋心ゆえに従いそれが叶わぬがゆえに裏切る。そんなわかり易い構図がハークライトには見て取れてしまった。

「やはり、あの艦にスレインさまたち3名を一緒に乗せておくべきではなかったか……」

 10日ほど前になる出来事の自分の判断ミスを呪うしかない。

 スレインが伊奈帆との交戦を目的に月面への移動を訴えた時、抑止力代わりにレムリナとアセイラム姫を同行させることを認めてしまった。その3者を自分のいないところで一箇所に集めるのは今思えば大失態だった。

 レムリナにとってはスレインが動力源であり爆弾。スレインにとってはアセイラム姫がそれに該当する。ハークライトが目を離した隙にその爆弾が爆発してしまった。

 ヴァース平定にばかり気を取られてまだ20歳にも満たない少年少女たちの心の問題を放置した自分を悔やむ。だが、今のハークライトにとっては起きてしまったことをいつまでも悔やむ暇はなかった。

「やむを得まい。オルガたちと取引と行くか。平定は24時間以内に完了するぞ」

 レムリナの急変をオルガたちがいつ嗅ぎつけるかわからない。ハークライトは早速懐柔に取り掛かることにした。

「オルガ伯爵。私と共にスレイン首班を盛り立てていきませんか?」

 ハークライトは懐柔案で、スレインに恭順する貴族に対しては爵位と領土は没収する代わりに行政官としての地位、及び財産の保持を一定程度で認めることを約束した。

 数時間の折衝の末、オルガもハークライトの案を飲んだ。オルガが折れたことで他の貴族たちもまた恭順の意を示した。

 全貴族の3分の2以上が死亡したヴァースの内戦はここにようやく終結の時を迎えた。

 

「スレインさま……どうか早まった決断をなさりませんように……」

 ヴァースの平定がようやくなったというのにハークライトの心は晴れなかった。これからのことを考えるとむしろ気分が沈んでしまう。

 ハークライトは地球連合政府に対して正式に停戦及び終戦協定締結の交渉に入る準備があることを伝えた。

 それと同時に50機ほどのカタフラクト部隊を引き連れて宇宙艦隊を編成。自らは接収して起動させておいた揚陸城に座してスレインの元へと急いだ。

 だが、ハークライトの不安はなくならない。ヴァース平定がなった今、スレインはどう統治を行うつもりなのか。そもそもヴァースを導く気が本当にあるのか。今更ながら不安になってしまっていた。

 

 

 

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「ヴァース平定完了の祝辞のご挨拶を述べていただきましてありがとうございました」

「…………いえ」

 疲れきった男の声。返答した少女の声もまた力がなかった。

 スレイン母艦の執務室。つい先ほどまで行われていた政見放送が終わって風景が一変した。明るく綺麗な執務室の映像が消え、薄暗い室内で物が至る所で散乱している。

 室内の変化とともに執務室内にいた2人の男女の光学迷彩も解けた。男、スレインの方は外見的には大きな変化はない。ただし、顔だけは別だった。光学迷彩が掛かっていた時は凛々しく引き締まった表情だったが、今は青白く目の下にクマができ疲れた貌を見せている。ヴァース最高責任者が公的な放送で見せるのに相応しい顔ではなかった。

 一方でまるで外見が変わったのは女の方だった。祝辞を述べていたレムリナの姿が消え、

代わって姿を現したのは黒い侍女服を着たエデルリッゾだった。

「エデルリッゾさんのおかげで何とか首の皮一枚繋がりました」

 スレインは弱々しい表情を見せたまま車椅子に座っているエデルリッゾに向かって頭を下げた。

「…………私にできることは何でもやらせてください」

 エデルリッゾは立ち上がってスレインに向かって頭を下げ返す。暗い表情で。

 レムリナの影武者として今日の放送はエデルリッゾが演説した。

 元々レムリナにアセイラム姫の影武者を務められるように立ち居振る舞いを指南したのはエデルリッゾだった。そして彼女はレムリナお付きの侍女でもある。エデルリッゾ以上に新皇帝の言動を熟知している者はいない。影武者として最適任者なのは間違いなかった。

 だが、彼女がレムリナを実際に演じるのには大きな障壁が伴った。エデルリッゾは演説の類を行ったことは一度もなくレムリナのようには上手く喋れない。結局、何度かのリハーサルの後に生放送は諦めて収録にした。撮り終えるまで10度のやり直しを要した。

 そしてレムリナのフリをする自体ことがエデルリッゾにとっては何よりも辛かった。

「こうなったのは全て私の非力が招いたことですから……」

 少女は一昨日の光景を思い出すと今でも頭がおかしくなりそうになりそうだった。

 

 レムリナはアセイラム姫の生命維持装置を停止しようとした。エデルリッゾはその暴挙を止めようとしたが力及ばなかった。だが、装置を完全停止させる直前で出撃から帰ってきたスレインに撃たれるという凄惨な結果を迎えた。

 

『私の……勝ちですね……お姉さま…………っ』

 

 レムリナはスレインに撃たれるという結果に満足していた。全てはスレインの一番になるため。ただそれだけを願った恋する乙女らしい一途さと狂気が混じった行動だった。

 レムリナは明日をも知れぬ重傷の身となったことで確かにスレインの一番になった。スレインはレムリナを中心に回っている。また、自分への戒めなのか狙撃以来アセイラム姫の元を一度も訪れてはいない。

だがそれはスレインにとってレムリナが最も愛しい人になったことは意味しない。アルドノアの起動権を有する超越的な力を持つ彼女の道具的な価値が再評価されたということに他ならない。それがエデルリッゾにとっては何より辛いことだった。

「……レムリナ陛下はスレインさまに愛されたいのではなかったのですか……」

 好きな男の愛を得ずに思考だけ独占する。そんな道を生命を賭けてまで選んだレムリナを思うと胸が痛くて仕方がない。

そして、そんな彼女を撃ってしまったスレインを見るとどうしても居た堪れない気持ちでいっぱいになってしまう。

 

「スレインさまは少しお休みになられたらどうですか? その、御顔の色がよくありませんよ」

 レムリナを撃って以来スレインはほとんど眠っていない。伊奈帆と激闘を繰り広げ疲れ果てているはずなのに指示を出し続けている。

「レムリナ陛下の御顔と共にやるべきことが際限なく次々と浮かんできます。休む気にはなれませんよ」

 スレインは力なく、それでも笑ってみせた。

「ですがそれでもお休みになるべきです。このままではスレインさまのお体がもちません」

 なおも休息を勧めてみるもスレインは小さく首を横に振る。

「僕は皇帝陛下を撃ってしまった身。どのみち極刑は免れませんよ」

 寂しげに語るスレイン。エデルリッゾは肩を震わせながら必死に抑える。

「あの時、レムリナ陛下を撃つ必要なんてなかったんです。たとえ生命維持装置を停められてもすぐに再起動すれば良かっただけの話なのですから。僕にはそれができましたし」

 スレインの語りには生気が抜け落ちている。その顔に何千という貴族階級を討ち滅した革命政権の首班の面影は見えない。

「アセイラム姫殿下を守れないばかりか、レムリナ陛下まで傷付けて。僕は本当にヴァースの疫病神ですね。やっぱり僕は……」

「何だかんだ理由を付けて死を願う。いい加減にしてもう甘ったれないでくださいっ!!」

 気が付けば大声でスレインを怒鳴っていた。

「エデルリッゾ、さん?」

「スレインさまはレイレガリア陛下を暗殺し、クーデターを起こしてヴァースを簒奪し、変革を唱えて多くの方の命を奪ったのです。どんな大義や正義があろうと人殺しです」

 スレインは呆気に取られた表情でエデルリッゾを見ている。

「そんな極悪人のスレインさまが、傀儡として擁立した新皇帝を負傷させたからと言って自らの死を望むとは……職務放棄の身勝手な偽善ではないでしょうか?」

 胸がキリキリと痛む。スレインが欲しているのは優しい言葉。それもアセイラム姫による慰め。けれど、それは望めない。エデルリッゾはアセイラムではない。

 事実、この2日間、エデルリッゾの優しい言葉ではスレインを立ち直らせることはできなかった。自暴自棄をほんの少し緩和させるのが精一杯だった。だから、違うアプローチがどうしても必要だった。

「どれほどの罪を重ねようと、ヴァース最高責任者としての務めを長く全うしてください。そのためには、まず体調を整えてください」

 スレインに苦言を呈しながらエデルリッゾは相反する想いに囚われていた。

 1つはアセイラム姫がこの場にいないことへの不満。もう1つはその逆だった。

 アセイラムになれない自分だからこそ口にしないといけない想いがあった。

「私は何があろうとスレインさまをお慕い申し上げていますから」

 告白の言葉は自然と少女の小さな口から紡ぎ出された。

 ただ、その告白が恋愛という限られた意味にはエデルリッゾ自身もみなせなかった。もっと広い意味で人間として尊敬している。慕っている。そんなニュアンスの告白だった。

「ありがとうございます。こんな僕でも慕ってくれる方がいて心が落ち着きます」

 スレインの顔に少しであるが精悍さが戻る。だが、すぐにスレインの身体がよろめいた。

 

「スレインさまっ!!」

 エデルリッゾが慌てて正面からスレインの身体を受け止めに掛かる。けれど体格差もあって受け止め切れず、後ろによろめいてレムリナの車椅子へと2人で雪崩れ込んだ。

「きゃっ!?!?」

エデルリッゾは椅子に深く腰掛けた姿勢でスレインに押し倒される態勢になってしまった。スレインの体温と肌の感触を全身に感じて落ち着かない。顔が近くて恥ずかしい。

「このまま一眠りしても良いでしょうか?」

 ところがスレインはこの態勢のまま寝たいと言い出した。退いて欲しいのにその逆の要望を告げられてしまう。

「…………構いませんよ」

 逡巡の後に目を逸らしながら答える。スレインに仕える者として、恋する乙女として。望まれるのであれば断る云われはない。何より、スレインに休息を取るように訴え続けてきたのは他ならぬ彼女自身なのだから。

 それに、彼女自身がこの態勢でいることを心の何処かで望んでいた。さり気なく、けれどしっかりとスレインの背中に両腕を回す。ドキドキしながらスレインの反応を待つ。

「こうやって誰かと一緒に寝るのはまだ地球にいた幼いころ以来です」

 目を閉じたスレインが昔を懐かしむように呟いた。その一言は彼がヴァースに来て8年以上が経ってもまだ火星をアウェイと認識していることを連想させた。

「…………私をお嫁さんにもらってくれるのならいつでも一緒に寝てあげますよ」

 エデルリッゾはスレインの耳元で囁いた。

「それではエデルリッゾさんにお嫁さんに来てもらえるようないい男になれるように誠心誠意精進を重ねないといけませんね」

 楽しそうにも聞こえたがスレインの声は半分眠っていた。そして彼は眠りに完全に陥る前にとても小さな声を出してみせた。

「…………僕はまだ狂気に落ちたままです。だから、エデルリッゾさんは自分が正しいと信じた行動を取ってください」

 それきりスレインから声が聞こえなくなった。代わりに規則正しい寝息が聞こえてきた。

「お休みなさいませ、スレインさま……」

 スレインの背中に回していた両腕の力をわずかに込める。エデルリッゾにも言いたいことは色々あった。けれど、今は一緒に寝てしまうことにした。

 これから更に激動の時を迎える。不安を催す予感が胸をいっぱいにする。体力勝負になるのは間違いない。

 ひと肌の温もりにアセイラム姫と一緒に寝ていた地球での日々を思い出す。けれど、アセイラム姫とは違うスレインの肌の感触に安心感を覚えて眠りに就いた。

 

 

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 エデルリッゾが目を覚ました時には既にスレインの姿はなかった。変な姿勢で寝ていたために硬くなってしまった身体を少しずつ起こす。

 改めてみると執務室の中は物が散乱している。スレインは物に当たっていた。

「この部屋をまずは片さないと」

 床に落ちているものを1つ1つ拾い上げていく。物を拾い上げながら部屋の隅まで移動していく。壁際には携帯食の干からびた跡があった。1週間は時間が経っている。つまり、スレインはレムリナを撃つ前から密かに物に当たっていたことになる。

 壁際と四隅を中心にゴミを拾っていく。厚い絨毯に気付かなかっただけで結構な量のゴミが落ちている。ただ落ちているというよりも壁にぶつかり床に転がっている。ヴァース最高権力者はゴミを投げ付けるという子どもっぽいやり方でストレスを発散させていた。

「私はスレインさまの何を見ていたんだろう?」

 寂しい気分になりながら昔のことを少し思い出してみる。

 

 

 もし、アセイラム姫と一緒に地球に降りることがなかったら。エデルリッゾは他のヴァース人と同様にスレインに嫌悪感を丸出しにしながら暮らし続けたに違いなかった。彼女は“ごく普通の”ヴァース人の感性を持っていたのだから。

 スレインとの出会いはもう4年も前のことになる。わずか10歳にしてヴァース第一皇女の世話係を任命されるという栄誉に授かり初めてアセイラム姫と顔合わせをした日のことだった。

 皇女との謁見で緊張しっ放しだったあの日。姫との謁見を終え、先輩侍女からこれからの仕事についてレクチャーを受ける手筈になっていた。

 他の先輩侍女2人と共に廊下を歩いていると大きな金属音が鳴り響くのを聞いた。伯爵服を着た大柄な金色の髪の紳士がアセイラム姫と同年代の少年をステッキで打ち据えていた。少年の口から漏れ出る苦痛の悲鳴。手酷い暴力の生現場を見てしまい幼い少女の顔が青くなった。

『あっ、あれは……』

 言外に止めさせられないのかと先輩侍女を見る。けれど、先輩はごく平然としながら蔑んだ瞳で少年を見ながら述べた。

『劣等種の地球人に躾をしているだけだから別にいいのよ』

『あの人……地球人、なんですか……』

 エデルリッゾが生の地球人を見たのはこれが初めてだった。とても弱々しく惨めに震え両手で頭を庇って杖から身を守ろうとしていた。

『そう。だから気にする必要なんてないのよ』

 先輩は歩き始めてしまう。少年がステッキで打たれる音など端から耳に入っていないかのようにして。少年の口から漏れ出る悲鳴もまた聞こえていないようだった。

 そんな先輩侍女の姿勢はどこか奇妙だった。けれど、その疑問を追求する余裕は新米皇女付き侍女にはなかった。

 疑問を抱くこと自体が思考を混乱させ仕事を覚える妨げになった。だから少年が伯爵やその他の人物に暴行を加えられている現場を目撃しても、他の侍女と同様に何も感じないように意識的にした。それが侍女を続けていく上でとても楽な生き方だった。

 暴行を受けていた少年スレインがアセイラム姫の地球に関する教育係であったことを知ったのもエデルリッゾの不満を加速させた。下賎な輩が姫に良からぬことを吹き込んでいる。少女の目には段々とそうにしか映らなくなってしまった。

 エデルリッゾはそんな自分を正当化するために地球人の悪い情報を好んで集め、反対にヴァース人の優秀性を自画自賛する情報に数多く接した。その結果、アセイラム姫に窘められてしまうほどの“ごく普通の”ヴァース人の感性を持つに至った。エデルリッゾの初期の地球人観形成にはスレインが間接的に影響を与えていた。

 

 

「スレインさまは今でもヴァースのことが嫌い、なのですよね……」

 エデルリッゾは再び気分が重くなるのを感じながら執務室を出る。

 彼女が地球から戻ってきた後のスレインは良く言えば処世術に長け、悪く言えば裏表が激しくなっていた。

 今思えばそれはヴァースを帰属する対象ではなく利用する対象とみなしたからに他ならない。ビジネスライクに徹底しているからこそ表向きはどこまでも従順に接することができ、それに対する葛藤を最小限に抑えてこられたと言える。

 そんなスレインの生き様は生粋のヴァース人であるエデルリッゾにとっては壁を感じてしまい寂しいものだった。そう生きるしかないスレインに申し訳ないとは思いつつも。

 

 

 エデルリッゾの目的地はスレインと同様にヴァースを憎み皇帝を倒して貴族制度を破壊した少女のところだった。

 医療ルームの扉を前にして緊張する。レムリナの元にはもう何度も見舞っているものの、最新の状態がどうなのか詳しくは知らない。急変しているのではないかと考えると怖くて堪らない。レムリナの1件に対してエデルリッゾは強く責任を感じている。

「失礼します」

 扉の前で悩んでいても仕方ないのでお腹に力を溜めて中へと入る。

「あら。いらっしゃい」

 ごく自然な挨拶の声がベッドに寝かせられている少女から発せられた。声の質もしっかりとしている。ただし、厚い布団を掛けられており体は見えないようになっている。

「お加減はいかがでしょうか、レムリナ陛下」

 皇帝に頭を丁寧に深く下げる。

「まだ死んでないので生きているのだと思います」

 冗談なのか皮肉なのか判断しづらい返答がきてしまう。真面目な少女にはどう切り替えして良いのかわからない。

 頭を上げて皇帝少女の顔を見ると、よく悪戯を仕掛けていた時の少し悪い表情をしていた。以前は困りモノだったその表情に少しだけ救われる。

「それより先ほど演説を拝見しました。見事な影武者ぶりでした」

「お褒めに預かりありがとうございます」

 褒められている内容が影武者なので変な気分になりながら再び頭を下げる。

「これで私がいなくなってもレムリナ陛下は安泰ね」

「そんな悲しいことを言わないでください。私にはレムリナ陛下の代わりを務めるなんてできません」

 胸が苦しくて仕方ない。レムリナの容態が良くないからこそその冗談には乗れない。

「…………そうよね。あなたにはアルドノアドライブの起動権がないもの」

「そういう話ではありません」

「そういう話だと思うわ。私がお姉さまの代役を務めたのも結局のところはその力があったからに他なりませんし」

「ですが……」

 エデルリッゾの声が小さくなる。反論したいのに上手くできない。アセイラム姫と会ったこともないレムリナが影武者を務めたのはまさにそれが理由だったのだから。

「エデルリッゾは何故私にお姉さまの真似をさせる指南役なんて引き受けたのです? 嫌だったでしょ。私がお姉さまの真似をして悪評を垂れ流していたのだから」

「それは、先代ザーツバルム伯爵に頼まれたからです。当時アセイラム姫さまの生命を握っていたのは生命維持装置を管理していた伯爵でしたから」

 思い出すのは2年前、初めてレムリナと会った日のこと。ザーツバルムはレムリナをアセイラム姫の影武者に仕立てるためにエデルリッゾにその指南役を頼んだ。

 エデルリッゾは姫の仇を殺したいほど憎んでいた。けれど、皮肉にもアセイラム姫を暗殺しようとした首謀者がその姫の延命装置を握っていた。少女に選択の余地などなかった。

 そんな経緯で半ば無理やり始まったのがレムリナの世話係だった。そして、それは同時に生命維持装置の前でのスレインとの交流が始まった分岐点でもあった。

「女の子の弱みを握って言うことを聞かせるなんて……やっぱりあの殿方は女心がわかっていませんのね」

「そうですね。でも、そのおかげで私は2人の姫さまのお側にいることができたのですから……複雑です」

 エデルリッゾは実のところ今でもザーツバルムが許せない。アセイラム姫に悔し涙を流させその生命を執拗に付け狙い昏睡状態に陥らせた憎い仇。

 ザーツバルムが戦死したと聞いた時、周りの兵たちが大声を上げて泣く中でひとり気分が少しだけ晴れていた。

 けれど、ザーツバルムの謀略を通じてレムリナと出会い、スレインとも親しくなった。地球から帰還して以来ヴァースに馴染めなくなっていた彼女にとっては貴重な交流だった。ザーツバルムの手引きがなければ今頃心を深く病んでいた可能性は否定できない。だからこそとても複雑な想いに駆られてしまう。

「あなたにとって私の世話係を務めるのは不本意だったでしょ」

 また何と答えるべきか難しい質問だった。手順を追って説明しないといけない。それを強く感じた。

「…………アセイラム姫さまはご自分で何でもなさろうとする方で、私は侍女とはいえあまり身の回りのお世話もしませんでした。後ろに付いて回るのが一番の仕事でした」

「何でもあなたに頼っている私とは大違いね」

「そんなことはないと思います。私は、レムリナ陛下もアセイラム姫殿下のようにご自分の力を最大限に活用されようとなさる方だと思います」

 レムリナの場合は足が不自由。だが、却って健常者に対する反骨心が働いて自分でやろうという気持ちは強かった。できないこともやろうとするので難儀を抱えることも多くエデルリッゾの苦労は多かった。

「アセイラム姫は一緒にいられることが光栄でそれだけで幸せでした。レムリナ陛下には侍女としての仕事の大切さを教えていただきました」

「それって、私が面倒ばかり掛けてきたと言っているようなものでしょ?」

「私は侍女です。その仕事について深く学べたのですからとても幸せです」

 エデルリッゾの顔に笑顔が戻る。

 レムリナとの関係はずっと苦慮してきた。彼女の言う通り、アセイラム姫に仕えていたはずなのにという、これではない感は消えたことがなかった。何かに付けて2人の姫を比べてしまい、アセイラム姫に仕えていた時の方が幸せだったと考えてしまう。

 けれど、それでもレムリナが2年間奉仕を続けた主であることは変わらない。そして、侍女としての自分を必要としたのはアセイラムよりもレムリナの方だった。それは侍女という仕事をしていく上でとても大切で有意義なことをエデルリッゾに吸収させていた。

「面倒ばかり掛けていたという部分は否定しないのね」

 レムリナがおかしそうに笑ってみせた。

 

「もっと、私の元へ近寄ってもらえませんか?」

「はい」

 エデルリッゾはレムリナの頭の側に立ち直す。

「私の手を握っていただけますか?」

 布団の端から白い手が姿を見せた。絶対安静のレムリナは上半身を起こすことも禁じられている。そんな彼女にとっては手を動かすのも容易ではないはずだった。

 エデルリッゾは両手でレムリナの手を握る。握り返してくる力は弱かった。

「あなたの手ごと私の口元に寄せていただけますか」

「はい」

 言われた通りにレムリナの口元へと3本の手を移動させる。

「ありがとう」

 レムリナはわずかに首を持ち上げるとエデルリッゾの右手の甲に軽くキスをした。

「えっ? へっ、陛下?」

 突然のキスにエデルリッゾは目を白黒させる。気のせいかキスされた手の甲が熱い。

「内密の話です」

 レムリナの声が低まった。エデルリッゾは姿勢を低くして小さく頷いた。

「…………あなたにこの船のアルドノアドライブの起動権限を譲渡しました」

 危うく大きな声を挙げてしまいそうになり慌てて口をキツく閉じる。

「スレインのために役立ててください。どう使うかはあなた自身が決めて」

「他言無用で、ですか?」

 スレインに告げなくていいのか確認を取る。レムリナはわずかに首を縦に曲げた。

「はい。スレインを好きな者同士のよしみです。使い方はエデルリッゾの判断に任せます」

「私が、決める……………………わかりました」

 頷いて起動権の譲渡を了承する。

「微力ながら精一杯頑張りたいと思います」

 船のアルドノアの起動を任せてもらえるのはエデルリッゾにとっても都合が良かった。最悪の事態。生命維持装置にレムリナに入ってもらった状態での船の運行が可能になる。

 とはいえ、レムリナの性格上、起動権譲渡の話が事前に誰かに漏れればエデルリッゾの貸与因子を取り上げてしまう可能性も高い。いざという時まで秘密を守り通す必要がありそうだった。

「ねえ。エデルリッゾは何をどうすることがスレインの幸せにとっていいと思う?」

「それは…………まだわかりません」

 俯きながら答える。けれど、本当は何をすべきか一つだけ思い浮かんでいることがあった。だが、それをすれば大変な事態になる。下手をすればスレインが発狂しかねない。

「レムリナ陛下は……お強い方ですよね」

 自分のしたいことにスレインを巻き込めるか。そして、その結果に責任を持てるのか。

 躊躇なく自分を撃たせたレムリナの決断力を自分も持たなくてはならない。けれど、その勇気をそう簡単には持てない。

 スレインが自分に向けてくれるあの優しい笑顔。この世で最も大切に思っているものを永遠に失ってしまうかもしれない。

「私は強くなんてないから賭けなんてものに出たのです。大事な判断をスレインに丸投げしてしまった。エデルリッゾは、ちゃんと自分で決めてくださいね」

 半死半生のレムリナの言葉は優しくも厳しい。

「スレインさま……アセイラム姫さま……」

 エデルリッゾは自分が事態の中心部に移りつつあることを意識せずにはいられなかった。

 

-5ページ-

 

「地球との停戦合意が成りまして48時間後に効力が発生いたします。以降の戦闘は全面禁止となります」

 スレインはベッドに横たわるレムリナに向かって頭を下げながら地球との交渉の成果を報告した。

 それはエデルリッゾが待ち望んでいたヴァースと地球の和平の実現を知らせるもの。なのに、それを素直に喜べないでいた。

 スレインもレムリナも険しい表情を浮かべたままだから。勘が鋭くなくともこの停戦合意の話には裏があることが見て取れた。

「また、月に攻撃を仕掛けるのですか?」

 レムリナの緊張した声の質問にスレインは重々しく頷いてみせた。

「はい」

「どうしてですか? もうすぐ和平がなる時にどうしてまた戦うんですか?」

 エデルリッゾはつい横から口を挟んでしまった。けれど、スレインの考えは和平とは正反対の動きにしか思えなかった。

「終戦協定を結ぶ交渉の際には停戦成立時の占領ラインが大きな取引材料となります。月の一部だけでも取り返しておけば交渉時に大きな譲歩を引き出せます」

「ですが、そのためにまた多くの人が傷つくのは……」

「月自体が重要なのではありません。交渉を通じて地球からヴァースへの資源の安定供給を保証できなければ開戦前と同じになります。ヴァースの民の不満は募り、また地球との戦争を望む機運が強まるでしょう。それは、アセイラム姫殿下の意志にも反します」

 エデルリッゾは口を閉じた。政治と軍事のことはよくわからない。そして、スレインが“アセイラム姫殿下の意志”という言葉を使ったのが嫌だった。

 スレインが先日話した通りに、彼の意識はまだアセイラム姫に囚われている。むしろ、レムリナを撃ってしまった負い目からかより強固に拘ってしまっている。そんな少年に焦りと苛立ちを覚えてしまう。

 

「月を攻撃して地球軍と交戦するのはお姉さまの意志に反しますよ」

 レムリナはエデルリッゾの代わりに不満に感じることを質問してくれた。スレインはレムリナを見ながらゆっくりと頷いた。凛々しい瞳をしていた。

「短期的には姫殿下の意志と合わないと思います。ですが、ヴァースと地球の百年の和平を実現するためには今多少の犠牲が生じるのは仕方ないかと」

「大事の前の小事。というわけですか」

 スレインは再び頷いてみせた。レムリナは大きく息を吐き出した。

「スレインはお姉さまが目を覚まさないのをいいことに、お姉さまの理想を曲解してばかりですね。お姉さまが目覚めてこのことを知れば……軽蔑するでしょう」

 レムリナの挑発的な視線。スレインはむしろ開き直って答えた。

「はい。自分でもそう思います。僕は姫殿下にとっての害悪です。それでも僕は誰もアセイラム姫を害することができない優しい世界を構築したいと思います」

 エデルリッゾは奥歯を強く噛み締めた。レムリナは再びため息を吐き出した。

「同じ台詞をお姉さまの前で言えますか?」

「起きていただかないとわかりません」

 スレインの答えはしれっとしていた。エデルリッゾにはスレインの覚悟がどこまで強硬なものなのかよくわからない。ただ、2年前と比べて事態は大きく動いてしまっている。今更にはもう退けないことは予測がついた。

 アセイラム姫はこの2年間の出来事を一切知らない。それはスレインばかりでなくこの場にいる誰にとっても都合が良いことなのかもしれなかった。むしろ、アセイラム姫が起きないことを前提に自分たちが強く結び付いていることを少女侍女は自覚する。

「私はお姉さまという方を知りません。ですが、話を聞く限りお姉さまは頼りなくとも優しいあなたに心を許していたのではないですか?」

 レムリナの声には非難の声色が含まれていた。レムリナは撃たれてからの方がスレインに対してより積極的に口を出すようになっていた。

「その優しかった僕はアセイラム姫をただ守れなかっただけでなく、コウモリのようにどっちつかずに動いた結果姫殿下を瀕死へと追いやりました。全て僕の甘さが招いた愚行です。常に相手を疑い一瞬たりとも気を抜いてはいけないと僕は十二分に知っていたのに」

 悔しがるスレイン。レムリナの発破掛けは却って逆効果だった。

「確かに私とスレインには安住の地、と呼べるものがありません。どこにいても自分の居場所と感じられることはありません」

 エデルリッゾはスレインとレムリナに初めて会った時のことを思い出した。2人とも酷く怯えていた。多分、あの光景は今日という日に直結している。

「だから私もスレインも、安住の地というものに過度な期待を抱いているのだと思います。お姉さまの今やおじいさまの最期を見れば決してそれが理想郷にはなりえないと知っているはずなのに」

 レイレガリアは疎んじていた孫娘に絞殺され、ギルゼリアはハイパーゲートの暴走に巻き込まれて死亡。アセイラム姫は火星騎士に裏切られて2年間の昏睡状態。ヴァースの恩恵を最も受けているはずの皇族はろくな現状や最期を迎えていない。

 それは、スレインが全てを投げ打ってでも得ようとしているものが結局は夢物語であることを示してしまっている。スレインもそれに気付いているに違いなかった。

「どんな世で目覚めようと、お姉さまは嘆き悲しみ苦労されることになると思います」

「僕が力を得ることでその辛さを少しでも軽減します」

 レムリナはとても寂しげな瞳を強がり続けるスレインに向けた。

「…………今のあなたは、お姉さまをどんどん不幸にする存在になっていると思います」

 レムリナはスレインに対してとても酷いことを言っているのに。

 エデルリッゾにはレムリナの言葉に対する反論が湧き出てこなかった。それは、彼女の言葉を真実と受け止めているから。そんな自分に大きなショックを受けている。

「スレインがどれほどお姉さまのために尽くしてきたのかは私も存じています」

 レムリナは動かすことを禁じられている自分の体を見た。アセイラム姫がまだ生きているのは文字通りスレインが体を張ったからだった。

「ですが、最近のあなたの執着ぶりを見ていると……スレインとお姉さまが近くにいることが、両者にとって不幸を掻き立てていくように見えてなりません」

 レムリナはエデルリッゾが胸の中で整理がつかずわだかまっていたことを言葉にしてくれた。

「僕はアセイラム姫殿下と距離を取った方がいいと?」

 声を低くして尋ねるスレイン。レムリナは静かに頷いた。

 エデルリッゾはスレインがまたレムリナに怒りをぶつけるのではないかと密かに恐れた。だが、そうはならなかった。

「界塚伊奈帆を討ち取ることができれば、そうなるのも仕方のないことかもしれません」

 スレインの表情はどこか吹っ切れたものとなっていた。そんなスレインを見てエデルリッゾは目を硬く瞑った。

 

「最初の話に戻りますが、今のヴァース戦力では月を攻めるなんてできないでしょ」

 スレイン軍は数日前の地球軍との大規模戦闘で出撃したカタフラクトの大半を失う敗北を喫した。現在スレインが指揮する艦隊にはカタフラクトが全て合わせて15機程度しかいない。

 地球軍は増強を重ねカタフラクトの数は百を裕に超えている。両軍の戦力差は著しい。

「現在ハークライトが我が軍の精鋭50機を率いてこちらに駆けつけています。僕の部隊とハークライトの部隊で挟撃すれば月の地球軍全軍とでも互角に戦えます」

「そう言いながら、あなたが倒したいのは界塚伊奈帆なのですね」

「否定はしません」

 スレインの声はサッパリしていた。

「あまり身勝手ばかりしてハークライトに愛想尽かされても知りませんよ」

「それも、仕方ないことなのかもしれません」

 スレインはそれから一言二言交わすと、ハークライトと打ち合わせをすると述べて治療ルームから出て行った。

 

 残されたのはエデルリッゾとレムリナだった。

「私が言うのも何ですが……スレインはお姉さまのせいでおかしくなっています」

 エデルリッゾは黙っている。

「あなたは今後、重大な決断を迫られるかもしれません。スレインのために」

「…………その言い方はズルいと思います」

 エデルリッゾは俯いたまま小さく口を開いた。

「そうね。私がやるべきことをあなたに押し付けようとしている。ズルいですよね」

 エデルリッゾは首を横に振った。

「私はレムリナ陛下に負けないぐらいスレインさまをお慕いしているつもりです。覚悟も固めるつもりです。ただ、それを外から刺激されるのに抵抗があるだけです」

 喋っていて恥ずかしくて堪らない。顔を赤くしながらその場に踏み止まる。

「全てはあなたが決めるべきよね。余計な口を挟んでごめんなさい」

「いえ。私の方こそ非礼をお許しください」

 レムリナに向かって深く頭を下げる。

「…………そうそう。先日、あなたに教えてもらった地球軍の無線周波数に面白い呼び掛けがあったそうです」

「えっ?」

 レムリナはエデルリッゾを口元へと呼び寄せた。

「発信者は……」

 話を聞いてエデルリッゾの顔は驚きの色に染まったのだった。

 

 

 

 

-6ページ-

 

「火星との停戦まで残り24時間となった。この最後の1日の内に1寸でも多くの土地を奴らから奪い返すのだっ!!」

 地球軍月面基地ブリーフィングルーム。基地司令官は最後の大戦を前に会議出席者の将校たちの戦意を煽っていた。司令官の檄につられて大声を上げる将校たち。

「これから24時間はヴァース軍の大規模反攻が予想されるというのに。気楽なんだな」

 会議に参加している界塚伊奈帆中尉は壁により掛かりながら愚痴を零した。彼の左目はこれからの24時間が熾烈な戦闘の連続になることを予測している。この月面基地とて安全とは言えない。

「ナオくん。楽しい雰囲気に水を差すものではないわ」

 姉の界塚ユキ准尉が伊奈帆の元へとやってきた。

「みんな24時間後の停戦時まで無事でいられるのかわからない。だから会議室の中でぐらいはしゃぎたいのよ」

ユキは部下たちの前でははしゃげない大人たちの事情を説明して理解を求める。

「僕なら作戦の準備をして待っている方が心落ち着いていいけどね」

「ナオくんみたいな人の方が少数派だと思うわ」

 ユキは苦笑してみせた。

「ちなみにナオくんは火星軍がどこに攻めてくると思うの?」

 伊奈帆は左目を手で抑えながら再度計算してみた。

「3、4箇所は攻めてくるだろうね」

「具体的には?」

 伊奈帆の義眼がギュインと機械音を奏でた。

「月に部隊を送ってくるのは間違いない。月の半分を占領されたら停戦交渉に大きく響く」

「他は?」

「資源地帯をほんの僅かでも占領状態に置くよう兵を動かすだろうね」

「それも交渉用ね。他には?」

「マズゥールカ伯爵のカタフラクトと揚陸城を衛星軌道上から攻撃しようとするデューカリオンには確実に攻撃が来るだろうね」

「ナオくんの仇である憎いスレインの野郎が来るってわけね」

 ユキは右手を固めてパーに開いた左手を叩いてみせた。伊奈帆は頷いてから苦笑した。

「僕は死んでないけどね」

「いいのよ。ナオくんを酷い目に遭わせた奴が攻めてくるってんなら、今度こそ私がギャフンと言わせてやるんだから」

 ユキは鼻息が荒くなっている。

「もしかして、前の戦いの時に最後尾に配属させたこと……まだ怒ってる?」

「当然でしょ。ナオくんの機体がスレインにやられて大破したって知った時、私がどれだけ心配したと思ってるの」

 ユキの怒りの視線が伊奈帆に向けられる。

「やられたんじゃないよ。僕はチームで戦っていたんだから」

「チームだろうが何だろうがナオくんが死に掛けたのは事実でしょうが」

「今度は勝つよ」

「私とナオくんでね」

 ニヤッと笑うユキ。

「そうだね。デューカリオンの全戦力を投入しないとスレインには対抗できない。ユキ姉の力が必要だ」

「おおっ。ナオくんが遂にデレたわ」

「僕は別にツンデレではないよ」

 楽しそうに笑い続けるユキ。伊奈帆はこれが姉の強さなのかもしれないと考えた。

 

 

 作戦会議から3時間が経過していた。その間にデューカリオンはアルドノアドライブを使用したエンジンの速力を活かして地球の衛星軌道上に到着していた。

 デューカリオンの攻撃目標は中東油田地帯を占領するマズゥールカ元伯爵のカタフラクトであるシレーン。シレーンは竜巻を自在に起こすことができ、水平方向からの攻撃には無敵の防御を誇る一方で上方が無防備になることが報告されている。宇宙からの艦砲射撃で撃墜するのがデューカリオンの任務だった。

「ナオくんには衛星軌道上から地上のカタフラクトに射撃を当てるなんて可能なの?」

 デューカリオン格納庫内。スレイプニールから艦砲射撃の座標指示を出す役目を負っている伊奈帆にユキは尋ねた。

「理論的には十分に可能。けれど、実際には上手くいかないだろうね」

「やっぱり5百kmの上宙から1点だけを撃ちぬくのはさすがのナオくんでも困難?」

「スレインのせいで狙いを定めている暇はないだろうから」

 伊奈帆はユキとの会話を打ち切りスレイプニールへと乗り込んだ。

 

 スレイプニール内でシレーンを砲撃できる一瞬のチャンスを待つ。地上から高度3万5千kmの所謂静止衛星軌道上なら照準を合わせることは容易になる。だが、それだけ距離が離れてしまうと伊奈帆の計算力をもってしても正確な狙撃は不可能になってしまう。

 伊奈帆がピンポイント射撃が可能と判断したギリギリの距離から狙い撃つことにした。

 シレーン攻撃予測地点到達まで残り3分。伊奈帆はデューカリオン後方に曳航された観測船からスレイプニールの頭を出した状態で照準を合わせようとしている。

 だが、実際の伊奈帆の観測は他のところへと向けられていた。

「マスタング0−0よりデューカリオンへ。敵機捕捉。その数……12。当艦上方20km地点を我軍とは反対周りに地球を周回中。予想される最接近時刻は140秒後」

 ヴァース軍機動部隊が接近してきたのを伊奈帆はいち早く捉えていた。スレインが仕掛けて来るのならマズゥールカを攻撃しようとするその瞬間に違いなかった。その瞬間が最も無防備になるのだから。

 だが逆に言えば、仕掛けてくるタイミングがわかっている以上、早期発見は難しいことではなかった。

『全艦に通達。シレーン攻撃を中止し現宙域から急速離脱。月面基地防衛隊と合流した後に敵軍と交戦す』

 マグバレッジ艦長は即時に攻撃中止を通達した。

「戦力差から見て賢明な判断です」

 デューカリオンは左へと進路を変えながら急速上昇していく。伊奈帆は観測船内部でスレイプニールの姿勢を変えて後部から大型ライフルでの迎撃準備に入る。スレイン軍が追い付いてきた場合ライフルを放って追い払うのが伊奈帆の役目だった。

 デューカリオンに搭載されているカタフラクトは全部合わせて12機。10機以上のヴァース軍新型カタフラクトを相手にすれば全滅は必至だった。そのためにマグバレッジは衛星軌道上で不利な戦いを挑むという下策を取らなかった。

 

 デューカリオンは急速回頭しながら進路を変えた。これによりタルシスとステイギスUは有利な位置取りでの攻撃を行えなくなった。スレインたちは最接近した際にビーム兵器を放ったものの至近距離にも通過せず、デューカリオンは悠々と戦場を後にした。

 離脱の成功に湧く艦内。伊奈帆も緊張を僅かに緩める。だが、そんなデューカリオンクルーをあざ笑うかのように細長い棒状の巨大な物体が飛行戦艦の横を通過して高速で地球へと落下していく。

「揚陸城……あれが本命かっ」

 伊奈帆でさえ思っても見なかった行動にヴァースは打って出た。揚陸城は地球軍が要所要所を固めている陸地、ではなく南太平洋の真ん中へと向かって一直線に落下していく。

『揚陸城の落下予測地点……南太平洋海上っ! えっ?』

 副長の不見咲カオルが焦った声を上げる。

『界塚弟。揚陸城が海に降りる意図は何だと思う?』

 マグバレッジからの質問。

「終戦後の権益確保のためで間違いないと思います。海域を開放する対価に水や資源を要求するつもりなのでしょう」

 伊奈帆の答えはマグバレッジの予想と大差ないもののようだった。

『停戦交渉を持ち掛けてきたハークライトとかいう幹部は地球からの軍や領土の全面撤収の代わりに資源の安定供給を要求してきたらしい。その一環と見るべきでしょうね』

「戦後、地球からもらえる物を少しでも引き上げたい。そんなところですね」

 デューカリオンは月面基地に向かってアルドノアドライブを全開にしながら突き進んでいく。その間に揚陸城は太平洋に着水し、その巨体を海へと潜らせた。だが、しばらくして浮き上がり海上に巨大な花を開かせた。

『地球軍は陸上と宇宙戦用の戦力ばかり増強してきた。アルドノアが起動しているあの揚陸城を1日以内に攻略するのは不可能でしょうね』

「何にせよ、僕たちのなすべきことは月を取り返しに来るヴァース軍を撃退して悪くない停戦を迎えることです」

『それは月面基地全体の目標でしょう。界塚弟、君個人の目標は?』

 伊奈帆は大型ライフルをデューカリオンを追撃してくるカタフラクト部隊に向かって撃つ。砲弾は直撃しないものの回避運動のために編隊が乱れて速度が落ちる。

 ヴァースカタフラクト部隊は中央の白い機体を中心に鶴翼の陣を敷きながら再びデューカリオンを追い始める。デューカリオンを逃そうとしない気迫に溢れて見えた。

「僕の目標はセラムさんの救出です。そのためにスレインをぶっ飛ばします」

 スピーカーから笑い声が聞こえてきた。

『さすがナオくん。女の子を巡って敵の大ボスと戦うだなんてなかなか言えないわよ』

「ユキ姉は回線に割り込まないでよ」

 伊奈帆は呆れながらライフルを再び発砲する。アルドノアドライブを搭載し超長距離航行を可能にした戦艦とカタフラクトの追走劇は月に到着するまで続いた。

 

 

 

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 月面での両軍の戦いはどちらも決め手を欠いたまま膠着状態に陥っていた。

 ハークライトは曳航してきた故バルークルス伯爵の揚陸城を月面基地とは対局に位置する月面に展開した。ヴァース軍主力部隊は揚陸城を盾にしながら籠城戦を展開する。だが、地球軍が包囲を解くと漸進し占領域をジワリジワリと広げていく。月全体から見ればヴァース軍の支配域は微々たるものだが、地球軍にとっては停戦後に響く邪魔な存在だった。

 地球軍は攻撃目標を揚陸城からスレインへと切り替えた。スレインの乗るタルシスが伊奈帆の乗るオレンジ色のスレイプニールに異常なまでの執着を燃やしている。それは先の戦いで両軍の知るところとなった。

 伊奈帆を出汁にしてスレインを誘き寄せ捕獲、または戦死させることが地球軍の目標となった。また、スレインを護るためにヴァース軍の陣形が崩れたらそこを狙う作戦でもあった。

 デューカリオンクルーが総反対したこの作戦は伊奈帆本人の了承により決行されることになった。伊奈帆もまたスレインに負けないぐらいに決戦に執着していた。アセイラム姫を取り返すチャンスは後18時間しか残されていない。伊奈帆は無表情に焦っていた。

 

 

「ナオくん。出撃するのはもう少し休憩してからでないともたないわよ」

 界塚ユキは、月面基地に帰投してすぐに再度出撃に出ようとする弟の肩を後ろから掴んで機体への接近を阻止していた。

「司令部から出撃の許可は降りているよ」

 伊奈帆は姉の手を振り払おうとする。けれど、姉の方が体格が良くて力も強く手を離してくれない。伊奈帆はもうじき18歳を迎える男子にしては小柄な体格だった。

その小さな双肩に地球の未来が掛かっている。地球にとって伊奈帆は必要な存在。弟もそれを理解している。だが、だからこそ姉は弟が無理の果てに死んでしまうのではないかと不安が拭い切れない。

「指令書には十分な休息を取った後と出ているでしょ。お姉ちゃんや艦長がその一文を挿入させるのにどれだけ苦労したと思ったの」

「機体の補充とメンテナンスなら今やっているよ」

「そうじゃなくて。ナオくんの休息が必要でしょ」

 ユキは伊奈帆が無茶をすることをよく知っている。より正確には自分の健康や安全を考慮に入れない仲間を救うための作戦を実行する。今回はアセイラム姫を救うために命を賭ける覚悟に違いなかった。

「心配しなくてもメンテナンスが終わるまでは後2時間は掛かる。体を休める時間ならあるよ」

「機体内で調整を続けていたら頭も体も休まらないわよ」

 伊奈帆の体を機体から引き離していく。

「抵抗しても無駄よ。機体内には韻子ちゃんとライエちゃんがいてナオくんを入らせないようにしてもらってるから」

「上官の意向に逆らうなんて懲罰ものだよ」

「姉の弟への意向の方が優先されるのよ」

「ここ、軍隊なのに……」

 伊奈帆は引きずられて格納庫を出て行った。

 

 

 4時間後、伊奈帆は医療ルームのベッドの上で目を覚ました。伊奈帆は上半身を起こして状況を確認していた。そしてベッド脇で腰掛けていたユキへと白い目を向けた。

「一服盛ったね」

「ナオくんにグッスリ寝てもらうためにね」

 ユキは薬を盛ったことをアッサリと認めた。しかも食事に盛るのではなく、引きずっていくドサクサに紛れて注射を打つという力技だった。

「寝るのはまあいいんだけど。薬を使われると、起きた後もアナリティカルエンジンの演算処理速度がしばらく下がるんだよね」

 伊奈帆は左目を左手で覆いながら義眼の様子を確かめている。

「…………完璧ではないけれど、まあ、使える。今日1日は6、7割というところかな」

 伊奈帆がジト目のままユキへと振り向く。

「僕を嵌めたユキ姉には、僕の言うことを聞いてもらおうかな」

「ええ〜。弟思いのいい姉じゃない」

 ユキは顔を引き攣らせながら上半身を仰け反らせる。弟は怒らせると怖い。そして今、怒っている。マズい展開だった。

「ユキ姉には…………スレインの母艦を発見して飛んでもらいたいんだ」

「スレインの母艦って前回の会戦で目標にしてた航宙艦?」

 伊奈帆は頷いてみせた。

「でも、今回の戦闘宙域にはそれらしい艦艇は発見されていないわよ」

「そう遠くない宙域に隠れているのだとは思う」

「そんな曖昧な情報だけじゃ隠れてる艦艇なんて探せないわよ」

 お手上げという風に両手を挙げるユキ。伊奈帆もその回答は予想済みで真剣な瞳で頷いてみせた。

「艦の位置は戦闘中に僕が発見してユキ姉に教える。そうしたらユキ姉はすぐにその艦の場所に飛んで欲しいんだ」

「戦闘中に発見するって……あっ」

 伊奈帆はスレインから情報を引き出そうというつもりに違いなかった。

 だがそれは、非常にリスクが高い賭けであることは説明の必要もなかった。

「スレインの母艦を発見して一体何をさせようって言うの?」

 伊奈帆がハイリスク・ハイリターンを狙っているのはユキにもわかる。けれど、どこにハイリターンを狙うものがあるのかわからない。

「ユキ姉にはアセイラム姫を救い出して欲しいんだ」

「ふへっ?」

 ユキから漏れ出たのはとてもマヌケな声。

「お姫さまがあの船に乗っているの?」

「僕の勘ではね」

「また、大事なところは勘なのね……」

 脱力してしまう。

「でも、義眼を使った分析ではかなりの高確率であの船にはヴァース皇帝レムリナが座乗してると出てるよ」

「………………そっちの方が遥かに重要な目標でしょうが」

「僕は別に火星の新皇帝に用もなければ興味もないから」

 弟の優先順位の偏重性には呆れるしかない。

「ナオくんは本当に軍人なの?」

「上官に無理やり睡眠剤を打つユキ姉には言われたくないよ」

 界塚姉弟は軍人としてはどこか規格から外れていた。

「でも、皇帝が乗っている船なら守りも頑丈でしょ。大部隊を派遣すべきなんじゃないの?」

「アレイオンの速度で大部隊が近付けば艦艇には逃げられてしまう。仮に包囲できたとしても今度は激しい戦闘になると思う。そうなったら、艦内の全員の命が危ない」

 伊奈帆の言葉にヴァースは戦闘中でも宇宙服の類を身につけないことを思い出す。艦の1箇所にでも大きな穴が開けば全員が窒息死という事態もあり得る。

「けど、だったら私単独で乗り込んでもどうにもならないんじゃないの? お姫さまが艦内のどこにいるのかわからないし、私は艦内部の構造も知らないし」

「それについてはきっと何とかなるよ。僕の勘はよく当たるんだ」

 伊奈帆は楽しげに笑ってみせた。

「結局、一番大事なところはまた勘なのね」

 地球軍の中で誰よりも理知的に物事を見る弟は、いざという時は根拠の無い勘を信頼している。それはとても面白い現象、というか皮肉だった。

「こんな大事なことはユキ姉以外には頼めないよ」

 伊奈帆は両手を合わせた。

「はあ。お姉ちゃん大好きっ子なシスコンのナオくんに頼まれると私も弱いのよねえ」

 ユキは右手を頬に当てながら大げさにため息を吐いた。

「わかったわ。ナオくんから指示が来たら真っ先にお姫さまを救い出しに行くわ」

 伊奈帆の言うことを受け入れる。

「まさか義理の妹になる子を私が救いに行くことになるとはねえ」

「…………そういうんじゃないよ」

 伊奈帆は小さく首を横に振りながら立ち上がった。

「僕も、きっとスレインもセラムさんを守れなかった後悔を原動力にこの2年間を生きてきた。だから、僕にとってセラムさんを取り戻すことは何よりも罪滅ぼしなんだ」

 伊奈帆は天井を見上げながらどこか遠くに想いを馳せている。そんな弟の額を……姉は思い切りチョップして叩いた。

「痛っ」

「女の子と向き合う時にあんまり後ろ向きなことを考えないの。お姫さまに失礼よ」

 ユキは伊奈帆に背を向けて医療ルームを出て行く。

「スレインだろうがヴァース皇帝だろうがお姉ちゃんがナオくんを守ってあげるから心配する必要はないわ」

 ユキは部屋を出る直前に両腕の拳を握り締めた。

「そういうことを堂々と宣言されると死亡フラグみたいになるから嫌なんだけどなあ」

 嫌だと言いつつ伊奈帆の声はどこか嬉しそうだった。

 

 

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 伊奈帆がスレイプニールで戦場に姿を表わすようになってから、状況は劇的に流動的になった。それまでは遠く離れた陣内から互いに散発的に撃ち合っていただけのものが大規模なカタフラクト同士の近接戦闘が行われるようになった。

 その原因はスレインの乗るタルシスが戦場中央に現れたことにあった。地球軍カタフラクト部隊の第一攻撃目標はタルシス。一方でヴァース軍もまた全力でタルシスを守りに掛かる。そのためにタルシスとスレイプニールを中心にして両陣営の多くのカタフラクトが交戦する事態となっていた。

 

『ナオくん、出過ぎよ。そっちの方は遮蔽物がないんだからあまり先行しないで』

 姉からの通信がスピーカーに入ってくる。伊奈帆のカタフラクトは月面上の砂の平野に1機先行して出ている。ユキが語る通りに伊奈帆の周りには遮蔽物がない。敵の攻撃は左目の義眼で察知して避けるしかない。逆に言えば伊奈帆だけが突き進める地帯だった。

「この辺りのステイギスU部隊は実弾を撃ち尽くして補給に戻っている。危険はないよ」

 姉を安心させる通信を送る。

『そんなことを言って、本当は付近にスレインがいるんでしょ』

 だが、18年近く姉をやっているユキは騙せなかった。

「…………アセイラム姫の居場所を聞き出すのに丁度いい機会だからね。援護を頼むよ」

 伊奈帆は開き直ることにした。

 伊奈帆のスレイプニールは敢えて遮蔽物の全くない平地の上に止まる。全方位見渡せる地点から義眼の力を最大限に発揮してスレインの接近地点を炙り出しに掛かる。

「この力……1時間連続で使用したら脳をやられるな」

 今の伊奈帆はスレインの接近を察知するために周辺宙域のあらゆる事象を認識して解析している。そのダメージは人々が思うよりも遥かに大きい。

だが、そのリスクを考えてもなおスレインとの戦いには利益があると伊奈帆は考えている。アセイラム姫の居場所は何に目を瞑っても知り得たい事柄だった。

 

伊奈帆が月面上でスレインを待ち始めてから既に30分が経過していた。だが、一向にスレインは現れない。部下に出撃を止められている可能性が高かった。

「早く、来てもらわないとこっちがキツいんだけどなあ」

 左目、そして脳に大きな負担が掛かっている。後15分も今の状態を続ければ酷い後遺症が残りそうだった。

『ナオくん。一旦戻りましょう』

 伊奈帆の後方2km地点で友軍機と共に簡易陣地作りに励んでいるユキが撤退を促す。

 ちなみに伊奈帆の場合は、周囲にデコイを巻いて目標を誤認させる確率を増やす程度。無防備な状態を晒している。

「もう1度撒き餌をして引っ掛からなかったら1度退くよ」

 巣穴から出て来ない狸を炙り出すことにする。

 伊奈帆は入手している全てのヴァース軍無線周波数、及びデューカリオン時代の周波数を使って訴えかけた。

「セラムさん。アセイラム姫。界塚伊奈帆です。この通信を聞いていたら僕に居場所を教えてください。貴女はもう政争に関わるべきじゃない。僕が迎えに行きますっ!」

 伊奈帆にしてはとても大きく荒々しい声だった。怒鳴っていると言っても差し支えない。伊奈帆は何度も何度もアセイラム姫に居場所を教えるように大声で叫んだ。

 そして、5分後が経過した。

 

「来たか……スレインッ!!」

 8の字を描くようにして上空から高速接近する白い機体を伊奈帆の義眼は探知していた。伊奈帆のスレイプニールは右手に持っている中型ライフルをタルシスに向けて構える。だが、伊奈帆の義眼は他にも急速接近してくる複数の物体を察知していた。20ほどの細長い物体は月面スレスレの低空を飛びながら高速接近してくる。

「これはミサイル? いや、無人遠隔誘導兵器かっ!!」

 種子島で倒したヘラスの腕のようなものだと判断。その場を跳ぶようにして急速に離れる。実際に伊奈帆に迫ってきたのはヘラスの腕とは少し違っていた。それはライフル銃のような姿をしていた。そしてビームを放ってきた。ビームは伊奈帆のスレイプニールではなくデコイに命中して爆発を巻き起こした。

「ああ言うの、テレビアニメで見たことあるよ。確か……ファンネルだっけ」

 伊奈帆は迫ってくる兵器が幼い頃見ていたロボットアニメに出てきた無人誘導兵器にそっくりだと思った。だが、それが打倒方法の端緒になるわけではない。むしろ誘導兵器の射程から逃げ切らないと死を迎えるのは確実だと緊張感を自覚する。

 最大速度で誘導兵器から遠ざかりながら義眼の力を最大限に発揮して解析に急ぐ。

「あの兵器は認識できる範囲から操っているはずだ。カタフラクト本体はそう遠くないところにいる」

 脳が沸騰しそうになる熱さに耐えながら兵器を操っている本体を探す。敵はすぐにみつかった。急降下を続けるスレインの遙か上空にステイギスU数機と共に浮かぶ赤い機体。

「マリルシャン伯爵が所有するハーシェル。あれかっ!」

 兵器データと照合する機体を発見。外観と武装面から見て間違いなかった。

「落ち……チッ」

伊奈帆はハーシェルに向けて中型ライフルを向けた。だが、月面へと降りてきたタルシスに機銃攻撃を受けて更に後退するしかなかった。

タルシスと誘導兵器の隙のない連続攻撃により伊奈帆は後退する一方になる。ハーシェルを狙う余裕は伊奈帆にはない。だから──

「ユキ姉。上方にいる赤い機体に対して砲火を集中して。気が逸れればこの無人兵器は運用できなくなるから」

『わかったわ』

 チーム戦で対抗することにした。先ほど作り上げたばかりの簡易陣地から12機のカタフラクトがハーシェルに向けて一斉砲撃を加える。

 アレイオン部隊の砲撃はお世辞にも精度が良いとは言えなかった。だが、ハーシェルのパイロットは実戦経験に乏しいのか機体を大げさに揺らして避けた。動揺しているのは簡単に見て取れた。そしてハーシェルの動揺と時を同じくして伊奈帆を追ってきていた誘導兵器も動きが途端に鈍くなった。

「よしっ」

 伊奈帆はその隙を付いて間近に迫っていた数個の兵器をライフルで破壊する。ハーシェルの攻撃力を3割ほど剥いだところで全力で退避する。一瞬遅れてタルシスのビーム光線が月面を突き抜けていく。スレイプニールが動くのが後1秒遅れれば直撃していた。

 

「付いてこい……スレイン」

 ハーシェルの攻撃範囲から離れたことでタルシスと一騎打ちになる。そのタイミングを見計らって伊奈帆は再び大声を上げた。

「君が少しでも彼女のことを想っているのなら……アセイラム姫を僕に渡せっ!」

 タルシスのビームがスレイプニールのコクピットを貫く軌道で迫る。伊奈帆はその正確過ぎる射撃を機体を捻ってギリギリのところで躱す。

 躱したところでタルシスは機体を一気に詰めてきた。

タルシスは飛び道具、ではなく機体の腕を使い拳でスレイプニールの頭部を殴った。

「クッ!」

 伊奈帆の機体が激しく揺れる。伊奈帆自身衝撃で脳震盪を起こしそうになった。

『僕は誰よりもアセイラム姫殿下のことを想い続けている。お前に引き渡すことが姫殿下の幸せに繋がるなんてことは絶対にないっ!!』

 スレインは怒声を浴びせながら更に2発3発とスレイプニールを殴りつける。

 伊奈帆は機体をボロボロにしながらも態勢を立て直しライフルを棒代わりにしてその銃身でタルシスの肩へと打ち付ける。ライフルの銃身が折れて中の火薬が爆発。タルシスの左腕を吹き飛ばした。

「僕であればセラムさんをこれ以上血生臭すぎる政治に巻き込まないようにできる」

『そんな生き方は一時的な逃避にすぎないっ!!』

タルシスのパンチが命中してスレイプニールの右腕が切断されて地面に落ちる。

『アセイラム姫殿下の真の安泰のためには、ヴァースの頂点に立ち誰からも傷つけられることのない絶対的な存在になるしかないんだっ!!』

 伊奈帆は残った左腕に構えた小型ライフルを撃ちっ放しにしながら距離を取る。機体性能的にはタルシスの方が圧倒的に上。ただの殴り合いでは分が悪い。

 けれど、それがわかっていても、伊奈帆はスレインから大きく距離を取って離脱する気にはなれなかった。

 体が奥から熱く湧き上がり、スレインに対して突撃を敢行したくて堪らない。それを理性で必死に押し留めている。

「絶対的な頂点に立つ? そんなことをアセイラム姫が本気で望むとでも?」

 小型ライフルを撃ち続けることで突撃の代わりとする。熱い感情が今にも伊奈帆を飲み込んでしまいそうになるのを必死に抑える。まだ、アセイラム姫の居場所を聞き出せてはいない。目的は果たせてはいない。

『望みはしないだろうさ。だが、それがどうしたぁっ!!』

 タルシスが右腕に仕込んである機銃を掃射。スレイプニールの機体に穴が開いていく。

『姫殿下に優しくて安全な世界を作り上げる。それが僕の成すべき全てだっ!!』

「フッ。何が優しくて安全な世界だ。最も安全な位置にいたはずのレイレガリア皇帝はテロリストに暗殺されたんじゃなかったのかい?」

 伊奈帆も負けじと撃ち返す。タルシスにはバリアの類は積まれていない。当たりさえすれば地球軍カタフラクトの攻撃でも撃墜することは可能。

 タルシスの機体も損傷を受けて煙が上がる。

『あれは、私利私欲と体面しか中身がない不忠者の火星騎士たちが皇宮を守った結果の出来事。アセイラム姫殿下を想う真の志を持つ者たちが集まれば害する隙など与えないっ!』

「セラムさんは地球に降りてからずっと命を狙われ続けてきた。君の言う真の志を持つ者たちなんてのは絵空事だよっ!」

 スレイプニールのダメージレベルが限界へと近付いていく。コクピット内部は異常を知らせる警告音で溢れていく。だが、伊奈帆は戦いを止めない。止められるわけがない。

『黙れっ!!』

「大体、アセイラム姫に政権を譲渡するつもりらしいけど……君はレムリナって子を皇帝に戴いているじゃないか。どうするつもりなんだっ?」

『……………………黙れぇええええぇっ!!』

 押し黙った後、怨念の篭った声がスピーカーを通じて聞こえてきた。タルシスの動きが直線的なものに変わる。攻撃が雑になる。

「今のヴァースは革命政権。貴族制・封建制を廃している。にも関わらず、姉妹間で皇位の継承なんてしたら人々の支持を一気に失うよ。セラムさんの身も危険になる」

『黙れと言っているんだぁああああああああああああああああぁッ!!』

何の戦術性も見出だせない真正面からの銃撃。義眼を持つ伊奈帆にとってこんな銃撃を避けるのはわけな──

 

「クッ!?」

 伊奈帆の視界が突如大きく揺らいだ。まるで波の高い日に浮き輪で海面に浮かんでいるかのように目の前の光景が大きく上下動する。三半規管を揺さぶられているようで気持ちが悪くて仕方がない。

 だが、左右に揺れなかったのはまだ幸福だった。タルシスの銃弾を幾つか浴びながらも何とか機体を捻って致命傷を避ける。

 酷使し過ぎた義眼が限界を超えたのは間違いなかった。だが、それを気にしても仕方ない。今更上手い離脱などできないのだから。

「僕は君が政権をどうしようと興味はない。だが、セラムさんだけは返してもらうっ!!」

 義眼を切っても揺れて定まらない視界の中でタルシスを照準に捉える。頭の中がぐちゃぐちゃして考えが上手く纏まらない。けれど、目の前の敵だけは捕捉し続ける。

「もう1度訊く。セラムさんはどこだぁああああああああああぁッ!!!」

 絶叫しながらタルシスに向かって発砲する。タルシスはダメージを度外視して正面から突っ込んでくる。

『アセイラム姫殿下に優しく安全な世界を作る。この2年間ずっと胸に抱き続けた僕の夢。そのための政権奪取。その夢を貴様如きに破られてたまるかぁああああああぁっ!!』

 スレインの絶叫は彼が完全に我を忘れていることを物語っていた。タルシスは銃弾を正面から浴びながら伊奈帆に向かって突っ込んでくる。

 伊奈帆はこの瞬間初めてタルシスに勝利する可能性を見出した。

「…………やはり君は僕の敵だ」

 小型ライフルの弾をより貫通力の高いものへと切り替える。タルシスさえ倒してしまえば。再装填を終えて照準をスレインへと合わせ直す。

 視界は常に揺れっ放しで頭の中も虫が這いずり回っているかのような気持ち悪さが抜けない。けれど、その状態でも照準だけはタルシスを捉えて放さない。

 タルシスを倒し、スレインを捕獲、または戦死させればアセイラム姫の行方はわかるに違いなかった。そして、その瞬間はもうすぐ訪れようとしていた。

「緊急通信? こっ、この周波数は…………っ!!」

 伊奈帆のスレイプニールは突如動きを止めた。

 そしてその15秒後、タルシスの攻撃を受けて大爆発を起こしたのだった。

 

 

 

-9ページ-

 

 ヴァース第三階層の収入の半分は賄賂に消える。それは建国以来のヴァース内の常識だった。職を得るにも維持するのにも上の人間と知り合うにも賄賂が必要とされる。

 ヴァースの平民たちの貧困は賄賂のせいであると知識人階級からしばしば指摘されることがある。だが、その風習が改められることはない。

 賄賂とは力の強い者により多くの収益がもたらされるシステムであり、その頂点に立つのは地方領主たる伯爵。貴族が大元を占めており、その貴族が更なる収入を望む以上賄賂という悪しき風習がなくなるわけもなかった。

 ヴァースでは国家が管理する軍事産業が急速発展した一方、一次産業や二次産業は資源不足に喘いでいるまま停滞していた。従って、物流が少なく第三次産業も発達していない。幾ら貴族が領土と領民を得てもそこから正規に取り立てられる財はたかが知れている。

 だからこそ、地位を利用しての賄賂により非正規に財を成すことで多くの富を蓄えていた。ヴァースで裕福な貴族とは賄賂の授受が上手い者を指している。そんな事情があってヴァースの第三階層にとって貴族とは贈賄の元締めを意味していた。

 

 ハークライトは両親がなけなしの財産をほぼ全て投げ打ったことで貴族に仕官する機会を得た。しかも念願叶ってザーツバルム伯爵の下で働けることになった。更に、軍に所属することが決まり必要品は全て支給される。給与は全て仕送りに回すことができる。ハークライトは好条件での就職に密かに胸を踊らせていた。

 だが、ハークライトの高揚は実際に宛てがわれた仕事を知らされて一気に萎んだ。

『地球人騎士のお守り……ですか……』 

 ザーツバルムがお気に入りだという地球人の少年騎士の下での雑用係。それがハークライトに与えられた仕事だった。

 ヴァースの第三階層にとって、地球人とは惨めな暮らしをしている自分たちが唯一優越感を持てる最後のプライド維持装置だった。

人種差別とは、弱者に残された最後の人間らしい尊厳を無条件に与える妄想上のカースト制度の機能を有する。ヴァース人は地球人を劣等人種と呼ぶことで、初めて自分たちは高尚な存在、生きるに足る存在であることを実感できる。ギルゼリアが積極的に扇動した、第三階層民より下を仮想的に設けることでの不満のガス抜きでもあった。

 

 ハークライトもまたそんなヴァースの一般的な思想に影響を受けていた。地球人の下に仕えることになったことを大層落胆していた。両親にも仕事の内容は告げられなかった。

 そんな彼が考え方を改めたのは初めてスレインと顔見せをした日のことだった。あの日の衝撃は今でも忘れることができない。

『はじめまして、ハークライトさん。スレイン・トロイヤードです』

 スレインの立ち居振る舞いは洗練されており一言もヴァースに対する愚痴を零さなかった。表情も終始落ち着いていた。けれど、そんなスレインにハークライトは暗い闇と狂気と野心を感じ取ってしまっていた。

『僕の夢、ですか? 僕には夢なんてありませんよ。ええ、今更何も』

 明白な論拠はないもののスレインはヴァースの全てを破壊しようとしているのだと直感した。ザーツバルムが唱える変革よりも遥かに急進的な何かを成そうとしている。

 ヴァースにおいては第三階層よりも下と認識されている地球人。その地球人がヴァースの内部からの転覆を企んでいる。しかもそのために騎士の位まで出世し、専用のカタフラクトまで所有している。最高権力者の1人とされる伯爵にも気に入られている。不謹慎も呆れも通り越して痛快だった。

 ヴァースの現状を憂いている第三階層出身者としては、最底辺の少年が国のトップに君臨する物語を思い描くことには心が踊った。そしてそんな妄想をただの夢物語で終わらせない有能な野心家の下で働くことができる。ハークライトは魂が奮い上がるのを感じた。

『スレインさま。この命、貴方さまに捧げる所存です。スレインさまの夢の実現を是非お手伝いさせてください』

 ハークライトはヴァースの変革という自身の夢をスレインという少年に命と共に託したのだった。

 

 

「ハークライトさま。ハーシェルの出撃準備が整いました」

 月面元バルークルス伯爵の所有していた揚陸城の医療ルーム。ハークライトは部下から機体の整備が終わったことを告げられた。

「わかった」

 ベッドを見下ろしながらまだ未成年に見える若い兵に向かって首を縦に振る。兵は部屋を慌てて出て行った。

「言われた通りに4時間おとなしくしていましたよ。もう出撃して良いですよね?」

 ベッドに眠っていた主は非難の瞳をハークライトへと向ける。

「約束の時間です。仕方ありませんね」

 ハークライトはスレインが起きることを認め、ベッドに縛り付けていた手錠を外した。

 

 スレインはデューカリオンを追って地球から月まで追撃戦を行った。その後、ハークライトが展開した月面上の揚陸城で補給を行っていた。メンテナンスと補給が済み次第即時に出撃するつもりでいたが、ハークライトに止められてしまった。

 スレインの出撃は全軍の布陣を大きく変えてしまう。下手をすれば、この揚陸城も危なくなる。太平洋上に揚陸城を新たに展開させることに成功した今、これ以上の戦線の拡大はハークライトの望むところではなかった。そして、何よりスレインの身を案じれば出撃を許可できるはずもなかった。

 だが、スレインは出撃を頑なに主張した。界塚伊奈帆と決着をつけようという腹の内が見て取れた。

 スレインの出撃は部下を鼓舞する一番のやり方であるのは確かであり、無碍にすることもできなかった。結局、医師の判断を仰いで4時間の休養を取らせることで妥協となった。

 

「スレインさまがご出撃するのであれば、私もお供いたします」

 頭を深く下げながら同行を願い出る。ハークライトとしては、スレインが単騎で敵陣中央に突っ込んでいかないように目付けをしなければならない。だが、スレインは別の危惧を抱いたようだった。

「こう言うと失礼でしょうが、ハークライトのカタフラクト操縦技術では界塚伊奈帆には勝てませんよ」

 スレインの中では伊奈帆との戦いは既に決定事項であり、その決戦に対してハークライトは参戦する実力がないと語っている。

 確かにハークライトは戦略・戦術を練るのが得意な一方で武器を手に取って実際に戦うのは苦手な参謀タイプだった。

 カタフラクトの操縦も特別な教練を受けてきたわけでない。ただ、革命政府のナンバー2として最低限の操縦技術を持っているに過ぎない。

「ハーシェルには無人誘導兵器があります。距離を置いてスレインさまを援護するぐらいならできます」

 専用カタフラクトは初心者が乗ってもその攻撃力は敵軍カタフラクト1個中隊を破壊し尽くせる。ハーシェルの誘導兵器はその砲身1つで地球軍カタフラクトを数機破壊できる能力を持つ。それが20以上搭載されている。

「では、ステイギス隊を護衛に付けること。そして、オレンジ色の有効射程距離内に入らないこと。それを守ってくださるのなら、随伴を認めます」

「わかりました」

 恭しく頭を下げる。

「では、私からもスレインさまの生存確率を少しでも上げるためにご提案を」

「何でしょうか?」

「今回の出撃では宇宙服を身につけていただきます」

 ハークライトが部下に持ってこさせた宇宙活動用の気密服を見せた。

「地球軍の兵と同じものを身に纏えと?」

 スレインは不服そうな表情を見せる。

 ヴァース軍人は伝統的に宇宙戦闘時でも普段の礼服・軍服のままでいる。アルドノアの超テクノロジーがそれを可能にしている。だが一方で、機体が破損した場合は生身で宇宙空間と接することになる。それは窒息をはじめとする種々の死に方と直結する。機体が小破、中破した場合の兵士の生存確率は地球軍の方が圧倒的に高いのは戦闘時の宇宙服着用を義務付けているからでもある。

 ヴァース軍もその辺りの事情はもちろん承知している。だが、軍人たちは宇宙服を使用しない。それは、命を護るための策を予め講じることを臆病者と嘲る風潮の存在。そして地球軍を下に見て奢る癖が劣勢になった現在も抜けないことに大きな要因がある。宇宙服を着ることは友軍から蔑視される原因となるので敬遠される。

 ヴァース軍の総大将であるスレインが宇宙服の着用に難色を示すのはある種当然のことだった。

「この度の決戦で我が軍は出撃するパイロット全員に宇宙服の着用を義務付けております。スレインさまだけ守られないのでは、我が軍の士気に関わります」

 ハークライトはスレインに宇宙服を手渡した。

「…………相変わらず仕事が早いですね」

 スレインは諦めたように首を小さく項垂れた。

 

 

 

 

-10ページ-

 

 ハークライトがスレインの副官として仕えるようになってからまだ1年も経っていない。けれどその間にヴァースの情勢は大きな変化を迎えていた。それはハークライトがスレインと共に引き起こした変化であり、概ね彼の考える方向に進んでいた。理想的な状態と呼んでも構わないほどだった。

 だが、クーデターに成功し、貴族階級の駆逐が進むに連れてハークライトとスレインの間で齟齬が生じることが増えている。

 皇帝に擁立したレムリナには未来に対するビジョンがない。スレインもまた、アセイラム姫を中央に擁立するということ以外に具体的なものが見えてこない。それが、ハークライトには嫌だった。

 ハークライトはアセイラム姫のことをよく知らない。姉妹であるレムリナのように親近感をもって見ていたわけでもない。故にさほど思い入れがない。

 スレインやエデルリッゾが2年間1日も欠かすことなく生命維持装置の前に張り付いていた情熱、または執着がどこからきているのか理解できない。

 そして、革命政府新政権にアセイラム姫が必要な人材だとはどうしても思えなかった。

 ヴァース統治にはスレインとレムリナのペアが盤石。仮に目覚めることがあったとしてもアセイラム姫がスレインの統治に協力するか未知数である以上政権の中枢に据えられるわけもなかった。

 アセイラム姫はスレインの動力源であるためにハークライトもまた崇拝の体裁を取り続けてきた。けれど、姫を巡るスレインの界塚伊奈帆との執着を見ると煩わしさを感じずにはいられない。そして、スレインに姫から距離を置く術を学んで欲しいという願望が胸の奥から溢れ出てきていた。

 

 

「スレインさまっ! 単独先行はお止めくださいっ!!」

 ステイギスUの小隊を伴って必死にタルシスを追い掛ける。

 ハークライトとスレインが揚陸城を出てすぐのこと。界塚伊奈帆はヴァース軍の無線に割り込んできた。

 

『セラムさん。アセイラム姫。界塚伊奈帆です。この通信を聞いていたら僕に居場所を教えてください。貴女はもう政争に関わるべきじゃない。僕が迎えに行きますっ!』

 

 通信を聞いてスレインは真っ先に飛び出していった。まったく冷静さを欠いた状態で。敵の見え透いた罠に引っ掛かったスレインを情けなく思いながらも援護に向かう。

 ハークライトとスレインにとって幸いだったのは伊奈帆もまた冷静さを欠いていたことだった。スレインが誘い出されたその先にカタフラクトの大部隊が砲撃準備して待ち構えていれば負けていたのはこちらだった。だが、伊奈帆は単騎でスレインを待ち構えていた。

 ハーシェルはすぐに無人誘導兵器を伊奈帆に向かって差し向ける。攻撃目標さえ定めれば照準は自動で合わせてくれる。ハークライトのようなパイロット初心者にも優しい兵器だった。

 だが、伊奈帆もすぐに反撃に打って出た。地球軍の陣地から弾丸の雨が降り注いできた。

「なっ」

 火星では弾が飛び交う戦闘を経験してこなかったハークライトは砲撃に必要以上に焦った。その動揺が誘導兵器にも伝わってしまう。動きが止まった砲身は幾つも伊奈帆に撃ち抜かれる結果となった。

『ハークライトさま。至近弾はありません。どうか落ち着いてください』

 ステイギス隊の部下からの通信にようやく落ち着きを取り戻す。だが、その間にタルシスとスレイプニールは遠ざかってしまっている。

「やはりカタフラクトの操縦に関してはスレインさまの足元にも及ばないか」

 自らの技量の無さを自覚し、スレインが絶体絶命の危機を迎えた時のみ救援に入ることを心掛ける。

 一方でタルシスとスレイプニールは第三者が援護射撃を行い難い超接近戦を繰り広げていた。

 

『君が少しでも彼女のことを想っているのなら……アセイラム姫を僕に渡せっ!』

 

 伊奈帆はアセイラム姫の奪還を目論んでいるようだった。それはヴァースとしては絶対に許せない主張。だが、ハークライト個人としては少し心惹かれる部分もあった。

 もし、アセイラム姫がいなければ。スレインは政務に集中してくれるのではないか。そんなことをつい思ってしまう。

 

『僕は誰よりもアセイラム姫殿下のことを想い続けている。お前に引き渡すことが姫殿下の幸せに繋がるなんてことは絶対にないっ!!』

 

 だが、スレインの執着の強さを見て取り自分の考えをすぐに打ち消す。仮にアセイラム姫を攫われてしまえば、スレインはその再奪還に執念を燃やすに違いなかった。ようやくヴァースの平民たちを戦争による窮困から解放する時が訪れようというのに地球との戦争が再燃しては元も子もない。

 けれど、スレインの眠り姫への執着はやはり並外れたものだった。

 

『アセイラム姫殿下の真の安泰のためには、ヴァースの頂点に立ち誰からも傷つけられることのない絶対的な存在になるしかないんだっ!!』

 

『姫殿下に優しくて安全な世界を作り上げる。それが僕の成すべき全てだっ!!』

 

『アセイラム姫殿下に優しく安全な世界を作る。この2年間ずっと胸に抱き続けた僕の夢。そのための政権奪取。その夢を貴様如きに破られてたまるかぁああああああぁっ!!』

 

 ハークライトは戦闘の途中で部下たちにスレインの通信を聞くことも記録することも禁じた。

 スレインのアセイラム姫に対する執着はスレイン軍の中では公然の秘密と化しつつある。だが、その一方でアセイラム姫の現状を知る者はほとんどいない。レイレガリアと共に暗殺されたと信じている者も多い。

 そんな中でスレインの口走っている内容は、レムリナを皇帝に戴きスレインが統治するこれからのヴァースを信じて戦っている兵たちの心を削ぐものにしかならない。

 ハークライトはスレインの無事を祈りながらもアセイラム姫に囚われていることに深い苛立ちを覚えていた。

 

 タルシスとスレイプニールは互いに機体から煙を吹き上げるほど傷付いていた。機体の性能差ではタルシスが有利だが、スレインの方が頭に血が昇って単調な動きしかできなくなっている。

 戦況は五分五分。だが、伊奈帆はそんな状況をひっくり返すべく新たな銃弾を装填し直していた。その動作にハークライトはとても嫌なものを感じ取った。

「いかんっ!!」

 ハーシェルは機体を急降下させていく。それと同時に誘導兵器を再起動する。

 真っ直ぐに突撃するタルシスに対してスレイプニールは冷静にライフルを構えた。その構え方は今度こそスレインにとっての致命傷になる何かを予感させた。

 更に降下速度を早める。だが、既に狙いを付けている伊奈帆の機体の砲撃は避けられないように感じられた。

「スレインさまぁあああああああああぁっ!!」

 ハークライトが絶叫する中、スレイプニールはそのライフルの引き金を──

 引かなかった。

 スレイプニールは弾を発射しなかった。理由は不明。機械トラブルなのか、パイロットに何かが起きたのか。

 だが、何にせよ千載一遇の好機が訪れたことは間違いなかった。

「散れっ! 界塚伊奈帆ぉおおおおおおおおおおおぉっ!!」

 タルシスは既にボロボロになっていた右腕が外れてしまうまでスレイプニールへと弾丸を撃ち込んだ。

 照準が定まらなかったためにほとんどの弾は外れたものの、それでも20を超える銃弾がオレンジ色の機体へと吸い込まれていった。

 一瞬遅れて爆発が起こりスレイプニールの上半身と下半身が分かれて吹き飛んだ。ヴァースは遂にオレンジ色のカタフラクトの撃破に成功した。

 

『やったっ! やったぞっ!! 遂に界塚伊奈帆を……アセイラム姫さまを奪おうとする悪党を倒したぞっ!!』

 スレインが大興奮している様子がスピーカーを通じて伝わってくる。オレンジ色のカタフラクトを倒せたことはハークライトにとっても嬉しい事だった。だが、それを喜んでいる暇はなかった。10機を超す地球軍のカタフラクト部隊が一斉にタルシス強襲に打って出てきたのだから。

 タルシスは両腕を失っている状態で一切の武器がない。しかも右足からは大きく煙が吹き上がっている。満身創痍状態なのは一目瞭然だった。

 ハーシェルに続いてステイギスU部隊も急降下してくる。急降下しながらアレイオン部隊に向かって砲撃を放つ。だが、アレイオンの勢いは止められない。砲撃を無視してタルシスへと近付いていく。

「スレインさまっ! お逃げくださいっ!!」

 マイクに向かって大声で呼び掛ける。タルシスはスレイプニールを倒してから少しも動いていない。

『アセイラム姫さま……僕は、僕はやりました。貴女を危険な世界に誘おうとする輩を倒しました……』

 スレインは自分の世界に浸ってしまっているのかハークライトの声さえも届いていないようだった。

「スレインさまっ!! スレインさまぁああああああああぁっ!!」

 喉が潰れそうになるほど大きな声でがなりたてる。だが、スレインはそれでも動かない。

 その間に地球軍カタフラクトはハーシェル到着よりも先にタルシス包囲に掛かっている。スレインを生け捕りにするつもりに違いなかった。

「そうはさせるかっ!」

 誘導兵器で地球軍カタフラクトを攻撃始める。だが、ハークライトの操縦スキルでは複数の目標を同時に攻撃することは不可能だった。単調にまっすぐ飛び込んではアレイオンのライフルで撃ち落とされてしまう。唯一の有効な攻撃手段は砲身ごと敵機体にぶつける特攻しかなかった。

 ハーシェルは武装のほとんどを失うことになった。だが、それでもヴァース軍が降下してくる間までの時間は稼いだ。

 

「スレインさまっ! 今お助けしますっ!!」

 ハーシェルは誘導兵器と同じライフルを右腕に構えて月面を見据える。地球軍は陣形を乱されたことで捕獲よりも撃破に重点を移したようだった。1機のアレイオンがタルシスのコクピットがある位置に向けてライフルを構える。

「させるかあっ!!」

 ハーシェルのライフルが光線を撃ち出した。それと同時にステイギスU隊のビームも発射された。ハークライトには誰の光線が機体を貫いたのかよくわからない。ただ、結果としてアレイオンが1機爆発四散したことだけは確認した。

 それからは乱戦だった。急降下してくるヴァース軍に対して地球軍は対空迎撃を行う。スレインを護るための急降下ということもあり、ヴァース軍は得意の高機動を活かしての待避行動が取れない。ハークライトのすぐ横で2機のステイギスが火を拭き上げて地上へと墜落していく。一方でステイギスの機関砲で地上のアレイオンも5機が吹き飛んでいた。

「スレインさまっ! 早くお逃げくださいっ! 友軍機に損害が出ておりますっ!!」

 拙い操縦技術のハークライトの仕事は降下しながらの威嚇射撃と呼び掛けだった。だが、スレインからの返事がない。機体も反応がない。先ほどからスレインの声が聞こえない。緊張感が切れて疲労が限界を超えたことで茫然自失状態に陥っているのか知れなかった。

 3機目のステイギスが撃墜されたことでハークライトの焦りも頂点に達する。

「いい加減に目を覚ましてくださいっ! スレインさまぁあああああああぁっ!!」

 その時、ハーシェルのモニターは傷ついたアレイオンが大型のブレードを振りかぶってタルシスに接近しているのが見えた。なりふり構わずタルシスを破壊しようとする強い意志が見て取れた。

「させるかあっ!!」

 ハーシェルはライフルを構え、同時に生き残っていた誘導兵器2本でもアレイオンをターゲットに捉える。

 目を血走らせながらアレイオンを沈めに掛かる。

 そして──

 

『…………アセイラム姫、さま…………』

 

 スレインが発した呟きに、ハークライトはほんの一瞬だけ思考を掻き乱された。

 頭に血が昇ってしまった瞬間に発射される3筋のビーム。ハーシェルの撃ったビームはアレイオンの頭に命中し、胴を突き破って地面を抉った。

 一方で誘導兵器の2発はアレイオンには命中しなかった。その2発は代わりに──

 

タルシスの足と胴体を貫通していった。

 

『……………………レム…………エデル…………ごめん…………』

 バランスを崩しながら大きな爆発を起こすタルシス。白い機体が黒い煙と赤い炎に包まれていくさまを見ながらハークライトは絶叫した。

「スレインさまぁあああああああああああああああぁっ!!」

 地球軍カタフラクト部隊の残存機は目標を完遂したと判断したのか戦場から急速に離脱していく。

 残った友軍機である2機のステイギスUが撃破されたタルシスへと近付いていくのをハークライトは呆然と見ているしかなかった。

 

 

 つづく

 

 

EPISODE.04 月面会戦

 

 

 

 

 

 

 

 

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pixivで発表してきた15話からのifストーリー4話
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アルドノア・ゼロ

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